博物館

濱田青陵




[#「朝鮮慶州金冠塚發見の王冠」のキャプション付きの図(fig18371_01.png、横×縦)入る]
朝鮮慶州金冠塚發見の王冠
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はしがき


 わたしは『博物館はくぶつかん』といふだいくことになりましたが、何分なにぶん博物館はくぶつかんといつても、美術考古博物館びじゆつこうこはくぶつかんもあり、科學博物館かがくはくぶつかんもあり、そのほかいろ/\の博物館はくぶつかんがあるので、それを一々いち/\説明せつめいすれば百科ひやつかがく講釋こうしやくすることになり、それはわたしには出來できない藝當げいとうであるのみならず、一册いつさつほんにはとうていをされません。しかしさいは美術びじゆつ自然科學しぜんかがくのおはなしは、べつ諸先生しよせんせいふでられてゐることゝおもひますから、わたし博物館はくぶつかんのうち考古學こうこがく博物館はくぶつかんのことだけをくことにし、この一册いつさつほんによつてわか人達ひとたち考古學こうこがく大體だいたいのおはなしをすることにいたしました。たゞ何分なにぶん書物しよもつ標題ひようだいが『博物館はくぶつかん』となつてゐますので、はじめにすこしばかり博物館全體はくぶつかんぜんたいのことをべてきます。
 考古學こうこがくのおはなしをするめには、どうしても實物じつぶつをおせするか、せめて寫眞しやしんをおにかけなくてはよくわかりかねます。それで、このほんにもわりあひにたくさんれてきました。そのうち霜島正一郎しもじましよういちろう[#「霜島正一郎しもじましよういちろう」はママ]先生せんせいになつたものもありますが、便宜上べんぎじようわたしいたまづ素人畫しろうとがもたくさんあるのは、おゆるしをねがふほかはありません。またこのほんくにあたつて、松本龍太郎まつもとりゆうたろうさんにいろ/\御厄介ごやつかいになつたことを、こゝであつくおれいまをしあげてきます。
昭和四年七月
濱田青陵はまだせいりよう
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博物館はくぶつかん


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裝幀・恩地孝四郎
   島田貞彦
口繪・霜島正三郎
※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪・霜島正三郎
   濱田青陵


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第一、序の卷



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一、博物館はくぶつかんとはどういふところですか


(イ)博物館はくぶつかん種類しゆるい

 みなさんは、博物館はくぶつかんといふところたことがありますか。博物館はくぶつかんにはいろ/\のうつくしいものやめづらしい品物しなものならべてあります。みなさんのなかには、博物館はくぶつかんならべてあるものは金錢きんせんふことの出來できないといふことが、たゞ三越みつこし大丸だいまるなどのでぱーとめんとすとあーちがつてゐるところだとおもひとがあるかもれません。またそれらのみせよりも面白おもしろいものや綺麗きれいものすくないところだといふひとがあるかもれません。しかし博物館はくぶつかんでぱーとめんとすとあーとのちがひは、けっしてそのようなてんばかりではないのです。でぱーとめんとすとあーではおきやくくように、うつくしいものやめづらしいものを、たいてい、なんの秩序ちつじよもなくならてゝありますが、博物館はくぶつかん陳列品ちんれつひんみな種類しゆるいをわけ順序じゆんじよをつけ、その品物しなものには一々いち/\わかるような説明せつめいをつけて、それをまはるうちに自然しぜん學問がくもん出來できるようにしてあるのです。それで博物館はくぶつかん品物しなものひにくところでもなく、またあそびにくところでもありません。みなさんの學校がつこうおなじように勉強べんきようをしたり、學問がくもんをする場所ばしよなのです。もっとも學校がつこうちがふところは、博物館はくぶつかんには先生せんせいがをられません。また時間じかん一時間いちじかんづゝきまつて勉強べんきようするようには出來できてをりませんから、たれでも博物館はくぶつかんつたひとは、自由じゆう勉強べんきよう出來でき時間じかんにしばられるといふ窮屈きゆうくつおもひはありません。けれども、先生せんせいのように親切しんせつをしへてくださるひとはなく、やすみの時間じかんにお友達ともだち面白おもしろあそぶことが出來できないから、ときには退屈たいくつすることもありませう。
「第一圖 東京帝室博物館」のキャプション付きの図
第一圖 東京帝室博物館

 博物館はくぶつかんにはみなさんのつてゐるように、種々しゆ/″\品物しなものならべてありますが、たいていはある種類しゆるいのものばかりをえらんで、陳列ちんれつしてあるのです。たとへば東京とうきよう上野公園うへのこうえんや、奈良ならにある帝室博物館ていしつはくぶつかんとか、また京都きようと恩賜京都博物館おんしきようとはくぶつかんなどには、ふる繪畫かいが彫刻ちようこくや、陶器とうきなどのような美術品びじゆつひんばかりが陳列ちんれつしてあります。このように美術品びじゆつひんばかりを陳列ちんれつする博物館はくぶつかん美術博物館びじゆつはくぶつかんあるひはこれをりやくして美術館びじゆつかんともびます。それから歴史れきし關係かんけいある品物しなものばかりを陳列ちんれつした博物館はくぶつかん歴史博物館れきしはくぶつかんといひます。また鑛物こうぶつ動植物どうしよくぶつのような博物學はくぶつがくかんする標本類ひようほんるいばかりを陳列ちんれつしてあるところ博物學博物館はくぶつがくはくぶつかんといふことが出來できます。そのほか貝殼かひがらばかりをならべた貝類博物館かひるいはくぶつかん電氣でんきかんするものをならべた電氣博物館でんきはくぶつかんといふように、陳列品ちんれつひん種類しゆるいおほわけにもわけにも隨意ずいい區別くべつすることが出來できます。
[#「第二圖 京都恩賜博物館」のキャプション付きの図(fig18371_03.png、横×縦)入る]
第二圖 京都恩賜博物館

 私達わたしたち知識ちしきひろ學問がくもんためになる品物しなもの千差萬別せんさばんべつで、その種類しゆるいじつ無限むげんおほいのでありますから、これをみんなひとつの場所ばしよあつめて陳列ちんれつすることは容易よういでありませんし、またさうした博物館はくぶつかんをこしらへるには非常ひじようおほきなものる、それをまはるだけでも二日ふつか三日みつかもかゝり、かへって不便ふべんになります。だから世界せかいのどのくにでも、陳列物ちんれつぶつ種類しゆるいによつて博物館はくぶつかんをわけてをります。それでおほきくわける場合ばあひはたいていまへまをした美術びじゆつ歴史れきしかんするものをひとまとめにしたものと、博物學はくぶつがくかんするものをひとまとめにしたものとの二種類にしゆるい區別くべつするのでありまして、このふたつの博物館はくぶつかんがたいていちがつた場所ばしよにつくられてをります。そのほか陳列品ちんれつひんちひさく區別くべつした特別とくべつ博物館はくぶつかんがたくさんあることはまをすまでもありません。もちろんおほきな博物館はくぶつかんもの立派りつぱであつて、そのくにまちかざものとしては結構けつこうでありますが、これを見物けんぶつするひと勉強べんきようする人達ひとたちには不便ふべんおほいのですから、それよりもじんまりとした博物館はくぶつかんで、内容ないようとゝのつたものゝほうがよいといふことになるのであります。ちょうどみなさんの學校がつこうでも、あまりおほきい學校がつこうはかへって勉強べんきよう不便ふべんのことがあるのとおなじです。

(ロ)博物館はくぶつかん施設しせつ

「第三圖 奈良帝室博物館」のキャプション付きの図
第三圖 奈良帝室博物館

 博物館はくぶつかんは、最初さいしよにもまをしたとほり、たゞめづらしいものやうつくしいものをたくさんにならべるといふところではなくて、それらがあるひは年代ねんだいじゆんに、あるひは地方ちほうべつにといふふうに、品物しなもの順序じゆんじよよく系統けいとうてゝならべ、これをひと知識ちしきひろ學問がくもんをするためにつくられたものでありますから、博物館はくぶつかんわるいといふことはそのところならべてあるものがおほいか、すくないとかいふことよりも、まためづらしいものがあるとかないとかいふよりも、そのならかた出來できてゐるかゐないかといふのできまるのであります。だからいくらめづらしいしなおほく、またいものがたくさんにならべてあつても、そのならかた秩序ちつじよがなくめちゃ/\であつたりしては、學問がくもんをするのにいっこうやくたないのであります。ほんとうに博物館はくぶつかんいまいつたとほり、品物しなものならかた系統的けいとうてき出來できてゐるうへに、ならべてある品物しなもの目録もくろく完全かんぜんつくられてゐなければなりません。さうでないとわれ/\は博物館はくぶつかん知識ちしきひろ勉強べんきようすることが工合ぐあひよくまゐりません。それで博物館はくぶつかんには、どうしてもひとつ/\の品物しなもの名前なまへ、そのほか必要ひつよう事柄ことがらしるした目録もくろく出版しゆつぱんせられなくてはならないのであつて、その目録もくろくなかには簡單かんたん品物しなもの説明せつめいと、必要ひつようおうじて圖畫ずがのようなものもれなければならぬのであります。世界せかい各國かつこくにある大博物館だいはくぶつかんでは、みな、さうした立派りつぱ目録もくろく出版しゆつぱんされてをりますから、博物館はくぶつかんひとは、それらの目録もくろくやすふことが出來でき、その目録もくろくならべてある品物しなものとをてらあはせて、容易たやす研究けんきゆうすることが出來できるのであります。
[#「第四圖 京城總督府博物館」のキャプション付きの図(fig18371_05.png、横×縦)入る]
第四圖 京城總督府博物館

 博物館はくぶつかんでは、また目録書もくろくしよのほかに、陳列品ちんれつひんについて手輕てがるることが出來できるために、いろ/\の書物しよもつ出版しゆつぱんされてあつたり、繪葉書えはがきなどもつくられてあつて、見物人けんぶつにん容易たやすくこれをけて記念きねんにもし、また後日こうじつおもいとぐちにもなるようになつてゐます。繪葉書えはがきよりおほきな寫眞しやしん必要ひつようひとには、その希望きぼうにまかせてそれ/″\の寫眞しやしんるようにもなつてゐるのです。さら博物館はくぶつかんではそとより見物人けんぶつにん學者達がくしやたち研究けんきゆうさせるばかりでなく、博物館はくぶつかんにゐるひと自身じしんがその陳列品ちんれつひん利用りようして研究けんきゆうかさね、それにかんする立派りつぱ書物しよもつをどし/\出版しゆつぱんしてゐるれいがたくさんにあります。かように目録もくろくやそれ以外いがい書物しよもつ出版しゆつぱんせられて、研究けんきゆう結果けつか發表はつぴようされるようにならなければ、しん博物館はくぶつかん役目やくめたつせられないのであります。おほきい博物館はくぶつかんをつくることはかねさへあれば容易よういでありますが、博物館はくぶつかんをつくることは金以外かねいがいさら知識ちしき必要ひつようでありますから、餘程よほど困難こんなんなことになります。
「第五圖 旅順關東廳博物館」のキャプション付きの図
第五圖 旅順關東廳博物館

 また博物館はくぶつかん學問がくもんをするのにいくらつごうよく出來できてゐても、館内かんない設備せつびがよく調とゝのはねばだめです。ふゆさむ暖房だんぼうがなかつたりしたら寒氣かんきのためにちついて勉強べんきようすることも出來できないのです。西洋せいようおほきな博物館はくぶつかんでは、目録もくろく研究書物けんきゆうしよもつ出版しゆつぱんされてゐるばかりでなく、館内かんない設備せつび完全かんぜん出來できてゐて、愉快ゆかい見物けんぶつされるようになつてゐます。たいていの部屋へやには氣持きもちのよい長椅子ながいすいてあつて、見物人けんぶつにんはゆっくりとこしおろしてうつくしいたり、彫刻ちようこくをたのしんでながめたりすることが出來でき、また暖房だんぼうのあるためにふゆ館内かんないはるのようにあたゝかすごすことが出來できます。そしてたいていの博物館はくぶつかん地下室ちかしつには便利べんり食堂しよくどうかふぇーなどがまうけられ、食事しよくじもできるし、おちやめるしといふようになつてゐますから、戸外運動こがいうんどうをしない人々ひと/″\は、日曜日にちようびには教會きようかいから博物館はくぶつかん一日いちにち愉快ゆかいくらすのであります。日本につぽんにおいても將來しようらいまうけられる博物館はくぶつかんは、かうした設備せつびとゝのへる必要ひつようがあるとおもひます。さうでないとたのしんで博物館はくぶつかんひともなく、博物館はくぶつかん學校がつこう教室きようしつよりも、いつそう無趣味むしゆみのところになつてしまひませう。
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二、世界各國せかいかつこく大博物館だいはくぶつかん


(イ)イギリスの大博物館だいはくぶつかん

 わがくにでは、學校がつこう大都會だいとかいはもとより田舍ゐなかまちむらにも立派りつぱなのがたくさんにあつて、日本につぽんほど學校がつこうのよくとゝのつたくに世界中せかいじゆうにもすくないといはれてをりますが、これにはんして學校がつこうはなくても、學校がつこうおな役目やくめをする博物館はくぶつかんじつ貧弱ひんじやくであつて、わづかに東京とうきよう京都きようと奈良なら三箇所さんがしよ美術博物館びじゆつはくぶつかんがあるほか、これといふものもないのははなは殘念ざんねんです。これは日本人につぽんじんがまだ學問がくもんをするには學校がつこうだけで十分じゆうぶんであるといふような、間違まちがつたかんがへをつてゐることからたものでありませうが、今後こんご學校以外がつこういがいに、圖書館としよかん博物館はくぶつかん學校がつこう同樣どうよう日本國中につぽんこくじゆういたところ出來できて、學校がつこうにおいて先生せんせいから學問がくもんをそはりながら、また學校がつこうてからみなさんが自分じぶん圖書館としよかん博物館はくぶつかんつて、學問がくもんをやるようにならなければいけないとおもひます。
「第六圖 ロンドン大英博物館」のキャプション付きの図
第六圖 ロンドン大英博物館

 現在げんざいわがくににある博物館はくぶつかんはそのすうすくないばかりでなく、殘念ざんねんながら世界せかいしてすぐれた博物館はくぶつかんとはまをすことが出來できません。そこで世界せかい指折ゆびをりの博物館はくぶつかんといへば、どうしても西洋せいようにあるのをげなければならないのです。しかし、どのくに博物館はくぶつかんもつといかといふようなことは、容易ようい斷言だんげんするわけにはまゐりません。各々おの/\博物館はくぶつかんにはそれ/″\の特色とくしよくがあり、ものがわりあひに粗末そまつでも、陳列品ちんれつひんすぐれたものがおほいとか、陳列ちんれつ方法ほう/\いとか、いろ/\の事情じじようがあつて、博物館はくぶつかん優劣ゆうれつをきめることは餘程よほど困難こんなんですが、なんといつてもヨーロッパにおいて有名ゆうめい博物館はくぶつかんは、まづ第一だいゝちにイギリスのロンドンにある大英博物館だいえいはくぶつかんげなければなりません。こゝは美術びじゆつ歴史れきし方面ほうめんかんする品物しなものだけをあつめた博物館はくぶつかんでありまして、いまから四千年しせんねん五千年ごせんねんまへひらけたエヂプトやアッシリヤ、それからやゝくだつてギリシヤ、ローマ時代じだい文化ぶんかかた古美術品こびじゆつひんはもとより支那しな日本につぽんのような東洋とうようのものを多數たすう、しかもすぐれたものをあつめてあります。この博物館はくぶつかん一番いちばんめづらしいものはなにかとたづねられると、ちょっと返答へんとうまどひますが、エヂプト、ギリシヤ、アッシリアの古美術品こびじゆつひん世界中せかいじゆうどこの博物館はくぶつかんにも、これにまさるものはすくないといはれてをります。あのエヂプトの繪文字えもんじはじめるがゝりになつた『ロセッタ・ストーン』といふいし、ギリシヤの『パルテノン』といふ御堂おどうにあつた彫刻ちようこくもこゝにあります。それだけでも、いかにめづらしいものがあるかといふことは推察すいさつ出來できるでせう。そしてこの博物館はくぶつかんにはまた立派りつぱ圖書館としよかんまうけてありまして、勉強べんきようするにまことにつごうよく出來できてゐます。こゝを一應いちおう見物けんぶつするだけでも一日いちにちようしますが、入場にゆうじよう無料むりようであり、かさつゑあづかつてくれても賃錢ちんせんりません。毎日まいにち見物けんぶつ勉強べんきようのために、入場にゆうじようする人々ひと/″\非常ひじようにたくさんあつて、ちようど博覽會はくらんかいつたほどのにぎはひです。この大英博物館だいえいはくぶつかんもつぱ古代こだいのものを蒐集しゆうしゆうしてゐますのにたいして、今少いますこあたらしい時代じだい美術品びじゆつひん歴史れきしかんするものを陳列ちんれつしたものに、ビクトリア・アルバート博物館はくぶつかんといふのがロンドンにあります。そのおほきさも大英博物館だいえいはくぶつかんかたならべるくらゐあつて立派りつぱ博物館はくぶつかんです。
「第七圖 ロンドン・サウス・ケンシントン博物館」のキャプション付きの図
第七圖 ロンドン・サウス・ケンシントン博物館

 まへふたつの博物館はくぶつかん美術びじゆつ歴史れきし方面ほうめんかんしたものでありますが、ロンドンには博物學はくぶつがく方面ほうめんおほきな博物館はくぶつかんもあります。それは、サウス・ケンシントン博物館はくぶつかんです。こゝには動植鑛物どうしよくこうぶつはじめ、理科りかかんする標本ひようほん完備かんびしてゐます。そして子供こども素人しろうとのためにいろ/\興味きようみくようにならべてありますので、としわか學校がつこう生徒せいとなども大勢おほぜい見物けんぶつかけます。たとへば昆蟲こんちゆう標本室ひようほんしつにはひつてますと、めづらしい蝶々ちよう/\甲蟲かぶとむしなどのかはつた種類しゆるいのものがおどろほどたくさんにあつめてあります。またそのしつ兩側りようがはかべちかくには、幾百いくひやくといふおほくのしがあつて、種類別しゆるいべつ整理せいりした昆蟲標本こんちゆうひようほんでいっぱいになつてをり、たれでも勝手かつてしてることが出來できるので、自由じゆう勉強べんきよう出來でき設備せつびになつてをります。そのほかおほきな動物どうぶつ標本ひようほんにはぞうくぢらもあり、鑛物こうぶつ植物しよくぶつ標本ひようほんもすっかりそろつてゐることはまをすまでもありません。さらにロンドンには古代こだい繪畫かいがばかりをあつめた博物館はくぶつかんだとか、肖像畫しようぞうが專門せんもんならべた博物館はくぶつかんだとか、ロンドンかんする歴史れきし材料ざいりようあつめた博物館はくぶつかんだとか、インドにかんする資料しりようばかりをあつめた博物館はくぶつかんだとか、むかしから今日こんにちまで戰爭せんそう使つかつた武器ぶきばかりを陳列ちんれつした博物館はくぶつかんだとか、汽車きしや汽船きせん電車でんしや飛行機ひこうきのような交通こうつうかんする機械類きかいるいあつめた博物館はくぶつかんだとかゞ、こゝかしこにたくさんにありますから、これひととほり見物けんぶつしてあるくだけでも、ロンドンで一週間いつしゆうかんぐらゐは、大丈夫だいじようぶかゝるでせう。ロンドン以外いがいでは、スコットランドのエヂンバラをはじめイギリスの大都市だいとし地方ちほうまちむらにある博物館はくぶつかんひとつ/\かぞぐるならば數百すうひやくにもたつするくらゐであります。しかもロンドン以外いがいまちにもわが東京とうきよう帝室博物館ていしつはくぶつかんぐらゐのものが無數むすうにあるのは、なんとうらやましい[#「うらやましい」は底本では「うらましい」]ことではありませんか。

(ロ)フランス、ドイツその博物館はくぶつかん

 フランスのみやこパリにも、またロンドンにおとらないほどのおほきな博物館はくぶつかんがあります。それはルーヴル博物館はくぶつかんです。こゝには古代こだい美術びじゆつ歴史れきしかんするもの陳列ちんれつされてありますが、なかでもギリシヤの彫刻ちようこくだとか、アッシリアやエヂプトなどのふる品物しなものでは世界せかい比類ひるいのないほど立派りつぱなものがあつめられ、陳列品ちんれつひん價値かちあるてんからても、大英博物館だいえいはくぶつかんにけっしてけないのであります。ルーヴルには圖書館としよかん附設ふせつされてないかはりに、ふる博物館はくぶつかんふくまれてをります。ことにこのふるほうでは、ほかにこれとかたならべるほどのものはないといはれてをります。たゞこの博物館はくぶつかんむかしものをそのまゝ使つかつてゐるので、光線こうせん工合ぐあひすこしくわるいのが缺點けつてんともいへるでせう。ルーヴルのほかにパリで有名ゆうめいなのは、歴史れきしかんするものをならべたクルニー博物館はくぶつかん郊外こうがいますと、サン・ジェルマンの博物館はくぶつかんといふ考古學こうこがく博物館はくぶつかんがあります。
「第八圖 パリ・ルーヴル博物館」のキャプション付きの図
第八圖 パリ・ルーヴル博物館

 つぎにドイツへきますと、首府しゆふベルリンにはいふまでもなくおほくの博物館はくぶつかんがあります。フリィドリッヒてい[#「フリィドリッヒ帝」は底本では「フリィドノッヒ帝」]博物館はくぶつかんなどにはふる美術品びじゆつひんばかりがあつめてあり、ベルガモンといふところからつてたギリシヤの彫刻ちようこくれるため、すばらしい設備せつびがしてあります。また日本につぽん支那しなその東洋とうよう美術品びじゆつひんあつめた博物館はくぶつかんだとか、世界各國人種せかいかつこくじんしゆ土俗品どぞくひん網羅もうらした博物館はくぶつかんだとかゞこの大都會だいとかいかざつてをりますが、ロンドンやパリの大博物館だいはくぶつかんくらべては、あたらしく出來できたゞけにすこ見劣みおとりがするようであります。しかしドイツではベルリン以外いがい都會とかいに、かへってベルリンよりもおほきくて、しかも立派りつぱ博物館はくぶつかんすくなからずあります。そのうちでも名高なだかいものには、ドレスデンの繪畫博物館かいがはくぶつかん、ミュンヘンの繪畫館かいがかん同彫刻館どうちようこくかんなどをげなくてはなりますまい。ミュンヘンには、また自然科學しぜんかがく、(理科りか)にかんする方面ほうめん博物館はくぶつかんで、世界中せかいじゆう一番いちばんよくとゝのふたものが近頃ちかごろてられました。ドイツ博物館はくぶつかんといふのがそれです。この博物館はくぶつかんには電車でんしやのことでも、汽車きしやのことでも、飛行機ひこうきのことでも、潜水艦せんすいかんのことでも、らぢおのことでも、また鑛山こうざんのこと、印刷いんさつのこと、そのほかなんでも理科りか學問がくもん應用おうようした爲事しごとかんする品物しなものを、それ/″\その發達はつたつ順序じゆんじよおうじてならべてあります。そして、見物人けんぶつにん自分じぶん隨意ずいいぼたんすときは、電氣仕掛でんきじかけにつうじて機械きかいうごし、見物人自身けんぶつにんじしん實驗じつけん自由じゆう出來できるようになつてをります。ですからもし博物館はくぶつかん詳細しようさいつたならば、中學校ちゆうがつこう大學だいがくなどに入學にゆうがくしなくとも、ひとりで學問がくもん出來できるであらうとおもはれるぐらゐに、すべてに完備かんびしてゐるのにはまったく驚嘆きようたんせられます。
「第九圖 ベルリン博物館ベルガモン彫刻室」のキャプション付きの図
第九圖 ベルリン博物館ベルガモン彫刻室

 オーストリアのウインのまちにも、ベルリンよりもいつそう立派りつぱ博物館はくぶつかんふたつもあります。イタリイにきますと、ローマにはバチカン博物館はくぶつかんはじめ、古美術品こびじゆつひん陳列ちんれつした博物館はくぶつかんふたつありますし、ネープルスやフローレンス、ミランそのほかにも大博物館だいはくぶつかん無數むすうにあります。イタリイはふる時代じだい文化ぶんかさかえたくにでありますから、これ博物館はくぶつかんをさめてあるものにはすぐれたしなおほく、とうてい國々くに/″\ではられないものがたくさんあります。毎年まいねんイタリイを旅行りよこうするひと非常ひじようおほいのでありますが、イタリイ滯在たいざいなかばは、博物館はくぶつかんすごし、あとのなかばはローマだとかポムペイだとかの舊蹟きゆうせき巡遊じゆんゆうするといふありさまであります。以上いじようほか、ヨーロッパではスペインのマドリッド、デンマルクのコウペンハーゲン、スェーデンのストックホルムといふような都市としには、イギリスやドイツやフランスとうにもあまりおとらない博物館はくぶつかんがあつて、よしくにちひさくても博物館はくぶつかん圖書館としよかんだけは、大國だいこくかたならべることが出來できるくらゐのものがあります。軍艦ぐんかん兵隊へいたいでは競爭きようそう出來できなくとも、かうしたものでけないでかうといふのです。ロシヤにもむかしからおほきい博物館はくぶつかんがありますが、モスコーやレニングラードにある博物館はくぶつかんは、ヨーロッパ第一流だいゝちりゆうのものにくらべてけっしておとらないといはれてをります。トルコのみやこにも立派りつぱ博物館はくぶつかんがあつて、なか/\有名ゆうめいであります。
 また、これはヨーロッパではありませんが、アフリカのエヂプトのカイロには、ふるいエヂプトの遺物いぶつばかりをならべてあるおほきな博物館はくぶつかんがあります。ぴらみっとふるはかからたいろ/\の寶物ほうもついつぱいありまして、いまから四五千年前しごせんねんまへ王樣おうさまみいらも、そのまゝることが出來できます。また近頃ちかごろ發掘はつくつされたツタンカーメンといふ王樣おうさまのおはかから黄金きんづくめのすてきな品物しなものやまのように陳列ちんれつせられて、ひとをびっくりさせてをります。

(ハ)アメリカの博物館はくぶつかん

[#「第十圖 メトロポリタン博物館ギリシヤ室中庭」のキャプション付きの図(fig18371_11.png、横×縦)入る]
第十圖 メトロポリタン博物館ギリシヤ室中庭

 アメリカといふくには、みなさんもつてゐるとほりあたらしいくにでありますが、非常ひじようにお金持かねもちでありますから、ぜいたくをつくした立派りつぱ博物館はくぶつかん近頃ちかごろたくさんにつくられ、そのもの設備せつびにおいてはヨーロッパ諸國しよこくのとてもおよばないものがすくなからずあります。そのなかでもおほきい美術博物館びじゆつはくぶつかんとしてロンドンの大英博物館だいえいはくぶつかん、パリのルーヴル博物館はくぶつかんまさるともおとらないものは、ニューヨークのメトロポリタン博物館はくぶつかんでありませう。こゝにはエヂプト、ギリシヤそのほか西洋せいよう古美術こびじゆつはもとより、日本につぽん支那しなはじ東洋諸國とうようしよこくのものを非常ひじようにたくさんあつめてあつて、とうてい一日いちにち二日ふつかでは全部ぜんぶまはることは出來できないのであります。しかもこの博物館はくぶつかん見物人けんぶつにんおどろかすものは、そのギリシヤ、ローマの部屋へや一部いちぶにイタリイのポムペイで發掘はつくつされたむかしいへ客間きやくまそのまゝを模造もぞうしてあることです。眞中まんなかには庭園ていえんがあり、噴水ふんすいえずみづし、あたりには青々あを/\しげつた庭木にはきゑてあり、あつなつでもすゞしいかんじをあたへ、さながらむかし時代じだいひととなつてポムペイにゐるようなおもひがいたします。これはアメリカばかりでなく、ヨーロッパの博物館はくぶつかんにもありますが、ふる彫刻ちようこくなどはみなだいうへせてあつて、ぼたんせばそれが自由じゆう廻轉かいてんするようになつてをりますので、見物人けんぶつにんひとところつてゐながら、前後左右ぜんごさゆうからその品物しなものることの出來できるのはじつ便利べんり仕掛しかけではありませんか。またボストンには、メトロポリタンにもおとらないほど美術館びじゆつかんがあります。その日本部につぽんぶには日本につぽんにおいてさへられないようなふる美術品びじゆつひんもあり、日本につぽん建築けんちくとこのようなものをつくつて、陳列ちんれつしてあるのには感心かんしんされます。これらのしな日本人につぽんじん美術びじゆつ價値かちらない時代じだい海外かいがいつてしまつたものであつて、いまでは日本につぽんもどすことも出來できないのです。またワシントンのフリヤー・ガレリーといふ美術館びじゆつかんは、支那しな古畫こがをもつて特色とくしよくとしてゐます。それからフィラデルフィアの大學附屬博物館だいがくふぞくはくぶつかんにも、また支那しなふる時代じだい彫刻ちようこくなどにすばらしい立派りつぱなのがあります。かようにアメリカの博物館はくぶつかんはなか/\あなどがたいきほひをもつてゐるばかりでなく、近年きんねん支那しななどから古美術品こびじゆつひん金錢きんせんいとはず購入こうにゆうするといふ状態じようたいですから、ヨーロッパ諸國しよこくはこのてんではとてもてないことになりました。
 博物學はくぶつがく方面ほうめん博物館はくぶつかん立派りつぱなのが各地かくちまうけてありますが、ことにワシントン、シカゴ、ニューヨークなどにあるものはよく完備かんびしてをります。動物どうぶつ標本ひようほんみなぱのらま風景ふうけいなかに、それをあしらつて、自然しぜん景色けしきなかにそれ/″\動物どうぶつんでゐるところせることにつとめてをりますから、見物人けんぶつにん大人おとなでも子供こどもでも興味きようみをもつてそれ/″\動物どうぶつ生活状態せいかつじようたいることが出來できるのです。かような博物館はくぶつかんは、アメリカの各州かくしゆうひとつやふたつはかならまうけられてあるのはじつうらやましいとおもひます。せめて日本につぽんにこんなのがひとつでもまうけられたらとおもはずにはゐられません。またアメリカにはおほきな博物館はくぶつかん附屬ふぞくし、また獨立どくりつ兒童博物館じどうはくぶつかんといふのがたくさんあります。これは理科りかそのかんして、ごく簡單かんたん知識ちしきさづけるために出來できたもので、學校がつこうならふことを、一々いち/\實物じつぶつてらして復習ふくしゆうすることが出來できます。それですからいつも熱心ねつしんをとこをんないつぱいです。これも西洋せいよううらやましいもののひとつであります。

(ニ)世界せかいめづらしい博物館はくぶつかん

「第十一圖 ストツクホルム北方博物館」のキャプション付きの図
第十一圖 ストツクホルム北方博物館

 西洋各國せいようかつこくにあるいろ/\の博物館はくぶつかんうちで、一風いつぷうかはつた特色とくしよくがあつて非常ひじよう面白おもしろかんじたのは、ヨーロッパのスエーデンこくのストックホルムにある民俗博物館みんぞくはくぶつかんであります。これはスエーデンの土地とち風俗ふうぞく習慣しゆうかんなどをしめ博物館はくぶつかんであつて、ハゼリウスといふ一人ひとり熱心ねつしんひとが、ふる風俗ふうぞく品物しなものがだん/\ほろびてくのをかなしんで、はじめはわづかの品物しなものあつし、それがだん/\おほきくなつてつて今日こんにち國立こくりつ大博物館だいはくぶつかんとなり、北方博物館ほつぽうはくぶつかんといふ名稱めいしようがつけられたのであります。もの三階建さんがいだての立派りつぱなもので、その一番下いちばんした部屋へやにはスエーデンの各地方かくちほう農家のうか状態じようたいをそのまゝこゝへうつしてあつて、寢臺しんだいだとか爐邊ろへん模樣もようなどが地方々々ちほう/\べつ區別くべつしてならべてあるのです。また二階にかいには家々いへ/\道具類どうぐるいが、あるひはものあるひは木器もくきあるひは陶器とうきといふように種類しゆるいをわけてられるようにしてあります。それから三階さんがいのぼると、今度こんど時代順じだいじゆんならべて、だん/\かはつててゐるところをあらはしてゐます。かように三種さんしゆならかたによつて、私共わたしども見物人けんぶつにんはスエーデンの風俗ふうぞく習慣しゆうかん特質とくしつ十分じゆうぶんにいろ/\の方面ほうめんから研究けんきゆうすることが出來できるようになつてをります。ところがまたこの博物館はくぶつかんのすぐそばにスカンセンといふ丘陵きゆうりようがあつて、それが野外博物館やがいはくぶつかんになつてをります。そのをかうへにはスエーデンの各地方かくちほう植物しよくぶつ移植いしよくし、また特有とくゆう動物どうぶつをも飼養しようしてゐるところは、ちょっと植物園しよくぶつえん動物園どうぶつえんのようでもあります。そしてそのあひだ各地方かくちほうからそのまゝもつて農民のうみん小屋こやがあり、ふるしき教會堂きようかいどうがくれにつてゐるかとおもふと、面白おもしろ風車かざぐるまがあり、倉庫そうこのようなふるものむかしのまゝにまうけてあるといふふうであります。さてその農民小屋のうみんごやにはひつてると爐邊ろへんにはまきやされてあつて、その地方ちほう風俗ふうぞくをしたぢいさんがたばこいぶらしてゐたり、むすめさんはまたいとつむいで熱心ねつしんはたらいてゐるといふ實際生活じつさいせいかつることが出來でき、また料理屋りようりや茶店ちやみせ各地方かくちほうにあるそのまゝの建築けんちくで、料理りようりもまたその地方ちほう名物めいぶつはせ、給仕女きゆうじをんな故郷こきよう風俗ふうぞくをしておきやく給仕きゆうじるといふふうになつてゐます。
[#「第十二圖 スカンセン野外博物館の一部」のキャプション付きの図(fig18371_13.png、横×縦)入る]
第十二圖 スカンセン野外博物館の一部

 これはたん旅人たびゞと面白おもしろおもはせるためにまうけられたものではなくて、だん/\文明ぶんめいすゝむにしたがひ、むかし風俗ふうぞく面白おもしろ建築物けんちくぶつ次第しだいほろんでくのを保存ほぞんするために出來できたものであります。わたし日本につぽんにおいても、文化ぶんかすゝむにしたがつて、田舍ゐなかにあるふる風俗ふうぞく道具類どうぐるいが、次第しだいほろくことを殘念ざんねんおもふので、一日いちにちはやくかういふふうな民俗博物館みんぞくはくぶつかんまうけられることを希望きぼうするものであります。そして、このスエーデンの博物館はくぶつかんつくつたひとは、最初さいしよからおほくの金錢きんせんとうじて着手ちやくしゆしたのではなく、すこしづゝあつめてなが年月としつきあひだ一人ひとりちからでもつて完成かんせいさせたことをおもふときは、たれでも熱心ねつしん時間じかんとをもつてやりだせば、しあげることが出來できることゝしんじます。このスエーデンの北方博物館ほつぽうはくぶつかんとまつたくおなじような博物館はくぶつかんさらきたくに、ノールウエのオスロにもありますし、近頃ちかごろこのしゆ博物館はくぶつかん各國かつこくまうけられて傾向けいこうになつてをります。
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第二、考古博物館の卷(上)



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一、考古學こうこがくとはどういふ學問がくもんですか


(イ)考古學こうこがく考古博物館こうこはくぶつかん

 博物館はくぶつかん大別たいべつすると、美術びじゆつ歴史れきし考古こうこかんする品物しなもの陳列ちんれつした博物館はくぶつかんと、博物はくぶつ理科りか方面ほうめん品物しなものあつめた科學博物館かがくはくぶつかんふたつの種類しゆるい區別くべつせられることはまへにもべたとほりでありますが、これらの博物館はくぶつかんについて一々いち/\くはしくおはなしをすることは、このほん紙面しめんゆるさないばかりでなく、科學博物館かがくはくぶつかんや、美術びじゆつ歴史れきし博物館はくぶつかんかんしては、各々おの/\その題目だいもくについてほか先生方せんせいがたはなされることになつてをりますから、わたし第一だいゝち美術びじゆつ歴史れきし考古こうこかんする博物館はくぶつかんうち、たゞ考古學こうこがくかんする博物館はくぶつかんのおはなしをこれからいたしませう。
 いつたい考古學こうこがくといふ學問がくもんは、人間にんげん世界せかいあらはれて以來いらい今日こんにちいたるまでのなが年月としつきあひだにこの世界中せかいじゆうのこした種々しゆ/″\品物しなもの、それは人間にんげんつくつた道具どうぐとか武器ぶきるい、また建築けんちく彫刻ちようこく繪畫かいがその一切いつさい品物しなもの、これを私共わたしども遺物いぶつといつてをりますが、その遺物いぶつによつて人間にんげん過去かこ時代じだい生活せいかつ模樣もようだとか、文化ぶんか状態じようたいだとかを研究けんきゆうする學問がくもんであります。しかしあたらしい時代じだいになるほど種々しゆ/″\ものなどがのこつてをりますので、それによつてむかしのことがたいていわかりますから、遺物いぶつばかりで調しらべる必要ひつようはありませんが、ずっと時代じだいふるくなり、ものがあまりなかつたり、またまったくないふる時代じだいになりますと、どうしても遺物いぶつばかりで研究けんきゆうをするほか方法ほう/\はありません。それで考古學こうこがくでは、遺物いぶつばかりで研究けんきゆうしなければならぬごくふる時代じだい、あるひは遺物いぶつおも使つかつて研究けんきゆうしなければならぬふる時代じだいのことをもつぱ調しらべてくのであります。ですから考古學こうこがく博物館はくぶつかんといへば、とほふる時代じだい人間にんげんつくつた品物しなものならべてくのでありますが、おほきい家屋かおくだとか洞窟どうくつだとかいふものになりますと、博物館はくぶつかんなかつてることが困難こんなんですから、たいていは模型もけい圖面ずめん陳列ちんれつすることになつてをります。
 わたし七八歳しちはつさい少年時代しようねんじだいから、むかしひとつくつたいしなどをあつめてよろこんだのでありましたが、そのころわたしいし人間にんげんつくつたものではなくて、水晶すいしようなにかとおなじように自然しぜん出來できいしだとばかりしんじてをりました。またあるひといし天狗てんぐつくつたものだとはなしてくれました。しかしそれは、今日こんにちから四十年程前しじゆうねんほどまへのことでありまして、そのころには日本につぽんのどこへつても考古學こうこがく博物館はくぶつかんといふものはひとつもなく、またいしのようなものについても、説明せつめいした書物しよもつがなかつたのであります。もしそのころ考古學こうこがく博物館はくぶつかんがあつたならば、いし自然しぜん出來できたものでもなく、また天狗てんぐつくつたものでもなくて、ふる時代じだい人間にんげんつくつたものであるといふことがわかつたことでありませう。しかし四十年後しじゆうねんご今日こんにちでも、日本につぽんでは殘念ざんねんながら考古學博物館こうこがくはくぶつかんがどこにもまうけられてゐませんから、みなさんはやはり先生せんせいくか、書物しよもつるかしなければ、それらについてることの出來できないのははなは遺憾いかんなことであります。
 昨年さくねんわたしがドイツを旅行りよこうして、ミュンヘンといふまちへまゐりましたとき、そこにあるおほきい美術博物館びじゆつはくぶつかん附近ふきんに、ちひさいけれども考古學博物館こうこがくはくぶつかんがありましたので見物けんぶつかけました。そこはわづかふたつかみつつしか部屋へやがなく、ほんとうにちひさいもので、ぢいさんがたゞ一人ひとり、つくねんとしてばんをしてゐました。そのなかわたしがはひつてくと、陳列棚ちんれつだなかげほう一人ひとり少年しようねんがゐて、手帳てちようしていつしょう懸命けんめいたものについて筆記ひつきしてゐました。わたしはこの少年しようねん熱心ねつしんさに感心かんしんしたので、
「あなたはかういふふるいものがすきですか」
とたづねました。
「はい、わたしはこんなものを調しらべるのが一番いちばんきです」
こたへて、なほも鉛筆えんぴつ手帳てちよううへはしらせてゐるのです。それでわたしは、
「あなたのような熱心ねつしん少年しようねんは、將來しようらいきっと考古學こうこがく立派りつぱ學者がくしやになりませう」
といつてわかれたのでありました。日本につぽんにもよしちひさくとも、こゝかしこに考古學こうこがく博物館はくぶつかんてられてあつたら、このドイツの少年しようねんのように熱心ねつしん子供こども出來できて、それが將來しようらい考古學こうこがくえら學者がくしやになるであらうとかんじたのでありました。

(ロ)人類じんるいはじ

[#「第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋」のキャプション付きの図(fig18371_14.png、横×縦)入る]
第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋

 さて人間にんげん下等動物かとうどうぶつからだん/″\進化しんかしてたものであつて、われ/\はさるおな祖先そせんからうまれてたものであらうといふことは、ダアウヰンが進化論しんかろんとなへて以來いらい餘程よほど頑固がんこひとのぞいてたいていみなしんずることになりました。しかし、その人間にんげんさるとの共同祖先きようどうそせんはどういふものであつたでせうか。またその共同祖先きようどうそせんから今日こんにち人間にんげんのようになつた最初さいしよ人間にんげんはどういふものであつたでせうか。このようなことをるには、地中ちちゆううづまつてゐるそのふるほね化石かせきし、それを材料ざいりようとして研究けんきゆうするほかはありませんが、さてさういふさる人間にんげんとの中間ちゆうかんのものゝほね今日こんにちまでにいかほど發見はつけんされたかといふに、殘念ざんねんながら中々なか/\おもふようにてまゐりません。しかしたゞひといまから四十年前しじゆうねんぜん(一八九二ねん)にオランダの軍醫ぐんいデヨボアといふひとが、南洋なんようジャ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とうのトリニールといふところ發見はつけんしたほねが、ちょうどこの人間にんげんさるとの中間ちゆうかんにある動物どうぶつほねだといはれてをります。ほねといつても、たゞ頭蓋骨ずがいこついたゞき、いはゆるあたまさら部分ぶぶんひだりもゝほね一部分いちぶぶん臼齒きゆうしたばかりでありますが、これを調しらべてると、どうしても今日こんにち類人猿るいじんえんとはちがつて、餘程よほど人間的にんげんてき性質せいしつをおびてゐたことがわかるのです。ことに直立ちよくりつして歩行ほこうしたものであることが、あしほね性質せいしつによつて十分じゆうぶん想像そう/″\せられます。それでそのほねぬしである動物どうぶつと、『ピテカントロプス・エレクツス』すなはち猿人えんじん直立ちよくりつして歩行ほこうする猿人えんじんといふをつけたのであります。このほね基礎きそとしてかほからだつくつてると、第十四圖だいじゆうしずにあるような猿人えんじんとなるのです。これがさるほうちかいか、人間にんげんほうちかいかは、議論ぎろんがあるにしても、とにかく人間にんげんさるとの中間ちゆうかん動物どうぶつといつてつかへはありません。
[#「第十四圖 ピテカントロプス猿人」のキャプション付きの図(fig18371_15.png、横×縦)入る]
第十四圖 ピテカントロプス猿人

 その本當ほんとう人間にんげんのつけられる一番いちばんふるほねは、ドイツのハイデルベルグの附近ふきん發見はつけんされました。それはたゞひとつの下顎骨かがくこつでありますが、このほねあご内側うちがは引込ひつこみ、今日こんにち人間にんげんとはよほどちがつてゐますけれども、類人猿るいじんえんとはまつた別種べつしゆであり、もはや人間にんげん仲間なかまであることはあきらかであります。第十五圖だいじゆうごずをごらんなさい。たゞひとつの下顎骨かがくこつから想像そう/″\してると、こんな人間にんげん出來上できあがるのです。これを『ハイデルベルグじん』といつてゐます。
[#「第十六図 ハイデルベルグ人下顎骨」のキャプション付きの図(fig18371_16.png、横×縦)入る]
第十六図 ハイデルベルグ人下顎骨

 そのぎにふるいものは、イギリスのピルツダウンで發見はつけんされたもの、それからドイツのネアンデルタール、ベルジュームのスピイなどで發見はつけんされたもので、これらのものはみなハイデルベルグじんよりも餘程よほど進歩しんぽしてをりますけれども、現代げんだい人類じんるい日本人につぽんじん支那人しなじんのような黄色人種こうしよくじんしゆ、ヨーロッパやアメリカの白色人種はくしよくじんしゆ、それからアフリカあたりの黒人こくじんまでふくめた現代人類げんだいじんるい比較ひかくしてると、動物學上どうぶつがくじようこれら現代人げんだいじんおなひとつの人種じんしゆにいるべきものではなくて、それとはべつしゆぞくするほどのちがひをしめしてをりますので、われ/\はこれを『ホモ・プリミゲニウス』(原始人げんしじん)とんでゐるのであります。第十八圖だいじゆうはちずはネアンデルタールからほねから想像そう/″\してた、その時分じぶん人間にんげんです。
[#「第十五圖 ハイデルベルグ人」のキャプション付きの図(fig18371_17.png、横×縦)入る]
第十五圖 ハイデルベルグ人

[#「第十七圖 ピルツダウン人」のキャプション付きの図(fig18371_18.png、横×縦)入る]
第十七圖 ピルツダウン人

 そのぎの時代じだい人間にんげんは、フランスのドルドンヌしゆうそのから發見はつけんされたほねによつて代表だいひようされるものであつて、そのうちおもなるものはクロマニヨンじんといはれるものです。この時代じだい人間にんげんになると、今日こんにち人間にんげんとまったくおなしゆぞくするものであり、またあるてんではいま野蠻人やばんじんなどよりは餘程よほどすゝんだ頭腦ずのうぬしであつたことは、そのあたまほねてもわかります。ですからクロマニヨンじんは、われ/\と同樣どうよう現代人げんだいじんといふをつけなければなりません。しかしその現代人げんだいじんぞくするクロマニヨンじんんでゐた時代じだいはいつごろだらうとまをしますと、ずいぶんふる時代じだいであつて明瞭めいりようにはわかりかねるのでありますが、まづ今日こんにちから七八千年しちはつせんねん乃至ないし一萬年いちまんねんちか以前いぜんであらうといふことです。したがつてそれ以前いぜん原始人げんしじんだとか、ハイデルベルグじんだとかにいたつては何萬年前なんまんねんまへであるか、にはかに見當けんとうがつかないくらゐです。ましてひとさる中間ちゆうかんともられる猿人えんじんなどは五十萬年ごじゆうまんねん、あるひはそれ以上いじようふるむかしのものとしなければならぬのでありまして、かようにかんがへてると人間にんげんはじめはなんとずいぶんふるいものではありませんか。また人間にんげんあらはれる以前いぜん下等動物かとうどうぶつばかりんでゐた世界せかいはどれだけふるいことでせう。數千萬年すうせんまんねんをもつてかぞへてもかぞれないむかしとは、じつおどろくべきことであります。われ/\が歴史れきしをもつてから今日こんにちまで、わづかに數千年すうせんねんといふ短時日たんじじつでありますが、人間にんげんはじめて出現しゆつげんしてから歴史れきしはじまるまでと、歴史以後れきしいご今日こんにちまでとのながさの比例ひれいは、歴史以前れきしいぜんほう歴史以後れきしいご數十倍すうじゆうばいからあるといふことでわかるでせう。

(ハ)文化ぶんか三時代さんじだい

[#「第十八圖 ネアンデルタール人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_19.png、横×縦)入る]
第十八圖 ネアンデルタール人想像圖

 さて人類じんるいはじめてこの世界せかいあらはれてから非常ひじようながあひだ歴史時代れきしじだいにはひるごくちか時代じだいまでも、人間にんげん今日こんにちわれ/\のようにどうてつ金屬きんぞく使用しようして種々しゆ/″\器物きぶつつくることをまったくらなかつたのであります。それで最初さいしよ今日こんにちさるなどとおなじく、たゞそのあたりにある木片きぎれだとか石塊いしころだとかをもつて、あなつてむしをとつたり、あるひはをわつてふといふような生活せいかつをしてゐたのでありませう。ところがだん/\進歩しんぽするにしたがつて石塊いしころ多少たしよう細工さいくくはへ、にぎつてものこわすに便利べんりかたちにこしらへるようになりました。さらにまたそのいしみがいてうつくしいかたち器物きぶつつくるようになり、あるひは自分じぶんつた動物どうぶつほね細工さいくくはへて、それを道具どうぐにしたりしたのでありますが、とにかくしゆとしていしつくつた器物きぶつ使用しようした時代じだいながらくつゞいたのです。それをわれ/\はいし時代じだい、あるひは石器時代せつきじだいんでをります。
[#「第十九圖 クロマニヨン人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_20.png、横×縦)入る]
第十九圖 クロマニヨン人想像圖

 ところが人類じんるいはまた偶然ぐうぜん岩石がんせきあひだにあるきんだとかどうだとかのような金屬きんぞく發見はつけんして、こんどはその金屬きんぞくをもつて器物きぶつつくるようになりましたが、これはいしほね器物きぶつくらべると、非常ひじようにつごうのいことをり、まづはじめにはたゞのどう使つかふようになつたのであります。ところがたゞのどうではやはらかすぎ、鑄造ちゆうぞうもむつかしいので、どうすゞをまぜて青銅せいどうといふ金屬きんぞくつくり、これを器物きぶつ材料ざいりようとしてゐた時代じだいがありました。この時代じだい青銅時代せいどうじだいあるひは青銅器時代せいどうきじだいしようするのであります。そののちつひてつひろ器物きぶつ使用しようされる時代じだいとなつたのでありますが、その時代じだいてつ時代じだい、あるひは鐵器時代てつきじだいといふのです。今日こんにちにおいては鐵以外てついがいあるみにゅーむそのほかいろ/\の金屬きんぞく發見はつけんされてまゐりましたが、やはりてつれものや、なにかに一番いちばんおほ使つかはれてゐるので、ひろ意味いみにおいては、今日こんにち鐵器時代てつきじだいぞくするといふほかはありません。
[#「第二十圖 トムゼン氏」のキャプション付きの図(fig18371_21.png、横×縦)入る]
第二十圖 トムゼン氏

 かように人類じんるいいしからどう、あるひは青銅せいどうをへて、ぎにてつをもつて刃物はものをつくる時代じだいとなりました。このみつつの時代じだい考古學者こうこがくしやは、文化ぶんか三時代さんじだい、あるひは文化ぶんかみつつの階段かいだんづけるのであります。しかしこのみつつの階段かいだんは、あらゆる人類じんるいかならずこの順序じゆんじよでもつて通過つうかするものではありません。ある場合ばあひには、いし時代じだいからてつ時代じだいになつたれいもたくさんありますが、ヨーロッパをはじめアジアの諸國しよこくにおいては、大體だいたいこのみつつの時代じだい通過つうかして、人類じんるい文化ぶんかすゝんでたのです。また世界中せかいじゆうのあらゆるくに人類じんるいが、みなおな時代じだいいしからどうどうからてつといふふうにすゝんでたのではなく、あるくにでははやいしからどう時代じだいになり、さらてつ時代じだいになつたものもあるし、またながあひだいし時代じだいのこされてゐたのもありますが、とにかくこのみつつの時代じだいうごかたは、大體だいたい人類文化じんるいぶんか順序じゆんじよしめすものといつてもよろしい。
 かように人類じんるい文化ぶんか三階段さんかいだんがあるといふことをはじめてとなへたひとは、今日こんにちから百年ひやくねんばかり以前いぜんきてゐた、デンマルクの學者がくしやトムゼンであります。またその弟子でしのワルセイが、先生せんせいせつ事實じじつによつてだん/\證明しようめいしてつたのでありますが、どうしてこの北歐ほくおう一小國いちしようこく學者がくしやが、かようなせつすにいたつたかといふのに、きたヨーロッパ諸國しよこくにはいし時代じだい青銅せいどう時代じだいが、地方ちほうよりながくつゞいてゐたゝめに、そのころ遺物いぶつおほそんしてゐたといふのが、その理由りゆうひとつであります。そののちいたつて、この三時代さんじだいさらこまかくわける學者がくしやました。それはイギリスのラボックといふひとで、石器時代せつきじだいをば舊石器時代きゆうせつきじだい新石器時代しんせつきじだいふたつにわけることになりました。今日こんにちわれ/\はラボックのわけかたによつて、石器時代せつきじだいふたつとするのが普通ふつうであります。また石器時代せつきじだいから金屬使用時代きんぞくしようじだいにはひる中間時代ちゆうかんじだいを、金石併用期きんせきへいようきづける學者がくしやもありますが、かようにわけてけばかぎりなくわけられますけれども、それらのこまかいことはあらためておはなしするときがありませう。ようするにこの石器せつき青銅器せいどうきおよ鐵器てつきみつつの時代じだいによつて考古博物館こうこはくぶつかんは、その陳列ちんれつする品物しなもの區別くべつし、時代別じだいべつによつて人類じんるい遺物いぶつならべてくのが普通ふつう方法ほう/\となつてをります。
 それでわたしは、これからみなさんに考古博物館こうこはくぶつかん書物しよもつうへでつくり、そこへ案内あんないして説明せつめいしてかうとおもふのでありますが、たゞいまべた順序じゆんじよすゝんでくことにいたします。さあみなさん、これから舊石器時代きゆうせつきじだい陳列室ちんれつしつにまゐりませう。
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二、舊石器時代室きゆうせつきじだいしつ


(イ)舊石器きゆうせつき種類しゆるい

[#「第二十一圖 原器と舊石器」のキャプション付きの図(fig18371_22.png、横×縦)入る]
第二十一圖 原器と舊石器

 このしつにはひつて私共わたしどもは、まづ中央ちゆうおうたなならべてある石器類せつきるいをだん/\きませう。一番いちばんはじめにあるのは、いはゆる『原石器げんせつき』としようするものでありまして、これはちょっとたところでは、そのへんころがつてゐるいし破片はへんすこしもかはらない、たゞ角張かくばつていたあとのあるようにえるだけのものでせう。(第二十一圖だいにじゆういちず左上ひだりうへ)これはみなさんも、はたして人間にんげんつくつたものであるかいなかについてうたがふのはむりがありません。學者がくしやあひだにも種々しゆ/″\意見いけんがありまして、ある學者がくしやは、人間にんげんくはへてつくつたものであるといひ、またある學者がくしやは、いや自然しぜんいしがぶつかったり、なにかの機會きかい出來できたにすぎないものだといふ。しかし、かようないし破片はへんつてて、これが原石器げんせつきであるかどうかといふたしかなことはこたへが出來できないにしても、人間にんげん立派りつぱ石器せつきつく以前いぜんに、それよりも簡單かんたんな、ちょうどこんな粗末そまつ石器せつきつくつたことがあつてもよいし、またこんな石片せつぺんうちにも、人間にんげんくはへたものがこんじてゐることだけはみとめなければなりません。
 よしこの原石器げんせつき疑問ぎもんがあるにしても、そのぎにならべてあるこぶしのようなかたちをしたいしになると、たれても(第二十一圖だいにじゆういちず左下ひだりした)かう根元ねもとふとつてさきとがつたいしばかりが、偶然ぐうぜんにわれてるとはおもはれない。どうしてもこれは人間にんげんつくつたものとしなければなりません。これには人間にんげんこぶしほどもある大形おほがたのものが非常ひじようおほいのでありまして、一番いちばんふる石器せつきといはれ、セイユ石器せつきばれてゐるものであります。そのぎにつくられた石器せつきは、そのとなりにあるアシュウル石器せつきです。(同上どうじよう右上中みぎうへなかかたち大體だいたいまへのものにてゐるけれども、製法せいほうこまかくなり、だいぶうつくしく出來できてをります。こんな石器せつき一體いつたいなに使用しようしたものであるかといふに、全體ぜんたいつちやくにもなり、とがつたところではものき、かくばつたところではやはらかいものをるといふように、あらゆることにもちひられたのでせう。これが次第しだいすゝんでますと使用しようみちべつになり、それ/″\適當てきとうかたちになつて石槍いしやりとか石劍いしつるぎとか、あるひは石庖丁いしほうちようとかにわかれてくのでありますが、この時代じだいにはまだ、それがわかれてゐなかつたのであります。
[#「第二十二圖 骨牙器と彫刻物」のキャプション付きの図(fig18371_23.png、横×縦)入る]
第二十二圖 骨牙器と彫刻物

 そのぎにならべてあるのは、みなさんのられるとほりそのつくかたは、まへのよりもかへって簡單かんたんであるようですが、しかもおほきくちわつた表面ひようめんたくみに使つかつて、必要ひつよう部分ぶぶんこまかくちわつてあるのがにつくでせう。うすひらたいもの、さき鋭利えいりとがつたものなども出來できてきたのです。これをムスチェーのものといつてゐます。なほ々々/\陳列ちんれつしてあるように、石器せつきには非常ひじよう精巧せいこうなソリュートレのもの、またすこ簡單かんたん要領ようりようのよく出來できてあるマデレエンといふふうにだん/\變化へんかしててゐることがわかります。(第二十一圖だいにじゆういちず左中ひだりなかおよ右下みぎした)ところがこのマデレエンになりますと、石器せつきはあまり進歩しんぽしたようにえないけれども、この時代じだいにはひつてあたらしくさかんにたものは、動物どうぶつほねだとか、つのだとかでつくつた品物しなものであります。そこにならべてあるような骨製こつせいさきとがつたものや、種々しゆ/″\のものがありまして、なかにはきばほねうへ動物どうぶつかたち人間にんげんかたち彫刻ちようこくしたものなどがあります。(第二十二圖だいにじゆうにず)これにはまへ時代じだいにはられなかつた品物しなものです。そこに、おほきなひらたいほねのようなものゝうへに、ぞうかたち彫刻ちようこくしてあるのをるでせう。(第二十三圖だいにじゆうさんず)これはながえたぞうであることはすぐづくのでありまして、今日こんにちぞうとはちがつて、むかしシベリアなどにんでゐたまんもすといふ大象たいぞうかたちあらはしたものであります。そのまんもすかたちまんもすきばうへつたもので、これはめづらしいしなであります。こゝにあるのはその模造品もぞうひんであつて、現物げんぶつはフランスのある博物館はくぶつかん大切たいせつ保存ほぞんされてあります。このほかれんぢゃー馴鹿となかい)のうへれんぢゃーかたち彫刻ちようこくしたものや、人間にんげんかたちなどをつたものもすくなくありません。
[#「第二十三圖 まんもす牙上彫刻まんもす圖」のキャプション付きの図(fig18371_24.png、横×縦)入る]
第二十三圖 まんもす牙上彫刻まんもす圖

(ロ)舊石器時代きゆうせつきじだい繪畫かいがなど


[#「第二十四圖 スペイン・アルタミラ洞天井畫」のキャプション付きの図(fig18371_25.png、横×縦)入る]
第二十四圖 スペイン・アルタミラ洞天井畫

 かように舊石器時代きゆうせつきじだい中頃なかごろから、動物どうぶつなどのかたち彫刻ちようこくにしてあらはすことがたいそう上手じようずになつてました。これらをてもこの時代じだい人間にんげん一概いちがい野蠻人やばんじんだとはいへない、たゞ金屬きんぞく使用しようすることをらなかつたといふにすぎないのです。この彫刻ちようこくつくつた人間にんげんは、まへ説明せつめいしたふる人間にんげん模型中もけいちゆうにあつた『クロマニヨン』じんぞくするのであります。『クロマニヨン』じんは、頭腦ずのうおほきく恰好かつこうとゝのうてをり、けっして野蠻人やばんじんといふことの出來できない體格たいかくぬしでありますからこそ、かようなものがつくられたのです。さらに『クロマニヨン』じんは、彫刻ちようこくをしたばかりでなく、おほきないたのです。その今日こんにちまでのこつてをりますが、あちらのかべ御覽ごらんなさい。(第二十四圖だいにじゆうしずかべかゝつてゐるうしうま鹿しかなどのはかれ洞穴ほらあななか石壁いしかべりつけたり、またいたりしたうつしであります。かのうしびぞんといふうしで、今日こんにちうしとはそのかたちことなつてゐますけれども、鹿しかうまかたちはなんとよく本物ほんもののようでありませんか。筆致ひつちたしかなてん全體ぜんたいき/\してゐるところ、じつにこれがそんなふる一萬年前いちまんねんぜんにもちか時代じだい出來できたものであらうかと、たれうたがふのもむりはありません。實際じつさいのところこれがいまから五十年ごじゆうねんほどまへに、はじめてスペインのきた海岸かいがんアルタミラといふ田舍ゐなかをかうへ洞穴ほらあな發見はつけんされたとき、たいていの學者がくしやみな、これが一萬年いちまんねんもへたふるいものでなく、ずうっとあたらしいものだといつてたれしんじなかつたほどです。しかしその洞穴ほらあなをよく調しらべると、けっしてあたらしい時代じだいひとがはひつてつくつたものではなく、びぞんといふうしのような動物どうぶつは、一萬年いちまんねんちかくもまへでなければ棲息せいそくしてゐなかつたものであり、それをこれほど寫生的しやせいてきくには、實物じつぶつによつて寫生しやせいしたのでなければならぬといふことなどが、だん/\わかつてたのみでなく、やがてはフランスの中部ちゆうぶドルドーンヌのフオン・ド・ゴームといふところ洞穴ほらあななどにまた、おなじようなのあることが發見はつけんせられたのです。それで今日こんにちではたれもこれをうたがふものはなくなつたのであります。
[#「第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖」のキャプション付きの図(fig18371_26.png、横×縦)入る]
第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖

 わたしもこのあひだ、スペインのアルタミラの[#「アルタミラの」は底本では「アルタミナの」]洞穴ほらあなつてしたしくそのることが出來できたのでありますが、それはのろ/\としたをかいたゞきにちかちひさなくちひらいたあなであつて、なかにはひると十數疊敷じゆうすうじようじきぐらゐのおほきさのしつがあつて、そのおくすゝむと二三十間にさんじつけんほどもはひつてかれます。いま動物どうぶつはそのおほきいしつ天井てんじよういてあつたが、いし凹凸おうとつたくみに利用りようして突出部とつしゆつぶ動物どうぶつ腹部ふくぶとし、くろ褐色かつしよく彩色さいしきをもつていてあつて、それがあり/\とのこつてをります。一萬年前いちまんねんぜんより今日こんにちまでこのようによく保存ほぞんされたとはおもへないくらゐであります。また近年きんねんこの洞穴ほらあな發掘はつくつして、むかし彩色さいしき使つかつた繪具えのぐ發見はつけんせられたので、それらは洞穴ほらあなそばにある番人小屋ばんにんごやにあるちひさな陳列室ちんれつしつならべてありました。むかしひとくらしつなかでどうしてこんないたのでせうか。おそらく燈火とうかもちひたとすれば動物どうぶつ脂肪あぶらをとぼしたことゝおもはれます。この洞穴ほらあな發見はつけんしたのに面白おもしろはなしがあります。發見者はつけんしやえら學者がくしやでも大人おとなでもなく、一人ひとりちひさいむすめさんであつたのです。いまから五十年程前ごじゆうねんほどまへ[#「ん」はママ](一八七九ねん)に、この附近ふきんにサウツオラといふひとんでゐました。そのひとふるあな調しらべることに興味きようみをもち、ある七八歳しちはつさいをんなれてこの洞穴ほらあななかへはひつたのです。あなぐちは、いまよりせまくやう/\よつひになつてなかにはひつてくと、をんなが、
「おとうさん、あそこにうしいてあります」
さけんだので、
「なに、そんなことがあるものか」
しながらよくると、うしうま續々ぞく/\七八十程しちはちじゆうほどあらはれてたので、サウツオラはおどろきました。そしてそれが原因げんいん洞穴ほらあな研究けんきゆうをして、これを學界がつかい發表はつぴようしましたが、當時とうじたれしんずるものがなく、サウツオラは失望しつぼう落膽らくたんし、殘念ざんねんおもひながらんだのです。死後しご幾年いくねんかをへて、それがはじめて舊石器時代きゆうせつきじだいであることにきまり、今更いまさらサウツオラの手柄てがら人々ひと/″\みとめるようになりました。いまもその洞穴ほらあないりぐちつてゐる碑文ひぶんにそのことがしるされてあります。また當時とうじ少女しようじよはまだきてゐて、そこからあまりとほくないむらんでゐるといふことを番人ばんにんをんなからきましたが、さだめしもうとしよりのおばあさんになつて當時とうじ自分じぶんくらゐのむすめおやとなつてゐることであらうとおもひます。
 アルタミラの洞穴ほらあなとごくてゐるは、まへにいつたフランスのフオン・ド・ゴームのであります。この洞穴ほらあなは、アルタミラとはちがつて、たけたかおくふかあなであつて、兩側りようがはかべにやはり多數たすう動物どうぶついてあります。こゝへもわたしきましたが、出來できまへのものより、すこおとるようでありますが、大體だいたいにおいておな調子ちようしであります。そのほかフランスの洞穴ほらあなには、これとよくや、すこおもむきことにするが、無數むすうにありますが、一風いつぷうかはつたかた舊石器時代きゆうせつきじだいみとめられるものは、ひがしスペインの洞穴ほらあななどにのこつてゐるであります。みなみよう恰好かつこうをした人間にんげんで、それは今日こんにちみなみアフリカの土人どじんブッシュマンなどが非常ひじようてゐるのです。
 さてわたしたちはぎのしつにはひるまへに、ちょっと見落みおとした石器類せつきるい一應いちおうることにいたしませう。そこにあるのは舊石器時代きゆうせつきじだい最後さいごころであるオリニヤックのもので、そのぎにるのが、舊石器時代きゆうせつきじだいから新石器時代しんせつきじだいうつつて中間ちゆうかんのアジールのものです。石器せつきつくかたなどはべつ進歩しんぽしてゐませんけれども、それにもあるように文字もじのようなものを、いししゆいたものがあるのはめづらしいとおもひます。(第二十二圖だいにじゆうにず左下ひだりした
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三、新石器時代室しんせつきじだいしつ


(イ)貝塚かひづか湖上住居こじようじゆうきよ

 舊石器時代きゆうせつきじだい新石器時代しんせつきじだいとは、人種上じんしゆじようにも文化上ぶんかじようにも關係かんけいがなくて、かけはなれたべつのものであるといふふうに、いままでのひとおほおもつてゐましたが、近頃ちかごろは、この舊新兩石器時代きゆうしんりようせつきじだいあひだには聯絡れんらくがあつて、けっして無關係むかんけいのものとすることが出來できないといふふうに、だん/″\かんがへられてたのであります。そしてまた學者がくしやなかには、このふたつの時代じだいあひだに、中石器時代ちゆうせつきじだいといふ中間ちゆうかんのものをひともあります。それはとにかく、新石器時代しんせつきじだい舊石器時代きゆうせつきじだいくらべて、人種じんしゆうへにも文化ぶんかうへにも餘程よほどちがつたものがあり、この時代じだいになると、人種じんしゆはもちろん現在げんざい世界せかい人種じんしゆとまったくおなしゆぞくしてゐるし、そのほか自然界しぜんかい状態じようたい非常ひじよう今日こんにち接近せつきんしてました。それで石器せつき使用しようしたといふてんにおいては舊石器時代きゆうせつきじだいかはりはありませんが、その人種上じんしゆじようからも、また一般文化いつぱんぶんかうへからますと、かへってのち青銅器時代せいどうきじだいふか關係かんけいがあるのであります。また新石器時代しんせつきじだいのつゞいた年代ねんだい舊石器時代きゆうせつきじだいくらべてたいへんみじかく、舊石器時代きゆうせつきじだい十分じゆうぶんいちにもりないくらゐです。
[#「第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_27.png、横×縦)入る]
第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖

 新石器時代しんせつきじだいになると氣候きこうその世界せかい状態じようたい今日こんにちあまかはつたところなく、たゞ海岸線かいがんせんいまよりも陸地りくちんでゐたといふくらゐにぎないのです。その時代じだいんでゐた獸類じゆうるいも、今日こんにちわれ/\のるものとたいしたかはりはなく、あのまんもすといふおほきなぞうや、馴鹿となかいがヨーロッパなどにんでゐるといふようなことはもうなくなつてしまひました。一體いつたい新石器時代しんせつきじだい人間にんげんは、どんなところんでゐたかといひますと、もちろん洞穴ほらあなむものもあり、山間さんかんにゐるものもありましたが、海岸かいがんちかくに住居じゆうきよして、さかなかひとらへてそのにくつたものがおほいようです。それで、その當時とうじひと住居じゆうきよしたあと海岸かいがん附近ふきんのこつてゐて、かれつてすてた貝殼かひがらや、さかなけだものほねなどがたまつてゐるところがあります。かういふ場所ばしよでは、しろ貝殼かひがら一番いちばんよく目立めだつので、われ/\はこれを貝塚かひづかんでをるのであります。貝塚かひづかなかからは貝殼かひがらほねのようなものゝほかに、その時分じぶん人間にんげん使用しようしてゐた石器せつきだとか骨器こつきだとか、また土器どきだとかの破損はそんしてすてられたものや、あるひは遺失いしつしたものなどが發見はつけんせられます。この貝塚かひづかまへまをしましたように、元來がんらい海岸かいがんんだ人間にんげん住居じゆうきよそば出來でき塵埃じんあいすてであります。ですからなにしろ海岸かいがんちか場所ばしよにあつたに相違そういありませんが、今日こんにちでは海岸かいがんからとほく、ときには數里すうりはなれたところにあることがあります。これはその陸地りくち隆起りゆうきし、うみがひいてしまつたのです。またその反對はんたいにデンマルクなどのように、うみ陸地りくちををかしてたので、今日こんにちでは海中かいちゆう貝塚かひづかひたつてゐるところもあります。
 この貝塚かひづかはじめて研究けんきゆうしたひとは、デンマルクの學者がくしやでありました。最初さいしよは、たくさんの貝殼かひがらは、はたしてむかしひとがそのにくつてすてたものか、どうかゞ疑問ぎもんとせられたのでありましたが、ある學者がくしや綿密めんみつ調査ちようさした結果けつか、すてゝあるそれらの貝殼かひがらは、みな成熟せいじゆくしたかひばかりで、未成熟みせいじゆくのものがなく、また二枚貝にまいがひ一方いつぽうだけのものがおほいことなどがわかりました。もしも自然しぜん貝殼かひがらがつもつたものとすれば、そのうちには、きっとべられないをさないかひまじつてゐなければならないはずだのに、おほきいじゆくしたかひばかりであり、また貝殼かひがら一方いつぽうしかないといふことは、自然しぜんにたまつたものでなく、むかしひとつてからをすてたものであるといふほかはないのです。なほこの貝塚かひづかは、ヨーロッパの海岸地方かいがんちほうばかりでなく、アメリカその世界各國せかいかつこくにあります。日本につぽんにもおほくありますが、日本につぽん貝塚かひづかについては、のちにおはなしいたしませう。
[#「第二十七圖 現代水上住居」のキャプション付きの図(fig18371_28.png、横×縦)入る]
第二十七圖 現代水上住居

 新石器時代しんせつきじだい人間にんげんは、またあるところでは湖水こすいなか棒杙ぼうぐひつてそのうへ小屋こやまうけてんでゐました。そしてその小屋こやおほあつまつてひとつの村落そんらくをつくつてゐました。これを湖上住居こじようじゆうきよ、あるひは杙上住居くひじようじゆうきよまをします。イタリイの北部ほくぶやスヰスあたりにおほくこの遺跡いせきがあります。それはちょうど今日こんにちボルネオのパプアじんやシンガポールあたりの海岸かいがんかけるのと同樣どうよう陸地りくちとの交通こうつうはたいてい小舟こぶねつたものです。(第二十七圖だいにじゆうしちず)なぜこんなところむのでせうか。それには種々しゆ/″\理由りゆうがあるでせうが、そのひとつはてき襲撃しゆうげきのがれ、猛獸もうじゆうがいけるためであつたでせう。また陸上りくじよういへんで、きたな塵埃じんあいをあたりにすてると不潔ふけつなばかりでなく、いろ/\の病氣びようきかゝることを實驗じつけんして、不潔物ふけつぶつみづにすて清潔せいけつ生活せいかつをするといふ意味いみもあつたかとおもはれます。もちろんこの小屋こやけたりこわれたりして、今日こんにちまったくのこつてをりませんが、その土臺どだいくひだけがみづなかのこつてゐるのです。いまから數十年前すうじゆうねんぜんのあるとし、スヰスのくにのチュウリッヒみづいままでになくつてそこあらはれました。そのそこ棒杙ぼうぐひ一萬本いちまんぼんもにょき/\とつてゐるのをケラーといふ學者がくしや發見はつけんしまして、だん/″\研究けんきゆうした結果けつか、これがむかしひと湖上住居こじようじゆうきよあとであることがわかりました。その證據しようこにはそのくひのある附近ふきんつてますと、當時とうじ人間にんげんおとしたりてたりした石器せつき土器どきまでが發見はつけんされ、ものるいまでが、よくのこつてをりました。湖上住居こじようじゆうきよは、しかし新石器時代しんせつきじだいばかりでなく、ぎの青銅器時代せいどうきじだいまでもきつゞいておこなはれてゐたことは、湖水こすい一番いちばんふかそこからは石器せつき發見はつけんされ、あさうへほうからは青銅器せいどうき發見はつけんされたことによつてることが出來できます。
「第二十八圖 ヨーロツパ古代湖上住居想像圖」のキャプション付きの図
第二十八圖 ヨーロツパ古代湖上住居想像圖

 あすこのかべけてあるをごらんなさい。のこつてゐた土臺どだいくひから想像そう/″\して湖上住居こじようじゆうきよ小屋こやいたものであります。(第二十八圖だいにじゆうはちず)そのとなりにあるは、現在げんざい南洋なんようにおいて實行じつこうしてゐる水上住居すいじようじゆうきよでありますが、いかにもよくてゐることがわかりませう。(第二十七圖だいにじゆうしちず)なほイタリイのきたほうなどでは、みづはなくてもひくしめつぽいところに、湖上住居こじようじゆうきよおなじようなくひをたて、そのうへ小屋こやつくつてんでゐた人間にんげんが、新石器時代しんせつきじだいから青銅時代せいどうじだいにかけてをりました。

(ロ)磨製石器ませいせつき土器どき

 さて新石器時代しんせつきじだい人類じんるいはどういふふうな生活せいかつをしてゐたかといひますと、やはり舊石器時代きゆうせつきじだい人間にんげんおなじように、いしつたり、たゝいたりして製作せいさくしたきはめて粗末そまつ器物きぶつをも使つかつてゐたのでありますが、それ以外いがいにこの時代じだいにはいしみがいてすべ/\したうつくしいものにつくげることをやりしたのです。また石器せつきかたち大體だいたいまへ時代じだいよりは小形こがたのものがおほく、しかも石器せつき使つかみちによつて種々しゆ/″\ことなつたかたちのものがわかれて發達はつたつしてました。たとへばひらたく兩方りようほうからみがしてゐる石斧せきふ、あるひはながやり、あるひは庖丁ほうちようといつたふうに、使用しよう便利べんり種々しゆ/″\かたち出來できたのであります。そしてそれらがみな、その發達はつたつして今日こんにち金屬きんぞく器物きぶつになつてつたのです。またこの時代じだい一番いちばんおほきな發明はつめいは、弓矢ゆみやはじめてもちひられることであります。それはさきにつけるいしがあることでわかるのであります。やりといふようなものは、あるひはありましたかもれませんが、弓矢ゆみやのような道具どうぐは、舊石器時代きゆうせつきじだいにはられないもので、じつ新石器時代しんせつきじだい新式武器しんしきぶきであります。この發見はつけんはちょうど近代きんだいにおける鐵砲てつぽう發明はつめい同樣どうよう當時とうじ人間にんげん狩獵しゆりよう戰爭せんそう場合ばあひ、どれほど便利べんりで、またどれほど有效ゆうこうであつたかといふことは、いまから想像そう/″\されます。たゞいまべたところの石器せつきは、このたな陳列ちんれつしてあるように、世界せかい各國かつこくからてゐるのでありますが、そのかたちはたいていみなよくたもので、たいした相違そういはありません。(第二十九圖だいにじゆうくず
[#「第二十九圖 ヨーロツパ新石器時代遺物」のキャプション付きの図(fig18371_30.png、横×縦)入る]
(1)石斧
(2)石奔
(3)石斧
(4)石斧
(5)石劍
(6)石鍬
(7)柄つき石斧
   (スヰス)
(8)土器
(9)土器

 また、この新石器時代しんせつきじだいになつてから、人類じんるい發明はつめいした大切たいせつ品物しなもの土器どきであります。土器どきといひますと粘土ねんどかたちつくつて、それをいたものであります。もっとも今日こんにちのようにかたものや、釉藥うはぐすりもちひたしな出來できなかつたので、いはゆる素燒すやきでありますが、とにかく土器どき發明はつめいされてから、人間にんげん生活上せいかつじよう非常ひじよう便利べんりました。いままでみづんだり、それを保存ほぞんするには椰子やしからのようなものとか、貝類かひるいからとかを使つかふことのほかはなかつたのであります。これらのものはおほきさもかぎりがあり、かたち一定いつていしてをりますが、この土器どきになりますと、おほきいものでもおもふようなかたちのものでも自由じゆうつくることが出來できます。それで狩獵しゆりようでとつてけだものにくは、つぼなか鹽漬しほづけとして保存ほぞんされるし、みづやその流動物りゆうどうぶつかめれて、自由じゆうはこぶことも出來できるようになりました。また以前いぜんみづわかすことは非常ひじよう困難こんなんであつて、わづかにいしのくぼみへみづれて、それにいしむとか、貝殼かひがられたみづ近寄ちかよせてすこしのたにぎなかつたのでありますが、土器どき發明はつめい出來できてから、多量たりようわかすことも出來できるようになつたのであります。さだめし舊石器時代きゆうせつきじだい人類じんるいは、身體しんたいをふくといふことはしなかつたので、身體しんたいよごれて不潔ふけつだつたでせうが、新石器時代しんせつきじだいいたつては、よし浴場よくじようはなかつたとしても、でもつて身體しんたい清潔せいけつにすることが出來できるようになつたと想像そう/″\せられます。(第二十九圖だいにじゆうくず
 この土器どき發明はつめいさらだいなる進歩しんぽ人間生活にんげんせいかつうへにもたらしました。それは、いままでは食物しよくもつ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)ることをらなかつた人間にんげんが、土器どきによつて動物どうぶつにくでも植物しよくぶつでも、自由じゆう※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)ることが出來できるようになつたので、いままでべられなかつた品物しなもの食物しよくもつ部分ぶぶんも、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)べることになつたのであります。その結果けつか從來じゆうらいたゞ食物しよくもつ材料ざいりようあつめるために、一日中いちにちじゆうほねつてはたらいてゐた人間にんげんが、あつめた食料しよくりよう貯藏ちよぞう出來できるようになり、食料しよくりようゆたかになつたのではたらちから餘裕よゆう出來でき、それを方面ほうめんもちふることをるようになり、したがつて文明ぶんめい一段いちだん進歩しんぽすることになつたのでありますから、土器どき發明はつめいといふことは、人類じんるい文明ぶんめい歴史れきしうへ一大事件いちだいじけんでありまして、ある學者がくしやのごときは、土器どきらない人間生活にんげんせいかつ野蠻的生活やばんてきせいかつ土器どきをもつ人間にんげん生活せいかつ半開生活はんかいせいかつしようして區別くべつするくらゐであります。私共わたしども今日こんにち生活せいかつから茶碗ちやわんつぼなどをなくしてしまつたならば、どれだけ不便ふべんなことであるかは、十分じゆうぶん想像そう/″\出來できるのであります。
 さて、かように大切たいせつ土器どきたれがどこで發明はつめいしたかといふことは容易よういにわからぬのでありますが、最初さいしよ粘土ねんどみづしめされるとやはらかくなり、おもかたちつくられることがられ、またしめつた粘土ねんどそばかれると、かたくなることをつたといふことなどが發見はつけんいとぐちとなつたかと想像そう/″\せられます。またかご外側そとがはとか内側うちがはとかに粘土ねんどめて、かごともくといふ製法せいほうもあつたようであります。

(ハ)巨石記念物きよせききねんぶつ

 新石器時代しんせつきじだい人類じんるいつくつたものには、まへべました石器せつき土器どきなどのほかに、なほ非常ひじようおほきなすばらしいものがあります。それは人間にんげんからだ幾倍いくばいもあるおほきないしをもつてつくられたはかとか、あるひは宗教しゆうきよう目的もくてき使つかつた場所ばしよとかいふものでありまして、それに使用しようされたいし非常ひじようおほきいので、われ/\はそれを巨石記念物きよせききねんぶつづけてゐます。これにはいろ/\の種類しゆるいがありまして、そのひとつにいし(めんひる)といふものがあります。(第三十一圖だいさんじゆういちず2)それはたいてい一本いつぽんおほきなながいしてゝあるもので、そのいしたかさは五六尺ごろくしやくのものもありますが、おほきいものになると五六十尺ごろくじつしやくもあるものが[#「あるものが」は底本では「あるのもが」]あります。これはなんのために使つかつたのであるか、たしかにはわかりませんが、この巨石きよせきむかしひとかみとして崇拜すうはいしたものであるか、またはたつと場所ばしよ目標もくひようとしたものであらうと想像そう/″\するよりほかはありません。わたし先頃さきごろフランスの西海岸にしかいがんにあるカルナックといふところおほきいいしつたのでありますが、いまみつつにをれて地上ちじようたふれてゐます。もと直立ちよくりつしてゐたもので、たかさは七八十尺しちはちじつしやくもあつたものですが、二百年程前にひやくねんほどまへかみなりちたゝめにれたのだといふことでありました。カルナックのいしよりちひさいものは、フランスに數限かずかぎりなくありますが、かはつて面白おもしろいのは行列石ぎようれつせき(ありにゅまん)とでもしようするもので、六七尺ろくしちしやくから十二三尺じゆうにさんじやくくらゐのたかさのいし幾百いくひやくとなく、一定いつてい間隔かんかくをもつてならつてゐるのであります。これもなんの目的もくてきのために出來できたものであるかはわかりませんが、やはり宗教的しゆうきようてき意味いみをもつてつくられたものであらうとおもはれます。カルナックにある行列石ぎようれつせきには、千二百本せんにひやつぽんばかりのいし兵隊へいたいのようにならんでをるのがありました。(第三十一圖だいさんじゆういちず1)
[#「第三十圖 巨石記念物」のキャプション付きの図(fig18371_31.png、横×縦)入る]
第三十圖 巨石記念物
(1)行列石(フランス・カルナツク)
(2)どるめん(デンマーク)
(3)輪状列石(デンマーク)

 またおほきないしをもつてまるのようにならまはしてある環状列石かんじようれつせき(くろむろひ)といふのがあります。これにはいし大小だいしよう種々しゆ/″\ありますが、おほきなものになるとえん直徑ちよつけい一町いつちようくらゐもあり、いしたかさは二三十尺にさんじつしやくおよぶものもあります。今日こんにち世界せかい一番いちばん名高なだかいものはイギリスのすとんへんじといふものでありまして、いま飛行場ひこうじようとなつてゐるソールスベリーのひろ野原のはらまる巨石きよせきまはした不思議ふしぎ姿すがたつてをります。(第三十二圖だいさんじゆうにず23)大空おほぞらたか飛行機ひこうきんでゐるしたに、この大昔おほむかし不思議ふしぎ遺物いぶつるときは、ひとつは二十世紀にじつせいき現在げんざいひとつは紀元前きげんぜん二十世紀にじつせいきにもさかのぼるべき古代こだいのものを、同時どうじ眼前がんぜんながめて一種いつしゆかんたれるのであります。このすとんへんじ中央ちゆうおうつて東方とうほうながめるときは、太陽たいようるのを眞正面まつしようめんられるから、太陽崇拜たいようすうはい關係かんけいある宗教上しゆうきようじよう目的もくてきつくられたものであらうとひともありますが、實際じつさいなんのためにこの野原のはらに、かようなものがまうけられたかたしかなことはることが出來できません。もっともこのすとんへんじ新石器時代しんせつきじだいをはりで、青銅せいどう使用しようされした時代じだいつくられたものであるといはれますが、それはとにかく以上いじようはなしした巨石記念物きよせききねんぶつは、いづれも新石器時代しんせつきじだいからつくられたことには間違まちがひありません。
[#「第三十一圖 巨石記念物」のキャプション付きの図(fig18371_32.png、横×縦)入る]
第三十一圖 巨石記念物
(1)どるめん(イギリス)
(2)めんひる(フランス)
(3)高塚(デンマーク)
(4)高塚(イギリス)

 今一いまひとおほきいいしつくつたものに石机いしづくゑ、すなはちどるめんといふのがあります。それはすこしひらたいいし三方さんぽうて、そのうへにやはりひらたい大石おほいしをのせた一見いつけんてーぶるかたちをしたものであります。どるめんといふも、いしつくゑといふ意味いみ言葉ことばであります。このてーぶるした人間にんげんはうむつたので、これはうたがひもなくはかであります。(第三十一圖だいさんじゆういちず1)、(第三十二圖だいさんじゆうにず1)このどるめん石器時代せつきじだいから、青銅器時代せいどうきじだいわたつておこなはれたもので、のちには、だん/\いしつくつたなが廊下ろうかのようなしつ出來でき、そのいしうへつちをかぶせてまる高塚たかつかとしたものがあらはれました。この石室せきしつのあるつかは、新石器時代しんせつきじだいからぎの青銅器時代以後せいどうきじだいいごにおいて、さかんに世界各國せかいかつこくおこなはれてゐたものでありまして、日本につぽんにもたくさんありますが、日本につぽんにはごくふる石器時代せつきじだいどるめんはありません。(第三十七圖だいさんじゆうしちず34)
「第三十二圖 巨石記念物」のキャプション付きの図
第三十二圖 巨石記念物
(1)どるめん(フランス)
(2)輪状列石(イギリス・すとんへんじの現状)
(3)その復舊圖

 いままをしました種々しゆ/″\巨石きよせきつくつた記念物きねんぶつもちひられたいしは、おほくはやまたににある自然石しぜんせき恰好かつこういものをつてて、そのまゝ使用しようしたもので、あま人工じんこうくはへてありません。しかし、かようなおほきいいし運搬うんぱんするには、餘程よほど勞力ろうりよく必要ひつようであります。今日こんにちのごとく機械きかいちからがない時代じだいでありますから、たゞ多數たすう人間にんげんちからあはせて、ときには牛馬ぎゆうばちからりたかもわかりませんが、おほくは人力じんりよくをもつてなされたものに相違そういありません。ですから當時とうじにおいてすで協同一致きようどういつちして爲事しごとをするひとつの團體だんたい社會しやかいといふものが出來できてをり、またそれを支配しはいしてかしら、すなはち酋長しゆうちようのようなものがなくては、とうていかような爲事しごと出來できますまいから、この大工事だいこうじ遺物いぶつたゞけでも、當時とうじ社會状態しやかいじようたいさつすることが出來できます。また二十尺にじつしやく三十尺さんじつしやくたかいし兩側りようがはてゝ、そのうへよこ巨石きよせきせてあるものなどは、たゞ人力じんりよくだけでもつてなされるものではなく、種々しゆ/″\工夫くふうこらしたものでせう。それには遠方えんぽうよりつち次第しだいにつんで傾斜けいしやした坂道さかみちきづげ、それへいしげてこれをたておとて、それからそのうへ横石よこいしせたもので、坂道さかみち土砂どしやはそののぞつたものと想像そう/″\されるのです。
 かようなおほきな巨石記念物きよせききねんぶつは、博物館はくぶつかん運搬うんぱんしてることはとうてい出來できませんから、そこにある模型もけい寫眞しやしんによつて、みなさんはその大體だいたいほかはありませんが、たゞかん中庭なかにはにはあのどるめんちひさいものを、原状げんじようのまゝつてゑてありますから、後程のちほどには御覽下ごらんください。そしてその石室せきしつにはひつてられたならば、一番いちばんちひさいどるめんでも、どれだけのおほいさであるかゞわかり、したがつておほきいものはどれほどあるかを想像そう/″\することが出來できませう。
 またどるめんといふはかめんひるといふいしなどには、をり/\まる三角さんかくだのゝかたちいしうへりつけたのがあつたり、ぽつ/\とおほきなくぼみをならべたものがあります。それはなに宗教上しゆうきようじよう意味いみあらはしであらうとおもはれます。ヨーロッパの地中海ちちゆうかいにあるマルタとうおほきないしはか、あれはどるめんがだん/\進歩しんぽして複雜ふくざつかたになつたもので、ずいぶんめづらしいものゝひとつであります。いしうへにぽつ/\のくぼみがおほくつけてあるので有名ゆうめいであります。その巨石記念物きよせききねんぶつといふものゝうち風變ふうがはりのものは、やはり地中海ちちゆうかいのサルジニヤとうにあるねるげといふもので、これはいしまるくつみ根元ねもとふとく、さきほどすこしづつほそくなつてゐるとうのようなもので、ほか地方ちほうにはることが出來できないものです。

(ニ)金屬きんぞく發見はつけん使用しよう

 人類じんるいまへべましたとほり、なが年月としつきいしをもつて器物きぶつつくつて、金屬きんぞく使用しようすることをらなかつたのでありますが、そのあひだおのづと天然てんねんいしあひだ混入こんにゆうしたり、あるひはすななかころがつてゐる金屬きんぞくなどをり、つひにはそれを使用しようするようになつてました。そしてそれらの金屬きんぞくをもつてつくつた器物きぶつほうが、いしつくつたものよりは工合ぐあひのよいことをつてからは、だん/\いしかはりに金屬きんぞくつくるようになりました。さて金屬きんぞくうち一番いちばんはや發見はつけんされたのはなんであるかとまをしますと、きんどうてつ三種さんしゆであつたようであります。しかしきん綺麗きれい裝飾そうしよくにはなりますが、しつやはらかくて刃物はものなどにしては實際じつさいやくちません。それでどうてつふたつのうち、いづれかゞ使用しようされることになりましたが、はたしてどちらがさき使用しようされたかについてはいまなほ議論ぎろんがあります。一方いつぽうにはてつほう地中ちちゆうからすことが容易よういでありますから、はやくから使つかはれたとのせつがありますし、また一方いつぽうにはエヂプトのごくふる時代じだいに、もうてつ發見はつけんされてゐたといふこともありますが、實際じつさいのところ今日こんにちのこつてゐる種々しゆ/″\器物きぶつからかんがへますと、どうすゞとの合金ごうきんである青銅せいどうが、一番いちばんはやいしかはつてひろ使用しようされることになつたといふべきでありませう。
 それならば、そのどう最初さいしよどこで發見はつけんされたかといふに、それはやはりはっきりわかりませんが、とにかくアジアの西方せいほうにおいてまづさかんに使用しようされたし、それがみなみヨーロッパにり、つひには中央ちゆうおうヨーロッパからきたヨーロッパにだん/″\ひろがつてつたといふことだけはたしかにわかるのであります。このどう、あるひは青銅せいどう使つかつた人間にんげんは、まへまをした新石器時代しんせつきじだい人類じんるいとやはりおな人種じんしゆで、いしつくつたをののような器物きぶつを、はじめはそれとおなかたち金屬きんぞくをもつてつくつたのでありますが、それがだん/\使用しよう便利べんりかたちにかへてつたのです。またどうすゞをまぜるとるのに容易よういで、しかもかたくつて丈夫じようぶであるといふことも、最初さいしよ偶然ぐうぜんつたらしいのでありますが、幾度いくどかの經驗けいけんどう九分くぶすゞ一分いちぶをまぜあはすと、器物きぶつとしてはつごうがいことをもつたので、青銅器時代せいどうきじだいをはごろには、混合こんごう歩合ぶあひがたいていこのわりあひになつてをります。かのエヂプトのすゝんだ文明ぶんめい使用しようした器物きぶつからいへば、青銅せいどう一般いつぱんおほもちひてゐます。またギリシヤの文明ぶんめいひらけるまへに、クリートのしまやその附近ふきんにおいて發達はつたつした文明ぶんめいも、やはり青銅器せいどうき時代じだいぞくするのでありました。ヨーロッパではみなみほうにははやてつがはひつてましたが、北方ほつぽうのデンマルクやスエーデンやノールウエなどでは、てつのはひつてるのが大分だいぶおそかつたがために、かへって青銅せいどう器物きぶつつくることが發達はつたつして、すばらしい青銅器せいどうきおほ出來できてゐます。御覽ごらんなさい、このかべにかけてある青銅器せいどうききますと、はじめはいしをのからおなかたちどうをのになり、それがだん/″\進歩しんぽしてむところが出來できたり、またみじか三角さんかくつるぎながひらたいつるぎにと、すゝんでつたところがよくわかるでありませう。(第三十三圖だいさんじゆうさんず
[#「第三十三圖 ヨーロツパ青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_34.png、横×縦)入る]
第三十三圖 ヨーロツパ青銅器
(1)
(2)
(3)短劍
(4)
(5)長劍
(6)
(7)
(8)腕輪
(9)留針

 この青銅器せいどうき時代じだいは、ヨーロッパばかりでなく、アジアにもありました。支那しなではしゆうからかん時代頃じだいごろまでは、青銅せいどうおも使用しようされたのでありますが、その青銅せいどう支那人しなじん自分じぶん發明はつめいしたものか、また西方せいほうくにからつたはつたのであるかどうかは、まだ十分じゆうぶん研究けんきゆうされてをりません。
 ところが、人間にんげん青銅せいどう使つかつてゐるあひだに、てつほうどうよりもかたくて刃物はものなどにはつごうのいことをつてたので、つひ青銅せいどうかはつててつもちひられるようになりました。これからのち鐵器時代てつきじだいといふのでありますが、ヨーロッパでは鐵器時代てつきじだいもつとふる時代じだいをハルスタット時代じだいしようします。それはオウストリヤのハルスタットといふところ古墳こふんからされた鐵器てつきが、よくその特徴とくちようあらはしてゐたので、さういふをつけたのであります。それからすこのちのヨーロッパの鐵器時代てつきじだいを、私共わたしどもはラテーヌ時代じだいんでゐますが、これはスヰスのある土地とちでありまして、そこからされたものが代表的だいひようてきのものとせられてゐるからであります。かのギリシアの文明ぶんめいも、鐵器時代てつきじだいのものでありまして、いまから三千年程前さんぜんねんほどまへてつがギリシアにはひつてて、まへ青銅器時代せいどうきじだい文明ぶんめいかはつてあたらしく立派りつぱ文明ぶんめいをつくりしたのであります。しかしてつはじめてもちひられたころは、どうばかり使つかつてゐたまへ時代じだいよりはかならずしも文明ぶんめいすゝんでゐたといふことは出來できません。まへまをしましたとほり、かの立派りつぱなエヂプトの文明ぶんめいも、クリートとうにあつたギリシア以前いぜん非常ひじようすゝんだ文明ぶんめいも、みな青銅せいどう時代じだいぞくしてゐることをわすれてはなりません。そしてこの青銅器せいどうきから鐵器てつき時代じだいにおける文明ぶんめいはなしになりますと、みなその國々くに/″\によつてみなことなつたかたちあらはれてをりまして、もう歴史以後れきしいご時代じだいりますので、それらの時代じだい出來でき品々しな/″\こと/″\くこの博物館はくぶつかんならべることはとうてい出來できません。それはまたべつ博物館はくぶつかん陳列ちんれつしてありますから、みなさんはそこにつてください。
 それで、私共わたしどもは、これから西洋せいようやその外國がいこくのものはこれだけにして、日本につぽん石器時代せつきじだいからのふる品物しなものくことにいたしませう。しかしちょっとおにはて、わたしたばこいつぷくのみ、みなさんも一休ひとやすみといたしませう。
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第三、考古博物館の卷(下)



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一、日本先史時代室につぽんせんしじだいしつ


(イ)日本につぽん石器時代せつきじだい

 さぁこれからは西洋せいよう品物しなものでなく、わたしどものうまれた日本につぽんくにふる時代じだい品物しなもの、そのおはなしをするのです。ところがいままでべましたような石器時代せつきじだいからだん/″\金屬器きんぞくき時代じだいに、人類じんるい進歩しんぽしてつた順序じゆんじよは、日本につぽんにおいても西洋せいようおなじようになつてゐるのです。けれども、はじめにはなしましたいちばんふる舊石器時代きゆうせつきじだいといふ時代じだいは、日本につぽんにもあつたかもれないが、今日こんにちまでその遺物いぶつすこしもつかつてをりません。それゆゑいままでのところでは、日本につぽん一番いちばんふるいのは、新石器時代しんせつきじだいのものでありまして、それから金屬器きんぞくき時代じだいにつゞいてゐるのであります。
 さて日本につぽんはいつごろまで石器時代せつきじだいであつたかとまをしますに、よくはわかりませんが、すくなくともいまから二千年程前にせんねんほどまへまで石器せつき使用しようのこつてゐたようであります。そして、そのまへ千年間せんねんかんぐらゐも石器時代せつきじだいであつたかとおもはれますけれども、そのへんのことになると、殘念ざんねんながら年數ねんすうあきらかにすることが出來できません。
 日本につぽんでもむかしから百姓ひやくしよう土地とちたがやしたり、やまくづれたりしたとき、ひょっこり石器せつき發見はつけんされたことが屡々しば/\ありましたが、むかしはそれらの石器せつき人間にんげんつくつたものとはおもはないで、いしをの雷神らいじんおとしたものであるとか、あるひはいしては神樣かみさま戰爭せんそうしたときであるとかんがへたり、あるひは自然しぜん出來できたものであるとしんじたりしてゐました。
[#「第三十四圖 木内石亭翁」のキャプション付きの図(fig18371_35.png、横×縦)入る]
第三十四圖 木内石亭翁

 もっともかようにかんがへたのは日本につぽんばかりでなく、西洋せいようでも支那しなでもむかしはみなおなじようにおもつてゐたのでありました。またこの不思議ふしぎいしをよせあつめる物好ものずきなひとがあつて、なかにずいぶんたくさんあつめたひともありました。なかにも有名ゆうめいなのは、いまから百年ひやくねんばかりまへに、近江あふみ木内石亭きのうちせきていといふひとで、これらの人達ひとたちおほあつめてゐるあひだに、これは天狗てんぐ使つかつたものだとか神樣かみさまのものとかではなくて、人間にんげんむかし使用しようしたものであらうとかんがしてました。また新井白石あらゐはくせきのようなえら學者がくしやは、これはむかし北海道ほつかいどうから樺太からふとんでゐた肅愼しゆくしんといふ民族みんぞく使用しようしたものであらうとかんがへ、百年ひやくねんほどまへ日本につぽんたシーボルドといふ西洋人せいようじんは、これはむかしのアイヌじん使つかつたものだらうといつてをりました。
[#「第三十五圖 モールス先生」のキャプション付きの図(fig18371_36.png、横×縦)入る]
第三十五圖 モールス先生

 しかし、この石器せつき人間にんげん使つかつたものであり、また、かような石器せつき使つかつた人間にんげん日本につぽんのこゝかしこにもんでゐたといふことを、現場げんじようつて研究けんきゆうし、本當ほんとうによくわかつてたのはあたらしいことであります。それはいまから五十年程前ごじゆうねんほどまへに、アメリカから日本につぽん大學だいがく教授きようじゆになつてたモールスといふ先生せんせいが、はじめてわれ/\にをしへてくれたのであります。この先生せんせい動物學者どうぶつがくしやでありまして、日本につぽんまへに、アメリカのフロリダといふところ石器時代せつきじだい貝塚かひづかつた經驗けいけんがあり、その方面ほうめん學問がくもんにもくはしいひとでありました。明治十二年めいじじゆうにねんふね横濱よこはまきまして、そのころ出來できてゐました汽車きしや東京とうきよう途中とちゆう汽車きしやまどからそこらへん風景ふうけいながめてをりました。ところが大森驛おほもりえき[#ルビの「おほもりえき」は底本では「おはもりえき」]附近ふきんにおいて線路せんろうへしろ貝殼かひがらおほ散亂さんらんしてゐるのをつけまして、これはきっと石器時代せつきじだい貝塚かひづかがあるのにちがいないとおもひ、それからもなくこの大森おほもり發掘はつくつかけました。はたしてそれは貝塚かひづかでありまして、石器せつき土器どき多數たすうたのです。これが日本につぽんにおいて貝塚かひづか研究けんきゆうするために發掘はつくつした最初さいしよであります。モールス先生せんせいは、三四年前さんよねんぜんアメリカでくなられましたが、近頃ちかごろこの大森おほもり先生せんせい記念碑きねんひてられました。このモールス先生せんせい弟子達でしたちや、またその學者達がくしやたちが、熱心ねつしん東京附近とうきようふきん貝塚かひづか調査ちようさいたしまして、石器時代せつきじだい事柄ことがら研究けんきゆうしたのでありますが、なかでもいまから十數年前じゆうすうねんまへ歿ぼつせられました、東京帝國大學とうきようていこくだいがく教授きようじゆであつた坪井正五郎博士つぼゐしようごろうはかせは、もつと熱心ねつしん研究けんきゆうされたのであります。わたしなども中學生ちゆうがくせい時分じぶんから、坪井先生つぼゐせんせいをしへをけ、それからいつそうこの學問がくもんきになつたのであります。
[#「第三十六圖 坪井正五郎先生」のキャプション付きの図(fig18371_37.png、横×縦)入る]
第三十六圖 坪井正五郎先生

 今日こんにちでは日本全國につぽんぜんこくいたところきた樺太からふと北海道ほつかいどうから本州全體ほんしゆうぜんたい四國しこく九州きゆうしゆう西にし朝鮮ちようせんみなみ臺灣たいわんまで、どこでも石器時代せつきじだい遺蹟いせき發見はつけんされぬところはありません。そして三千年さんぜんねん五千年ごせんねんまへから日本につぽん島々しま/″\には人間にんげんんでゐて、石器時代せつきじだい文明ぶんめいながくつゞけてゐたといふことがわかつてたのであります。われ/\の祖先そせんは、支那しなからすゝんだ文明ぶんめいつたへて今日こんにち日本につぽん建設けんせつしてたのでありますけれども、そのもとはやはり石器せつき使用しようした文明ぶんめいうへきづきあげられたものにほかならぬのであります。それでは日本につぽんにおいて石器せつき使つかつてゐた人間にんげんは、われ/\の祖先そせんであるか、またはべつ人種じんしゆであるかといふことになりますと、これはなか/\むつかしい問題もんだいでありますが、この石器時代せつきじだいはかから人骨じんこつ調しらべますと、今日こんにち北海道ほつかいどうのこつてゐるアイヌに性質せいしつほねもありますが、またむしろ今日こんにち日本人につぽんじんちかく、アイヌとは大分だいぶちがつたほねもありますので、その時代じだいから日本につぽん各地かくちにはすこしづゝかはつたからだ人間にんげんんでゐたことがわかります。それで一方いつぽうは、大體だいたい現在げんざいのアイヌにちか體質たいしつをもつてゐた人間にんげん石器せつき使つかつてゐたと同時どうじに、またわれ/\の祖先そせんもまた石器せつき使つかつてゐたといふこともうたが餘地よちがありません。もっとも朝鮮ちようせん臺灣たいわん石器時代せつきじだいは、日本内地につぽんないちほうとはまったくことなつた、べつ種族しゆぞくんでゐたことは注意ちゆういようします。

(ロ)貝塚かひづか墓地ぼちなどの遺跡いせき

 日本につぽん各地かくち石器せつき多數たすう發見はつけんされるといふことは、たゞいまべたとほりでありますが、それは一體いつたいどういふところからるかとまをしますと、種々しゆ/″\ありますが、そのうちいちばんおほいのは、ヨーロッパのデンマルクなどにあるのとおな貝塚かひづかからであります。貝塚かひづかといふのは、まへにもまをしたとほり、むかしひと海岸かいがんだとか、あるひは湖邊こへんだとかにんでゐて、平常へいじようつてゐた貝殼かひがらやその不用物ふようぶつをすてためのあとであります。貝塚かひづか今日こんにちうみからとほはなれてゐるものがおほいのですが、むかし海岸かいがんちかくあつたのです。これらの貝塚かひづかひろさは、おほきなのになると一町歩以上いつちようぶいじようのものもあつて、貝殼かひがらのつもつたあつさは數尺以上すうしやくいじようたつしてをります。ことに臺地だいちはしだとか、斷崖だんがい場所ばしよ十數尺じゆうすうしやくあつさにおよんでゐるものさへあります。また貝塚かひづか東京附近とうきようふきんから東海道とうかいどう山陽道さんようどう九州きゆうしゆうそのうみちか地方ちほうには、日本國中につぽんこくじゆういたところ發見はつけんせられます。そしてまた海岸かいがんばかりでなく、湖水こすいそばなどにも淡水産たんすいさん貝殼かひがら出來できてゐる貝塚かひづかがあるのであります。遠江とほたふみ蜆塚しゞみづかなどはその一例いちれいで、しゞみ貝殼かひがらなどがあるので、こんながつけられたのです。一體いつたい貝類かひるい動物中どうぶつちゆう比較的ひかくてきはやかたちへやすいものでして、しゞみでもむかしのものは今日こんにちよりはかたちおほきかつたのです。ばいでもむかしいま角度かくど幾分いくぶん相違そういしてゐるようですし、赤貝あかゞひでもせんかずすこかはつてゐるといふようなことが、貝塚かひづか貝殼かひがら調しらべてればわかります。また貝塚かひづかから發見はつけんされたかひで、今日こんにちもはやその近海きんかいにゐなくなつたものもありますが、これらの研究けんきゆう考古學こうこがく範圍はんいではなく、動物學者どうぶつがくしやまたは貝類學者かひるいがくしや研究けんきゆうぞくするのでありますが、みなさんが貝塚かひづかかけたならば、種々しゆ/″\ことなつた種類しゆるい貝殼かひがら採集さいしゆうして必要ひつようのあることをわすれてはなりません。
 それから貝塚かひづかぎには、貝殼かひがら見當みあたらぬけれどもやはり人間にんげん住居じゆうきよしたあとえて石器せつきやその遺物いぶつ土中どちゆうはさまつてゐるところがありまするし、またそれをその百姓ひやくしようかへし、田畑たはた表面ひようめん石器せつき土器どき散亂さんらんしてゐるところがあります。みなさんが、もしさういふところつたならば、いしをのいしなどのちてゐるのをひろふことが出來できるのでありますが、むかしはたくさんにありましたけれど、近頃ちかごろ百姓達ひやくしようたち石器せつきであることをるようになり、自分じぶんひろつてしまひますし、またそれをあつめにひとおほくなつたので、容易よういひろふことが出來できなくなりました。この貝塚かひづか附近ふきんだとか、石器時代せつきじだいひとんでゐたあと發掘はつくつするときは、をり/\いしでもつてかこんだあとだとか、または小屋こやてたときはしらんだあとだとかゞまるならんでゐることがあります。しかしその小屋こやはしらだとか屋根やねなどはちやすいものでつくつてあつたから、今日こんにちではまったくのこつてゐません。それらは今日こんにちでも田舍ゐなかにおいてかけます物置ものおきとか、肥料入ひりよういれの納家なやのような簡單かんたん小屋こやがありますが、まあ、それとたいした相違そういのない程度ていどのものとおもはれます。
 ヨーロッパでは舊石器時代きゆうせつきじだい氣候きこう非常ひじようさむかつたので、洞穴ほらあななか人間にんげんんでゐたことがありました。日本につぽんでも新石器時代しんせつきじだいむのに適當てきとう洞穴ほらあなのあるところでは、やはりそのなか住居じゆうきよしたことがないではありません。たとへば越中えつちゆう氷見ひみ大洞穴だいどうけつなかには、いまちひさいやしろまつられてありますが、そのあななかから石器時代せつきじだい遺物いぶつがたくさんにました。そのほかにも各地かくちでかような洞穴ほらあな發見はつけんされましたが、山腹さんぷくあたつて二三尺にさんじやくぐらゐのあなならんでまうけられてゐるいはゆる横穴よこあなといふもの、これは石器時代せつきじだいのものでなく、もっとのち時代じだいはかでありますから、これはのちにおはなしをすることにいたします。
 しかし石器時代せつきじだい人間にんげんもおはかつくりました。たゞそれはいままをしました横穴よこあなでもなく、またたか塚山つかやまきづくのでもなく、普通ふつう貝塚かひづかのあるところ、あるひは人間にんげん住居じゆうきよ附近ふきんに、土地とち二三尺にさんじやくつてそこに死體したいうづめていたのです。そして墓標ぼひようのようなものをつくつたかもれませんが、それも現在げんざいではなにのこつてゐませんからわかりません。それゆゑ私共わたしども貝塚かひづかつたり石器せつきらばつてゐるところつてゐますと、そのしたから石器時代せつきじだい人間にんげんほねるので、はじめてそこが墓地ぼちであつたことがられるのであります。このような墓場はかばいまから十年前じゆうねんぜんまではよくわからなかつたのでありますが、だん/″\わかつて各地かくちにおいて續々ぞく/\發見はつけんされてまゐりました。陸前りくぜん松島まつしま宮戸島みやとじまだとか、三河みかは吉胡よしこだとか、河内かはち國府こふだとか、備中びつちゆう津雲つぐもだとか、肥後ひご阿高あこうなどでは、ずいぶんたくさん人間にんげんほねて、あるひとつの場所ばしよからは百體ひやくたい三百體以上さんびやくたいいじようほねが、一間いつけんほどの距離きよりいてならんでゐるといふようなありさまであります。石器時代せつきじだい墓場はかばがあり/\とこのなかあらはれたわけで、發掘はつくつつた私共わたしどもじつおどろいたものでした。そして、それらの人間にんげんほねはほとんど完全かんぜんに、指先ゆびさきほねまでのこつてゐる場合ばあひがすくなくないのであります。かへってのち時代じだいおほきな古墳こふんで、石棺せきかんなかれた人間にんげんほねまでくさつてゐるのが普通ふつうでありますのに、この棺桶かんをけもなく土中どちゆううづめた人間にんげんほねが、よくのこつてゐるのは一見いつけん不思議ふしぎかんぜられますが、それはかんなか空氣くうき侵入しんにゆうしてくさやすいが、直接ちよくせつ土中どちゆううづめるとき空氣くうきにくいので、かへってよく保存ほぞんされるのであります。
[#「第三十七圖 日本石器時代遺跡」のキャプション付きの図(fig18371_38.png、横×縦)入る]
第三十七圖 日本石器時代遺跡
(1)貝塚(肥後轟)
(2)墓地(備中津雲)

 この石器時代せつきじだい人間にんげんは、どういふふうにしてはうむつたかといふに、あしをまげてひざからだけ、ひざまづいたようなかたちをしてうづめたのが普通ふつうでありまして、からだばしてうづめたのはいたつてまれです。なかにはむねのあたりにおほきいいしいたものもあります。このからだをまげてはうむるのは日本につぽんばかりでなく、ヨーロッパでも石器時代せつきじだいおこなはれてをりますし、今日こんにち野蠻人やばんじんなかにもまたそれが見出みいだされますが、それは多分たぶんんだものふたゝかへつてて、その靈魂れいこんきてゐる人間にんげんるいことをしないために、足部そくぶをまげてしばるといふことがあつたものとかんがへられるのであります。また石器時代せつきじだいのごときまだひらけない時代じだいでも、親子おやこ情愛じようあいといふものは今日こんにちかはりはなかつたのですから、幼兒ようじ死體したいでもけっしててゝはありません。赤子あかご兒童じどう死體したいは、おほきい土器どきつぼれて特別とくべつはうむつてある場合ばあひおほいのです。また松島まつしまでは、老母ろうぼ少女しようじよとがあはせてはうむつてありましたが、これはさだめし祖母そぼ孫娘まごむすめとが同時どうじ病死びようししたものをはうむつたものとおもはれます。そしてその少女しようじよくびにはちひさいいしたま珠數じゆずにしてかざつてありました。なんといぢらしいことではありませんか。
 私共わたしどもは、かような墓地ぼち發掘はつくつして、その時分じぶん人々ひと/″\がどんな宗教上しゆうきようじようかんがへをもつてゐたかといふこともわかり、またそのからだにつけてゐた種々しゆ/″\裝飾そうしよくで、當時とうじ風俗ふうぞくるばかりでなく、そのほね調しらべて、どんな人種じんしゆぞくしてゐたかといふことがかんがへられるのでありまして、それがいまはなしした石器時代せつきじだい人種じんしゆがなんであるかといふことの第一だいゝち材料ざいりようとなるのでありますから、この墓地ぼち研究けんきゆうは、貝塚かひづかなどよりもいつそう大切たいせつなものになつてるのであります。

(ハ)石器せつき骨角器こつかくき

 日本につぽん貝塚かひづかやその石器時代せつきじだい遺蹟いせきから發見はつけんされる石器せつき非常ひじようすうであつて、よくもこんなにたくさん石器せつきがあるものかとおどろくくらゐあります。なぜそんなにおほくの石器せつきのこつてゐるかといふに、その時代じだい使用しようされた金屬きんぞく器物きぶつになりますと、つちなかくさつてしまつてなくなつたり、あるひはくさつてゐないものはひろつてほか器物きぶつつくなほしたりするといふことがあるうへに、むかしひとがはじめから石器せつきのようにもなくてることをしなかつたのです。しかるに石器せつきつちなかにあつてもくさることはなく、またほか器物きぶつ改造かいぞうすることもほとんど出來できないのでありますから、むかしから石器せつきにはあま注意ちゆういするものがなかつたのであります。また石器時代せつきじだいひと一度いちど石器せつき破損はそんした場合ばあひには、たいていてゝしまひ、これを改造かいぞうするようなことはなかつた。これが今日こんにちおほくの石器せつき發見はつけんされる理由りゆうひとつでありまして、おかげ私共わたしどもみなさんととも石器せつきさがしにつても、獲物えものがあるわけです。
 石器せつきには種々しゆ/″\種類しゆるいがありますが、そのたなひとひと品物しなもの種類しゆるいによつて分類ぶんるいしてならべてありますから、これからだん/\それをきませう。まづ第一だいゝちをのかたちをしたものであります。これを石斧せきふんでゐますが、ながさはたいてい五六寸ごろくすんあるひは二三寸にさんずんぐらゐのもので、かたち御覽ごらんのとほり長方形ちようほうけいであつて一方いつぽうはしけづつてするどくしてありますが、たいていは兩面りようめんからみがいて、ちょうどはまぐりくちのようになつてをります。ですからものるためにはあまれるものとはおもはれません。また刃先はさきすこひろがつて三味線さみせんばちのようになつてゐるのもあり、やいば一方いつぽうからつけたのみのようなかたちをしてゐるのもあります。それらのをのには横側よこがはゑぐりをれたものがおほいのであります。これらの石斧せきふみなよくみがいてなめらかにひかるように出來できて、非常ひじよう精巧せいこうつくかたであります。なかにはながさが一寸いつすんぐらゐもない、ちひさいうつくしいいしつくつたをのがありますが、それは實際じつさいやくつものとはおもはれません。多分たぶん大切たいせつ寶物ほうもつるいであつたのでせう。またこれとは反對はんたいに、一尺いつしやくにもちかをのがありますが、これもまだどうも實用じつようには不適當ふてきとうです。おそらく寶物ほうもつか、あるひは石斧せきふつくいへ看板かんばんであつたかもれません。のみのようなやいばのついてゐる一寸いつすんぐらゐのちひさい石斧せきふもありますが、これは石斧せきふといふよりも、石鑿いしのみといつたほうてきしてゐるようにおもはれます。いままをしたようないしみがいてつくつた石斧せきふ私共わたしども磨製石斧ませいせきふといつてゐます。(第三十九圖だいさんじゆうくず
[#「第三十八圖 石器製作の圖」のキャプション付きの図(fig18371_39.png、横×縦)入る]
第三十八圖 石器製作の圖

 それからまた石斧せきふうちに、みがいてつくらずして、たゞいしちわつてつくつたごくあら粗末そまつをのがあります。それには細長ほそなが短册型たんざくがたのものもありますが、ときには分銅型ふんどうがたのものもあります。これを打製石斧だせいせきふといつてゐます。しかし打製石斧だせいせきふには實際じつさいものるために役立やくだやいばがありません。それならばものたゝつち使つかふものかといふに、それにはあま細工さいくぎてゐるようにもおもはれるので、はたしてなに使つかはれたものかすこぶうたがはしいくらゐです。この打製石斧だせいせきふは、ある場所ばしよではずいぶんたくさんにます。いまから二十年程前にじゆうねんほどまへ私共わたしども東京とうきよう西にし武藏むさし深大寺じんだいじといふむら附近ふきんあるくと、一時間いちじかん何十本なんじつぽんとなくひろられました。そのむら小學校しようがつこうには、生徒達せいとたちひろつて石斧せきふを、教室内きようしつないならべてある五六十ごろくじゆうつくゑうへいつぱいやまのようにならべてあるのをました。そのかず二千以上にせんいじようもあつてじつおどろいた次第しだいでありました。こんなにたくさん打製石斧だせいせきふのあるのは、あるひはこゝで石斧せきふ半製品はんせいひんつくつて、各地かくち輸送ゆそうしたものかもれないとおもはれるのであります。かうした石斧せきふなどをさがすのには、はたけころがつてゐるいし片端かたはしから調しらべてるとか、はたけそば小溝こみぞなか石塊いしころとか、あぜまれたいしなか熱心ねつしんさがすにかぎります。しかしへびだとか、蜥蜴とかげだとかゞ、いしあひだからしておどろかされることがありますから、注意ちゆういしなければなりません。わたし九州きゆうしゆう旅行りよこうしましたとき田圃たんぼみぞなか七寸しちすんぐらゐもあるおほきな磨製石斧ませいせきふ潜航艇せんこうていのようにしづんでゐるのを發見はつけんしてひろつたことがありますが、こんなやつをさがてたときは非常ひじよう愉快ゆかいです。一體いつたいこれらの石斧せきふ使用しようするときはどうしたかといひますのに、いしのまゝにぎつて使つかつたものもありますが、けた場合ばあひもありまして、まれにはくさつた附着ふちやくした石斧せきふ發見はつけんすることがあります。(第三十九圖だいさんじゆうくず5)
[#「第三十九圖 日本發見石器」のキャプション付きの図(fig18371_40.png、横×縦)入る]
第三十九圖 日本發見石器
(1)(2)打製石斧 (3)(4)磨製石斧 (5)石斧に柄をつけたもの (6)環状石斧 (7)有孔石斧
(8)ゑぐり入り石斧 (9)石庖丁 (10)石槍 (11)石匙 (12)石鏃 (13)磨製石鏃 (14)石錐

 石斧せきふについでたくさんにあるのは、いし石鏃せきぞく)であります。石鏃せきぞく磨製ませいもありますが、これはいたつてかずすくなく、ところかぎられてゐまして、たいていは打製だせいであります。燧石ひうちいし黒曜石こくようせきや、安山岩あんざんがんるいつくつたものがおほいのでありますが、ときには水晶すいしよう瑪瑙めのうのような綺麗きれいいしつくつたものもあります。とにかく石鏃せきぞくかたちちひさく可愛かわいらしいので、これを採集さいしゆうするのが一番いちばん愉快ゆかいであります。そのかたちにも種々しゆ/″\かはつたのがあつて、なががたちやなぎかたちのようなものや、三角形さんかくけいのものや、またふたつのあしのついたもの、そのあしながくなつてゐるもの、その兩股りようまたあひだ矢柄やつかあしのついたものといつたふうに、いろ/\の種類しゆるいがありますが、このうち兩脚りようあしてゐるものは、いつたんさゝると中々なか/\きにくゝ、てきころすにつごうがよいので、おも戰爭せんそう使つかはれたといふことです。アメリカなどからるようなかたち非常ひじようことなるものや大型おほがたのものは日本につぽんではあま發見はつけんされませんが、たいてい一寸前後いつすんぜんごおほきさのものが普通ふつうであります。またこのたなならべてあるやなぎかたちをしたなが三寸以上さんずんいじようもある石鏃せきぞく大形おほがたのものは、普通ふつう石槍いしやりといつてゐます。それから小形こがた一方いつぽうふくれ、一方いつぽうとがつてゐるものがあります。それはいしきり石錐せきすい)といふものです。また、石匙いしさじといふものがありますが、むかしひと天狗てんぐ飯匙めしさじといつてゐたものです。ながかたちよこにひらたいものとがありますが、双方共そうほうとも一方いつぽうつまみがあり、他側たがはれるほどするどくはありませんが、にぶになつてゐます。現在げんざい野蠻人やばんじんなどが、これとおなじような器物きぶつ使つかつてゐるところからかんがへますと、この石匙いしさじけだものかはぐために使用しようしたものに相違そういありません。けだものかはにくとのあひだにある脂肪あぶらをごし/\とかきつて、かはいでくのです。(第四十圖だいしじゆうず
[#「第四十圖 日本發見石器及び骨角器」のキャプション付きの図(fig18371_41.png、横×縦)入る]
第四十圖 日本發見石器及び骨角器
(1)(2)石棒 (3)石冠 (4)錘り石 (5)獨鈷石 (6)石皿 (7)雨だれ石 (8)骨針
(9)(10)骨鈷 (11)(12)(13)骨鏃 (14)(15)(16)骨製鈎針 (17)骨製浮孔口 (18)骨製弓筈

 いままでまをしました石器せつきは、刃物はものか、それに類似るいじのものでありますが、なほほか刃物以外はものいがいのものもあります。そのなかでも面白おもしろいのは、石棒せきぼうです。これは五六寸ごろくすんから一尺いつしやくぐらゐのながさのものでありまして、まるぼうあたまところふくれてゐます。そのふくれたところに、種々しゆ/″\模樣もようつてあるものもあります。このぼうおほきくないものは、つた棍棒こんぼうかとおもはれますが、ふとくておほきなものには、とうていつてりまはすことの出來できないものがありますから、それはなに宗教上しゆうきようじよう目的もくてき使用しようされたものだらうとおもはれます。(第四十圖だいしじゆうず
 また錘石おもりいしといふのがあります。それはひらたい石塊いしころ上下じようげすこいて紐絲ひもいとけるのに便利べんりにしてあるもので、あみおもりとか、機織はたおりに使用しようしたものかといはれてゐます。それから石皿いしざらといふものや、砥石といしのようなものもあります。(第四十圖だいしじゆうず)またいしつくつた裝飾品そうしよくひんもありますが、そのなかには後程のちほどべようとおも日本につぽん私共わたしども祖先そせん使つかつた勾玉まがたまかたちかざものがあり、日本につぽんないうつくしい緑色みどりいろいし硬玉こうぎよく)でつくつたものがすくなくありません。それらは當時とうじ支那しなからわたつた石材せきざいせて、つくつたものとおもはれます。またこのうつくしい楕圓形だえんけいいし眞中まんなかに、あなのあるものなどもあります。これらはみな裝飾品そうしよくひんおもはれますが、はたしてどうして使つかつたものか、はっきりわかりません。かように、野蠻やばん時代じだいでもうつくしい石材せきざい地方ちほうから輸入ゆにゆうして使用しようしたことがあるばかりでなく、燧石ひうちいしだとか、黒曜石こくようせきのようなものでも、その地方ちほうさんしない場合ばあひは、地方ちほうからこれを輸入ゆにゆうして使つかつたのであります。私共わたしどもは、このいし石質せきしつ調しらべることによつて、當時とうじ交通こうつうとか貿易ぼうえきあととかをたどることが出來できるのでありますから、みなさんも石器時代せつきじだいいし性質せいしつ調査ちようさすることが必要ひつようであります。(第四十一圖だいしじゆういちず
[#「第四十一圖 日本石器時代裝飾品」のキャプション付きの図(fig18371_42.png、横×縦)入る]
第四十一圖 日本石器時代裝飾品
(1)(2)骨製腰飾り (3)骨製首飾り (4)(5)石製耳飾り (6)骨製飾り (7)骨製笄 (8)獣牙飾り (9)石製勾玉形 (10)土製飾り (11)貝輪

 また石器時代せつきじだいといひましても、當時とうじ人間にんげんもちひてゐたものは、石器せつきばかりではなく、材料ざいりようをもつてつくつたものもないではありません。そのおもなるものは、かれ食物しよくもつ材料ざいりようとしてとらへた獸類じゆうるいほねつのつくつたものであります。まづ石器せつきおなじような刃物はものるいをやはりほねつのつくるのでありますが、もっともこれをつくるには石器せつきもちひたのでありませう。このほねつのいしよりもやはらかいのでありますけれども、また一方いつぽうにはいしよりもつよくてをれやすくないといふことがその特長とくちようであります。それがためにものしたりあなをあけるきりるい、ことに毛皮けがはだとかものだとかを、つたりつゞあはせたりするためには、いしきりかたくてもをれやすくてだめですから、それにはどうしても、ほねつのでつくつたきりかぎるとおもはれます。またさかなときばりだとか、さかなときもりにも、ほねつのつくつたものでなければやくたないのでありまして、常陸ひたち椎塚すいつかといふ貝塚かひづかからは、たひあたまほねに、ほねつくつたもりがさゝつたまゝ發見はつけんせられたのがありました。これで骨製こつせい器物きぶつ漁業ぎよぎようもちひられたことを證據立しようこだてゝをります。(第四十圖だいしじゆうず
 しかしこの骨角器こつかくきは、當時とうじにおいてはそのすうがたくさんあつたことでせうが、くさやすいために石器せつきのように今日こんにちおほのこつてをりません。それから、これら骨角器こつかくきによつてけだもの種類しゆるい調しらべてますと、たいていゐのしゝ鹿しかのものであることがわかり、また貝塚かひづかからほねつのるいても、やはりゐのしゝ鹿しかおもなるものであります。それからして石器時代せつきじだい人間にんげんかひさかなほかに、おもゐのしゝだとか鹿しかだとかをりして食料しよくりようにしてゐたことがられます。
 また骨角器以外こつかくきいがい貝殼かひがらつくつた器物きぶつもないではありませんが、それはおも裝飾そうしよくもちひられたもので、なかでも一番いちばんおほいものはかひ腕輪うでわであります。これはたいてい赤貝あかがひるい貝殼かひがらゑぐき、その周圍しゆういばかりをのこして前腕まへうでにはめむでので[#「はめ込むでので」はママ]ありまして、石器時代せつきじだい墓場はかばから人骨じんこつに、この貝輪かひわがそのまゝ腕骨わんこつにはまつてゐるのをたび/\發見はつけんされました。なかには一方いつぽううでなゝやつつも貝輪かひわをはめてゐるのもありました。この貝輪かひわうでにはめる風俗ふうぞくは、今日こんにちでも南洋なんようあたりの野蠻人やばんじんあひだおほ見受みうけられますが、たゞその貝輪かひわはそのゑぐあながわりあひにちひさいので、てのひらとほして前腕まへうでにはめることは餘程よほど困難こんなんであつたことゝおもはれます。今日こんにち私共わたしどもが、その貝輪かひわをとつて前腕まへうでにはめようとすると容易よういにはまりませんが、これは今日こんにちでも南洋なんようあたりにあるように、うまく氣合きあひでもつてにはめ專門家せんもんかがあつたかとおもはれます。このついでにほか裝飾品そうしよくひんについてべますが、この時分じぶんひとみゝにもいしつちつくつたおほきな耳飾みゝかざりをつけたのでした。それはいしかん一方いつぽうけたようなかたちのものや、つゞみかたちをした土製品どせいひんで、まへまをした石器時代せつきじだい墓場はかばから、よく人骨じんこつみゝのあたりで發見はつけんされるのであります。(第四十一圖だいしじゆういちず

(ニ)土器どき土偶どぐう

 日本につぽん石器時代せつきじだいには土器どき餘程よほどさかんに使用しようされてゐましたとえ、どの遺跡いせきにもおほくの土器どき發見はつけんされます。私共わたしども石器時代せつきじだい遺蹟いせきさがすには、石器せつきをつけるよりも、田圃たんぼなからばつてゐる土器どき破片はへんつけることが一番いちばん早道はやみちだとおもはれるくらゐであります。この土器どき石器せつきおなじように、あるひは石器せつきよりもより以上いじように、一度いちど破損はそんした場合ばあひはとうてい修繕しゆうぜん出來できない。もっともときには大形おほがた土器どきひゞがはひつたりれたりしたとき兩側りようがはあなをあけてひもしばりつけたものがないではありませんが、おほくはてゝしまつたものとえ、のこつてゐる土器どきはたいていものであります。もっとも墓場はかばだとか、そのほか場所ばしよ完全かんぜん土器どきうづもれてゐることもありますが、私共わたしども發見はつけんするのはおほくは破片はへんです。それは發掘はつくつするときこはれるのでなくて、たいていもとからこはれてゐるのであります。
 この當時とうじ土器どきは、まだ完全かんぜん轆轤ろくろ使用しようしなかつたのでありますが、そのわりあひにかたちもよくとゝのつて、ゆがんだものなどははなはまれであり、かなりたくみにつくられてゐるようにおもはれます。それはおそらくひらたいかごのようなものゝうへで、まはしながらつくつたのでせう。そのころにはすでに土器どきつく專門せんもん技術者ぎじゆつしやもゐたのでせうけれども、のち時代じだいのようにたくさんの土器どき一時いちじ製造せいぞうするようなことはすくなかつたらしく、粗末そまつ仕入しいれものとられるものははなはまれであります。それでかたち模樣もようなどもおなじものがすくなく、ひとつ/\ちがつてゐるのが普通ふつうでありますが、この時分じぶんには、まだ土器どきかまどられてゐなかつたとえ、のち時代じだいのように綺麗きれいいろ出來できてをりません。素燒すやきでありますけれども、くろずんだ茶色ちやいろいぶされたのがおほいのです。そしてそのつちしつこまかいすなや、ときには大粒おほつぶすながまじつてゐるために平均へいきんしてをりません。これら土器どきかたちは、そのたなならべてあるように、非常ひじよう種類しゆるいおほいのでありまして、のち時代じだい今日こんにちのものとくらべて、かへって變化へんか多樣たようきはめてゐるのにはむしおどろかされます。たゞさらるいあま見當みあたりませんが、はちつぼ土瓶どびん急須きゆうすのたぐひから香爐型こうろがたのものなどがあつて、それに複雜ふくざつかたち取手とつてや、みゝなどがついてをり、模樣もようはたいていなはむしろかたしつけそのうへ曲線きよくせん渦卷うづまきだとか、それに類似るいじ模樣もようがつけてありますが、ときには突出とつしゆつしたおびのような裝飾そうしよくをつけたものもあります。ごくめづらしいれいではありますが、あかつたものさへかけられるのであります。しかしかたはどれもやはらかいしつですから、みづれるとたいていはします。それには當時とうじひとさだめしこまつたこともあらうとおもはれますが、今日こんにちのようにうつくしい座敷ざしきがあつてたゝみうへにゐるわけではなく、すこしぐらゐはみづがしみしてれたとて、さうこまるようなことはなかつたでせう。ところが、この土器どきなが使用しようしてゐるうちに水垢みづあかがついたり、さかなけだものあぶらがしみんだりして、そのために水氣すいきもしみさないようになりますので、當時とうじはおそらくあたらしい土器どきよりも使つかふるされた土器どきほう大切たいせつがられたかもれません。(第四十二圖だいしじゆうにず
 當時とうじ土器どき模樣もようは、地方ちほうによつて多少たしようちがひがありますし、また時代じだいによつてもかはつてたようですから、それらを調しらべてることは面白おもしろいのであります。おな日本につぽん石器時代せつきじだい人々ひと/″\のおたがひ交通こうつうとか、文化ぶんか關係かんけいなどをるには、土器どき模樣もようかたちなどを研究けんきゆうすることが必要ひつようであります。石器せつきつくかたやそのかたちもおたがひてゐて、ほとんど世界中せかいじゆう、そのかはりはすくないのでありますから、文化ぶんか關係かんけいその研究けんきゆうには土器どきほどに役立やくだちません。ですから私共わたしども石器時代せつきじだい遺蹟いせきつても、土器どき熱心ねつしん採集さいしゆうし、ちひさい破片はへんでも見遁みのがさぬように注意ちゆういしてをります。
[#「第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)」のキャプション付きの図(fig18371_43.png、横×縦)入る]
第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)

 それから、土器どきおなじく粘土ねんどつくつたものに土偶どぐうといふものがあります。すなはちつち人形にんぎようです。それはたいてい二三寸にさんずんから四五寸しごすんぐらゐのおほきさのものがおほく、ときには一尺以上いつしやくいじようもあるのをかけますが、いづれも人間にんげんかたちそのまゝの寫生的しやせいてきのものでなくて、模樣風もようふう一種いつしゆかたにはまつたものばかりであります。かほでもはなくちあきらかに區別くべつされてゐないのが普通ふつうであります。をとこをんなべつあらはされてゐますが、ことにをんな土偶どぐうがたくさんにありますのは、この時分じぶんにはをんなかみさまを崇拜すうはいしたゝめにつくつたものだといふ學者がくしやもあります。とにかく、なに宗教上しゆうきようじようのためにつくつたもので、玩具がんぐではなかつたようです。もし玩具がんぐだつたら、人間にんげんかたちをそのまゝうつしたものにしなければならないとおもひます。土偶どぐうほかくまだとかさるだとかの獸類じゆうるいをつくつたものもまれにはることがありますが、これは玩具がんぐえて、よくそのかたちがそれらの動物どうぶつてをります。とにかく日本につぽん石器時代せつきじだい土器どきは、外國がいこく石器時代せつきじだい土器どきくらべて、餘程よほど進歩しんぽ巧妙こうみようつくられてをり、日本につぽん石器時代せつきじだい人間にんげんは、土器どきつくることが上手じようずでもあり、きでもあつたとおもはれます。(第四十三圖だいしじゆうさんず
[#「第四十三圖 日本石器時代土偶」のキャプション付きの図(fig18371_44.png、横×縦)入る]
第四十三圖 日本石器時代土偶
(1)(2)(3)土偶 (4)土假面 (5)熊形 (6)猿形 (7)(8)(9)土版

 いままでべた土器どきはなしは、しゆとして關東かんとうから奧羽地方おううちほうにおいて土器どきについてまをしたのでありますが、關西地方かんさいちほう、あるひはその地方ちほうから、すこしくこれとちがつた種類しゆるい土器どき石器せつきとも發見はつけんせられます。その石器せつきにはあまかはりはありませんが、たゞ石庖丁いしほうちようだとかゑぐりのある石斧せきふなどが、どちらかといふとおほます。これは、まへくろずんだいろ土器どきとはことなつて、たゞの茶色ちやいろ土器どきです。(第四十四圖だいしじゆうしず)それはつくときかまどが、まへのものより進歩しんぽして、ときいぶされなかつたからでありまして、土器どき製作法せいさくほう一段いちだんすゝんだものとられますが、その土器どきかたちからいひますと、まへのものほどおほくの種類しゆるいがありません。つぼとかはちとかきまつたかたちのものばかりでありまして、ことにつぼにはしりほうが、つぼんだ無花果いちじゆくのようなかたちをしたものがおほいのです。また模樣もようはたいていありません。よしありましても、直線ちよくせんなどをほそんだもので、まへべた土器どきのように、曲線きよくせんだとかなはだとかむしろだとかのかたちしたものは見當みあたりません。一般いつぱんかたち模樣もよう單純たんじゆんであつて、まへのものほど複雜ふくざつでないといふことが出來できます。しかもおなかたちをした土器どき同時どうじおほますところをますと、これらの土器どきは、今日こんにちのように工業的こうぎようてき製造せいぞうせられたものと想像そう/″\することが出來できます。私共わたしどもはこのしゆ土器どき彌生式土器やよひしきどきんでをりますが、それは最初さいしよ東京とうきよう本郷ほんごう帝國大學ていこくだいがくうらところあた彌生町やよひちようにあつた貝塚かひづかから土器どきからつたのです。これにたいまへかたち土器どき繩文式土器じようもんしきどきしようしてをります。かようにふたつの土器どき種類しゆるいがあつて、たがひちがつてゐるのは、これをつくつた民族みんぞく人種じんしゆおなじでないためでありまして、すなはち彌生式やよひしき土器どきは、われ/\日本人につぽんじん祖先そせん石器時代せつきじだいのもので、繩紋式じようもんしき土器どきは、アイヌの祖先そせん石器時代せつきじだいのものであらうといふひとがありますが、あるひはさうであるかもれません。また人種じんしゆおなじでも、あたらしい文化ぶんかがはひつてたゝめに、土器どき相違そうい出來できたのかもれないのです。だん/\調しらべてきますと、このふたつのなかほどのものも時々とき/″\發見はつけんされるので、これをつくつた人間にんげんかんする議論ぎろんはなか/\むつかしくなりますから、こゝではそれはしにいたします。
[#「第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)」のキャプション付きの図(fig18371_45.png、横×縦)入る]
第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)

(ホ)朝鮮ちようせん支那しな石器せつき

 さていままで、日本につぽん石器時代せつきじだい遺跡いせきと、そこから品物しなものについてべてましたが、ぎに日本につぽんちか支那しな朝鮮ちようせんなどの石器時代せつきじだいは、どういふふうであるかといふことをこれから、すこしくおはなしいたしませう。また支那しな朝鮮ちようせん石器時代せつきじだい遺物いぶつ參考さんこうのためにこゝにならべてきましたから、みなさん御覽下ごらんください。
 朝鮮ちようせんでは、南方なんぽうからも北方ほつぽうからも石器時代せつきじだい遺物いぶつます。そしてこのくにも、またふる石器時代せつきじだいからひらけてゐたことがわかるのでありますが、日本につぽんちか南朝鮮みなみちようせんへんには、日本につぽん繩紋式土器じようもんしきどきたような土器どきはほとんど發見はつけんせられません。どちらかといひますと、彌生式土器やよひしきどきちかいものがまして、石器せつき磨製ませいのもので、石斧以外せきふいがい日本につぽんではめったにることの出來できない綺麗きれいみがいたするどや、またいしつるぎます。この土器どき石器せつきも、日本につぽんのものは餘程よほどちがつたところがありまして、石器時代せつきじだいすゑ金屬きんぞく使用しようされるようになつた時代じだいのものかもれません。たゞ石斧せきふうちには、日本につぽん各地かくちからるのとおなじように、ゑぐりのはひつたものゝることは注意ちゆういすべきでありませう。北朝鮮きたちようせんからは石器せつき土器どきますが、その土器どき南朝鮮みなみちようせんのものとはすこちがつて、どちらかといふと日本につぽん繩紋式土器じようもんしきどき多少たしようた、あらいせん模樣もようのあるのがるのであります。この南朝鮮みなみちようせん北朝鮮きたちようせんとは、はたして同一人種どういちじんしゆのこしたものであるかどうかは、かんがへなければならぬことでありまして、私共わたしどもはむしろべつ民族みんぞくのこしたものかとおもふくらゐであります。(第四十五圖だいしじゆうごず
[#「第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器」のキャプション付きの図(fig18371_46.png、横×縦)入る]
第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器
(1)―(11)支那滿洲 (12)(15)朝鮮 (16)支那(殷墟) (17)(18)同上骨器

 さて、支那しなにはひりますと、朝鮮ちようせんちか滿洲まんしゆうにも、旅順りよじゆん大連だいれんあたりからも石器せつき非常ひじようおほるのでありますが、石斧せきふなかにはひらたくてあながあり、かくばつたのみのようなものがありまして、支那しな内地ないちからるものと非常ひじようによくてゐるので、どうしてもこれは支那人しなじん祖先そせん使用しようしたものらしくおもはれるのであります。土器どきはやはり日本につぽん彌生式やよひしきちか種類しゆるいのものが普通ふつうでありまして、ときにはめづらしく、だんだら模樣もよう彩色さいしきしたうつくしいものがることもあります。支那しなでは、またふと三本脚さんぼんあしのついたれき(鬲)というかたち土器どきますが、これは支那しな支那しな文化ぶんか影響えいきようけた地方ちほうかぎつてるのであつて、やはり滿洲まんしゆうからもます。支那内地しなないち石器時代せつきじだいのことはまだよく調しらべがついてゐませんが、山東省さんとうしよう陝西省せんせいしようそのからも石器せつきます。いまおはなしした滿洲まんしゆうよりるのとおなじように、あなのあいた石斧せきふなどであります。土器どきでは三本脚さんぼんあしれきなどでありますが、近頃ちかごろにいたつて河南省かなんしよう甘肅省かんしゆくしようあたりでは、墨色すみいろ模樣もよういたうつくしい土器どきが、石器せつきいつしょにたくさんに發見はつけんされますが、これは石器時代せつきじだい末期まつきにあつたものとおもはれます。この土器どきは、滿洲まんしゆうから彩色さいしき土器どきとはちがつてゐて、餘程よほど西にしほうくにからるものにてゐるところがありますから、ふる西方諸國せいほうしよこく文明ぶんめい支那しなりこんだものといふことが想像そう/″\されて面白おもしろいものであります。(第四十六圖だいしじゆうろくず
[#「第四十六圖 支那新石器時代土器」のキャプション付きの図(fig18371_47.png、横×縦)入る]
第四十六圖 支那新石器時代土器
(1)滿洲彩色土器 (2)鬲形土器 (3)甘肅彩色土器

 支那しなでは、たゞいままをしたように新石器時代しんせつきじだいのものがるばかりではなく、その北方ほつぽう黄河こうがながれがきたまがつて、またみなみへをれてるあたりでは、近年きんねん舊石器時代きゆうせつきじだいふる遺物いぶつ發見はつけんされるといふことでありますし、なほ北方ほつぽうのシベリヤの南部なんぶにおいても、舊石器時代きゆうせつきじだいのものがあらはれてたところからますと、支那しなにもふる舊石器時代きゆうせつきじだいから人間にんげんんでゐたことがわかるのであります。しかし、何分なにぶん支那しなひろくにでありますし、またその東部とうぶ大河たいがながしたどろだとか、かぜおくつてきたちひさいすなだとかゞつもつて、非常ひじようにそれがふかいために、そのした石器時代せつきじだいのものがあるのですから容易ようい調しらべがつかず、今日こんにちまでよくられてをりません。それで、將來しようらいわれ/\がいつしょう懸命けんめい調しらべてつたら、きっと面白おもしろいことが發見はつけんされることゝしんじます。
 それからもと支那しな領地りようちであつて、いま日本につぽん一部いちぶになつた臺灣たいわんにも石器時代せつきじだい遺物いぶつますが、支那しなからるものとよくてをります。しかし琉球りゆうきゆうのものになりますと、臺灣たいわんとはないで、日本内地につぽんないち繩紋式土器じようもんしきどきおな性質せいしつ土器どきいつしょにるのであります。
 以上いじようべましたように、支那しな朝鮮ちようせん石器時代せつきじだいのものは、その土器どきうへからて、日本につぽんのものとは關係かんけいゆうしてゐないようでありますが、たゞ彌生式土器やよひしきどきのようなものになつてはじめてすこるといふのでありますから、まづ石器時代せつきじだいには、日本につぽん朝鮮ちようせん支那しなとは獨立どくりつ發達はつたつをしてをつた民族みんぞくんでゐたものとなければなりません。それが石器時代せつきじだいをはごろになつて、支那しな朝鮮ちようせん金屬きんぞく器物きぶつ使つかふことが日本につぽんつたへられまして、はじめて日本につぽん支那しなあたりのあひだふか關係かんけいしようずるようになるのであります。それらを證據立しようこだてる品物しなものは、ぎのしつならべてありますから、そこへくことにいたしませう。

(ヘ)青銅器せいどうき銅鐸どうたく

 いままでまをした日本につぽん石器時代せつきじだいは、幾年いくねんほどつゞいたかといふことは、たしかにはわかりませんが、けっして二百年にひやくねん三百年さんびやくねんみじか期間きかんではなくて、あるひは千年せんねんにもちかながあひだのことゝおもはれます。そして石器時代せつきじだい文明ぶんめいもだん/\すゝんでましたが、ちょうどいまから三千年さんぜんねんほどまへに、おとなりの支那しなではしゆうすゑからかんはじめにかけて、支那人しなじん勢力せいりよく非常ひじようさかんになつて、どし/\各地かくち植民しよくみんをしだしたとともに、いままですでにもちひてゐたところの金屬きんぞくどう青銅せいどうつくつた器物きぶつ使用しよう東亞とうあ諸國しよこくひろめられることになりました。その結果けつか滿洲まんしゆうから朝鮮ちようせん日本につぽんおよび、それで日本につぽんはじめて支那しな金屬きんぞくつたへて、石器時代せつきじだい文化ぶんかから金屬器時代きんぞくきじだい文化ぶんかすゝむことになりました。それでは支那しなから日本につぽん金屬きんぞく傳來でんらいしたことが、なぜわかるかといひますと、それはちょうどそのころ支那しな出來できふるぜにが、いつしょに發見はつけんされるからであります。その古錢こせん小刀こがたなかたちをした刀錢とうせんくはかたちをした布泉ふぜんといふものでありまして、それがしゆうをはごろ出來できぜにであるといふので、年代ねんだいたしかにきめられるのであります。日本につぽんには滿洲まんしゆう北朝鮮きたちようせんよりもすこおくれて金屬きんぞくがはひつてたらしくおもはれますが、それはいまから二千年にせんねんほどまへ支那しな王莽おうもうころ出來でき貨泉かせんといふぜに時々とき/″\るのでわかります。しかし金屬きんぞくがはひつてたからとてすぐにいままでの石器せつきこと/″\てゝ全部ぜんぶ金屬器きんぞくき使つかふようになつたのではありません。金屬きんぞく最初さいしよ分量ぶんりようわづかで、貴重品きちようひんとせられてをつたのが、としてだん/\石器せつきかはつてつたのであり、はじめは石器せつき同時どうじ使用しようせられてゐたものに相違そういありません。かういふ時代じだい私共わたしども金石併用期きんせきへいようきんでをります。
[#「第五十圖 支那古錢」のキャプション付きの図(fig18371_48png、横×縦)入る]
(1)明刀
(2)布泉
(3)五銖
(4)貨泉
(5)一刀錢

 いままをしたように、日本につぽん青銅器せいどうきがはひつてたのは支那しなからでありまして、それは多分たぶん滿洲朝鮮まんしゆうちようせん海岸かいがんてはひつてたものとおもはれますから、したがつて日本につぽんでは一番いちばん西にし九州きゆうしゆうはじめてつたはつたものとかんがへられます。それがだん/\にひがしひがしへとすゝんできまして、五畿内地方ごきないちほうからその附近ふきん金屬きんぞくもちひる時代じだいになりましたが、東北地方とうほくちほうにはそのながく、石器時代せつきじだい文化ぶんかのこつてゐたものとおもはれます。
 さて日本につぽんに、青銅せいどうつたはつて、どういふものがまづつくられたかとまをしますに、はじめはむろん支那しなあたりでつくられた品物しなものがそのまゝつてられたものとえ、ほそかたち銅劍どうけんなどは支那しなのものとまったくおなじものが日本につぽんからもます。だん/\月日つきひるにしたがつて日本につぽんでも青銅器せいどうきつくるようになつたのでありますが、材料ざいりようはやはりおほくは支那しなからつてたものでありまして、ときには支那しなから輸入ゆにゆうした古錢こせんつぶして、ほか品物しなものつくつたかもれません。いまでは銅貨どうか補助貨幣ほじよかへいでありまして、本當ほんとう價値かちだけ重分量じゆうぶんりようをもつてをりませんけれども、むかし支那しななどでは、銅貨どうかおも貨幣かへいでありましたから、地金じがねおなじだけの價値かちがあつたのです。ですからそれを地金じがねとしてつぶしたのはむりではないとおもはれます。日本につぽん最初さいしよつくられた銅器どうきまへよりははゞひろどうつるぎほこるいでありまして、そのひとつはくりすがたといふつるぎで、このつるぎつばあたるところがなゝめにまがつてゐます。これは支那しなの『』といふ武器ぶきおなじように、つるぎかしらつか直角ちよつかくよこにくっつけて使つかつたものとおもはれるのであります。そのぎは銅鉾どうほこといふもので、はゞひろ大型おほがたのものでありまして、實用じつよう使つかつたものでなく、なに儀式ぎしきにでももちひたものとえ、やいばのところもするどくはなく、實際じつさい使用しようするものとしてはあまりおほきすぎるのです。(第四十七圖だいしじゆうしちず)これらのものが、日本につぽんつくられたといふ證據しようこには、それをつくときもちひたいしかた發見はつけんされるのでわかるのであります。このつるぎほこるい九州きゆうしゆうもつとおほ發見はつけんされます。そのでは中國ちゆうごく四國しこくなどでるばかりで、ひがしほう東北地方とうほくちほうには今日こんにちまでまだひとつも發見はつけんされてをりません。とにかく支那しなのものとふか關係かんけいのあることはたしかです。またいしでもつてこの銅劍どうけんなどのかたちつくつたものが時々とき/″\發見はつけんせられますが、やはりこの時代じだいのものとおもはれます。(第四十九圖だいしじゆうくず
[#「第四十七圖 日本青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_49.png、横×縦)入る]
第四十七圖 日本青銅器

 ぎに、大體だいたいこのころのものとおもはれる銅器どうきに、銅鐸どうたくといふものがあります。これはすこひらたいがねのようなかたちをしたもので、ちひさいものは四五寸しごすんおほきいものになると四五尺しごしやくもあり、すてきにおほきなものであります。その表面ひようめんには袈裟襷けさだすきといつて、ぼうさんの袈裟けさのように格子型かうしがた區畫くかくした模樣もようをつけたものや、また流水紋りゆうすいもんといつてなが渦卷うづまきの模樣もようをつけたものもあり、ときには人間にんげん動物どうぶつかたち簡單かんたんあらはしたものがついてをります。この銅鐸どうたくいままで古墳こふんからたことはなく、いわあひだや、やまかげなどからひょこっとるのが普通ふつうであり、そしてたくさんのかず一度いちどることも時々とき/″\あります。また九州地方きゆうしゆうちほうからはひとつもたことはなく、おも畿内きないから東海道方面とうかいどうほうめんにかけておほ發見はつけんされるのであります。銅鐸どうたくはそのかたちが、がねのようでありますから、やはり樂器がつきではあるまいかといふひともありますが、さて樂器がつき使つかつたあとられませんので、なに寶物ほうもつとしてつてゐたものだらうとかんがへるより仕方しかたがありません。つるぎほこのように、これをかた日本につぽんでは發見はつけんされないので、あるひは支那しなほうから輸入ゆにゆうしたものだらうといはれますが、支那しなには、これとおな品物しなものがありませんので、やはり日本につぽんつくつたとするよりほかはないのであります。(第四十八圖だいしじゆうはちず
[#「第四十八圖 日本銅鐸」のキャプション付きの図(fig18371_50.png、横×縦)入る]
第四十八圖 日本銅鐸
(1)流水紋 (2)けさたすき紋 (3)側面 (4)下面

 まづいまはなししたように、つるぎほこと、それから銅鐸どうたくなどが、青銅せいどうはじめて日本につぽんへはひつた時分じぶん遺物いぶつでありますが、支那しなではすでにかん時代じだいからさかんにてつ使用しようされるようになつてゐたので、日本につぽんへももなくてつがはひつてて、かたなその武器ぶきてつもちひることゝなりました。それでヨーロッパの諸國しよこく支那しなのように青銅器せいどうき時代じだいといふものを區別くべつするほどのあひだもなく、すぐに鐵器てつき時代じだいうつつてしまつたのです。そして日本につぽん歴史れきしのある時代じだいにはひつて、われ/\の祖先そせんのこした品物しなものが、だん/\とあらはれてるのであります。みなさん、こゝにある銅劍どうけん銅鉾どうほこ銅鐸どうたくなどを一巡いちじゆん御覽ごらんになつたら、ぎのしつくことにいたしませう。
[#「第四十九圖 日本及び朝鮮石劍」のキャプション付きの図(fig18371_51.png、横×縦)入る]
第四十九圖 日本及び朝鮮石劍
(1)―(5)日本發見 (6)―(11)朝鮮

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二、日本原史時代室につぽんげんしじだいしつ


(イ)日本につぽん古墳こふん

 いし器物きぶつばかりを使つかつてゐた石器時代せつきじだいから、ぎにはすこしづゝ金屬きんぞく器物きぶつもちひた時期じきぎて、日本につぽんつひ金屬きんぞく利器りきおも使用しようするいはゆる金屬時代きんぞくじだいにはひりました。そしてその金屬きんぞくまへにもまをしたとほり、青銅せいどうだけを使用しようした時代じだいきはめてみじかく、あるひはほとんどないくらゐで、すぐにてつ使つか時代じだいになつたのであります。これと同時どうじに、日本につぽん歴史れきしのない時代じだいから、すこしづゝ歴史れきしがわかる時代じだいになつてたのであります。かようにまだ歴史れきし十分じゆうぶんあきらかではないが、ぼんやりわかつて時代じだいを、われ/\は原史時代げんしじだいといふのであります。
 日本につぽん石器時代せつきじだい遺物いぶつのこした人間にんげんは、どういふ人種じんしゆであつたかといふことについてはいろ/\議論ぎろんがありますが、この原史時代げんしじだいにはひつて金屬きんぞく器物きぶつ使つかつてゐた人間にんげんになりますと、今日こんにちのわれ/\とおな日本人につぽんじんであつたことがうたがひないのであります。さてこの時代じだい日本人につぽんじんのこした遺跡いせきには、どんなものがあるかとまをしますと、ふるくからいし煉瓦れんが家屋かおくつくつた外國がいこくなどでは、家屋かおくはじほか建築物けんちくぶつ遺蹟いせき多數たすうのこつてゐるのでありますが、日本につぽんでは今日こんにちおなじように、おほ木材もくざいいへてたので、そのあとはまったくなくなつてのこつてをりません。たゞ、今少いますこのち時代じだいのおてら宮殿きゆうでんなどから、はしらいしずゑかはらがたくさんみつかるだけであります。また日本につぽん島國しまぐにであつて、外國人がいこくじんからめられるといふ心配しんぱいもありませんでしたから、しろきづ必要ひつようすくなくなかつたので、さうした種類しゆるい遺蹟いせきもたくさんはありません。たゞのこつてゐるのは、その時分じぶんひとつくつたおはかであります。このはかかたちおほきくたいさう岩乘がんじようつくられてありますから、千年せんねん二千年後にせんねんご今日こんにちまで、さいはもとのまゝでのこつてゐるものがたくさんあり、ふる日本人につぽんじんんでゐたところは、みなみ九州きゆうしゆうからきた東北地方とうほくちほういたるまで、どこでもかならずこのふるはかることが出來できます。しかしはかほかには、わづかに陶器とうきつくつた窯跡かまあとのようなものがあるくらゐで、ほとんどいふにるものはありません。それでわたしも、これからみなさんといつしょに私共わたしども祖先そせんつくつたふるいおはかがどういふものであつたか、またそのおはかなかからどういふものが發見はつけんされるかをきたいとおもひます。そしてこれをよく調しらべると、その時分じぶんひとがいかなる文化ぶんかをもつてゐたかとか、どういふ技術ぎじゆつ所有者しよゆうしやであつたかといふことがわかりますので、おはか研究けんきゆうすることは歴史れきし書物しよもつむのとすこしもかはらないのであります。
[#「第五十一圖 日本古墳の外形」のキャプション付きの図(fig18371_52.png、横×縦)入る]
第五十一圖 日本古墳の外形

 さて日本人につぽんじんふるはか今日こんにちのように石碑せきひ石塔せきとうてたのではなく、たいてい土饅頭つちまんじゆうのようにたかくなつてゐるので、私共わたしどもはこれを高塚たかつかとか、古墳こふんまをしてをります。そのうち一番いちばんふるかたちで、また一番後いちばんのちまでのこつてゐたのは圓形まるがたつかであります。いつたいまるつかは、どこのくにでもむかしからあるのでありまして、人間にんげん死體したいをまづ地上ちじよういたうへつちりかけると、自然しぜんまるつかかたち出來できるのでありますから、どこのくに人間にんげんでも、自然しぜんにかうしたつかつくることになるのであります。ところがこのまるつかを、つち死體したいうへをおほふばかりでなく、次第しだい立派りつぱつくるようになりまして、たかさもたかくなり、周圍しゆういもだん/\おほきくなつてきまして、あるひは鏡餅かゞみもちかさねたように、まるつか段々だん/\をつけたようなかたち出來できてまゐりました。しかし、世界中せかいじゆうどこにもあるこのまるつかほかに、日本につぽんでは他國たこくることの出來できない一種いつしゆかたつかつくられたのです。それはまるつかまへほうびて四角しかくになつたかたちで、ちょっとむかしくちひろつぼせて、よこからたようなかたちをしてゐるものであります。あるひはおちやをひく茶臼ちやうすかたちにもてゐるところがあり、またくるまかたちにもてゐますので、罐子塚かんすづかだとか、茶臼塚ちやうすづかとか、車塚くるまづかだとか、いろ/\のがついてをりますが、私共わたしども前方後圓ぜんぽうこうえんつかんでをります。それはまへ四角しかくうしろまるいといふ意味いみであります。このつか模型もけいとくいてありますから、それを御覽ごらんになるとよくわかります。またそのうしろまるいところと、まへ四角しかくなところとのつなぎめのところの兩側りようがはに、ちひさいまるをかがついてゐることがあります。それがいかにもくるま兩輪りようりんてゐますから、むかしひと車塚くるまづかといつたのは面白おもしろかただとおもひます。もっともこのかたち古墳こふんは、むかしでもえらひとはうむるためにつくつたものでありまして、天皇樣てんのうさまだとか、皇族こうぞく方々かた/″\御墓おはかおほもちひたのでありまして、下々しも/″\のものはやはり、まるつかもちひたのであります。そのおほきいものになりますと、周圍しゆうい十町以上じつちよういじようのものもあり、外側そとがはに、たいていほりをめぐらしてあります。このかたちつか日本にほんちか朝鮮ちようせん支那しなにおいても、けっしてることの出來できない、じつ日本獨特につぽんどくとくのものといつてよろしい。しかし、どうしてかようなかたちつか出來できたかといふことについては、種々しゆ/″\議論ぎろんもありますが、どうもはつきりはわかりません。(第五十一圖だいごじゆういちずした
 また一方いつぽうにはふるくからあるまるつかから、だん/\變化へんかして四角しかくかたち古墳こふん出來できましたが、この四角しかくかたちつかは、支那しなではふるしんかん時代じだいから天子てんしはかなどにあつたもので、それを日本につぽん支那しな交通こうつうはじめてからのちにまねたものがおほいようであります。そして天皇てんのう御陵ごりようなどにこの四角しかくかたちのおはかつくられるようになりました。それですから日本につぽんふるはかかたちは、まづまるいのと四角しかくなのと、前方後圓ぜんぽうこうえんなのとの三通みとほりといふことが出來できます。そのうちもつとふるくからあつたのは圓塚まるづか、そのぎに出來できたのが前方後圓ぜんぽうこうえん、それから最後さいご流行りゆうこうしてたのは四角塚しかくづかでありますが、この前方後圓ぜんぽうこうえん四角しかくかたちはやがてすたれてしまつて、奈良朝時代ならちようじだいからは、普通ふつう圓塚まるづかもつぱおこなはれるようになりました。
 さていままをしたいろ/\のかたち古墳こふんは、今日こんにちのこつてゐるものには、たいていまつ樹木じゆもくしげつて、遠方えんぽうからながめると、こんもりしたもりのようにえるのですが、むかしはそんなに樹木じゆもくえてゐたわけでなく、たいていそれらのつかうへには、まる磧石かはらいしせて、全體ぜんたいおほうてをつたものでありました。ちょうど今日こんにち明治天皇めいじてんのう大正天皇たいしようてんのう御陵ごりようにおいてをがめるように、樹木じゆもくえないようにしてあつたのです。それが年月としつきるにしたがつていしくづれたり、そのなかたねちてしたりして、つかうへ樹木じゆもくしげつてたのであります。もっともはか周圍しゆういなどには、むかしはおまゐりするときに、おそなものをしたり、おまつりをするために、いろ/\のものがいてあつたにちがひありませんが、それらの器物きぶつ今日こんにちではたいていつちうづもれてえなくなつたり、こはれてなくなつてしまつて、のこつてゐるものははなはすくないのであります。たゞ埴輪はにわといつて、ひとぞう動物どうぶつかたちつぼかたちつちつくつたものがならべてあつたことは、そののこものがあるのでわかります。またこれらのはかなかには、死骸しがいをぢかにれたのではなく、いしつくつた石棺せきかんだとか、いしつくつたおほきいいし部屋へやまうけられて、そのなか石棺せきかんあるひは木棺もくかんに、死骸しがいをさめてはうむられたのであります。わたしはこれからまづ、はかそとにめぐらしてあつた、埴輪はにわについておはなしをいたしまして、それからはかなか石棺せきかんや、いし部屋へやのことにはなしすゝめませう。

(ロ)埴輪はにわ石人せきじん

 さておとなりの支那しなでは、かん時代頃じだいころからのちはかなかつちつくつた人形にんぎよう動物どうぶつぞう、そのほかいろ/\の品物しなものかたちれ、また陵墓りようぼまへいしつくつた人間にんげん動物どうぶつぞうならべてかざりとすることが流行はやりだしましたが、日本につぽんでもまたふる前方後圓ぜんぽうこうえん古墳こふんつくられた時分じぶんにははかまへなどに、つちつくつた人間にんげん動物どうぶつぞうならべる習慣しゆうかんがありました。このつちつくつたぞう埴輪はにわものまをします。むかしからのつたへによりますと、垂仁天皇すいにんてんのうときに、天皇てんのう御弟倭彦命おんおとうとやまとひこのみこと薨去こうきよになつたさい、そのころ貴人きじんぬと、家臣かしんなどが殉死じゆんしといつて、おとも習慣しゆうかんがありましたので、おほくの家臣かしんみことのおともをしてきながら墓場はかばうづめられました。ところがなか/\れないので、そのかなしいごゑが、天皇てんのう御殿ごてんにまできこえてました。それで、天皇てんのう殉死じゆんし風俗ふうぞくはなは人情にんじようにそむいた殘酷ざんこくなことであるから、これはどうしてもやめなければならぬとおかんがへになりました。その數年すうねんて、皇后日葉酢媛命こうごうひはすひめのみこと御崩御ごほうぎよになりましたときに、野見宿禰のみのすくねといふものがありまして、天皇てんのう今後こんごつちでもつて人間にんげんぞうつくり、それを人間にんげんかはりにうづめましたならば、ふるくからつたはつてゐる風俗ふうぞくをも保存ほぞんし、また人間にんげんうづめにするような、可愛かわいそうなことをなくすることが出來できるとおもひますとまをげましたので、天皇てんのうは、それはまことによいおもひつきであると御賞おほめになつて、それからはつちつくつた人間にんげんなどのぞうはかそばうづめることになつたのだといふことです。元來がんらいはか周圍しゆういに、ひとつはつちくづれないように、もうひとつはかざりのために、つちつくつた筒形つゝがた陶器とうきならべてうづめるといふことは、その以前いぜんからもあつたようにおもはれますから、この野見宿禰のみのすくねのようなひとは、支那しなおこなはれたいしつくつた人間像にんげんぞう動物どうぶつぞう墓側はかそばてる風俗ふうぞくいて、それをつちつくることにかんがへついたのかもれません。この野見宿禰のみのすくねといふひとは、あの相撲すまふをはじめたといはれてゐるおなひとであります。とにかく埴輪はにわといふものが垂仁天皇すいにんてんのう御代前後みよぜんごからはじまつて、四五百年しごひやくねんぐらゐもつゞいたことはたしからしいのであります。この埴輪はにわといふ言葉ことばはにといふのは粘土ねんどといふことで、といふのはかたちならべることから名前なまへだといふことであります。それで私共わたしども古墳こふんつても、埴輪はにわ人形にんぎようや、筒形つゝがたのものゝ破片はへんなどが發見はつけんされたときには、そのつかがごくふるいこの時代じだいのものであることを、推定すいていすることが出來できるのであります。
[#「第五十二圖 日本古墳埴輪人物」のキャプション付きの図(fig18371_53.png、横×縦)入る]
第五十二圖 日本古墳埴輪人物

 さて埴輪はにわ筒形つゝがたのものは、はかをかのまはり、ときにはほり外側そとがは土手どてにも、一重ひとへ二重ふたへあるひは三重みへにも、めぐらされたのであり、またつか頂上ちようじようには家形いへがたや、それにおほきな埴輪はにわいたものであることは、いままでもわかつてをりましたが、人間にんげん動物どうぶつ埴輪はにわなどはどこへてたものか、はっきりしたことが、わからなかつたのであります。ところが、最近さいきん上野かうづけくにのある前方後圓ぜんぽうこうえん古墳こふんでは、周圍しゆういほり外側そとがは、ちょうどはかまへのところに、筒形つゝがたのものをながあひだ二重ふたへならべ、その一部分いちぶぶん人間にんげんうまとり埴輪はにわあつめててたのが發見はつけんされました。また、ある圓形えんけいはかではつかのまはりに筒形つゝがたならべ、そのまへのところに人形にんぎようてゝあるのがされました。それでだいぶよくわかつてましたが、つまりはかまへとか、はかまはりの要所々々ようしよ/\おもはれるところに、人間にんげんうまとりなどのぞうならべたものに相違そういありません。
[#「第五十三圖 日本古墳埴輪動物」のキャプション付きの図(fig18371_54.png、横×縦)入る]
第五十三圖 日本古墳埴輪動物

[#「第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他」のキャプション付きの図(fig18371_55.png、横×縦)入る]
第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他

 さてこの埴輪はにわはどういふものかといひますと、ほそ刷毛目はけめせんのはひつた赤色あかいろ素燒すやきでありまして、人間にんげんぞうはたいてい二三尺にさんじやくくらゐのたかさで、男子だんしもあり婦人ふじんもあります。そして男子だんしのものには、甲胄かつちゆうをつけつるぎいてゐるいさましいかたちをしたのがあり、婦人ふじんぞうには、かみむすたすきをかけ、なに品物しなものさゝげてゐるようなのもあります。そしてかほにはあかべにつたのだとか、すこ口元くちもとゆがめてかなしそうな表情ひようじようをしたものもあります。いづれもいたつて粗末そまつ簡單かんたん人形にんぎようで、あしほうはたいてい一本いつぽん筒形つゝがたになり、あしさきまであらはしてあるのはまれであります。しかし、そのうちに、なんともいへない無邪氣むじやきかほつきや樣子ようすをしてゐるところなど、いかにもむかしひとかざのないこゝろうかゞはれるばかりでなく、當時とうじひと風俗ふうぞくだとか服裝ふくそうなども、これによつてることが出來できますから、なか/\大切たいせつなものであります。ぎに動物どうぶつぞうにはうま一等いつとうおほく、それにはくつわだとかくらだとかの馬具ばぐをつけてゐるところがられます。またあしほうは、やはりたいてい筒形つゝがたになつて實際じつさいうまあしのようにはつくられてをりませんが、そこにかへって面白味おもしろみがあります。うまほか動物どうぶつぞうには、うしだとかさるだとかゐのしゝだとか、またかもにはとりなどもあり、なか/\面白おもしろいです。そののものにはいへかたちもあり、その屋根やねには、今日こんにち私共わたしども伊勢大神宮いせだいじんぐう建築けんちくるような、ちぎかつをぎせてゐるのもありますが、またつるぎゆきともゑといふようなものをしてあるのも發見はつけんされます。とにかくこの埴輪はにわといふものは、なか/\面白おもしろいもので、日本人につぽんじんつくつた一番いちばんふる彫刻物ちようこくぶつといふことが出來できむかしひと生活せいかつ風俗ふうぞくうへもつともよい材料ざいりようひとつであります。また埴輪はにわのあることによつて、そのつかのごくふるいこともわかるのでありますから、考古學こうこがく研究上けんきゆうじよう非常ひじよう大切たいせつなものとせられてをりますが、何分なにぶんはかそとてゝあつたので、なが年月としつきあひだ雨風あめかぜにさらされてこはれてしまひ、完全かんぜんのこつてゐるものがきはめてすくないのは殘念ざんねんなことであります。この部屋へやには、たゞいまはなしした人間にんげんうま埴輪はにわ實物じつぶつはじめ、いままでに發見はつけんされた面白おもしろ埴輪はにわ模型もけいなどが陳列ちんれつしてありますから、よく御覽ごらんになつて、今後こんご古墳こふん調しらべるときに、こんなものゝ破片はへんなどがちてゐるかどうかを注意ちゆういされるようにのぞみます。(第五十二だいごじゆうにさん四圖しず
[#「第五十五圖 石人」のキャプション付きの図(fig18371_56.png、横×縦)入る]
第五十五圖 石人

 また埴輪はにわ人形にんぎよううまおなかたちのものを、いしつくつておはかてたこともありました。これを石人せきじん石馬せきばなどゝまをしてをります。しかしこれは日本につぽんのごく一部いちぶおこなはれたゞけで、九州きゆうしゆう筑後ちくご肥後ひごなどに時々とき/″\ることが出來できます。筑後ちくごにはむかし繼體天皇けいたいてんのう御時おんとき磐井いはゐといふつよひとがをつて、朝鮮ちようせん新羅しらぎくに同盟どうめいして、天皇てんのうめいそむいたので、とう/\征伐せいばつされてしまひましたが、このひときてゐる時分じぶんから、いしでおはかつくり、いし人形にんぎようなどをてゝ、豪勢ごうせいしめしてゐたといふことが、ふる書物しよもつにでてをります。ちょうどこの磐井いはゐのをつた地方ちほうに、いま石人せきじん石馬せきばおほのこつてゐるのは面白おもしろいことです。(第五十五圖だいごじゆうごず

(ハ)石棺せきかん石室せきしつ

 古墳こふんかたちと、それから外側そとがはつてゐた埴輪はにわについて、たゞいま一通ひととほりおはなししたのでありますが、これからは、古墳こふん内部ないぶにある石棺せきかん石室せきしつのおはなしをいたしませう。日本につぽん古墳こふん元來がんらい小高こだかをかうへなぞにすこしくくはへたまるつかだとか、前方後圓ぜんぽうこうえんつかきづいたのでありまして、その頂上ちようじようにはいしかんをさめるといふのが普通ふつうのやりかたでありました。またなかには粘土ねんどかためたかんのようなものもありました。そしてこの石棺せきかんといふものは、一番いちばんはじめは、自然しぜんうす板石いたいしあはせてつくつた、ちひさなはこのようなものにすぎませんでしたが、それがだん/\おほきないしもちひることになり、つひにはなが一間以上いつけんいじようもある、おほきな長持ながもちのようなかたちをしたものがつくられるようになりました。こんなおほきい石棺せきかんになりますと、そのいし運搬うんぱんするのに不便ふべんでありますから、いしのまはりにいぼのような突起とつき數箇所すうかしよけて、はこぶのにつごうよくしてをりますが、のちにはその突起とつきがまたかざりの意味いみにも役立やくだつことになつたのであります。またそのぎにはいしあはせてかんつくることをしないで、ふたとは別々べつ/\として、いしをくりいて、おほきなかんつくるように進歩しんぽしてました。このるい石棺せきかんふたは、いへ屋根やねかたち出來できてゐるのもあり、またたけふたつにつたかたちをしてゐるのもあります。もっとも、このふたにはやはりいまはなしした突起とつき四隅よすみいてゐるのが普通ふつうであります。(第五十六圖だいごじゆうろくず)このような石棺せきかんはなか/\おほきく、立派りつぱなものでありまして、そのなかには、死者ししやのふだん所持しよじしてゐた大切たいせつ品物しなものをも、いつしょにをさめたのでありますが、何分なにぶん空氣くうきかんなか侵入しんにゆうするので、今日こんにちこれをけててもほねのこつてゐるのはごくまれであつて、わづかにのこつてゐるくらゐであります。しかし死者ししやともはうむつた品物しなものはたいていのこつてをります。それらの品物しなものについてはのちべることにいたします。この石棺せきかんほかに、陶棺とうかんといつてあか埴輪はにわのようなものかんがあります。それはごくふる時代じだいにもあつて、その時分じぶんはたゞおほ[#ルビの「おほ」は底本では「おは」]きなかめつぼあはせて使つかつたのですが、のちには石棺せきかんをまねて、やはり家形いへがたおほきなかん出來できました。(第五十七圖だいごじゆうしちず
[#「第五十六圖 日本古墳石棺」のキャプション付きの図(fig18371_57.png、横×縦)入る]
第五十六圖 日本古墳石棺

[#「第五十七圖 日本古墳陶棺」のキャプション付きの図(fig18371_58.png、横×縦)入る]
第五十七圖 日本古墳陶棺

 いまおはなししたような石棺せきかんつかをさめるときには、ぢかにつちなかうづめたものもありますが、たいていは石棺せきかんまはりにあた場所ばしよに、まづ石圍いしかこひをして、そのなか石棺せきかんれ、うへふたをしたのであります。これを竪穴式石室たてあなしきせきしつんでゐるひとがありますが、じついし部屋へやといふほどのものではなく、たゞ簡單かんたんいしかこひにすぎないのであります。ところが、その多分たぶん朝鮮ちようせん支那しなふうつたはつたのでありませうが、よこからはひるながいし部屋へやつかなかつくられることになりました。このいししつは、圓塚まるづかではたいていそのまへほうみなみいたものがおほいのですが)にくちひらいてをり、前方後圓ぜんぽうこうえんつかでは、うしろほうまるをかよこぐちひらいてゐるのが普通ふつうであります。この石室せきしつおほきさやかたちは、いろ/\種類しゆるいがありますが、なかには綺麗きれいいしつくつたものもありますし、また、さうくはへないおも何噸なんとんといふほどのおほきないしもちひて、つくつたのもすくなくはありません。この石室せきしつぐち一體いつたいひくせまくて、大人おとなからだをかゞめてはひらねばならぬくらゐですが、内部ないぶひろくて天井てんじよう人間にんげん身長しんちようよりもたかいのが普通ふつうで、なかには身長しんちよう二倍にばいぐらゐのものもあります。この石室せきしつつくかた西洋せいようの『どるめん』あるひは『いし廊下ろうか』といふものに非常ひじようてゐますけれども、日本につぽんのは西洋せいようのものゝようにふるいものではなく、また本當ほんとうの『どるめん』といふほど簡單かんたんなものは、日本につぽんではほとんど見當みあたりません。(第五十八だいごじゆうはち九圖くず
[#「第五十八圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_59.png、横×縦)入る]
第五十八圖 日本古墳石室

[#「第五十九圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_60.png、横×縦)入る]
第五十九圖 日本古墳石室

 石室せきしつなかには、たいてい石棺せきかんひとれてありますが、またふた以上いじよう石棺せきかんれたのもあります。たとへば河内かはちにある聖徳太子しようとくたいし御墓おはかには、太子たいし母后ぼこうと、太子たいしきさき三人さんにん御棺おかんれてあるとのことです。またなかには死者ししや石棺せきかんでなく木棺もくかんにいれてはうむつた石室せきしつおほくあります。これは木棺もくかんはくさつてしまつても、それに使つかつたてつくぎなどがのこつてゐるのでわかります。元來がんらい以前いぜんひとつのつかには一人ひとりしかはうむらなかつたのが、この石室せきしつつく時代じだいになつてからは、一人ひとりだけをはうむ場合ばあひもありましたが、家族かぞくものをもひとつの石室せきしつはうむふう出來できたかとおもはれます。みなさんは、かようないしむろにはひつたことがありますか。おほきい石室せきしつ奧行おくゆきが十間近じつけんちかくもあり、室内しつない眞暗まつくらですからたいそう氣味きみわるいものでありますが、蝋燭ろうそくともしたり、懷中電燈かいちゆうでんとうたづさへてきますと、内部ないぶ模樣もようがよくわかります。内部ないぶ案外あんがい綺麗きれいでありますから、ちょっとこゝで住居じゆうきよしてもよいとおもふほどであります。道理どうりときには乞食こじきなどが、この石室せきしつんだりしてをります。ふゆあたゝかくてなつすゞしいので、住居じゆうきよにはまをぶんがないといふことです。
[#「第六十圖 吉見百穴」のキャプション付きの図(fig18371_61.png、横×縦)入る]
第六十圖 吉見百穴[#「吉見百穴」は底本では「横見百穴」]

 また古墳こふんなかには横穴よこあなといつて、やまがけのようなところに、よこあなをあけたのがあります。つまりつかをこしらへるのを儉約けんやくして、自然しぜんがけ利用りようし、たゞ部屋へやだけをつくつたものといふことが出來できます。これはたいていひとつところにおほくのあな群集ぐんしゆうして、なかにははちのようにたくさんの横穴よこあなのこつてゐるのもあります。その名高なだかいものには埼玉縣さいたまけん吉見よしみ百穴ひやくあなといふのがあります。以前いぜんはこの横穴よこあなをば、人間にんげん穴住居あなずまゐをしてゐたあとだとかんがへてをりましたが、やはりむかしひと墓場はかばなのです。それですからこの横穴よこあな古墳こふん石室せきしつおな意味いみのものでありまして、そのつくかた大體だいたい[#ルビの「だいたい」は底本では「だいてい」]においてよくてをります。しかしたいていはそれほどおほきくはなく、四角しかくあるひはまる部屋へやひとつあるくらゐですが、ときめづらしいのになりますと、横穴よこあななか石棺せきかんつくつてあつたり、いしとこ三方さんぽうまうけて死體したいくようになつてあつたり、天井てんじよう家屋かおく屋根やねをまねてあるのもあつたり、内部ないぶ刀劍とうけんかたちつたものなどがあります。しかしまづそんなのは例外れいがいであつて、普通ふつうはなんの裝飾そうしよくもなく簡單かんたんちひさなあなぎません。(第六十一圖だいろくじゆういちず
[#「第六十一圖 日本古墳横穴」のキャプション付きの図(fig18371_62.png、横×縦)入る]
第六十一圖 日本古墳横穴
(1)入口(肥後) (2)内部(加賀)

(ニ)上古じようこ帝陵ていりよう

 いままでわたしはわがくに古墳こふんかたち構造こうぞうについてべてまゐり、ぎには古墳こふんから發見はつけんせられる、いろ/\の品物しなものについておはなしをするつもりでありますが、そのまへにごくふる時代じだい天皇樣てんのうさま御陵ごりよう、すなはち『みさゝぎ』について、すこまをげたいとおもひます。
[#「第六十二圖 蒲生君平」のキャプション付きの図(fig18371_63.png、横×縦)入る]
第六十二圖 蒲生君平

 元來がんらい日本につぽん古墳こふん研究けんきゆうは、かの高山彦九郎たかやまひこくろう林子平はやししへいなどゝとも寛政かんせい三奇士さんきしといはれた蒲生君平がまうくんぺいが、御歴代ごれきだい御陵ごりようこはれたり、わからなくなつてゐるのをなげいて、自分じぶん各地かくち御陵ごりよう探索たんさくし、つひに『山陵志さんりようし』といふほんあらはしたりしたころから、御陵ごりよう研究けんきゆうにつれておこつたのでありました。そして明治めいじ時代じだいになつて、いろ/\日本につぽん學者がくしや研究けんきゆうをはじめ、また大阪おほさか造幣局ぞうへいきよくてをつた英國人えいこくじんのゴーランドといふひとなどが、やりしたのでありました。ところがふる時代じだい天皇てんのう御陵ごりようは、日本につぽん古墳こふんのうちでもつとおほきく、またもつと立派りつぱ代表的だいひようてきなものでありますから、古墳こふん研究けんきゆうするには、ぜひこれらの御陵ごりようをがんで、それをよく調しらべなければならず、こと古墳こふん時代じだいるには、御陵ごりようなによりの標準ひようじゆんとなるのであります。わたしなども少年しようねんのころ、御陵ごりよう巡拜じゆんぱいするといふようなことから、つい/\考古學こうこがく興味きようみおぼえるようになつた次第しだいであります。
 さて日本につぽん上古じようこから奈良朝ならちようごろまでの御陵ごりようが、どういふかたちつかから出來できてゐるかといふことをおはなしいたしませう。かの神代かみよ三神さんしん瓊瓊杵尊にゝぎのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみことそれから※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)※(「滋のつくり+鳥」、第3水準1-94-66)草茅葺不合尊うがやふきあへずのみこと御陵ごりようは、今日こんにち九州きゆうしゆうみなみ日向ひうが大隅おほすみ薩摩さつまほうさだめられてありますが、それは神代しんだい御陵ごりようでありますからいままをしません。ぎに第一代だいゝちだい神武天皇じんむてんのう御陵ごりようは、大和やまと畝傍山うねびやまふもとにあることはみなさんもつてをられるとほりであります。しかし、この神武天皇じんむてんのう御陵ごりようひさしくれはてゝをつて、じつはそのかたちもよくわかりませんし、場所ばしよについてもいろ/\のせつがありますが、とにかくあまりおほきくないまるつかであつたとおもはれます。それから六七代ろくしちだいばかりの天皇てんのう御陵ごりよう大和やまとみなみほうにありますが、やはりまるつかであつたらしいのです。第十代だいじゆうだい崇神天皇すじんてんのうと、ぎの垂仁天皇すいにんてんのうころから、まへかくうしろまる前方後圓ぜんぽうこうえん立派りつぱ車塚くるまづかが、きづかれるようになつたことはうたがひありません。その垂仁天皇すいにんてんのうときに、あの野見宿禰のみのすくね埴輪はにわつくつたとつたへられてゐることはまへまをしました。それからくだつて景行天皇けいこうてんのう成務天皇せいむてんのうまた神功皇后じんぐうこう/″\[#「神功皇后の」は底本では「神后皇后の」]御陵ごりようなどは、みな奈良ならみなみあるひは西にしほうにありまして、やはりおほきな前方後圓ぜんぽうこうえんつかでありますが、仲哀天皇ちゆうあいてんのう應神天皇おうじんてんのういたつて、はじめて河内かはち南方なんぽう御陵ごりようがつくられ、ぎの仁徳天皇にんとくてんのうから三代さんだいばかりは、むかし河内かはちくにであつたがいま和泉いづみくに北方ほつぽうさかひ附近ふきん御陵ごりようまうけられることになりました。ところがこの應神おうじん仁徳兩天皇にんとくりようてんのう御陵ごりようは、日本につぽん御陵中ごりようちゆうでも一番いちばんおほきい立派りつぱ前方後圓ぜんぽうこうえんつかまをすべきで、なかにも仁徳天皇にんとくてんのう御陵ごりよう周圍しゆうい約半里やくはんりくらゐもあり、世界中せかいじゆうにかようなおほきな古墳こふんは、エヂプトのぴらみっとのぞいてはあまりないかとおもはれます。そしてこの御陵ごりようのごときは、二重ふたへほりをめぐらし、その周圍しゆういには陪塚ばいちようといつて臣下しんかひとだちのはかがたくさんならんでをります。とほくからますと小山こやまのようであり、ちかくにきますとおほきなまつ御陵ごりようのまはりにしげつてじつ神々かう/″\しく、參拜者さんぱいしやたれでもその威嚴いげんたれるのであります。(第六十三圖だいろくじゆうさんず
「第六十三圖 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵」のキャプション付きの図
第六十三圖 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵
大阪府堺市東郊
(1)遠望 (2)御拜所

 仁徳天皇にんとくてんのう御陵ごりようと、應神天皇おうじんてんのう御陵ごりようとは、そのおほきさがすぐれてゐるばかりでなく、歴史上れきしじようからてももつともたしかなもので、これが標準ひようじゆんになつてわれ/\は、そのころ日本につぽん前方後圓ぜんぽうこうえんつかさかんにおこなはれ、そして埴輪はにわかざられてをつたことなどをることが出來できるのであります。それゆゑ考古學こうこがくうへからももつと貴重きちよう御陵ごりようまをさなければなりません。
 それから六七代ろくしちだいあひだ、かの佛教ぶつきよう日本につぽんにはひつて時分じぶん敏達天皇頃びだつてんのうころ[#ルビの「びだつてんのうころ」は底本では「びんたつてんのうころ」]までは、すこかたちちひさくなりましたけれども、やはり御陵ごりようはみな前方後圓ぜんぽうこうえんつかでありました。ところが用明天皇ようめいてんのう推古天皇すいこてんのう、すなはち聖徳太子しようとくたいしころ天皇てんのうから天智天皇頃てんちてんのうころまでは、支那しな影響えいきようけた四角しかくつか御陵ごりようおこなはれて、まったく樣子ようすかはつてました。いままをした天皇樣てんのうさま御陵ごりようはたいてい大和やまとから河内かはちなどにありますが、天智天皇御陵てんちてんのうごりよう山城やましろくに京都きようとひがしほうにありまして、四角しかくつか上部じようぶまるくなつてゐるといふことであります。この天智天皇御陵てんちてんのうごりようにかたどつて、明治天皇めいじてんのう昭憲皇太后しようけんこうたいごう[#「昭憲皇太后」は底本では「照憲皇太后」]大正天皇たいしようてんのう御陵ごりようなどもつくられたといふことであります。あなたがたはこの御陵ごりようへは參拜さんぱいしたことがありませうが、あゝいふふう出來できてをつたのです。
 その奈良朝ならちようから平安朝へいあんちようはじめの御陵ごりようになりますと、またむかしにかへってまるかたちつかになりました。そして佛教ぶつきようさかんになつててからは御陵ごりよういつそう簡單かんたんになり、またのちには火葬かそうおこなはれまして、ちひさな御堂おどういしとう御陵ごりようてることになり、ことに武家ぶけ勢力せいりよくめるにいたつた時代じだいからは、皇室こうしつ御陵ごりようはなはちひさなものになつてしまつたのです。それにきかへて日光につこうにある徳川氏とくがはしびようがあのとほり立派りつぱなのをて、蒲生君平がまうくんぺいなどが憤慨ふんがいして尊王そんのうねんおこしたので、まことにむりのないことであります。それはとにかく、われ/\は日本につぽんふる時代じだい御陵ごりよう巡拜じゆんぱいすれば、一方いつぽう日本につぽん[#ルビの「につぽん」は底本では「たつぽん」]古墳こふんつくかた變遷へんせんをもることが出來でき歴史れきし研究けんきゆうにも非常ひじようやくつわけでありますから、わたしみなさんがたゞたかやまなどにのぼるばかりでなく、遠足えんそくのときにはかういふ方面ほうめんへもかけることをおすゝめいたします。

(ホ)勾玉まがたまなどの玉類たまるい

 さてはなしまへもど古墳こふんなかには、どういふものがうづめられてゐるかとまをしますと、石棺せきかんあるひは石室せきしつなか死體したいをさめてあつたところ、しかももっともそのからだちかいところにあるものはそのひとにつけてあつた著物きものかざものとであります。しかし著物きものはみなくさつてしまつてのこつてをりませんが、かざものうち一番いちばんつのは、まづ勾玉まがたまその玉類たまるいであります。これはたいていかたいしがらすつくつてあるので、そのいろもかはらず完全かんぜん保存ほぞんせられてをり、それで發掘はつくつされたとき、たれにでもすぐににつき發見はつけんされやすいのであります。
 これらの玉類たまるいは、もとはむすびつらねて、くびからむねあるひは手頸てくび脚頸あしくびなどに[#「脚頸などに」は底本では「脚頸なとに」]めぐらしたものであることは、埴輪人形はにわにんぎようあらはされてゐるのをてもわかります。
 さて玉類たまるいなかでも一番いちばん大切たいせつなものは勾玉まがたまであります。勾玉まがたまが、八坂瓊やさかに勾玉まがたままをして、三種さんしゆ神器じんぎひとつにもかぞへられてゐることは、みなさんもよくつてをられるでせうが、このたまかたちあたままるくて尻尾しりをまがり、ちょっと英語えいごの『こんま』のようなかたちをしてゐます。おほきなものになりますと、ながさが三寸さんずんにもたつするものもありますが、普通ふつう一寸いつすんから一寸五分前後いつすんごぶぜんごのものであります。そしてそのいしは、ごくふる時分じぶんには、日本につぽん産出さんしゆつしない支那傳來しなでんらい硬玉こうぎよく翡翠ひすい青瑯※(「王+干」、第3水準1-87-83)せいろうかん)といふ半透明はんとうめいうつくしい緑色みどりいろいしつくられてあつて、なか/\綺麗きれいなものでしたが、やゝのち時代じだいになると、出雲いづもくにあたりから碧玉へきぎよくといふ青黒あをぐろいしもちひられ、さらにのちになると、あか瑪瑙めのう普通ふつう使つかはれるようになりました。またこの一番後いちばんのち時代じだい奈良朝ならちようごろになると、勾玉まがたまかたちがコといふかたちのように、かくばつてうつくしくありませんが、ふる時代じだい勾玉まがたまはなか/\優美ゆうびかたちをして、そのあたまあなのところに、みつよつつのがつけてあるのが普通ふつうです。この丁字頭ちようじがしらまをします。ですからみなさんは勾玉まがたまても、どういふのがふるいか、またどういふのがあたらしいかを、それでることが出來できるのであります。また近頃ちかごろつくつたあたらしい勾玉まがたま模造品もぞうひんは、そのあなまつすぐに筒形つゝがたにあいてゐますが、ふる勾玉まがたまはたいてい一方いつぽうあるひは兩方りようほうから圓錘形えんすいけいちかあなひらいてをり、このあなのあけ工合ぐあひでも、ほんとうにふるいものか、僞物にせものであるかゞわかるのであります。
 勾玉まがたまは、むかし非常ひじよう貴重きちようにされたものとえて、日本につぽんではひとつの古墳こふんからあまりたくさん發見はつけんせられません。これにはんして、わりあひにたくさんてくるのは管玉くだたまといふたまです。これはくだかたちをした筒形つゝがたたまでありまして、そのながさは一寸前後いつすんぜんごのものが普通ふつうです。いしはみな出雲いづもから碧玉へきぎよくつくつてあります。むかし管玉くだたまのことをたかだまといつたのですが、それは竹玉たけだまといふ意味いみであつて、このあを碧玉へきぎよくもちひたのは、ちょうど青竹あをだけつて使つかつたのをまねたからだといはれてをります。なほ管玉くだたまうちでごくふるいものには、非常ひじようほそくて、直徑ちよくけい一分前後いちぶぜんごのものがおほいのでありますが、時代じだいがやゝくだりますと、だん/\ふとくなつてまゐります。
 管玉くだたまぎにたくさんるものに、だまといふのがあります。これはほとんどみな水晶すいしようつくつてありまして、六角ろつかくあるひは八角はつかく方錘形ほうすいけいを、そこほうふたつつないだ恰好かつこうになつてをります。そのほか玉類たまるいには棗玉なつめだま丸玉まるだま平玉ひらだま小玉こだまなど、いろ/\の種類しゆるいがありますが、これらのちひさいたまおほ紺色こんいろ、あるひは緑色みどりいろがらすつくつてあるのが普通ふつうであります。これによつても、この時分じぶんからすでにいろがらすがつくられたことがよくわかりますが、無色透明むしよくとうめいいたがらすはまだ世界中せかいじゆうどこにもありませんでした。かようなたま古墳こふん發掘はつくつせられたとき、たいていつちなかまじつてゐますから、すぐにつからないことがあります。それでつちふるひにかけてよくさがさなければなりません。(第六十四だいろくじゆうし五圖ごず
[#「第六十四圖 日本古墳發見勾玉」のキャプション付きの図(fig18371_65.png、横×縦)入る]
第六十四圖 日本古墳發見勾玉

[#「第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り」のキャプション付きの図(fig18371_66.png、横×縦)入る]
第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り

 いままをした、いろ/\の種類しゆるいたまなかで、勾玉まがたま日本以外につぽんいがいでは、たゞ朝鮮ちようせん南方なんぽうからるだけで、くにではほとんど發見はつけんせられませんから、まづ日本獨特につぽんどくとくたまといふことが出來できます。ところがこの面白おもしろ勾玉まがたまかたちが、どうして出來できたのであるかといひますと、むかしひとりをしてけだものをとり、そのきばあなをあけてかざりにした風習ふうしゆうつたはつて、そのきばかたちまがつたのをまねて、次第しだい勾玉まがたまうつくしいかたちになつたのだと、おほくの學者がくしやはいつてをります。かういふあなをあけた獸類じゆうるいきばは、日本につぽん石器時代せつきじだい遺跡いせきや、また外國がいこく遺跡いせきからもずいぶんたくさん發見はつけんせられますが、勾玉まがたまのようにうつくしいかたちたまは、外國がいこくではまったくられません。またたまからだにつけてかざ風習ふうしゆうは、世界せかいいづれのくににもありますが、日本につぽん支那しななどにくらべて、よけいにたまあいしたとえて、支那しなはかからはそれほどたくさんのたま發見はつけんせられることはありません。なほ玉類たまるいのほかにからだへつけた裝飾品そうしよくひんには、金鐶きんかんといふどうめっきをしたかんがありまして、これはたいてい一對いつゝひづゝるので、多分たぶん耳飾みゝかざりなどに使つかつたものとおもはれます。またこのかんはーとがたなどのこまかいかざりがぶらさがつてゐる、立派りつぱ耳飾みゝかざりが時々とき/″\ることがありますが、これは南朝鮮みなみちようせん古墳こふんからたくさん發見はつけんせられるもので、朝鮮風ちようせんふうのものといふことが出來できます。(第六十五圖だいろくじゆうごず

(ヘ)ふるかゞみ

 古墳こふんからどうつくつたかゞみがたくさんますが、ことにふる時代じだい古墳こふんには多數たすうかゞみかんなかれてあるのでありまして、ときにはひとつの古墳こふん十枚じゆうまい二十枚にじゆうまいあるひはそれ以上いじようあることもあります。そして、そのかゞみはたいてい支那しな出來できたものであり、ときにはまた日本につぽんつくつたかゞみもありますが、それもまったく支那しなかゞみをまねてつくつたものであります。ところが支那製しなせいかゞみみな、そのころ大陸たいりくから輸入ゆにゆうされたものでなくてはなりませんが、不思議ふしぎなことには朝鮮ちようせんみなみむかし新羅しらぎくに古墳こふん日本につぽん古墳こふんとよくてゐて、そのなかから勾玉まがたまのような日本特有につぽんとくゆうのものもるにかゝはらず、かゞみいたつてはほとんどまったく發見はつけんせられないのです。王樣おうさまはかおもはれる立派りつぱはかでも、かゞみ一枚いちまいされないのは、じつ奇妙きみようおもはれますが、まさか新羅しらぎひとでもかゞみ使つかはず、お化粧けしようをしなかつたとはおもはれませんので、かゞみもちひてゐたけれども、死人しにんかんなかに、なにかの理由りゆうれなかつたものとかんがへられます。しかしぎの高麗かうらいといふ時代じだいはかからはかゞみがたくさんます。とにかくかゞみむかし支那しなでもかほうつすばかりのものではなく、これをつてゐると、惡魔あくまけるといふようなかんがへがあつたので、はかをさめたのもさういふ意味いみがあつたかもれないのです。かように新羅しらぎひとかゞみ使つかつたにしても、はかうづめないから、支那しなからたくさんのかゞみがはひつてたとはおもはれません。それゆゑ日本につぽん支那しなかゞみは、朝鮮ちようせんないでおそらく南支那邊みなみしなへんから、直接ちよくせつたものとおもはれます。
 さて支那しなではしゆうのすゑしん時代頃じだいころから、かゞみつくられてゐたらしいのでありますが、かん時代じだいになつてから非常ひじようにたくさんにつくられ、六朝時代りくちようじだいとう時代じだいまで、さかんに立派りつぱかゞみあらはれましたが、そのそう時代じだいからは、だん/\まづ粗末そまつなものになつてしまひました。またかゞみかたちとう時代頃じだいころまではおほまるかゞみでありまして、あの花瓣かべんのように周圍しゆういれてゐる八稜鏡はちりようきようとか八花鏡はつかきようといふかたちかゞみは、まったくとう時代じだいになつてはじめて出來できたものであり、またのついたかゞみ四角しかくかゞみも、とうそう以後いごのものであります。それに世間せけんでは三種さんしゆ神器じんぎなかにある御鏡みかゞみを、八稜鏡はちりようきようのような恰好かつこうのものとおもひとがあるのは間違まちがひで、もちろん、たれもこれをはいしたひとはないのでありますが、ふる時代じだいかゞみでありますれば、かならまるかゞみでなければなりません。(第六十七圖だいろくじゆうしちず
[#「第六十六圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_67.png、横×縦)入る]
第六十六圖 日本支那古鏡

[#「第六十七圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_68.png、横×縦)入る]
第六十七圖 日本支那古鏡

 さて古墳こふんなかからかゞみは、ちょうどかんから六朝時代りくちようじだいかゞみでありまして、その裏面りめんかほうつめん反對面はんたいめんには、たいていまるじゆうがあつて、その周圍しゆういにはいろ/\の模樣もようきざまれてゐます。時代じだいかはるにしたがつてこの紋樣もんようもだん/\かはつてくのでありますが、かん時代じだいかゞみには、曲線きよくせん直線ちよくせんをあつめた模樣もようや、寫生的しやせいてきでない動物どうぶつかたちなどがあらはれてをります。そこにならべてあるかゞみ御覽ごらんになればよくわかりますが、かような模樣もようをつけた支那しなかゞみ非常ひじようによく出來できてゐますのに、そのころ日本につぽん出來できかゞみはまだつくかたまづいので、たいへん見劣みおとりがいたします。たとへば模樣もようなかにある支那文字しなもじでも、日本製につぽんせいかゞみにはなんだかわからないかたちになつたり、模樣もようもはつきりいたしません。それでこれをよくますと日本製につぽんせい支那製しなせいかの區別くべつはわかるのであります。またそれらのかゞみをおはかれるときには、はじめはふくろのようなものにをさめてれたに相違そういなく、いま發見はつけんされるかゞみはしくさつたぬのはしいてゐるのをても、それをることが出來できます。(第六十六圖だいろくじゆうろくず
 古墳こふんからは、かんから六朝頃りくちようころまでのかゞみと、それを摸造もぞうした日本製につぽんせいかゞみとがるだけで、唐以後とういごかゞみはほとんど發見はつけんされないといつてもよろしい。しかしかゞみは、もちろんそのころでももちひられてゐたので、たゞはかあまれなかつたものとおもはれます。しかし日本につぽんでは平安朝以後へいあんちよういごになりますと、とうかゞみ模樣もようをだん/\變化へんかさせて、つひにはまったく日本的につぽんてきのごく優美ゆうび模樣もようをつけたかゞみつくるようになりました。さういふかゞみ古墳こふんからはませんけれども、經塚きようづかといつて、おきようなどをうづめたのち時代じだいつかからよく發見はつけんされます。まへには日本製につぽんせいかゞみ支那製しなせいくらべて非常ひじようまづかつたのが、この平安朝へいあんちようから足利時代あしかゞじだいになつて、支那しな同時代どうじだいかゞみくらべて、かへってうま出來でき、なか/\すぐれたところがあるのであります。この日本製につぽんせいかゞみ和鏡わきようまをしてをります。つまりそれは日本につぽんがその時代じだいになつて、だん/″\文化ぶんかすゝんで技術ぎじゆつすぐれてつたことをしめす、なによりもよい證據しようこであります。

(ト)刀劒とうけん甲冑かつちゆう

 いまおはなしした古墳こふんからかゞみ青銅せいどうつくつてあるので、青色あをいろさびてをつても、くさつたものはすくなく、たいていこはれないでつちなかからます。ところが古墳こふんれてあつたかたなつるぎるいになりますと、そのかず非常ひじようにたくさんありますが、中身なかみがみなてつですから赤錆あかさびになつて、ぼろ/\にくさつてしまひ、完全かんぜんすことはよほどむつかしいのであります。たゞさやうへかざつてあつた、きんめっきをしたどうなどの部分ぶぶんだけが、わりあひによくのこつてゐるだけであります。さてこの時分じぶん刀劍とうけんは、みなまつすぐで、のち時代じだいかたなのようにりがありません。また源頼朝みなもとのよりとも義經よしつねなどの時代じだいからのちになりますと、みなさんもつてゐるとほり、日本刀につぽんとうといふものがさかんにつくられて、支那しなへも輸出ゆしゆつされたくらゐでありましたが、このふる時代じだいではかへって支那しな朝鮮ちようせんからよい刀劍とうけん輸入ゆにゆうされたであります。
 刀劍とうけんかたちは、たいていたいしたちがひはありませんが、つかかたちにはいろ/\ことなつたものがありまして、そのうちめづらしいものには、『くぶつち』のつるぎといふのがあります。これはつかあたまつちあたま、あるひはこぶしげたようなかたちをしてゐるもので、おほくはきんめっきをしたどう出來できて、非常ひじようにきれいなものであります。かういふふうなつくりのつるぎは、支那しなにも朝鮮ちようせんにもつかりませんので、まづ日本につぽんはじめて出來できたものだらうとおもはれます。そのぎに環頭かんとうつるぎといふのがあります。これはつかあたまのところがかんかたちをして、そのなかとりけだものや、あるひははなかたちがついてゐるものであります。この種類しゆるいのものは朝鮮ちようせん支那しなからもますので、おほくはかのから日本につぽん輸入ゆにゆうしてたものか、またそれを摸造もぞうしたものであるとおもはれます。それからまた、日本につぽんつくられたとおもはれるものに、蕨手わらびてつるぎといふのがありますが、これはおほきなつるぎにはなくて、ちひさいかたなにたくさんありまして、つかあたまわらびのようにまがつてゐるものであります。(第六十八圖だいろくじゆうはちず
[#「第六十八圖 日本古墳發見刀劔」のキャプション付きの図(fig18371_69.png、横×縦)入る]
第六十八圖 日本古墳發見刀劔

 以上いじようべた、いろ/\の刀劍とうけんこしらへは、たいていきんめっきをしたどうつくつたものであつて[#「あつて」は底本では「あつつて」]、そのなかには『くぶつち』のように日本獨特につぽんどくとくこしらへもありますが、おほくは支那しな朝鮮ちようせんのもの、もしくはそれをまねたもので、かような外國風がいこくふうのものを、その時分じぶんひとよろこんでもちひたのはむりもありません。しかしまた一方いつぽうには、日本につぽんふるくからおこなはれてゐたつくりの刀劍とうけんもやはりもちひられてゐたものであります。たとへばつるぎつかのところを鹿しかつの裝飾そうしよくし、そのうへ外國がいこくではられない直線ちよくせん弧線こせんあはせた模樣もようをつけた日本風につぽんふう刀劍とうけんが、外國的がいこくてき刀劍とうけん同時どうじもちひられてゐたのであります。これはそれらの刀劍とうけんおなはかから、いつしょに發見はつけんされることでよくわかります。
 むかしひとは、今日こんにち田舍ゐなかきこり農夫のうふやまときに、かまをのこしけてゐるように、きっとなに刃物はものつてゐたものとおもひます。またみなさんが學校がつこうとき鉛筆えんぴつをけづつたりする場合ばあひないふ必要ひつようであるように、むかしひとつね小刀こがたなつてをりました。その小刀こがたな刀子とうすまをしますが、それが墓場はかばからたくさん發見はつけんされます。この刀子とうすをとこばかりでなく、をんなひともおまもりにつてゐたとおもはれますが、そのさやでつくつたものゝほかに、のついたかはあはせてつくつたものが、一般いつぱんおこなはれてゐたようです。そしておはかなかにほんとうの刀子とうすをさめたばかりでなく、いしでつくつた刀子とうすで、ちょっとるとなんのかたちだかわからぬかたちをしたものをも、たくさんうづめたのでありました。それがやはり古墳こふんからるのであります。(第七十三圖だいしちじゆうさんず
 さて刀劍とうけんるくらゐでありますから、甲胄かつちゆうもまたはかなかからたくさんるのです。これはたいていてつつくつたものでありまして、のち時代じだいよろひ劍道けんどうのおどうたようなものであります。なにぶんうすてついたでつくり、これをかはひもむすあはせたものでありますから、いまではぼろ/\にこはれて、完全かんぜんのこつてゐるものはまれであります。もちろんこのてつ甲胄かつちゆうほかに、革製かはせいのものもあつたとおもはれますが、これはとっくにくさつてしまひ、いまのこつてをりません。しかし、これらの甲胄かつちゆうをどういふふうにけてゐたかといふことは、あの埴輪人形はにわにんぎよう甲胄かつちゆうよそほふたのがのこつてをりますので、それを大體だいたい恰好かつこう想像そうぞうすることが出來できます。(第六十九圖だいろくじゆうくず
[#「第六十九圖 日本古墳發見甲胄」のキャプション付きの図(fig18371_70.png、横×縦)入る]
第六十九圖 日本古墳發見甲胄

(チ)馬具ばぐ土器どきその

 たゞいままでおはなしをしましたたまかゞみつるぎなどは、たいてい古墳こふんなかにある石棺せきかんうちか、石室せきしつなか死體したいのごくそばに、をさめてあつたものでありますが、なほ石棺せきかんそと石室せきしつなかには、その時代じだいひとたちのもちひてゐたいろ/\の品物しなものをさめてあります。そのなかでもまづにつくのは、うま使つかつた馬具ばぐるいであります。これにはてつつくつたくつわだとかくらだとか、そのほかのものがありますが、くつわには兩側りようがは鏡板かゞみいたといふ部分ぶぶんにいろんなかざりがついてをります。またくらにもきんめっきしたすかりのうつくしいかざりがあります。それからくらからうまむねのところやしりほうまはつてかはおびには、杏葉きようようといふかざりがつけてありまして、そのかざりはたいていてつうへきんめっきをしたどうりつけ、うつくしい唐草からくさなどの模樣もようすかしてあります。またこれにすゞがついてゐるのもあつて、餘程よほどうまく出來できてをります。そのほか、馬鐸ばたくといつて杏葉きようよういつしょに、ぶらげるすゞのようなものもあり、すゞみつつらなつためづらしいかたちのものもあります。(第七十圖だいしちじゆうず
[#「第七十圖 日本古墳發見馬具」のキャプション付きの図(fig18371_71.png、横×縦)入る]
第七十圖 日本古墳發見馬具

 元來がんらいうま日本につぽん石器時代せつきじだい貝塚かひづかからそのほねされるので、ふるくから日本につぽんにゐたことがわかりますが、しかし本當ほんとう乘馬じようば使つかうまは、やはりその朝鮮ちようせんあたりから輸入ゆにゆうされたものでありませう。それで馬具ばぐうまいつしょに、朝鮮ちようせん支那しななどでもちひてゐたものをそのまゝ日本につぽん使つかつたらしいのです。これらの馬具ばぐをどういふふうけたかといふことは、あの埴輪はにわうまればよくわかります。日本書紀につぽんしよきといふふる歴史れきしほんに、ぎのようなはなしいてあります。むかし、雄略天皇ゆうりやくてんのう御時おんとき河内かはち安宿郡あすかべぐんひと田邊伯孫たなべはくそんといふひとがありまして、そのむすめ古市郡ふるいちぐんひとへかたづいてゐましたが、ちょうどあかちゃんをんだので、伯孫はくそんはおいはひにそのいへきました。そのかへりがけ、それは月夜つきよばんのことでありましたが、あの應神天皇おうじんてんのう伯孫はくそんときから百年ひやくねんほどまへあたる)の御陵ごりようまへとほりかゝると、非常ひじよう立派りつぱあかうまつてゐるひと出會であひました。自分じぶんうまはのろくてとてもかなひませんので、そのうまをほしくおもひ、いろ/\はなしをしてうまりかへてもらひ、よろこんでいへへかへりました。ところが翌日よくじつうまやつてその赤馬あかうまますと、おどろいたことには、それはつちうまでありました。これはへんなことだと、伯孫はくそんはゆうべの應神天皇おうじんてんのう御陵ごりようところつてましたら、自分じぶんつてゐたうまは、御陵ごりようまへにある埴輪はにわ土馬つちうまあひだにをつて、主人しゆじんをまつてゐたので[#「まつてゐたので」は底本では「まつてるたので」]、またびっくりしましたが、やうやくそのうま土馬つちうまりかへていへへつれてかへつたといふ面白おもしろうそのようなはなしであります。これはその時分じぶん河内かはち役人やくにんから朝廷ちようてい報告ほうこくした事實じじつでありまして、とにかく當時とうじうまることがおこなはれてをり、また埴輪はにわうま御陵ごりようつてゐたことを、われ/\にをしへてくれるはなしであります。
「第七十一圖 田邊伯孫譽田陵に馬を求む」のキャプション付きの図
第七十一圖 田邊伯孫譽田陵に馬を求む

 馬具ばぐのほかに、古墳こふんからたくさんるものは土器どきであります。しかし、この土器どきはごくふる古墳こふんからはあま發見はつけんせられず、石室せきしつ出來できころからの古墳こふんにたくさんをさめられてをり、ひとつのはかからときには五六十ごろくじゆう一度いちど土器どきることがあります。それらの土器どきかたは、まへまをした彌生式土器やよひしきどきたところのあかいろやはらかい素燒すやきのものもありますが、たいていは鼠色ねずみいろをした、ごくかた陶器とうきとでもいへるものであつて、わたしどもはこれをいはひべ祝部いはひべ土器どきんでをります。このかた朝鮮ちようせんからはひつてて、日本につぽんにだん/\おこなはれるようになつたのでありまして、そのかたちはいろ/\あります。たとへばつきといふひらたいおわんのようなもの、それにふたのついたもの、またそのつきたかだいのついた高坏たかつきといふようなものなどたくさんありますが、それらはふだん食事しよくじのときに御馳走ごちそうつた道具どうぐだとおもはれます。そのほか、つぼにもくびながいのやみじかいのや、いろ/\あります。またさけみづ五六升ごろくしようもはひるような大瓶おほかめがあり、めづらしい恰好かつこうのものには、たけたかすかりのつぼをのせるだいだとか、つぼだいとくっついてゐるものだとか、くちまはりに人間にんげんうまちひさいかたちをつけた、かざりつきのつぼだとか、またくちのついたしびんのようなかたちをしたものもありますが、なかにも不思議ふしぎなのははさふといふ器物きぶつです。それはちひさいつぼうへに、朝顏形あさがほがたちひらいたながくちがあり、つぼよこちひさいあながついてゐるものです。なに使つかつたのかよくわかりませんが、あるひとはそのあなちひさいたけくだんで、なかにあるみづとかさけとかをつたものだらうといひます。あるひはさうかもれません。またよこながたはらのような恰好かつこうをして、そのまんなかくちをつけた横瓮よこべといふつぼがありますし、ひらべったいつぼひもをつけるみゝくちのついたつぼといふのがありまして、これはちょうど今日こんにちあるみにゅーむせい水筒すいとうおなじようにみづれてげたものにちがひはありません。ちょうどみなさんが遠足えんそくくときにもちひる水筒すいとうおなじものでありますが、これははじめはけだものかはつくつた水袋みづぶくろからそのかたちたのです。それでかはひめなどをちゃんとあらはした、皮袋形かはぶくろがた土器どき時々とき/″\發見はつけんせられます。そのほか今日こんにちでは使つかかたのわからないような品物しなものもたくさんるのでありますが、これをまへみなさんといつしょにました石器時代せつきじだい土器どきくらべますと、大體だいたいがあっさりとし、そのかざりにしても、ごて/\した[#「ごて/\した」は底本では「ごて/\し」]曲線模樣きよくせんもようなどはなく、そのかたちもたいてい一定いつていしてをります。かういふてんからますと、これらの土器どきおそらく專門せんもん土器製造人どきせいぞうにんが、その工場こうばつくつたのを各地かくちしたものにちがひありません。それで美術的びじゆつてき目的もくてきよりも、まったく實用的じつようてきになつたものがおほいことがわかります。(第七十二圖だいしちじゆうにず
[#「第七十二圖 日本古墳發見祝部土器」のキャプション付きの図(fig18371_73.png、横×縦)入る]
第七十二圖 日本古墳發見祝部土器

 古墳こふんから普通ふつう發見はつけんせられるものは、いままでべたようなものでありますが、そのほかに、時々とき/″\發見はつけんせられるものには、どうきんめっきをしたかんむりや、またおなじく銅製どうせいめっきくつがあります。これはのちほどおはなしをする朝鮮ちようせん古墳こふんからもるもので、かようなくつかんむりは、もちろん平生へいぜい使つかつたものでなく、儀式ぎしきのときなどにもちひたものでありませう。また今日こんにち下駄げたによく鼻緒はなをまへあな右足みぎあしひだりに、左足ひだりあしみぎにかたよつて出來できいし下駄げたることがあります。これも平生へいぜい下駄げたをはいたものでありませうが、この時分じぶんひとおほくは草履ぞうり草鞋わらぢのほかにかはつくつたくつき、またこんなかたち下駄げたあめふりなどにはいてゐたことがわかります。さうすると私共わたしども下駄げたはずいぶんふるくからあることがわかつて、なんと面白おもしろいではありませんか。またおなじようないしつくつた品物しなものくはかたちをしたものや、腕輪うでわかたちをしたものなどがますが、このなかにははたしてなに使つかはれたものか、よくわからないものもおほくあるのです。(第七十三圖だいしちじゆうさんず
[#「第七十三圖 日本古墳冠靴その他」のキャプション付きの図(fig18371_74.png、横×縦)入る]
第七十三圖 日本古墳冠靴その他

(リ)建築けんちく彫刻ちようこく繪畫かいがなど

 私達わたしたちいままで日本につぽん古墳こふんと、そのなかから發見はつけんせられる樣々さま/″\遺物いぶつてまゐりましたが、これ品物しなものは、みなこのふる時代じだいひとつくつた美術品びじゆつひん工藝品こうげいひんであつて、このほかにべつ美術びじゆつ工藝こうげいもないわけでありますが、いまあらためてそれのものから、とくにこの時代じだい建築けんちくはどんなものであつたか、彫刻ちようこく繪畫かいがはどんなものであつたかを、べてることにいたしませう。
 第一だいゝち建築けんちくは、古墳こふん石室せきしつなども一種いつしゆ建築けんちくではありますが、人間にんげんなどのるいはどういふふうなものであつたかといふと、まへにもまをしたとほり、屋根やね草葺くさぶき、茅葺かやぶきあるひはまた板葺いたぶき、はしらまる材木もくざいをそのまゝ、あるひはかはをむいてもちひ、はしらしたにはいしずゑもない、掘立ほつた小屋ごやといふふうなものであつたので、今日こんにちそのあとはなにものこつてをりません。それゆゑ、これはたゞあの埴輪はにわいへや、そのほかの品物しなものあらはれてゐるいへかたちと、歴史れきしうた書物しよもついてあるところで想像そう/″\するほかには、いまなほ神社じんじや民家みんかのこつてゐるふるつくかた參考さんこうにするほかはありません。またくらのようなものは、おほくは今日こんにち奈良なら正倉院しようそういん御倉おくらなどにるような、みあはせた校倉あぜくらといふものであつたとおもはれます。
 そのぎに彫刻ちようこくといふものはなんであるかといふに、これは埴輪はにわ人形にんぎよう動物どうぶつぞうまたは石人せきじん石馬せきばなどがそれであります。もちろんあの埴輪はにわは、お葬式そうしきときつくつて墓場はかばてたもので、非常ひじようほねををつてつくつたものではありませんが、その粗末そまつ下手へたつくかたのうちにも、この時代じだいひと無邪氣むじやき素直すなほ心持こゝろもちがよくあらはれてをります。かういふ埴輪はにわ人形にんぎようつくつてゐるときに、朝鮮ちようせんから佛教ぶつきようつたはり、お釋迦しやかさま、彌勒みろくさま、觀音かんのんさまのような佛樣ほとけさまぞうちこまれたのですから、おどろいたのはむりもないのです。これは立派りつぱなお姿すがただと感心かんしんして、佛教ぶつきようしんずるものもおほ出來できたのですが、そのうち日本につぽんでも佛像ぶつぞうつくるようになり、それから百年ひやくねんもたゝない奈良朝ならちようごろになつては、その本家ほんけである支那しな朝鮮ちようせん佛像ぶつぞうにもまさるともおとらない、立派りつぱ彫刻ちようこく出來できたのであります。
 それではこの時代じだい繪畫かいがといふものはのこつてゐるかといひますと、もちろんふすま唐紙からかみき、じくにしたなどは、この時代じだいにはないばかりでなく、またあつたからとて今日こんにちまでのこつてゐるはずはありません。またあのヨーロッパの舊石器時代きゆうせつきじだい大昔おほむかしのように、洞穴ほらあないたすばらしい動物どうぶつなどはまったくなく、たゞ銅鐸どうたくうへあらはしてある簡單かんたん子供こどもいたような、しかし非常ひじよう面白おもしろ人物じんぶつ動物どうぶつ家屋かおくなどのほかには、祝部土器いはひべどきやその品物しなもの、または古墳こふん石室せきしつ横穴よこあななかかべなどにりつけた、まことに粗末そまつ人物じんぶつたて矢筒やつゝなどの品物しなものすこのこつてゐるだけでありまして、ごくむかし日本人につぽんじんはけっして上手じようずであつたとか、きであつたとはいふことが出來できないのです。しかし、それはうまれつき下手へたであつたといふわけではない證據しようこには、のち支那しな朝鮮ちようせんから繪畫かいがつたはつてると、すぐにそれをならつて、非常ひじよう立派りつぱなものをつくすことになつたのであります。
 ぎに裝飾そうしよく模樣もようるいも、石器時代せつきじだい土器どきにあるような、曲線きよくせんのごて/\した模樣もようのまったくないことは、まへまをしたとほりで、たゞ簡單かんたんえん三角さんかくほかには、刀劍とうけんつかかざりにあつたような、直線ちよくせん弧線こせんとをあはせた、不思議ふしぎ模樣もようにつくだけです。この模樣もようはまづ日本につぽんにしかられないもので、古墳こふん内部ないぶやその品物しなものにもよくつけてあるのですが、あまめづらしいので近頃ちかごろ西洋せいようあたりで流行りゆうこうする模樣もようかとおもひとがあるくらゐです。(このほん表紙畫ひようしえ御覽ごらんなさい)このほか馬具ばぐなにかに支那しな朝鮮ちようせんからつたはり、あるひはそれをまねた品物しなものに、支那朝鮮風しなちようせんふう模樣もようがついてゐるものもありますが、それはこの時代じだいには、まだほんのりものにぎなかつたのでした。
 かういふふうに古墳こふんから品物しなものて、われ/\はその時分じぶん人々ひと/″\が、どういふ心持こゝろもちでをつたか、どういふ趣味しゆみつてをつたかといふことがわかり、また支那しなあたりからはひつて文化ぶんかのほかに、むかしから日本人につぽんじんつてをつた固有こゆう文化ぶんか趣味しゆみが、やはりのこつてゐたことがられるのです。これは近頃ちかごろ西洋せいよう文明ぶんめいがはひつててもおなじことで、いかに西洋風せいようふうならつても、あるてんには日本人につぽんじんには日本人につぽんじんらしい趣味しゆみ特質とくしつが、えないのであります。またそれがなくなつては、日本人につぽんじんでなくなるのですからたいへんです。
 またこれらの古墳こふんから品物しなもの調しらべてられることはいくらもあります。たとへばむかしひとはどういふ生活せいかつをし、どういふ風俗ふうぞくをしてをつたかといふことも、書物しよもつだけでははっきりわからぬことを、よくることが出來できるのですから、古墳こふんをやたらにつたりすることはわるいことでありますが、なにかの拍子ひようしこはれたりして、なかからものときには大切たいせつにこれを保存ほぞんし、丁寧ていねいにこれを調しらべなくてはなりません。そしてかういふことを調しらべるひと考古學こうこがくをやる學者がくしやなのです。なほむかし風俗ふうぞく生活せいかつのありさまについては、くはしいことをこゝでおはなしする時間じかんもなく、みなさんが歴史れきしほんほか先生せんせいからをそはることゝおもひますから、今日けふはこれだけでよしてきます。
[#「第七十四圖 銅鐸の模樣畫」のキャプション付きの図(fig18371_75.png、横×縦)入る]
第七十四圖 銅鐸の模樣畫

[#「第七十五圖 日本古墳裝飾模樣圖」のキャプション付きの図(fig18371_76.png、横×縦)入る]
第七十五圖 日本古墳裝飾模樣圖

(ヌ)古瓦ふるがはら古建築こけんちく

 日本につぽん古墳こふんから發見はつけんされてゐるいろ/\の品物しなものは、みなさんといつしょにてまゐりましたが、この日本につぽん古墳こふん非常ひじようによくてゐる朝鮮ちようせんなどの古墳こふんについても、この博物館はくぶつかん參考さんこうとしてすこしばかり品物しなもの摸型もけいならべてありますから、それらをなければなりませんが、そのまへに、こゝにあります日本につぽんからふるかはらを、ちょっとることにいたしませう。
 日本につぽん古墳こふんつくられた時代じだいをはりのころには、もはや朝鮮ちようせんをへて日本につぽん佛教ぶつきようがはひり、それといつしょにおてら建築けんちくが、だん/\出來できかけてをりました。あの大和やまと法隆寺ほうりゆうじなどのおほきい伽藍がらん出來でき時分じぶんに、いままで私共わたしども古墳こふんがなほつくられてをつたのであります。ところが支那しなのごくふる古墳こふんには、はかまへにお靈屋たまやのような建築けんちくがあつたものもあり、それに使つかつたふるかはらなどが發見はつけんせられるのでありますが、日本につぽんではそんなものはいつこうありません。しかし、この日本につぽんのおてらかはらは、まへまをした祝部土器いはひべどきとほとんどおなつくかたの、かた鼠色ねずみいろものであつて、それはまへまをしたとほり、朝鮮ちようせんからその製法せいほうつたへられたのでありました。このふるかはらふるいおてら境内けいだいや、ふるいおてらのあつた場所ばしよいまはたけとなつてゐるところから、よくされるのであります。それでみなさんも古墳こふんつたり、石器せつき採集さいしゆうかけたりするときには、さういふふるかはらひろふこともありませうから、かはらはなしすこつてくのも、まったく無用むようではありますまい。
 あの支那しなではかん時代じだいごろには、圓瓦まるがはらさき模樣もよう文字もじがつけてありました。かはらのこの部分ぶぶん瓦當がとうんでゐます。なかにはまたまんまるでなく半圓形はんえんけいのものもあります。しかし平瓦ひらがはらのちには唐草からくさなどがかざりにつけてあるところでありますから、これを唐草瓦からくさがはらといひますが、そのはしにはたいてい模樣もようがつけてありませんでした。日本につぽんかはらはちょうど支那しなずいといふ時代じだいに、朝鮮ちようせんから輸入ゆにゆうせられたものでありまして、圓瓦まるがわらはしには蓮華れんげ模樣もようかざりにつけてあり、唐草瓦からくさがはらにも蔓草つるくさ模樣もようなどがつけてあります。その蓮華れんげ模樣もよう中央ちゆうおうほう非常ひじようおほきいかたちのものもあり、花瓣かべん恰好かつこうたいそううつくしく、蔓草つるくさかたち非常ひじようによく出來でき、そのりかたもつよ立派りつぱであります。またかはら一體いつたいたいへんおほきく、今日こんにちかはら二倍にばいくらゐもあります。またそのならかた今日こんにちとはすこちがつてをりました。聖徳太子しようとくたいし時代じだい飛鳥時代あすかじだいといひます)にもちひられた、かういふ立派りつぱかはらも、だん/\時代じだいをふるにしたがつて粗末そまつとなり、聖武天皇しようむてんのうころ奈良時代ならじだいあるひは天平時代てんぴようじだいといふ)をぎては、模樣もようまづ意匠いしようのまづいものになつてしまつたのは、不思議ふしぎなことであります。それは、かようなおほきいかはら屋根やねくにはおもすぎるので、のちにはかるかはらつくるようになつたことゝ、瓦師かはらしもなるだけやすいものをたくさんにつくらうとしたので、わるいものが出來できたものでいたしかたがありません。私共わたしどもはこのかはらかたち模樣もようが、時代々々じだい/\ことなつてゐるのをて、その建築けんちくが、いつの時代じだいのものであるかといふことがわかるので、美術びじゆつ歴史れきしうへから非常ひじようにためになることでありますが、そのおはなしをするとあまりながくなりますから、いまはやめてきます。またべつ先生方せんせいがたからおきになる場合ばあひがありませう。なほふるいおてらのあつたところには、かはらのほかにおほきなはしら礎石そせきのこつてゐることもあります。このいしずゑならかたて、そこにはどういふかたち御堂おどうつてゐたかゞられます。もちろんこの時分じぶんのおてら建築けんちくで、今日こんにちもなほむかしいしづゑうへつてゐるものも、たまにはめづらしくのこつてゐます。あの法隆寺ほうりゆうじ金堂こんどう五重ごじゆうとう中門ちゆうもんなどが一番いちばんふるいもので、千何百年せんなんびやくねんながいあひだ木造もくぞう建築けんちくがそのまゝつたはつてゐるといふことは、世界せかいにもあまれいのないことです。そのぎにふるいのは奈良なら西にしにある藥師寺やくしじとう、それから聖武天皇頃しようむてんのうころもの奈良ならにちょい/\のこつてをります。これのおてらをよくると、みなさんはいろ/\つくかたちがつてゐるてんがわかり、またむかし建築けんちくがいかにも出來できてゐることにがつくのですが、この建築けんちくのおはなしもまたべつときにすることにいたします。
 しかしこゝでちょっとまをしてくことは、かういふおてら建築けんちく支那しな朝鮮ちようせんからつたはり、天皇てんのう御殿ごてん貴族きぞく家屋かおくもさういふふうにつくられるようになりましたが、人民じんみんいへなどはたいていやはりむかしのまゝのかたちつくられたとおもはれますし、ことに伊勢大神宮いせだいじんぐう出雲いづも大社たいしやのような神社じんじやは、ごくふるい/\時代じだい日本につぽんいへかたちをそのまゝにつくることゝなつてをつたのです。そして今日こんにちなほ大神宮だいじんぐう[#「大神宮は」は底本では「太神宮は」]なんべんてかへてもかたちだけはむかしのまゝに、屋根やね茅葺かやぶき、はしら掘立ほつたて、そして白木しらきのまゝで、たかちぎかつをぎ屋根やねうへについてゐて、いかにも埴輪はにわいへかたちおもさせるのは、なんと神々かう/″\しいことではありませんか。
[#「第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦」のキャプション付きの図(fig18371_77.png、横×縦)入る]
第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦
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三、朝鮮ちようせん滿洲まんしゆう古墳室こふんしつ


(イ)南朝鮮みなみちようせん古墳こふん

 朝鮮ちようせんにも石器時代せつきじだい遺物いぶつることは、まへにおはなししたのでありますが、そのいまから二千年程前にせんねんほどまへ支那しなしゆうすゑからかんはじめにかけて、支那しなから金屬きんぞく使用しようつたはつてて、青銅器せいどうき鐵器てつき時代じだいとなりましたのは、日本につぽん大方おほかたおなころであります。ところがちょうどこの石器せつきから金屬器きんぞくきにはひるころに、朝鮮ちようせんにはおほきないしつくつた西洋せいよう巨石記念物きよせききねんぶつどるめんとよく古墳こふんが、きたからみなみほうへかけて、つくられました。それは日本につぽんにもちょっとられないすばらしいかたちのもので、下部かぶ長方形ちようほうけいはこのようにつくり、そのおほきいものになると、うへせてある一枚いちまい天井石てんじよういしながさが、三間以上さんげんいじようにもおよんでゐるものがあります。もっとも、かようにおほきいものは、さうたくさんはありませんが、そのうちもっとも見事みごとなのは、北朝鮮きたちようせん平安南道へいあんなんどうにあるものです。南朝鮮みなみちようせんほうにも、やはりこれと大體だいたいおなじようなものが、あちこちに見受みうけられます。(第七十七圖だいしちじゆうしちず
[#「第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳」のキャプション付きの図(fig18371_78.png、横×縦)入る]
第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳

 その南朝鮮みなみちようせんには三韓さんかんといふちひさいくに分立ぶんりつしまして、そのうち辰韓しんかんといふのが、新羅しらぎくにになり、弁韓べんかん日本につぽん植民地しよくみんち任那みまなになり、また馬韓ばかんといふのが百濟くだらになつたのであります。ところが、これらのくに文化ぶんかは、わがくに西南地方せいなんちほうである九州邊きゆうしゆうへん文化ぶんかたいそうよくてをりまして、その時代じだいふるはかから品物しなものは、日本につぽんのものとたいしたかはりはありません。なかにも日本につぽん植民地しよくみんちだつた任那みまなや、新羅しらぎ古墳こふんではことにさうでありまして、どうしても南朝鮮みなみちようせんにゐた人間にんげんは、日本につぽん九州邊きゆうしゆうへん人間にんげんと、民族みんぞくうへからてもたいしたかはりはないようにおもはれます。しかし朝鮮ちようせんには日本につぽん古墳こふんみなさんがたような、前方後圓ぜんぽうこうえんかたちをしたつかはなく、たゞまるつかふたつくっついた瓢箪形ひようたんがたちのものがあるだけです。また南朝鮮みなみちようせんのあるところでは、埴輪圓筒はにわえんとうのようなものが發見はつけんせられ、また勾玉まがたまもたくさんるので餘程よほど日本風につぽんふうであるかとおもふと、また日本につぽん古墳こふんからは支那しなかゞみがたくさんるのにかゝはらず、朝鮮ちようせん古墳こふんにはこのかゞみ姿すがたをまったくせないといふようなこともありまして、そのあひだ多少たしようことなつたところがあり、民族みんぞくおなじでも、すでにちがつたくにをつくつてゐたとかんがへられます。
「第七十八圖 朝鮮慶州古墳群」のキャプション付きの図
第七十八圖 朝鮮慶州古墳群
左端の高い塚は鳳凰臺といひ、その下から左の方に慶州の町があります。
金冠塚と瑞鳳塚とは、鳳凰臺の右方の塚との間にありました。

 さて、南朝鮮みなみちようせんには、あちらこちらに多數たすう古墳こふんがありますが、なかでも一番いちばんたくさんのこつてゐるのは、もと新羅しらぎみやこ慶州けいしゆうです。こゝは釜山ふざんから京城けいじよう汽車きしやつて、一時間いちじかんばかりで大邱たいきゆうき、そこで下車げしやして自動車じどうしやひがしほう三四時間さんよじかんはしるとすぐかれるところです。慶州けいしゆうには周圍しゆういひくやまがあつて、一方いつぽうだけすこひらけてゐる地勢ちせいは、ちょうど内地ないち奈良ならて、まことに景色けしきのよいところであります。このまちきますと、そのひく朝鮮ちようせんいへならんでゐるあひだに、非常ひじようおほきい土饅頭つちまんじゆうがにょき/\とそびえてゐる景色けしきたれもがおどろかされますが、これはみなむかし新羅しらぎ王樣おうさまえらひと古墳こふんなのです。そのなかでも一番いちばん立派りつぱなのは、慶州けいしゆうまちなかにある鳳凰臺ほうおうだいといふので、これはたか七十尺以上しちじつしやくいじようもあるおほきな圓塚まるづかです。この慶州けいしゆう古墳こふんからは、今日こんにちまでいろ/\のものが發見はつけんせられましたが、私共わたしどもをびっくりさせたのは、ちょうどいまから十年じゆうねんばかりまへに、その鳳凰臺ほうおうだい西手にしてにある半崩はんくづれのつかから品物しなものであります。私共わたしどもは、そのつか金冠塚きんかんづかづけましたが、そのわけは、このつかなかから、それは/\立派りつぱきんかんむりたからであります。(このほん口繪くちえ御覽ごらんなさい)このかんむりはまったく純金作じゆんきんづくりでありまして、その五本ごほん前立まへたてにはちひさなまるいぴら/\や、うつくしい緑色みどりいろ翡翆ひすいちひさい勾玉まがたま七十しちじゆうばかりもぶらさがつてをりまして、これをあたまうへせてみると、それらがゆら/\とれて、なんともいへぬうつくしさをせます。そればかりではなく、かんむり眞中まんなかからはとり羽根はねながきんかざりがうしろほうち、またかんむり兩側りようがはからもきんかざりがぶらさがつて、そのはし勾玉まがたまがついてゐるといふ、すばらしい立派りつぱきんかんむりなのです。またこのかんむりけてゐたひとこしのあたりには、金飾きんかざりのうつくしいおびがありまして、そのおびからこしのまはりには、十七本じゆうしちほんきんつくつたものをぶらげてをり、そのものさきには、香入こういれやさかなかたち勾玉まがたま毛拔けぬきのような小道具こどうぐがついてをります。そして、またうでには腕環うでわゆびには指環ゆびわをつけ、あしにはきんめっきしたうつくしいどうくつへてあるばかりでなく、このはかからは支那しなからわたつた銅器どうき、がらするいをはじめ、馬具ばぐ刀劍とうけん土器どきなどが無數むすうたので、じつひとおどろかしたのでありました。わたしもちょうどそれらが發見はつけんされたときに、そこへ來合きあはせてゐてその立派りつぱさにおどろいた次第しだいであります。しかしわたし一度いちどこのきんかんむりあたまへのせてたことがありましたが、こんなかんむりやいろ/\のかざりをつけてはそのころひとはさぞおもくて、きゅうくつなことであつたらうとおもひました。これはさだめし新羅しらぎふる王樣おうさまのおはかでありませうが、その王樣おうさまがわかりませんのは殘念ざんねんです。しかし大體だいたい日本につぽん欽明天皇前後きんめいてんのうぜんごいまから千四百年せんしひやくねんほどまへ)の古墳こふんおもはれます。(第七十九圖だいしちじゆうくず
[#「第七十九圖 慶州金冠塚發見品」のキャプション付きの図(fig18371_80png、横×縦)入る]
(1)銅柄香爐 (2)がらす杯 (3)角形銅器
(4)金耳飾り (5)勾玉 (6)金腰飾り (7)金帶飾り

 かようなつかは、こればかりでなく、そのおひ/\とおなじようなきんかんむりをさめられたのがたくさんあらはれました。あの鳳凰臺ほうおうだいみなみほうちひさいつかからも金冠きんかんたのです。それはかたちちひさく、またこしげたかざものちひさく可愛かわいらしいので、多分たぶん王樣おうさま子供こどものおはかだらうと想像そう/″\されます。また金冠塚きんかんづかのすぐ西にしつかを、いまから二三年前にさんねんぜん、スヱーデンの皇太子殿下こうたいしでんか御出おいでになつたとき[#「なつたとき」は底本では「なつとき」]つてみました。これもまた金冠塚きんかんづかおなじような勾玉まがたまのついた金冠きんかんきんかざものましたので、その品物しなものをそのまゝつちなかならべて、殿下でんか御覽ごらんれましたが、朝日あさひひかりをけてきんぴかの品物しなものかゞやいてゐるありさまは、なんともいへぬ見物みものでありました。『日本書紀につぽんしよき』のなかにも、新羅しらぎくに金銀きんぎんのたくさんにあるくにであるとゐてありますがそれはたしかにほんとうです。そしてこれほどきんつくつた品物しなものはかにはひつてゐてれいは、日本につぽんにはまだひとつもありません。しかし、それらのものはきんつくつてありますけれども、そのつくかたはあまり精巧せいこうでなく美術的びじゆつてきといふよりも、たゞ無闇むやみきん使つかつた趣味しゆみひく品物しなものといふほかはないのです。この慶州以外けいしゆういがい古墳こふんから、これほど立派りつぱきんづくめの品物しなものは、いままでたことはありませんが、耳飾みゝかざりだけはいつもきんつくつてあります。かんむり帶飾おびかざりなどはおなかたちでも、どうきんめっきをしたものや、ぎんつくつたものがただけです。あまりたくさんではありませんが、日本につぽん古墳こふんからもこれとおなるいかんむり帶飾おびかざりが、やはりるのであり、ことに土器どきはまったく祝部土器いはひべどきおなかたのもので、これらはみな朝鮮ちようせんから日本につぽんつたへられたものでありますが、勾玉まがたまはたしてどちらからどちらへつたはつたものかわかりません。
[#「第八十圖 古代新羅人服飾想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_81.png、横×縦)入る]
第八十圖 古代新羅人服飾想像圖

 いままをした古墳こふんみな圓塚まるづかでありまして、そのなかうるしつたかんうづめ、そのうへおほきな石塊いしころつゝんだものであります。これをいしづかといひます。新羅しらぎふるはかは、かういふふうのつくかたであつたのですが、その石室せきしつをつくることになり、ちょうど日本につぽんにあるのとおなじような古墳こふん朝鮮ちようせんにも出來できたのであります。とにかく南朝鮮みなみちようせん古墳こふん日本につぽん古墳こふん非常ひじようによくてゐることは、以上いじようまをしたゞけでもおわかりでありませう。

(ロ)北朝鮮きたちようせんおよ滿洲まんしゆう古墳こふん

 朝鮮ちようせんきたほうは、いまから千九百年せんくひやくねんほどまへ滿洲まんしゆうほうからかけて、かん武帝ぶていといふつよ天子てんしめててそこを占領せんりようし、樂浪郡らくろうぐんなどゝいふ支那しなぐんよつつもまうけたところであります。ことに樂浪郡らくろうぐん役所やくしよのあつたところは、今日こんにち平壤へいじようみなみ大同江だいどうこうむかぎしにあつて、ふる城壁じようへきのあともありますが、支那しなから派遣はけんせられた役人やくにんがこゝにとゞまつて朝鮮ちようせんをさめてゐたのであります。それですからその附近ふきんには、そのころ支那人しなじん古墳こふんがたくさんあるのであります。これはみなちひさい圓塚まるづかであつて、なかにはかんれたものやあるひはおほきな煉瓦れんがせんといひます)でしつをつくつたものもありまして、その煉瓦れんがにはいろ/\模樣もようがあります。これらのはかりますと立派りつぱ品物しなものがたくさんますが、それにはまへ新羅しらぎはかたようなきんぴかものはありません。もっとじみどうぎよくでつくつた品物しなもので、かへって美術的びじゆつてきにはなか/\すぐれたものがたいそうおほいのです。新羅しらぎひととこゝにゐたかんひととの、趣味しゆみ相違そういがよくわかつて面白おもしろいとおもはれます。
 あるはかなかからは、木棺内もくかんない死體したいむねのあたりに、まるぎよくつくつたへきといふものや、くちへんからはせみかたちをしたぎよくかざりなどがました。またぎよくかざりをしたつるぎかゞみ、それからどうつぼなどもましたが、なかにも立派りつぱなのはきん帶止おびどめです。この帶止おびどめはほそのような金絲きんしきんつぶでもつて獅子しゝかたちをつくり、それに寶石ほうせきをちりばめたこまかい細工さいくは、今日こんにちでもたやすく出來できないとおもはれるほどすぐれたものであります。またこれらのはかからたくさん漆器しつきさかづきぼんはこなどがましたが、その漆器しつきには、これをつくつたとき年號ねんごうつくつた人達ひとたちこまかくりつけてあります。それによりますと、かんはじごろ支那しな南方なんぽうしよくといふとほ地方ちほうで、つくつたものであることがわかるのであります。また漆器しつきうへうつくしいいたものや、面白おもしろ人物じんぶついた鼈甲べつこう小箱こばこなどがあり、支那しな漢時代かんじだいには美術びじゆつすゝんでをつたことが、歴史れきしほんてをつても、まさか、これほどまで發達はつたつしてをつたとは、いままでたれ想像そう/″\出來できなかつたくらゐであります。なほ、あるはかからは漆器しつきでつくつた化粧箱けしようばこて、そのはこなかにはべに白粉おしろいれたちひさな蓋物ふたものれてありましたが、そのころひとも、かういふ道具どうぐでお化粧けしようをしたことがわかります。(第八十一圖だいはちじゆういちず
[#「第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品」のキャプション付きの図(fig18371_82.png、横×縦)入る]
第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品
(1)―(6)銅器 (7)(8)漆器 (9)璧 (10)(11)玉器 (12)金帶留め (13)刀劔

 さてその北朝鮮きたちようせんには高句麗こうくりといふ朝鮮人ちようせんじんくにてられて、支那人しなじん勢力せいりよくがだん/\なくなつてしまひました。この高句麗時代こうくりじだい古墳こふん平壤へいじよう附近ふきんのほか朝鮮ちようせんきた支那しなとの國境こつきようにもありまして、そこには將軍塚しようぐんづかなどといふのついてゐる、いしつくつたエヂプトの階段かいだんぴらみっと[#「ぴらみっと」は底本では「ぴらっみと」]のようなおほきなはかがあります。これは高句麗こうくりふるころ好太王こうたいおうといふ王樣おうさまのおはかであるといふことであります。このはか内部ないぶにはいしつくつた部屋へやがありますが、ふるくそのなかあらしたものがあつていまなにのこつてをりません。またこのはかからとほくないところにその王樣おうさまのことをしるした自然石しぜんせきおほきなつてをります。それをむと、日本人につぽんじん朝鮮ちようせんめてつたことがしるされてありますが、多分たぶん神功皇后じんぐうこう/″\[#「神功皇后の」は底本では「神后皇后の」]三韓征伐さんかんせいばつのときのことなどがいてあるようにおもはれます。この將軍塚しようぐんづかのあるところは鴨緑江おうりよつこうきたで、今日こんにちでは支那しな領地りようちとなつてゐます。高句麗こうくりは、そのこのきたほうからみやこ平壤へいじよううつしましたので、その古墳こふん平壤へいじよう西にしほうにたくさんあります。それらのはかなかにはおほきな石室せきしつがありまして、室内しつないにはじつおどろくほど立派りつぱいてあります。そのすぐれた支那風しなふうでありまして、ちょうど支那しな六朝頃りくちようごろ畫風がふうしめしてをります。これはじつ日本につぽん法隆寺ほうりゆうじ金堂こんどう繪畫かいがにもくらぶべき、立派りつぱふるのこりものであります。(第八十二圖だいはちじゆうにず
[#「第八十二圖 朝鮮高句麗」のキャプション付きの図(fig18371_83.png、横×縦)入る]
第八十二圖 朝鮮高句麗[#「朝鮮高句麗」は底本では「朝鮮高勾麗」]

 さて鴨緑江おうりよつこうをわたりきたほうきますと、支那しな領地りようち南滿洲みなみまんしゆうでありますが、こゝは日清戰爭につしんせんそう日露戰爭にちろせんそうなどがあつて以來いらい日本につぽんえんふか土地とちであります。南滿洲みなみまんしゆうには、やはり石器時代頃せつきじだいころからすでに人間にんげんんでをりましたが、しゆうすゑからかんはじめに支那人しなじんさかんに植民しよくみんしてゐたのです。そしてそのころ古墳こふんがあちらこちらにのこつてゐますが、あの旅順りよじゆん西にしにある老鐵山ろうてつざんふもとなどにはふる城壁じようへきがありまして、そのあたりにはふるはかがたくさん散在さんざいしてをります。そのなかには、煉瓦れんがつくつたいつつのしつのある漢時代かんじだいはかがありました。それをいまから二十年にじゆうねんほどまへに、わたしりにまゐりましたが、かゞみだとかつちつくつたいへかたちだとかゞました。このはかは、そのこはしてしまつて、いまでは跡方あとかたのこつてをりません。また旅順りよじゆんひがし營城子えいじようしといふところにも、漢時代かんじだいはかがありまして、平壤へいじよう附近ふきんはかからるのとおなじような漆器しつきなどがました。またきたほう遼陽りようようきたにはいしおほきなしつをつくつた古墳こふんがあつて、その石室せきしついたのがありましたが、いま旅順りよじゆん博物館はくぶつかんつててありますから、容易よういることが出來できます。そのほか南滿洲みなみまんしゆう各地かくちには、ちひさな煉瓦造れんがづくりのはか石棺せきかんがありますが、ことにめづらしいのは、貝殼かひがらでもつて四角しかくかこみ、そのなか死體したいをさめたはかであります。それを貝墓かひはかんでをりますが、これは石器時代せつきじだい貝塚かひづかとはまったくことなつたもので、なかからは漢時代かんじだい品物しなものや、そのころ古錢こせんます。これらの古墳こふんやまたあちこちからしゆうをはごろ品物しなもの古錢こせんによつて、南滿洲みなみまんしゆうにもふるしゆうをはりからかんころ支那しな文明ぶんめいつたはつてゐたことをることが出來できるばかりでなく、そのころひとちひさいふねつて海岸傳かいがんづたひにこの南滿洲みなみまんしゆうから北朝鮮きたちようせん樂浪らくろうて、南朝鮮みなみちようせんにも支那しな文明ぶんめいつたへ、さら日本につぽん西南せいなんへもたのでありまして、その結果けつかつひに朝鮮ちようせん日本につぽんも、なが石器時代せつきじだいゆめからさめて、金屬きんぞく使用しようするあたらしいひらけた時代じだいへ、だん/\すゝんでつたものとおもはれます。とにかく、この滿洲まんしゆう朝鮮ちようせんにある支那人しなじん古墳こふんは、あまえらひとのおはかではありませんが、今日こんにちまだ支那しな内地ないち古墳こふんをよく調しらべることが出來できないので、支那しなのことをうへからも非常ひじよう大切たいせつなものであります。
 博物館はくぶつかん見物けんぶつも、だいぶながくなつてみなさんもつかれたでせうが、わたしはなしくたびれました。まづこれで見物けんぶつをやめて、おちやでもむことにいたしませう。しかしみなさんはこんひまがあれば博物館はくぶつかんて、いままで品物しなものさらくはしくて、わからぬことがあれば先生せんせい博物館はくぶつかんひとにおたづねになることを希望きぼういたします。それではさようなら。
(をはり)





底本:「博物館」日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年9月5日発行
※「つ」と「っ」、「よ」と「ょ」、「エ」と「ェ」と「ヱ」、挿と※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)、アッシリアとアッシリヤ、甲冑と甲胄の混用は底本の通りです。
※霜島正三郎と浜田青陵による挿絵の内、「青陵」もしくは「K.H.」(浜田の本名である、耕作に由来すると推定)とあるもの十三点を、著作権保護期間満了とみて収録しました。
入力:網迫、鈴木厚司
校正:しだひろし
2009年5月11日作成
2014年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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