緑衣の少女

聊斎志異 巻八「緑衣女」

佐藤春夫




 益都の生れの小宋という別名を持った于生という若者があった。彼は醴泉寺の僧房に学生として住んでいた。或る夜のこと、ちょうど彼が読書に耽っている時であった。突然、窓のそとに若い女性の声が聞えた。それは彼を讃める言葉であった「于さん、大そう御勉強でいらっしゃること。」彼はおどろいて跳び上った。そうしてその方を見た。それは、緑の衣を着て長い上衣を身にまとった比べるものないほど優しいたおやかな少女であった。彼は一目に、その少女が人間の類ではないという予感を持つことが出来たから、押してその住所を聞いてみた。しかし少女は答えた「ここに居るじゃございませんか、私が何か人を噛みつきでも食べでもするように見えまして? なぜあなたはそんな事を訊いたり探ったりなさるのでしょうね。」彼は心からこの少女が好きになった。その夜、彼の女は若者の許に泊った。少女の下着は透かして見える絹であった。彼の女がその紐をといた時、彼の女の腰は片一方の掌でまわるほどに細かった。しかし、夜が明けた時、彼の女は寝床から身を飜すと、そのままどこかへ消え去ってしまった。
 それから後は、若者の許に少女の訪れない夜はなかった。或る夜、二人は向い合って食卓を倶にした上、いろんな話を語り合った。そうして彼は少女が音や律のことについてよく理解しているのを知った。彼は云った「若しお前が唄をうたったら、お前の唄のために私の魂が飛び去ってしまうにちがいない。」彼の女は笑いながらそれに答えた「あなたの魂が飛んで行ってしまっては大変です。」しかし彼が一そう強くたのんだ時、彼の女は言った「私は唄を吝むのではありません。ただ他人に聞かれるのが気になるのです。でもあなたのお頼みなら、よろこんで拙い芸をお聞かせいたしましょう。」それから少女は、しなやかに足拍子をとりながら寝床に身をもたせて歌った――

樹の上に黒い鷹が怖ろしい
深い夜にもわたしを眠らせない
それ故わたしはあなたの名を呼んで啼く。
わたしは気にもとめない――
わたしの絹の靴や、またそれを透して
雨がわたしを濡すことなどは。
ただ案じる、どんなにあなたが淋しかろうと
そうして、走る、ただ走る、あなたの方へ。

 少女の声は絹糸のようにかすかであった。辛うじて聴きとれて、辛うじて分るほどであった。彼は身動きもせずうつりかわって行く高低の調子と、円転し、さては絶続する音律に聴き入った。それは耳に媚び、心臓をゆすぶった。歌い終った時に、少女は扉を開けて外を見ながら言った「胸がどきどきする。誰かそとに、窓の前に人が居るようです……」彼の女は自分のまわりと、家のまわりとを見まわしてから再び室に這入って来た。若者は言った。「何を考えているのだ。何が恐しいのだ? お化けは人にかくれ人を恐れるという諺があるよ。」少女は笑いながら答えた。「それじゃ私もそのお化けでしょうよ。」
 彼等がそれから臥床に這入った時、少女は大へん歎き乍ら訴えた「生きて居るという幸福はもう多分終りに近づいたのでしょう。誰も知る筈もない事ですが……。」彼はどうしてだと訊いてみたが、彼の女はただ答えた「私の胸がどきどきする。私の胸が動悸を打つときは私は死ななければならないのです。」彼は少女を色々と慰めて、心臓が波打つのや眼がひきつるのは何にもそう大したことではないと言った。そうしてもう一度訊ねた「なぜお前はそんな事を考えるのだ?」それで少女は又再びうれしげな笑を洩した。そうして二人は共にその夜を明かして互に互を愛し合った。
 次の朝、水時計が滴り尽きた時、少女は立上って衣をつけると、扉を開けようとした。けれども永い間それを躊躇していた後に、再び戻って来て言った「なぜだか私の胸は恐しさで一ぱいです。お願いです、どうぞ私を扉の外まで連れて行って下さいませ。」そこで若者は立ち上って少女を扉の外まで導いて行った。少女は言った。「ここに立って居て私を見送って下さい。あの塀を曲って消えるまで家へ這入らないで下さい。」「ああいとも」若者はそう答えて、少女が家の角を廻ってしまうまで見て居た。彼の女の姿がもう見えなくなって、彼が帰ろうとした時、突然、少女の声が聞えた。高い救いを求める叫びが若者の耳を劈いた。苦痛が彼の身中を通りすぎた。大急ぎで彼はその場所へ急いだ。しかし、そこには、いかに見廻しても、人間の足跡さえ見出すことが出来なかった。叫び声は家の庇の下から洩れて来るのであった。彼がそれをよく見定めようとして頭を挙げるとそこにはちょうど弾丸ほどの大きさの蜘蛛が、一匹の虫を捕えようと身構えているのであった。叫び声は悲しげにひびいてもう消え入ろうとしていた。彼は網を引きさいて、その小さい生物を手に取ると、そのからだに巻きついていた糸から放してやった。それは一匹の青銅色をした蜂が力も抜けて落ち入ろうとしているのであった。やがて、しばらくの休息によって元気を回復した虫は、もう脚で歩もうとしていた。ゆっくりと蜂は硯の方へ匍いよって、ほとんど溺れるばかりに墨のなかに身を浸すと、再び机の方へ匍い出して来た。そうして歩むことによって、その蜂はそこへ、机の上へ「謝」という一字を書いた。再び翅をふるわせたと思うと、その次の瞬間にはもう窓を越えて飛び去ってしまっていた。
 それから後、あの少女はもう若者を訪れることは無かった。





底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
   2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本 佐藤春夫全集 第10巻」臨川書店
   1999(平成11)年4月9日初版発行
初出:「現代 第三巻第七号」
   1922(大正11)年7月
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2025年5月18日作成
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