霊訓

SPIRIT TEACHINGS

W・S・モーゼス William Stainton Moses

浅野和三郎訳




    目次

解説
第一章 幽明の交通[#「幽明の交通」は底本では「幽明交通」(本文は「幽明の交通」)]とその目途
第二章 健全な生活
第三章 幽明間の交渉
第四章 各種の霊媒能力
第五章 幽明交通と環境
第六章 夫婦関係
第七章 真の宗教
第八章 神霊主義
第九章 啓示の真意義
第十章 進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
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      解説

 近代の霊媒中、嶄然ざんぜん一頭地をいて居るのは、何と言ってもステーントン・モーゼスで、その手にれる自動書記の産物『霊訓スピリットティチングス』は、たしかに後世に残るべき、斯界しかいのクラシックである。日本の学会に、その真価がほとんど認められていないのは、はなは遺憾いかんである。が、原本はなかなか大部たいぶのものであるから、ここには単に要所だけを紹介するに止める。しも読者にして、ゆっくり味読みどくさるるならば、の分量の少なきを憂えず、得るところむしはなはだ多かるべきを信ずるものである。
 近代の霊媒の中で、モーゼスのごとき学者的経歴を有する者は、ほとんど一人もない。彼は一八三九年に生れ、十六歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。一八五八年牛津オックスフォード大学に移るに及びて、その英才はいよいよ鋒鋩ほうぼうを現したが、過度の勉強の為めにいたく心身を損ね、病臥びょうが数月の後、保養のために大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスの希臘ギリシア僧院で暮らし、もっぱ静思せいし休養きゅうようにつとめた。のちその司配霊イムペレエタアの告ぐる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為めであったとの事である。
 二十三歳の時帰国して学位を受け、やがて牛津オックスフォードを離れたが、健康が尚お全くすぐれない為めに、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま疱瘡ほうそうが流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当り、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ぬる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕をち得たが、健康が許さないので、一八六八年他の教区に転任した。彼は何所へ行っても、すぐれた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止むなく永久に教職をなげうつこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
 彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、一八七〇年の暮で、ここでも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望よぼうの中心たらしめた。モーゼスが心霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、しきりに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心は飽くまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の鋭利えいり直截ちょくさいなる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。すなわち一八七二年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、つづいて名霊媒ウィリアムスの交霊会にのぞみ、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中不図ふとしたことで、彼自身霊媒能力を発揮した。
 モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起った、主なる心霊の現象を挙ぐれば、(一)大小の敲音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六)卓子テーブル、椅子其他物品の浮揚、(七)物品引寄、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることができる。
 かかる霊媒現象が起りつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、ことに一八八二年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又一八八四年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚お刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。
 彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後までつづいた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為めに、回復し難き迄に衰弱し、かくて一八九二年、(明治二十五年)九月五日をもって帰幽した。
 右の如く、彼の経歴には、さして非凡というほどの事もないが、しかし彼のすぐれた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、まことに驚嘆に値するものがあった。彼は如何いかなる問題でも、これを吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。就中なかんずく彼が畢生ひっせいの心血をそそいだのは心霊問題で、これが為めには、如何いかなる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学会、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一切の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。
 一個の人格者としてのモーゼスも、又間然かんぜんする所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にもんでいた。彼はいかなる懐疑者、煩悶者はんもんしゃをも、諄々じゅんじゅんとして教え導くにつとめた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、ようやく堅実なる地歩を、天下にむるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれって力あるか測り知れないものがある。彼は正しく斯界しかいの権威であると同時に、大恩人でもあった。
 さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大さいだいを物語っているから、参考の為めに、その要所を抄出しょうしゅつすることにする。――
『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆をるか、若くは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆も使わずに、文字が直接紙面に現れるのである……。
此等これらの通信は今から約十年前、一八七三年の三月三十日をもって、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、いろいろの通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為めにも都合がよいので、特にこれを選んだ次第である。敲音ラップもって一字ずつ書き綴るのはわずらわしきに過ぎ、又入神状態にゅうしんじょうたいおいて口でしゃべるのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の闖入ちんにゅうを、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。
『私は一冊の手帳を求め、平生へいせいこれを懐中かいちゅうして居るようにした。そうすると霊気が浸潤しんじゅんして、筆の運びがはやいからである。敲音なども、平生へいせい使い慣れた卓子テーブルには早く起り、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起り易いものである……。
『最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意して居るのであった。さもないと、すべてが混乱して、まとまりがつかないものになった。
『が、しばらく過ぎると、そんな必要はようやく消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いて置くと、これに対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷にしても差支えないのであった。ゴッドという字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかのごとく、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取扱わるる題目だいもくは、ことごと高尚こうしょう純潔じゅんけつなものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の指南車しなんしゃとしてよいものばかりであった。自動書記は一八八〇年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、洒落しゃれとか、野鄙やひな文句とか、頓珍漢とんちんかんな理窟とか、嘘や出鱈目でたらめとかは、私の知れる限りにおいて、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。
『初期の通信は、前にも言った通りみな細字ほそじで書かれ、その書体も均一で、Doctor, The Teacher, と署名してあった。この司配霊の手蹟しゅせきはいつも同一で、一見その人と知ることができた。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪廓をっていた。
『そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆蹟、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆蹟だけ一瞥いちべつすれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。
『他界の居住者中には、直接私の手を使うことができず、レクタアと称する霊をして、代筆せしむるものも少くないのであった。けだしレクタアは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信もまとまりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクタアが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者がみずから筆を執るのであった。
『但し、本書に収録された通信は、全部がイムペレエタアから出発し、そしてレクタアがその写字生をつとめたものである。他の場合、ことに通信の後期五年間においては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を寄越よこした。
『通信を受取る時の状態は種々雑多しゅじゅざったであった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなるほど、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。
『最初此等これらの通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当り、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。ここに発表したものには全部個人関係の通信が省かれて居る。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは如何いかんともすることができない。活字にせられたものは、未発表の部分の単なる標本としてこれを取扱い、他日たじつ全部公開の機会の到来を待つより外にみちがない。
『私自身の観念が、果してこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究課題である。私としては、その防止に全力を尽した。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は依然いぜん警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物をひもといて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害なしに、規則正しく現れた。うして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に気焔万丈きえんばんじょう行文こうぶんの妙を極むるのであった。
『が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、たしかに此等これらの通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合において、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査して見ると、これことごとく正確であることが確かめられた……。
『私には、此等これらの書きものに対して、何等なんらの命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起らないのである。私は出所不明しゅっしょふめいの突然の衝動に駆られて、静座して筆記の準備をやる。それが連続的に現れる場合には、私は通例つうれい早起して、毎日の最初の時間をそれに宛てる。へやはいつも祈祷に用いる専用のものである。すると多くの場合に通信が現れるが、しかし必ずしも当てにはならない。他の形式の現象が起ることもある。健康状態が面白くないと、無現象のこともあるが、そんなことはめったに起らない。
『イムペレエタアと[#「イムペレエタアと」は底本では「インベレクタアと」]称する霊からの通信の開始は、私の生涯に一新紀元をかくするものである。それは私にとりて、精神的再生を遂げしめた教育期間で、爾来じらい、私はいかに懐疑的空想にふけることがあっても、心からの疑惑に陥るようなことがなくなった……。
此等これらの通信の現れた形式などは、深く論ずるにも足りないであろう。その価値を決するものは、主としてその内容如何である。それは果して宇宙人生の目標を明かにし、永遠不朽の真理を伝えているか否か?……恐らく多数人士にとりて、此等これらの通信は全然無価値であろう。何となれば、その中に盛られた真理は、彼等には真理でないからである。他の一部の人達にとりて、此等これらの通信は単に珍らしいものというにとどまり、又或る人達の眼には、単なる愚談とえいずるであろう。私は決して一般の歓迎を期待して、本書の刊行をするものではない。私はただ本書を有益と考えられる人達のお役に立てば、それで満足するものである。』
 以上モーゼスの述べた所によりても明白である通り、『霊訓』中に収められてあるのは、原本の一部分に過ぎない。近年『霊訓』続篇が出版されたが、これも一小部分である。原本の大部は、目下もっか英国心霊協会に保存されて居る。
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      第一章 幽明の交通とその目途

問『現代はいかなる時か?』
 新時代の黎明――格別の努力が、今や真理の普及に向って払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に[#「同時に」は底本では「同蒔に」]、今も昔と同じく、他方においてこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟ひっきょう、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向って行われる。無論両者の争闘そうとうは、時代によりて消長しょうちょうを免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を集結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれが為めに影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、わざわいなるかなである。真理を求むる者のみが、大盤石だいばんじゃくの上に立って居る。
問『いかにして真理を掴むか。』
 心の準備――真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧ちえを授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以ゆえんである。
問『心の迷、実証の困難、僻見へきけん跋扈ばっこ等をいかにすべきか? 果してこれの故障に打勝ち得るか?』
 最後の必勝――人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな! そうしたものは絶対に存在せぬ。われ等が過去においめたところに比ぶれば、現代の苦艱のごときは抑々よくよく物の数でない。われ等の生活せるローマ帝政時代の末期――精神的、霊的のものはことごとく影を潜めて、所得顔ところえがお跋扈ばっこするは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情……なんじにしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切るごとき絶望の冷たさ、咫尺しせきを弁ぜぬ心の闇、すべてはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降すのすべなく、おぼえず眼をおおいて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。すべてが道徳を笑い、天帝をあざけり、永生をののしり、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることをもって人生の快事とした。その形態はまさに人間であるが、その心情は、はるかに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか! これに比すれば、現代の堕落のごときは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。
問『人類の無智と頑陋がんろうとの為めに、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺して居る。今回も又そのわだちをふまぬか?』
 真人の出現――神の恩沢おんたくは汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現代とても在来の経典をもって満足し、更に一歩を進めて真理の追窮ついきゅうに当ろうとする、気魄きはくのとぼしき者は多いであろう。それ等に対してわれ等は頓着とんじゃくせぬ。が、過去の示教しきょうに満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望をいやせんとする好学の士も、また決してすくなくない。われ等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第次第に四方に伝播でんぱし、やがて高山の頂巓ちょうてんから、世界に向って呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の児達が、大地の下層より蹶起けっきして、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、ここに神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在汝等なんじらを悩ます痴愚ちぐも、不信も、罪悪も、虚偽もみな跡方もなく一掃せられてしまうであろう。
問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』
 天啓は皆同根――天啓はみな神から出る。る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。すべてはみな真理の啓発を期図きとしたものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということはできぬ。両者が矛盾するがごとく見ゆるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、みな人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することができず、あるいは注釈をもってこれに混ぜ、あるいは推理推論をもっこれを包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着どうちゃく、虚妄、愚劣の不純分子をもって充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、もって、ふるい啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃蕩そうとうするの必要に迫られる。もって破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着どうちゃくはない。ただ真理を包める人為的附加物じんいてきふかぶつは、これを除去せねばならぬのである。そのさい人間は、あくまで己れに内在する理性の光りで、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見へきけんに富める者が、いかに排斥するとも、向上心にとめる魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的黎明期れいめいきおいては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔においてもそうであったが、現代においてもそうである。聖者モーゼスは、果して自国民族からさえも一般的承認をたか? 昔の予言者達は、果して世にれられたか? イエスはうか? ポーロはうか? いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を[#「喝采を」は底本では「喝釆を」]博したか? 神は変らない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者はこれを排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、ここに初めて真人しんじんと、偽人ぎじんとの選り分けができる。それ等はみな不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈しれつであると覚悟せねばならぬ。が、なんじすべからく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往邁進ゆうおうまいしんせねばならぬ。
問『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』
 指導霊の性質――指導霊と、その指導を受くる人物とは、通例ある不可分ふかぶんの因縁関係をもって結ばれている。が、時にその例外がないでもない。る霊は、人間の指導が巧みである為めに特に選抜される。る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人にけられる。又る霊は、理想型の人間を造るべく、自から進んで現世にくだることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行の為めに、求めて手にあまるような難物の指導を引き受け、一歩一歩に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引きつけられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行われる。
問『地上にくだる霊達は、いかなる階級に属するか?』
 普通は下級霊――通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等ははなはだ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少くないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇ちゅうちょするのである。かるがゆえに、霊界通信には玉石混淆ぎょくせきこんこうの感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意にしかるにあらずして、しばしば力量の不足に基因きいんする。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第にわれ等の掌裡しょうりに握られて行くであろう。
問『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』
 神と人との敵――我等の使命に対して、絶えず反抗的態度をりつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡知こうち猾才かっさいにとめる邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽して、われ等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動ははなはだ敏活、巧みにわれ等の事業を摸倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべくつとめるから、その伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。われ等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。
問『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感にえない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』
 悪霊の存在――善を捨てて、悪に走るほど慨歎がいたんすべきものはない。なんじは優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、かもそはごうも怪むに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚こうしょう、習慣、反感等、生前死後を通じて、ごうも変るところがない。変る所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界をのがれたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操しそうの確実なるもの、向上心の強きものは、死後において、決して悪魔の徒弟とはならない。なんじがこれしきの真理を会得せぬこそ、むしろ意外である。すべては儼然げんぜんたる因果の理法の現れで、金はあくまで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。就中なかんずくおそるべきは習癖しゅうへきの惰力である。習癖しゅうへきは深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一たん肉感肉慾の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類をもって集まるのであるから、ほどこすべがないのである。かるがゆえに、われ等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟かいごと、高級霊の指導と、又一歩一歩に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するがごとき思想は、実に人類を誘惑せんが為めに、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。
問『魔群にも一人の司配者があるか?』
 すべては神界の統治下――魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道しょうどうするがごとき、大魔王と言ったものは存在せぬ。すべての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わずことごとく神界の統治下に置かれて居る。
(評釈) 本章説く所は、大体平明で、穏健であるから、さして評釈の必要もないと思うが、初学者の為めに、念の為めに二三の注意を試みることにする。
『真人の出現』の条下において、数十年前に予言されたことが、現在においていよいよ地上に出現しつつあることは驚歎すべきである。今や世界全土にわたりて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後一番後※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しになった日本国でも、最早もはやその傾向が顕著になった。よくにはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。
『指導霊の性質』条下には、指導霊とその指導を受くる人間との、深い因縁を説いているが、今日われわれが心霊実験を行えば行うほど、それが真理であることを発見する。与うる者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるがゆえに人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人せじん断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。
『悪霊の存在』の条下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、のべてあるのは至言である。『悪』とはつまり『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後にはみな浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でもことごとく神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘そうとうの如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、また飛んでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混淆ぎょくせきこんこうの差別の世界で、寸刻すんこくの油断もできない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起るのである。初学の士は最初るべく学識経験の積んだ指導者にきて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。
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      第二章 健全な生活

問『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』
 真の仁者真の哲人――真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けて居る、まことの人物、まことの神の子である。また真の哲人とは、知識の為めに知識を愛する、これもまたまことの人物、まことの神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡きょうりに、地上一切の人類を包擁ほうようせずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことをもって、畢生ひっせいの念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々おうおう仁者の偽物がある。それ等は自己に迎合げいごう阿附あふする者のみを愛し、これに金品を与えて虚名きょめいを博すべく努力する。
 それから真の哲人――彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえどもわれ行かんのがいもって、宇宙間の隠微いんびを探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の宝蔵は無限であるから、彼はごうも材料の枯渇をうれうるには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の宝、世にも幸福なるは、まことの哲人の生涯である。
 以上二つの結合――仁者と哲人との結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遥かに進歩が迅速である。
問『生命は永遠?』
 永遠の生命――しかり、われ等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由をつ。が、生命にはたしかに二つの階段がある。外でもない、それは向上黙想との二つである。われ等はまだ向上の途中に在る。われ等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従ってわれ等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来において、われ等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に浴しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、われわれは何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、けだし早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入口――死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。
問『あなたは地上に居た時よりも、神にきて多くを知るか?』
 神の働き――われ等は、地上生活中にけるよりも、遥かに多く神の働きにつきて知ることができた。死後の世界において、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量むりょう無辺際むへんさいであることが判って来たのである。が、われ等の神につきての知識は、それ以上にはでない。今後においても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態にとどまるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。
問『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい。』
 非命の死と罪悪――地の世界には、週期的に争闘が起るものであるが、霊的眼光をもってこれを考察すれば、畢竟ひっきょうそれは善悪の霊と霊との争闘である。すべて世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間におい忿怒ふんぬに充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼あっき夜叉やしゃの状態に置かれて居る。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱からんの種子を蒔く。
 一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と憎念とに充ちたままで、幽界生活に突入するほど危険なことはない。天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力をもって断ち切ってはならないのである。故に死刑ほど愚なる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴ばれさせるは愚である。すべて地上の人達は、いかに犯罪人を取扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けて居る。犯罪者はすべからく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に浴しつつ、善霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。しかるに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することがきよう! 犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。しかるにそれ等が、一たん獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一たび肉体を離れたとなれば、縦横無碍じゅうおうむげに、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることができる。
 嗚呼ああ盲目なるかな地上の人類、汝等なんじらは神の名においあやまちを犯せる人の子の生命を断ちつつある。思え! 殺された者の霊魂が、汝等なんじらに対して、復讐の念を燃やさずに居ると思うか! 汝等なんじらがかかる非行を演ずるは、畢竟ひっきょう神の何者たるかを知らぬからである。汝等なんじらの所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に坐り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気にめさぬものがあれば、片っ端からこれを傷け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等なんじらの所謂神である。
 まことの神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間の何所どこにも居ない。それはただ人間の浅墓あさはかな心にのみ存在する。
 しかり、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然誤謬ごびゅうと無智との産物である。
 しそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。われわれ霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続りくぞくとして肉体から離れて幽界へなだれ込む。すると其所そこには、残忍性にとめる在来の堕落霊どもが、雲霞うんかの如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層そういっそう罪と、汚れの地獄と化して行く……。そしてかかる惨劇の起る動機はと問えば、多くは地上の権力者のただ一片の野心、ただ一場いちじょうの出来心に過ぎないのである。
 嗚呼ああ友よ! 地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりもず、まことの神と、まことの神の為めに働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、あるいはわれ等の示教に対して、侮蔑の眼を向くるであろうが、それ等はしばらく後※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しとし、智慧の教を受け入るることを好む進歩的頭脳の所有者に、われ等の霊界通信を提示して貰いたい。必ずや何等なんらかの効果があるに相違ない。尚お盲目者流の為めにも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願をささげて貰いたい。
(評釈) 極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説くところすこぶる簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二段階に分け、われ等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かの印度思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ひゃくへいありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰ごくつぶしが、一人出来上るだけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態ろうたいから蝉脱せんだつして、一歩一歩向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
 次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行詰等を歎息たんそくするものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相のって来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なるかな地上の人類』と一喝されても、まことに致方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚お無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度もはなはだ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底ろくな考えの浮ぶ筈がない。私は衷心ちゅうしんから、日本国民よ、何所どこに行くと叫びたい。
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      第三章 幽明間の交渉

問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
 現代立法の不備――なんじが頭痛を覚えたのは、畢竟ひっきょうわれ等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行われたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当りては、われ等とても、勢い多少の昂奮こうふんを免れない。天授の神律しんりつに対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯たいくに対する顧慮を失い、図らずもなんじに苦痛を与えることになった。今度はつとめて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
 さるにても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、また復讐的激情の所産である。そしてその結果は如何いかん? 麗わしき神の御業みわざは、無残にも脚下に蹂躙じゅうりんせられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉のきよきずなは断たれ、幾千幾万の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落され、大地の上は、至る所にしかばねの山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されずに、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、よろず災厄わざわいは、すべてここにきざすのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々たるを免れない。
 どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとがなかなかに多い。
 例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。しかるに現代の法律が、霊媒に対する罰則のごときは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論もちろん良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与うべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正にせしむべきである。しかるに何等なんら玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做みなして、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。われわれの側から観れば、かの堕落せる酔漢の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入する不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢のからだに憑り、鬼畜にひとしき堕落行為にでしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。しかるに現代の法律は、平然として此等これら酔漢に対して、一指を染めようとしない。
問『酔漢のからだに憑るとは何の意義か?』
 悪霊の憑依――地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情慾と、性癖の大部分をそのまま保有して居る。彼等の体的欲望は、ごうも消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶はんもん焦慮しょうりょする点である。およそ世に充たされざる渇望ほどつらいものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛をいやすべく、昔馴染なじみの魔窟に出入して、恰度ちょうど自分に誂向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内にくぐり込んで、酒色の慾を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、くして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論もちろんただ堕落の一路を辿り、一歩一歩、ぬきさしならぬ泥濘でいねいの深みにはまり込んで行く。その間彼のあわれなる妻子は、飢えたる腹をかかへて、言い知れぬ悲嘆の泪に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするによしなく、ただ空しく、遠方から淪落りんらくの痴漢の暗き行末を、あわれみの眼もて見送るより外に、せんすべがないのである。
 この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶を期し難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、また真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第次第に剪除せんじょされて行くのみである。地上の人類が、現在のごとき非合理的法律を墨守ぼくしゅして居る限り、ず改善の見込は絶無であろう。
問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
 貴重なる地上生活――否、地上生活の経験は、はなはだ貴重なもので、断じてこれを度外視することはできない。無論小供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為めの境涯、所謂練獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、これを死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えて居て、彼等の求むる所を遺憾いかんなく充たすのである。地上生活を短かく切り上ぐる事は、決して本人の利益ではない。強いていえば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中しろくじちゅういささかの油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を儼守げんしゅすることである。そうした魂には、汚染の分子が少いから、従って進歩がはやい。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、すべての種類の怠慢と懶惰らんだまた何等なんらかの形で行わるる放縦ほうじゅう我儘わがまま――これみな向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、知識の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非ともこれを教育の力に待たねばならぬ。夭折ようせつせる小児の教育の一手段としては、しばしばこれを霊媒のからだにつけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点において損失を受け、他方純情の点において利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。いわゆる艱難かんなんなんじを珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後において特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当り、もっ何等なんらかの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、みな何等なんらかの使命、また何等なんらかの目的があり、くして向上進歩を遂げんとするのである。
 霊的慾求はただ一つ――より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣ざんさはきれいに洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向って、ただ上へ上へと進んで行くのである。
(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。しそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、まことに活眼達識の士にして、初めて道破どうはし得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土えどと罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうとあせる夢遊病患者に対して、絶好の戒飭かいちょくである。
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      第四章 各種の霊媒能力

問『いかなる人物が、霊界の機関たるに適するか?』
 霊界の求むる人格――霊媒能力が種々雑多に分れることは、わざわざ断わるまでもあるまい。或る種の霊媒は、単にその一種特別の体質の為めに選ばれる。つまりそれ等の人達の肉体組織が、外部的客観的の霊的表現を行うに適当しているのである。彼等は精神的にはほとんど何等の能力もない。たまたま背後の支配霊達が、何等なんらかの通信を行うことはありても、その内容は通例末梢まっしょう的の些事さじにとどまり、時とすれば取るに足らぬ囈語げいごやら、とり止めのない出鱈目でたらめやらでさえもある。この種の霊媒は、専ら霊の存在を証明する為めに用いられる。肉眼には見えない他界の居住者が、彼等の肉体を利用して、客観的の現象を作製することができるからである。
 要するにこの種の霊媒は、初歩の心霊現象を作る為めの機関に過ぎない。が、そうかと言って、彼等の仕事がつまらないということにはならない。信仰の基礎工事は、実に彼等によりて築かれるのである。
 それから又一部の霊媒達は、その性質が善良で慈悲深い為めに、霊界の選抜にあずかる彼等は多くの場合において、物理的心霊現象の用具とはなり得ない。又最初は、霊界との意識的の通信さえも為し得ない。が、彼等の素直な性質は、霊的感化を受け易く天使達の監視の下に、その純情が驚くべく開発されて来る。その結果、次第に意識的に、霊界通信を行い得るようにもなり、又る程度の霊視能力を恵まれて、折ふし他界の状況を瞥見べっけんすることにもなる。彼等の背後に控えて働くのは、通例情深なさけぶかい霊的存在で、印象的に、絶えず必要な指導を与える。うした人達は、いつも愛と平和の清き雰囲気の裡に包まれ、生きては輝かしき人間の模範と仰がれ、死すれば直ちに安息の境地に迎えられて、平和の真光まひかりに浴するのである。
 それから又他の霊媒達は、理知的に発達を遂げてり、知識の拡布かくふ、真理の普及に使われる。その背後に控えているのは、皆進歩した霊界居住者達で、あるいはよき思想を送ったり、あるいはよき方法を指示したり、あらゆる手段に訴えて、遺憾いかんなく感化影響を及ぼそうとする。霊界の用うる手段たるや、何れも巧妙をきわめ、とても地上の人間には窺知きちし得ないところがある。この際霊界人にとりて、何より困難を感ずるのは適当な霊媒……ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。先ず第一にその人物は、受動的の心の所有者もちぬしであらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収するだけしか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主せんにゅうしゅから、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とてもわれ等の用途にはならぬ。
 更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気づかぬから、手がつけられない。われ等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識慾が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者もちぬしであらねばならぬ。
 次にわれ等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、矢鱈やたらに反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっては、ほとんど何事もし得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間どれて、あますところが幾何いくばくもないことになる。くどいようだが、われ等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理慾が強くて、寡慾で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方があるいは適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、われ等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶くんとうを加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。われ等としては、ずつとめて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸こころがける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見へきけんから離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以ゆえんを悟って来る。次にわれ等は、右の人物として吸収し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一たん知識の土台どだいが据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことができて来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやらわれ等の所期の目的と調和して行くことになる。
 無論うした仕事に失敗は伴い勝ちで、われ等としても、止むなく中途で見棄ててしまわねばならぬ人物は沢山ある。世にも度し難きは、人間界にこびりついている古い古い僻見へきけんであり、又ドウにも始末に行かぬのは、宗教宗派の墨守ぼくしゅする数々のドグマである。これは『時』の流れに任せる外に途がない。われわれの力にも到底及ばない。
 尚おここで一言附け加えて置きたいのは、われ等の教が、徹底的に一切の恐怖を、人の心から剪除せんじょせんことである。要するにわれ等の使命は、神と神の使徒に対して、全幅の信頼を置くべく、魂達を指導することである。
 旧神学に従えば、そこに一人の神があって、絶えず人間の堕落を監視し、又そこに一人の悪魔があって、間断なく人間誘惑のわなを張って居るというのである。この考が頭脳にしみ込んでいる人達は、ややもすればわれ等の教訓を不思議がり、容易にこれに従おうとしないが、これはまことに困ったものである。宗教から一切の恐怖、一切の不安が引き離された時にこそ、地上の人類は、初めて安心立命の境地に立ち得るものといえる。
 尚おここにモウ一つ断って置きたいことは、われ等の使命が、ありとあらゆる形式の利己主義を剿滅そうめつせんとすることである。『』がにじり出づる所には、そこにわれ等の施すべき余地はない。自己満足、唯我独尊、驕慢、自慢、自家広告、自分免許………何れも皆禁物である。小智小才に走るものは、到底われ等の用具にはなり得ない。独断専行を好むものも、またわれ等の侶伴ではあり得ない。克己自制――これがいずれの時代においても、聖人君子に附きものの美徳であった。いやしくも進展性にとめる真理の祖述者そじゅつしゃは、昔から最も少なく自己を考え、最も多く自己の仕事を考えた人達であった。かの地上にありし日のイエスこそは、正に高き克己心と、清き熱誠との権化ではなかったか。彼はあくまでも自己を抑えて、真理の為めに一身を犠牲にすることを辞せなかった。彼の一生は人間の歴史が有する、最も高潔な絵巻物の一つである。同様に世界を迷妄の闇の中から救い、これに真理の光を注いだ人達にして、いまかつて自制の人でないのはなく、何れも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向って、畢生ひっせいの心血をそそぐを忘れなかった。ソクラテス、プラトン、ヨハネ、ポーロ、――此等これらは皆真理の開拓者であり、進歩の使徒であり、極度に無慾純潔、少しも驕慢、自負、自家宣伝等の臭味がなかった。それでこそ、あれほどの仕事ができたのである。し彼等にして一片の利己心があったなら、そは必ず彼等の成功の心臓部を喰い破ったであろう。
 われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天ぎょうてんの星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それ丈けそう言った人格は尊い[#「尊い」は底本では「尊 い」]。友よ、落ついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心をもって心とせよ。又慈悲深く、寛厚かんこうにして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心をもって心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神のしもべの克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、きよく、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意をもっこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、また常に温顔をもっこれを迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。
問『そう言った人格は、到底現代に求め難いと思うが……』
 万事は忍耐――それは少ない、極めて少ない。よしあっても、ただその萌芽に過ぎない。われ等とても、決して人間に向って完全を求めはせぬ。われ等の求むる所は、ただ誠意あるもの、向上心に富めるもの、自由な、吸収力にとめるもの、純潔にして善良なるものである。人間としてあせる心が何よりも悪い。静かに忍耐の心の緒を引緊めることが肝要である。取越苦労と、心配とは絶対に禁物である。できない事は到底できない。思案にあまる事柄は、すべてわれ等に任せ、思いを鎮めて、よくわれ等の述ぶるところを味ってもらいたい。
(評釈) いささか冗長のきらいはあるが、大体すぐれたる霊界居住者が、人間に対して何を求めるかは、これでほぼ見当がつく。が、顧みて何人か自己の資格の不充分、不完全を歎息せぬものがあるであろうか。これにつけてもわれ等は、かの活神、活仏気取りの浅墓な心懸の人々には、つくづく長大息を禁じ得ぬ。本人も本人だが、その存在を許す周囲の人達も人達である。日本民族が精神文化の先頭に立ちて、世界を率いる資格の備わるのは、そもいずれの日であろう!
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      第五章 幽明交通と環境

問『霊媒ホームの実験が、たまたまダアビイ競馬日に際会し、終に実験不能に終ったとの事であるが、かかるお祭騒ぎは幽明交通に有害か?』
 悪霊の跳躍――ダアビイ競馬日の如き場合には、人間の道徳的均衡が撹乱されているので、われ等として、地上との交通に至難を感ずる。かかる場合に、ほくそ笑むのは、低級未発達の悪霊どもである。かの投機的慾望によりて刺戟されたる無数の民衆こそは、同じ慾望に燃えている下級霊にとりて、正に誂向きの好餌である。一部の人間共は、飲酒の為めに、前後不覚の昂奮状態に陥って居る。他の一部は一攫いっかく万金を夢みて、熱病患者の如く狂いまわって居る。他の一部は一切の資産を失って、絶望のドン底に呻いている。んなのはちょっとした暗示、ちょっとした誘惑にも容易に動かされる。よしそうした劣情が、実際的に惹起じゃっきされるまでに至らなくとも、兎に角人々の道徳的均衡が覆されて居るのは、はなはだ危険である。平静と沈着とは、悪魔を防ぐ為めの大切な楯で、一たんそれに隙間ができれば、未発達な悪霊どもが、洪水の如くそこから浸入するおそれがある。
問『しからば国家の大祭日、国民的記念日等も有害か?』
 祭日の悪用――必ずしも有害とは言わぬ。すべては祭日に処する人間の態度如何にかかる。羽目を外した昂奮、則を越えた置酒高会ちしゅこうかい、動物的な慾情の満足――人間がこれに走れば、勿論もちろん祭日は有害である。しかしこれは祭日や、記念日が悪いのではなくて、これに臨む人間の用意に欠くる所があるのである。しも人々が国家の大祭日に当りて、肉体の休養と精神の慰安とに心を用いるなら、凡そ天下にそれほどよきものはないのであろう。過度の労役の為めに消耗せる体力が、心地よき安静によりて完全に本復せる時、はげしき屈托くったくの為めに欝屈うっくつせる脳力が、適宜の娯楽によりて完全なる働きを取り戻した時こそは、他界の指導者が働きかけるのに、まさに絶好の機会なのである。そうした際には、上界の天使達の威力も思うがままに加わり、いかに兇暴なる魔軍といえども、到底これに一指を染め得ないであろう。折角の大祭日が暴飲暴食と、賭博と、淫楽とに空費せらるることは、たまたま地上の人類が、いかに神霊上の知識に欠けているかを証明するもので、われ等としては全能力を挙げて、その刷新と改善とに当らねばならぬ。
問『終日労役に服した後で、幽明交通を試むるのも、決して理想的でないと思うが、しかし日曜日は、却って一層心霊実験に適当せぬらしい…………。』
 日曜日の不利――げに日曜日は、われ等に取りて好適な日とは言われない。精神肉体がその緊張を失えば、その反動として安逸性が加倍し、われ等として、これを使役して新規の現象の作製を試むる事は、大いにはばからねばならぬ。ことに物理的の心霊現象の作製にははなはだ不向きで、強いてこれを行えば、霊媒の肉体を毀損する患がないでもない。尚お日曜日が不適当な事につきては、他にも特殊の理由がある。汝達の気づかぬ環境の悪化――これがわれ等の仕事を困難ならしめるのである。食事の直後に実験を行う事の不利は、すでに汝の熟知せる所であろう。要するにわれ等の求むる所は、受動的の敏感性であって、かの怠慢と無感覚より来る所の、単なる受動的状態ではない。刺戟性の酒類を飲みながら、鈍重な食物で胃腸を充たした時に必ず随伴する、かのうとうとした状態――われ等に取りて、これ以上始末におえぬ状態はめったにない。刺戟性の飲料は、る場合には、物理的表現の補助となるかも知れない。が、それはわれ等にとりて大々的障害である。何となれば、それは物慾に捕われたる悪霊の為めに門戸を開くからで、われ等の懸命の努力も、到底これをいかんともすることができない。サークルを組織する立会人中の、ただの一人がそれであった丈でも、しばしば万事水泡に帰せしむることがないではない。これを要するに日曜日は、心身の安逸と、過度の飲食から来る、無気力無感覚とが伴い勝ちであるから、心霊実験には、あまり面白いとは言われないのである。
問『食物の欠乏から来る心身の衰弱は如何?』
 節制第一――われ等の推奨する所は、ただ節制の一語に尽きる。肉体が食物の補給を必要とするは勿論もちろんなれど、ただそれが完全に消化した上でなければ、交霊実験を試みてはならぬ。次に又精神肉体が睡眠を求め、休養を求むる時にも、又疾病苦悩に煩わされて居る時にも、われ等の認可を受けた上でなければ、成るべく、交霊を差控えるがよい。同様に肉体が食物で充填し切って居る時も、兎角下級霊の為めに先手を打たれ勝ちではなはだ困る。かの物理的心霊現象でさえもが、そうした場合に起るのは、概してお粗末で、精妙優雅の要素に欠けている。いずれにしても、極端に走るのが良くない。断食の為めに消耗し切っている肉体も、少しも使いよいとは言われないと同時に、暖衣飽食によりて、えごえごしている肉体もはなはだ面白くない。友よ、しも我等の仕事を容易ならしめ、最良最上の成績を挙げんとならば、すべからく交霊会には肉体が健全円満で、感覚が敏活で、その上心が受動的である理想的な一人物を連れ来れ。その時は予想以上の花々しい仕事ができる。更に又サークルを組織する立会人達の気分が、充分調和していてくれれば一層申分がない。交霊会の席上に出現する燐光でさえもが、右にのぶる如き好条件の下にありては、青く冴え亘って煙がない。之に反して条件が悪ければその光が鈍く汚くくすぶっている。
註――当時モーゼスの交霊会上には沢山の燐光が現われ、好条件の時にはその色が透明で、青味がかった黄色であり、しからざる時は赤っちゃけてくすぶっていたとの事である。
(評釈) ここに説いてある所は、正に幽明交通に関する、最も親切にして、要領を掴める虎の巻と称しても、決して過言でないと思う。心霊実験に何の理解も経験もない者は、きまり切って霊媒のみを責め、すべてがこれに掛っているように考えるが、これは飛んでもない心得違いである。環境が悪ければ、いかなる名霊媒だって施す術がない。それは恰度ちょうど空中放電その他の場合に、ラジオに故障を生ずると同様であろう。これと同時に霊媒の方でも、常に最大の注意と節制とを守るのが必要で、どんな天分の優れた人物でも、一たん堕落したが最後、碌な働きはできなくなるに決っている。『肉体が健全で感覚が鋭敏でその上心が受動的』――まことに困難な註文であるが、実際それでなければ、完全に顕幽の境を突破して、百代に光りかがやくような優れた通信、優れた現象は獲られそうもない。断食に対する注意なども、非常に穏当な意見である。バラモン式の難行苦行が、むし百弊ひゃくへいの基であることは、私自身の経験から言っても動かし難いところである。日本にはまだそうした僻見へきけんの捕虜となっているものが、なかなか多いらしいから、特にこの一章の精読を希望して止まぬ次第である。
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      第六章 夫婦関係

問『夫婦の関係は、死後永遠につづくか?』
 趣味と能力――夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。しも右の二つが揃って居れば、死後の夫婦は互いに[#「互いに」は底本では「亙いに」]手を携えて、向上のみちを辿ることができる。少くともわれ等の境涯に見出さるる一対の男女は、趣味と能力とが一致してり、互いに扶け合いつつ、進歩の階段を上昇することのできる人達である。われ等には霊的教育がすべてである。従って進歩の所縁よすがとなるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かのいたずらに地上生活を陰惨いんさんならしめ、いたずらに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。これに反して、魂と魂との一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆きはんを脱したあかつきおいて、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛のきずなこそは、相互の発達を促す最大の刺戟であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去において、たまたま両者の間に関係があった為めというよりも、むしろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。うした場合には勿論もちろん地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少くとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべきみちを辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物のかずでなく、離れていても、立派に相互の胸奥きょうおうつたえることができるからである。強いてこの法則を破ることは、いたずらに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じてこれを許さない。
問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上に居なくても、立派に愛し合っていられると思うが……。』
 愛する魂――むろん相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れてしまうことはできない。兎角とかく人間のかんがえは、時間と空間とに拘束されているので、われ等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際においては、極めて親密に結合しているのである。われ等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それはほとんど不可能に近い。魂と魂とが愛情のきずなで結ばれて居れば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活においてすらしかりである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年にわたりて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係らず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責さいなむばかり、やさしい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
 無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、これに反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが為めに断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上においてすら無視することができる。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。
(評釈) 説明の言葉は簡単だが,この一章は人生の問題に触れてり、貴重なる教訓をわれ等にあたうるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、基督キリスト教の一本調子な恋愛至上説だのは、わずかに真理の一部を掴んだに過ぎざる、はなはだしく歪んだもので、到底今後の人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれて居る所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想びゅうそうが除かれるであろう。
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      第七章 真の宗教

問『霊界通信の眼目は何れにあるか?』
 通信の目的――われ等の仕事を妨ぐる障害物は、一にして足りないが、先ず最も当惑とうわくするのは、われ等の使用する大切な機関――霊媒の頭脳が、神学上の先入的偏見に充塞じゅうそくされ、われ等の思想を伝えるのに、多大の困難を感ずることである。これが為めにわれ等は、しばしば長大息を禁じ得ぬ。
 次にわれ等の教に反対する者の中で、最も取り扱いにくいのは、実にかの似而非えせひ科学者である。彼等は自分自身の媒体を通じてのみ事物を観察し、そして自分自身の条件によりてのみ、事物を評価せんとする。彼等の求むる所は、真理そのものではなく、いかにして霊界人が詐欺漢であり、又いかにして、それが分裂せる頭脳の一断片であるかを証明せんとするかにある。その曇れる眼、その歪める頭脳は、到底われ等の侶伴りょはんたるに適しない。彼等には、他界との交通の神秘を会得すべき心の深みがない。少数の科学者中には、われ等の提示する現象的方面に、注意を払うことを辞せないものも居るが、そはわれ等の事業の中心眼目ではない。われ等の伝えんとするものは、主として魂と魂の交渉であり、又死後において魂の辿るべき宿命の問題である。多年物理学的諸現象の考察にのみ従事せる人達の頭脳は、この種の問題の研究には、適当であるとは言われない。
 同様に困るのはかの無学者――他日充分の準備教育を施したあかつきには、われ等の唱道する所を、咀嚼そしゃく翫味がんみするに至るであろうが、当分まだわれ等の仕事とは没交渉である。
 更にわれ等が持て剰すのは、いたずらに伝統の儀礼法式に拘泥し、固陋ころう尊大そんだい、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、あるいは彼等に向くかも知れぬ。が、われ等の受持にかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇いっぺんの夢物語に過ぎないであろう。
 しかり、われ等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、之に反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分の落付くべき来世生活につきての知識を求むる、素直すなおな魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学――無智と愚昧とがいつとはなしに集積せる、わらうべきドグマの為めに歪曲され、又阻害されて居ることであろう! 彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。われ等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去において現れたる啓示をもって完全無欠となし、新らしきものを受け納れる心の余地を有しない。しもわれ等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、いずれの啓示も、決して円満えんまん具足ぐそくもって任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などをやときたりて、自家の主張の防衛につとめる。要するに彼等はる特殊の場合に、る特殊の目的をもって現れたる、古経典こきょうてん片言隻語へんげんせきごもって、一般的真理なりと思考して居るから困るのである。
 全くもって度し難きは、かの盲信の徒である。われ等は止むことを得ず、時として何等なんらかの奇蹟をもって、われ等の使命の実有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対してほとんど効果がない。彼等は言う、奇蹟の時代はすでに過ぎた。奇蹟はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇蹟は、実は神の仕業を摸倣しつつある、悪魔の欺騙きへんに過ぎない。真理をもって信仰の上に置き、神の御子の絶対性ぜったいせいを否定する者は、まさしく魔王の所為しょいに相違ないと。
 われ等はかかる論法に接する時に、心から憮然たらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲い哉、彼等には世界の闇を照すべき進歩的傾向がない。われ等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、われ等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣ざんさを一掃し去らねばならぬ。
 宗教にして、真にその名に背かぬが為めには、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向い、他は人に向うのである。われ等が出発点においず訴えんとする最高の法院は、人類に具わる所の理性である。われ等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果して神の啓示であるか否かを決定したのであった。われ等もまた理性に訴える。ヘブルューの予言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。われ等もまた同一の使命を帯びて現代に臨んで居る。
 要するに、われ等と彼等とは全然同一である。ただわれ等の使命が、一層進歩して居るまでである。われ等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫すんごうの相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されて居る丈である。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることはできない。信ずべき根柢こんていのある信仰と、信ずべき根柢こんていのなき信仰とは、決して同一架上のものではない。われ等はどこまでも、理性に向って訴えるものである。われ等がいかなる理由で悪魔的であるか? われ等の主張が、いかなる点において魔的傾向を帯びているか? これを合理的に証明することができなければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生もまたわざわいなるかなである。
(評釈) 今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、ようやく深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害――ことに既成宗教団からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が歎息するのも、もっともな次第である。最初はモーゼス自身すらも、決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向って抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。
 ひるがえって日本の現状を観ると、今尚お暗雲低迷、一方に古経典こきょうてんの講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んで居るものがあるかと見れば、他方には理性の批判にえないどころか普通の常識にも負くるような、愚劣低級な囈語げいごもって、神懸りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中がはなはだ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果して何と言うであろうか?
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      第八章 神霊主義

問『霊界の指示は、余りにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが…………。』
 霊界居住者の主張――なんじはわれ等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
 宗教――健全なる霊生活――には、そこに明かに二つの方面がある。他なし、一は神に向い、一は人に向う。われ等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
 所謂正統派の教うる神は怒り、そねむ暴君であったが、霊訓の教うる神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一言一行は愛から生れ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
 従って霊訓は、この神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。いわんやこの全能の神が、天界の玉座にしずまりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
 しかり、われ等の教には、かかる擬人説の闖入ちんにゅうすべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考うれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖でありそこに残忍、暴虐、その他人間的悪徳の片鱗をも認むることはできない。神は罪悪がそれ自身の中に刑罰を含むことを知るが故に、常に憐憫れんびんの眼もて、すべての人の過誤を見、げられぬ道徳律の許す範囲内において、傷ける者の苦悩を和げようとする。神こそは実に光と愛の中心である。秩序を保つべく、天則の厳守に当らるる神、これがわれ等の崇拝の大目標でなくて何であろう! 神は断じてわれ等の恐怖の対象ではないのである!
 われ等は汝等の思索想像する以上に、よく神を知って居る。が、何人もまだ神の姿を拝したものはない。又われ等は形而上的けいじじょうてき詭弁家きべんかひそみならって、あまりにも深入りしたる推理穿鑿せんさくふけろうともしない。何となれば、そは却って神の根本観念を失わしむるものであることを知るからである。われ等は断じて力量以上の、立入った穿鑿せんさくにはくみしない。われ等は心静かに知識の増進を待って居る。汝等もまたそれを待たねばならぬ。
 神と人との関係につきて、われ等は細説を避けたい。兎角この事につきても、人間の工夫発明にかかるものがはなはだ多く、長き年代の間に蓄積されたる附加物が、中心の真理を隠蔽して居る。例えばかの選ばれたる少数者――そうしたものをわれ等は知らない。選ばれたる者というのは、天地の大道を守りて、自からを救うもの以外には絶無である。
 又われ等は、盲目的信仰の価値にきては何事も知らない。むろん、素直に真理を受け入れ、片々へんぺんなる疑心暗鬼のわずらいから超脱する事ははなはだ尊い。それは神心の現れで必ずや天使の守護に浴し得る。が、われ等は断乎として、かの有毒な神学的教義を排斥する。それ等の教義が教うる、教会のドグマを厳守すれば、地上生活に於ける一切の悪徳邪行から、きれいに一掃せられて、神の恩寵に浴し得ると……。およそ天下にこれ以上に、人の魂を堕落せしむるものはあるまい。
 それから又われ等は、ただある一つの信仰が有力で、他は全部排斥してよいという理由を、何所にも認むることができない。真理は断じてる教義教条の独占物ではない。むろんいずれの教義にも真理の種子はある。が、いずれの教義にも誤謬ごびゅう夾雑物きょうざつぶつがある。人間がいかなる状況の下に、いかなる信仰形式を採ることになったか、その真相が、われ等にはよく判って居る。故にわれ等はこれを軽視はせぬ。が、形式は要するに末で、真理が根源である。優れた霊魂は、皆地上生活中に信奉せる教義から超脱して一路向上の途を辿っている。われ等は人間の好む繁瑣はんさなる議論を好まない。われ等はかの地上の神学を特色づける、神秘につきての好奇的穿鑿せんさくを求めない。霊界の神学は飽までも単純で知識的である。われ等は単なる暗中摸索を尊重しない。われ等は宗派的論争には興味をたない。何となれば、そはただ怨恨、嫉妬、悪意、排他的感情の原動力以外の何物でもないことを知っているからである。
 われ等が宗教を論ずるのは、宗教がわれ等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間――われ等の観る所によれば、人間は矢張り不滅の霊魂の所有者であるが――の地上生活は、わば第一期の初等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すべく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。しこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、し又これを守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
 ここでくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、かつて彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備って居るのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。すべて罪は、それ自身に懲罰をもたらすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
 兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後においても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消ゆることがない。これは悲哀と恥辱とをもって償わねばならない。
 これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えてり、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
 すでに述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に浴することなく、又何人も不可抗力の誤謬ごびゅうの為めに、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁においてのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲はむしろ人間に近い。
 われ等は、かの全然瞑想にふけりて、自己の責務の遂行を等閑視とうかんしする、人気取式の神信心を排斥する。神は断じて単なる讃美を嘉納かのうされない。われ等は真剣な仕事の宗教熱烈な祈願の宗教、純真な尊敬の宗教を唱道する。人間は神に対し、同胞に対し、又汝自身に対して、全身全霊をささげて尽すべき責務がある。かのいたずらに暗中に摸索し神学的虚構物につきて好事的詭弁を弄するが如きは、正に愚人の閑事業たるに過ぎない。われ等は飽まで、現実の生活に即して教をてる。要約すれば左の三部分に分れる。――
(一)神の認識と崇敬。…………神に対する責務。
(二)同胞への貢献。……………隣人に対する責務。
   イ、自己の肉体を守る。 ┐
   ロ、自己の知識を開発す。│
(三)ハ、真理を求める。   ├………自己に対する責務。
   ニ、善行を励む。    │
   ホ、幽明交通を講ず。  ┘
 以上の規則の中に、地上の人間に必要なる責務は、ほぼ尽されている。汝等は断じて、一宗一派のドグマに屈従してはならぬ。理性と合一せざる教訓に盲従するのは、人間の恥辱である。所謂啓示の中には、ある特殊の時と場合にのみ適用さるべき性質のものが多いから、無条件にそれに盲従してはならぬ。神の啓示は進歩的であって、特殊の時と、特殊の民族とに限られない。又神の啓示は、未だかつて止んだことがない。神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する。しかも人類の進歩につれて、神の啓示も進歩する。
 尚おここで忘れてならないことは、一切の啓示が、皆一人の人間を機関として行わるることである。従ってそれはる程度、人間的誤謬ごびゅうによって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、る時代に現れたる啓示が他の時代に現れたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別箇の適用性を有するのかも知れぬ。すべてはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が許せばこれを採り、道理が許さねばこれを棄てる――ただそれ丈である。しもわれ等の述ぶる所が時期尚早で、採用をはばかるというなら、しばらくこれを打ちすてて時期の到るを待つがよい。必ずやわれ等の教訓が、人類の間に全面的承認を受くる時代が早晩到来する。われ等は決してあせらない。われ等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願して居るものである。
(評釈) 霊訓中でも、この一章に説く所は、特にすぐれた暗示、すぐれた示唆に富んで居る。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守をすすめ、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽せりと言ってよい。しかも少しもあせらず、押売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風こうふう雅懐がかいは、まことに見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様におすすめしたい。
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      第九章 啓示の真意義

問『キリストの神性、ならびにその贖罪に対する信仰が、果して一片のドグマに過ぎないであろうか? 御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』
 経典病の弊害――汝の疑惑は、よくわれ等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪廓に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
 所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教は完全円満、永遠不朽に伝うべきである。曰く経典はことごとく神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。し之に反けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、また絶対服従を要する。……かかる為態ていたらくでは経典の片言隻語へんげんせきごを捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げらるる筈ではないか。
 われ等の態度は、全然これと選を異にする。われ等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、これを尊重することを知っているが、しかしわれ等は、これに盲従するよりは、むしろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで予言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である。神につきての人間の知識は、永久に完全でない。人間はただ一歩一歩神に近づいて行くまでである。
 かるが故に、心から真理を求むる人士のみが、神に関するわれ等の示教を受け容れることができる。一部の人士は、自分たちが完全なる知識の所有者であると空想する。われ等はそれ等に対して、言うべき何物もたない。われ等が手を加える前に、彼等は前以って神に関し、又啓示に関して、自己の無学であることを学ばねばならぬ。われ等の述ぶる千語万語も、かの無知、自己満足、及び独裁主義の金城鉄壁を貫通する見込はない。それ等の人物は将来において、苦痛と悲哀の高き代償を払って、彼等の霊的進歩を妨ぐる先入主せんにゅうしゅと、偏見とから脱却せねばならない。われ等は汝の心眼が、これまでの説明で、多少開けて居ると信ずるから、以下進んで啓示の性質につきての解説を試みることにする。
 すでにのべた通り、バイブルは、各時代時代に、人間に下されたる神の啓示の集録である。全体を流貫する精神、骨髄には[#「骨髄には」は底本では「骨髄にに」]何の相違もないが、いつもその時代の人間が把握し得る程度の真理しか漏らしていない。時代を離れて啓示はないのである。
 思え、啓示を漏らすべき道具は、いつも一人の人間である。かるが故に霊媒の思想霊媒の意見の多少混らぬ啓示は、絶対にあり得ない。何となれば、霊界の住人は、霊媒の心の中に見出さるる材料を運用するより外に、通信の途がないからである。無論できる限り、それ等の材料に補修改造を施し、つ真理に対する新見解を、これに注入すべく全力を挙げる。が、何と言っても既製品を使用するのであるから、必ずしも思う壺にはまらぬことがある。大体において霊界通信は、霊媒の心が受身になって居れば居るほど、又周囲の状態が良好であればあるほど、純潔性を保つことができるのである。試みにバイブルをひもといて見るがよい。必ずしも平均した出来栄でない。ある部分には霊媒の個性の匂いがついて居る。る部分はかかり方が不完全であった為めに、誤謬ごびゅうが混入して居る。る部分には霊媒自身の意見が加味されている。就中なかんずくどの啓示にも、その時代の要求にあてはまる一種の特色があり、そのままこれを他の時代に適用することはできないのである。
 そのしか所以ゆえんは、各自バイブルにきてしらぶれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いて居る。
 が、それは極度に詩的空想に彩色いろどられたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴にふけって居る。エホバ神に何の変りもないのであるが、各自その天分に応じて、異った啓示を漏らして居る。ずっと後世になりても、その点において何の相違もない。ポーロとペテロは同一の真理を説きながら、必然的に別の角度からこれをのぞいている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
 人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為めに、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、自己の心胸を拡充しようとは思わない。よし思っても力量が足りない。所謂同気相求め、同類相集まるの筆法で、彼等はバイブルの中から、自分達の理想に協う章句を拾い出す。一人の予言者で間に合わなければ、多くの中から、御意に召した箇所を選び出し、御意に召さぬ箇所は勝手に放擲して、ここに継ぎぎだらけの、自家用の啓示録を製造する。すべての宗派の発生は、つまりはうした手続でできたに外ならない。めいめい最初から自分自身の理想ができてり、経典の中からり出した啓示をもって、これを裏書きしたまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものではないからである。かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻をつき合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、すべてがサッパリ訳の分らぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取次いだ予言者達の真意は、全然そこなわれてしまうのである。かくの如くして啓示なるものは、いたずらに宗派的論争の用具と化し、古経典は、空しく各自の気に入った武器を引張り出す為めの、兵器庫の観を呈してしまった。
 兎に角そうした手続で出来上った所謂神学が、われ等の主張と相容れない所があるのは、むしろ当然ではないか。われ等は神学とは全然没交渉である。神学はまるきり地上の産物である。神学者の教うる神の観念は、野鄙やひ低劣ていれつを極め、そしてその主張は、魂の発達に対して、最も有害なる影響を与える。われ等は断じてこれに与しない。われ等の使命は、むしろ既成の神学を撲滅し、これに代うるに、より正しき神の教をもってすることである。
 神にきての観念が、何故にかくもあやまって居るかに関しては、そこに別な理由がないでもない。それは地上の人類が、もともと霊的、象徴的であるべき事物をば、あまりにも文字通りに解釈したことである。地上の人達の、想像だも為し得ざる事柄を通信するに当り、われわれは止むを得ず、人間界の措辞用語を借り、時とすればうっかりして、真意とは大分縁遠い言葉を使ったりする。いかなる霊界通信にも、そう言った短所がある。霊界通信が、文字通りに解釈されてはたまらぬ所以ゆえんである。一切の啓示は、皆象徴的であると言っても決して過言でない。就中なかんずく霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所ははなはだとぼしい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界の何所にも見出されない。
 ここにかんがみる所があって、われ等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。しかるにわれ等の選べる霊媒の心には、すでに何等かの定見が出来て居る。それ等の一部は全然間違ってり、他の一部は半ば正しく、又他の一部はる程度まで歪曲されて居る。これを根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、われ等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、できる丈これを培養し、補修して、もってわれ等の通信の目的にわせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞ふえつを加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待って居る。
 従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心の何所かに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈ばっこすることがない。われ等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役して居るのである。そこにわれ等の図り知られぬ苦心が存する。
 人間界の批評家は、往々霊界通信をもって、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それはる程度当っていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されて居ることを忘れてはならない。
 大体においていえば、われ等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、われ等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪廓は少しも変らないが、ただわれ等の解釈には新らしき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
 かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世主とし、神の子とし、又罪の贖者とするが、それは人間的解釈で、かの古代ヘブライ人の刻めるこうしの像と、何の相違もない。しかしながら、キリストがまことの道の為めに自己の生命を棄て、家族を棄て、地上の快楽を棄てて顧みなかった、克己的犠牲行為は、どれ丈人の子を罪より救い、どれ丈人の子を、一歩神に近づかしめたか知れない。その意味において彼を一の贖罪者と言おうとするなら、われ等もよろこんでこれに左袒さたんする……。
(評釈) 主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、ことごとくあてはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代との関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』――これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
 一宗一派の発生につきて説く所もはなはだ深刻である。これを一読して現在の日本を観る時に、われ等は憮然として、長太息を禁じ得ないものがある。
 最後に霊媒使用につきて霊達の苦心談、――これも正しく心霊学徒に取りて好参考資料であることは、改めて贅説ぜいせつを要しないであろう。
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      第十章 進歩的啓示

問『あなた方の啓示は、却って民衆の心から信仰を奪う結果になりはせぬか……。』
 新啓示と一般民衆――汝の疑惑の存するところはよく判る。われ等はこれから右にきて、十二分に所見を述べようと思う。われ等はわれ等の使命の、神聖なることを信じて疑わぬ。時運さえ熟せば、天下の民衆は、必ずわれ等の指示に従うに相違ないのであるが、それまでには、民衆に対して多大の準備教育を必要とする。現在においてわれ等の提唱する所を受け容れることのできるのは、ホンの少数の先覚者――つまり一般民衆の先達として、指導者の位置に就くべき、少数の先駆者のみに限られる。一体いずれの時代、いずれの国土においても、これに例外はない。旧知識に満足して居る無智の大衆は、必ず新知識に向って、反抗の声を揚げるのが常則となって居る。かのイエスとても同様の憂目を嘗めた。寄木細工式の繁瑣な神学をでっち上げた人達、朝に一条を加え、夕に一項を添えて、最後に一片の死屍にも似たる、虚礼虚儀の凝塊かたまりを造り上げた人達――それ等はイエスを冒涜者と見做し、神を傷け、神のおきてを破る大罪人であると罵った。かくて最後に、イエスを十字架に送ったのである。
 今日では何人も、イエスを神をけがす罪人とは考えない。彼こそは、実に外面的の冷かなる虚礼虚儀を排して、その代りに、の光の如く暖かなる内面的の愛を、人の心に注ぎ込んだのである。が、当時の当路者達は、イエスをもって、みだりに新信仰を鼓吹して旧信教を覆すものとなし、これを磔刑に処したのである!
 イエスの徒弟の時代に至りても、一般民衆は、尚お未だイエスの真の啓示を受け容るる丈の心の準備がなく、徒弟達に対する迫害は、間断なく繰り返され、ありとあらゆる讒罵ざんばの雨が、彼等の上に降りそそいだ。曰くイエスの徒弟どもは、極端に放縦ほうじゅう無規律なるしれものである。曰く彼等は、赤児を殺し食膳に上せる鬼どもである。今日から顧れば、殆ど正気の沙汰とは受取れぬような悪声が、彼等の上に放たれたのであった。が、これは独り当時に限られたことではない。現在われ等霊界の使徒に対して向けられる世人の疑惑、当局の圧迫とても、ほぼこれに等しきものがある。
 ただしかくの如きは、人文史上の常套的事象であるから、あきらめねばならぬ。新らしい真理に対する迫害は、宗教と言わず、科学と言わず、人類の取扱う、いかなる原野においても、例外なしに行われるのである。これは人智の未発達から発生する、必然的帰結であるから致方がない。耳馴れたものほど俗受けがする。之に反して耳馴れぬもの、眼馴れぬものは頭から疑われる。
 で、われ等の仕事が、前途幾多の荊棘けいきょくに阻まれるべきは、元より覚悟の前であらねばならぬ。われ等の啓示は往々にして、未開なる古代人の心を通じて漏らされた啓示と一致せぬ箇所がある。これは使用する器の相違がしからしむるところであるから、如何ともする事はできない。
 言うまでもなくバイブルは、幾代かにわたりて受取られたる啓示の集録である。かるが故に神につきての観念は、人智の進歩に連れて次第に変化し、枝葉の点においては、必ずしも一致していないのである。加之しかのみならずバイブルの中には、人間的誤謬ごびゅう夾雑物きょうざつぶつが少くない。これは霊媒という一の通信機関を使用する、必然の結果である。真理は全体の流れの中に見出すべきで、一字一句の末に捕えらるれば、到底真理を掴むことはできない。全体と交渉なき局部的の意見は、筆者の思想を窺うのには役立つが、われ等の信仰問題とは没交捗である。二千年、三千年の昔において述べられた言説が、永遠に威力を有するものと思うは、愚もまたはなはだしい。そうした言説は、それ自身の中にも矛盾があり、又同一書冊の中に収められた、他の言説とも相衝突している。大体において言うと、バイブル編成時代の筆者達は、イエスをもって神の独子と思考し、このドグマを否定するものを異端者と見做した。同時に又それ等の人達は、あまり遠くない将来において、イエスが雲に乗りて地上に再臨し、地上の人類の審判に参与するのだと信じて居た。無論これが皆迷信であることは言うまでもない。イエスの死後、すでに千八百年以上に及べど、今もってイエスは地上に再臨しない。よほど活眼をもってバイブルに対しないと、弊害が多い所以ゆえんである……。
 で、われ等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当りては、すべからく自分自身に備われる智慧と知識との光にたより、断じて経典学者の指示にたよってはならないことである。啓示全体にみなぎる所の精神を汲むのはよいが、一字一句の未節に拘泥することは、間違の基である。従ってわれ等の教訓を批判するに当りても、それが果してる特殊の時代に、る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿せんさくは無用である。われ等の教訓が、果して諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果して諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
 換言すれば、われ等の教訓が、正しき理性の判断にえるか? 精神こころかてとしてれ丈の価値を有するか?――われ等の教訓の存在理由は、これをもって決定すべきである。
 正規の教会で教うるように、諸子に臣従を強うるところの神は、果して諸子の崇拝の対象たるに足りるか? その神は、自己の独子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて、未来永劫、自己に対する讃美歌を唄わせて、満足の意を表している神ではないか! そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、ことごとくこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。
 教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、立所にその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍ほうじすることができると。しもそれが果して事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?
 われ等の教うる神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄みぶるいして逃げ出し、人情が呆れて顔をそむけるような、そんな奇怪な神の存在をわれ等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以ゆえんである。
 われ等が知る所の神、愛の神は断じてそんなものではない。その愛は無限、しかもすべてに対して一視同仁いっしどうじんである所の、正義の神である。そして神と人との中間には、多くの守護の天使達が存在し、それ等が神の限りなき愛、神の遠大なる意志の直接の行使者となるのである。此等これらの行使者があるから、そこに一分一厘の誤差も生じないのである。神は一切の中心であっても、決して直接の行動者ではないのである。
 思え! 永遠の魂の所有者たる諸子は、不可解、不合理なる教義の盲目的信仰と、ただ一片の懺悔の言葉とによりて、単調無味なる天国とやらの権利を買い占めるのであろうか? 否々、諸子はただしばし肉の被物ころもに包まれて、より進歩せる霊的生活に対する準備を為すべく、地上に現れたる魂なのである。かるが故に、現世において蒔かれたる種子は、やがて成熟して、次の世界の収穫となる。単調無味な、夢のような天国が、前途に諸子を待っているようなことは断じてない。永遠の向上、永遠の進歩、これが死後の世界の実相である。
 従って各自の行動を支配するものは、不可犯の法則である。善行は魂の進歩を助け悪行は魂の発達を阻止する。幸福は常に進歩の中に見出され、進歩につれて神に近づき、完全に近づいて行く。魂は決して安逸あんいつ懶惰らんだを願わない。魂は永遠に知識の前進に対する欲求を棄てない。人間的慾情、人間的願望は肉体と共に失せるが、魂には純情と進歩と愛との伴える、浄き、美しき生活が続く。それがまことの天国なのである。
 われ等は魂の内に存在する地獄以外の地獄を知らない。この地獄は不潔な劣情のほのおによりて養われ、悔と悲のけむりによりてつちかわれ、過去の悪業に伴える、もろもろの重荷が充ちみちている。この地獄から脱出すべき唯一の途は、ただきびすをかえして正道に戻り、正しき神の教に基きて、よき生活を営むことである。
 無論死後の世界にも刑罰はある。されどそは、怒れる神の振り降ろす懲戒のしもとではない。恥を忍び、苦痛を忍びて、自から積みあぐる善行の徳によりてのみ、償うことのできる自然の制裁である。御慈悲を願う卑劣な叫びや、オロオロ声を絞りての、偽懺悔にせざんげなどによって償うべくもないのである。
 真の幸福を掴もうと思わば、道に協い、我慾から離れたる生活を、ただ一筋に儼守げんしゅするのみである。幸福は合理的生活の所産であり、これと同様に、不幸は有形無形に亘る一切の法則の意識的違反から発生する。
 われ等の遠き前途にきては、われ等は何事も語るまい。何となれば、われ等もまたそれにきて、何等知るところがないからである。が、われ等の現在にきていえばそは諸子の送る地上の生活と同じく、不可犯の法則によりて支配され、幸不幸は、ただその法則を遵守するか否かによりて決せらるるのである。
 われ等は今ここで、われ等の唱道する教義にきて細説はせぬであろう。神に対し同胞に対し、又自己に対して守るべき人間の責務につきては、諸子もほぼ心得ているのである。他日諸子はこれにき、更により多くを知るであろう。現在としては既成宗教のドグマと、われ等の教義との間に、いかに多大の径庭けいていがあるかを明かにしたのをもって満足するとしょう。
 諸子はわれ等の主張が、既成宗教の教条に比して、遥かに不定形、遥かに不透明であると思うであろう。が、われ等は、決して彼等のひそみならって実行不能、真偽不明の煩瑣はんさ極まる法則などは述べようとはせぬ。われ等の期するところは、より清く高き空気を呼吸し、より浄く、聖なる宗教を鼓吹し、より純なる神の観念を伝えることである。要するにわれ等は、飽まで不可知を不可知とし、苟且かりそめにも憶測をもって知識にかえたり、人間的妄想をもって、絶対神を包んだりしないのである。われ等の歩まんとする道は、臆測よりはむしろ実行、信仰よりはむしろ実験である。われ等はこれが智慧により、神によりて導かるるところの、正しき道であると信ずる。思うに我等の教は懐疑者によりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、又頑冥者流によりて異端視されるであろう。しかしながら真の求道者は、われ等の教によりて手がかりを獲、真の信仰者はわれ等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、そして縦令たとえ千歳の後に至るとも、この教の覆ることは絶対にないと信ずる。何となればわれ等の教は、飽くまでも合理的の推理と、合法的の試験とにえるからである。
(評釈) 神霊主義の真髄は、ほぼ遺憾いかんなくここに尽されている。現世と死後の世界がつながりであること、両者が飽までも大自然の法則の支配下にあること、『神』は最高最奥の理想的存在であって、神律の実際の行使者は、多くの天使達であること、幸と不幸との岐れ目は、有形無形の自然律を守るか、守らぬかによりて決すること、神霊主義は正しき推理と、正しき実験との所産であるから、永遠に滅びないこと――それ等の重要事項が、なかなか良く説かれて居る。今後人類の指導原理――少くとも具眼有識者の指導原理は、これ以外にある筈がないであろう。
 就中なかんずく私がここで敬服措かないのは、『天使』につきての大胆率直なる啓示である。無限絶対の『神』又は『仏』のみを説きて、神意の行使者たる天使の存在を説かない教は、ほとんど半身不随症にかかって居る。無論ここにいう天使は、西洋式の表現法を用いたまでで、日本式でいえば八百万の神々である。くれぐれも読者が名称などに捕えられず、活眼を開いて、この貴重なる一章を味読されんことを切望する。
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      第十一章 審神の要訣

問『あなた方の所説は、はなはだ合理的とは考えられるが、千八百年にわたりて、われ等の心胸に浸み込まされた信条の放棄は、非常な重大事である。願くばもっと明確な証左しょうさを御願いしたい。』
 宗教の真義――友よ、汝の熱心な疑惑は、われ等にとりて、この上もなき福音である。単なるドグマに捕えられず、あくまで合理的に真理を求めんとする心掛こころがけ――それでなければ神慮しんりょにはかなわない。われ等は心から、そうした態度を歓迎する。われ等の最も嫌忌けんきするのは、そこに何等の批判も考慮もなしに、ただ外面のみを扮装した、似而非えぜひ人物の似而非えぜひ言論を鵜呑みにせんとする、軽信けいしん家の態度である。われ等はかかる軽信けいしん家の群に対して、言うべき何物もない。同時にわれ等の手に負えぬは、かのよどめる沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者もちぬしである。われ等の千言万語も、遂に彼等の心の表面に、一片の漣波さざなみさえ立たせ得る望みはない……。
 さて汝の提出した疑問――われ等としては、これに証明を与えるべく全力を傾けるであろうが、ある地点に達した時に、それ以上は、いかにしても実証を与うることが不可能である。汝も熟知するとおり、われ等は到底打ち勝ち難き、不利な条件に縛られて居る。われ等はすでに地上の住人でない。かるが故に、人間界の法廷において重きを為すような、証拠物件を提示し難き場合もある。われ等は、ただ吾等の力に及ぶ証明をもって、汝等の考慮に供するにとどまる。これを採用すると否とは、ひとえに汝等の公明正大なる心の判断に任せるより外に道がない。
 われ等の所説を裏書するのには、る程度まで、霊界に於けるわれ等の同志の経歴を物語るより外に途がない。これは証明法として不充分であるが、何とも他に致方がないのである。われ等は、地上生活中の自己の姓名を名告り、そして自己と同時代の性行せいこう閲歴えつれきにつきて、事こまやかに物語るであろう。さすれば、われ等が決してニセ物でないことは幾分明白になると思う。事によると、汝はそれ丈の証明では不充分であるというかも知れぬ。成るほど狡獪こうかいなる霊界人が、欺瞞の目的をもって、細大の歴史的事実を蒐集しゅうしゅうし得ないとは言われない。が、到底いつわり難きは、各自に備わる人品であり風韻ふういんである。果実を手がかりとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教うる所である。とげのある葡萄ぶどうや、無花果いちじくはどこにもない。われ等が、果して正しき霊界の使徒であるや否やは、われ等の試むる言説の内容をもって、忌憚きたんなく批判して貰いたい。
 これ以上、われ等はこの問題もんだいにかかり合っているべき勇気をたない。われ等の使命は、地上の人間の憐憫あわれみを乞うべく、あまりにも重大である。われ等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、われ等はわれ等の与うる証明が、得心のできる日の到来を心静かに待つであろう。われ等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ……。
 われ等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想びゅうそうである。人間はしきりに各自見解に重きを置こうとするが、われ等の眼から観れば、そうしたものはほとんど全く無価値である。人間の眼は、肉体の為めに蔽われて、是非善悪を審判する力にとぼしい。霊肉が分離したあかつきに、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、われ等の眼をもって観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少くない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根柢こんていおいて、格別ちがったものでもないことが、われ等の眼にはよく映るのである。
 友よ! 宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微いんび不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘なる智能の範囲内において、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的揣摩臆測しまおくそくや、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、あわれなるものどもを苦しめ、惑わせ、かれ等をして、ますます無智と迷信の雲霧うんむの中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧――これはいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、もともと彼等は、暗中に摸索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従ってわれ等の眼から観れば、多くの点においてめいめいちがった見解をっている。真に迷霧めいむが覚めるのは肉の眼が閉ずる時、換言すれば、地上生活が終りを告げる時で、そこで初めて地上の教会、地上の神学の偽瞞に気がつき、大至急訂正を試みることになるのである。進歩性の霊魂は、決して呉下ごか旧阿蒙きゅうあもうではない。かの頑冥不霊がんめいふれいな霊魂のみがいつまでも現世的迷妄の奴隷として残るのである。
 記せよ、真理は決してある特殊の人間、ある特殊の宗教の特権でも何でもない。真理は古代ローマにおいて、鋭意肉の解放を企求した、アテノドーラスの哲学の中にも見出される。又真理は来世の存在を確信して、地上生命の棄却を意としなかった、アツポクタスの言説の中にも見出される。又真理の追窮ついきゅうは、かのブローテイナスをして、早くも地上生活中に、よく超現象の世界に遊ばしめ、更に真理の光明は、かのアレッサンドロ・アキリニイをして、よく烈々として、人を動かす熱語を吐かしめた。かるが故に、此等これらの霊界居住者達は、今や互に共同一致して真理の宣揚、顕幽一貫の神霊主義的運動の為めに、かくは汝を交通機関として、真剣な活動を試みつつあるのである。此等これらの人達に取りて、地上生活時代の意見の如きは、ほとんど問題でない。それ等は夙の昔に振りすてられ、生前の僻見へきけんなどは、最早もはやどこにも痕跡をとどめない。むろん此等これらの人達は、すでに地上とはきれいに絶縁してしまい、彼等の墓石の上に、哀悼の涙をそそぐものなどは、最早もはやただの一人もない。彼等には再生の機会は全くなく、要するに彼等は、純然たる霊界居住者なのである。しかながら、彼等がかつちりばめたる宝玉は、歳と共に光輝を加えて、不朽ふきゅうの生命をっている。この魂の光、この魂の力こそは、実に今日彼等をして、協力して地上人類の純正高潔なる霊的教育――より高く、より清き真宗教の普及の為めに、精進努力せしむる所以ゆえんなのである。
 吾等は信ずる、沈思ちんし熟慮じゅくりょの結果は、必ず汝をして、われ等の主張の合理性を承認せしむるに相違ないと。これに対する絶対的証明は、地上生活中には到底獲られぬであろうが、何れその中汝もまた死線を越えて、われ等の仲間入りをするであろう。その時こそ、最早もはや嘘も事実もない。それまではしばらく間接的証明の蓄積によりて、一歩一歩自己の信念を固められたい。自己を裁くと同一筆法をもって他を裁けば、決して間違いは起らない。それが審神の要訣である。
(評釈) 進歩せる神霊界の使徒との交通感応こそ、真宗教の骨子である。これがある時に、初めて宗教に生命が湧き、これがない時に、宗教商人の跋扈ばっことなる。ただしくれぐれも看過してならぬことは、相手の霊界居住者の正否善悪に対する審判である。この点において本章の説く所は正にわれ等に絶好の指針を与うるものである。





底本:「霊訓」潮文社
   1995(平成7)年4月20日初版発行
底本の親本:「霊訓」心霊研究会出版部
   1937(昭和12)年9月発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※難読語にはルビを適宜補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ファイル中「』(閉じ括弧)」が無いところは底本通りです。
※「司配霊」と「支配霊」、「われ等」と「吾等」と「我等」、「彼等」と「かれ等」、「此等」と「これ等」、「汝」と「爾」、「少なく」と「すくなく」、「ある」と「る」、「教会」と「教界」、「飽くまで」と「あくまで」、「欺瞞」と「偽瞞」、「富める」と「とめる」の混在は、それぞれ底本通りにしました。
入力:浅野和三郎著作保存会(担当:新堂悠里、老神いさお、ハム、ちひろ)
校正:土屋隆
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について