もう十數年前のことである。小林秀雄と永井龍男とがはじめて出合つた時の話である。
小林が先づ永井に「君は志賀直哉を讀むか?」と聞いた。「うん、好きだ」と永井は即座に答へた。「ぢや、佐藤春夫はどうだ?」と小林が再び聞いた。「ああいふのも好きだ」と永井は答へた。そのとき永井はいくらか微笑を浮かべはしなかつたかと私は想像する。それから二人は大いに意氣相投じたさうである。
こんど四季社から刊行された永井龍男の短篇集「繪本」の卷末には、その頃の永井の習作が二つばかり載つてゐるが、それを讀んで、私は永井から聞いた話を何氣なしに思ひ出した。
私はここに私達と時代を同じくする者の一つのはつきりした特質を認める。志賀直哉と佐藤春夫と――これらのむしろ陰と陽のやうに相反する二つの極、それらを接觸せしめようとすること、r
el なものと imaginaire なものとの接觸から新しい火花を得ること、それが私達の願望であり、目的であつた。
永井龍男は「泉」をもつて出發した。そのスタアトは實に鮮かだつた。當時は新感覺派の全盛時代であつたが、その當時にあつてもこの作品くらゐ感覺的なものはちよつと見あたらなかつた。そしてそのすべてが完全な想像から來てゐることに、この作品の異樣な特質があつたのである。
その結末の美しさなどはどうだらう。
「片足づゝ跳んで進んだ。
木々の間を幾度か拔けた。眼にしみる花の香がある。木の實は幾度か頬に觸れた。
遠くのことが、何知らず遠いものが想へた。
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滑らかな石から、女は泉にひたつた。青い木の實が、髮からこぼれた。木の實は生ぶ毛に附いた空氣を銀色にし、黒い水草の上に沈む。濡れぬ兩の腕を翼のやうに擴げ、女は水底のそれに見入つた。水に映る女の影は、蒼空を飛んでゐる。」
それから永井龍男は「繪本」に到達したのである。これはささやかな短篇ではあるが、その一字一句が長い時間をかけて丹念に蒐集されて、磨きがかけられてゐる。それでゐて、全體が一刷毛で書いたやうな勢ひである。
或る冬の夜更け、ほとんど人影のない町を、私はだいぶ醉つてゐるらしい永井と二人で、何處へといふあてもなく歩いてゐた。そのとき舖石の凸凹につまづいて永井が倒れた。しかしひとりで起き上れないほど醉つてゐるとも見えなかつたし、それにそんなとき友人を介抱したりするのが私には妙に羞かしかつたので私はうつちやらかして置いた。すると永井は何やら口のなかで「畜生。畜生」と言ひながら、いつまでも倒れたままになつてゐた。
私はそれから數週間後、永井の「繪本」の最後の頁を讀みながら、その夜の永井のことを思ひ出して妙に感動させられた。
しかし私はいま、この作品の見事な美しさを現實に結びつけて説明しようとしてゐるのではない。むしろ、私はさういふ美しさが、いかに現實からのつながりを完全に切り離したものであるか、といふことを指摘したいのである。
私はコクトオの次ぎのやうな言葉を思ひ出していただきたい。――「詩は、それのモチイフになつてゐるものにそれを引き止めるところの一切の糸を順次に、切らなければならない。詩人がその糸を一本切る毎に、彼の心臟は鼓動する。彼が最後の糸を切るとき、詩は自由になり、一個の輕氣球のやうに上昇する。それ自身の美しさを持ちつつ、地上とは何等のつながりもなしに。」
この「職業の祕密」の一節を私がずつと前に何かに抄した時、この言葉がひどく永井に氣に入つたことをよく覺えてゐる。
コクトオの言葉といへば、もう一つ、永井に大へん氣に入つてゐるのがある。それは「わが國のあらゆる重要な作品の裏には、家とか、ランプとか、火とか、酒とか、パイプなどがある」といふ「鷄とアルルカン」のなかの一句である。
永井の「巣の中」といふ作品の特徴は、さういふ傑作の裏側にあつてその作品を生き生きとさせてゐるもの、――例へば永井の場合では、「泉」や「繪本」などを裏打ちにしてゐるもの、――さういふものを逆に今度は作品の表面に持ち出したのである。この一見他奇なく家常茶飯事を書きつづつたごとく見える作品が、この種の作品にありがちな無味乾燥に陷つてゐないばかりか、一種の
遊離した美しさを獲ち得てゐるのは、この作品の裏側になつて、ほとんど人目につかずにゐる永井獨特の Imagination の力ではないか。そしてこんどは、その永井の隱し立てが私達の好奇心をそそるのだ。
かくのごとく、從來の永井龍男の好短篇にあつては、いつも r
el なものと imaginaire なものとが互に表となり裏となつて、扶け合ひながら、微妙な均衡を得てきたのであるが、ここにその表と裏とがごつちやになり、こんがらかり、いつのまにか解けないやうな固い結び目をつくりつつある作品がある。即ち「菜の花」である。
前記の三作のほとんど完璧と言つていいやうな出來榮に比べると、こんなに出來の惡い作品はない。が、さういふ破綻に私は好奇心をそそられる。この作品は血だらけである。いままで仲好くしてきた同志が組んづほぐれつして、互に傷つけ合つてゐる。どちらが勝つたんだか負けたんだか、まだ分らない。私達は、そして恐らくは永井自身も、この勝負を手をこまぬいて眺めてゐるより仕樣がない。何故なら、この作品はすつかり作者の手を離れてもなほ、いまだその混沌とした状態を生き續けてゐるからである。