あなたの、お父さんの雜誌に書けといはれた隨筆でも書けたら書かうと思つて、かうやつてけふも森の中へ、例の大きな drawing-book をかかへて、來てゐるのです。僕の住んでゐる屋根裏部屋なんぞにくすぶつてゐるより、森の中でもぶらぶらさ迷つてゐるときの方が、ずつといい考への浮ぶのは當然。しかし僕も頭が惡くなつたせゐか、せつかくいい考へが浮んでも、そばから物忘れをしてしまふので、(ひとつにはそんな ephemeral なものしか考へられないからかも知れないのですが、)この頃はかうやつて繪描きのやうな眞似をして、その場ですぐそれを書きとめて置くのです。
けふは淺間登山道を僕は眞直に登つてきた。――實は今朝、まだ霧のふかいうちに、僕は半分睡氣ざましに、この山道の入口のところまで歩きに來たら、丁度そのとき霧のなかに大きな牝牛を一匹放したまま跡に歩かせながら、默々と山に登つて行つた、三人のリュックを背負つた山人夫達を見かけたのだけれど、その後ろ姿が僕には何とも云へずなつかしく見えたのだ。――それよりすこし前のこと、僕が霧の中にちらちらと花のほの見えてゐる馬鈴薯畑を前にした、一面にクロオヴァの茂つた、やや
やあ、ここは寢ころがつてものでも書くのには、もつてこいの木蔭だ。丁度おあつらへ向きに、その下生えの間には、例のイブキジヤカウサウも一かたまり咲いてゐる。どれ、ここで一つきり横になつて何か思ひついたままに書いて行つてやらうと、僕は自分の前に大きな drawing-book を擴げた。
丁度きのふの今時分、あなた達と四人で、身を横たへてゐた木蔭には、やはりこのイブキジヤカウサウが、もつともつと一面に咲き亂れてゐた。その一群の花を四方から取り圍むやうにして、四人が四人とも思ひ思ひに足を投げ出して、他愛もないことに笑ひ興じてゐたつけが、僕達の知らぬ間に日影が移つて、一番端近くにゐた僕の肩が一ぱい日を浴びてゐるのに漸つと氣がついて、僕達が立ち上つた時まで、それは本當に愉しい一と時だつた。あの一と時こそ、僕達自身もまた、マネエの草上の何とやら云つたやうな美しい畫中の人物になり切つて居たのではないのか知らん?
きのふも僕は、この大きな drawing-book をかかへて、何處かへ寫生に行かうと思つて、村はづれの方まで歩いて行くと、村の中ほどの一軒の農家の前であなた達三人が寄り添つて、何かその古びた家を眩しさうに見上げてゐるのを認めた。
「何を見てゐるんだい?」と僕はあなた達に近づきながら、ぶつきら棒に訊いた。
「ほら……」と、あなたがその蠶室になつた二階から一部分見えてゐる盛り上つた桑の葉を指して、「……あの蠶を見てゐるの、まだあんなに小さくつて、可愛いい……」
「なあんだ、蠶を見てゐるのかい? あたらこの好い天氣にそんなものなんぞ見てゐたつて仕樣がない。……これから僕は森の中へ寫生に行くんだけれど、君達が邪魔をしないのなら、一緒について來たまへ。……この村で一番美しい森を教へてやるよ。」
「何處?」
「村はづれから少し向うの、誰も行かないやうなところだが、そりあいい道だぜ。……そこから見える淺間山の姿は飛切り上等だし……その森の近くには小さな牧場までもあるしさ。」
「小川もある? この村ぢや水に渇ゑてゐるんだがな……」と、こなひだ自轉車から落ちて、まだ脚に繃帶を卷きつけてゐる、あなたの連れの一人がいかにも頓狂に訊いた。面白い女學生らしい。
「ああ! 綺麗な小川だつてあるとも!」と僕は得意さうに返事をした。
その小さな牧場や小川のあるところまで行く途中であつた。やつと一人だけ通れるやうな芝の生えた小徑を、森だの野だのを横切つて、四人が後になり先になつて歩いて行きながら、その徑の兩側にいまを盛りに咲いてゐる、さまざまな植物の名を、僕は自分の知つてゐるだけ、――のみならず本當によく知らないのまで、知つたふりをして口から出まかせに、あなた達に言つて聞かせてゐるうちに、さつきからあちらに一かたまり、こちらに一かたまり、簇がつて可愛らしい小さな花を咲かせてゐるのが、どうもその名を昔教はつて知つてゐるくせに思ひ出せずにゐたつけが、――とても綺麗にその花が、一面に咲きみだれてゐる、いかにも涼しげな緑の木蔭があつた。
「これは何だつたつけなあ? さつきから思ひ出せさうで思ひ出せないんだがなあ?」と僕はその前にしやがんだ拍子に、ぷんと好い匂がして、「やつと思ひ出せたぞ。これはジヤカウサウだ。……え、何んていつたつけな、何とかジヤカウサウ……さう、さう、イブキジヤカウサウさ。」
「これがジヤカウサウ? ……、うん、ちよつと好い匂がするな」と、あなたはまだ半信半疑ですこし身を跼めながら、それを一本
その時突然、「ここいらですこし休まうよ」と、例の自轉車娘がいつて、眞つ先にその花のそばに繃帶をした足を出した。そのそばに、あなたも同じやうに足を出した。僕もあなた達から少し離れて、端近くに横になつた。一番最後に、いつまでも僕達のそばに立つたままそれを一本
ほんたうに靜かな森の中で、私達の頭上に近い枝の上で四十雀が二三羽絶えず啼きかはしながら蟲を拾つてゐるつきり、――ひよつとしたらその邊の木の枝まで栗鼠でも出てきさうな氣さへする。あいつが出てきたら、一層あなた達を愉しくはしやがせただらうに、とうとう
しかし、そればかりぢやなかつた。僕がわざわざあなた達を連れていつて見せようとおもつた、小さな牧場は、去年の秋まではそれでも牛が二三匹柵のなかでおとなしく草を食べてゐたのに、今年は雜草ばかりが蓬々と伸び放題に伸びてゐて、牛なんぞは影も形も見えなかつた。――だが、最後に漸つとほつとしたのは、その空つぽの牧場のすこし先きの小川が、その上にあぶなつかしく架つてゐる木橋の上から覗いて見ても、一面に青々と繁殖した野芹にすつかり隱れてしまつてゐて、唯、氣持のいいせせらぎの音を立ててゐるきりで、その水の色さへ見せなかつたことだ。實はそこを流れてゐるのは、火山の中腹から湧いて出る血の池から流れ落ちてくる、見ただけでもぞつとするやうな、無氣味に赤濁つた水だつたからな。
明朝はもうあなたはこの村からお歸りになる。そのときお父樣へのお土産にと思つて、僕は一所懸命にせつせと書いたが、とうとうこんなつまらないものを書き上げた。
唯、最後にすこしはましなお土産になるかと思つて、書き添へるけれど。實はきのふあれから歸つて同宿の植物に精しい友人をつかまへて、あなた達に知つたかぶりをして教へて上げた植物の名を一々訊き正して、置いたのだ。僕の教へて上げたなかで、クロオヴァの花に似た車軸草、ちよつと松蟲草みたいなヤマウツボ、それからこのへんにざらに咲いてゐるニツクワウキスゲ、ホタルブクロなんぞは僕も間違つちやゐなかつたが、あとは殆ど全部出たらめであの自轉車娘がサロメチイルの匂がするといつた、鹿の子のやうな花はシモツケ、それから莖までがオイランサウの花のやうな紅い色をしてゐるのはヤナギラン、梅鉢草に似て淡紫の花はタチフウロ、といふのださうだ。――まあ、こんなこの村の植物の名前でも覺えて行つて、お父さんに教へて上げて下さい。ぢやあ、御機嫌よう。秋にでもなつたら、皆さんと一緒にまたヒュッテへでもいらつしやい。恐らくそのときもまだ僕はこの村に一人きりで頑張つてゐるでせうから。