青葉頃になると、どうも僕の身體の具合が惡くなるのです。それにやられまいと思つて、隨分用心してゐるのですが、いつのまにかやられてゐます。こんどなども、ちよつと氣分が惡かつたので、二三日安靜にしてゐたら、それからずつと微熱が續いて、もう半月ばかりになるのに、いまだに寢込んでゐる始末です。それにどうしたのか、足がなやんでなりません。あの足首の、丁度靴下が一番先に穴のあいてしまふところですが、あそこのところがへんに痛い。もうせん、靴下をはいたら大きな穴があいてゐたが、穿きかへるのが面倒くさかつたので、そのまま出かけたところ、途中でそこが痛くなつてきて弱つたことがありましたが、そのときのことを、いまだにそいつが根にもつてゐるんぢやないか、といふ氣さへしてゐます。もつともそのときは片つぽだけでしたが、いまは兩足が痛い。起居にも不自由を感じてゐる位です。
こんなときには誰か友人でも來てくれるといいなと思ひますが、さうなると意地の惡いものでなかなか來ない。やつと今日、立原道造君が來てくれました。何か手に大きな紙をまいてもつてゐる。何だと思つたら、それは僕がこの間冗談半分に頼んでおいた僕の輕井澤の別莊の設計圖なのです(道造君は建築科の學生です)。實は僕の方ではもう忘れかけてゐたのだけれど、この間、南輕井澤の方に土地をもつてゐる友人が、こんど自分のところでもそこに別莊を建てるんだが、よかつたら君もその側に、小さな小屋を建てないかと勸めてくれた。食事一切はその友人の家で面倒を見て貰ふことにすれば、ただ仕事と睡眠だけのための場所、つまり、木のベッド一つと、木のテエブル一つとを入れるだけのコッテエヂ、――それにまあ窓が一つあればいい、そんな丸太小屋なら、せいぜい五十圓もあれば出來るんぢやないか、と側にゐた道造君を顧みて云つた。出來るかも知れないといふので、僕は本氣とも冗談ともつかずに、ぢや設計してみてくれと頼んでおいたのです。――ところが、その道造君の設計してきたコッテエヂは、どうして、ヴェランダなんぞもついてゐて、なかなかハイカラに出來上つてゐます。だが、僕はその落葉松林(!)のなかに立つてゐるコッテエヂを見ながら、君、これぢや五十圓ぢや出來まい、百圓位はかかりさうだな、と言ふと、ええ、その位はどうしてもかかると言ふのです。が、それだけぢやない。その他に大工の手間賃だの、何やかやら見積つて見ると、ざあつと二百圓ないとその設計通りのコッテエヂは、出來さうもないらしいのです。――ささやかな夢を見て樂しんでゐると、とかく第三者がその夢を否應なしに大きなものにさせてしまつて、當人を不幸にさせがちなものです。道造君の設計してきた二百圓のコッテエヂの前で、僕の夢みてゐた五十圓のコッテエヂは、あまりにも貧弱なものになつてしまつたのです。そして、もうどうでも勝手にしやがれと思つて、その折角こしらへてきてくれた設計圖はそこにおつぽり出してしまひました。
それから他の話をしてゐるうちに、道造君が、この夏また追分に行きたいがその滯在費を自分で稼げといはれてしまつたので、何か自分に出來る仕事はないでせうかと言ひ出しました。丁度僕は或る編纂物のために誰かに手傳つてもらはうと思つてゐたところだつたので、丁度いいと思ひましたが、コッテエヂの一件ですこし
夕方、道造君が歸つてから、今まで小止みなく降つてゐた梅雨らしいのが漸く上つたやうなので、足はまだ依然として痛みますが、ちよつと外氣を吸ひたくなつて、おもてへ出て見ました。公園はいま何處もかも緑です。花のさいてゐるやうな木は見あたりませんが、何處からともなく、とても甘酸つぱいやうな匂ひがしてくる。恐らく目につかないやうな白い細かい花でも咲いてゐる木がそこいらにあるのでせう。さういふ目立たない花には、かへつて思ひがけず強烈な匂ひのするものがあるものです。いきなり匂ひをかいで、おやと思つて、あたりを見まはして、はじめて何あんだこんな花かと思ふやうなことが度々あるもんですね。――いまもいま、そんな匂ひをかいだら、僕はひよいと昔、さう、丁度今の道造君ぐらゐの時分に讀んだことのある、リイラダンか何かの短篇の一節を思ひ出しました。なんでも修道院かなんかの庭園の茂みの中で、少年と少女があひびきをしてゐる、どんなことを話し合つてゐるのかと、そつと忍び寄つて立聽きしてみると、「もうすこしお金を……もうすこしお金を……」と二人は熱心に囁き合つてゐたといふ一節です。……