僕はこの頃、芥川龍之介書翰集(全集第七卷)を讀みかへした。そしてちよつと氣のついたことがあるから、それを喋舌つて見たい。
芥川さんは brilliant な座談家だつたさうである。さういふどこか才氣煥發といつたやうな風貌は大正七、八年頃の書翰の中にうかがはれないことはない。しかし、さういふ芥川さんは僕のすこしも知らない芥川さんだ。
又、芥川さんは風流人だつたさうである。なるほどひと頃の書翰を見ると、終日俳句に凝つたり、なんといふ雅號をつけようかと苦心したりしてゐる。さういふ「澄江堂主人」もまた僕はあまり知らないのである。
それでは、僕の知つてゐる芥川さんはどういふ人かといへば、そのやうな談論風發といつた人でもなければ、又、風流な澄江堂主人でもない。その頃からもう神經衰弱であつたせゐか、むしろ話の下手くそな、無風流な人であつた。しかし、さういふものを通じたおかげで、僕はかへつて芥川さんの本當の brilliance に接觸してゐたのである。
晩年の諸書翰は、さういふ吃りがちな芥川さんをかなり明瞭に語つてゐる。その中には、書くのがいやでいやで仕樣がないといつた調子の手紙が少くない。さうでなければ、大抵は自分の病苦を友人に訴へた手紙だ。ことに齋藤茂吉氏宛の數通の書翰にはもう心身共に疲れ切つてゐたらしい芥川さんの姿が髣髴される。そしていかにも齋藤氏一人を頼りにされてゐたらしいやうである。それらの書翰を通じて、齋藤氏の芥川さんに對する温かな心使ひをしみじみと感じるのは僕一人だけであらうか。
漱石、鴎外の兩氏を除けば、芥川さんのもつとも私淑してゐた先輩は、齋藤茂吉氏と志賀直哉氏の二人であるといつてよい。就中、齋藤茂吉氏については、その歌をいかに愛してゐるかを芥川さん自ら「僻見」(全集第五卷)の中で書いてゐる故、僕はここには書翰集の中から數行を引用して見よう。
昭和二年二月二日齋藤茂吉氏に與へた書翰の中に、「先夜來、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea の數が乏しと仰せらるる筈と存候。(勿論これは小生をも憂ウツならしむるに足るものに候)……」と書いてある。
僕はこの頃作家には二つの型があるやうに思つてゐる。一方の作家は一つの作品から次の作品へと直線的に、或はスロオ・カアヴを描きながら、進んでゆく。もう一方の作家は、稻妻形に進むのである。たとへば、歌人の場合もさうであつて、島木赤彦氏などは前者のよい例である。そして齋藤茂吉氏などが後者ではないかと思ふ。前者は深くはひることにのみ專心する。どうしても一本調子になる。idea の數が乏しいのだ。それに反して後者は作歌の變化をその生命としてゐる。idea を豐富にしようとする。一首ごとに別の idea を盛らうとする。つまり仕事の上で慾張りなのだ。
短篇作家としての芥川さんもまた、齋藤茂吉氏のやうな稻妻型の作家であつた。この種の作家にあつては、仕事に活氣のあるときはどうもその稻妻のジグザグがはげしい。
晩年の芥川さんの仕事を見るがよい。ほとんど矢つぎ早に書かれた「玄鶴山房」「蜃氣樓」「河童」「三つの窓」「齒車」それから「西方の人」などを列擧すれば、いかにそれらの作品が變化に富んでゐるかが解るだらう。さういふ芥川さんや齋藤茂吉氏のやうな作家の諸作品を味ふには、先づ、今いつたやうな idea の數の多いことを樂しんでかかる方がいいと思ふ。勿論、それが唯一のものであつてはならない。が、そんなことは云ふだけ野暮であらう。
僕はもつと齋藤茂吉氏に宛てた芥川さんの書翰について書いて見たいのだが、それは又次の機會にしよう。そしてここにはこの書翰の一通(大正十五年十二月四日付)から少しく引用して置かう。
「……オピアム毎日服用致し居り、更に便祕すれは下劑をも用ひ居り、なほ又その爲に痔が起れば座藥を用ひ居ります。中々樂ではありません。しかし毎日何か書いて居ります。小穴君(隆一氏のことなり)曰この頃神經衰弱が傳染して仕事が出來ない。僕曰僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは碌なものは出來さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事實であります。おん歌毎度ありがたく存じます。僕の仕事は殘らずとも、その歌だけ殘ればと思ふことあり。かかる事は世辭にも云へぬ僕なりしを思へば、自ら心弱れるを憐まざる能はず。どうかこの參りさ加減を御笑ひ下さい。……」
附記 この一文を艸したのち、齋藤茂吉氏の芥川さんの死をともらふ歌を讀み、そのなかの「壁に來て草かげろふはすがり居り透 きとほりたる羽 のかなしさ」といふ一首に私は云ひやうもなく感動した。