この『小公女』という物語は、『小公子』を書いた米国のバァネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。
『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女』は、金持の少女が、ふいに無一物の
『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『小公女』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。
昭和二年十二月
[#改丁]菊池 寛
ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、
セエラ・クルウはまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付をしていました。彼女は年中大人の世界のことを空想してばかりいましたので、自然顔付もませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持でいました。
セエラは今、父のクルウ大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑い印度のこと、大きな船のこと、
「お父様。」と
「何だえ、嬢や?」クルウ大尉はセエラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」
「ねえ、これがあそこなの?」
「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」
セエラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。
父がセエラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセエラの生れた時亡くなってしまいましたので、セエラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、
「パパさんは、あそこへ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは
「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」
「でもセエラや、別れているのはそんなに永いことじゃァないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵なお
その時のことを考えると、セエラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓の
「ねえ、お父様。」セエラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」
父はセエラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女に
その街並は、皆大きな
ミス・ミンチン女子模範学校
「さあここだよ、セエラ。」とクルウ大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セエラを馬車から抱き下ろしました。セエラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、
「あたし、何だかいやになったわ。」とセエラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、ほんとうは戦争に行くのが、いやになりはしないだろうかしら。」
その妙ないいかたを聞くと、クルウ大尉はからからと笑い出しました。
「ほんとに、セエラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」
「じゃア、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」
「だって、お前が真顔でいうと、それがまた
そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のような
「こんなお
セエラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。
「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方は
セエラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を一台と、乳母代りの女中一人とがあてがわれるはずでした。
「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセエラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本の中に
「でもお父様、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲よしになりきれないほどの数になってしまうでしょう。エミリイちゃんは、私の親友になるはずですけど。」
「エミリイさんて、どなた?」とミス・ミンチンが
「お話しておあげ、セエラ。」
父にいわれると、セエラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。
「エミリイちゃんは、まだ買ってないけど、お父様が私に買って下さるはずのお人形ですの。お父様がいらっしゃらなくなったら、私エミリイちゃんとお父様のことをいろいろお噂するつもり。」
「まア、何て御利発な――」
「ええ。」と父はセエラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代って、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。
それから五六日、セエラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日町へ出ては、
「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、何だかいくらお話しても聞いてないような顔しているから、私気になってしょうがないの。」
二人は方々の人形屋に馬車を走らせ、黒眼の人形、青眼の人形、茶色の髪の人形、金色の髪を編んだ人形、衣裳をつけた人形、裸人形などいちいち覗いて歩きましたが、どれもセエラの『エミリイ』ではありませんでした。失望を重ねたあげく、二人は馬車を降りて、軒並に陳列窓を覗いて歩くことにしました。二三の店を通りすぎて、とある小さな店の前に来かかった時でした。セエラは突然飛び上って、父の腕にひしと
「あそこに、エミリイちゃんが!」
セエラの顔にはさっと
「あの子は、ほんとうに私を待ってるのよ。さ、あの子の所へ行きましょう。」
「おやおや、誰かに紹介してもらわないでもいいのかね。」
「お父様が私を紹介して下さるの。そしたら、私もお父様を紹介してあげるわ。でも、私はあの子を見た時すぐわかったんですもの、あの子だってきっと私を知っててよ。」
エミリイもきっとセエラだとわかっていたのでしょう。セエラが抱きかかえると、エミリイはほんとうに利口そうな眼つきをしていました。大きな人形でしたが、大きすぎて持ち運びが出来ぬというほどではありませんでした。癖のない金色の巻毛が、マントのようにふさふさと垂れ、眼は深い、澄みきった
二人は、エミリイを
「私は、誰がみてもこの子はいいお母様を持っていると思うようにしておきたいの。私はこの子のお友達で、そしてお母さんなのよ。」
父はセエラと一緒にこの買物をよろこびました。が、この可愛い、愛嬌のある娘から、じきに別れなければならないのを想い出すと、たまらなく悲しくなりました。
クルウ大尉は、真夜中に自分の床を出て、立ってセエラを見下ろしていました。セエラはエミリイを抱いて眠っていました。乱れた黒い髪が枕の上で、エミリイの金髪と
翌日、大尉はセエラをミス・ミンチンのもとに連れて行きました。彼は次の日印度へ立つことになっていましたので、先生にいろいろ後の事を頼みました。彼は一週に二度セエラに手紙を書くことを約束しました。それから、セエラの望みなら何でも叶えてやってくれといいました。
「この子は感じやすい子でして、自分でこれと思ったもの以外には、何も欲しがらないのですよ。」
それから、彼はセエラと一緒に彼女の小さな部屋に行き、お互にさよならをいい合いました。セエラは父の
「私の顔をそらで覚えこむつもりなのかい? セエラ。」といいました。
「いいえ、私ちゃんともうそらで知ってるわ。お父様は私の胸の内側にいらっしゃるのよ。」
二人は抱き合って、もう離さないというような
辻馬車が戸口から駈け出すと、セエラはエミリイと一緒に二階の部屋の床の上に坐り、
ミンチン先生が心配して、妹のアメリア嬢を見にやると、扉には中から錠がおりていました。セエラは中から、
「あたし、一人で静かにしていとうございますから。」と、慎ましい小声でいいました。
アメリア嬢は
「お姉さん、ませた変な子ね。あの子はまア、錠をかけて閉じこもっているのですよ。ことりとも音をさせずに。」
「他の子のように、暴れたり、泣いたりするより、その方がましさ。あんなに甘やかされているから、家中がひっくりかえるような騒ぎをするかと、私は思っていたんだよ。」
「あの子のトランクには大変なものが入っていますのね。
「まったく莫迦げてるね。でも、教会へ行く時、あれを生徒の先頭にすると立派でいい。」
二階ではまだセエラとエミリイとが、馬車の消えて行く町角を見つめていました。馬車の中のクルウ大尉も、ふり返っては手を振り、もうたまらなくなったというように振った自分の手を
次の朝、セエラが教室へ入って行きますと、生徒は皆眼を見張って、物珍しそうに彼女を見つめました。生徒達はもうセエラのことをいろいろ聞いて知っていました。前の晩到着したセエラ
「レエスの
「まあ、あの方の靴下絹ね。」ジェッシイも地理書越しに小声でいいました。「それに、可愛い足ね。」
「でも、足なんて靴次第で小さく見えるものよ。それにあの方、ちっとも綺麗じゃアないのね。眼だって変な色だわ。」
「綺麗さがちょっと違うのよ。なんだか振り返って見たくなるような顔よ。そして睫の長いこと!」
セエラは静かにミス・ミンチンの机のそばの、自分の席につきました。セエラは皆に見られても別に羞らう様子もありませんでした。かえって、自分を見つめている子供達が珍しいので、静かに皆の方を見返すのでした。皆は何を考えているのかしら? 皆はミンチン先生が好きなのかしら? めいめいの課業に精を出しているのかしら? みんな私のパパさんみたいなパパさんを持っているのかしら? などと思ってもみました。セエラはその朝、エミリイと永いこと父の噂をして来たのでした。
「エミリイ、お父様は今頃もうお船の上よ。仲よくして何でも話し合いましょうね。私の顔をごらんなさい。まアお前は、何て綺麗なお眼々をしているんでしょう。ほんとに、お前お口がきけたらいいのにね。」
セエラは空想や気まぐれな考えを一杯持っていました。エミリイを生きたものと考えて、そこに限りないよろこびを感じるのも、その空想の一つでした。セエラは女中に紺の学校服を着せてもらい、同じ色のリボンを結んでもらってから、椅子の上のエミリイに本を一冊持って行ってやりました。
「私が教室へ行っている間、それを読んでらっしゃい。」
女中のマリエットが
「私達にはわからないけど、お人形には読んだり、歩いたり、いろんなことが出来るんじゃアないかと、あたし思うのよ。ただそれは誰もいない時だけなの。なぜって、お人形にも何でも出来るとわかれば、お仕事やなんかをおしつけるようになるでしょう。だからきっと、お人形さん達の間には、何にも出来ないような顔をしていようというお約束があるのよ。マリエットが見ているうちは、そこにじっとしているけど、外へ出かけでもすると、きっと本を読んだり、窓の外を見に行ったりするのよ。そして、私達の足音が聞えるや否や、その椅子の中に飛び帰って、さっきからそこに坐っていたような顔してすましているのよ。」
マリエットは、「おかしなお嬢さん。」とひとりごとをいいました。彼女はこの風変りな御主人がすっかり好きになりかけていました。彼女はこれまでに、セエラ程たしなみのいい子の世話をしたことはありませんでした。セエラはやさしくて、わかりよい口のきき方をしました。「どうぞ、マリエット」とか、「ありがとうよ、マリエット」とか、ひどく人を惹きつけるようにいうのでした。マリエットは
「あの小さい方は、まるで
セエラが教室に入って二三分間もした頃、ミンチン先生はおごそかに立って、自分の机をとんと叩きました。
「皆さん! 今日は、皆さんに新しいお友達をご紹介したいと思います。」少女達はめいめいの席から立ち上りました。セエラも立ち上がりました。「皆さん! クルウさんと仲よくして下さいますね。クルウさんは大変遠いところから――ええ、印度からお着きになったばかりなのです。課業がすんだら、お互にお近づきにならなければなりませんよ。」
少女達は改まって目礼しました。セエラはちょっと
「セエラさん、ここへお出でなさい。」
ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セエラは行儀よく先生のところへ出て行きました。
「お父さんが、あなたにフランス人の女中を
セエラは少しもじもじしました。
「あの、お父様があの方を傭って下すったのは――あの、お父様が、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」
「どうも、あなたは‥‥」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父様はあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」
セエラはただ黙って頬を紅らめました。かたくなな先生は、セエラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセエラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セエラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセエラを生んで亡くなってしまった後も、よく赤ん坊のセエラにフランス語で話しかけたものでした。で、セエラも自然幼い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いを
「私――私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも――でも。」
ミス・ミンチンの人知れぬ悩みの重なるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべく
「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読をしてお置きなさい。」
セエラは席へ戻って、第一ページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、今更教わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。
ミンチン先生は、セエラの方をちらと探るような眼で見て、
「何をふくれているのです。セエラさん。」といいました。
「フランス語を勉強するのが、いやなのですか?」
「私、大すきなのです。でも――」
「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本を見るのですよ。」
セエラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエラはおかしさを
「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。
ジュフラアジ先生はじき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。
「これが、私の方の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」
「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」
「それはいけませんね、
「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」
セエラは辱められでもしたかのような気持で、立上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラアジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。
ミンチン先生はセエラが語り出したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエラを見つめました。ジュフラアジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑は非常に喜んでいるしるしでした。セエラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のはてのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。
「ねエ
「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエラに向き直るのでした。
「私――私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが
ミンチン女史にはセエラのいい出そうとしていたことが解っていました。またセエラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも解りました。けれども、女史は、生徒達がセエラの話を聞き、仏語文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。
「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、きびしい声を出しました。「静かになさいったら?」
その時以来、女史はセエラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。
その最初の朝、セエラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、
彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。
「セント・ジョン! そのお行儀は何ですか。
セエラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたいような気持になりました。
「もしセエラが男の子で、二三百年前に生れていたら。」と、よくお父さんはいったものです。
「
課業が終ると、セエラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり窓の下の席に
「お名前、何て
肥った少女は
「私、アアミンガアド・セント・ジョンって名なのよ。」
「私はセエラ・クルウ。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお
「あなた、お好き?」とアアミンガアドは飛び上りそうになっていいました。「私――私はあなたの名前大好き。」
セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七八ヶ国語に通じ、何千巻の蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのがあたりまえだと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番頭が悪いほどだったのです。
「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。
こういう訳で、アアミンガアドは、いつでも恥しめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、何のことだか一向解らないという風でした。で、彼女は、セエラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。
「あなた、フランス語お上手なのね。」
セエラは大きな、奥の深い
「
「まア、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」
「なアぜ?」
アアミンガアドは頭を振りました。
「あなたは、お利口なのね。」
セエラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の
「私、わからないわ。」
セエラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付を見ると、かすかに笑いながら話を変えました。
「あなた、エミリイちゃん御覧になって?」
「エミリイちゃんて、どなた?」
アアミンガアドは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。
「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」
二人は一緒に
「ほんと?」客間を通り抜ける時、アアミンガアドは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」
「ええ。
その時二人は、もうセエラの部屋の前の廊下に来ていました。アアミンガアドはふと立ち止って眼をみはり、息を呑んで、
「お話を
セエラは驚いて、少女を見返しました。
「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」
セエラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。
「そうっと
セエラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アアミンガアドは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セエラの眼付にはすっかり魅せられてしまいました。何でもいい、きっと面白いことに違いない――アアミンガアドは胸を躍らせながら、爪先立ってセエラの後から戸口に近づきました。不意に
「あら、もう席にかえっているわ。」とセエラが叫びました。「いつだってああなのよ。
アアミンガアドは、セエラから人形へ、人形からセエラへ眼を移しました。
「あのお人形――歩けるの?」
「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもりなのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもりになってみたことある?」
「いいえ、ちっともないわ。私――ね、お話してちょうだいな。」
エミリイは、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセエラにすっかり魅せられてしまったので、風変りなこの新しいお友達の方へ眼を向けました。
「まア、腰をかけましょうよ。」セエラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリイ、あなたも聞いてなくちゃアいけないことよ。この方はアアミンガアド・セント・ジョンさんなの。アアミンガアドさん、こちらはエミリイと申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」
「抱いてもいい? ほんとによくって? まア、綺麗だこと。」
それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。
その一時間の間、セエラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、頬には紅がさしてきました。航海の話、印度の話――しかし、アアミンガアドを一番
「私達には真似も出来ないわねエ。まア、
一度セエラがエミリイを探し廻った話をした時、ふいにセエラの顔色が変りました。暗い雲が
「あなた、どこかお痛いの?」
「ええ。」セエラはちょっと黙って、それからいいました。「でも、体が痛いのじゃアないのよ。」それから何事かをしっかり言おうとして、つい小声になりました。「あなただって、世の中の何よりも、お父様がお好きでしょう。」
アアミンガアドは微かに口を開けたままでした。彼女は父を愛し得るなどと思ったことは、一度もありませんでした。のみならず、ほんの十分間でも父と二人きり向き合っていることを避けるためには、どんなすてばちな事でもしかねない彼女でした。が、そんなことを口に出すのは、模範学校の生徒らしくないと思いました。で、彼女はひどく当惑して、
「私――私めったにお父様と会うことなんかないのよ。」といいました。「お父様は年中お書斎にいらしって――何か読んでばかりいらっしゃるんですもの。」
「私は世界を十倍したよりかも、お父様の方が好き。だから、私悲しいのよ。お父様は、もう行ってしまいになったんですもの。」
セエラは頭を静かに膝の上にのせ、しばらくは身動きもしませんでした。アアミンガアドは、セエラが今にも泣き出すかと思いましたが、セエラはやはり泣きませんでした。彼女はやがて顔を上げずにいい出しました。
「私お父様に、悲しくても
アアミンガアドは、セエラを見つめるばかりでした。この少女の胸には、セエラを
ふと、セエラは顔を上げて、妙な微笑を見せながら、黒い髪を
「でも、こうしてつもりになるお話なんかしていると、私いくらか楽なのよ。苦しいことは忘れられないにしても、いくらか耐えやすくなるでしょう。」
アアミンガアドは我知らず喉がつまって、涙のこみ上げて来そうな気がしました。
「ラヴィニアとジェッシイは仲よしなのよ。私達も仲よしになれればいいと思うの。あなた、私のお友達になって下すって? あなたはお利口で、私は学校中で一番出来ないのですけど、私はあなたがほんとに好きなのよ。」
「私も嬉しいわ。好かれていると思うと、うれしいものね。ほんとうに、これからお友達になりましょうね。」不意にセエラの顔は輝き出しました。「あたし、あなたのフランス語のおさらいをしてあげましょうね。」
セエラが普通の子供だったら、次の十年間ミス・ミンチンの学校で送った生活は、ちっとも彼女のためにならなかったかもしれません。セエラは、生徒というよりは、大事なお客ででもあるように待遇されていました。ミンチン女史は、心ではセエラを嫌っていましたが、こんな金持の娘を失ってはならないという慾から、事ごとにセエラをほめそやして、学校生活をあかすまいとしました。セエラは幸い利発なよい
「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父様の子に生れたのね。ほんとうは私、ちっともいい
「ラヴィニアだって、ひどい目になんかあわないけど‥‥」アアミンガアドはのろのろといいました。「でもあの人は、ほんとうにいやな人だわ。」
セエラは小さな鼻先を擦って、何かを思い出そうとしました。
「きっとあの人は、大人になりかけているからなのよ。」
いつかアメリア嬢が、ラヴィニアに、あまり育ち方が早いので、
ラヴィニアはまったく不快な娘でした。彼女は
「でも、セエラ・クルウには一つこんな事があってよ。」と、ある時ジェッシイは正直にいったために、かえって仲よしのラヴィニアを怒らせたことがありました。「それは、セエラはちっとも偉がらないということなの。私がセエラなら、威張らずにはいられないけど。でも、ミンチン先生が、父兄にセエラを見せびらかすのを見ていると、胸がむかむかするわ。」
『さ、セエラさん、応接室へ行ってマスグレエヴの奥さんに印度のお話をして上げるのですよ。』ラヴィニアは、得意なミンチン女史の口真似を始めました。「『さ、セエラさん、ピトキン夫人にフランス語を聞かしてさし上げるのですよ。この子のアクセントは、それは確かなものでございますよ。』ですって、フランス語を学校で習ったわけでもないのにね。ただお父さんの喋ってるのを聞いてたから話せるというまでのことよ。それに、お父さんが印度の軍人だからって、ちっとも偉いことなんかありゃしないわ。」
「それはそうね。そのお父さんの殺した虎の皮が、セエラの部屋にあるのよ。セエラは毛皮の上に寝ては、頭の所を撫でたり、猫に話すように何かいいかけたりしているのよ。」
「あの子は、いつでも何かしら莫迦げた事をしているのね。」ラヴィニアは、声を高くしていいました。「うちのお母さんがいってたわ。あの子みたいに、ありもせぬことをありそうに考えるのは莫迦げているって。そういう女は大きくなってから
セエラの『偉がらなかった』のは
だから、年下の少女達はセエラを崇拝していました。彼女は幾度も嫌われている少女達を自分の部屋に招いて、お茶の会をしました。そんな時にはエミリイも一緒に
ロッティ・レエなどは、しつこいほどセエラにつきまとうていました。セエラは母らしい気持を持っていましたので、別にうるさいとも感じませんでしたが、ロッティも早く母を失った一人でした。彼女は誰かが、母のない子は特別可愛がらなければならないといっているのを聞き、いい気になって
セエラが初めてロッティの面倒をみてやったのは、ある朝のことでした。セエラがある部屋の前を通ると、誰かが怒って泣き喚く声と、それをおし鎮めようとしているミス・ミンチンと、アメリア嬢との声を聞きました。少女はなだめられるとよけい
「何で、泣くんです。」
「うわア、うわア、うわア、わたい――おおお母ちゃんがないイ!」
「まア、ロッティったら!」アメリア嬢は金切声を上げました。「泣くのはやめてちょうだいね。いい子だから、泣かないでね。後生だから。」
「うわア、うわア、うわア」ロッティは嵐のように吠え立てました。「おおおおおかあちゃん――い――いないィ!」
「この子は、鞭打ってやる。」とミス・ミンチンは宣告しました。「鞭で打ってやる。我儘者め。」
ロッティは更に大きな声を立てました。ミンチン女史の声も
「あら、セエラさん。」と、女史はつくり笑いをしました。
「私あのロッティちゃんだと思いましたので、立ち止って居りましたの。――それに、私あの、きっと――きっと、あの子なら鎮めてさし上げられるだろうと思いまして、行ってみてあげてもよろしゅうございますか? 先生。」
「出来るならやって御覧なさい。あなたは利口だから」先生は口を尖らしましたが、セエラが自分の剣幕に、おどおどしているのを見ると、急に顔をやわらげていいそえました。「あなたは何でもお出来になるから、きっとあの子の世話も出来るでしょう。お入んなさい。」
ロッティは床に転って、ひいひいいいながら、小さな肥った脚で猛烈に蹴り立てていました。アメリア嬢は
「まア、可哀そうね、お母ちゃんのないことも知っててよ。可哀そうにねエ――」というかと思うと、今度は調子をがらりと変えて、「黙らないと振り廻してやるぞ! そら、そら、また!この根性曲りの憎まれっ子。
セエラは静かに二人のそばへ行きました。
「アメリアさん。」と、セエラは
アメリア嬢はふり返って、
「あなたにとめられるつもりなの?」とおぼつかなさそうに喘ぎました。
「出来るかどうか、判りませんけど、まアやってみますわ。」
アメリア嬢はほっと嘆息して、膝を立て直しました。ロッティはむくむくした脚を、またはげしく、じたばたやり出しました。
セエラはアメリア嬢を送り出すと、しばらく吠え立てるロッティのそばに、黙って立っていました。喚き声の他には何の音もしませんでした。ロッティにとってこんな事は初めてでした。涙の眼を開いて見ると、そこに立っているのはあのセエラでした。ロッティはセエラを
「わたい――お――お――おかあちゃんが――ないイ!」
「あたしだって、ないわ。」
思いがけないセエラの言葉に、ロッティはたちまちじたばたするのをやめて、寝たままセエラの方をじっと見はじめました。ロッティはまだ泣き足りない気持でしたが、やっと少し拗ね泣きが出来ただけでした。
「お母ちゃん、どこ?」
「お母様は天国へいらしったのよ。でも、きっと時々私達に逢いにいらっしゃるのだわ。私達の眼には見えないけど、あなたのお母様だって、きっとそうなのよ。お二人は今頃、私達を見ていらっしゃるかもしれないわ。お二人とも、きっとこの部屋にいらっしゃるのよ。」
ロッティはいきなりしゃんと坐って、あたりを見廻しました。彼女は美しい巻毛を持っていました。
セエラは、母のことをいろいろに話しつづけました。
「天国は花の咲いた野原ばかりなのよ。
セエラがどんな話をしたにしても、ロッティはきっと泣きやんで、うっとりと聞きとれたことでしょう。ましてこの話は、他のどんな話よりも美しいものでした。ロッティはセエラの方にすり寄って、一言々々に夢中になっているうち、いつの間にかもうおしまいになってしまいました。ロッティはあまりの残り惜しさに、またしても泣き出しそうな口の尖らせ方をしました。
「わたいも、そこへ行きたいわ。わたい――学校、お母ちゃんいないイ!」
セエラはロッティがまた泣き出しそうなのを知ると、自分の夢からさめて、ロッティのむっちりした手をとり、自分のそばへひきよせました。
「私、あなたのお母ちゃんになってあげてよ。あなたは私の娘、エミリイはあなたの妹よ。」
ロッティの泣顔に、えくぼが湧いて来ました。
「ほんと?」
「ええ」セエラは飛び起きました。「さ、行って、エミリイちゃんにも、[#「も、」は底本では「、も」]お姉さんが出来たって話してあげましょう。それから、あなたのお顔を洗って、髪を結ってあげるわ。」
ロッティはすっかり元気になって肯きました。彼女は今まで小一時間も騒いでいたのは、
その時以来、セエラは
セエラは贅沢な持物や、学校の『看板生徒』である事実によっても、たくさんの崇拝者を造りましたが、それにもまして人を惹きつけたのは、お話が上手だということでした。セエラが話すと、どんなくだらない事でも、立派なお話になってしまうのでした。ラヴィニアなどはセエラのその力を大変羨ましがっていましたが、多少の反感を持って近づいて行っても、セエラの話の
あなた方も学校で、皆が夢中になって、話の巧い人を取りかこむ所を見たことがあるでしょう。セエラはお話が巧いばかりでなく、彼女自身お話をするのが大好きでした。皆にとりまかれて自分でつくったお話をする時、セエラの緑色の眼は輝き、頬は紅をさすのでした。彼女は話しているうちに知らず識らず物語にふさわしい声色や身振を始めるのが常でした。セエラは少女達が耳を澄ましていることなど、いつの間かに忘れてしまいました。セエラの眼に見えるのは、お話の中の妖精達や、王様、女王様、美しい貴婦人達などなのでした。語り終った時、セエラは興奮のあまり息を切らしてしまうこともありました。そんな時、セエラはどきどきする胸に手を当て、自分を嘲笑うかのようにこういうのでした。
「私、お話をしていると、あなた方や、この教室よりも、話していることの方が、ずっとほんとらしく思えてくるのよ。私はお話の中の人になっているような気がするの、何だか変ね。」
セエラがミンチン先生の塾に入ってから、二年目の冬でした。ある薄霧の日の午後、セエラが厚い天鵞絨や毛皮にくるまって馬車から降りると、みすぼらしい小娘が、地下室の入口に立っていました。少女は首を長くして、一生懸命にセエラを見ていました。セエラはおどおどしている少女にふと目を惹かれました。眼が合うとセエラはいつものように、にっこり笑いました。
が少女の方は、有名なセエラを
少女はさっきよりはきちんとしていましたが、相変らずおどおどしていました。話を聞きに来たのだと思われてはならないとでも思っているらしく、音を立てないように手でそっと石炭を入れたり、
「人魚達は、真珠で編んだ綱を曳いて、青水晶のような水の中を静かに泳ぎ廻りました。お姫様は白い岩の上に坐って、それを見守っていらっしゃいました。」
それは、人魚の王子様に愛されたお姫様の面白いお話でした。姫は海の底の
少女は一度炉を掃き清めてしまうと、同じ事を二度も三度も繰り返しました。三度目の掃除が終ると、跪いていた
箒が少女の荒れた手からことりと落ちました。ラヴィニアは少女の方へ振り向きました。
「あの
とがめられた少女は、いきなり
それを見ると、セエラはむらむらして来ました。
「私、あの娘が聞いているのを知っていたのよ、なぜ聞いてちゃアいけないの?」
ラヴィニアは大気取りで頭を振り上げました。
「そりゃア、あなたのお母さんは、女中にお話をしてやってもいいと仰しゃるかもしれませんさ。だけど、私のお母さんは、そんなことしちゃアいけないと仰しゃってよ。」
「私のお母さんですって?」セエラは
「でも、あなたのママは、もうお亡くなりになったんでしょう。亡くなった方に、どうしてそんなことが解るの?」
「じゃア、ママにそれが解らないって[#「解らないって」は底本では「解ならいって」]仰しゃるの?」セエラは低い、きびしい声でいいました。すると、ロッティがそこへ口を出しました。
「セエラのママは、何でも知ってるのよ。あたいのママもよ。――ここでは、セエラがあたいのママだけど、もう一人のママには何でも解るのよ。往来はぴかぴか光っててどこもかしこも百合の原で、皆百合を摘んでるの。いつだったか、あたいが寝る時、セエラちゃんが話してくれたわ。」
「まア悪い人。」ラヴィニアは、セエラの方に向き直っていいました。「天国のことを、お伽噺にして話すなんて。」
「でも、聖書の
セエラはロッティと伴れ立って歩いて行く間も、そこらを見廻してみましたが、あの小娘はどこにも姿を見せませんでした。
その晩、セエラは女中のマリエットに、
「あの火をおこしに来る子は、何ていうの?」
と訊ねてみました。マリエットは、その子についていろいろのことを話してくれました。
いかにも、セエラの嬢様のお訊きになりそうなことだと、マリエットは思いました。あの寂しそうな小娘は、ついこの間日働きに雇われたばかりなのでしたが、台所に限らず、どこにでも追い使われているのでした。靴や金具を磨かされたり、重い石炭函の上げ下しをさせられたり、床や窓の雑巾がけをさせられたり。――身体の発育が悪いので、十四なのに十二くらいにしか見えませんでした。マリエットも、少女が可哀そうでならないと思っているところでした。ひどく内気で、人から物をいいかけられたりすると、眼が顔から飛び出しそうに怯えるのでした。
セエラはテエブルに
「何て名前なの?」とまた訊ねました。
名前はベッキイでした。マリエットは台所で、五分と間をおかず、「ベッキイ、これをおし。」とか「ベッキイ、あれをおし。」とかいう声を聞くのでした。
セエラは一人になってからしばらくの間、炉の火を見つめながら、ベッキイの事ばかり考えていました。いつかセエラは、ベッキイを可哀そうな物語の女主人公にしていました。あの娘は食物さえお腹一杯はあてがわれていないのに違いないと、セエラは思いました。
それから二三週間経った頃でした。やはり薄霧のかかった午後でした。居間に帰ってきたセエラは、自分の安楽椅子の中に、ぐっすり眠りこんでいるベッキイを見付けました。ベッキイの鼻の先や、前掛のそこここには、炭がついていました。見すぼらしい帽子は落ちかけていました。
ベッキイはその午後、生徒達の寝室を片付けるようにいいつけられたのでした。彼女はお姫様の部屋のように美しいセエラの部屋は、一番おしまいに片付けることにしました。寝室はかなりたくさんあったので、それを片付け終って、セエラの部屋に来た時には、小さな足も痛むばかりでした。で、暖かな炉のそばに腰を下すと、汚れた顔にものうげな微笑を湛えたまま、つい快い眠りにおちてしまったのでした。
ベッキイが足の痛くなるほど働き廻っていた間、セエラは
「まア。」セエラは思わず小さい声でいいました。「可哀そうに!」
セエラは、大事な椅子に薄汚い子が掛けているのを見ても、腹を立てるどころか、かえってベッキイに逢えてよかったと思いました。ここに眠っているのは、セエラの作ったお話の主人公で、彼女が眼を覚しさえすれば、セエラはその主人公のお話をすることも出来るのです。セエラは、そっとベッキイの方に歩みよりました。ベッキイは微かにいびきをかいていました。
「自然に眼を覚してくれればいいが。」とセエラは思いました。「そっと眠らしといてあげたいけど、ミンチン先生に見つかりでもすると、きっと叱られるから、可哀そうだわ。もうちっとの間、そっとしといてあげましょう。」
セエラはテエブルの端に腰かけて、細い脚をぶらぶらさせながら、どうするのが一番いいかと、思いまどいました。今にもアメリア嬢が入って来ないとも限りません。そうすれば、ベッキイはきっと叱られるに違いありません。
「でも、とても疲れているのね。」
セエラがそう思ったとたん、
ベッキイは躍り上って、落ちかけた帽子を掴みました。私はとうとう罰を受けるようなことをしでかしてしまった。しゃあしゃあとこの小さい貴婦人の椅子の中で眠ったりして、きっと私はお給金ももらえずに、
ベッキイは息もつまるばかりに、
「お嬢様、お嬢様! か、かんにんして下さいまし、どうか、かんにんして下さいまし。」
セエラは椅子から飛び降りて、ベッキイのそばへ行きました。
「何にも怖いことはないのよ。」セエラは自分と同じ身分の娘にでもいうようにいいました。「ここでは、眠ったってちっともかまわないのよ。」
「私は、眠るつもりなんかちっともなかったのでございますよ、お嬢様。ただこの火があんまりほかほかといい気持なので――それに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」
セエラはふと親しげに笑って、ベッキイの肩に手をかけました。
「あなた疲れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」
ベッキイはたまげたようにセエラを見返しました。ベッキイは今までこんなやさしい情の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳を打たれたりばかりしているベッキイでした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキイを見ているのです。そして、ベッキイは疲れるのがあたりまえだ――居眠りするのさえあたりまえだ、というような眼でベッキイを見ているのです。セエラはその細い柔かな手先を、ベッキイの肩にのせています。そんなことをされる気持もベッキイは、まだ
「あの、あの、お嬢様。怒ってらっしゃるのじゃアございませんの? 先生達にいいつけたりなさりゃアしません?」
「いいえ、そんなことするものですか。」
汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セエラは見ていられないほど気の毒になりました。
「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃアありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわば
ベッキイには、セエラのそういう意味がちっとも解りませんでした。ベッキイが『アクシデント』だと思っているのは、人が車に
「もう御用すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」
「ここにですって? お嬢様、あの私が?」
「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上らない?」
それから十分ほどの間、ベッキイはまるで熱に浮かされたようでした。セエラは戸棚から厚く切ったお菓子を
「あの、そのお召ね? ――それ、お嬢様の一番いいお着物?」
「まだこんな
ベッキイは感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないような風でしたが、やがてびくびくした声でいいました。
「私いつか、
セエラは一人ごとのようにいいました。
「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私も
ベッキイは眼をお皿のようにして、セエラに見とれていました。が、相変らず、セエラが何をいっているのだか判りませんでした。セエラは、じき我にかえって、ベッキイに問いかけました。
「ベッキイ、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」
「聞いてました。」ベッキイはちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃアいけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私――聞くまいと思っても、聞かずにいられなかったの。」
「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」
「私にも聞かして下さるって? あのお嬢様がたのように? 王子様のことや、白い人魚の子のことや、お星様の飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」
「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃアない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話してあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことを入れるのよ。」
セエラの部屋を出たベッキイは、今までの可哀そうなベッキイではなくなりました。彼女のポケットには、余分にもらったお菓子がありました。いかにも満腹そうです。そして暖かそうでした。彼女のお腹を
ベッキイが出て行ったあと、セエラは、テエブルの端に腰を下し、椅子の上に脚をのせ、脚に肱をついて、それに顎をのせました。
「もし、私がほんとうの
セエラがベッキイと近づきになってからしばらくの後、心を
セエラはそのことで夢中になりました。で、アアミンガアドやロッティに説明するため、地の底の迷園のような道を描いて見せたりしました。その穴道の中では、黒ん坊が、そこら中に光っている宝石を掘り出しているのでした。
ラヴィニアは、その話をせせら笑って、ジェッシイにいいました。
「私のお母さんは、四百円もするダイヤモンドを持ってるのよ。でも、それだってそんな大きい石じゃアないのよ。それなのに、ダイヤモンドの山なんか持ってる人があるとすれば、お金がありすぎて莫迦げて見えるわ。」
「セエラさんは、莫迦げたほどのお金持になるのかもしれないわね。」
「あの子は、お金があったって、なくたって、莫迦げた子じゃアないの。」
「あなた、セエラが嫌いらしいのね。」
「嫌いじゃアないわ。でも、ダイヤモンドの鉱山があるなんて、私信じられないわ。」
「山がないとすると、ダイヤモンドはどこから
「知らないわ。セエラのことなら、もう聞かないでもいいことよ。」
「ところが、やっぱりセエラのことなのよ。あの人、この頃
「あの子は、ほんとに肥っちょね。そして、セエラは
ジェッシイは吹き出しました。
「セエラは、そのつもりになるためには、顔とか持物とかは、どんなでもかまわないっていうのよ。何を考え、何をするかということが、かんじんなんですって。」
「きっとあの人は、自分が
「ほら、セエラが来た。またあのいやな子を伴れて。」ラヴィニアは小声でいいました。「そんなに可愛いなら、自分の部屋の中に飼っとけばいいじゃないの。いまにまたきっと吠え出すことよ。」
ロッティは果して、何程もたたないうちに吠え出しました。セエラはその時、窓のそばでフランス革命の本を、夢中になって読んでいたのでした。で、ロッティの喚き声を聞いて、夢から覚まされた時には、さすがにいやな気持がしました。本の好きな人は、誰でもそうでしょうが、セエラは読書の邪魔をされると、妙に腹が立ってならない性質でした。その気持をセエラはいつかアアミンガアドにないしょで話したことがありました。
「そんな時には、誰かに
ロッティははじめ教室の床の上を
「たった今お黙り、泣虫坊主! 早く黙らないか!」と、ラヴィニアがいいました。
「わたい、泣虫じゃない、泣虫じゃアない。セエラちゃアん、セエラちゃアん。」と、ロッティは金切声で喚きました。
ジェッシイは、ミンチン先生に聞えると大変だといって、ロッティに、
「五銭玉をあげるから、お黙んなさいね。」といいました。
「五銭玉なんか、欲しかアない!」
そこへ、セエラが本を棄てて飛び出てきたのでした。
「ほうら、ロッティちゃん。セエラに約束したのを忘れたの?」
「あの人が、わたいを泣虫っていったんだい。」
「でも泣けば、泣虫になるわ。いい子のロッティちゃん、あなたは泣かないってお約束したんじゃアないの。」
ロッティはその約束は思い出しましたが、それでも泣声をあげるばかりでした。
「わたい、お母ちゃんがないイ。わたい、お母ちゃん、これんばかしも、ないイ!」
「いいえ、ありますとも。」と、セエラはにこにこしながらいいました。「もう忘れたの? セエラがあなたのママだってことを忘れたの? お母ちゃんのセエラは、もう要らないの?」
ロッティはやっと少し笑顔になって、セエラに縋りつきました。
「さ、一緒に窓の所に坐りましょう。そして、小さい声であなただけにお話してあげましょう。」
「ほんとにしてくれる? あの、ダイヤモンドのお山のお話、してくれる?」
それを聞くと、ラヴィニアは、
「ダイヤモンドの山ですとさ。」と口を出しました。「私、あの意地悪の駄々っ子を、打ってやりたいわ。」
セエラはいきなり立ち上りました。セエラとても
「あなたをこそ打ってあげたいわ。だけど、私あなたを打つのなんかいやだわ。打ってやりたいけど、打つのはよすわ。あなただって、私だって、もう物が解ってもいい年頃なんですものね。」
ラヴィニアは、えたりとそこへつけこみました。
「さようでございますよ、殿下。私共は
宮様のつもりになる事は、セエラにとって、たくさんのつもりの中で、一番大切なものでした。大切なだけ、人に知られたくないつもりでした。それを、ラヴィニアは今、ほとんど学校中の生徒の前で、嘲ったのでした。セエラは顔がほてり、耳が鳴るのを覚えました。彼女は今にもラヴィニアを打ちそうでしたが、セエラはやっとのことで怒を
今までにもよくそんな事がありましたが、ラヴィニアはセエラに何と答えていいかわかりませんでした。というのは、
ラヴィニアはやっと一言、いうべきことを考え出しました。が、それも奇抜なものではありませんでした。
「あああ、じゃア、あなたが玉座に上る時には、私達のこともお忘れにならないでね。」
「忘れるものですか。」
セエラはそれだけいうと、ラヴィニアがジェッシイと腕を組んで出て行くのを、黙って見ていました。
それ以来、セエラを
ベッキイは、セエラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものはないと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セエラと親しくなるばかりでした。セエラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰る時、ベッキイはいいました。
「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢様。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、
「鼠が?」セエラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」
「どっさりいますよ、お嬢様。」ベッキイは平気でした。「大鼠や、
「あら。」
「何だって少し慣れれば平気になるのよ。
「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲よくなれないと思うわ。」
時とすると、ベッキイはセエラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セエラはちょっと話して、それからベッキイのポケットに何かを入れてやるのが常でした。セエラはよくベッキイに与えるために、
「まアお嬢様、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって――お嬢様なんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」
そのほかベッキイの気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻パン、ボロニア
セエラが十一歳のお誕生日を迎える二三週間前、印度の父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セエラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事が
「セエラよ、お父さんは、知っての通り事務家ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き廻っている。やっと寝ついたかと思うと、いやな夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」
セエラはませた様子をしていたので、父はよく
父はセエラの誕生日のため、パリイに新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセエラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセエラの返事は、なかなかふるったものでした。
「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、何だかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の詩でも作りたいのですが、でも、私には詩は書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリイの代りにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方達は、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方達だって、好きでないわけはないのです。」
印度のバンガロウにこの手紙の着いた時、クルウ大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむと、幾十日目かで思わず笑い出しました。
「あの子は一年ごとに面白くなってくる。神様、どうかこの仕事がひとりでに片付いて、私が自由にあの子の所へ飛んで行けるようにして下さい。たった今、あの子の腕が私の首にまきついてくるとしたら、そのためには何でもあげる。どんなものでもあげる。」
セエラのお誕生日は、大げさに祝われることになりました。贈物の函は、飾った教室で、皆の目の前で開けられ、その後で、ミンチン先生のお部屋で
その朝、セエラが居間に入って行くと、テエブルの上に、褐色の紙に包んだ、小さなふくれ上ったものが置いてありました。誰から贈られたのだか、セエラにはたいていわかっていました。そっとといてみると、中は針さしでした。あまり美しくもない赤フランネルに、黒いピンが『お
「一生懸命こしらえてくれたのだわ。あんまりうれしくて、何だか悲しいような気がするわ。」
が、針さしの下に着けてある名刺を読んだ時には、セエラは何だか狐につままれたような気がしました。名刺にはきれいな文字で、『ミス・アメリア・ミンチン』と書いてありました。
「アメリアさんですって? そんなはずはないわ。」
セエラが名刺を見ながら、そういっているところへ、
「それ、お気に入って? お嬢様。」
「気に入らないはずがあるものですか。ベッキイさん、あなた何から何まで自分で作って下すったのね。」
ベッキイは
「フランネルの古切なんですけどね、お嬢様に何かさし上げたいと思って、幾晩も幾晩もかかってこさえたんですの。お嬢様はきっとそれを、
セエラはベッキイに飛びついて、ひしと彼女を抱きしめました。なぜか、妙に喉のつまる気がしました。
「ベッキイちゃん。」セエラは一種変った笑い方をしました。「私、ベッキイちゃんが大好きよ。それはそれは好き!」
「まアお嬢様。もったいないわ、お嬢様。そんなにしていただくような贈物でもないのに。あの、――あのフランネルは古物だし。」
お誕生日の午後、セエラは着飾ったミンチン先生に手を引かれ、先頭に立って、柊で飾られた教室に入って行きました。セエラのうしろには、『最後の人形』の箱を持った
セエラはほんとうは、そんな
「皆さん、静かになさい。」と一応注意してから、
「ジェームス、その箱をテエブルの上に置いて、蓋をお開けなさい。エムマ、お前のは椅子の上にお置きなさい。それから、ベッキイ!」と急にきびしい口調でいいました。ベッキイはちょうどロッティと眼を見合せながら、にやにやしているところでしたので、ミンチン先生の尖った声を聞くと、びっくりして一種滑稽なお辞儀をしました。それを見ると、ラヴィニアやジェッシイはくすくす笑い出しました。
「
僕と女中が退いてしまうと、ベッキイは思わずテエブルの上の箱の方へ首を伸しました。青繻子で出来た何かが、薄い包紙の皺の間に、透いて見えました。
「あの、ミンチン先生。」とセエラは突然いいました。「ベッキイさんだけは、もうちょっとの間、ここにいてもいいでございましょう?」
「ベッキイなんかを、どうしてここに置くのです。」
「でも、あの娘だって贈物を見たいでしょうから。あの娘だって、私達と同じ小さい女の子なのですもの。」
「まア、セエラさん、ベッキイは下女ですよ。下女なんて――あなた方のようなお嬢さんとは身分が違います。」
ミンチン女史は、今までに一度も、ベッキイをセエラ達と比べて考えてみた事はありませんでした。女史の考えに従えば、小使娘などというものは、石炭を運んだり、火をおこしたりする機械でしかなかったのでした。
「でも私、ベッキイだって、私と同じ女の子だと思います。今日は私のお誕生日ですから、私のお願いをかなえて、あの娘をよろこばしてやって下さいませんか。」
「じゃア、今日は特別に許してあげましょう。レベカ、お前セエラさんにお礼を仰しゃい。」
この話の間、ベッキイは、部屋の片隅にしりごみしながら、前掛の
「ほんとに、どうも、お嬢様。もううれしくって、私はお人形が見たくてたまらなかったの。ありがとうございます。それから、先生、ありがとうございます。」
「あっちの隅に立ってお出で。」ミンチン先生は出口の方をさしていいました。
「あんまり皆さんのそばに寄っちゃアいけないよ。」
ベッキイはにやにや笑いながらその隅へ退きました。どんな隅にでも居残ることを許されたのは、台所で胸をわくわくさせているより、どんなにいいかしれませんでした。ミンチン先生はやがて一ツ咳払いをして、そうしていいました。
「皆さんがたにちょっと申し上げておきたいことがあります。御存じの通り、セエラさんは今日十一歳になられました。」
「ひいきのセエラ嬢だ。」と、ラヴィニアがそっと囁きました。
「あなたがたの中にも、もう十一になられた方が五六人はあるでしょう。が、セエラさんのお誕生日は、それらの方々のお誕生日とは、少し意味が違います。というのは、セエラさんはもう少し大きくなると、非常な財産を相続なさるからです。その時が来たら、セエラさんは、世の中のためになるように、そのお金を使わなければならないと思います。」
「ダイヤモンド鉱山のことか。」とジェッシイは小声でいって、忍び笑いをしました。
セエラは先生のいうことを聞いていたわけではありませんでしたが、青鼠色の眼でじっと先生を見ていると、何となくくわっとして来るのを覚えました。先生がお金のことを話していると知ると、私はあの先生が好きだったためしはないというような気持になりました。子供のくせに、大人を憎むなんて、生意気なことだとは解っていましたが。――
ミンチン女史は訓話を続けました。
「クルウ大尉が、セエラさんを印度から伴れて来て、私に預けた時、大尉は
皆は、いつかセエラが初めて来た時のように、いっせいに立ち上って、
「セエラさん、ありがとう。」といいました。ロッティなどは、いいながら高く飛び上ったほどでした。セエラは
「皆さん、ようこそお出で下さいました。」
「セエラさん、よく出来ました。」とミンチン先生は褒めました。「まるで
先生の
「これは、きっと本よ。」
すると、アアミンガアドは
「あなたのパパも、お誕生日に本を下さるの? 私のパパとちっとも違わないのね。そんなもの開けるのおよしなさいよ。」
「でも、私は本が大好きなのよ。」
『最後の人形』は実に見事なものでした。少女達はそれを見ると、声をあげ、息もつまるほど喜びました。
「ロッティと大してちがわないくらいね。」
いわれてロッティは手を叩き、笑いこけながら踊り廻りました。
「まるでお芝居にでも行くように盛装しているのね。」と、ラヴィニアまでいいました。「外套には貂の毛皮がついているわ。」
「あら、オペラ・グラスまで持っててよ。」とアアミンガアドは前へ出てきました。
「トランクもあるわ。開けてみましょうよ。」
セエラは床に坐って、トランクの鍵を外しました。
セエラは無心にほほえんでいる人形に、大型の
「ことによると、このお人形には私達のいっていることが解るのかもしれないわね。皆さんにほめられて、得意になっているのかもしれないわね。」
すると、ラヴィニアは大人ぶっていいました。
「あなたは、いつもありもせぬことばかり考えているのね。」
「そりゃアそうよ。私空想ほど面白いものはないと思うわ。空想はまるで妖精のようなものよ。何かを一生懸命に空想していると、ほんとうにその通りになってくるような気がするものよ。」
「あなたは何でも持っているから、何を空想しようと御勝手よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね。」
「私きっと出来ると思うわ。乞食だって空想したり、つもりになったり出来ないことはないと思うわ。でも、辛いことは、辛いでしょうねえ。」
そのとたんに、アメリア嬢が入って来ました。セエラはあとで思い返して、ほんとうに不思議なとたんだったとよく思いました。
「セエラさん、あなたのお父様の代理人のバアロウさんがいらしって、ミンチン先生とお二人きりで御相談なさらねばならないことがあるそうですから、あなたがたは客間に行って、御馳走を食べてらっしゃい。その間に姉は、この教室でバアロウさんとお話を済ますでしょうから。」
御馳走と聞いて、皆は眼を光らせました。アメリア嬢は皆を並ばせ、セエラを先頭に立てて、客間の方へ出て行きました。あとには、あの『最後の人形』だけが、
ベッキイだけは、御馳走をいただくことも出来ないと思いましたので、悪いこととは知りながら、ちょっとあとに残って、美しい人形や、衣裳を眺め廻しておりました。ちょうどベッキイがそっとマフを摘み上げ、それから外套を手に取って見ている時でした。ベッキイはミンチン女史の声が、戸のすぐ外にするのを聞き、震え上って、テエブルの下に身を隠しました。
ミンチン女史は、骨張った体つきの、小柄な紳士を伴れて入ってきました。紳士は何か落ちつかない風でした。ミンチン先生も確かに落ちついていたとはいえません。彼女はいらいらした顔つきで、この小柄な紳士を見つめました。
「バアロウさん、どうかお掛け下さい。」
バアロウ氏は、すぐには腰を下しませんでした。氏は、そこらに散らばっている人形や、人形の小道具に眼を惹かれているようでした。彼は眼鏡をかけ直し、何か咎めだてるように、それらのものを見詰めました。『最後の人形』は、そんなことは、一向無頓着に、ただ
「千円はするだろうな。皆高価な材料で出来ているし、しかもパリイ製だからな。あの若僧は、めちゃくちゃに金を使っていたとみえるな。」
ミンチン女史はむかむかとしました。バアロウ氏は、いくら代理人でも、クルウ大尉のすることに、さし出がましいことをいう権利はないはずです。ミンチン女史は、セエラとセエラの学校のために、惜しげなくお金を出してくれる、大事なクルウ大尉のことを、悪くいわれたくなかったのでした。
「バアロウさん、失礼ですが、どうして、そんなことを仰しゃるのですか。」
「十一になる子供の誕生祝いに、こんなものを贈るなんて、まったく気違いじみているじゃアありませんか。」
「しかし、クルウ大尉は財産家でいらっしゃるじゃアありませんか。ダイヤモンド鉱山だけでも――」
バアロウ氏は、くるりと女史の方へ向き直りました。
「ダイヤモンド鉱山なんて、そんなもの、あるものですか。そんなものは、あったためしもない。」
ミンチン女史は、たちまち椅子から立ち上りました。
「え? 何と仰しゃいます?」
バアロウ氏は、意地悪く答えました。
「とにかく、そんなものは、なかった方がよかったくらいです。」
「なかった方がよかったって?」
ミンチン女史は、椅子の背をしかと掴んで叫びました。何か素敵な夢が消えて行くような気がしました。
「ダイヤモンド鉱山などというものは、富よりも破産を意味する場合が多いものです。事業に明るくない人が、親友の手の
今度は、ミンチン女史が皆までいわせませんでした。
「死んだ大尉ですって? まさか、あなたはクルウ大尉が――」
「大尉は亡くなられました。事業が面白くないところへ、マラリヤ熱に襲われて亡くなられたのです。」
ミンチン女史は、どかりと腰を落しました。女史はぼんやりしてしまいました。
「面白くなかったと申すのは?」
「ダイヤモンド鉱山がです。大尉はその親友のためにも、破産のためにも、悩まれたようですな。」
「破産ですって?」
「一文なしになられたのです。大尉は若いくせに金がありすぎるくらいだったのでしたが、その親友がダイヤモンド鉱山に夢中になって、大尉の金まですっかりその事業に注ぎこんでしまったのでした。親友が逃げたと聞いた時には、大尉はもう熱病にとりつかれていました。おそろしい打撃だったに違いありません。大尉は
ミンチン先生は、それでやっと事情をのみこむことが出来ました。こんなひどい目にあったのは初めてでした。お自慢の生徒と、お自慢の出資者が、一度に模範学校から、
「じゃア、あなたは、大尉が一文も残さずに死んだと仰しゃるのですね。つまり、セエラには財産がない。あの娘は乞食だ。お金持になるどころか、食いつぶしとして、私の手に残されたのだと仰しゃるのですね。」
バアロウ氏は、抜目のない事務家でしたので、もうここらで自分の責任を果してしまった方がいいと思いました。
「乞食として残されたに違いありません。またあなたの手に残されたのにも違いございません。他に身よりというものはないようですからな。」
ミンチン女史は急に歩き出しました。女史は今にも部屋から飛び出して、今たけなわな
「莫迦にしている。あの子は今私の部屋で、私のお金で、御馳走をしているのだ。」
「そりゃアその通りですな。」バアロウ氏は平気でいいました。「我々代理人は、もう何の支払いも出来ませんからな。クルウ大尉は、我々への支払いもせずに死んでしまいました。それも、かなりな額だったのです。」
ミンチン女史は、ますます不機嫌になって、ふり返りました。こんな災難がふりかかろうとは、今の今までは、夢にも思わないことでした。
「私は、あの娘のために、どんなにお金を使ったって、きっと払ってくれることを、信じきっていたのです。あの莫迦々々しい人形の代も、衣裳の代も、皆この私が立てかえておいたのです。あの子のためなら、何でも買ってやってくれ、といわれていたのですからね。あの子は馬車も持っているし、小馬も持っているし、女中もつけてある。この前の送金があってからこっちは、私がみんなその費用を立てかえているのですよ。」
バアロウ氏は、それ以上ミンチン女史の愚痴話を聞こうとしませんでした。
「これ以上は、もうお支払いなさらんがいいでしょう。あの御令嬢に贈物をなさる思召しなら別ですがな。」
「ですが、私は、この際どうしたらいいのでしょう。」
女史は、バアロウ氏に処置をつけてもらうのがあたりまえだというように、訊ねました。
「どうするも、こうするもないですな。」バアロウ氏は眼鏡をたたんで、ポケットに入れました。「クルウ大尉は死んでしまったと。子供は食いつぶしになってしまったと。あの娘について責任のあるものがあるとすれば、あなたぐらいなものですな。」
「何で、私に責任があると仰しゃるのです。そんな責任は、断然おことわりします。」
ミンチン女史は、立腹のあまり蒼白くなりました。バアロウ氏は立ちかけて、気のない声でいいました。
「あなたが、責任をお持ちになろうと、お持ちになるまいと、私はこの際どうすることも出来ません。こんなことになって、お気の毒とは存じておりますが。」
「それで、私にあの娘をおしつけたおつもりなら、大間違いですよ。私は泥棒にあったのだ、
バアロウ氏は、平然と戸口に立っていいました。
「私なら、そんなことはしませんな。世間の眼によく見えるはずはありませんからね。この学校に関して悪い評判がたつばかりでしょうからね。それよりもいっそ、あの子を養っておいて、役に立てたらいかがです。なかなか利口な子だから、大きくなりさえすれば、あの子からうんとしぼれますぞ。」
「大きくならないうちにだって、うんとしぼりとってやるから。」
「確かにしぼれるでしょう。では、さようなら。」
バアロウ氏は、皮肉に笑ってお辞儀をしながら、戸を閉めて去りました。ミンチン女史は、しばらく突っ立ったまま、閉された戸を睨んでおりました。男のいったことはほんとうだと、彼女は思いました。もうどうすることも出来ないのです。今まで一番大事な生徒だったセエラは、いきなり乞食娘になってしまったのです。今までセエラのために立てかえたお金は、もう戻してもらう
ふと、宴会場にあてたミンチン女史の部屋から、わっという歓声が聞えて来ました。この宴会だけでも中止して、そのために使ったお金を取り戻そうと、女史は思いました。が、女史がその方へ立ちかけたとたんに、アメリア嬢が戸を開けて入って来ました。アメリア嬢は姉のただならぬ様子を見ると、思わずあとじさりしました。
「姉さん、どうしたの?」
姉は、
「セエラ・クルウはどこにいる?」
「セエラ? セエラは子供達と一緒に、姉さんのお部屋にいるのにきまってますわ。」
「あの子は、黒い服を持ってるかい?」
「え? 黒い服?」
「たいていの色の服は持ってるようだけど、黒いのはあったかしら、というんだよ。」
アメリア嬢は[#「アメリア嬢は」は底本では「サメリア嬢は」]
「黒いのはないでしょう。あ、あるわ。でも、あれはもう丈が短すぎるわ。古い黒天鵞絨の服で、あの子が小さい時着ていたのですわ。」
「あの子にそういっておくれ、早くその大それた桃色の服を脱いで、短くても何でも、その黒い服を着ろって。いい着物どころの騒ぎじゃアないんだから。」
「まア姉さん、何事が起きたの?」
「クルウ大尉が死んだのさ。一文なしで死んじゃったのだよ。あの気まぐれな我儘娘は、私の居候になったわけさ。」
アメリア嬢は、手近の椅子にどかりと腰を下しました。
「莫迦々々しい。私はあの子のために何千円ってお金を使ってしまったんだよ。もう一銭だって返しちゃアもらえないんだ。だから、早くあいつのお誕生祝いなんか止めてしまわなければ。すぐ着物をきかえろっていっておくれ。」
「あの、あたし、もう少したってからじゃアいけません?」
「たった今行って話せといってるんだよ。何だい、鵞鳥みたいな眼つきをしてさ。早くおいでったら。」
アメリア嬢は、鵞鳥と呼ばれることには慣れきっていました。鵞鳥みたいな人間だからこそ、いやなことばかりいいつけられるのだと、自分でも思っていたくらいでした。でも、子供達のよろこんでいる
アメリア嬢は眼の赤くなるほど、
「ふん、セエラ女王殿下か。あいつは、まるで
そういいながら、女史は腹立たしげに、部屋の隅にあるテエブルの
「どうしたというんだろう。」
すすり泣く声がまた聞えたので、女史は身をかがめて、テエブル掛を捲り上げました。
「こんなところで、立ち聞きしていたな。さっさと出ておいで。」
這い出してきたのはベッキイでした。ベッキイは泣き声を出すまいと
「あのう、御免下さい。私悪いとは思ったのですけれど。でも、私、お人形を見ていたんですの。そこへ、奥様が入っていらしったので、私
「じゃアお前は、そこで
「いいえ、奥様。立ち聞きするつもりなんぞありゃアしません。見つからずに逃げ出せるものなら、逃げ出そうと思ったのですけど、とても駄目だと思いましたから、仕方なしに、ここに隠れていたんです。立ち聞きなんてするつもり、ちっともなかったんですけど、でも、聞えたんだから仕方ありません。」
ベッキイは、おそろしい奥様が目の前にいるということも忘れたかのように、わっと泣き出しました。
「お、お、奥様。わたし叱られると知っても申さずにはいられません。わたし、あのセエラ様がお可哀そうで、お可哀そうで――」
「出て行きなさい。」
「ええ、まいります。でも、ちょっとわたし奥様に伺いたいことがあるんでございますの。セエラ様は、あんなに御不自由なく暮しておいでだったのに、これから、女中なしではどうすることも出来ないでしょう。ですから、もしなんでしたら、わたしにお勝手の御用がすんだ後で、あの方の御用をしてあげさせて下さいませんか。出来るだけ早く片付けますから。」ベッキイは更にすすりあげながら、「奥様、セエラ様は、お可哀そうでございますわね。
ミンチン先生はベッキイにこういわれて、なぜかよけいに腹を立てました、小使娘の分際で、セエラの肩を持つなんて
「あの子の用をしてやることなんて、断じて許さないよ。あの子には自分の用はもちろん、ほかの人の用までさせなければならないのだから。」
ベッキイは前掛で顔を隠しながら、逃げて行きました。
「まるで、何かのお話の中のようだわ。あの辛い世の中に追い出される不幸な
* * *
* * *
それから二三時間たつと、セエラはミンチン先生の所に呼び迎えられました。その時の先生は、今までにないほど冷かな、無情な顔をしていました。
もうその時セエラには、あのお誕生日の宴会は夢としか――あるいはずっと昔生きていた、誰か別の少女の生涯に起ったこととしか、思えませんでした。
その間に教室や、先生の居間はすっかりいつものように片付けられてしまいました。先生はじめ生徒達は、
ミンチン女史が妹に、セエラを呼んで来いといった時、アメリア嬢はこういいました。
「お姉さん、あの子はずいぶん変ってる子ね。この前クルウ大尉が印度へ発った時もそうでしたが、今度も私が事の次第をいってきかすと、あの子はただ黙って、私の顔を見つめているんですの。あの子の眼は見る見る大きくなって、そして顔色は真蒼になって来ました。そうしてちょっとの間立ったままでしたが、わなわなと顎がふるえ出したと思ったら、ふいにくるりとうしろを向いて、部屋を飛び出して行ってしまいました。ほかの子達がかえって泣き出しましたけれども、セエラは子供達の泣声になどは耳も
セエラが、二階の部屋の中で何をしていたか、セエラ以外には誰にもわかりませんでした。セエラ自身も、その時はほとんど夢中でした。ただ彼女は、しきりに部屋の中を歩き廻って、「お父様はおなくなりになったのよ。お父様はおなくなりになったのよ。」と、自分にいい聞かしていたのは憶えています。そういう声も自分の声とは思えないほどでしたが、一度などは椅子の上からじっとセエラを見守っているエミリイの前に立って、狂わしそうにいいました。
「エミリイちゃん、お前わかって? パパがおなくなりになったの、わかって? パパはね、遠い遠い印度で、おなくなりになったのよ。」
セエラが呼ばれてミンチン先生の部屋に来た時、彼女の顔は蒼白く、眼のまわりには黒いくまが出来ていました。セエラは、今まで苦しみぬいたこと、いまだに悲しくてならないことを、人に見破られるのがいやなので、きっと口をしめて我慢していました。さっきの薔薇色の
セエラはマリエットの助けも借りず、古い天鵞絨の服を着て来たのでした。その服はもう小さすぎるので、短い裾の下に出たセエラの細い脚が、よけいに細く長く見えました。黒いリボンがなかったので、短い黒髪が蒼ざめた頬に乱れ落ち、頬の色をよけい蒼白く見せていました。セエラはエミリイをひしと抱いていました。エミリイも何か黒いものを着ていました。ミンチン先生はすぐそれを見とがめていいました。
「人形なんか、下にお置きなさい。何のために人形なんか持ってきたのです?」
「下に置くのなんかいやです。このお人形だけは私のものです。お父様が私に下すったのですから。」
ミンチン先生はセエラに何かいわれると、いつも妙にいらいらして来るのでしたが、今もこうきっぱりいわれると、何か御しがたいような気がして、落ち着いていられませんでした。殊に今日は、
「もうこれからは、人形どころのさわぎじゃアないのだよ。お前は働かなければ――悪い所を直して、役に立つような人間にならなければならないんだよ。」
セエラは、大きな眼でミンチン女史を見つめたまま、一言も口をきかずに立っていました。
「もう、アメリアさんから聞いて知っているだろうが、何もかも、今まで通りだと思ったら大間違いだよ。」
「よくわかっています。」
「お前は乞食なんだ。身よりはないし、世話をしてくれる人なんて、一人もないのだからね。」
セエラはちょっと痩せた小さい顔を
「何をそうじろじろ見てるんだよ。乞食になったってことがわからないほど、莫迦でもあるまいにね。もう一度いってきかしてあげようか。お前はみなし子で、私がお慈悲で置いてやらない限りは、誰もかまってくれるものはないのだよ。」
「わかってます。」
セエラは低い声でいいました。何か喉に詰っているものを呑みこもうとしているようでした。ミンチン先生は、すぐそこに置きすてられてあったお誕生祝いのお人形を指していいました。
「その人形も――その莫迦々々しい人形のお金を払ったのも、私なんだ。」
セエラは椅子の方に顔を向けて、「最後の人形、最後の人形」と、思わず口の中でいいました。
「最後の人形だって? まったくだよ、この人形は私のものだ。お前の持ってるものは、何もかも私のものなのだよ。」
「じゃア、どうか、そのお人形を持ってらしって下さい。私、そんなもの要りません。」
セエラが喚いたり怯えたりしたら、ミンチン女史はセエラをもう少しは
「勿体ぶった様子なんかおしでないよ。もう、お前は
意外にも、セエラの眼には、ふと輝きが――救いのかげが浮んで来ました。
「働かして下さいますの? 働けさえすりゃア、何もそう悲しかアありませんわ。何をさして下さいますの?」
「何でも、いいつけられたことをするんだよ。お前はよく気のつく子だから、役に立つように心がけるのなら、ここに置いてあげてもいいと思うのだよ。フランス語もよく出来るのだから、小さい人達のおさらいもしてあげられるだろう。」
「おさらい、させて下さいます? 私、フランス語なら教えられると思いますわ。小さい人達は私を好いて下さるし、私も小さい人達が好きですから。」
「人が好いてくれるなんて、莫迦なことをおいいでない。小さい人達のおさらいをするほか、お前はお使いに行ったり、お台所の手伝いをしたりしなければならないのだよ。私の気に入らないことでもあったら、すぐ逐い出してしまうから、そのつもりでおいで。じゃア、向うへおいで。」
そういわれても、セエラはまだちょっとの間、ミンチン先生を見つめていました。幼い心の中で、セエラはいろいろのことを考えていたのでした。やっと立ち去ろうとしますと、
「お待ち!」と先生はいいました。「私に、ありがとうございます、という気はないのかい?」
「何のために?」
「私の親切に対してさ。お前に
セエラは小さい胸を波立てながら、二三歩先生の方に進み出ました。
「先生は、御親切じゃアありません。それに、ここは
いいすててセエラは、駈け出しました。ミンチン先生はそれを止める術もなく、
セエラは、落ち着いて梯子を登って行きましたが、息はきれるばかりでした。彼女はエミリイをしかと脇に抱きしめていました。
「この子に口がきけたら――物がいえさえしたら、どんなにいいだろう。」
セエラは自分の部屋に行き、虎の皮の上に寝ころんで、炉の火に見入りながら、考えられるだけいろいろのことを考えてみようと思っていました。が、まだ彼女が二階へ登りきらないうちに、アメリア嬢がセエラの部屋から出て来ました。嬢はぴたりと戸をしめ、戸の前に立ち塞って、気づかわしげな顔をしました。嬢は、姉にいいつけられたことをするのが、うしろめたくてならないのでした。
「もう、ここへ入ってはいけないのですよ。」
「入っちゃアいけないのですって?」
セエラは一歩あとじさりしました。アメリア嬢は少し紅くなって、
「ここは、もうあなたのお部屋じゃアないのですよ。」といいました。
「じゃア、私のお部屋は、どこなの?」
「今晩からあなたは、屋根裏の、ベッキイのお隣の部屋に寝るんですよ。」
セエラは、かねてベッキイから聞いていたので、その部屋がどこにあるか、よく知っていました。セエラはくるりとうしろを向いて、二つ続いた梯子段を登って行きました。二つ目の梯子は狭くて、きれぎれな
屋根裏の戸を開けた時には、さすがに侘しい気がしました。が、セエラは中に入ると、戸に寄りかかって、そこらを見廻しました。
まったく、これは別な世界です。天井は屋根の傾斜で片方が低くなっていますし、壁は粗末な白塗です。その白塗も、もう薄汚くなっていて、はげ落ちているところさえあります。錆のふいた
ひかえめに戸を叩く音がして、戸の間に泣き濡れたベッキイの顔が現れました。ベッキイは、さっきから泣きづめに泣きながら、前掛であまり眼をこすったものですから、すっかり顔が変っていました。
「お、お、お嬢様、ちょっと、あの、ちょっと入っちゃアいけませんか。」
セエラは、ベッキイに笑ってみせようとしましたが、どうしても笑うことが出来ませんでした。が、ベッキイが心から悲しんでいるのを見ると、セエラは急に子供らしい顔になり、手をさしのべて、しくしく泣き出しました。
「ベッキイちゃん、いつか私あなたに、私達は同じような娘同士だといったことがあるでしょう。ね、嘘じゃアなかったでしょう? 二人の間には、もう身分の違いなんてないんですもの。私は、
ベッキイは駈けよって、セエラの手をとり、自分の胸におしあてました。ベッキイは
「お嬢様は、どんなことが起ったって、やっぱり
セエラはいつまでも、初めて屋根裏に寝た晩のことを忘れることは出来ませんでした。夜もすがらセエラは、子供にしては深すぎる、狂わしい悲しみにひたされていました。が、セエラはそのことを誰にも話しませんでした。また話したとて、誰にも解る悲しみではなかったでしょう。セエラは、寝られぬ夜の闇の中で、ともすると、寝慣れぬ堅い寝床や、見慣れぬあたりのものに心を
「パパは、おなくなりになったのだ。パパは、おなくなりになったのだ。」
寝床に入ってしばらくの間は、そのことばかり考えていました。寝床が堅いと気のついたのは、寝てからずいぶんたった後のことでした。寝返りを打っているうちに、そこらがひどく暗いのに気がつきました。それから、風が屋根の上で、何か大声に泣き悲しんでいるようなのに気がつきました。更に気味の悪いのは、壁の中や、戸棚のうしろから、きいきい、がりがりという音が聞こえて来たことでした。セエラは、いつかベッキイから話を聞いていましたので、すぐ鼠のいたずらだなと気づきました。セエラは一二度、鋭い爪が床を掻いて走る音を聞いて、思わず床の上に飛び起きました。それから、頭から夜具をかぶって横になりました。
セエラの生活は、その日からがらりと変りました。マリエットは翌朝暇を出されました。昨日までセエラのいた部屋はすっかり片付けられ、新入生のためのあたりまえの寝室にされました。
朝食堂へ出て見ると、ラヴィニアが、昨日までセエラの坐っていたところに坐っていました。ミンチン先生は冷かにセエラにいいました。
「セエラ、お前は、お前の用をすぐ始めるんだよ。小さい方達と、小さい方のテエブルに坐って、皆さんがお行儀よく食べるように、見てあげるんだよ。これからもっと早く出て来なきゃアいけないよ。ほら、ロッティはもうお茶をこぼしてるじゃアないか。」
セエラの仕事は、この様にして始まりました。来る日ごとに用事はふえるばかりでした。フランス語を見てあげるのは、一番楽な仕事でしたが、そのほかお天気の悪い時でもかまわずお使いにやられたり、皆の
セエラは、初めの一二ヶ月の間は、素直に働いていれば、こき使う人達の心も、そのうちには
セエラが、もう少し大人らしくなっていたら、ミンチン女史も、セエラを大きい子達のフランス語の先生にしたでしょうが、何分セエラはまだ子供々々していますので、大きくなるまで、女中代りに使った方が得だと思ったのでした。セエラなら、むずかしい用事や、こみいった
セエラは、今はもう勉強どころではありませんでした。楽しいことは、何も教わりませんでした。忙しい一日がすんでから、古い本を抱えて、人気のない教室へ行って、一人夜学を続けるばかりでした。
「気をつけないと、習ったことまで忘れてしまいそうだわ。これで、何にも知らないとすれば、ベッキイと選ぶところがなくなるわけだわ。でも、私忘れることなんて出来そうもないわ。歴史の勉強なんか、殊にやめられないわ。ヘンリイ八世に六人の妃があったことなんか、忘れられるもんですか。」
セエラの身の上が、こういうように変ると同時に、お友達との関係も妙なものになって来ました。今までは、何か皇族ででもあるかのように尊ばれていたのに、今はもう皆の仲間入りもさせてくれなそうでした。セエラが一日中忙しいので、少女達と話す暇がないのも事実でしたが、同時にミンチン女史が、セエラを生徒達からひきはなそうとしている事実も、セエラは見のがすわけにはいきませんでした。
「あの子が、ダイヤモンド鉱山を持っていたなんて。」と、ラヴィニアはひやかしました。「ほんとうにお笑い草ってな顔してるじゃアないの。あの子は、ますます変人になって来たわね。今までだって、あの子好きじゃアなかったけど、この頃のような変な眼付で黙って見ていられると、たまらなくなるわ。まるで人を探るような眼をしてさ。」
それを聞くと、セエラはすぐやり返しました。
「その通りでございますよ。まったく私は、探るために人を見るのですよ。いろいろのことを嗅ぎつけて、そして、あとでそのことを考えて見るんですよ。」
そういったわけは、ラヴィニアのすることを見張っていたおかげで、いやな目に逢うことを避けることが出来たからでした。ラヴィニアはいつも意地悪で、この間まで学校の誇とされていたセエラを
セエラは、自分で人に意地悪をしたり、人のすることの邪魔をしたりすることは、少しもありませんでした。セエラは、ただ奴隷のように働きました。だんだん身なりがみすぼらしく、みなし子らしくなって来ますと、食事も台所でとるようにいわれました。彼女は誰からも見離されたもののように扱われました。彼女の心は我強く、同時に痛みやすくなって来ました。が、セエラはどんなに辛いことも、決して口に出していったことはありませんでした。
「軍人は愚痴なんかこぼさない。」セエラは歯をくいしばりながらいうのでした。「私だって、愚痴なんかいうものか。これは私、戦争の一つだっていうつもりなのだから。」
そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セエラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。
その友の一人は、あのベッキイでした。初めて屋根裏に寝た晩も、壁一つ越した向うには、自分のような少女がいるのだと思うと、セエラは何となしに慰められるような気がしました。その慰めの気持は、夜ごとに強くなって来るのでした。日の
「私が丁寧なことを言わないでも、気にしないで下さいね。そんなことをいってると、きっと誰かに叱られるからね、私、心の中では『どうぞ』だの、『もったいない』だの、『御免なさい』だのといってるつもりだけど、口に出すと暇がかかるからね。」
しかし、ベッキイは、夜の明ける前に、きっとセエラの部屋にこっそりと入ってきて、ボタンをはめたり、その他いろいろ手伝ってくれるのでした。夜がくると、ベッキイはまたそっと戸を叩いて、何かセエラの用をしに来てくれるのでした。
三人のうちの第二は、アアミンガアドでした。アアミンガアドがセエラを慰めに来るまでには、いろいろ思いがけないいきさつがありました。
セエラの心が、やっと少し新しい生活になじんで来ると、セエラはしばらくアアミンガアドのことを忘れていたのに気づきました。二人はいつも仲よくしていましたが、セエラは自分の方がずっと年上のような気持でいました。アアミンガアドは人なつっこい子でしたが、同時にまた頭の鈍いことも争われませんでした。彼女は、ただひたむきにセエラに縋りついていました。おさらいをしてもらったり、お話をせがんだり――が、アアミンガアド自身には、別に話すこともないという風でした。つまり彼女は、どんな事があっても忘れられない、という
それに、アアミンガアドは急に呼ばれて、二三週間
「まア、セエラさん、あなただったの!」
「ええ。」
セエラは顔を紅らめました。
セエラは衣類を
「まア、あなた、どう? お丈夫?」
「わからないわ。あなた、いかが?」
「私は――私は、おかげ様で、丈夫よ。」アアミンガアドは羞しくてわけがわからなくなって来ました。で、急に、何かもっと友達らしいことをいわなければならないと思いました。「あなた――あなた、あの、ほんとにお
その時のセエラのしうちは、よくありませんでした。セエラの
「じゃア、あなたはどう思うの? 私が
セエラはそういい残して、さっさと去って行ってしまいました。
その後、時がたつにつれて、セエラは、アアミンガアドを責むべきではなかったと思うようになりました。ただあの時は、自分の不幸のため、何もかも忘れてしまっていたので、アアミンガアドの心ない言葉に腹が立ってならなかったのでした。それに、落ち着いて考えて見ると、アアミンガアドはいつも気のきかない子で、心を籠めて何かしようとすると、よけいやりそこなうのが常だったのでした。
それから五六週間の間、二人は何かに
「あの子が、私と口をききたくないのなら、私はあの子になるべく会わないようにしよう。ミンチン先生は会わせまいとしているんだから、避けるのは造作ないわけだわ。」
で、自然二人はほとんど顔も会わさないようになりました。アアミンガアドは、ますます勉強が出来なくなりました。彼女はいつも悲しそうで、そのくせそわそわしていました。彼女はいつも窓のそばに蹲まり、黙って外を見ていました。ある時、そこへ通りかかったジェッシイは、立ち止って、怪訝そうに訊ねました。
「アアミンガアドさん、何で泣いてるの?」
「泣いてなんて、いやしないわ。」
「泣いてるわよ。大粒の涙が、そら、
「そう。私なさけないの――でも、かまって下さらない方がいいのよ。」
アアミンガアドは丸々とした背を向けて、
その晩、セエラはいつもよりも遅く、屋根裏へ登って行きました。と、自分の部屋の扉の下から、ちらと光の洩れているのを見付けて、
「私のほか、誰もあそこへ行くはずはないけど、でも、誰かが
誰かが火をともしたのにちがいありません。しかも、その光は、セエラがいつも使う台所用の燭台のではなく、生徒が寝室につける燭台の火に違いないのです。その誰かは、
「まア、アアミンガアドさん!」セエラは怯えるほど吃驚しました。「あなた、大変なことになってよ。」
アアミンガアドはよろよろと立ち上りました。彼女は大きすぎる寝室用のスリッパをひっかけて、すり足にセエラの方へ歩いて来ました。眼も、鼻も、赤く泣き腫らしていました。
「見付かれば、大変なことになるのはわかっているわ。でも、私、叱られたってかまわないわ。ちっともかまわないわ。それよりもセエラさん、お願いだから聞かしてちょうだい。ほんとうにどうなすったの? どうして、私が嫌いになったの?」
アアミンガアドの声を聞くと、セエラの喉にはまた、いつものかたまりがこみ上げて来ました。アアミンガアドの声は、いつか仲よしになってちょうだいといった時の通り、人なつっこく、真率でした。この数週間の間、よそよそしくするつもりなんか、ちっともなかったのに、というような響でした。
「私、今でも、あなたが大好きなのよ。」と、セエラはいいました。「私ね――もう何もかも、前とは違ってしまったでしょう。だから、あなたも、前とは変っちまったんだろうと思ったの。」
アアミンガアドは、泣き濡れた眼を見張りました。
「あら、変ったのはあなたの方よ。あなたは、私に物をいいかけても下さらなかったじゃアないの。私、どうしていいか判らなかったの。私がうちへ行って来てから、変ったのはあなたよ。」
セエラは思い返して、自分が悪かったのだと知りました。
「そうよ、私変ったわ。あなたの考えてるような変り方ではないけど。ミンチン先生は皆さんとお話しちゃアいけないって仰しゃるのよ。皆さんだって、私と話すのはおいやらしいの。だから、私あなたもきっと、おいやなんだろうと思って、なるべくあなたを避けていたのよ。」
「まア、セエラさん。」
アアミンガアドは、セエラを咎めるように泣きじゃくりました。二人は眼を見合わせて、そして、お互に抱きつきました。セエラはしばらくの間、小さい黒髪の頭を、赤いショオルで
それから、二人は床に坐りました。セエラは手で膝をかかえ、アアミンガアドはショオルにからだを包んで、
「私は、もうとてもたまらなかったのよ。セエラさんは、私なしでも暮せるでしょうけど、私は、セエラさんなしにはいられないのよ。私は生きてる気もしなかったの。今夜も、夜具の中で泣いていたら、ふと急に、ここへ登ってきて、あなたにあやまって、もう一度お友達になっていただこうって気になったの。」
「あなたは、私なんかよりよっぽどいい方なのね。私は我が強いから、仲直りしようなんて気にはなかなかなれないのよ。ほら、いつかもいったように、今度のように辛い目にあって見ると、私はいい子じゃアないということが、あばかれてしまったでしょう。こんなことになりはしまいかと、私気にしていたのよ。」セエラは考え深そうに額に皺を寄せて、「ことによると、それを私に解らせるため、辛い目にあわせられたのかもしれないわ。」
「そんな目にあったって、ちっともありがたくはないと思うわ。」
「私だって、ほんとうはありがたいと思ってるわけじゃアないのよ。でも、私達にはわからないところに、よいものがないとも限らないでしょう。ミンチン先生にしたって――。」
セエラは疑わしげに――「いいところが、あるのかもしれないわ。」
アアミンガアドは、
「あなた、こんなところに住めると思うの?」
「こんな所でも、こんなじゃアないつもりになれば、住めると思ってよ。でなければ、これは、あるお話の中の場面だと思っていればね。」
セエラは静かに語りました。うまい具合に空想がまた働き出して来ました。ふいに辛い目にあってからこのかた、セエラは一度もまだ、空想によって慰められたことがなかったのでした。
「もっとひどい所に住んでた人もあるのよ。モント・クリスト伯爵はシャトオ・ディフの牢屋に押しこめられていたでしょう。それから、バスティユに
アアミンガアドは口の中で、
「バスティユ。」といいました。いつかセエラが芝居がかりで話してくれた事がありましたので、アアミンガアドもフランス革命の話だけは覚えこんでいました。
セエラの眼は、いつものように輝いて来ました。
「つもりになるのは、バスティユがいいわ。私はバスティユの囚人なの。私は、もう幾年も幾年もここに押しこめられていたの。世の中の人達は皆、私のことなんか忘れてしまっているの。ミンチン先生は監守で、それからベッキイは――」ふと新しい光が、セエラの眼に加わりました。
「ベッキイは、お隣の監房にいる囚人なの。」
セエラは、昔の通りな顔になって、アアミンガアドの方を向きました。
「私、そのつもりになるわ。つもりになってると、どんなにまぎれていいかしれないわ。」
アアミンガアドは、たちまち夢中になりました。
「そしたら、私にもつもりのお話をみんなしてちょうだいね! 見付けられそうもない晩には、いつでもここに来ていいでしょう? そしたら、あなたが昼間のうちに作っといたお話を聞かしてちょうだいね。そんなことをしていると、きっと今までよりも、もっと仲よしになったような気がすることよ。」
「いいわ。何か事が起ると、人の心もわかるものね。私の
セエラを慰めてくれた
セエラが、初めて小さい子達のフランス語を見てやった朝、ロッティは、そっとセエラに尋ねました。
「セエラちゃん、あなた、ほんとにもうお金持じゃアないの? あなたは、乞食みたいに貧乏なの? 乞食みたいになんかなっちゃアいや。」
ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セエラは
「乞食には、お
「どこにあるの? 私、行ってみたいわ。」
「おしゃべりしちゃア駄目よ。ミンチン先生が睨めてるじゃアないの。あなたにおしゃべりさせたといって、いまに私が叱られるわ。」
が、ロッティは、一度いい出したら、なかなか諦めない性質の子でした。で、セエラがいる所を教えてくれないなら、何か他の方法で、セエラのいる所をつきとめようと思いました。ロッティは大きい子達のおしゃべりに耳をすましているうち、ある時、ふとした言葉尻から、セエラが屋根裏にいるのだということを知りました。その日の暮近く、ロッティは一人、今まであるとも気づかなかった階段を登って行きました。二つ並んでいる戸の一つを開けると、セエラは古ぼけたテエブルの上に立って、天窓から外を見ておりました。
「セエラちゃん、セエラ母ちゃん。」
ロッティは
セエラは振り向くと、これも呆気にとられた形でした。これから、どうなることだろう。もしロッティが泣き出しでもしたら――泣声がひょっと誰かの耳にでも入ったら、二人とももうおしまいだ。――セエラはテエブルから飛び下りて、ロッティの方へ走り寄りました。
「泣いたり、騒いだりしちゃア駄目よ。そうすると、私が叱られるからね。でなくても、私一日中叱られ通しなんですもの。ね、この部屋は、そんなにひどくもないでしょう?」
「ひどくない?」
ロッティは唇を噛みながら、部屋の中を見まわしました。彼女は甘やかされてはいましたが、セエラが非常に好きなので、この
「ひどいなんてことないわ。セエラちゃん。」
セエラはロッティを抱きしめて、無理にも笑おうとしました。ロッティのむっちりした身体の温かさを感じると、セエラは何か慰められるような気がしました。その日は、セエラには殊に辛い日でしたので、ロッティの入ってきた時には、眼を紅くして、窓の外を見つめていたのでした。
「ここからはね、階下では見えないものが、たくさん見えるのよ。」
「どんなものが見えるの?」
「煙突や、雀や、それからよその屋根裏の窓や。――窓からよく人の顔がひょいと出て来るのよ。すると、あれはどこのお
「私にも見せて。抱いてみせて!」
セエラはロッティを抱き上げ、一緒に古いテエブルの上に立ちました。二人は天井の明りとりの窓から頭を出して、そこらを見廻しました。
屋根裏の窓から外を見た経験のない方には、二人の眼に何が映ったか、想像もつかないでしょう。
「あそこにも誰かが住んでいてくれるといい、と私思うのよ。」セエラはいいました。「近いから、あそこに娘さんでも住んでるとしたら、窓越しにお話も出来るわ。落ちる心配さえなければ、屋根から屋根へ行き来も出来ると思うの。」
空は、往来から見上げた時より、ずっと近くに見えるので、ロッティは
「セエラちゃん、私このお部屋好き――大好き。私達の部屋よりよっぽどいいわ。」
「あら、雀が来てよ。パン屑でもあれば、やりたいのだけど。」
「私、持っててよ。」
雀は、屋根裏にお友達がいようとは思わなかったので、パン屑を投げられると、驚いて一つ向うの煙突の先へ飛び退きましたが、セエラがちゅっちゅっと雀の通りに口を鳴らしますと、雀はせっかくの御馳走に脅かされたのだと気づいたらしく、首を傾げてパン屑を見下しました。それまで、おとなしくしていたロッティは、
「来るでしょうか?」
「来そうな眼をしてるわ。来ようか、来まいか、と迷っているのよ。あら、来そうだわ。ほら、来たわ。」
雀は、しばらくためらって後、大きなかけらを素早く
「この部屋は、小さくて高いところにあるから、鳥の巣といってもいいわね。天井がかしいでいるのも面白いでしょう。こっちの方は低くて、頭がつかえそうね。私夜が明けると、床の上に坐って、窓から空を見上げるのよ。すると、窓はまるで四角な明るみの
そういわれると、ロッティも、セエラのいう通りのものが見えるような気がしました。セエラが描くものなら、何でもほんとうだと思いこむロッティでした。セエラは、なおつづけていいました。
「床には厚い、柔かい、青の印度絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸すと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛と額とで隠してしまうの。小さいのでなきゃア似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真中にはお茶道具をのせたテエブル。丸い銅の茶釜が、
「セエラちゃん、私もここに来たいわ。」
ロッティを送り出してしまうと、セエラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セエラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔をおおうていました。
「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」
ふと、セエラはことという微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、
鼠はまるで、灰色の
「鼠はきっと辛いに違いないわ、皆に嫌がられて。私だって、皆に嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは大違いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃアないのね。雀の方に生れたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃアないから。」
鼠は、初めはセエラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑の方に寄って来ました。
「おいで。私は罠じゃアないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人達は、鼠と仲よしになったっていうから、私もお前と仲よくなろうかしら。」
どうして動物に物が解るのか。その訳は解りませんが、しかし、動物に物の解るのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、何にでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、何にでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセエラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑の方に行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セエラの方を見て、どうもすみません、というような眼をしました。セエラは、それにひどく心を動かされました。
それから一週間ほどたったある晩、アアミンガアドがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は妙にひっそりしていました。セエラは寝てしまったのかしら、と
「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」
そういうと、すぐセエラは戸を開きました。
「セエラさん、誰? 誰と話してたの?」
「お話してもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃア、駄目よ。」
アアミンガアドは、その場で
「何か、怖いお話なの?」
「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」
「お化?」
「いやアだ。――鼠よ。」
アアミンガアドは一飛に飛んで、
「鼠? 鼠ですって?」
「慣れてるから怖かアないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」
アアミンガアドは、初めは怯えて
「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、
「大丈夫。私達と同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」
セエラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文を
「ね、あれは、おかみさんや子供達に持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、
アアミンガアドは笑い出しました。
「セエラさんは変ってるわね。でも、いい方ね。」
「私変っていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セエラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい少し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、私笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは仰しゃってたわ。私、お話を作らずにいられないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セエラはちょっと口を
アアミンガアドは、だんだん惹き入れられて来ました。
「あなたが話すと、何でも、皆ほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように仰しゃるでしょう。」
「人間なのよ。あれは私達と同じように、ひもじくなったり、
セエラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。
「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」
「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもりでいらっしゃるの?」
「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもりにもなるけど、バスティユのつもりになら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」
ちょうどその時、アアミンガアドは
「なアに? あれ?」
セエラは立ち上って、お芝居の口調で答えました。
「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」
「ベッキイのこと?」
「そうよ。こうなの、コツ、コツ、と二ツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」
セエラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。
「ね、これは、『はいおります。別に変りはありません。』という意味なの。」
すると、ベッキイの方から、コツ、コツ、コツ、コツと、四つ叩く音がしました。
「あれは、こうなの、『では、
アアミンガアドは、うれしさのあまり眼を輝かせました。
「まるで、何かのお話みたいね。セエラさん。」
「みたいじゃアなくて、ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし――私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」
セエラはまた床に坐って話し出しました。アアミンガアドは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セエラの話に聞きとれていました。で、セエラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分の
が、アアミンガアドやロッテイは、そう毎晩屋根裏に忍んで行ったわけではありません。セエラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われる
プリンセス・セエラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、
日が暮れて、窓の中に灯がともると、セエラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テエブルを囲んで話したりしている人達を見て、彼女は、よくその人達のことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある
ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上りました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。
セエラがモントモレンシイ家の前を通りかかると、子供達はどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうど
ちょうど
セエラが餓えたような眼をしていたのは、この少年に抱きついて
「可哀そうに。この二十銭を上げるよ。」
セエラはびっくりしました。が、すぐ、今の自分は、昔自分が馬車に乗るのを見上げていた乞食娘にそっくりだと気づきました。セエラも、よくそうした娘達に銀貨を施してやったものでした。セエラは一度紅くなってから、また真蒼になりました。セエラはその
「あら、たくさんでございます。わたくし、ほんとうにいただくわけはございません。」
セエラの声は、そこらの乞食娘の声などとは似ても似つかぬものでしたし、ものごしも良家の令嬢そっくりでしたので、馬車の中の少女達はのり出して耳を傾けました。
が、ギイ・クラアレンスは、せっかくの施しをやめるのがいやでしたので、銀貨をセエラの手の中に押しこみました。
「君、とってくれなくちゃア困るよ。これで、何か食べるものでも買いたまえ。二十銭あるんだからね。」
少年は、非常に親切な顔をしていました。セエラがこの上拒みでもすると、ひどく気を落しそうなので、セエラは素直にお金を取らなければ悪いと思いました。で、ようよう我を折りはしましたが、頬は真赤に燃えました。
「ありがとう。坊ちゃんはほんとうに御親切な、可愛い方ね。」
少年が悦ばしげに馬車へとびこむのを見ると、セエラもそこを去りました。息苦しいけれど、ほほえみたい気持でした。彼女の眼は霧の中できらきら光っていました。セエラは自分が妙な
走り出した馬車の中で、大屋敷の子供達ははしゃいで、しゃべり出しました。
「どうして、お金なんかやったの?」ジャネットはギイ・クラアレンスにいいました。「あの
ノラもいいました。
「口の利き方だって、乞食みたいじゃアなかったわ。顔も乞食のとは見えなかってよ。」
「それに、おねだりしたわけでもないじゃアないの。」ジャネットはいいつづけました。「私、あの娘が怒りゃアしないかと思って、はらはらしていたのよ。乞食でもないのに、乞食と見られたら、腹の立つのがあたりまえだわ。」
「でも、あの娘は怒ってやしなかったよ。」と少年はいいました。「あの娘はちょいと笑って、あなたはほんとに親切な、可愛い方だといったよ。その通りさ。僕は僕の持ってるだけをやったんだもの。」
ジャネットとノラは眼を見合せました。
「乞食の子なら、そんなことはいうはずがないわ。『おありがとう、旦那様、おありがとうございます』っていう風にいって、ぴょこぴょこ頭を下げるはずだわ。」
セエラはそんな話があったとは、知るよしもありません。が、その時以来、大屋敷の人達は、セエラが大屋敷に感じているような興味を、セエラに対して持ちはじめていたのでした。セエラが通りますと、子供部屋の窓に、子供達の顔がいくつも現れました。皆はよく炉のまわりでセエラのことを話し合いました。
「あの子は、学校で小使娘みたいなことをしているらしいのよ。」と、ジャネットはいいました。「誰もめんどうを見てやるものはないようよ。きっと
で、それからはセエラを『乞食じゃアない小さな女の子』と呼ぶようになりました。あまり長い名なので、小さい子達が急いでいうと、ひどく滑稽に聞えました。
セエラは、あの銀貨に工夫して穴をあけ、細いリボンの
「返事といえば、私だってよく返事をしないことがあるわ。
そう思いはしましたが、あまり酷い目にあったり、恥しい目にあったりすると、ただ棒のように立っているきりのエミリイを、生きてるものと想って、自分を慰めるのも、莫迦らしくなって来ることがありました。
ある寒い晩のことでした。セエラは空いたお腹をかかえ、煮えくりかえるような胸を抱いて、屋根裏へ帰って来ました。と、エミリイは今までにないうつろな眼をして、
「私は、もうすぐ死んでしまうよ。」
そういわれても、エミリイは、うつろな眼を見開いているばかりでした。
「もう我慢が出来ないわ。寒いし、着物は濡れてるし、お腹は死にそうに空いているんだもの。死ぬにきまってるわ。朝から晩まで、まア何千里歩いたことだろう。それなのに、料理番の要るものが見付からなかったからといって、晩御飯を食べさせてくれないの。ぼろ靴のおかげで、私が
エミリイの
「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。鋸屑のつまってる人形に、何が感じられるものか。」
ふと、壁の中にただならぬ物音が起りました。メルチセデクが誰かを
セエラの
「お前が人形なのは、あたりまえだわね。お前は鋸屑なりに、出来るだけのことはしているのかもしれないわね。」
そういいながら、セエラはエミリイに接吻し、着物の皺を伸して、いつもの椅子の上にかけさせてやりました。
前からセエラは、隣の空家に誰か住めばいいのにと思っていました。というのは、その
「立派な顔の人だったら、こっちから挨拶してみよう。でも、こんな屋根裏には、召使のほかいるはずはないわね。」
ある朝、セエラがお使から帰って来ますと、引越の荷車がその
「お父様と初めて来た時、ここのお道具はミンチン先生そっくりだ、と思ったことがあったわ。大屋敷にはきっと、むくむくした
引越の荷車からは、丹念に加工した
「綺麗なお道具だこと! きっとこれを持ってるのは立派なお方よ。大がかりなところもあるから、お金持なのかもしれないわ。」
その家具には、どこか東洋的なところがある上、立派な
「屋根裏の窓から首を出す人はないかもしれないけど、この
夕方牛乳を運び入れる時、セエラは大屋敷の御主人が、新しく越してきた
「子供があれば、大屋敷の子供達も、きっとこの
その晩、セエラのところに来たベッキィは、こんなことをいいました。
「お嬢さん、お隣に越して来たのは、印度の人ですってさ、色は黒いかどうか知らないけど。大変なお金持で、大屋敷の旦那様は、その方の弁護士なんですって。あまり心配事があったので、身体を悪くしてしまったのですって、あの人は、木や石を拝む邪宗徒なのよ。何か妙な偶像を運んで行くのを、私見てよ。」
「でもそれは、拝むわけじゃアないんでしょう。仏像にはいいものがあるから、拝むためじゃアなく、眺めるために持ってる人があるのよ。うちのお父様も、一ついいのを持ってらしったわ。」
ある日、一台の馬車がその
その日、セエラがフランス語の組に出た時、ロッティはそっといいました。
「セエラちゃん、お隣には黄色い顔の
「支那人じゃアないことよ。あの小父さんは、大変おからだが悪いのよ。――さア、練習問題をおやんなさい。『ノン・ムシウ。ジュネ・パ・ル・カニフ・ド・モンノンクル。』(いいえ、私は伯父さんのナイフを持っていません。)」
そうして、それから印度紳士の話が始まりました。
時とすると、広場で見る
ある夕方、セエラはいつものようにテエブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は
「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起るのじゃアないかしら。」
とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返ると、お隣の窓が開いて、白い
セエラが男の方を見ると、男もセエラを見返しました。男の顔は悲しげで、
セエラの
猿は男が挨拶しようとした隙に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に――あのラスカアが主人なら、あのラスカアに――返してやらなければならないと思いました。が、セエラはどうして猿を捕えたらいいか、判りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエラは、昔ならい覚えた印度の言葉で、
「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。
男は、セエラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。
「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」
「造作ないことです。」
「じゃア来てちょうだい。怯えて向うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」
ラム・ダスは、天窓からするりと屋根の上に上ると、生れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々とセエラの方へ渡って来ました。彼は[#「彼は」は底本では「後は」]足音も立てず、天窓からセエラの部屋に
ラム・ダスは、セエラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエラに向っては何にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼はじき暇を告げました、「病気の御主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。
ラム・ダスが去ったあと、セエラはしばらく屋根裏部屋の真中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエラはラム・ダスの印度服や、うやうやしげな態度を見ると、印度にいた時のことを思い起さずにはいられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエラが、かつてはたくさんの召使にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエラが相当の年になるのを待って、たくさんの組を受け持たせるでしょう。その
ふと、また何かを思いついたので、セエラの頬は紅くなり、眼は輝き出しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸し、顔を起しました。
「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私が
この考えは、今考えついたわけではありません。セエラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セエラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。
「先生は、そんなことを、
セエラは
「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてエに、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。
ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セエラは教室で、下の組の少女達にフランス語を教えていました。授業時間が終ると、セエラは教科書を片付けながら、
「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」
セエラは、自分が
「考えごとをしていたものですから。」
「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」
セエラは答える前に、ちょっと
「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」
「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」
ジェッシイはくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセエラに喰ってかかると、生徒達は皆面白がって見物するのでした。セエラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変ったことをいい出すのです。
「私ね――」と、セエラは丁寧にいいました。「私、先生は御自分のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」
「私のしていることが、私に解らないっていうのかい?」
「そうです。私が
「何、何に気がついたらというんですよ。」
「私が、ほんとうの
教室にいるだけの少女達の眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。
「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんは
セエラはちょっと頭を下げ、
「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。
「皆さん、セエラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシイがまず口を開きました。
「私だけは、セエラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃアしないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」
壁つづきに出来た
セエラは、印度の紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族が皆幸福そうだったからでしたが、印度の紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気が
「その
「あの方は、お父様と同様の目におあいになったのだわ。」と、セエラは思いました。「それから、お父様と同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」
こうしたことから、セエラの心はますます印度の紳士の方へ惹き寄せられて行きました。夜お使に出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セエラは鉄の格子につかまって、彼に聞かすつもりで、「お休みなさい」といって見たりしました。
「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。
セエラはそういうと、セエラ自身温められ、慰められるのが常でした。
「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、御病気だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」
もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセエラは思いました。モントモレンシイ氏は、よく印度の紳士を訪ねました。モントモレンシイ夫人も、子供達も、時々紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子――あのセエラがお金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して――殊に小さい女の子に対して、やさしい気持を持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。
「
ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れ出さないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時には印度の話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気使いをするのもジャネットでした。子供達は皆ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。
印度の紳士は、名をカリスフォドといいました。ある時、ジャネットが彼に『乞食じゃアない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。
「カアマイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女達は、そんな堅い寝床にねているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷に
「いや、しかし。」カアマイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早く
カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。
「どうだね。あの例の子が――私の忘れたことのないあの子が――ひょっとして――いやほんとに、
「もし、パリィのパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると――」カアマイクル氏は、宥めるようにいいました。
「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持で、死んだ自分の娘と仲よしだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」
「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ伴れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」
カアマイクル氏は、肩をすぼめました。
「何しろ、あの女は抜目のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手離すことが出来たので、大よろこびだったらしいですよ。すると、養父母達は、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」
「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃアないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃアないか。」
「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。――が、ちょっと発音を間違えただけじゃアないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。印度にいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カアマイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとの間口を噤んでいました。「が、娘は確かにパリイの学校に入れられたというのですか。確かにパリイだったのですか?」
カリスフォド氏はいらいらと、
「いや君、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルウとは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、印度で会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛な鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」
カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。
カアマイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合十分注意して、静かに訊ねなければならないのでした。
「でも、学校は、パリイだとお考えになる理由はあるのですか。」
「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリイで教育したがっていた、と聞いたことがある。」
「すると、パリイにいそうですな。」
印度の紳士は、身体をのめり出させ、長い骨ばかりの手で、テエブルを叩きました。
「カアマイクル君、私はどうしてもその娘を見付け出さにゃアならん。生きてるなら、見付かるはずだ。その娘がひとりぼっちで一文無になってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」
「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見付かりさえすれば、一財産渡してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」
「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様』と呼んでいた。だが、あの
「しかし、まだその娘を見付けることは出来ます。パスカル夫人の
「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君、あれがどんなことを訊くと思う?」
「よくわかりませんね。」
「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様はどこにいるのだい?』とね。」彼はカアマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘を見付けてくれ。頼む。」
* * *
* * *
壁の向うでは、セエラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。
「メルチセデクや、今日という今日は、
ふと、セエラは黒髪を両手の中に
「ああお父様、もうずいぶん昔だわね、私がお父様の『小さな奥様』だったのは。」
同じ日のうちに、壁の向うとこちらとに、こんなことが起ったのでした。
惨めな冬でした。セエラは幾日となく雪を踏んで使に出ました。
「お嬢様、あんたでもいなかった日には――あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、私死んじまいそうだわ。この頃はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭みたいになってくるし、私、いつかお嬢様の仰しゃった大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」
「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」
「そのお話の方が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」
「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私こう思うのよ。心の
「そんなこと、あんたに出来て?」
「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。この頃幾度もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分は
そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いた後で、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セエラは何度となく使に出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔まで
「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから――焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が落ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」
そう独言をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セエラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。
「まア、ほんとだったわ。」セエラは、思わず呼吸をはずませました。
とまた、嘘のようではありませんか。セエラが眼を上げると、真向いにパン屋の店があるのでした。店では一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを――大きくふくれた、
セエラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうな
セエラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、
「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなかって? と訊いてみよう。」
セエラは元気なくそう独言すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セエラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。
セエラの足を止めたのは、セエラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで
「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」
その子は、顔を上げてちょっとセエラを見つめると、身体をずらせて、セエラの通る隙をつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見付かったが最後「
セエラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。
「あなた、ひもじい?」
「ひもじいのなんのって、たまらないの。」
「お
「お
「いつから、食べないの?」
「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き廻ったんだけど。」
その子の姿を見ているだけで、セエラは気絶しそうにお腹が空いて来ました。セエラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。
「もし、私が
セエラは乞食娘に、
「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂がしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。
「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」
いいながらセエラは、たった一つの銀貨をおかみさんの方にさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセエラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。
「どう致しまして、私落しはしませんよ、お拾いなすったの?」
「ええ、溝の中に落ちてたの。」
「じゃア、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、判るものですか。」
「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねした方がよくはないかと思って。」
「珍しい方ね。」
おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セエラがちらと甘パンの方を見たのを知ると、
「何かさしあげましょうか。」といいました。
「あの甘パンを四つ下さいな。」
おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セエラは
「あの、四つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。
「二つはおまけですよ。あとでまた上るといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」
「ええ、とてもひもじいの、御親切にして下すって、ありがとうございます。」
セエラは、外には自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人一度に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。
乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょな
セエラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セエラの手は熱いパンのおかげで、もう少し温かくなっていました。
「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」
乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セエラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。
「ああおいしい、ああおいしい。ああ、おいしい。」
「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は
餓えきったロンドンの
セエラは車道を横切って、向う
ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。
「おや、こんな事ってないわ。あの娘はくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」
おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいる方へ出て行きました。
「そのパンは、誰にもらったの?」
娘はセエラの行った方に頭を向けて、こっくりしました。
「あの子は、何といったの?」
「ひもじいかって。」
「で、何と答えたの?」
「その通りだといったの。」
「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」
娘はまたこっくりをしました。
「で、いくつくれたの?」
「五つ。」
おかみさんは考えこんで、小声にいいました。
「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で六つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」
おかみさんは、向うの方に消えて行くセエラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。
「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘の方にいいました。
「お前、まだひもじいの?」
「ひもじくない時なんてありゃアしない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかアないわ。」
「こっちへ、お出で。」
おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。
「さア温まるといいわ。いいかい、これから一かけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」
* * *
* * *
セエラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりはましでした。セエラは歩きながら、小さくちぎって、
「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お
日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ
玄関の戸が開いたので、セエラはいつかお金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。
「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。
「お父様、
「そんなことは手紙で知らせるよ。
彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。
「お父様、その娘にあったら、よろしくいって下さいね。」
ギイ・クラアレンスは、靴脱のところで跳ねまわりながらいいました。
戸を閉めて、
「あの『乞食じゃアない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達の方を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持の人からもらったもののようですって――きっと、もういたんで着られなくなったから、あの子にやったのね。」
セエラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。
「ギイ・クラアレンスのいったその娘というのは、誰なのかしら?」
ちょうどこの日の午後、セエラが使に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを
若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓から
「ありゃア鼠かい?」
「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」
「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」
ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエラと話したことはないのですが、セエラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。
「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来る
「君は、だいぶ詳しく知っているようだね。」
「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」
「でも君、大丈夫かい? 誰か来やアしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」
ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。
「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」
「じゃア、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」
秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台をおさえて、思わず声をあげました。
「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」
彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。
「だが、妙なことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」
「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人にそれをお話しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰しゃるのでした。」
「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚しでもすると――」
「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやり
二人は、またそっと天窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻りはじめました。
セエラがお使から帰ってくると、
窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。
「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」
紳士が考えていたのは、次のような事でした。
「もし――せっかくカアマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」
セエラは
「あの、何かいただけませんか?」
セエラは元気のない声で訊ねました。
「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」
「私、お
「戸棚の中にパンがあるよ。」
セエラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエラは疲れていました。セエラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアアミンガアドが来ているのでしょう。セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、
アアミンガアドはセエラを見ると、寝台の上からいいました。
「セエラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐っても、私のそばへやって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」
「いいえ。」と、セエラは答えました。
「セエラさん、あなた大変疲れてるようね。顔色が大変悪いわ。」
「とても疲れちゃったわ。」セエラは
メルチセデクは、どうやら合点がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。
「アアミイ、今夜会えようとは思わなかってよ。」と、セエラはいいました。
「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」
アアミンガアドは、天窓の下のテエブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、
「お父様がまた本を送って下すったの。」といいました。セエラはたちまちテエブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日の辛さなどは、すっかり忘れていました。
「何て綺麗な本でしょう。カアライルの『フランス革命史』ね。私、これをよみたくてたまらなかったのよ。」
「私ちっともよみたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みに
「こうしたら、どう? 私がよんで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」
「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」
「出来ると思うわ。小さい人達は、私のお話をよく憶えてるじゃアないの。」
「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」
「私、あなたから何にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」
「じゃアあげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃアないの。ところが、お父様は御自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」
「私に本を下すったりして、あとでお父様に何て仰しゃるつもり?」
「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よんだのだと思うでしょう。」
「そんな嘘をいうものじゃアないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本を読んだのは、セエラだと仰しゃればいいじゃアないの?」
「でも、パパは私に読ませたいのよ。」
「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア、よんだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」
「どのみち、憶えさえすりゃアいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」
「でも、あなたが悪いからじゃアないわ。あなたの――」
頭の悪いのは、と
「私が、どうしたの?」
「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃアないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かアないのよ。親切なことの方が、どんなに値打があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって――憶えてるでしょう? いつかお話してあげたロベスピエルのこと。」
「そうね、少しは憶えてるけど。」
「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」
セエラは寝台の上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、
二人は、父のセント・ジョン氏に、セエラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セエラの所に置くことにしました。
セエラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アアミンガアドが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向気のつかないアアミンガアドも、ふとセエラを見てこういったくらいでした。
「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」
セエラは、自然にまくれ上った袖口を、引き下しました。
「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」
「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもいわ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」
「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃアないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」
ふと、天窓の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が天窓に現れて消えたのでした。
「今の音は、メルチセデクじゃアないわね。何かが
耳の早いセエラは、そういいました。
「何でしょう? まさか、泥棒じゃアないでしょうね。」
「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃア――」
といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セエラは寝台から飛び降りて、火を消しました。
「先生は、ベッキイを叱ってるのよ。」
「ここにやって来やアしない?」
「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」
ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上って来ないとも限りませんでした。それに、ベッキイを小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。
「嘘つき! 料理番の話だと、なくなったのは今日ばかりじゃアないそうじゃアないか。」
「でも、私じゃアございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな――」
「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。
「私じゃアないんですってば! 食べるくらいなら、皆食べちまうわ。――でも私、指一つさわりゃアしなかったんだわ。」
そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上りながら、ぴしぴしベッキイを打っているようでした。
「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」
戸がしまって、ベッキイが寝台に身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。
「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べやしなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」
セエラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、
「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキイに自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキイはつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、
セエラは両手をひしと顔に押しあてて、
「セエラさん、あの――あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい――でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」
「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキイの泣声を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」
「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」
「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、私乞食になったような気がするからいやだったの。もう見たところは乞食も同じですけどね。」
「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」
「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セエラは自分を
その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。
「その坊ちゃんて、だれなの?」
「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」
アアミンガアドは、[#「は、」は底本では「、は」]ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。
「セエラさん、私莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」
「あのことって。」
「いいことなの。さっき伯母様から、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中には
セエラは
「でも、行って来られる?」といいました。
「来られるわよ。」アアミンガアドは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「
二人は手をとりあってよろこびました。セエラはふと、また眼をきらめかせていいました。
「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人も御招待しない?」
「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて聞えやしないでしょう。」
セエラは壁ぎわに行って、四度壁を叩きました。
「これはね、『壁の下の
向うから五つ打つ響がありました。
「ほら、来たわ。」
戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。
「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
その時セエラは、眼にいつもの輝きを
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」
セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。
「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セエラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。
「まア、何て厚くて、柔かなのでしょう。」
セエラはベッキイの方に笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下しました。
「ほんとに柔かね。」と、ベッキイも真顔でいいました。
「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神様がそれを教えてくれるのだわ。」
セエラのよくする空想の一つは、
「そら来た。私、何をすればいいか判ったわ。私が
鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さな
「そこにお皿があるの。
セエラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見附け出し、
「いい匂がするでしょう。」
セエラは夢の中の人のように、幸福そうな
「あの、これが――これが、あのバスティユ?――何かに変ってしまったの?」
「そうですとも。
その時戸が開いて、アアミンガアドがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。
「セエラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」
「すてきでしょう? 皆、古鞄の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと仰しゃったの。」
「でも、お嬢さん、セエラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな――セエラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」
で、セエラはアアミンガアドに、
「まるで、夜会ね。」と、アアミンガアドは叫びました。
「
すると、アアミンガアドは眼を光らせて、
「こうしましょう、ね、セエラ。あなたは
「でも、今日の主催者はあなたじゃアないの。だから、あなたが
「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それに
「あなたがそう仰しゃるなら、それでもいいわ。」それから、またセエラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。
「紙屑や塵がたまってるから、これに灯をつけると、ちょっと明くなるわ。すると、ほんとうに火のあるような気がするでしょう。」
セエラは火をつけると、
「さア、お進みなされ御婦人方。饗宴のむしろにおつき召されよ。わがやんごとなき父君、国王様には、只今、
「
皆がお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上って、真蒼な顔を戸口の方へ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、皆は思いました。
「きっと奥様よ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。
「そうよ。先生に見付かったのだわ。」
セエラも真蒼になって、眼を見張りました。
ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真蒼でした。
「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのはほんとうだ。」
「
セエラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます蒼ざめていきました。アアミンガアドはわっと泣き出しました。
「どうか、ベッキイを逐い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの――宴会ごっこをしていたのです。」
「案の定、プリンセス・セエラが上座に坐ってるね。皆セエラの仕業なんだ。ちゃんと解ってるよ。ベッキイ、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セエラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、何にも食べさしてやらないから。」
「今日だって、お
「そんならなおいいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アアミンガアド、ぼんやり立ってるんじゃアないよ。食物を皆手籠にしまうんだよ。」
ミンチン先生は、自分でテエブルの上のものを手籠の中へ払い落しましたが、またしてもセエラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセエラに食ってかかりました。
「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」
「私、お父様がこれを御覧になったら、何と仰しゃるだろう、と思っていましたの。」
それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセエラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。
「まア、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」
先生は手籠や本をアアミンガアドの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セエラの部屋を出て行きました。
夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い
「もう御馳走どころじゃアないのよ。
セエラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。その間にさっきの黒い顔が、また天窓の上に現れました。が、セエラはそれには気がつきませんでした。セエラはやがて立ち上って寝床の方に行きました。もう何のつもりになる
「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持のいい椅子テエブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの――」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔かな寝台で、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから――」
セエラは思っているうち疲れはてて、いつかぐっすり眠ってしまいました。
* * *
* * *
どれほど眠ったか、セエラには判りませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、天窓から誰かが入って来ても、何にも知らずにぐっすり眠っておりました。
天窓がぱたりと閉る音を聞いたと思いましたが、セエラは眠くてたまらないので――それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持がいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持よさに、セエラは何だかまだ夢心地だったのでした。
「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」
まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、
炉にはあかあかと
「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」
セエラは、しばらく寝台の上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下しました。
「夢を見ながら、
セエラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、熱さのあまり飛びさがりました。
「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」
セエラは飛び上って、テエブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、寝台の毛布に触ってみました。柔かな綿入の服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。
「温かくて、柔かだわ。本物に違いないわ。」
セエラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。
『屋根裏部屋の少女へ、友人より』
扉にそう書いてあるのを見ると、セエラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。
「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」
セエラは蝋燭を持ってベッキイの所に行きました。ベッキイは眼を覚して、緋色の綿入服を着たセエラを見ると、
「ベッキイ、来て御覧なさい。」
ベッキイは、驚きのあまり口を利くことも出来ず、黙ってセエラに従いました。ベッキイはセエラの部屋に入ると、眼が廻りそうでした。
「みんなほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私達の眠っている
それから、その晩二人はどうしたか、出来るなら想像して御覧なさい。
二人は火のそばに蹲って、料理皿にかけた
「一体、誰がこんなにして下すったんでしょう? 誰かいるのにはちがいないわ。私を想ってて下さる方があるのだわ。ねエ、ベッキイ、その誰かは、きっと私のお友達なのよ。」
「あの――」と、ベッキイは一度口ごもってからいいました。「あの、お嬢さん、これみんな、
「大丈夫よ。私もさっき夢じゃアないかと思って、その火に触ってみたのよ。」
おなかが一杯になると、セエラは、一人ではかけきれないほどある毛布を、ベッキイに分けてやりました。ベッキイは帰りしなに振り返って、貪るように室内を見廻しました。
「お嬢さま、これが皆朝になって消えちまっても、とにかく今夜だけはちゃんとあったんだから、私決して忘れないわ。」ベッキイは忘れまいとして、もう一度煖炉や、ラムプや、寝台や、
「こん中には、スウプに、サンドウィッチに、
朝になると、生徒も、召使も、いつの間にか
セエラは皆の眼を避けて、
「お嬢さん、眼がさめたらあってよ、毛布が。昨夜の通りよ。」
「私のもよ。私着物を着ながら、食べ残した冷いものを食べて来たわ。」
「そう、いいわね。」
そこへ料理番が入って来たので、ベッキイはまた茶釜の上に、顔を
教室ではミンチン先生が、やはりセエラはどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。さすがのセエラも、今日はしょげて出て来るだろうと思っていました。が、不思議やセエラは血色のいい顔に微笑を湛え、踊るような足どりで入って来ました。ミンチン女史の驚きといったらありませんでした。
「お前には、自分が恥しい目にあってるのが、判らないのかい?」
「すみません。私、それはよく知っております。」
「そんなら、その気で、そんな、何かいい事でもあったような顔をするものではない。生意気だよ。それから、今日は一日何にも食べられないのだということを、忘れないがいいよ。」
「はい、忘れません。」
いいながらセエラは、魔法のおかげがなかったら、今頃はさぞひもじかったろうに、と思いました。
「セエラは、大してひもじそうじゃアないわね。」と、ラヴィニアは囁きました。「まるで、朝飯に何かおいしいものでも食べて来たような顔をしているわ。」
「あの子は、普通の人達とは違ってるのよ。」とジェッシイは、フランス語を教えているセエラの方を見ながらいいました。「私、時々セエラが怖くなるわ。」
「莫迦ね。」
セエラはいろいろ考えた末、昨夜起ったことは、誰にもいうまいと決心しました。ミンチン先生が屋根裏に上って来ればおしまいですが、ここしばらくは大丈夫だろうと思いました。アアミンガアドやロッティは、見張りがきびしいから、当分忍んで来るわけにもいかないでしょう。それに魔法の神様も、きっとこの奇蹟を隠して下さるでしょう。
「どんなことが起ろうと、私には目に見えないお友達があるのだからいいわ。」
その日は、前日よりもお天気が悪い上、セエラは昨夜のことがあるので、よけい辛くあたられました。が、セエラはもう何にも怖いとは思いませんでした。夕方までには多少おなかも空いて来ましたが、セエラは今にまた御馳走が食べられるのだと思っていました。
夜更けて、一人自分の部屋の前に立った時、セエラの胸はさすがにどきどきしました。
「ことによると、もうすっかり片付けられてしまったかもしれないわ。昨夜だけちょっと私に貸してくれたものなのかもしれないわ。でも、借りたのは事実だったのだわ。夢でもなんでもなかったのだわ。」
セエラは部屋に入ると、すぐ戸を閉め、それに背をもたせて、隅々を見廻しました。魔法の神は、留守の間にまたここを見舞ったと見えます。昨夜なかったものまでが持ちこまれてありました。低い食卓の上には、またしても御飯の支度がしてありました。しかも、今日はコップも、お皿も皆二人前そろえてあるのです。炉の上の棚には、目のさめるような刺繍をした
「まるで、何かお伽噺にあることみたいだわ。何でも、欲しいといえば出て来るような気がするわ。ダイヤモンドでも、
セエラは壁を打って、隣の囚人を呼び出しました。ベッキイは、今夜は自分の紅茶茶碗でお茶をいただきました。
セエラは
「ぜんたいどこから来るんでしょう? お嬢さん、ほんとに誰がするんでしょう?」
「訊くのはよしましょうよ。私、知らないでいた方がいいと思うわ。でも、その誰かに、『ありがとう!』とだけはいいたいわね。」
その時以来、世の中はだんだん愉快になって来ました。お伽噺はうち続きました。たいてい毎日、何かしら新しいことが起りました。夜、セエラが戸を開けるごとに、室内には何か新しい装飾が施され、何か少しずつ居心地よくなっているのでした。そうこうするうち、屋根裏部屋は、いろいろの珍らしい贅沢なものの一杯ある美しい部屋になってしまいました。朝出て行く時には、前の晩の食べ残しが置いてあるのに、夜帰って来てみると、食べ残しは綺麗に片付けられ、また別な美味が置き並べられてあるのでした。
セエラはこうした幸福と慰めとのため、だんだん健康になり、希望に充ちて来ました。相変らず皆からはひどく扱われましたが、どんな時にも、屋根裏に帰りさえすればと思うと、辛いとも思いませんでした。
「セエラ・クルウは、大変丈夫そうになったじゃアないか。」と、ミンチン先生は不服そうに妹にいいました。
「ほんとに、だんだん肥って来たようですね。まるで餓えた烏みたいになりかけていたのに。」
「餓えただって? 食べたいだけ食べさしてあるのに、餓えるはずはないじゃないか。」
アメリア嬢は、へまな口を
「そ、そりゃアそうですけど。」と、
「あの子の年で、あんな風なのは、不愉快だよ。」
「あんな風なって?」
「いわば反抗心とでもいうんだろうね。たいていの子供は、あんな境遇の変化に逢ったら、意地も元気もなくなっちまうはずなのに、あの子はまるで、まだ
「姉様、憶えていらしって? あの、いつかセエラが教室でこういった時のことを。先生はどうなさるでしょう、もし私が――」
「そんなこと憶えちゃアいないよ。つまらないことはいうものじゃない。」
争われないもので、ベッキイも近頃はむくむく肥り出し、何か落ちつきが出て来ました。肥るまいと思っても肥り出し、怯えようとしても怯えられなくなったのだから仕方ありません。彼女もやはり、誰も知らないあのお伽噺のおかげを
すると、また素敵な事件が起きて来ました。ある日一人の男が玄関に来て、いくつかの小包を置いて行きました。その宛名は、『右手屋根裏部屋の少女へ』とだけ大きく書いてあるのでした。
小包を取りにやられたのは、ほかならぬセエラでした。彼女が一番大きい包みを二つ、客間のテエブルの上に置いて、宛名を眺めていますと、そこへミンチン先生が入って来ました。
「宛名のお嬢さんのところへさっさと持っておいで。そんな所に立ってじろじろ見てるんじゃアないよ。」
「でも、これは私のです。」と、セエラは静かにいいました。
「お前のだって? 何をいってるんだよ。」
「どこから来たのだか存じませんけど、宛名は私なんでございます。私の眠るのは右手の屋根裏です。ベッキイは左ですから。」
ミンチン女史は、セエラのそばへやって来て、昂奮した顔つきで小包を眺めました。
「何が入ってるんだい?」
「存じません。」
「開けてごらん。」
セエラはいわれた通りにしました。中から出て来たのは、着心地のよさそうな美しい衣裳でした。靴、靴下、
「
それを見ると、ミンチン女史は卑しい心の中に、何か不思議なことがあるなとさとりました。あるいは自分は思いちがいをしていたのかもしれない。この
「きっとどなたか御親切な方があるのですよ。こんなものをいただいたのだから、それに痛めば新しいのと換えて下さるというのだから、それに着かえて、きちんとしているようになさい。着かえたら教室に来て、自分の勉強をなさい。今日はもうどこへも使に行かないでいいから。」
着がえをすまして、セエラが教室に入って行くと、生徒達は驚きのあまり声も出ませんでした。
「まア驚いた。」とジェッシイはラヴィニアの肱をつっつきながら、頓狂な声でいいました。「すっかりプリンセス・セエラになり戻っちゃったじゃアないの。」
ラヴィニアは
ジェッシイのいった通り、今入ってきたセエラは、プリンセス・セエラでした。少くとも、セエラはプリンセス時代以来、今日のように身綺麗にしていたことはありませんでした。彼女は二三時間前までのセエラとは似ても似つかぬ
「きっと誰かが、あの子に財産を残したのね。」と、ジェッシイは囁きました。「私、いつでもあの子には何かしら起ると思ってたわ。」
「きっと、ダイヤモンド鉱山でも、また出て来たんでしょうよ。」とラヴィニアは、とげとげしくいいました。「そんな眼で見ると、あの子がいい気になるからおよしなさいよ。莫迦ね。」
ふいに、ミンチン先生が太い声でいいました。
「セエラさん、ここへ来てお坐んなさい。」
で、セエラは昔坐っていた名誉の席につき、俯向いて本を読み始めました。
セエラはその夜、部屋に帰って、ベッキイと夕飯をすますと、永いこと炉の火を見詰めて黙っていました。
「お嬢さん、何かお話を作ってらっしゃるの?」
「いいえ、私、どうすればいいのだろうと考えているの。私あの方のことを考えずにはいられないのよ。でも、あの方は何にも知られたくないのかもしれないでしょう。そんなら、あの方がどんな方だか探り出したりしちゃア、失礼になるでしょう。でも私、どんなにあの方をありがたく思ってるか――どんなに
いいかけてセエラは、ふとテエブルの上の文房具箱に眼をとめました。紙や、封筒や、インクや、ペンの入ったその箱は、
「まア私、どうして、今まであれに気がつかなかったんでしょう。私お手紙を書いて、あのテエブルの上にのせておくわ。そうすれば、きっと片付けに来る方が、手紙も一緒に持ってって下さるわ。」
そこで、セエラは次のような手紙を書きました。
あなたは、御自分を秘密に遊ばしたい御所存でいらっしゃいますのに、こんな手紙をさし上げる失礼をお赦し下さい。私は決して失礼なことをしたり、何か捜 り出そうとしたりなどするつもりはないのでございます。ただ、これほどまでに御親切にして下さったこと、何もかもお伽噺のようにして下さったことに対して、一言お礼を申し上げたいのでございます。あなたの御恩は決して忘れません。私も、ベッキイも、それはそれは幸福 です。私共は、ほんとうにいつも寂しく、寒く、空腹がちでしたのに、今は――あなたはまア、私共のために大変なことをして下さいましたのね。お礼だけは言ってもよろしいでございましょう。いわねば済まぬような気が致します。ありがとう! ほんとうにありがとうございます。
屋根裏部屋の少女
セエラは翌朝この手紙をテエブルの上にのせておきました。夕方帰ってみると、手紙は他のものと一緒に持ち去られたようでした。セエラは、手紙が首尾よく魔法使に届いたのだと思うと、一層幸福になりました。その晩、セエラがベッキイに新しい本を読んで聞かせていますと、天窓のところにふと何か音がしました。
「何かいるのよ、お嬢さん。」
「そうね、何だか、猫が入りたがっているような音ね。ひょっとすると、またあのお猿が脱け出して来たのかもしれないわ。」
セエラは椅子の上に立って、気を配りながら天窓をあけ、外を覗きました。雪の日で、白く積った窓の外に、震えながら蹲っているものがありました。
「やっぱり猿よ。きっと
ベッキイは走り寄っていいました。
「お嬢さん、入れてやるつもり?」
「ええ、お猿を外に出しといちゃア、寒すぎて可哀そうよ。猿は寒さに弱いのよ。私、だまして入れてやろう。」
セエラは、いつも雀やメルチセデクに話しかける時のように、片手をさしのべながら、あやすように話しかけました。そうしているとセエラは、セエラ自身まるで何か小さな人なつっこい獣で、内気で野蛮な獣の気持をよくのみこんでいるようでした。
「お猿さん、入らっしゃいな。私、苛めやしないことよ。」
そんなことは猿も知っていました。で、セエラがそっと手を取り、天窓の上にさし上げた時も、されるままになっていました。セエラが抱きしめると、猿もセエラの胸にしがみつき、髪の毛を親しげに握って、セエラの顔を覗きこみました。
「いいお猿だこと。私、小さな
猿は火にありついてうれしそうでした。セエラが坐って、膝の上にのせてやりますと、猿は物珍らしげに、彼女とベッキイとを見比べました。
「この子は不器量ね、お嬢さん。」
「ほんとに、不器量な赤ん坊のような顔をしているわ。お猿さん、御免なさい。でも、お前、赤ちゃんでなくてよかったわ。お前のお母さんは、まさかお前を自慢するわけにもいかないでしょう。御親戚のどなたに似てらっしゃるなどとうっかりお世辞をいうわけにもいかないしね。でも私、ほんとにお前が好きよ。」
セエラは椅子にもたれて、思い返しました。
「この子だって、きっと器量が悪いので悲観しているのよ。その事がしょっちゅう心にあるんだわ。でも、猿に心なんてあるかしら? 可愛いお猿さん、あなたには心がおありでございますか?」
が、猿はただ小さい手をあげて、頭を掻いただけでした。
「お嬢さん、この猿、どうするの?」
「今夜は、私の所にお
セエラは眠る時、自分の足許に猿の巣をつくってやりました。すると、猿はその巣が気に行ったらしく、赤ん坊のようにその中に
カリスフォド氏は安楽椅子に寄りかかり、ジャネットはその下に坐っていました。ノラは足台を見付けて坐り、ドウナルド(ギイ・クラアレンスのこと)は皮の敷物の飾りについている虎の頭に
「ドウナルド、そんなに
病人は、彼女の肩を軽く叩いて、
「いや、そんなことはない。噪いでくれた方が、考えごとを忘れていいのだよ。」
「僕は、これから静かにするよ。」と、ドウナルドはいいました。「みんなで、二十日鼠のようにおとなしくしようじゃアないか。」
「二十日鼠が、そんな大きな音をさせるものですか。」
ドウナルドは
「鼠がありったけ出て来たら、このぐらいの音はさせるよ。千匹ぐらいいりゃア、するよ。」
「五万匹集ったって、そんな音しやしないわ。一匹の鼠ぐらい、おとなしくしなきゃア駄目よ。」
カリスフォド氏は笑って、また彼女の肩を叩きました。
「お父様は、もうじきお着きになるのね。あの行方不明の娘さんの話をしてもよろしくって?」
「私は今、その話よりほか、とても出来そうにない。」
印度紳士は、疲れた顔の額に皺をよせました。
「私達は、その子がそれは好きなのよ。みんなでその子のことを、『
「なぜ、そう呼ぶの?」
「こういうわけなの。あの子は、ほんとうは
すると[#「すると」は底本では「す と」]、ノラはいいました。
「あの、あの子のお父様がダイヤモンド鉱山のために、お金をすっかりお友達にあげてしまったって話は、ほんとなの? そして、そのお友達は、そのお金をすっかり失くしたと思ったので、自分は泥棒のようなものだと思って、逃げ出したのですって?」
ジャネットは急いで、
「でも、その方は、泥棒でも何でもなかったのよ。」といいました。
印度紳士は、つとジャネットの手を取りました。
「まったく、そうじゃアなかったのだよ。」
「私、その方がお気の毒でならないの。」と、ジャネットはいいました。「その方は、お金を失くすつもりなんかなかったのよ。そんなことになって、どんなに胸を痛めたでしょう。きっと、お苦しみになったでしょうね。」
すると、印度紳士はジャネットの手を、ひしと握りしめて、いいました。
「あなたは、何でもわかる若い御婦人だね。」
「姉さん、カリスフォド小父さんに、あの話をした?」と、ドウナルドが大きな声を立てました。「あの『乞食じゃアない小さな女の子』の話をさ。あの子がいい着物を着てるって、話した? きっとあの子も、今まで行方不明だったのを、誰かに見付け出されたのだよ。」
「あら、馬車が来た。」と、ジャネットが叫びました。「
皆は窓の所へ飛んで行きました。
「ああ、お父さんだよ。」と、ドウナルドが告げました。「でも、小っちゃな女の子はいないよ。」
三人はじっとしていられなくなったので、先を争って玄関へ飛び出しました。お父様がお帰りになると、いつも子供達はそうして迎え入れるのでした。三人が飛び上ったり、手を
カリスフォド氏は立ち上りかけて、またどかりと椅子の中に身を落しました。
「駄目だ、俺は何というやくざな人間だろう。」
カアマイクル氏の声が、戸口に近づいて来ました。
「今は、駄目だよ。カリスフォドさんとお話をすましてからにしてくれ。その間、ラム・ダスと遊んでたらいいだろう。」
戸が開いて、カアマイクル氏が入って来ました。氏は前よりも血色がよく、
「どうだった?」と、カリスフォド氏が訊ねました。「ロシヤ人がひきとったというその子は、どうだった?」
「その子は、我々の探している娘じゃアなかったのです。クルウ大尉の娘よりは、ずっと年下でしてね。名前はエミリイ・クルウなのです。私はその子と会って話して来ました。ロシヤ人の家族は、委細を聞かしてくれましたよ。」
印度の紳士の失望といったらありませんでした。紳士は今まで握っていたカアマイクル氏の手を離して、だらりと自分の手を落しました。
「それじゃア、また捜索をやりかえさなければならないんだな。じゃア、やりなおすまでのことだ。まア、そこに掛けたまえ。」
カアマイクル氏は腰を下しました。彼は自分が健康で
「大丈夫、まだ見つけられますよ。」
「すぐまた捜索を始めにゃアならん。ぐずぐずしちゃアいられない。」カリスフォド氏はいらいらして来ました。「君、何か新しい心当りはないだろうか?――何かちょっとした心当りでも。」
カアマイクル氏も落ちつかない風に立ち上り、考えながら部屋の中を歩き廻りました。
「何かありそうでもありますな。どれだけの根拠があるかは、私にも判りませんが、というのはドオヴァからここまでの汽車の中で、いろいろ考えているうち、ふと思いついたんですが。」
「どんなことです? あの娘が生きてるとすると、どこかにいるわけだ。」
「その通り、どこかにいるはずなのですよ。パリイの
「ロンドンにも無数の学校がある。」カリスフォド氏はそういってから、ふと何かを思い出して、かすかに身を起しました。「そら、隣にだって一つあるじゃアないか。」
「じゃア、隣から始めることにしたらいかがです。近い所から始めるとすると、隣より近いところはないわけですからな。」
「その通りだ。それに隣には一人私の眼をつけている娘がある。だが、その子は生徒じゃアないんだ。ちょっと色の黒い
ちょうどその時、あの魔法が――あの手際のいい魔法が、また働き出したのでしょう。ちょうど印度の紳士がそういった時、ふとラム・ダスが入って来て、主人に
「旦那様、あの子が自分でやってまいりました、あの旦那様が、可哀そうだと仰しゃった娘が。屋根づたいにあの娘の部屋に来たといって、猿を伴れてまいりました。ちょっと待っているように申しておきましたが、会ってお話になったら、少しはおまぎれになりはしませんでしょうか。」
「あの子とは?」と、大屋敷の父が訊ねました。
「それあの子さ、今噂をしていた娘のことさ。学校の小使をしているんだ。」印度の紳士はそういうと、今度はラム・ダスの方に手を振っていいました。「よろしい、その子に会ってみたいから、伴れて来なさい。」そしてまた、カアマイクル氏の方にいいました。「実は君の留守中、寂しくてたまらないところへ、ラム・ダスが来て、不幸なあの子の話をしてくれたのさ。で、ラム・ダスと
そこへ、セエラが入って来ました。猿は、出来ればいつまでもセエラのそばを離れたくなさそうな顔をしていました。
「また、あなたのお猿が逃げて来ましたのよ。」とセエラは頬を紅らめ、さわやかな声でいいました。「
印度紳士のうつろな眼は、セエラの方に惹かれて行きました。
「それはどうも。よく気が付いて下すったねえ。」
セエラは、戸口の近くに立っているラム・ダスの方を向きました。
「お猿は、あのラスカアの方にお渡ししましょうか。」
「あの男がラスカアだということを、どうして御存じかね?」
紳士はほほえみかけました。
セエラは、いやがる猿をラム・ダスに渡しながら、
「そりゃア知っておりますわ。私、印度で生れたのですもの。」
印度紳士は顔色を変えて、立ち上りました。セエラはちょっと
「あなたは、印度で生れたと? それは、ほんとですか? ちょっとこっちへ来て御覧。」
手をさし出されたので、セエラは紳士の方に行き、紳士の手の上に、自分の手を置きました。彼女はじっと立って、
「あなたは、隣に住んでおられるのだね。」
「はい、ミンチン女塾におりますの。」
「でも、生徒ではないのだね?」
セエラは、口許に妙な
「私、自分が何なのだか、よく判りませんの。」
「それは、またどうして?」
「はじめは生徒で、特別の寄宿生でしたけれど、今はもう――」
「生徒だった? そして、今は何なのかね?」
セエラは、また妙に悲しげな微笑を口許に
「今は私、屋根裏部屋で、小使娘の隣に寝ております。そして、料理番の使に出されたり――料理番のいうことは何でも聞かなくちゃアならないのです。それから、小さい人達の勉強も受けもっています。」
カリスフォド氏は、力を失ったように椅子の中に身を落しました。
「カアマイクル君、君この子に訊いてくれたまえ。私は、もう駄目だ。」
大屋敷の父親は、小さな娘と話すのが上手でした。彼は美しい声で、はげますようにセエラに話しかけました。
「ね、嬢や、その『はじめ』っていうのは、いったいどういう意味なの?」
「お父様が、あそこへ私を伴れていらしった時のことですわ。」
「そして、そのお父様はどこにおられるの?」
「亡くなりましたの。」セエラは静かに静かにいいました。「お父様は、何もかも失くしてしまったので、私のいただくものは、もう何にもなかったのです。それに、私の世話をしてくれるものは一人もないし、ミンチン先生にお金を払って下さる方もないので――」
「カアマイクル君!」印度紳士は声高に呼びかけました。「カアマイクル君!」
カアマイクル氏は、小声で紳士に、
「この子を怯えさせちゃアいけませんよ。」と耳打ちしました。それから、声を改めてセエラにいいました。
「じゃア、そんなわけで屋根裏にやられ、小使にされてしまったのだね。そういうわけだったのだね。」
「誰も、面倒をみて下さる方がなかったものですから。お金はちっともありませんでしたし、私は、もう誰のものでもなかったのです。」
「お父さんは、どうしてお金を失くしたのだね?」
印度紳士は、息をのみながら口をはさみました。
「御自分で失くしたわけじゃアないんですの。仲のいいお友達があって――お父様は、その方がそれはお好きでしたのよ。お金を取ったのは、その方なの。お父様は、その方を信じすぎたものですから。」
印度紳士の息づかいは一層
「でも、その友人には、何も悪気があったわけじゃアないのかもしれんよ。何かの手違いからそんなことになったのかもしれんよ。」
セエラはそれに答えた時、自分の声がどうしてこんなに
「どのみち、お父様にとって、苦しみは同じことでしたわ。お父様は、その苦しみのためにお亡くなりになったのですもの。」
「お父さんの名は何ていうのだい? え?」と、印度紳士は訊ねました。
「ラルフ・クルウって名ですの。クルウ大尉ともいわれていました。亡くなったのは印度ですの。」
病人のやつれた顔が
「カアマイクル君、これがあの子だ。この子にちがいない。」
セエラは、紳士が死ぬのではないかと思ったほどでした。ラム・ダスは主人の口に薬を注ぎました。セエラは、そのそばにふるえながら立っていました。彼女はたまげたようにカアマイクル氏を見上げました。
「私が、何の子だと仰しゃるの?」
「この方は、あなたのお父様のお友達なのですよ。びっくりしちゃアいけません。我々は二年の間、あなたを探し廻っていたのですよ。」
セエラは手を額にあてました。唇はわなわな
「それなのに、私はその二年の間、壁のすぐ向う側の、ミンチン女塾にいたのだわ。」
「私は誓って、あの子を手放したくない。」
身体に障るといけないから、セエラを別室につれて行こうという話が出た時、カリスフォド氏は力なげに、カアマイクル氏にそういいました。
「この方のお世話は、私がしてあげてよ。」と、ジャネットはいいました。「もうじき、お母様も入らっしゃるでしょう。」
ジャネットは、セエラを書斎から伴れ出すと、こういいました。
「あなたが見付かって、私達はうれしくてたまらないのよ。どんなにうれしがってるか、あなたにはとてもおわかりにならないくらいよ。」
ドナルドは両手をポケットに入れて立っていました。彼は省みて自分を責めているようでした。
「僕がお金を上げた時、ちょっとあなたの名前を訊きさえしたらよかったのにね。あなたはきっとセエラ・クルウだと答えたでしょう。そうすれば、あなたを探す世話もなかったのに。」
そこへ、カアマイクル夫人が入って来たのでした。夫人はひどく感動しているようでした。彼女は、ふいにセエラを抱きしめて接吻しました。
「嬢やは、すっかりたまげているのね。でも、驚くのに不思議はありませんわね。」
セエラは、何といわれても、次の一事よりほか考えられませんでした。彼女は閉った書斎の扉の方をちらと見ていいました。
「あの方ね、あの方が、お父様のその、悪いお友達だったの? ほんとうにそうなの?」
カアマイクル夫人は泣きながら、またセエラに接吻しました。この子は永いこと接吻などされたことはなかったのだから、何度も何度も接吻してやらなければならない、と夫人は思いました。
「あの方は、決して悪い方じゃアなかったのですよ。あの方は、あなたのお父様のお金を、失くしてしまったわけではないのですよ。ただお失くしになったと思っただけなのですよ。それに、あの方はお父様を愛していらしったからこそ、悲しみのあまり御病気になって、一時は気さえ確かではなかったほどなのですよ。あの方も、熱病で死にそうだったのよ。けれど、あなたのお父様はあの方の御病気がまだ悪いさなかに、亡くなっておしまいになったのですよ。」
「そうして、あの方は、どこに私がいるかは御存じなかったのね。私はこんな近くにいたのに。」
セエラの頭にはなぜか、こんな近くにいたのにということが、こびりついていました。
「あの方は、あなたがパリイの学校にいらっしゃるとばかり思っていらしったのですよ。」カアマイクル夫人は、いって聞かせました。「それに、いつもいつも間違った手掛りに迷わされていらしったんですの。でも、あの方は到る所、あなたを探し廻ってらしったんですよ。あなたが、いたましい様子で通りかかるのを見ていながらも、それが気の毒な友人のお子だとはお気づきにならなかったのね。でも、あの方は、あなたもやはり小さい女の子だもので、気の毒でたまらなくって、どうかしてあなたを
セエラは、うれしさのあまり飛び立つばかりでした。彼女の顔色はみるみる変って来ました。
「じゃア、あれは皆ラム・ダスさんが持って来て下すったんですの? あの方がラム・ダスさんにおいいつけになったんですって? 私の夢を
「そうですとも。あの方は、親切ないい方なのですよ。あの方は、行方のしれないセエラ・クルウのことを想えばこそ、あなたのこともお気の毒になったのですよ。」
書斎の扉が開いて、カアマイクル氏が姿を見せ、セエラに来いというような様子をしました。
「カリスフォドさんは、すっかり気持がよくおなりです。だから、あなたに来ていただきたいと仰しゃってです。」
セエラは、カアマイクル氏の言葉が終るのを待たず、書斎に入って行きました。入って行った時のセエラの顔は、さっきとはまるで変っていました。
セエラは、紳士の椅子の
「あなたがあの、美しいものをたくさん下すったのですってね。」
「そうだよ、可愛い嬢や、私が送ってあげたのだよ。」
紳士は永い間の病気や心配のため、心も体も弱りはてていました。が、彼は、セエラを抱きしめてもやりたいというようなやさしい眼で、セエラを見ました。セエラは父からこれに似たまなざしをよく受けたものでした。で、セエラはそのまなざしを見ると、すぐ紳士の傍に跪きました。昔父とセエラが無二の親友であり、愛人同士だった頃、父の傍に跪いたように。
「じゃア、私のお友達はあなたでしたのね。あなたが私のお友達だったのですわねエ。」
そういうとセエラは、紳士の痩せ細った手の上に顔を押しあてて、幾度も幾度も接吻しました。
それを見ると、カアマイクル氏は細君に囁きました。
「あの人も、もう三週間とたたぬ
カアマイクル氏のいった通り、紳士の様子はすっかり変ってしまいました。『小さな奥様』が見付かったからには、また何か新しい計画を考えなければなりません。まず第一に、ミンチン先生の問題がありました。一応先生にも面会の上、生徒の一身上に起きた変化を、報告しなければならないでしょう。そして、セエラはもう学校には戻らないことになりました。印度紳士はその点だけは、何といっても聞きませんでした。セエラは紳士の家に
「帰らなくてもいいんですって? まアうれしい。」とセエラはいいました。「先生は、きっとお怒りになってよ。あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私の方でも先生が嫌いなのですもの。」
だが、そこへちょうどミンチン先生自身が、セエラを探しにやって来ましたので、カアマイクル氏はわざわざ出掛けて行かないでもすみました。
* * *
* * *
その晩、学校では皆いつものように、教室の煖炉の前に集っていました。そこへ、アアミンガアドが一通の手紙を持って、丸い顔に、妙な表情を浮べながら入って来ました。
「どうしたの?」と、二三人一時に叫びました。
「私、たった今、セエラさんから、この御手紙いただいたの。」
「セエラからですって?」「セエラはどこにいるの?」
「おとなりよ。印度の小父さんの所にいるのよ。」
「え? あの子は逐い出されたの?」「ミンチン先生は、そのことを知っているの?」「どうして、手紙なんかくれたの?」「よう、話してったら。」
余りの騒ぎにロッティなどは泣き出しました。アアミンガアドはのろのろ説明し始めました。
「ダイヤモンドの鉱山はやっぱりあったのよ。やっぱりあったんですって。」
開いた口と、見張った眼とが、彼女の方に向けられました。
「あの話は
「カリスフォドさんて?」とジェッシイは叫びました。
「印度の紳士よ。それからクルウ大尉も、やっぱりそう思って――死んでしまったのよ。それから、カリスフォドさんも熱病で死にかけたんですって。そして、あの人にはセエラがどこにいるか判らなかったんですって。それから、お山には何百万も何百万ものダイヤモンドがあると判ったの。その半分はセエラさんのものなの。それなのにセエラさんは、メルチセデクだけをお友達にして、屋根裏に住んでいたのね。今日カリスフォドさんがセエラを見付けて伴れてってしまったの。もう決して帰って来ないのよ。
あとは、ミンチン女史も静めかねるような騒ぎでした。少女達は規則なぞ忘れて、
この話を耳にしたベッキイは、いつもより早めに屋根裏に上って行きました。彼女は皆から離れて、もう一度、あの小さな魔法の部屋が見たかったのでした。「あの部屋はどうなるのだろう。」ミンチン先生の手に渡るようなことはなさそうに思えました。「何もかも取り払われて、屋根裏はもとの通り
ベッキイはしゃくり上げて来る
ラムプは室内に照りはえ、火は燃えさかり、夕餉の支度もちゃんと出来ています。そしてラム・ダスが笑いながら、彼女の方を見て立っているのです。
「お嬢様がお気づきになりましてね。ご主人様に、すっかりあなたのことをお話しになりましたのですよ。お嬢様は、御自分の
輝かしい顔で、こういい終りますと、ラム・ダスは
『大屋敷』の子供部屋は、今までにないような大騒ぎでした。子供達は『乞食じゃアない小さな女の子』と近づきになったため、こうまでうれしいことが湧き出て来ようとは、夢にも思いませんでした。セエラは、ひどい苦労をして来ていることのために、よけい皆から大事にされるのでした。誰も彼もが、セエラの身の上話を、繰り返し繰り返し聞きたがりました。誰しも炉辺で温かにしている時には、屋根裏のひどい寒さの話なども、気持よく聞くことが出来るものです。また、メルチセデクのことや、雀共のことや、天窓から頭を出すと見える
子供達が一番よろこんだのは、あの饗宴と空想とがほんとになって現れて来たところでした。セエラはカリスフォド氏に見つけられた翌日、初めてこの話をしたのでした。その日、大屋敷の人達はお茶に招ばれ、セエラと一緒に炉の前に坐ったり、蹲ったりしていました。そこで、セエラは例の調子で、その話をしたのでした。印度の紳士も、セエラを見守りながら、耳を傾けていました。話し終るとセエラは印度の紳士を見上げ、紳士の膝に手をかけていいました。
「私のお話はこれだけですの。今度は小父さんの方のお話を聞かして下さいな、アンクル・トム。」紳士の望みで、セエラは紳士を『アンクル・トム』と呼んでいました。「小父さんのお話は、まだ伺いませんのね。きっと立派なのにちがいないわね。」
そこで、カリスフォド氏はこう語り出しました。病気で物憂く、いらいらしている時でした。一人寂しく坐っていると、ラム・ダスはよく外を通って行く人の品定めをして、病人の気をかえようとしました。中でも一番よく前を通って行くのは、一人の女の子でした。カリスフォド氏はちょうど見付からぬ小さい娘のことを絶えず考えていたところでした。それにラム・ダスから、猿を逃がして、その子の部屋に捕えに行った時の話を聞くと、何かその子に心を惹かれるように感じました。ラム・ダスはその娘の顔色の悪いこと、またその子の様子が召使になどされる下層社会の子らしくないということなども話して聞かせました。ラム・ダスは話すたびに、こんなこともございましたよと、その子の生活の惨めな事実を見付けて来るのでした。ラム・ダスはまた、屋根を伝って行けば、造作なく天窓からその子の部屋に入れるということも話しました。で、そこからすべての計画が始まったわけでした。
「旦那様!」と、ある日ラム・ダスは申しました。「あの子が使に出た留守に、屋根から入って、あの子の部屋に火をおこしておいてやることも出来ると存じます。あの子は濡れ凍えて帰って来て、火を見ると、きっと留守の間に魔法使がおこしておいてくれたのだと思うでございましょう。」
この思いつきは、非常に奇抜でしたので、カリスフォド氏も、暗い顔に輝かしい微笑を湛えたほどでした。それを見ると、ラム・ダスは夢中になって、火をおこす他に、これこれのこともやろうと思えば造作なく出来ます、と主人に話しました。ラム・ダスの思いつきや計画は、子供じみていて愉快でした。それを実行する準備に忙しかったので、いつもは退屈な永い日が、愉快に飛びすぎて行くようでした。折角の饗宴を、始めない先にミンチン先生に見付けられたあの晩は、ラムダスは持って行くものをすっかり自分の部屋に用意して、天窓から様子を見ていたのでした。彼の
「私、ほんとにうれしいわ。」と、セエラはいいました。「私のお友達が小父さんだったのだと思うと、うれしくてたまらないわ。」
セエラと小父さんとは、たちまち非常な仲よしになりました。二人はいろいろのことで、不思議にしっくりと気が合うのでした。印度紳士は、今までにこんなの気の合う人とめぐりあったことはありませんでした。一月とたたぬうち、彼は、カアマイクル氏が予言したように、まったく別人のようになりました。紳士はいつも愉快そうで、気がひきたっているようでした。あんなに重荷にしていた財産も、今は持っていてよかったと思っていました。まだまだセエラのためにしてやることは、いくらでもあるのです。二人は
『我名はボリス。プリンセス・セエラの
印度紳士の一番好んだのは、襤褸を着た
ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。
「セエラ、何のつもりになっているの?」
セエラは頬をぽっと輝かせました。
「こういうつもりだったの。――こういうことを思い出していたのよ。ある日大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」
「でも、たいていの日はひもじかったんじゃアないのかい?」印度の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」
「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」
セエラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。
セエラは語り終ると、こういいました。
「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」
「どういうことをしてあげたいのだね?
セエラは、ややためらいながらいいました。
「私、あの――私には大変なお金があると仰しゃったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こういおうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が――殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その
「いいとも。早速、明日の朝行って来たらいいだろう。」
「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味っているでしょう。ひもじい時には、何かつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい。」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」
次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士の
馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。
セエラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセエラの方を見ました。セエラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくの間、穴のあくほどセエラの[#「セエラの」は底本では「エセラの」]顔を見つめていましたが、人のいい顔はじき、はればれとして来ました。
「確かに、お嬢様にはお目にかかったことがございますわ。でも――」
「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから――」
「それから、あなたは六つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だかわけがわかりませんでしたけど。」
おかみさんは、今度は印度紳士の方に向き直って、こう話しかけました。
「失礼でございますが、旦那様。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢様、でも、あなた様はまア、お顔色がよくおなりですこと――それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に――」
「おかげさまで丈夫よ。それに――以前よりはずっと
「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まアお嬢様、それはそれは、どんな御用でございますの?」
そこで、セエラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな
おかみさんは話の間、セエラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終るとまた、
「まア、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもうその日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこら中におりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起して、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。――あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」
プリンセスと聞くと、印度の紳士は思わず微笑しました。セエラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起して、ちょっと微笑しました。
「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セエラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」
「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが――ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」
「あら、それじゃアあなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」
「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そらあそこに、ね、お嬢様、あの奥の部屋に、もう一月もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いの他役に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」
おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんの
「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじい時にはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でもいやがらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変りはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」
セエラとアンヌとは、ちょっとの間、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セエラはマッフの中から手を出して、帳場の向うのアンヌの方にさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互に眼を見合せました。
「私、うれしくてよ。」と、セエラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」
「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。
アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セエラには、アンヌの気持がよく解るような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セエラが印度紳士と一緒に店を出、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。