きのふからギイ・ド・プウルタレスの「伊太利に在りし日のニイチェ」といふ本を讀み出してゐる。忠實な傳記ではないかも知れないけれど、なかなか面白い。いま讀んでゐるところは、ニイチェが三十六七の時、獨逸を去つてはじめて伊太利に赴き、先づ最初ヴェネチアに滯在してゐた頃(一八八〇年三月―六月)の有樣を敍した一章であるが、ここに描かれてゐるニイチェの姿には、これまであまりにも屡ニイチェといふ名の下に描かれてゐるディオニソス的な人間とはかなり相違した、ずつと我々には親しみ深く思はれるものがある。私はさういふヴェネチアにおけるニイチェの姿をプウルタレスから少し抄して見よう。――
ヴェネチアでは、ニイチェは、あるバロック式の古い館の、大理石を敷きつめた大きな室の中に住んでゐた。そこから聖マルコ寺院までは、埃のない、日蔭の多い、もの靜かな通りを、三十分位で散歩して來られた。ニイチェの大好きであつたヴェネチアの日蔭、――それは彼のその時書いてゐた本「
ショパンとニイチェ。――この二人の病人、この二人の純潔な情熱家、この二人のいたるところを漂泊する孤獨者の間には、魂の血縁といふやうなものがありさうである。この二人の中で和音をして顫動してゐるものは、先づ、生きんとする劇的な悦びであらう。それから更らに附け加へたいものは、懷疑の裡に仕事をすることの愉しさ、――恐らくそれは、氣高い方法で苦しむこと、そしてそれを意識してゐること、それからまた、ありふれた光榮を約束させるやうな愚鈍な誠實さよりも寧ろちよつとした短い叫びの方を選ぶことの樂しみ、とでも云ふべきであらうか? とプウルタレスは穿鑿してゐる。
ワグネルが「トリスタン」を作曲したのは矢張りこのヴェネチアであり、後年自らその作品は、「あの素ばらしいヴェネチアを音樂化したもの」であると言つてゐるが、ニイチェもまた、その「曙光」の中で彼のヴェネチアを音樂化してゐると言へよう。その内的なヴェネチアは、彼が散歩をしながらだの、カッフェに休んでゐる間だのに取つたさまざまなノオトの間から、まるで新しい歌のやうに聽えてくるのである。
後年、ニイチェは「この人を見よ」のなかに當時を囘想しながら、かう書いてゐる。「一體私は音樂にいかなるものを欲してゐるかに就いて、最も選ばれたる讀者諸君のために一言したい。音樂は、十月の午後のやうに快活にして深いものであること。それは獨得で、奔放で、そして柔軟であり、可憐なる少女のごとく狡くてしかも優雅であること。……由來、獨逸人のごときものに音樂の何たるかが解せられようとは私は思ひも及ばぬ。獨逸音樂家と稱せられてゐるものは、ことにそのうちの最も偉大なるものは、外國人である。スラヴ人か、墺太利人か、伊太利人か、和蘭人か、――或は猶太人である。さもなくば、ハインリヒ・シュッツやバッハやヘンデルのごとき優秀なる種族、今日では既に亡びたる種族の獨逸人である。私自身は、ショパンのためになら他のあらゆる音樂を犧牲にしてもいいと思ふほど、自分が充分に波蘭土人であることを感じてゐる。私は三つの理由からワグネルの「ジイグフリイド牧歌」を例外としたい。又、そのオォケストレエションの崇高な抑揚によつて他のすべての音樂を凌駕してゐるリストの或物、それから又、アルプスのあちら側で――今ではこちら側だが――生れたところのすべてのものも例外としたい。……私はロッシニなしにはすまされない、又それと同じ位、音樂における私の南方、わがヴェネチアの大作曲家ぺエタア・ガストなしにもすまされない。そして實は私がアルプスのこちら側といふのは、ただヴェネチアだけを指してゐるのである。もし私が音樂をそれで代用させるやうな一語を求めるとしたら、私はヴェネチアといふ一語をしか見出さないであらう。私には涙と音樂との區別をつけることは出來ないのである。……」