幾度目かの最期

久坂葉子




 熊野の小母さんへ。
 あなたには、四五年も昔から、よくお便りしてます。けれど、こんな殺風景な紙に、宿命的な味気ない字を書くことは、はじめてです。いつも、信州の紙とか、色のついたアート紙に、或いはかすれた筆文字で、或いは、もっと、面白くきれいな字――いやこれは、おこがましいかな。でも、あなたは、私の字を好んでくれました。――で、お便りしたものです。何故、この紙を選んだか、おわかりですか。実は、あなたにたよりしている気持で、私は、おそらく今度こそ本当の最後の仕事を、真剣になって綴ろうというのです。これは富士正晴氏の手に渡るでしょう。そして、彼の意志かあわれみで同人雑誌のVILLONか、VIKINGに印刷されるでしょう。その活字が、あなたの手許におくられるだろうと思います。VIKINGの同人、宇野氏が、あなたを御存知だから。私はこれを、二十二日、つい六日前に書いた、鋏と布と型、という舞台のものを、もう一度、あらためて、私の最後の仕事にするつもりです。これは、小母さんに関係のないことだけど、その芝居は、もし上演されるなら、私が暫くなりとも籍をおいて、既に愛着を抱いていた、現代演劇研究所で、上演してほしいものです。役は、マネキンを川本さんに、彼女は音楽的な感覚をもっているし、舞踊が出来るんだ。ついでに、私ののぞみもつけ度したら、おどけたアクションをつけてほしいこと。デザイナー諏訪子は、私のはじめての芝居、女達の、久良久をしてくれた、前田さんに、音楽は、徳永さんにしてほしい。それから、演出は、くるみ座の北村さんが、してくれるなら、ぜひしてほしいのだ。私がするつもりだった。彼は、おそらくやってくれるだろう。この原稿も(芝居の)、VILLONかVIKINGに、富士さんは、のっけてくれるだろう。
 小母さん。この原稿全部、あなたの興味ないものかも知れないことだけど、とりあえずよんで下さい。
 今、九時二十分頃でしょう。今日は十二月二十八日。御宅へ御邪魔して、神戸へ戻り、メコちゃんという、屋台の焼とり屋で、一本コップ酒、四本の、かわつきのとりを食べ、そこから、七十円で帰ったの。メコちゃんのところで、私は、こんな会話を、知らない客と致しました。その客は、三人居て、盃一ぱいの酒と、ピース二本くれたんです。
「どっか、近いところで、雪がうんとつもっているところ、知らない?」
「神鍋」
「スキーしにゆくんじゃないの、雪見にゆくの、人の居ないところ」
 私は、そう云いながら、真白につもった雪の中を、ゴウ然とはしる汽車の音を、想像しました。
 一人の男は、簡単な地図をかいてくれました。神鍋の近所なんです。だけど私は、その地方に魅力がなかったもんで、びわ湖の附近に、静かな雪のところがないかと云いました。別の一人が、
「タケオがいいよ」
 タケオとは武生とかくんだそうで、米原の先、北陸線だそうです。私は其処へ行こうときめたんです。
 風邪をひいていて、のどがからからします。叔父達がきて、八畳の間で、麻雀をしてます。私は、部屋で、いろりに火をたき、湯たんぽを足にいれて、今、書いてるんです。
 小母さん、一月四日、再会を約束しましたね。ごめんなさい。今日はいい日でした。ちっちゃい御弟子さんが、ソナチネなどひいている間、私は昔を思い出しました。やっぱりソナチネをやったのですもの。みんな知ってる曲ばかり。でも私の方が、ちょいとばかりあの頃、うまかったようです。さて最期に、私は、アルベニスをひきました。つい先達日、大阪の笹屋で、楽譜をもとめたばかりなので、練習不足だし、弾きなれないピアノで、ソフトペダルが、とてもききすぎて、戸惑っちまい、不出来だったと思います。三曲とも、とても好きな曲です。タンゴには、少し思い出などあったりしてね。さてその後、御馳走をいただき、お遊びをして。でも、私は、まるで、他のことばかりを思いつめてました。
 小母さん。この前にうかがった時、実は、もうお目に掛らないつもりだったのです。門のところで握手して下さいましたね。
 うんと苦しんで、その苦しみが、あなたを生かすでしょう。小母さんの御言葉を、その時、二人でガスストーヴをはさみ、煙草をすってましたっけ。そのお言葉を記憶してます。私は、二十二日(その日の三日位後ですか)に、黒部へ行って自殺しようと決めてたのです。ああ、火がとてもよくおこってます。小母さん。小母さんの御言葉は、むごい程よ。苦しむのは、私もうまっぴらなんです。苦しむのは嫌よ。私云いましたね。三人の男の人のことを。三人のちがった愛情を、それぞれ感じながら、私、罪悪感に苦しむって。私、この三月、薬をのんで、失敗して生きかえりました。妻のある人を愛したんです。このこと、申し上げましたね。私は、生きかえって肺病になり、半年間、寝ている間、彼への愛情と憎悪に、ひどく自分をこまらせたもんです。そして、にくみました。ものすごく。彼のことを人々に云いました。云う度に、彼への愛情がうすらいでゆくんだと、自分で独りぎめしながらね。病気がよくなって、彼に会った時、つめたい表情で、彼は私に、嫌味のようなことばかりを云ったもんです。私はもう自分の気持に終止符をうちました。そして、十一月頃、そうだ、二十日なの、その日に、貸していた金額四千円をもらうため彼に会いました。彼はだまって、そっと、四千円出し、はやくしまえ、って云ったわ。それ迄に、私は、随分出たらめを云いました。結婚するんだ。来年。そんなことを、衝動的に、たくさん云ったのです。じっと私の顔をみてました。そして、次の木曜日、再会を、彼の方から云い出したんです。映画館の前で別れる時。握手した時。私は、自分で、彼をさげすめ、さげすめと号令しながら、だんだん、愛情を自分でみとめてしまうようになっちまった。小母さん、私はその夜、京都へ行って、別の人の、愛撫をうけたんです。彼のことを少しのべます。今、私がとても愛している人なんだ。病気で寝ている時、れもんをもって幾度か見舞に来てくれているうちに、私は愛というより、ほのぼのとした、わけのわからない感情を持ちはじめたのです。過去の人とは、まるでちがう性格だし、風貌だし、動きでした。だから、私は、過去の人とのやぶれた夢を彼に再現させようとしたのではないのです。最初は勿論、インタレストだったかも知れません。でも、ものすごくひかれはじめました。彼の中には、清浄さだとか、純粋さは、見出せません。生活に淀んでいるみたい。おかしな表現かもしれませんが、谷川ではなしに、もう海に近い、そして、船の油や、流れて来た、汚いものが浮んでいる川の中に、どこへでも行け、といった気儘気随でいる流れ木のような感じの人なんです。私は、会う度に、どんどんひっぱられてゆきました。彼も、私に、最初、興味とか、いたずら気しかもたなかったでしょうが、とても愛してくれました。十月頃だったか、いえ、九月の末頃かしら、一度、私すっかり、嫌いになったことがあります。それは、作曲家のT氏夫妻とのんで、その後トーアロードで、知らぬ婦人にいたずらしたことです。大へんな侮辱を加えたんです。私は女だから、とてもそれを平気でみては居れませんでした。揚句の果、私のきらいな職業の巡査さんに、説教されたりして、いくら飲んでるからって、とてもその行為はゆるせなかったのです。その夜、泣き度いような気持でした。そして、やっぱり、私は過去の人を愛してるだろうと思ったりしたんです。だけどその後会う度に、そして手紙をもらう度に、私は自分の感情をおさえることが出来なくなりました。すっかりもう、その人のことが、心の大部分を占めはじめたのです。京都での夜、抱擁と、接吻をうけて、私は、とても嬉しかったのです。過去の人を忘れてしまえと思いました。忘れられそうだった。単純よ。私は。
 小母さん。だけど、私は、駄目。一週間おいて、過去の人に会った。駅で小一時間、待った。もう冷くしよう。彼には、通り一ぺんの挨拶でわかれてしまえと思った。私は、だけど何てひどい女でしょう。あの夜程、自己嫌悪にみちたことはありません。私は、彼とのみながら、お喋りしながら、又、自分の彼への愛をみとめてしまったのです。彼の本当の愛情を感じることが出来たんです。彼を私は誤解してたんです。彼はやっぱり、私を、真実に愛してくれてました。現実とか、社会とか、そんなことをはなれて、愛し合うのだとお互に申し合せました。彼には子供が生れ、私は、その一人の、私にとって何かみえないつながりのあるその子供のことのために、彼の妻より一歩さがった、愛情をもちつづけはじめたんです。彼のことを悪く云い、そう思ってた私自身を、恥じました。大へんな罪悪感なんです。でも彼は私をとがめなかった。ゆるしてくれたのです。後悔しない。私は今幸せだ。私のその言葉に、彼は、喜んでくれたのです。二人で歩きました。小母さん。私達は、ある横道の、うすぐらい道のほとりにある、一部屋にはいりました。あなたの子供がほしい。私はさけんだのです。小母さん。私は真実それをねがった。だけど小母さん。私は、新しく愛した人の存在が、私のすぐ傍によこたわっていることに気づきました。別れるなんぞ云わない。又会う日までと云って、自動車から降りて行った過去のその人の後姿を見送って、一人になった時、私は、恐しさで一ぱいでした。私は、家へかえり、いそいでレター・ペーパーを、ペンをとり、新しく愛しているその人に、手紙をかきました。(いや、その翌日だったかも知れませんが)罪深い女だと。昔愛した人に会ったのだと。そして過去の彼を愛しているんだけど、その過去は、たちきられたものじゃない。現在につながる過去なんだ。手紙が彼のところへついた翌日だったか、その日か、彼は夜おそく、神戸へ来ました。そして、過去愛してたというのか、今なおかを私に問うたのです。私は、過去だと云ったんだ。過去はたしか。だけど、過去は現在につながっているのだ。やはり今も愛しているんだ、って云えなかった。別の感情で二人の人を愛しているなど、それは、実に卑劣な云いわけです。だけど、実際私は、そうだった。それは、夏の太陽みたいな、輝しい猛烈な愛情を求める気持と、静かないこいのような沈んだ青色のような愛情を求める気持と。だから私は、もう過去の人へ行動はしないつもりでした。
 小母さん。私は頭の中が整理出来ない。いや心の中を整理することが出来ない。だから、ゆっくり、思い起して、事実をかいてゆきながら、ぬけているところもあるだろうと思います。だけど、私は小説書いてるのじゃない。正直な告白を、真実を綴っているのです。だから、ここにかかれたことは、すべて、まちがいなしに本当なんだ。本当の私の苦しみで本当の私の自責なんです。
 小母さん。順序よくかくことが出来ないし、字も荒れて来た。だけど私、止めないで書いている。
 小母さん。それから、未だ一人の男性が私の附近にいるのです。彼を、青白き大佐とよびましょう。そのいわくは後にして。彼とは、夏すぎに妙なお見合いをしたんです。病気がよくなり、だけど私にとって希望も何もなく、誰でもいいから結婚するわ、と洩した言葉を、青白き大佐の兄貴がきいて、私と大佐を私の部屋で、会わしめたんです。ところが、お互に好きになれなかったため、何のはじらいもなく、ずけずけ云い合ったもんです。彼が作曲をしてたんだということをきいて、音楽のことなど、まるで色気もなく喋ったもんです。その後、家にレコードをききに来たり、お茶をのみに行ったりしましたが、私は、彼の才能に、びっくりしながら、好感さえも抱いてませんでした。今、商売人の青白き大佐が、音楽の話などして、郷愁ではすまされぬ心の動きを、私はにやにや笑って面白半分にみてました。私がひきあわせた作曲家のクヮルテットの楽譜をみて、彼はおそらく、気持がおだやかじゃなかったことでしょう。喫茶店や何かで、いい音色に出くわすと、彼は堪まらなく落つきなく、耳にはいる音の流れを追っているのです。私は意地悪く、その表情を観察したりしてました。
 小母さん。青白き大佐は、私を嫌いだ。嫌いだといってたのです。だけど、よく私を訪問しました。そのうち、私は青白き大佐と結婚したら、幸せになれそうな気がしたのです。彼は、とても大人だから、私が何を云おうと、何をしようと、眺めてくれるんです。私は、神経をつかわなくて済むし、気楽だろうと思ったのです。そして、私と青白き大佐は、遂に婚約しました。それがふるってるんです。契約書をとりかわしました。拇印を押しました。だけど、私は実際のところ、真剣に結婚を考えてはいなかったのです。だから、買主が大佐、売主が私。売物は売主と同一のもの、但し、新品同様、履行は、昭和二十九年。さらい年です。など二人でとりきめながら、至極かんたんに契約したわけなんです。彼の気持などは、私、ちっとも考えないし、想像もしなかった。それが、十一月十七八日のことです。人に若し喋ればこの契約は放棄になるなどという条件まで、すみでしたためたものです。ところが、私は、まるで冗談半分だったので、四五人の人に、結婚するんだと云いました。しかも、来年しますなどと。何故、大佐が結婚を昭和二十九年にしたかは、後ほどにまわします。だから、私の過去の人に会った時、結婚するんだ。その人はかつて作曲家で、など云ったのは、まんざら出たらめでもなかったわけです。大佐は、私が、新しく恋をしていることも過去の人をまだ愛し、そのために苦しんでいることも知っているんです。京都での一夜の時も、大佐は傍に居ました。だけど私は平気でした。何故なら、大佐とは、お互に惚れぬこと、などという条件があったのですから。それに、私は、恋愛を結婚までもって行くことに反対してたんです。私のような、過激な、情熱のかたまりみたいな女は、恋愛して、そのまま結婚することは、とても出来ない。恋愛を生活に結びつけられないんですの。
 小母さん。それに、私には、三代目の家族が傍にあるのです。三代目の家族の一人なんです。有名な親をもち、有名な祖父、曾祖父をもち、貴族出の母親をもっているんです。その悲劇は、どうせ、このつづきにかきますから、今ははぶきましょう。私を死にいたらせる一つの原因にでもなるんでしょうから。一番大きな原因と云えば、勿論、厭世ニヒルでもなく、愛情の破局ですけれど。
 小母さん。今ちらと、小母さんと共にすごしたあのふんいきを思い出しました。いつもいつも花がありましたね。小母さんは花が好きな人。田中澄江さんという劇作家の人の作品には、必ずのように花が出てくるそうです。だけど、小母さんと花の方が、もっともっと近よったつながりがあるみたいだと思います。
 さて、もとへ戻して。
 小母さん。私は三人の人が私の心の中でメリーゴーランドのように、ぐるぐる私のまわりを舞い出しているのを、おだやかな気持で見てはいなかった。だけど、それは長くはなかった。私は新しく恋をした人に、すべて、私の心がひきずられてゆくようになったのです。青白き大佐とはよく会いました。だけど、まるで私はいつも他のことを考えてたようです。子供が生れたら、ピアニストにするんだなんて冗談を云いながら、私は、彼の子供なんか、生める筈はない。生み度いと思わない。と心の中で思ってました。だけど、気にかかることが一つあったのです。何故、彼が、すぐに結婚すると云わず、二十九年にしたかということです。ああ、その告白をきいた時、私は身ぶるいをした位です。このことは、世界中に私しきゃ、大佐と私しか知らないことなんだ。だから、やはり、ここに書けない。唯、一人の女性がからんでいる――私の知らない――ということだけをのべましょう。私はその話をきいて、彼が不幸だと思いました。そして、私のような罪深い女――その時すでに、私は、過去の人に対する罪悪感と、新しく恋をした人に対する罪悪感とで、苦しんだのですから、過去の人に一生あなたを愛すると思い、告白し、新しく恋をして彼の愛情にそむいたこと。それを、心の隅にのこされている過去の人へのやはりわずかな愛情を、新しい人へそむいてるみたいな気がして。――と一しょになって、慰め合うことが、いいのじゃないかとも思い直したりしたんです。そのちょっと前に、私が非常に愛しはじめた――その人のことを、鉄路のほとり、と呼びましょう。彼は高架の下の、しめった空気がすきなんだから――その人、鉄路のほとり、とのある心の事件があるんです。異人街の道をあるき、別れる時に、彼の過去をきいたのです。勿論、すでに私の過去を彼は知っているんです。誰ということも。鉄路のほとりと、私の過去の人――かれを緑の島と呼びましょう。沖なわ節をよくきかせてくれたから――とは知り合いなんです。それはさておいて、彼の告白は、痛く私の胸にささりました。というのは、どうして、キャタストロフがきたのかと尋ねたら、お互に嫌になったんだ、と彼、こたえたのです。そんなことあるでしょうか。そんな恋が存在するのだろうか。そして、その彼女、私はみたことがあるんですが、彼女と鉄路のほとりは、毎日のように顔をあわしているんです。平気でおそらく喋ることもするだろう。何てことでしょう。まるで不透明。まるで馴れ合いの恋なんだ。嫉妬心深い私、だけど、私は嫉妬したりはしなかった。唯、いやなことをきいてしまったと思ったんです。本当のところ、私はすこし彼への愛情がへっちまったようでした。翌日会った時、あなたがわからなくなった。と私、云いました。恋って、もっと真剣なものである筈。
 そんな私の心の動きがあったため、青白き大佐に、ある感情――つまり一しょになっていいだろう――を持ったのです。
 小母さん。退屈? でも辛抱して下さい。私は書きつづけます。今、麻雀が終ったらしく、家族の人が、点棒のかん定を大きなこえで云い合ってます。
 私の心は穏かではなかった。ざわついていて、神経がぴりぴりしてて、いつも空虚のようで、いや又反対に、一ぱいにつまりすぎている心。恋愛のことの他に、仕事が出来ない。書けない。家庭のこと。そんなことも余計に神経をぴりぴりさせた原因にもなるでしょうが、とにかく一刻として落つきがなく、日常には、義務的な仕事が多く。というのは、私の芝居が上演されることになったんです。間近にせまっている。その芝居の音楽を作曲し、弟にトランペットをふかすこと、太鼓のアレンジ。切符のこと、税務署に文句をつけられたり。朝から五六本も電話がかかる。新聞のコントたのまれる。この二月に描いた、唐津での陶器がおくられ、その代金を書留で送ったところ郵便局の手ちがいで、何度も、念を押しにいったり、私は、実にオーヴァーワーク。疲れてるから、ますます神経が鋭敏になり、いらいらする。
 さて、舞台稽古の日になった。十二月の十二日。私は、太鼓をかりに、知人のところへ行き、太鼓をかりた。小母さんのところにも寄ったんだっけ。かすりの着物をきてた時よ。私のかいた帯しめて。御影の駅で、木綿の大きな風呂敷に太鼓をつつみ、それをもって、その時、私は、鉄路のほとりに会い度い気持で一ぱい、大事な仕事が山積のようにあるのにかかわらず、大阪へ行ったのです。よく行く喫茶店へゆきました。彼が居そうな気がしたんです。ドアを押しました。鉄路のほとりは、女の人と一しょに話をしてたんです。私は途端に、かあっとなった。今から考えると私は実にあわて者。だけど、すぐそうなるの。それがたとえ、彼の妹であろうとも。私は会釈をかろうじてした。知ってる喫茶店の女の子が、何、その風呂敷と私にきいた時、たいこ、とこたえる声が、自分でかすれてるのを知りました。はなれたコンパートメントにこしかけて、私は煙草に火をつけて、胸の中で、ガタガタ鳴っているものを落ちつかせようと努力しました。しばらくして、――その間、私は鉄路のほとりの方を、ちっともみなかった――鉄路のほとりは、私の傍へ来ました。五時に来るからまってて、と彼は云いました。私はうなずいた。だけど、待つ気はなかったのです。ドアのきしむ音、二人の足音がもつれ合って出て行く。私は、コーヒーをのみ、気持をおちつかせました。次の行為、私の、緑の島へ電話をしたのです。全く、衝動的に受話器をとりあげたのです。緑の島は居合せました。私はおいそがしいですかとききました。暇だと云うのです。そして、出かけて行くと云うんです。私は、居所を教えました。丁度、私の友人の作曲家――度々この人のことが出て来ますが――の仕事を頼む口実があったわけで、緑の島は、その仕事を一つ、持って来てくれたのです。私達は、自動車で別れた日以来、半月ぶりで会ったのです。穏かに語らいました。主なことは、音楽の話でした。それから、緑の島の仕事のこと。次から次から、話はつきません。だけど小母さん、私達は、静かに話合っているのですよ。お互に、お互の心をほしいとは思わないんです。それは、もうすでにすぎた恋だったわけ。小母さん。やはり終っちまった恋でした。それでよかったんだ。私は、ほっとしたんだ。だから、五時迄に彼が帰ることをねがった。やはり、私は、鉄路のほとりをまつ気になったのです。しかし。五時五分前。私は時間をきいた。喫茶店の女の子が、五時五分前をしらせてくれた。その時、緑の島が、のみに行こうと云ったのです。私は何てみにくい女でしょう。緑の島に対して、何らの感情をもたないままに、一しょに外へ出たのです。鉄路のほとりに名刺をかいて、勿論、緑の島には気づかれぬように。何てみにくい私の姿。帰りたくなったから帰るという、いやな言葉を名刺にかいて。濁ってきたない私。緑の島と私はのみにゆきました。そこでも、おだやかに喋ったもんです。ピアノがおいてあって、アルバイトの音楽学校出身だという女の人が、ショパンを弾いてるのをお互に苦笑してきいていた。まずいショパンだったから。そして、子供の話をしたんです。青白き大佐も私も子供をピアニストにするって云っているのですと。しらじらしく。まるで、自分の心に存在しない問題を。平気で。私は、もう自分をうんとみにくくして、自分で苦しんだらいいんだと思ったのです。自分の心、感情と、自分の行動との、ずれがひどくなる一方。不均衡な不安定な、いやあな気持に自分をおいて、自分に対して、唾をはきかけ、自分に対して、あしげりして、何といういじめ方。
 小母さん。私はどうしてこれ程までに、自分を自分でみじめにしなきゃ済まされないのでしょう。私をみじめにしないで、と何度も鉄路のほとりに云いました。けれど、考えてみると、自分で自分をみじめにしているんです。
 ――お互に、おいらくの恋みたいね――
 と緑の島と私は握手をして、駅の近所で別れました。
 私は神戸へもどりました。着物を着替えに家へ帰り、さて、今夜徹夜の舞台稽古へ、十一時前に行くことにしたのです。行くほんの少し前、青白き大佐より電話がかかり、喫茶店で少し喋ってから一しょに会場へゆきました。青白き大佐には、何でも云うから、今日の出来事もつげました。だけど、彼さえも、私の自虐的な、みじめな、けがらわしい行為を、すっかりはわからなかったでしょう。彼は、よく私を理解しているようでしたけど、やっぱり、心の底までわかりはしなかったと思います。会場へ行った私は、演出する人から、鉄路のほとりが神戸へ来ていることを知りました。一刻も早く会いたい。そして一刻も早く、私のみにくさを告げて、ゆるされ度い、そう思ったのです。鉄路のほとりはのみに出かけたらしく、又帰って来るということを知りました。その間、仕事のことで多忙。だけど私の心は、仕事のことなど考える隙さえなかったのです。楽屋へはいり、気持のいらだちを、お薬をのんでごまかそうとし、太鼓の具合をしらべ――これは青白き大佐がたたくことになってたのです――さて、又、もう帰って来るだろと、舞台の方へあがったのです。いました。彼は、仕事を、装置を手伝ってくれてました。私が傍へゆくと、ぽんと私の頭をたたき、すぐに仕事をつづけてました。それからいよいよ舞台稽古。鉄路のほとりと私は隣合せに腰かけました。彼はもう、芝居のことで一ぱいのようなんです。私はそのことでも私自身恥じました。さて、彼は、私に代って、随分、注意をしてくれたのです。それで、研究生達の間に、少しいざこざが出たのですが、そのことはさておいて、丁度、私のものの上演の稽古が終った頃、もう朝です、もう一本の稽古がはじまりました。彼は客席で横になって寝てました。私は、毛布をかけながら、もうとても自分のみにくさが、彼の私への愛情に値しないようないたましい気持だったのです。青白き大佐は、用事をしに出かけてゆきました。私と鉄路のほとり、二人になる機会がおとずれました。二人で、おひる頃、コーヒをのみに出たんです。ストーヴのある、会場の近くの喫茶店で、鉄路のほとりは、大へん不機嫌だった。だけど、私は、もう、たまらなくなって、昨日のことを云ったのです。緑の島と会ったことを。彼は、黙ってました。いつまでも黙ってました。私に会い度くて、神戸まで来たことを私はきいていたんです。――まあいい、芝居の手伝いしたことだけで、いいんだ――彼は私にぶっつけるように云ったのです。二人が会ったのは、久方ぶりでした。だから私は、その前日に、彼へ速達を出しているのです。とても不安な気持。出来るだけ早く会い度いということ。そして会ったその時、何とお互にもつれてしまったのです。彼は帰ると云いました。私は泣きじゃくりながらひきとめました。駅までゆき、猶もひきとめました。丁度、作曲家の友人に出会い、彼もひきとめてくれたのです。喫茶店へはいりました。私はもうすっかり精神が錯乱しちまって、何を云ったのかわからない。一人で喋ったのです。
 もう、つながりがないのだ、と彼が云ったからです。私は、がく然としたのです。今こそ、本当に、緑の島とのことも解決されて、彼に何もかも奪ってほしい気持になってたのですから、その気持が強かったからこそ、私は彼の言葉におどろき、何とかして、愛情をよびもどそうとあせったのです。彼は、私の目に真実がないのだと云いました。そうだったかも知れない。私は、心のある部分で、緑の島を愛し、それから、安楽椅子をちゃんとつくったりしていたのだから、それは青白き大佐なんだ。痛ましかった。私のお喋りに、彼は、俺に説教するつもりかと云った。そしてせせら笑いもしたのです。芝居の公演の時間がもう後わずか、作曲家の友人は先に出てゆき、私と彼は、いがみ合っている。もう時間もない。私は彼を駅へ送りに行った。私は、結婚してほしい、とねがったんです。青白き大佐との契約書を持っていながら。勿論、その契約書は、返却するつもりでした。でも、返却してから云うべきだったろうと今思います。彼はむつかしい顔をして帰ってゆきました。私は、自動車で、あわてて、会場へ戻り、さて、公演。自分の芝居が公演されるということは、とても単純によろこべないことです。演技者にも、演出者にも私は本当に感謝してますけど、私自身とてもおちついてみることが出来ません。私は、一回目の公演が終り、夜になり、芝居のことよりも、鉄路のほとりのことで一ぱいでした。青白き大佐は、私に云いました。真剣に愛しているなら、二回目の公演が終れば、京都へ行くがいい。そして、もう仕事も何もほったらいいんだ。私は随分考えました。だけどやめたのです。芝居ほったらかしたら駄目だぞ、と鉄路のほとりにわかれる時云われたのです。私は行かぬことにしました。その日の公演の後、私は泣きじゃくりながら、酒を何杯ものみました。私は随分何か云いました。だけど本当の気持は、自己嫌悪で一ぱいだったのです。へたな台本、そして、きたない行為。そして、小説がかけないということ。そんなことが、私を無茶苦茶にしたのです。だけど、その中に、私の鉄路のほとりへの愛情は、どんどん深くなってゆくのを私はみとめました。朝が来るまで、私は、泣いて居りました。青白き大佐は、楽屋の寒いところで、私を慰めてくれました。私は、自分一人でどうすることも出来ないこの気持を、多少なりともわかってくれる青白き大佐に感謝すると共に、彼に頼る自分のみにくさに又責められるのでした。
 翌朝、ごめんなさい、という電報を私は、鉄路のほとりに打ちました。若しや、私の芝居の公演を、みに来てくれまいかと、客席を探したりもしたのです。私は、のみつづけました。最期の公演は、何だか悲しい気持でみていました。神経のたかぶりはおさまってましたけれど、これが、ひょっとすると最期の仕事じゃないかとも思って、そして自分のつくったせりふを、自分自身こだまして戻ってくることを、奇妙だ、(これは劇作家の人、どんな気持なのかわからないけれど)とさえ冷静に、その奇妙さを分解したりもしました。芝居が終り、写真をうつしたりしました。私は、その時既に死を決していたのです。決して、単なるセンチメンタルではない。自分で自分の犯した罪を背負いきれなくなり、もうこれ以上苦しむのはいやだと思ったのです。その時。私は青白き大佐と、少しのみにゆきました。ふぐなどを食べ、その時はもう静かな気持で居たのです。あくる朝、芝居の後仕末でごたごたした日を送り、その翌日、私は夜おそく、作曲家の友人から電話をもらったのです。鉄路のほとりの手紙をうけとっているということです。私は、翌日届けてくれるようにつげました。でもその手紙に期待はしなかったのです。いろんな事情で、私はやはり当然自分を死なせるべきだという気持だったので。でも、それでも早く手紙がみたいのでした。机のあたりを整理して、金銭の(借金)勘定もし、焼却するものもまとめたりしました。私の友人のある令嬢が訪ねて来たのは、その日でした。私の表情から何かをとったのでしょう。いつもなら、笑顔でむかえるのに、むっつりしているし、彼女の話はうわの空だったのですから。彼女は、私が変った、とかそんなことを云ったようです。私は随分ひどいことを、ひどいというのは彼女の気持を察しないではないんです。でも本当のことをずけずけ云いました。彼女は泣いていたようです。その夜、研究所で、私は、鉄路のほとりの手紙をうけとりました。それはもう書けません。
 小母様、私にとって全く悲しい手紙であったのです。しわくちゃにまるめました。けれど、その夜、又よみ返しました。私は、私の心の中に喜びも発見出来たのです。彼は私を愛してくれています。私はそのことを感じることが出来たからなんです。感じることが出来たのですよ。小母さん。
 今、ファイアーエンジンが通りました。犬が鳴く、風の音、吸取紙はもうとてもよごれっちまっている。私の心は静かです。平安です。書いているうちに、静かになって来たんです。もう三時頃じゃないかしら。小母さんまだまだつづくのです。そうだ小母さん。その翌日。私は小母さんの家を訪問したのじゃないかしら。そして二十人目のことをきいたのだろうと思うわ。アルベニスを弾くって云ったわね。あの音譜、青白き大佐とかいにゆき、彼があの音譜の一頁目に、青白き大佐、と共に(Avec un p※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)le Colonel)と書いてくれたわけ。それは、ミローの歌曲のある一つの詩の一節に出て来るんです。ところが、この詩の曲は、レコードには省かれています。(このレコードのことは後に出てくるんです)
 小母さん。小母さんと二人で、あの日、喋ったことは、さっきちらとかきました。私の苦しみ、せめ、それを、私は洩したのですね。それから家族のこと。生きてはゆけない気持のことを。あの日、あれから、大阪へゆきました。鉄路のほとりに会うために、彼に電話をしました。
 ――いや、小母さんの家へ行ったのは、その次の日だったかな。少しわからなくなりました。というのは、青白き大佐と富士正晴氏と一しょに居た記憶もあるようですが――とにかく、鉄路のほとりの居るところがわかり、彼は、八時頃まで仕事があるといいました。唯、会い度いから、会ってほしいと云ったのです。私は、いつもゆくその喫茶店――レコードを鳴らしてくれるところなの――で八時迄まつことにして、それよりおそくなれば、他のところということにしました。私は、紙と封筒とペンを用意してました。鉄路のほとりに手紙をかきました。――真実のことを、感じてほしい。だけど会っても、あなたは感じてくれない。だからもう会わない。本当だということをあきらかにするだろうところの一つの行動を私はとります。私は幸せ。あなたの愛を感じ、あなたを愛する自分の気持も誰にだってほこれるものだから、だけど、唯それを感じてもらえないことは、不幸せかも知れない――というような手紙です。ドビュッシーの海をやってました。私は、青白き大佐に、契約破棄の文章をかきました。それは糊づけしないで、自宅へ帰って、契約書をいれるべく、心得てました。それから、富士正晴氏にかきました。私の原稿二つ、彼の手許にあるのは、発表しないでほしい。ということ。それから、私の友人の令嬢へ、やさしい手紙を。それだけ書き終えた時、喫茶店の主人が、いたずらがき帳をもって来てくれました。何かかいて下さいと。私はホットウイスキーをのんでいたし、多少、私の死と結びつけて考えられたので、いたずら書きをしました。いつもの皿に絵をかく調子で、さらさらと、海の中のと、花鳥の群とを。八時十五分頃、そこを出て、青白き大佐が、九時にまっているという喫茶店へ自動車をとばし、今夜は会いませんという置手紙をして、鉄路のほとりと会うところへ行きました。そこは、緑の島の仕事場なのです。然も、私が依頼した作曲家の仕事の出来上りの日で、緑の島も、作曲家も居るのです。私は、緑の島と視線をあわせ、一言二言しゃべりました。いつものように、緑の島の、私への愛情をその瞳に感じました。だけど私は、私の目はもう何の誰に対する目と一しょだったでしょう。そして、廊下に、鉄路のほとりらしき声をきき、その時こそ、私の瞳は輝いたことと思います。会いました。打ちとけるように私は、もう片意地もすてて、ほほえみました。自然にほほえんだのです。緑の島が部屋を出て行ってから、鉄路のほとりははいって来ました。私は、彼に手紙を渡しました。丁度、作曲家の彼が、青白き大佐と面会しなきゃならぬ用があり、私は、青白き大佐との喫茶店へ又電話をかけ、大佐に居るように伝えてほしいと云いました。私と、鉄路のほとりとは口をききません。彼はすぐに私の手紙をよんでました。作曲家の友人と三人で、私達は道をよこぎり、青白き大佐の待つところへ行ったわけです。道で、私は、もう何も云わないで下さい。と鉄路のほとりに云いました。彼はうなずきました。それから小一時間もして、閉店でおん出され、少しのみに行ったのです。そして終電車まで居りました。省線の駅で、私と青白き大佐と作曲家は、鉄路のほとりをひきとめ、神戸へ行こうとさそいましたが、遂に彼は、ちがうプラットの方へあがってゆきました。今晩もう一度、この手紙をよくよんでみる。彼は小声で私に云いました。だけど、私は、もう二度と会えない気がしたのです。だから、彼の後を追ってプラットへあがりました。彼は、私に、京都へ来ないかと云いました。優しく彼は云ったのです。私はすぐにゆくと云いました。ところが、ものすごくとめたのが青白き大佐なんです。小母様。私は、鉄路のほとりと握手をしました。涙がこぼれそうでした。別のプラットへあがって、京都行の電車が出てゆくのをじっとみていました。若しや彼は、電車にのらなかったのじゃないか、などとも思いました。彼は帰ったのです。電車の後尾灯は、遠くみえなくなりました。こんなことは、まるで三文小説みたいに、陳腐なこと。でも、私、ほんとにもう会えないんだ。と自分の心で決めてしまっていたものですから、随分たまらなかったのよ。その夜、家へ帰って、寝床にはいった頃、鉄路のほとりから電話をもらいました。行動とは、今晩かというのです。私の母は目をさましてますし、電話は家の中央なのです。私は、いいえと云いました。そう、じゃおやすみ、彼はそう云いました。私もおやすみなさい。と云って、いやまだ何か二言三言しゃべったようですが、受話器をおろしたのです。私はもうすっかり心に決めておりました。二十二日に黒部へゆくことに。何故二十二日になんかしたかと云えば、仕事の残りの始末をしてしまいたかったのです。切符代の集金やら、それに芝居の批評会にも出なきゃならなかったので。
 小母さま。その翌日に、私の心をますますかためたことがあるのです。作曲家の小さな坊やをつれて、公園行きを、前々から約束していたので、作曲家の彼に、大阪からの終電車の中で翌朝、坊やと約束をはたそうと云ったのです。
 小母様、この日のことは、一度、眠ってからあしたかきましょう。何故って、腕がだるくなっちまったの。今日は、朝のうち、随分ピアノ練習したし、それに、煙草が残り少ないの、今晩中に書きあげることは、出来かねるので、――煙草なければ駄目なの――さむくなりました。じゃあ一まず、お休みなさい。小母さま。

 五時間も眠ったかしら。朝、家の中でがたがた大きな音をたてるので目ざめてしまうのです。古い家屋なのでとてもひびくのよ。私は寝床の中で夢を思い出していました。レコードの針を一ぱい打ちつけたもの――そのものが何だったか忘れたけれど、それに布をかぶせておいて、暫くしてから布をとりはずし、唇を寄せて、すうっと空気をすうのです。そうすれば、子供が生れる。そんなことを、S新聞社のN女史が一生懸命に私に教えてくれている夢でした。おかしな夢だ、など苦笑しながら、うつらうつらしてました。と、電話の鈴。私は、鉄路のほとりだろうと思いました。ところが、それは、九時すぎ、会社へ行った兄からだったのです。小母さん。私は、昨夜、書きかけていた、公園での出来事を後まわしして、私の家庭のことを、ここで詳しく説明する必要があるようです。前にもちょっと書きましたが、家庭のこと、これは、私を死にいたらしめる、やはり重要な原因の一つなんです。
 小母さん。私の家庭は、多くの人達から羨望された家庭なんです。ところが、そこに住んでいる私達兄妹は、どこを羨望されるのか、わからぬ位。いや、たしかに貧しくないと云うことは、羨望される一つの要素かも知れませんが、とにかく、もっと具体的に、話をつづけましょう。兄からの電話は、今夕、会社へ来てほしいと云うことでした。私は、行けたら行くという返事をしました。電話が終ってから、私は両親につかまってしまいました。たくさん、たくさん、書くことがあって、整理が出来ません。私はペンをおいて、太陽を暫くみて居りましょう。
 駄目。書いてしまわなきゃ。つづけます。小母さん。私の兄は、もう二ヶ月位、とても不機嫌なのです。夜おそく帰って来て、物も云わずに寝てしまう。そんな生活がつづいておりました。兄は御存知のように、ルンゲをやられ、長い病院生活をしていた人ですから、母は非常に体のことを心配してました。兄の態度には、家中いらいらしてしまうのでした。何も云わずに怒り顔をしているのですから。その原因が何であるか、父も母もしきりに探索しようとしておりました。一つは、会社でのことで、父が関係していたところであり、家の番頭の息子などが先輩顔で上の席にいることなどが、気の弱い兄をまいらせたのです。皆がよってたかって、笑い者にするらしく、内向的な、そして正直で御人好しの兄は、たちまちインフェリオリティー・コンプレックスにかかったわけ。卑屈な人なら平気でしょうし、傲慢なんなら、父を盾にして、偉ばることも出来るのでしょうが、兄は皆から、いじめられるのに、もってこいの性格の持主であり、又もって来いの立場にあったのです。父は、会社であまりよく云われないらしく、パージがとけて復帰したことも、多くの人から反感をかわれていました。そのことは、兄からきいて知ったのですが。ところが、兄にしてみれば、親の光は七光りを感じてそれを有難く思わねばならぬ理由もあるわけで――というのは、身体が弱いため、無試験で会社にはいったことや、その他、上役の人も兄に対しては、特別な見方で接しているということなど――その反面、親の七光りが迷惑に思われることもたくさんあるわけなんでした。兄は、会社での憂鬱な日常を、唯、帰りに酒をのむことでまぎらわし帰宅するのでした。だけど、兄をそんなに弱らせる原因は、会社のことだけではありません。母に云わせれば、ある酒場のマダムが、兄を誘惑し、人のいい兄はひきずられて、にっちもさっちもゆかなくなっているということを原因の一つにあげていました。それも、極、小さな原因にはちがいありませんが、それよりも、家庭のことが大きいのです。さて、これからが、私も関係し、私も直接感じている問題なのです。私達子供は、小さい時平和に育ちました。私一人、時たま家族に反逆的な行為をとったものですが、それは大したことじゃありません。何故平和だったかと云うと、これはもう私独りの意見なのですが、父を誤解していたためだと思うのです。小学校六年の時、私の作文、お父さんが入選したことがあります。私は父をとても愛していました。父も又私を人一倍かわいがっていたようです。というのは、父の趣味をうけついだのは、私ひとりだったからでしょう。絵や、陶器や、或いは文学に対する興味も、父の影響でした。私は父を非常に偉い人だと思っておりました。然し、年をとり、今迄の自分の、父に対する解釈は、大きな錯覚だったことに気づいたのです。私の父は、私を、自分の類型にしたてあげようとつとめたようです。そして、わが娘を、自分のこしらえた寸法通りに、はめこもうとしたのです。父は、学校で秀才だったらしく、そのことをいつも自慢たらしく、子供にきかせていましたが、子供の頃は、私の父に対する崇敬の念をまさしめることになりましたが、だんだんそうはゆかなくなって来ました。戦争が終り、私が会社の給仕などするようになってから、つまり、家庭をちょっとでもはなれたところから、父を眺めることがはじめて出来たのです。父は狭い世界を、おのれだけ正しければよいという気持で守りつづけている人でした。酒も煙草ものまない。常に本をよんでいる。父は父のあゆんで来た道をいつも誇らしく思っているのです。だから、自分の尺度でもって単純に人を判断し、自分とかけはなれた存在の人をいきなり軽蔑しておりました。父には、商売人の友達はいません。父が商売人を軽蔑しているからです。そして、学者や芸術家と交友しています。学者や芸術家は偉いときめているのです。私が小説をかくようになった頃、父は大へん反対しました。詩や随筆なら書いてよいのです。すすめるのです。ところが小説は、やくざなものだと思いこんでいるのです。勿論、父も小説もよみます。負けず嫌いの人ですから、新刊書でもどんどんかってよんでるんです。ところが、反訳のものでも、日本のものでも、過激な小説や露骨に人間の姿をえがいたものは、渋い顔で、くだらないと云い、自分の世界に近いものは、ほめちぎるのでした。父は露伴が好きです。そして、私を幸田文のように仕上げ度いのです。文のかいた本を私によめとすすめ、私は雑巾かけや障子はりの文章をつまらなくよまされました。父は、どうだったと云いました。立派な装釘だと私こたえたのです。父はおこっていました。父は、自分の子供達への教育に自信もって居ったようです。だから、私が小説をかき、兄は会社でやっつけられ、弟はジャズを好むモダンボーイになったことは、とても腹だたしいにちがいありません。兄には、まけぬ気を、私には柔順を、弟には、勉強を、父は要求しているのです。狭い世界で自分を守りつづけ、子供達にも狭い世界を強いようとする父に対して、私は大へん憎しみを抱きます。私と父はよく議論しました。彼は一歩もゆずりません。皮肉な笑いを洩し、しまいには指先をおののかせながら、自分が正しいのだと常に主張するのです。もう半年も前から、私は、一切父と真実を語り合うことをよしてしまいました。馬鹿らしくなったのです。まるで中学生のような感覚でしかない父なんです。というのは、
 ここまで書いて玄関に呼声。出てゆきました。若しや、鉄路のほとりからの速達ではないかと、ちがいました。彼からは何にも。
 というのは、たとえば、新聞社からのアンケートでも、私に来ないで父に来た時の父の喜び方は大へんなものです。そんな面の父を私はにくまずに滑稽に思います。で、私は、もうすっかり、父を欺いてりゃいいのだと思うようになりました。だから、私は、いつの頃からか、家では笑顔しかみせなくなりました。父の子供じみた皮肉や嫌味も、笑ってきき流し、冗談や街でみた事件を面白おかしく喋ったり、父の絵をほめたり、とにかく、玄関を一歩はいれば、私はすっかり自分をある仮面でつつんでしまうのです。その方が、父は喜ぶし、私にとっても楽に出来得ることなんですから、ことは簡単。父は、私の想像していた通りでした。お前には何を云ったって怒らないからいい。父は云いました。私は苦笑します。父をにくみながら、父をあわれに思うこともあります、さて、私の母はというと、これはお育ちがよくて、のんびりしていて、実に円満なんで、たくさんの人から愛されています。でも小母様私の母は、まるで、何も知らない人なんです。彼女にそれを求めるのは無理でしょうけど。この間も、兄に思いをかけている酒場のマダムを、あったこともないのに、ひどく悪くいうのです。私は少しお説教しましたけど。でも母にとってみれば、何にもわからないことでしょう。
 小母様、私は母を愛しちゃいません。しかし、母をせめませんし、別の人をみてこんな母だったらいいのにとは決して思わないのです。私は、母に対する自分のつながりをみとめることが出来ないのです。父に対しては、つながりをみとめるのです。兄と同様、私も、親の光で、久坂葉子の今の状態までなれたのだと人に云われ、どこへ行っても、父が父の名前が、私につきまとっているのですから。宿命だといって、――甘んじることが出来たら私は父とのつながりを平気でたつことが出来るでしょうが、私の心の隅に反抗がある以上、父とのつながりはあるのです。たしかに。おそらく生きている間、それもわずか後三日位だろう。あるのです。順序よくかかねばなりません。さて、兄に先日私は久しぶりに会いました。二人きりでお茶をのみ、家庭に居る時は、芝居しなきゃ、キジを出しちゃまずいんだ、ということを懇々と云ったものです。そして、行動しなきゃ駄目だから。家にいる間は、自分をピエロにしたてて、十分計画してから、家を出なさい、と云ったのです。淀んだ三代目の血の中にいたら、きたなくなってしまいます。父は、自分で高潔な人間だと思っているようですが、それはとんでもないまちがい。稚劣と清潔はちがうのです。彼は、かえって不潔なんです。学問とかインテリジェンスを盾にして、本当の父個人はひんまがっているんです。私は、兄に家を出ることをすすめ、会社もやめたがいいと云いました。兄は、私の意見にびっくりしたようです。私も、その時家を出よう、来年は独りの生活をはじめようと思っていたのです。それは、一度、決心した、黒部行の後のことで、すこし、重複したり、日時がおかしくなりがちですけど。小母さん。辛抱してよんで下さい。
 今、正午のサイレンが鳴りました。昨夜っから、十時間ちかく書いているのじゃないかしら。さて、話を、昨夜のところへかえしましょう。いや、まった。今朝、兄に電話をした処、父母に呼ばれたことかきましたね。その時、父は、私が兄の会社をやめることに賛成していることをひどくおこり、わけのわからぬことをしきりにくちばしりました。兄の劣等意識を、とてもなさけなく思っているのです。私は、何故、兄があんな性格になったのか。考えてみる必要があるのじゃないかと云いました。母は、丁度兄をみごもっている時、父が外国へ行っていたため、その怖しさが、兄に影響したのだ、とかおもしろいことを云いました。私は、父に反省してほしかったのです。一中、一高、東大以外は人間の屑だと思いこんでいる父が、父自身きづかないで、兄に対して、ひどくコンプレックスを起させる原因になっていたことを。たとえば、兄の友達で、秀才が居て東大を出たのです。父は、その人が来ると、兄に対するより、もっと、歓びをみせ、兄の知らない、東京の赤門の話を、教授の話を、たのしみながら、喋っているのです。私は、父に反省してほしかった。でも、父に対して、ずけずけ云うことは、又一もん着起すことで、私自身面倒くさくて止してしまったのです。父は又云いました。どうして家へ帰り、お父さんに、キジを出さないのだろうと。私は、つい云ってしまいました。
「キジを出すな、って私はお兄さんにすすめたのですよ。彼はキジを出している。心に嫌なことがあれば、怒った顔をしている。それがキジですよ。お父さん矛盾してる」
 だけど、私は父の表情が、けわしくなるのをすぐに知り、又おどけたことをつけたし、父をごまかしてしまいました。
 さて、いよいよ、公園でのことに戻ります。小母さん。辛抱してよんで下さいとは申しません。つまらなくなれば、とばしよみでも結構、途中でやめちまって下さってもいいの。唯、私があなたあてに書こうと思ったものですから。
 さて、公園へ作曲家のぼうやを連れてゆくのに同行したのが、青白き大佐です。私は、彼に会うことをひどくいやがる気持でもありました。彼に愛情を持っていなくとも、一しょにいることさえ、鉄路のほとりに済まないような気持になっていたのですから。ぼうやをはさんで、自動車で王子公園にむかう途上、私は、二十二日の黒部行を目の前にひかえて、その日は十九日です。神経が鋭利になっていました。その時、青白き大佐がある事件を教えてくれました。彼は、昨夜の大阪駅での、鉄路のほとりとのいきさつを私に云ったのです。青白き大佐は、私の居ない時、鉄路のほとりに、例の芝居の舞台稽古の話をし、研究生から反感をかわれたことを告げ、君のために、俺は代べんしてあげたんだ、と云ったのだそうです。鉄路のほとりの答えは、
「それはさぞかし劇的であったでしょうね」
 だったのだそうです。青白き大佐は大へん腹をたてていました。私は、そのことをきき、青白き大佐に腹をたてたのです。公園へはいり、ぼうやを、木馬にのせ、遊ばせてやりながら、
「私の一番嫌いなことは、あなたのために、こうこうした、って云うことです」
 と云いました。そして、青白き大佐の行為を、思わしくないように云ったのです。私、ほんとに、恩にきせるようなせりふは大嫌いなんです。彼は、自分のやったことは正しいと主張しました。私、だまってしまいました。とにかく、何もかも面倒になったのです。それより、ぼうやとうんと遊んだりしました。メリーゴーランドにものりました。もう、青白き大佐には、嫌悪を抱いてました。でも、契約解消は申し出なかったのです。封筒にいれてあるんです。昨日かいた手紙と共に。でも理由や何かを説明するのが面倒だったので、どこかへあずけて置いて、それでおしまいの方が簡単だと思ったのです。その日はそれで終りました。
 その翌日、私はいかにくらしたか記憶していません。とにかく、いそがしかったようです。あ、多分、おばさんと、喋ったのが、その日だったかも知れませんね。嫌、そうじゃなかったかな。私は、令嬢の友人のところへ行ったのだ。そしてたのしく話をし、丁度二十一日に、キングズアームスホテルのカクテルパーティーに私招待されていましたので、令嬢をさそったのです。外人の中で、のんだりすることは、大にが手ですけれど、彼女は好きなことなんです。そうだ、その日やっぱり、おばさんのところへ行ったんだ。その夜、研究所。私は、死を思いつめてました。私の芝居をやってくれた、とても優秀な私の好きな人や、同人の人と、いつものジャンジャン横丁へ行き、私は、随分歌をうたいました。そして、自宅へもどったのです。二十日の月曜日は、昼間、私は何をしたかすっかり忘れましたが、夜は、約束のカクテルパーティーに、令嬢を伴って、出かけたものです。さてその帰り、私は、どうしても、鉄路のほとりに会い度い気になったのです。私は京都へ行こうかと思いました。ところが、ハンドバッグの中には、百円札が二枚と十円札がわずか。今から京都へ行っても、市電はなし、かかとの高い靴をはき、シルクのいでたちだったので、まさか歩くわけにもゆきません。私は、鉄路のほとりに電報を打ちました。明日午後三時に大阪のいつもよくゆく喫茶店で会いたいと。私は、とにかく、もう一度どうしても会いたかったのです。単にそれだけ、そして会ってから、黒部へたつつもりでした。令嬢を、自動車で送り届け、私は、自宅へ。机の上などをかたづけ、お風呂にもはいり、まっさらの下着を身につけて寝ました。
 小母様。二十二日が来るのです。来たのです。私は、いつもより以上に、家庭であいきょうをふりまき、ほほえみかけました。そして十時半頃、最近かったスピッツとじゃれたりしてから、外へ出ました。ズボン。それにスェーターを二三枚着て、ぼろぼろのトッパーをはおり、穴のあいた手袋をはめていました。ハンドバッグの中には、その日のため貯めておいた千円札と百円札。それに、千円の小為替。それから、真珠のネックレスと、ダイヤやルビーをちりばめた指輪。風呂敷づつみには、ペンと原稿用紙、というのは、その朝、急に書き度くなって十枚ばかりばりばり、芝居のものを書きかけたのです。いちばんはじめに書いた、鋏と布と型、の原稿です。それを途中で筆をおき、三時迄の余暇に、喫茶店で書きあげてしまおうと思っていたのです。さて、風呂敷の中は、青白き大佐から借りていた本二三冊、それは建築の本でした。彼が家をたてるというので、私は、そのデザインをまかされていたのです。いずれ、二人で住むかも知れない家だったかも知れません。それと封筒の中に、契約証と破約の短い文章。これは前にかきました。それ等がはいっておりました。私は、宝石屋へまず寄りました。最初の家で、両方とも三千五百円だと云われたのです。一万円は大丈夫だと思ってたのですから、がっかりしました。次の店で三千円。その次の店では、何と二千円。私は売る気がしなくなりました。品物に対する愛着はまったくないのです。しかし、引換の金額はあまりにも少い。黒部迄ゆく旅費と、若し汽車の都合で、待ったりして、その滞在費がいるわけです。私は、神戸新聞に、原稿料をもらっていないことに気附きました。で、いつもゆくレコード屋へ行って、電話をかけ、とりにゆくことをあらかじめ通知しました。さて、そのレコード屋で、その主人に会った時、彼は、私の昔の恋人です。それは、小母様、知ってらしたわね。ミローの歌曲をかわないかとすすめられました。度々そこできいていて、私、買うと云っていたものです。私は、青白き大佐にあげてもよいと思いました。そして、がんじょうに一枚のレコードをつつんでもらい、三百円とわずか、はらいました。ところへ、面白い酒場の主人がふらりとやって来て、一しょにコーヒーをのみにゆくことにしたのです。十分間ばかり絵の話など致しました。偶然そんななつかしい人と出くわすのは、たのしい気持でした。彼と別れてから、市電にのり、新聞社へゆく迄に、小さいふるぼけた宝石屋へ寄りました。今度こそ、手ばなしてしまえと思ったのです。私は四千円で、指輪をうるといいました。その店では、真珠は駄目だったのです。主人は、たん念にしらべます。私は、時間がないから早くとせかせました。主人は買うと云いました。十五分もかかってからでしょうか。私はほっとしました。ところが、私のいでたちがあんまりみすぼらしく、指輪は価値のあるものでしたから、主人は私に疑いを抱いたのです。御職業、御名前、身分証明書、通帳。もう私は、すっかり嫌になって、出ちまいました。無性に腹がたってなりません。そして、いそぎ足で、神戸新聞社へゆき、八百円をうけとり、少し雑談などして、次に、郵便局へゆきました。ところが、そこでも又、身分証明書と云われたのです。私の定期入れには、名刺は、久坂のが一枚あったきり。印鑑ももってませんし、小為替は、本名宛なのです。私はすごすご(いえ大分ねばったのですが、ほつれた髪の毛のおばはんに、高飛車にことわられ)出て、次の郵便局へゆきました。駅です。そこは、小為替受付けてくれず、もう一軒近くのところへゆきましたが駄目。その近所に、私の友人がいましたから、持参人払になってますので、彼に行ってもらおうと思い、彼をたずねましたら留守。最後に、中央郵便局へゆきました。そこで私は又何度も懇願し、いろいろ説明――つまりその千円は何かを――させられた揚句、やっと受取ることが出来たのです。その金は、この間の研究所の公演の切符代。先に私が立替えてたものでした。私は又市電にのって、阪急へ。そして、急行にのりました。別に景色をみるでなく、いつものごとく、ぼんやりとしてました。私は乗物にのるのが好きで、その間、休息出来るのです。さて、時間は一時すぎでしたっけ、毎日新聞へ富士氏を訪ね、いやその前に、私は緑の島を訪問しました。彼は不在でした。何故訪問したか。唯、私の友人の作曲家のことを依頼するだけでした。もはや、何の感情も彼になかったのです。そして、富士氏と喫茶店で話をしました。よく私は死ぬんだ、とくちばしります。だから、彼には、又、死ぬんだと笑顔で云いました。そうだ。その前に、私は大阪駅で黒部あたりの地図と時間表を買ってました。私は、富士氏と、冗談まじりに、その地図などみて喋り、彼は、又おいで、といって出て行きました。だけど、私はどうして先に切符を買っておかなかったのでしょう。それは、別に何の意志の働きもないことなのです。旅行する時、私はいつも、行きあたりばったりに切符を買う癖がついていたのです。東海道線で東京へゆくときも、山陽線で、西へ行く時も、先に切符をかっておくということはしたためしがなく、切符がなければ次の汽車で式でした。私は、喫茶店で一人になり、インキをかりて、原稿のつづきをかきはじめました。と、私に電話、鉄路のほとりからでした。三時にゆけぬ。六時にゆくというのです。私は待ってます。と答えて、仕事をつづけました。彼の声はとても優しい声でした。さて小一時間もたった時、ドアがあきはいって来た人、何と青白き大佐だったのです。私ははっとしました。その時の私の表情は、実にみにくかったと、彼は後で云ってましたが、彼は何か予感がしたためにやって来たのだと云いました。もう感じられています。私は、黒部へゆくといいました。そして、彼に契約証をかえしたのです。彼は、黒部へゆくのはよいけど、帰って来るようにといいました。私は、その時、何を喋ったのか記憶してません。へらへら冗談を云ったようです。でも、私の顔はひきつり、声はかすれていました。私は、罪深い女だと、そればかり、頭の中で右往左往していたようです。彼は、ゆくなら送るから、電話をしてくれ、と云いました。たしかにと私は約束し、彼は出て行きました。私の契約証を持って行ったのです。私はその時、何故か、ふっと、ひきもどしたい気持にもなり、そして又、ほっとしたようでもあるのです。私は又、原稿のつづきをかきました。鉄路のほとりから再び電話、また少し遅くなるからとのことでした。私は、六時から、レコード何を注文してもいいので、ブラームス四番を注文しました。このシンフォニーは、私が、一番好きなシンフォニーでした。さて、店の女の子が長時間をかけはじめようとし、私はペンをおき目をつぶりました。ところが最初の絃の八小節がかからなかったのです。針のおき具合がわるかったのでしょう。もう私は、気がいらいらして、全曲終る迄、殆どきいてませんでした。不愉快な曲だとさえ思った位です。ブラームスが終り、私の原稿も終りました。次はフィガロの結婚がかかりはじめました。その頃、鉄路のほとりがやって来たのです。私は、むかいの席にすわった彼を、静かなまなざしで見上げることが出来なかった。私の黒部行の気持と、彼への愛情いや愛着とが、ものすごいスピードで頭の中をまわります。黒部行の気持のはたらきは、彼に真実を訴えようとすることの他に、一切の日常事からはなれたかった理由があります。家庭のこと。そうです。私はもう、家庭でのジェスチュアをつづけることが不可能になって来ていたのです。疲れて来たのです。それに、よい仕事が出来ないことも、書けないことも原因だったのです。生きてることにしたら、又掩いかぶさってくる。それらのこと。それらの重さ。私は、彼に云いました。黒部へ一しょに行って下さいと。ああ小母様。私は何ということを云っちまったのでしょう。洩したのでしょう。彼の幸せに、彼の未来に、罪深いとるにたらない私が、遮断機をおろすことになるんです。私達は、喫茶店を出ました。私の荷物、つまり原稿と、ミローのレコードと、青白き大佐に渡すべく借りていた品々。それを預けて。重い足どりでした。私達は、屋台のめし屋へはいって、かす汁をのみました。それから駅の近所へ来ました。彼は、電報をうつと云うのです。私は、黒部へ行ってくれるのだと解釈したのです。ところが、彼は自宅あてには打ちませんでした。その夜何か会があるらしく、ゆけないという電報でした。それでも私は黒部へ一しょに行ってくれるものと信じました。十時半の汽車まで、まだ三時間あまりあります。
(小母様、私の愛用の万年筆のペン先が折れました。)私と彼は、無言のまま歩きはじめました。北の方へむかって。何も云いませんでした。そして、大きな橋まで来ました。下は汽車の線路です。煙があがって来、とても寒い風がふいて居りました。彼は口をきりました。ひどいことを云って、本当にすまなかった。と。私はその言葉を、まるで期待していなかったのです。私は驚きました。そして途端。死ねなくなるのじゃないかと思いました。私達は又歩きはじめました。何分位歩いたでしょうか。鉄路のほとりは、急に云ったのです。僕と結婚してくれますか、と。それは私にとって、期待していたことだけれど、少しも、その言葉をきけるものとは思っていなかったのです。私はもう、何もかも捨てて、彼だけで生きることが出来ると思いました。私は喜びしかありませんでした。不安も苦悩も、そうです、小母様、私はその時、罪悪感も何もかも、家庭のことも、仕事のこともすっかりなかったのです。私達は、長い間歩きました。小母様、この日、私は本当に幸せだと思いました。私は、何の疑いも何の迷いもなく、彼の愛情をそのまま感じ信じたのです。私はうれしいと云いました。本当に嬉しいでした。私達は時間がたつことを暫く忘れて居りました。私は、けれど、やがて、今日家へ戻る自分を、ほんとに情けない気持で想像したのです。私は、帰り度くないと申しました。でも、鉄路のほとりは、私に帰るようにと云いました。十時半前、大阪駅に戻りました。汽車には、まだ間に合うのです。でも私は、黒部へ行こうとは勿論思いませんでした。私は、鉄路のほとりと別れて、神戸へむかいました。そして知合いに出あい、彼にさそわれて、焼鳥屋へのみに行ったりして、帰ったのです。小母様。だけど一歩家の中へはいった私は、又、重い石を頭にのっけられたような、いやな気持になったのです。淀んだ川瀬から、救い出してほしい。誰か救い出してほしい。私は疲れ切っていました。小母様、鉄路のほとりに、私の今の立場を救い出してほしいとは云いかねるのです。彼は生活がゆたかではありませんし、今のようなお互の気持に、現実的な問題をどうして取上げられましょうか。その夜も、兄のことで、父母は何かぽそぽそ云ってましたし、私はすぐに寝床へはいり、とても、苦しい気持になったのです。一刻も早く。私は、重石をとりのぞかせるような状態まで、自分を持ってゆき度いと。私はその夜あれこれと随分考えました。彼とのこと。それと家庭のこと。その日だって、さっさと帰ればいいものを、電車を神戸で降りると、もういやあな気持になる。十二時半までものんでいました。家から脱出したい。その方法、個人、私一人でどうしても生活すること。或いは結婚。しかし、鉄路のほとりとは、私が承諾をしただけで、それはいつになるかわからぬことなのです。彼が又、解消を云い出すかも知れません。彼には、年よった母が居ましたし、弟達も居るのですから、三番目は、やはり死。それしか、今の苦しさ、家での束縛から逃れることは出来ないのです。私は、いろいろと随分考えたものです。そして最後にうかんだのが、小母様、青白き大佐だったの。
 随分冷えて来ました。多分二時すぎでしょう。一応これで今日は終ります。ひる間は、富士正晴氏が来、それから、一しょに外へ出ました。兄との約束を忘れず、兄のところへ行ったのですけど、兄は五時に仕事を終らせることが不可能だったので、私は一まず帰宅しました。夜、兄が帰り、私の友人共が集り、その中には、ここへ書かれた人の中二人が居ます。そして、冗談をしゃべり、のみくいしましたの、私の部屋で。皆がひきあげ、風呂を浴びてから、三十枚近くかいたわけです。だからもう三時かな。明日にします。今日兄はとても快活で、私も一安心だったのです。だけど、私は皆と喋っていても、原稿をかいても、鉄路のほとりのことで一ぱいなのです。小母様、その後の出来事がまだあるのですよ。二十二日まで書きましたね。後、二十八日迄。六日間のこと。小母様、私、どうしてこうも苦しまなければならないのでしょうか。では又、明日、おやすみなさい。
 頭髪をあらって、すっかりさっぱりしましたわ。三十日の朝なんです。今日、鉄路のほとりから、何らかの連絡があると思うのです。速達を出して、今日の十時迄に、明日会うことへの返事が来るのです。このことは、又前後複雑になるのであとにしましょう。
 昨夜のつづき。
 小母様、年末も年始も小母様は静かなようですね。
 さて、二十三日の朝、私は起き上るとすぐ、青白き大佐のところへ電話致しました。彼は不在でした。私はすぐ手紙を書きました。契約証を返してほしいという。小母様。何という私の行為。昨日、鉄路のほとりに求婚し、承諾したのですよ。だけど、ああ私はその行為に裏付けられるはっきりとした理由をもちません。その夜は、研究所の同人会でした。三軒ばかり飲み歩きました。そして、何もかも忘れてしまいたいと思い、わざと酔っぱらおうとしたのです。そうです。その日のひる間、私はパーマネントをかけました。青白き大佐が、すすめていたことなんです。その軽々しくなった頭髪の感じ。だけど、私は、心の中にいやなものが沈滞してました。ますます自分をみにくくし、ますます自分をきらい、ますます自分をみじめにする。その翌朝、それは二十四日、又、青白き大佐に電話をしました。彼は不在でした。私の心の中には、自分の行為に相反するもの、鉄路のほとりの存在が強くきざみこまれているのです。それなら、どうしてすぐにでも彼の許へ行かないのでしょう。私は、大阪へゆきました。そして、富士氏に会いました。だが、鉄路のほとりへ電話は致しません。青白き大佐をよんだのです。その夜、クリスマスイーヴ。富士氏と、青白き大佐と私は、大阪で少しのみました。そして、青白き大佐と共に帰神したのです。鉄路のほとりへの愛情と、自分の矛盾した行為を、冷淡に自分でみとめながら。でも、神戸へ帰って、すぐに家へ電話しました。鉄路のほとりからの連絡がないものかと。ありませんでした。丁度、その日は、研究所のおしまいの日なんです。だけど私は行きませんでした。そして青白き大佐と又のみました。彼はひどく私に説教をしました。黒部へゆくなら、本気で死ぬなら、どうして黙って行かないのかと。一体行く気持の原因はそんなに軽々しく取止めることの出来るものであったのかと。私は、ほとんど話をきいておりません。唯もう鉄路のほとりのことで一ぱいなのです。私は、青白き大佐に、別れる時、私が出した手紙はよまないで下さいと申しました。そして私自身ほっとしたのです。やっぱり私はもう何もかもすててしまうんだと。唯、ひたすらに鉄路のほとりだけを愛するのだと。私は知合いに、逆瀬川にある一室を借りる旨申出てました。私は家を出て独りになって生活しようと考えました。そうして、家庭のことの苦しみに終止符を打てば、仕事だって出来るだろうと思いました。青白き大佐は、手紙をよまぬこと約束してくれました。そしてその翌日、二十五日に会ったのです。彼は封をしてある私の手紙を私の前へ出しました。私は、ひったくって破り捨てたのです。何が書いてあるのか、青白き大佐は見事にあてました。契約証のこと。そうだと私はこたえました。大佐は、その理由を別に問わなかったのです。私は、三時半頃、青白き大佐と別れました。もう会うまいと思っていました。安楽な地帯を求めていた自分のくだらない、いやしい根性を捨てようと思いました。青白き大佐は大人だから、私は安心していることが出来るのです。それに、恋情も愛もないのですからおだやかでいれるのです。然しどんなに不安な気持があっても、どんなにつらい生活でも、鉄路のほとりと共に送り度いと思いました。さて小母様。私は、一軒ののみ屋に借金があったので、丁度父からおこづかいをもらいましたので、はらいに行ったのです。と小母様、そこのママさんが、云うのです。昨夜、鉄路のほとりが一人でのんで行ったと。私はびっくりしました。家では、彼から電話がかかったとは教えてくれませんでした。まさか昨夜来ているとは知りませんでした。私はすぐに駅へゆき、電報をうちました。二四ヒスマヌ アスアサデ ンタノム。私はそれから、研究所の忘年会へ出席しました。ものすごくのみました。鉄路のほとりは、私と青白き大佐が歩いていたのをみかけたのでしょうか。私は、偶然のいたずらに、ひどく気持をくらくして帰りました。どぶろくをたくさんのんだので頭ががんがんし、私はすぐに寝てしまいました。翌朝、二十六日、私はこちらから、京都へ電話しました。彼は出た後でした。もう電話がかかるか、もうかかるかと、その日一日、いらいらしてました。かかりませんでした。私は彼に、その朝、郵便も出していたのです。家で、あなたからの電話を教えてくれなかったため、会えなかったということを。そして私は、一刻も早く会いたいということ。一日中一しょにいたい。私は鉛筆ではしり書きしました。二十四日の日は神戸へかえって一人でのみあるき、そうも書いたのです。それは行為としてはいつわりだったでしょう。でも私は一人としか思えません。その一人は嘘でない筈です。二十六日一日中、鉄路のほとりからは何の連絡もありませんでした。彼がいそがしいことを知ってます。だから、電報も電話も手紙を書く時間さえないのだろうと解釈しようとしました。さて、その日、朝電話がないので大阪へゆこうと思いましたが、兄が、朝家を出る時、もうかえらない、とか死ぬんだとかくちばしって出て行った為、家の中は大騒ぎ。私が夕刻兄をたずねて、兄をひきもどす役をおおせつかっていたのです。仕方ありません。私は大阪行を断念していました。そうだ。その夜が、研究所の忘年会だったのだ。二十五日の夜は、家でアルベニスを三時間ひきつづけたんだ。さて、私は、兄を会社で呼出し、喫茶店へゆきました。そして兄に、会社をやめるか、家を出るかを、すすめました。私も来年は家を出るんだといいました。兄は、おふくろがかわいそうだなんて云ってましたが、とても沈鬱な顔。計画して行動しなきゃ駄目だと私はガミガミ云いました。そして行動する迄は、芝居するんだといいました。家へかえってぺらぺら笑顔で喋ってりゃ、それで親達は安心するんだと云いました。兄はそれが出来ないと云ったのです。出来なきゃ、即刻、家を出ろといいました。そして、家の中で、嫌な誤解をうけるのは、自分でも不快でしょうとたずねました。不快だとこたえるのです。私は、兄が歯がゆくなりました。でも、少し兄は私の云い分に賛成のようで、わかってくれたようでした。そのことは、私が両親から依頼された兄への慰めと飛んだ反対のものだったに違いありません。
 それから、私は研究所の忘年会へ行ったのです。そのことは書きましたね。その夜は、洋服のままごろりと寝こんでしまったことも。二十七日。私は、鉄路のほとりに会うため、大阪へゆきました。青白き大佐から、電話があり、大阪へ一しょに行ったのです。もう、彼と一しょにいるのが嫌で嫌で。電車の中でも、私は故意に眠ったふりをしていました。そして、大阪のとある喫茶店から、鉄路のほとりの行ってそうなところへ電話をしました。不在でした。私は、青白き大佐にわかれて、もう一つの場所、鉄路のほとりが行ってそうなところへゆきました。そこにも居ませんでした。そこは、緑の島がいるところです。私は彼に会ってみようかと思いました。その心の動きは、私自身説明出来ぬものです。わりきれぬものです。然し、緑の島は居りませんでした。私は、いつもの喫茶店へゆき、もう一軒、鉄路のほとりの居そうなところへ電話をしました。居ました。彼の声はひどく冷淡なものでした。待っているように云われました。じきに来るような様子でした。ところが、一時間半、いや二時間も待ったでしょうか。彼はきません。私はおちつきませんでした。私の好きな、フランチェスカッテーのヴァイオリンを耳にしながら、パーガニーニとサンサーンス。心はざわめいておりました。やっと、彼は五時頃やって来ました。ひどくむっつりしてました。客が混んでましたから、二人はすぐに出て、歩きはじめました。二十四日のことを云いますと、彼は、電話なんかしなかったんだと云いました。唯、神戸へ行き度くて行ったんだ。そしてのみ歩いたんだと云ってました。彼は、忘年会の約束があるなどぶっきら棒に云いました。別の喫茶店へはいり、少し話をはじめましたが、私の云うことにいちいち嫌味や皮肉を云うのです。私はおこっているのか、と問いました。何もおこってやしない。そしてすこぶる不機嫌なんです。私はその原因が、仕事の疲れだろうと思いこもうとしたのです。何かのことで、私の女友達の話が出ました。彼は、彼女にたよりしたんだと云いました。私ははっとしたんです。私には長い間、手紙をくれない。書く暇があるなら、どうして私へ手紙をくれないんだろう。その女友達への彼の手紙の内容が、どんなものであるにしろ、簡単なものであったにしろ、書いたということが、私の心を動揺させました。でも私は黙って居りました。彼は暫くして、忘年会へ出席するのがおくれると誰かに電話をしていました。私は、今迄の心の動揺を忘れて、彼に感謝しました。そして、駅の近くへのみに行ったのです。小母様。私はその時からのことを、克明に記憶してます。でも克明に書くだけの心のゆとりをもっちゃいません。あまりにもその出来事は、今から近いところにあるんだし。でも、出来るだけ忠実にかきましょう。彼は、笑顔もみせないでのみ、私に話かけるよりも、店の女に喋っていました。私はでも、一しょにいるということで嬉しいでした。そのことだけでもよかったのです。ところが随分のみ出した彼は、私にむかって、又嫌味のようなことを云い出しました。
「俺が神戸で会った女の中で、お前は一番げのげのげだ」
 その意味がききとれず、もう一度たしかめました。質の悪い女だそうです。そして、男の自虐は魅力だけど、女の自虐はみにくいと云いました。私は殆ど黙ってきいていました。彼は又、男にかしずかれて喜んでいる女性だとも私にむかって云うのです。それはおよそけんとうはずれな彼の解釈でした。小母様。私はそんな女かしら。まだかしずかれたことはないんだけど。私はかしずかれようとさえ、思わない。私はいつも愛されるより愛す立場の女ですし、ほんとにどうして、彼がそんなことを云うのか、私わからない。でも私黙ってました。二十二日にくらべて。
 ここで、午後十二時半、今日は、家で忘年会。まっ先に、作曲家の友人が来て、原稿は中絶。
 今が午後十一時。
 大勢来て、のんだ、くった、うたった。
 小母様、又、前後しますが、今日、三十日の午後十時は、私、とてもいたましい十時だったのです。そのことは又、だからと云って、これを書きつづけるのに、気持が変ったということはありません。十時以後もペンを持てば、前と同じです。さあつづけましょう。
 ……二十二日にくらべて、何ということでしょう。鉄路のほとりは、すっかり変った態度なのです。私達は、のみ屋を出て、あるコーヒ店にはいりました。相変らずの調子で、私につっかかるのです。私は単純だから、むつかしいことを云われたってわからないんだと云いました。彼は鼻先で笑います。そして、黙って私の顔をみてました。何考えているのと私、問うたのです。彼は、何をかんがえているか、当ててみろといいます。私、わからないってこたえました。
 ――まんざらでもない顔してやがる――
 彼は、私の顔みて、そう云ったのです。まんざらでもないって、どんなこと、私ききました。すると、彼は単純にとらないと云って又おこるのです。私は、とにかく、お酒のせいで荒れているのだと思うようにつとめました。其処を出て、ふらふら歩きはじめました。彼は十三まで自動車でおくるといいました。
 ――今日は帰らせたくないんだ――
 そう云った後に。
 十三近くまで、私達は抱擁しあっておりました。しかし、二十二日とちがって、彼はとても冷淡で、邪慳でした。私はこのまま帰るのはどうしても嫌だと申しました。そして、又、車を降りてから歩き出したのです。一言云えば、何かつっかかれるので、私は黙っていました。何かのはずみで、私が、どんな時でもあなたのことを考えていると云ったら、嘘をつけ、と高飛車に云われました。実際、私は一人で居る時も、大勢いる時も、彼のことを考えつづけてましたもの、それは本当なんです。彼は又、私の小説のことにこだわって、本当のことがどうして書けないのだ、など云います。踏切番のいない踏切をよこぎる時、私、このまま轢れてしまいたいと思った位です。彼は、わけのわからぬことを云いつづけました。十三の駅近くへ戻り、私はやっぱりこんな状態で別れ度くはないと云いました。そして、とあるのみ屋へ又はいったのです。小母様。そこで又、ある事件が起ったのです。
 一人の若い男が非常にのんで居りました。スタンド式にたっているところです。さて、私と彼は、相変らずいがみあった感情のまま椅子にこしかけました。と、その男が、何かかんか云ってくるのです。最初はとても朗かに、話題を提供しはじめたので、私は別に不快じゃなかったのですが、私の肩に手をかけたりしはじめたのです。そうです。私は、その男の隣りに、だから、彼と男の真中にいたのです。私は、見知らぬ人に、体にふれられるの、とても嫌なんです。見知らぬ人でなくともそうなんです。だから、カーッとなりました。男は若輩の巡査かよた者のようでした。巡査であろうと思います。指に繃帯をして居りました。何かかんか云い出して来て、俺はこんな者だと披露し、私と彼の名前をきくのです。彼は、とても機嫌よくその男の話相手になりました。ところが私にとっては、その行為はさみしいことなんです。そのうち、又もや、男は私に肩組して来ました。そして、あなたは誰だというのです。その前に、彼にも誰だときき、彼は、本名と住所をかいて、彼に渡していました。私は、感情的に、皮膚的に男を嫌がっていました。ふと思いついたのです。私のハンドバッグの下に、封筒があったのを。その日、民芸品の店屋から、原稿を頼まれていて、二枚ばかり書いた後一二枚の白い原稿用紙が、その封筒にはいって手許にあったのです。私は、その封筒(じょうぶくろっての)を、裏がえして男の前につき出したのです。
 兵庫県警察局長、とかいたはんが押してあったのです。男の血相がかわりました。その封筒は、あゆみという雑誌がはいって、毎月、私の家へおくられて来るものです。丈夫で便利なので、私はそれをよく原稿いれに利用していました。
 さあそれからが大変、その男は狼狽し、みる間に卑屈になりました。私は男の態度を、最初冷淡にみていましたが、あまり気の毒なので、それに、うるさいので、ごめんなさいと云いました。警察局長と、どんな関係か、私は説明させられたり、とにかく大騒ぎになったのです。彼は男を大へんいたわっていました。一時間以上も、男はうろたえつづけました。私はうるさくなって、彼に出ようと云い、遂に、席をたちました。でも、柔い顔をみせていました。男は、隣りの果物屋で果物をかい、私にもたせました。私はとても不愉快でたまりませんでした。さて、彼と二人になった時、私はいきなり彼から叱責をうけたのです。残酷なことをしたもんだと。そして、彼にはおふくろもいるだろうし、生活も苦しいんだろうと。私は黙っていました。それより、私は自分のした行為やその事件よりも、彼とのことの方がはるか重大だったのです。自動車にのって、大阪まで結局もどることになったのですが、その車中で、こんな気持のまま帰れないと私は云いました。彼は帰れとか、帰るなとか、随分の酒量でしたから、何かかんかその時その時の言葉をはきつづけました。自動車を降りてからも、私達は、まるでいさかいをしているようだったのです。私が、家へ今夜かえらぬの電報を打つと云いますと、電報なんて打たないで、帰らないで居れと云うのです。そして、私が黙ってますと、俺があと責任もってやればいいんだろ。と云いました。私は、責任とかいうものを、お互に意識することを、とてもいやに思っておりました。恋愛に、義務や責任などないんですもの。小母様。私自身、事務的な対人関係や仕事のことでは、とても、責任感が強いのです。でも、恋愛で責任のとり合いなんか、私はしたことがない。責任だと感じるなど、それは恋愛だと思いません。私達はホテルのあるあたりを随分うろうろ云い合いをつづけたまま歩きました。結局、私に帰ることを彼はすすめました。私もうなずきました。駅に出て、私は切符を買いました。それから又、喫茶店へゆきました。彼は、ひどくよっぱらっています。そして、巡査との事件を持出しました。私はそんなことどころじゃなかったのです。冷酷なんだ。彼は私に云いました。ええそうよ。私自分自身嫌な思いを我慢するのは出来ない、ってこたえました。私は、実際、男に同情など持っていませんでした。今考えてもそうなんです。卑屈なのはとてもきらい。彼は、とても巡査に同情していました。そして世の中ってあんなものだ。俺達の世界でも、そうなのだと云うのです。ああ私は、卑屈に生きることを認めていることに対して、少し憤りました。でも黙っていたのです。彼は、話をかえて、帰り度くないなど、度々云うものじゃない。云うな、と怒号しました。喫茶店は満員です。大勢の人がこちらをみていました。でも私は別に彼の態度に干渉しませんでした。とにかく、やたらになさけなかったのです。くしゃんとなっていたのです。だからもう云いませんと申しました。彼は、私をひっぱるようにして、私の乗場のところ迄、ひきつれました。そして、改札口へ私がはいる時、又大きな声で云いました。
「今、俺とキスしよう。ようしないだろう」
 そして、せせら笑いを残して帰ってゆきました。私は、その時ふと緑の島のことを思い浮べてしまいました。緑の島も、よくお酒をのむ人でした。よく二人でのみました。しかし、いつも笑って握手をしてさよならしたものでした。勿論、私がすねてお説教をくらったこともあります。私がいらいらして、怒ったこともあります。でも別れる時は、笑顔だったのです。私は、自分が緑の島を思い出したことに対して、ひどく又自分をいじめました。重い気持で電車にのったのです。もう、鉄路のほとりとは、まったくつながりがたたれたように思えました。でも、私はやはり彼を愛しているのです。その日帰宅してからも、電話がかからないかと待っておりました。そして、机にむかい、彼に速達をしたためました。
 あなたの愛情が感じられなくなったと。
 もうおしまいのようだと。そして、お返ししたいものがあるし、さし上げ度いものがあるから、三十日の午後十時迄に、連絡して下さい。三十一日は、一日あいているようにきいてましたからと。何時でも何処でもいいと。五分間でいいのだと。
 小母様、私はどうにもならなくなって、又生きる元気を失ってしまったのです。幸せになれると思ったのは束の間でした。二十二日から二十五日迄でした。私は、鉄路のほとりを愛しています。でも、それが真実だということを証明する何ももっちゃいません。感じ合うことが出来なければおしまいです。私は、彼と共に生活はしてゆけまいと思いました。疑いや誤解の連続になるでしょうし。小母様、小母様は、孤独になって生きてごらんなさい。とおっしゃいましたね。私には出来ないのです。来年早々、家を出て、生活してゆくつもりでしたが、想像していた私のその生活には、たった一人ではなく、鉄路のほとりの存在があったのです。そして仕事が出来るだろうと思っていたのです。家庭のこと。仕事のこと。そして一番大きなことは、鉄路のほとりのことなのです。彼を失って、私は仕事をしてゆくだけの勇気も強い意志もありません。小母様。私は強がりにみえて、本当はとっても弱いのね。私は、彼を責める気はありません。自分を責める気はうんとあっても。どうしてこんなことになったのか。やっぱり私の罪だと思うのです。そうだ。その手紙、私の速達にしたためた。あげたいものは、平手打ちです。私の愛情の表現です。もう何も云うことも出来ない。彼の抱擁と接吻も期待出来ないのです。私は思う存分、彼の頬を打つつもり。それから、返したいものは、彼がくれた二枚の写真のうち一枚の方です。それには、彼の昔の恋人が一しょにうつっているのです。はじめのうちに、ちょっとそのことを書いた筈です。私は、写真をみてさえ、むらむらなるのですから。
 小母様。その翌日、つまり二十八日、小母様のところへ行く前に、青いポスト、速達便の箱にいれたのです。彼への最後の手紙を。
 小母様。その後のことは、もうかかなくていいわね。
 小母様。今、一時頃かしら。三十日のよ。いや、三十一日の午前一時。
 小母様、彼からは何の連絡もなかったのです。十時迄に、いやその後、今迄に。もうおしまい。はっきりおしまい。私は、何も行動する勇気なくなりました。だけど死のうとする心の働きはあるんです。今、行動をともなわせるべく努力しているのです。私はだけどどうやったらいいんでしょう。南の国が好きなのに。寒い雪のふるところへ行こうとする私。私は、いつ死ぬでしょう。行動をとることが出来るのでしょう。もう彼とのことは終ったのだと結論が出ているのに、私の心では、終らせ度くないという働きかけがあるのです。電報か電話が若しや少しおそくなっても来やしないかと。或いは、仕事の都合で、私の郵便を見ていないのではないかと。だけど、やっぱりもう駄目ね。小母様。明日は、いえ今日は大晦日。この年は終るのです。この年のはじめには、緑の島を熱愛していました。そして、彼を誤解したため、自ら命をたつ行動をし、その揚句、生きかえって、肺病になった。私は、何という女でしょう。今は、鉄路のほとりを愛しきっているのです。小母様、もう一度会いたいと思う。だけど不可能です。明日、私は武生へ旅立つべきでしょうか。武生へゆく旅費はあるのです。
 小母様、私はこれをよみかえしはしません。よみかえす勇気はないのです。これは、私の最後の仕事。これは小説ではない。ぜんぶ本当。真実私の心の告白なんです。だから、これを小母様へよんで頂いたら、或いは、雑誌に発表されたら、私は生きてゆけないでしょう。鉄路のほとりは、虚構でなしに、本当のことだけを書けと私に云いました。これがそうです。私はこれを発表するべくして、死ぬでしょう。私の最期の仕事なんですから。そして、富士氏におくるよりも先に、鉄路のほとりへよんでもらいましょう。そして私は、彼の意志にまかせて、破るなり、或いは小母さんのところへ持って行ってもらうなり、雑誌にのせてもらうべく、富士氏の所へもって行ってもらうなり致しましょう。
 小母様。私は静かな気持になれました。書いてしまった。すっかり。何という罪深い女。私は地獄行きですね。
 小母様、お体をうんと大切にして下さい。花がいけてある御部屋。なつかしい御部屋です。
十二月三十一日 午前二時頃
(昭和二七年一二月三一日作、「VIKING47・VILLON4」共同刊行号、昭和二八年三月)





底本:「幾度目かの最期」講談社文芸文庫、講談社
   2005(平成17)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
   1978(昭和53)年12月31日初版発行
   「VIKING47・VILLON4 共同刊行号」
   1952(昭和27)年3月
初出:「VIKING47・VILLON4 共同刊行号」
   1952(昭和27)年3月
※「落つ」と「落ちつ」、「コーヒー」と「コーヒ」の混在は、底本通りです。
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校正:The Creative CAT
2019年11月24日作成
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