モオリアックのこと
堀辰雄
現代作家の中で誰が一番好きかと問はれたら、僕は躊躇せずにモオリアックの名を擧げるだらう。去年の夏は病氣で仕事が出來なかつたので、毎日のやうにサナトリウムの裏山へ行つては木蔭に寢ころんで、東京から取り寄せたフランスの新刊小説に讀み耽つたものだつたが、みんなそれぞれ面白いとは思つたものの、やはりモオリアックのものがどうも一番好きだつた。自分が痛切に求めつつあるものが、其の中にあつたからかも知れない。――と言つても、僕はまだ十いくつかあるモオリアックの作品を二つ三つしか讀んではゐないのだ。が、讀んだものは少くとも二遍は讀み返してゐる。「テレエズ・デケイルウ」なんかは、夏から秋にかけて、三遍ゆつくり讀み返した位だ。機會があつたら、もつともつと讀み返したいと思つてゐる。近頃、これほどの情熱を僕に吹きこましてくれた作家はモオリアックを措いては他にはないのである。
辻野久憲君の譯された「癩者への接吻」も「母」も、この夏讀んで大いに感動したものだ。今度も辻野君の譯で「母」の方だけ讀み返したけれど、矢張りどうも好い立派なものである。この二篇といひ、「テレエズ・デケイルウ」といひ、いづれもモオリアックのものとしては比較的初期に屬するが、かへつてこの時分の作品の方が僕等――ことに僕なんかにはぴつたりと來るのではないかと思ふ。三篇ともモオリアック獨特の樣式で書かれた中篇小説(?)で、丁度五號ぐらゐの大きさの活字で、二百頁前後、僕等流の數へ方にしてざつと二百枚見當のものと思ふが、この程度の長さのものなら、非力な僕などにも努力次第でどうにか書けさうな氣がするし、現に大いに書きたいとも思つてゐるから、さういふ氣持からも、お手本になりさうなこの種の中篇小説(但しモオリアックはそれ等にも單に“roman”といふ名稱を與へてゐる、まあそんな事はどうでもいい、)が自分には一層親愛な氣がしてゐるのかも知れない。辻野君がモオリアックを紹介するにあたり、先づ示すにこれ等二篇を以つてしたことは大いにわが意を得たものである。
モオリアックのものを作品社で出すについては僕なんかも大いに煽動した方だから、何か實の入つたことを書かなければならぬやうな氣がしてゐるが、いま僕は他のことでちよつとのつぴきならぬ氣特になつてゐるので、そのうち機會を得て書きたいと思つてゐる。
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