沖繩の旅

濱田耕作




一 沖繩まで


 一月五日夕日の光に映ゆる壯嚴な櫻島の山影を後に、山崎君等の舊知に送られて、鹿兒島の港を後にした私は、土地の風俗や言葉を話す奄美大島や沖繩へ歸る人々の多くと同船して、早くも南島の氣分に漂はされた。船の名も首里丸である。幸にも此の冬の季節には珍らしい穩かな航海を續けて、夜は船長や事務長から恐ろしいハブの話や、不思議な島々の話に聞入り、次の日に大島の名瀬の港に大嶋紬の染織を見學して、テイチキと云ふ木が染料であることを覺え、七日の朝には早くいよ/\沖繩島の島影の見えるのに心を躍らした。
 今度思ひがけなく沖繩一見の旅に出るまでは、耻かしながら沖繩本島は淡路島か小豆島位の大さしかないものと思つて居たのであるが、成る程船の左舷の端から端へ連る此の海上に漂ふ長い朽繩の樣な「屋其惹ウチナー」の島は、長さ四十里にも近いと云ふのは本當だと思はれた。私共は何時も、九州の片端に小さく入れられてゐる此の島の地圖を見せられてゐるので、つい斯う云ふ間違つた考へを起してゐたのである。これと同じ樣なことは、曾て布哇の島へ行つて其の大きなのに驚き、米國に渡つて再び其の廣いのに魂消たのも、畢竟何れも日本や歐洲と同じ一ペーヂの地圖に收められてゐるのに見馴らされてゐた爲めに外ならない。
 今一つは沖繩は珊瑚礁だと教へられてゐたので、水面からやつと浮き上つてゐる位の島かと思つたら、島の北の方には可成高い山が列なつて居り、中程から南は大分平であるが、そこさへ丘陵が高く低く參差してゐることであつた。朝の食事を濟まして急いで荷物を片付け甲板に出て、次第に近づいて來る沖繩の海岸、那覇の港を見入つてゐると、意地惡く時雨がパラ/\と降つて來る。

二 那覇へ着く


 嘉永六年五月米國のペルリ提督が、始めて琉球を訪れて、那覇の港に船が近づく時、其の美しく青々とした英吉利の景色にも似た海岸に、ところ/″\白い斑點のあるのを見た。始めは家かと思つて居たが、其の後これは石灰岩で作つた墓であることが分つたと、便乘のタイラーなる人の日記から抄出して、ペルリの『日本訪問記』に記してゐる。黒船の騷ぎから八十年以後の私達も、殊には考古學の書生たる私には――やはり海岸に散點する白い墓が、何よりも先に直ぐに眼に付いた。但しペルリの船の人々には、此等の墓と共に今一つ、左手に突出した岩塊(波上宮のある)の傍に、思ひがけなく翻つてゐた英國の「ユニオン・ジヤツク」の旗が目を惹いたが、これは當時那覇に滯在して、耶蘇新教の布教に從事して居つたベツテルハイムと云ふ英人の宿所護國寺に立てられてゐたものである。
 埠頭に船が着くと、私と同船して來た新任の沖繩縣内務部長階川君を出迎への群集が、船室へドツと押し寄せて來る。その序でもあらうか、清野君から紹介せられて居た西山伊織博士や、眞境名安興君などが尋ねて來られたので、沖繩見物の私の身體も、安心して此等の人々に托することが出來た。而して荷物は寳來館の番頭に。

三 城嶽とハブ


 寶來館に落付いた私は、障子を明け放つた座敷に、名も知らぬ熱帶的な植物を眺め、初夏にも似た強い日光を浴びながら、ボンヤリと南島的氣分に浸つてゐると間もなく、西山博士をはじめ眞境名翁、初對面の島袋源一郎君、豐川君その他福原、中川、清川の諸君が来訪せられ、一體琉球に何を調べに來たかと尋ねられる。これには一寸弱つたが、「實は別に何の當もないが、琉球の事物一切の概念を得るのが目的である」と白状して、六日間の旅程を作つて貰ふことゝしたが、島袋君等の手で早速出來上つて之に唯々諾々從ふことに成つた。
 今日は先づ那覇の市中を見物しようと、人力車に乘つて縣廳に顏を出し、その隣りの圖書館に行き、眞境名翁の部屋で豐富に集められた郷土史料をのぞき、又某氏の持參せられたノロの勾玉にも始めて見參する。此の圖書館に近く、東南の松の樹の少し生えてゐる丘陵が、具塚のある城嶽ぐすくだけであると教へられ、諸君と共に其處へ登つて見ると、美しい那覇の市中が一望に豁けるのも嬉しい。むかし王の大親と云ふ豪族が、此處に住んで居つたが、尚清王が其の女の容色を望んで后としようとした。併し大親は中々之を承知しないので、王はそれでは其の望む所のものを何でも與へようと云ふと、それでは此の城嶽から見渡されるだけの土地を賜はれと答へて、それを頂戴したと傳説にあるのは、如何にも此の眺望の好い地形に應はしい話である。
 芝生に被はれた珊瑚礁の上には薄い土壤があつて、細い貝殼が處々に見えるばかりで、土器の破片などは殆んど見付からない。況んや樺山君とやらが、數年前掘り出した明刀錢の如き學界を聳動した珍物や、某君の拾はれたと云ふ石鏃の如きは、蝙蝠傘の先きでツツいた位では飛び出しさうもなかつたが、私には此の丘の上にある龜甲形の、琉球式の墓を見ただけでも面白い獲物であつた。
 この城嶽のあたりにはハブが澤山居ると云ふが、此の冬の季節では姿を見せないとのことに、大に安心したものゝ、それでは琉球へ來て琉球名物のハブにお目にかゝらずしてしまふのは殘念であると云ふと、それでは血清を採る爲め縣廳に飼つてある奴を御覽になつてはとの事に、早速行つて見ると、大分弱つては居るが、棒でさはると鎌首を立てゝ攻撃の姿勢に出る處は如何にも物凄く、この蛇だけは夢に出られても御免を蒙り度い。

四 那覇の波上宮と護國寺


 那覇の市中には市役所の高塔が、最初の且つ唯一(?)の鐵筋混凝土のモダン建築として立つてゐる外には、商家(媼家は例外)の殆ど全部は皆赤味がゝつた重い本瓦葺の屋根を頂いた平屋である點に於いて、聊か朝鮮の都邑を思はせるものがある。併し市中の小川に石造の太鼓橋(泉橋)が架つてゐる處は、多少支那的の氣分を現はしてゐる。そして此の橋際に大きな日傘を立てゝ、其の下に老婆が物を賣つてゐる處は、如何にも繪になりさうな景色である。聖廟なるものも丁度この橋の邊にあつて、深緑の木立の間に赤塗りの建物を隱見せしめてゐるが、土塀の中へ這入つて廟内を拜見すると、規模は小さいが全く支那の孔子廟の縮圖に外ならない。之に隣つた明倫堂には昔ながらの番人の久米の人々が長閑に烏鷺を戰はしてござる。
 波上なんみん宮へお參りをすると、これは明の詩人が筍崖と呼んだ港の外に突出した珊瑚礁の塊の上に立つてゐる沖繩縣内唯一の官幣社である。夏の夕べ凉風を納れるには、如何にも具合の佳ささうな形勝の地であるが、四百年前の創建に關らむ社殿は極く新しく何の見所もない。併し社務所へ案内せられて、宮司さんから泡盛の神酒を頂き、國寶の鐘を拜觀した處、これは又々日本全國に遺つてゐる朝鮮鐘數十口のうちでも、第六位に古いもので、顯徳三年太歳丙辰正月廿五日の銘がある。どう云ふ徑路で朝鮮から此處へ來たのかは分らないが、とにかく古來朝鮮琉球間の交通のあつたことを證明するに足りると思ふ。この鐘と一緒にしまつてあつた陽石は、これまた頗る雄偉なもので、K博士などに見せたかつた。
 波上宮の入口に近い護國寺には、かのペルリの時こゝに居つて英國の旗をあげ、基督教の傳道に從事し、遂に琉球語の聖書を印行した、ベツテルハイムの記念碑がある。これには彼と關係のあつた歐米等十ヶ國産の石板に各國名(匈、伊、希、墨、琉、墺、埃、土、支、米)を刻して、碑石に嵌してあるのも面白い意匠である。又明治初年、臺灣で遭難した琉球人の碑も其の傍に立つてゐる。此の寺の隣りには天尊廟があつて、一寸面白い天尊の像がある。紺絣の老婦人連が蹲つて拜んでゐるかと思ふと、持參の辨當を食べてゐる。それから近頃やり出した郷土藝術の琉球燒の陶器店に立寄つて、宿へ歸つたのは未だ南島の日の沒しない夕方であつた。

五 浦添の古城址


 次の日は朝から首里の浦添の見物に出かける。自動車を走らせて、ペルリの艦隊が碇泊して居つたと云ふ牧湊の傍を通つて首里に向ふと、やがて道は蜒々と登つて丘陵は次第に高く、首里の城址が行手に青々と聳えてゐる。私は今迄首里はこんなに高い地形にあるとは想像して居なかつた。併し同時に首里の大通りを通つて、こんなに淋しい田舍村の樣な處と思ひも寄らなかつた。
 首里の城の見物は後廻しとして、我々は昔の士族屋敷らしい物靜かな小道を曲つて丘陵を降り、一路浦添の道へと急ぐ。やがて美しい赤松の林のある溪谷に沿ふて、小學校の處で車を降り、其の後ろの山にある浦添の城址に出る。學校の校舍の横を過ぎると、教室の外に「ふつうご」と書いた大きな標語が張付けてあるのが眼につく。何か「不都合」でもあるのかと島袋君に尋ねると、これは生徒に「普通語」を話さす爲めであるとのこと。定めし彼等の騷いでゐるうちに這入つても、私達には其の言葉の意味が全く解し兼ねるであらうが、薩摩芋を辨當にし裸足の生徒は、皆嬉々として活溌に遊んでゐるのは可愛らしく、教育の普及してゐる難有さを感ずる。この學校のある處が、琉球に始めて佛教を傳へた僧禪鑑が、英祖王の時建立した極樂寺のあつた處であると聞かされた。
 裏山の上に登りつくと、隆起珊瑚礁の草山には、野生の蘇鐵が庭木の樣にあちこちに生えてゐる。今日は生憎陰寒な天氣で風も強く、眺望には佳くない日であるが、慄へながら斷崖の上に立つと、牧湊の海岸が眼近に白く波打つてゐる。此の城址には古い瓦の破片が散在してゐるが、那覇の圖書館で見た「高麗瓦匠」云々と銘のある平瓦も此處から拾はれたものである。
 浦添うらそへとは元來「浦々を支配する」の意味であつて、首都の樣であるから、首里以前舜天氏時代の都は此處にあつたと云はれてゐる。いま城址には何等見る可きものもないが、此の崖の下には有名な「ようどれ」の王陵があるのである。珊瑚礁の岩を切つて作つた階段に、足を滑らしながら降りて行くと石門があり、其の内に入ると、廣い芝生を前にした「ようどれ」の前に出る。

六 「ようどれ」の王陵


 崖の上は先刻私達の立つてゐた浦添の城址である。蘇鐵の株が生えてゐる懸崖を直角に切つて其處に二つの墓が穿たれ、各アーチ形の入口を具へてゐるが塗込めてある。向ふの方の墓は古い英祖えぞ王(西紀一二六〇――九九)の陵、手前の方の四つ目窓が入口の兩側に開いてゐるのが、ずつと後の尚寧王(一五八九――一六二〇)の陵である。尚寧王の父祖は皆首里の玉陵たまおどんに葬つてあるが、王は島津氏の捕虜となり、日本へ拉し去られたことあるを恥ぢ、故らに獨り此の古陵の傍に奧津城を作らしめたのであると傳へられてゐる。此の墓内に於ける王一族の棺の配置などは、之を記した文書があつて、昨日圖書館で其の寫しを見せられた。
 私は此の浦添の王陵の淋しい氣分がとても氣に入つた。第一「ようどれ」と云ふ言葉は、意味が分からなくても、何となく此の寂寞たる墓域の氣分を善く現はしてゐるではないか。ようとは世、どれとはとろと同じく靜まりかへる義であるとは、如何にもさうあるらしく私の耳にも感じられる。英祖王陵の左右には、大きな圓筒形の高い柱が立つて居り、その上には狛犬形の像が置いてある。而して兩つの陵の間にあたる處には、小さな碑亭があつて、此の中にあの有名な「ようどれのひのもん」と題して、長い琉球文を片假名で刻した砂岩の碑が立つてゐるのである。柵をすかして見ては、其の磨滅した文字の全文を讀むことは出來ないが、私の三高時代の舊友で、琉球研究の第一人者たる伊波文學士の『古琉球』中に收められた「琉球文にて記せる最後の金石文」に其の詳しい考證が出てゐるのを讀んだ人は記憶してゐるであらう。
「りうきう國てたがすゑあんじおそひすへまさる王にせかなし」
と長々しい尚寧王の神號から始まつて、王が英祖王の陵を修築せしめ、其の曾祖父の遺骸を此處に移し、將來王自らの奧津城にもせんとし、此の碑を建つる旨を莊重な琉球文で記してある。而して最後に「このすみあさくならばほるべし、萬暦四十八年かのへさる八月吉日」とあるのも實に面白いではないか。なほ此の碑背には「極樂山之碑文」と題し、漢文を以て大體同意味の文を刻してあるが、正文の方を琉球の國文で平假名を以て誌してあるのは、却つて日本内地では殆どないことである。日本では筑前宗像神社の阿彌陀經石に、鎌倉初期に後刻した片假名交りの銘がある外、平假名文字の金石文は足利末期以後、かの切支丹の墓碑などに見る位であつて、徳川時代に至つて始めて熱田截斷橋の擬寶珠銘の如き假名の名文を出してゐるだけである。此の點琉球は早く漢文の束縛から解放せられてゐるのは嬉しい。而かも日本では漢文の碑に日本の年號を使用してゐるのに、琉球では國字の碑に支那の正朔を用ゐてゐるのは、此の國の歴史と國情を物語るものとして、却つて我々の興味をそゝるものが大きい。
「ようどれ」の王陵に此の琉球文で書かれた最後の金石文を見た私は、やがて首里の玉陵に其の最古の碑を見ることを得たのである。

七 首里の玉陵


 浦添うらそへから首里に引きかへして、私達は尚侯爵の別邸を訪問した。先代の侯爵には英國に留學中牛津で御目にかゝつたが、今は知る人もない此の邸に、家令百名翁に面會し、其の宏壯な書院造の應接室と、其の後ろの部屋に並べてある古い琉球の樂器(支那風の)などを拜見し、玉陵や崇元寺の拜觀のことに就いて御願をする。此の侯爵邸はもと中城御殿なかぐすくうどんと稱し、世子の御殿であつて、安政四年の新築と云ふが、便所の窓に半透明の貝殼を張つて、硝子の代りにしてゐるのが特に面白いと思つた。
「第一一圖 玉陵」のキャプション付きの図
第一一圖 玉陵

 さて玉陵たまうどんは首里の城の南方、天界寺趾の前にある尚王家歴代の陵廟である。弘治十四年(文龜元年、西紀一五〇一)尚眞王が父王尚圓王の遺骸を見上森から此地に改葬し、爾後王家の陵として漸次規模を擴張し、現今の如くなつたのである。今は漫※(「さんずい+患」、第4水準2-79-16)して殆ど讀み難くはなつてゐるが、陵前(左方)に立つてゐる弘仁十四年九月の「たまおどんのひのもん」には、「首里おぎやかもいがふしまあかとだる」と、冒頭に尚眞王の一族九人の名を上段に記し、下段には「しよりの御み事い上九人この御すゑは千年萬年にいたるまでこのところにおさまるべし、もしのちにあらそふ人あらばこのすみ見るべし、このかきつけそむく人あらばてんにあをぎちにふしてたるべし」とあり、實に琉球文の金石中最古のものと稱せられてゐる。
 石門のうち珊瑚礁の細片を敷きつめた廣庭の後ろに、勾欄を前にした三棟の石築墓室が半ば自然の岩壁に據つて造られてゐるのが玉陵の本體である。その黒ずんだ石の色の外には、點景の樹木の緑さへも殆ど見られない單調の色彩と、其の簡單なる直線の配合、伊東博士が此の陵を評して「鬼氣身に沁みる閑寂の裡に、一種の神祕的なる靈感が、ひし/\と人に迫るが如き氣分である。建築として何の奇もなく巧もなく、而かも人に甚深の感動を與ふる處が、その崇高偉大なる所以であり、陵墓建築として洵に理想に近いものである」と云つて居られるは、實に私の言はうとする所を道破せられて、一語の之に加ふ可きものがない。伊東先生は如何なる時に此の陵を訪ねられたか知らないが、私は丁度どんよりとした時雨空に膚寒い風に吹かれながら、此の陵前に立つて特に此の感をば深くしたことである。

八 首里の城内


 支那式の守禮門を通つて東に進むと、左手に唐破風を頂いた石門がある。これが即ち園比屋武嶽そのひやんだけの杜の拜處の門である。これは四百餘年前の建築であることは、門※(「木+眉」、第3水準1-85-86)の陶製の扁額に「首里の王おきやかもひかなし御代にたて申候、正徳十四年己卯[#「己卯」は底本では「已卯」]十一月二十八日」とあるのを以て知ることが出來る。形は小さいが恰好は善く、而かも堅實な感を與へる和漢折衷の面白い樣式が氣に入つた。之と同じ形の門が、私は見なかつたが首里の東北べんゲ嶽にもあるさうである。此等は何れも山嶽や森林に神靈を拜する古代信仰の標幟である。
 更に進んで歡會門から龍樋の清泉を掬し、瑞泉門を潜つて石階を登つて行くと、如何にも自分ながら支那の文人畫中の人物にでもなつた感がするが、さて本丸の頂上の廣場に出で、首里城の正殿百浦添むんだすいの大厦の忽然として聳えてゐるのを仰ぐと、恰も修繕前の奈良の大佛殿の前に立つた時の樣な思がする。
 この正殿は察度王の時に創立し、今の建物は享保十四年の重修に係るもので、總高さ五十四尺、内部は三層であるが、外觀は重層。大きな唐破風の向拜を前にし、巍然として巨人の如く立つてゐる姿は、萬事規模の小さい琉球には珍らしい堂々たるものであつて、如何にも桃山時代から徳川初期の雄偉な氣分を現はし、隨處に琉球建築の特徴を示してゐる。併し今は大破して大軒も傾き將に覆らんとする危險状態になつてゐる。それで先年保存の道がないと云ふので、危く取り壞されようとしたのを、伊東博士の熱心なる努力によつて沖繩神社の拜殿として蘇生し、特別保護建造物として、今や大修繕の途にあるのは喜ばしい極みである。たゞ恐れるのは遲々たる修理工事の間に、あの危なかしい大軒が沖繩名物の颱風の爲めに、崩れ落ちはしないかとの心配である。
 正殿の前には南殿と北殿の建物がある。北の方は議政殿と稱し、支那の册封使の歡待所で、支那風の設備を有してゐるのに反し、南殿は日本風の建物で、薩州の使者を接待した處であると云ふのは、如何にも琉球國の歴史を物語つてゐる。この南殿に接して、もと藩王の住居であつた邸宅の部分が殘つて居り、今は女子工藝學校になつて若い娘さん達が出入してゐるのは、却つて保存の爲めには善いかも知れない。こゝにまた物見櫓の跡が殘つてゐる。

九 圓覺寺と崇元寺


 次に見た首里城の傍にある圓覺寺は、此の國に珍らしい七堂伽藍の揃つてゐる佛寺であるが規模は至つて小さい。圓鑑池の中島にある辯才天堂は遠望したゞけで、たゞ此のあたりの美くしい樹の茂みと、龍潭池の眺めを賞して那覇へ歸ることにしたが、途中琉球の神社建築として面白い眞和志村の安里にある八幡宮と沖宮とを訪ね、その調子の變つた蟇股や、柱にかけた假面の彫刻を見、それから崇元寺に琉球王歴代の位牌殿を見たが、この寺の門は首里から那覇への大道に接して立ち、三箇のアーチを開いた何の裝飾もない石造の直方體であるが、それが如何にも近頃の混凝土建築と同巧であるのが嬉しい、伊東博士は之を激賞して
「規模は大ならず手法は簡單であるが、其の中央部と左右翼の取り合せの自然なる、其の相互の廣袤幅員の權衡を得たる、その全部の輪廓の簡明にして要を得たる、その線の少くして一の無駄のなき、數へ來れば限りなき美點が現はれる。一見素朴なるが如くにして、凝視すれば益々豐富である。一瞥粗野なるが如くにして觀察すれは高雅である。極めて無造作なるに似て、實は苦心慘憺の作である。甚だ淺薄なるに似て實に重厚深刻の作である」云々。
と百パーセントの讃辭を呈して、其の獨創清新の意匠を賞嘆せられてゐるのには、私も全く先生の見識に敬服してしまつたことである。なほ寺内の下馬碑に「あんし按司けす下司くま此處からうまからおれるべし」と琉文を表に記し、裏に「但官員人寺至此下馬」と漢文に刻してあると、伊東博士が記されてゐるが、それは遂に見落した。(同博士「木片集」)
「第一二圖 崇元寺右門」のキャプション付きの図
第一二圖 崇元寺右門

 さて那覇へ歸つて遲い中食を認め休息の暇もなく、女學校で開かれる南島談話會に臨み、それから辻の某旗亭で催された歡迎會に赴いたが、私達が此處で沖繩美人の舞踊に打興じてゐる眞最中、飛電は帝都に於ける警視廳前の不祥事件に犬養内閣の辭表捧呈を報じ、縣の役人方は忙しく座をたゝれる。併し私は此處で十餘年前英國で相知つた神山君に邂逅する喜をも得た。

一〇 糸滿の漁村


 第三日目には那覇から南方糸滿と南山城を見に行くことにした。那覇町を出て低温な甘蔗畠を過ぎ三里ばかり、糸滿の町の入口に白銀堂といふ祠が道ばたの洞穴の中にある。今は全く近代化せられて一向面白味はないが、例の通り紺絣りの女達が蹲つて切りに御祈をしてゐる。こゝは昔一人の薩摩武士が、貸金の事から美殿と云ふ男を殺さうとしたが、「意地のぢらー手引き、手のぢらー意地引き」といふ勘忍第一の諺を説かれて之を助けたが、其の後彼は歸國して、男裝せる女が嫁の貞操を保護せんが爲め、彼の妻と同衾してゐるのを見て殺害せんとしたが、此の諺を思ひ起して罪惡から免れたと云ふ傳説のある堂である。
「第一三圖 糸滿の漁船」のキャプション付きの図
第一三圖 糸滿の漁船

 糸滿と云ふ處は沖繩でも人種が違ひ、白人の血が交つてゐるとか、イートマンと云ふ外人の名から起つた地名であるとかと云はれてゐるが、私の一見した處ではそんな事はないらしい。漁村のことゝて男は海上に魚取りに出で、女は之を頭上にのせて那覇へ賣りに行きなどして、女も非常に活動する處から、體格も自然に佳いといふ位で、また店に坐つてゐる主婦などに肥え太つた女が多いのは、運動と食物の關係であるかも知れない。魚市場で商賣してゐるのも皆な女であつて、亭主が漁して來た魚を女房や娘が値切りこぎつて買ひ、之に自分が利得を取つて賣り、家族の面々財産を別にしてゐるといふ、日本には珍らしい個人主義的財産制度を持つてゐるので、先年某博士が調べに來られ、それ以來有名になつてゐるとのことである。
 併し勿論こんな財産制度の事などはさつきの人種の問題とは違ひ、往來を歩きながら糸滿人の顏をながめた丈けでは分かるものではないので、皆な博識な島袋君の御話の受賣りである。そこで私達は海岸へ行つて、濱邊に引上げてあるウツロ舟を見たり、血なまぐさい魚市場の内を歩いて魚類を見たりしてから、近傍の漁師の家に這入つて、刳木の水アカすくひを買つたりしてから、少し山の手にあるノロ(巫女)さんの家を訪ねることにした。これは沖繩へ來てから始めてのことであつたが、生憎ノロさん自身には病氣で會へず、其の嫁の人から勾玉を出して見せてもらつた。但しこれは極く新しい玻璃製のもので失望したが、祭壇の具合などに興味を感じながらラツキヨ漬を御馳走になつて暇を告げ、町役場の前で車を停めると、親切な役場の方が前町長玉城五郎氏の書かれた案内記などを贈られたので、有難く拜見し、御蔭で此の町から千二百人ばかりも多數の移民が外國に出かけ、昭和四年にはその送金高十一萬圓に上るといふことや、又々此の町には、税金年額一錢を納めるプロレタリヤの何人かあることをも知つて、大に糸滿通となつた次第である。

一一 南山城、高嶺の口


 糸滿瞥見をすましてから、町の東の丘にある南山城址へ行く。これは中山の尚巴思に亡ぼされた他魯毎が居つた居城で、承察度が南山王を稱してから四代百四年、遂に三山統一となつたのは十五世紀の初葉のことである。大した城廓の構もなく、今は城址に小學校と小さい祠が立つてゐるだけ。たゞ近く糸滿の海を眺める景色を賞す可きである。オガンの前に小さい木の臼と杵とが供へてあるのを土俗の資料にと無斷で頂戴して行く。
 丘を下つて大きな榕樹の下に滾々と湧出る嘉手志川の源である清泉に、衣洗ふ村娘を眺めながら高嶺村大里の村に入る。こゝは源爲朝が島の運天に上陸して後南遷し、大里按司の女と婚して舜天を生ましめたと云ふ大里村である。この村にノロさんの家が二軒ある。先づ一方の家では如何にも神祕的且つ幽鬱な六十過ぎのノロさんが出て來て、刳拔きの長い大刀箱や、糸目錢などを見せてもらつたが勾玉は傳へて居ない。島袋君がいろ/\と琉球語で質問せられると、「ウーウー」と應へるので、何と云ふ意味かと聞くと「イエス」といふことだとある。それでは「ノウ」はと尋ねると、殆んど同じ「ウウー」であつて唯だ語尾を揚げるのであるとは如何にも面白い。併し私達も「ウー」「ウウン」の兩語を同じ意味に使ひ、之に頭を竪横に動かす運動を添へて、エンフワサイズしてゐることを思ひ出した。
 今一軒のノロの家(西銘ノロ)は美しい芝生の上に殿を作り、庭園なども非常にキレイであり、ノロさんの老婆も頗る快活且つ近代的である。黒砂糖の塊を茶ウケに出され、又々水晶の珠數玉と、一箇の稍古い暗緑色の勾玉を藏してゐる。案内の校長さんから黒砂糖を紙に包んで頂戴し、子供の時喜んで食べたことのある此の絶好の菓子に何十年振に再會したことを喜んだ。

一二 眞玉橋、琉球劇


 那覇への歸り道は往路とは別に、國場川口に架けられた眞玉橋に出る。これは石造のアーチが中央に三つ開いて居るが、(中央のアーチに眞玉橋、南は世持橋、北を世寄橋と名づけてゐる)。何等の裝飾もなく、却つて簡素堅實の趣を發揮し、實に沖繩第一の名橋と謂ふ可きである。橋の南の袂には「重修眞玉橋碑文」の碑が立つて居り、此の橋が二百餘年前、尚貞王の時代寶永四年から五年にかけ、全島三郡の三十五ヶ間切の人夫、八萬三千餘人を徴して作つたといふ大工事であつたことを勒してゐる。私は北岸から橋を寫生し、午後一時頃那覇の宿に歸り、一休みの暇もなく那覇小學校に出かけて、『日本文明の由來』といふ題で一時間ばかり御喋舌をしたのは辛らかつた。
「第一四圖 眞玉橋」のキャプション付きの図
第一四圖 眞玉橋

 併し此の夜は島袋君や福原君の案内で、市中の旭劇場にかゝつてゐる琉球劇『阿摩和利』を見に行つたのは嬉しかつた。劇場は小さく粗末なものではあるが、觀衆の靜肅なのには感心したのみならず、前狂言としての現代劇も中々面白く、見物をして涙を催さしめる場面もあつた。殊に組踊りは男優にして、斯くも女らしく優しく舞へるものかと驚かされた。愈々『阿摩和利』劇となる。これは大體内地の舊劇の仕組であるが、琉球中世の梟雄阿摩和利あまわりを主人公とし、之に配するに其の美しい妻百十踏揚もゝとふみあがり姫などを以てし、變化ある幾多の場面は、今日はじめて島袋福原兩君から此の史劇の荒筋を聞かされた私にさへ、非常な興味を感ぜしめたのであるから、郷土の人には如何に大きな感動を與へたことであらうか想像に餘りある。琉球語の能く分からぬ位は、西洋で言葉の一向分からぬ芝居を屡々見たことのある私には何でもない。却つて若干解し得る言葉が出て來るのが非常に嬉しかつた。夜は更けても劇は中々終らない。併し私は明日早く那覇を立つて、今舞臺で見つゝある阿摩和利の居城勝連かつれんを遠望し、その敵手であつた忠臣護佐丸ごさまる中城なかぐすくをも訪ねんとするのである。餘り遲くなつてはと、兩君よりも一足先きに宿に歸つたのは十一時頃であつた。

一三 普天間から荻堂貝塚


 第四日目はいよ/\那覇を出發して島袋、豐川、小竹三君と共に、國頭への旅に出かけた。往路は中街道を普天間から荻堂貝塚を訪ね、中城々址を見、伊波貝塚を經て名護に出る豫定であつたが、伊東博士の『木片集』には、先生が凄しい暴風雨に出會つて、中城の城の麓まで行きながら、遂に城址には登られずして引返された恐ろしい經驗が記されてゐる。併し幸ひ今日の日本晴では其の心配もなく、我々は惠まれた天候を感謝する外はなかつた。
 那覇の町はづれ、暫くは失業救濟の道路工事で車の通行も妨げられ勝であつたが、やがて大きな松の並樹――それは尚敬王の時代に蔡温が植ゑた賢明な施設である――のある街道所謂宜野灣の松原に出で、さながら東海道の舊道を走る思ひがする。三里ばかりで普天間ふてまに着き、有名な權現祠のある鐘乳洞を見る。如何にも石器時代の住居の址がありさうな洞穴である。喜舍場の小學校の下で校長さんに出迎へられ、一緒に荻堂に向つたが、道は細く山道となり、如何にも危かしく、やう/\荻堂の村に上り著くと、貝塚の持主の人が出られて、村の北手にある貝塚に案内して呉れられた。行つて見ると、これが貝塚かと驚かれる程小さい猫の額の樣な斜面の畠地で、直ぐ崖に接してゐる。貝殼の散布も極く少なく、土器に至つては小破片さへも殆ど見付らない。鳥居君をはじめ、松村君等があれ丈けの發掘物をせられたのも、可成の勞力であつたらうと今更ながら現場を見て感ぜられる。併しとにかく此處は沖繩に於ける最初に發見せられた貝塚として、永久に記憶せらる可き處であらう。
 丘を下つて東に進むと、車はやがて中城々址の丘の麓に停り、我々は車を捨てゝ城址に登つて行く。

一四 中城々址


 中城なかぐすく々址の寫生圖と其の平面圖めいたものは、ペルリの琉球訪問記に載せてあつて、當時艦隊の探檢團が、此の邊までもやつて來たことが詳しく記されてゐる。此の城は大體石垣の具合などは、日本内地の城に似てゐるが、アーチ形の小門などのある處は、如何にも琉球的である。ペルリ艦隊員の賞讃を博した通り頗る面白く出來てゐる。我々は蔦葛の纏つてゐる石垣の上に出で、村役場になつてゐる建物のある本丸の處から眺望を肆にすると、脚下には中城灣の碧波が跳り、直向ひには勝連かつれん城のあつた與勝半島が薄紫に浮び出てゐる。實にや此の勝連に城を構へて、中山を睨らんで居た梟傑阿摩和利あまわりに備へんが爲めに、この中城に忠臣護佐丸ごさまる(毛國鼎)が城を構へたのは尚泰久王の時であつた。當時勝連の繁榮と阿摩和利の聲譽は、
勝連かつれんはなれにぎや譬へる、
 やまと鎌倉かまくらに譬へる、
 氣も高はなれにぎや」
とオモロに歌はれ、
百踏揚もゝとふみあがりや、けさよりやまさて
 もゝ按司ちやらの、ぬしてだ、なりわちへ、
 君の踏揚や、首里しよりもりぐすく
 眞玉まだまもりぐすく」
と羨まれた其の配百十踏揚もゝとふみあがり姫は、私達が昨夜旭劇場で見た美くしい夫人で、尚泰久王の女であつたが、護佐丸を除かんとして阿摩和利は、彼自身に對しての兵を修めてゐるのを以て、却つて王に對して叛逆の志を抱いてゐるのであると讒した。之を信じて王は阿摩和利を將として中城を襲はしめたが、此の時護佐丸は王に申開きをする術もなく、さりとて王の軍勢に抗するを屑とせず、遂に恨を呑んで妻子と共に自殺してしまつたのであるが、此の本丸こそ此の悲劇の演ぜられた舞堂である。國亡びて山河あり、城春にして草木深し、此夜阿摩和利劇を見、今日親しく此の城址に立つた私には殊に感慨が深かつた。
 村役場の建物は床の間などに可成古い跡が殘つてゐるが、固より護佐丸當時のものではなく、護佐丸の遺物と稱する煙草盆の類も、今更評する迄もないが、乾隆五年と十年に出來た此の地方の古い地圖は、郷土研究には非常に參考になると思ふ。我々はやがて喜捨場の小學校へ引き返して、携帶の辨當を使ひ、校長夫人の心盡しになるドウナツの御菓子などを有難く頂戴した。

一五 伊波貝塚から名護へ


 喜捨場から北進して、氣持のよい田舍道を二時間足らずで伊波へ着いた。こゝでも小學校の校長先生の案内を煩はして、學校の東北にある貝塚へ行く。隆起珊瑚礁が庭石の樣に起伏する間に、蘇鐵の株がこれ亦た庭木の如く繁茂してゐる。「貝塚は此處です」と指された處は、石川村の方に降りる小徑が、階段の樣についてゐる數十尺の懸崖の中腹であるのには驚いてしまつた。此の東方海に向つた崖は、或は昔し脚下に碧波を見る海沿ひであつたにせよ、さても此の危險極る不便な處を選りに選つて、人間が住居を構へるとは不思議の至りである。後で聞けば私共の見た處よりもなほ北方に貝塚の中心はあるのだとのことであるが、それにしても大體の地形は此處と同じであるとの事。私共の見た崖の中腹には貝殼は極く少量散布し、土器の破片も小さいのが稀に見つかる位であつたが、その土器の模樣は、荻堂などと全く同一のやり方であつた。
 伊波貝塚を一瞥した私達は、恩納村の邊で西海岸の縣道に出で、こん度は美しい海岸の或はアダンの防風林、或は面白い岩礁などを送迎しながら、遂に名護の町に著いたのは午後四時近い頃であつた。大きな榕樹の立つてゐる警察署前の通りは、廣場とでも云ふ可くカラツとして氣持よく、如何にも大きな宿場らしい感がする。裏通にある一新館と言ふ宿屋へ納まると、とにかく新築の二階座敷は眺望もよく、東に近く小高い山が見える。あれは名護の南城嶽とて、あの上にノロさんが住んで居り、勾玉を傳へてゐる、「どうです、御疲れでなければ夕食までの間に行つて見ませう」と島袋君に勸められては、實は少々草疲れてはゐたが、勇氣を鼓して出かけることにした。山の上にはノロさんの家があり、そこから少し離れて神社風の小さい神殿が建てられ、その前には拜殿もある。これは全然新式のノロの殿である。丁度此の時ノロさんは其の神殿の前で祷つて居り、その傍に二人の少女とその母親らしい人が二人居るので聞いて見ると、是は本年高等女學校へ入學の出來るやうに祷つてゐるとの話。而かも此の山のノロさんは、現在名護の女學校の生徒であるので、當分親類の女の人が代理をしてゐるのであるといふ。さればこそノロさんの家には女學生の制服や教科書が座敷に見えたのも解せられた。さても此の女學生のノロさんの時代頃に入れば、定めし色々信仰や祭儀にも變化が現はれることであらう。
 ノロさんの家で勾玉と此の地發掘の銅鏡二面を見た。鏡はヤマトの時代で言へば藤原以後、恐くは支那傳來のものと思はれる。更に後ろの神山の上に登つてから宿に歸ると、私達の後を逐つて來た福原君が來著せられ、夕食の後村の青年會の人々十數人が、特に私達の爲めに盆踊りをやつて下さるといふので、洋服に著かへなほして見に行つた。琉球なればこそ此の一月のはじめに、野天で篝火を焚いて踊を見ることが出來るのであり、村人の厚意には深い感謝の念を捧げる外はなかつた。

一六 上ン土の古墓


 次の日は朝九時神田、福原二君などを加へて、名護の西方小一里にあるウエチヤの古墓を見に行く。これは島袋君の新に發見せられたもので、化石の澤山ある第三紀層の崖に穿られた洞穴の中に、石棺を澤山收めてあるものである。穴は二つばかりあるが、大きな方の穴の口には、石を以て垣を作つて塞いであるが、それを少し取り除けて中を覗くと、赤や青の彩色ある小さい家形の石棺、或は陶棺、木棺が二十ばかり雜然として並べられ、其の中から白骨が顏を出してゐる無氣味さよ。こゝは名護の古い時代の墓地であらうが、古いと言つても固より足利頃のものである。なほ上の方の山にも同樣の稍々小さい墓穴があり、右手の樹木の茂つてゐる山の上にもあるが、此の山の上のものは、洞穴の内部のみならず、その前の方の山腹まで石棺が露出し、白い髑髏がはみ出してゐる。K博士などならば振ひつく可き處を、私などは寧ろ戰へ上つて早々遁げ出したくなつた。
「第一五圖 上ン土洞穴内石棺」のキャプション付きの図
第一五圖 上ン土洞穴内石棺

「第一六圖 上ン土上ンヤマ洞穴内石棺」のキャプション付きの図
第一六圖 上ン土上ンヤマ洞穴内石棺

 運天へ車を急がす道すがら、呉我の村では高倉を見、また山原の女が額から掛けた竹籠を脊に運ぶのを見た。此の竹籠を一つ買ふことにし、或る店に頼んで歸りがけに受取ることにした。これから先きの街道人家の前には、例の豆腐を並べて賣つてゐるのが行列をしてゐた。運天の港には裏山から這入り、先づ東郷大將の筆になる源爲朝上陸の碑のある處に登ると、小さいキレイな港が眼下に廣がつてゐるが、碇泊してゐるのは、爲朝でも乘つて來さうな小船が一つ二つ、永萬元年鎭西八郎が運を天に任せて、逆卷く怒濤を冒して此の港に辿り着いたか否かは、史實として證明しかねるとしても、慶長十四年島津氏が百艘の船を以て琉球入をしたのは確かに此處からであつた。

一七 百按司墓


 爲朝の碑の下山腹の懸崖には、有名な百按司もゝぢやふの墓といふ古いガマ墓がある。樹の繁みを分けて行つて見ると、多くの墓のうちにも今は石垣を圍らした洞穴がある。垣を越えて内へ這入つて見ると、木棺が數箇已に朽ち果てゝ、中から白骨が無慘に露出してゐる具合は、上ン土の墓を暴露した樣なものである。菊池幽芳氏の『琉球と爲朝』には、其の木棺の一に「ゑさしのあし」と墨書したものがあつたとある。又「弘治十三年九月」云々の字があつたとも言ふから、大體の年代は知ることが出來るが、古くからある此の墓所に、その後新しい時代、否な最近にも骨を持ち込んだに違ひない。幽芳氏の本やシモン氏の論文には、此の墓の委しい記事があるから、其れを見ることにし、私は氣味の惡い此の墓を怱々遁げ出した。
 此の墓に就いては、或は四百年前亡んだ尚徳王の遺臣を葬つたのであると言ひ、或は尚巴志王に亡ぼされた北山の王族の墓であるとも言ふが、とにかく慶長頃即ち三百餘年前、北山王の末裔が六百數十金を投じて之を修理し、木造の社殿を作つたことは事實で、幽芳氏は其の圖を著書中に載せてゐる。
 山を下つて懸崖の下に作られてある稍々新しい墓を覗くと、之には中に骨壺が一ぱい、奧の方には木棺や、白骨がウヨ/\してゐる。私はこんな墓を調査に此の村へ滯在し、白骨と枕を並べて寢たT・K博士の熱心には、專門の學問とは言へ敬服せざるを得ない。

一八 今歸仁城と勾玉


 今歸仁と書いて「ナキジン」と讀むことを覺えたのも、沖繩へ着いて以來、即ち數日前からのことであるが、此の北山王の故城のある今歸仁の城にこれから出かけるのである。今泊の村から丘陵を登つて、昔家屋敷のあつたアタイ原と言ふ處を通ると、兩側には蘇鐵などの庭木が昔ながらの庭園の跡を偲ばせる。山の上本丸の址には今歸仁城の碑があり、小さな神殿もあるが、一體に石垣がよく殘つて居り、物見櫓の跡もある。規模の大なることも遙に中城などを凌いでゐる。殊に東は懸崖數十丈、その下に淙々たる溪川が流れ、此の伊平屋島[#「伊平屋島」は底本では「伊乎屋島」]を指呼の間に眺める景色は譬へ難い美しさである。山上に愛創石[#「愛創石」は「受劍石」の誤りか]と言ふのがあつて、此の北山陷落の際、勇將攀安知が力盡き自盡せんとする前、日頃禮拜して居た靈石の驗なきを憤慨して、刀を以て兩斷したものであると言ふ凄じい石である。而して其の刀は今なほ尚侯爵家に傳はつてゐると聞いた。
 山を下つた所に、丁度島袋君の岳父の家があるので、一同其處に御厄介になつて中食を使ひ、又々島袋君の手廻しで、今歸仁のノロクモイの傳へてゐる勾玉(一ヶ)と、今泊の阿應理惠按司の勾玉(廿一箇)や、玉草履を持參してもらつて見ることを得たのは何よりの幸であつた。殊に後者には呉形勾玉二箇、出雲石のもの一箇、大抵はT字頭を有し、其の石質の白味のある硬玉であることから、形状製作に至るまで、いづれも朝鮮新羅の勾玉に酷似してゐると見るは、琉球勾玉の本質、延いては勾玉全體の考察に重大なる寄與をなす事實であると思はれた。何分にも時間がなく、前から頼んで置いた恩納村の人々は、定めし踊りを見せようと待つてゐられることゝ氣がせかれるので、詳しい調査は、一度島田君にでも來てもらつてすることにして、二時頃名護に引きかへす。
「第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉」のキャプション付きの図
第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉

一九 恩納の臼太鼓踊


 恩納おんな村の谷茶たんちやでは、先年那覇へ其の古い郷土の踊を出したことがあるので、あれを名護から歸りに見ては何うかとの島袋君の話に、それは何よりも有難い仕合と御願ひをした處、谷茶の村人は私の爲めに村の婦人多勢を繰出し、二日前から練習をしてゐるとの事を往路に聞かされてから、これは大變な迷惑をかけることになつたと後悔しても致し方がない。折角の事故せめて少しでも長い時間拜見しようと、今歸仁から車を飛ばせて、名護に小休みの暇もなく、谷茶の村に著いたのは、それでも豫定より一時間も遲れた午後四時過ぎであつた。
 早速區長さんに案内されて、街道の裏の神山の廣場に登ると、其の道筋さへ新に手入れがしてあり、廣場の附近には多勢の見物人が集つて、宛ら御祭りのやうである。半圓形にしつらへた席には、既に見物の人が坐り込んで、私の來るのを今か/\と待つて居られ、盛裝した踊り子の婦人老若四五十名は、用意全く終つてシビレを切らして居られる有樣に、私は今迄自分一個の爲めに斯くばかりの催しを受けたことがなく、たゞ/\恐縮と感謝との念に心一ぱいになつたのである。
 やがて臼太鼓うすでーこの踊が始まつた。歌舞のことに就いて一向知識のない私には、善くも分らないが、四十人ばかりの婦人が二つの大きな輪を作り、外の方は年の取つた人々で、其の一端には、最も年上の五十位のお婆さん連が八人、紫や紅の布を頭に卷き太鼓を持ち、他の人々は皆な四つ竹や扇子、拂子樣のものを手にしてゐる。内の方の輪は年の若い娘さんで、紫や水色の長い布を髮から垂れてゐる。先頭の人が音頭を取ると、一同歌をうたひ足取りをするのであるが、其の進みは非常に遲く、ピツチは甚だ緩かに動作は變化に乏しいのが、即ち此の最も古い臼太鼓の歌舞の特徴であるから致し方はない。
「第一八圖 恩納の臼太鼓踊」のキャプション付きの図
第一八圖 恩納の臼太鼓踊

 歌詞は幸ひ謄寫版で印刷してあるのを呉れられたので、それを辿りながら聞いて居つても中々附いて行けぬ。先づ
首里天加那志シユリテンガナシ  百歳モヽトまでタポ
御萬人ウマンチユ間切マギリ  ウガでしやでびら
と言ふのに始まり、歌の全部を歌へば四時間もかゝると言ふのに驚いて、割愛して餘程端折つてもらふことにした。長い歌の中、二三を標本的に擧げて見れば次の樣なものがある。
十七八ぐるやな  ヲンナのさかい
八つと九つや   ちゞのさかい」
思ゆらはさとめ  かた夜暗ユヤシいもり
チヽユの夜にいもち  なくしたちゆさ」
泊帆舟小トマイマーラングワや   ちよてちびふゆさ
だちよてちびふゆぬ  かぢどーあやーめー」
 但しこの例とても、私に意味が善く分かつたと言ふのではない。臼太鼓がすんで若い娘さん達の組踊數番があつたが、凡て踊り手は足袋はだしか、或は全くの裸足である。
 私自身よりも郷土研究家島袋君が、大いに感服して眺め入つて居られたが、日はだん/\西の海に沈んでしまふ有樣に、村の衆に此の類なき厚意を感謝し、別を惜んで那覇に向つたが、私は此親切純朴な恩納の人々の厚意を永久に心に銘じて忘るゝ事が出來ない。

二〇 辻遊廓の瞥見


 歸途は海沿ひの街道を嘉手納に出で、始めて輕便鐵道の列車の走るのを見た。街道筋には廣い道幅のある村落があり、又大きな松の並木が續いて居る中を、時々すれ違ふ自動車のヘッドライトに、假睡に落ちようとする眼を醒させながら、那覇の町へ這入つたのは午後七時過ぎ、二日ぶりに電車の走るのを見るのも、流石に都らしく懷かしい思ひがした。
 南は糸滿から南山城、北に名護運天から北山城をも訪ね得た私は、これで先づ/\琉球一見の目的を達したのを喜んだが、宿まで送り届けて下さつた小竹君は、イヤ未だ一つ重要な見物場處が殘つてゐる。それは即ち有名な辻遊廓である。御疲れでなくば後から御案内致しませうとの事に、如何にも那覇に到著以來、毎々聞かされた此の遊廓を瞥見しなければ、何だか濟まぬ氣がしたので、夕食後○君の同道を煩はすことに決心した。
 辻の遊廓の起原は古く、寛文十二年(康熙十一年)方々に散ばつて居つた尾類ズリ、即ち女郎をこゝに集めたのに始まるのであるが、明治四十一年仲島渡地の娼家をも併せてから、益々繁昌して今日に至つたと言ふ事である。那覇の他の民家とは違つて、青樓は多く二階屋であるが、固より大した大厦高樓ではない。此一廓では夜の九時頃は未だホンの宵の口であらうが、それでも嫖客の往來で大分賑つてゐる。板敷の廊下に續いた玄關には、どの家にも二三の女が立ち現はれてゐるが、強ひて客を引ぱつてゐるのは餘り見受けなかつた。否、初現の客がウカ/\這入つてでも行かうものなら、「あちやめんそーり」(明日御出で候へ)と體よく斷られるとの事で、數年前我がS・K君は哀れ其の運命を負はれたと聞いた。
 私は○君の案内があるので、「竹の家」とか言ふ家に上り、大いに(?)歡迎せられたのは有難い仕合せであつた。女連は別々の部屋を持つて居り、内部は美しく飾つてあり、夜具棚の中にあるキレイな蒲團まで善く見える處などは、丁度朝鮮平壤で見た妓生の部屋と同じであつた。私達は階上の大きな座敷に請ぜられると、○君舊知の妓チルさんが出て來て泡盛の杯を酌み、蜜柑等をむいて呉れる。別に食物等を多く出すのではなく、その代り鶴さんの朋輩の女達が、三四人入れ代り立ち代り這入つて來て接待する。私達は鶴さんに踊りを所望すると、他の老妓の蛇皮線に合せて、彼女は例の紺ガスリ、前結びの帶、櫛髮風の姿で、いろ/\の踊を舞ふ。其の手振り足振りの優しさは、此間劇場で見たのとは又違つた御座敷のしめやかさが漂ふ。私の短い沖繩の旅も今宵限り、南島の情緒溢れる此の島に、又何時訪ね來ることが出來ようかと思へば、可憐な島の女の舞踊に、しみ/″\と名殘が惜まれるではないか。僅かばかりの纏頭にも、彼女達は感謝を捧げて、一時間ばかりの後私達は鶴さんの握手に送られて寶來館へ無事歸り著いた。
 辻の遊廓は所謂遊廓の目的の外に、實はカフエー、レストラン、サロンなどの各種の設備としての意義をも具へてゐる處が面白い。將官教員などの宴會も以前は多く此處で開かれ、甚しきは婦人會さへ催されたことがあると言ふ。蓋し最も輕便安値であり、而かも最も朗かな氣分を與へるからであらう。一方から言へば各種の社交機關が、未だ分化しない状態にあると言つても宜いが、同時に又女連は女給であり、藝妓であり、又娼妓である凡ての性質を保存してゐる處に善い點がある。從つて此の遊廓に出入することは、必しも士君子の排斥を買ふことでないとも聞いたが、歸洛後伊波君の『沖繩女性史』を拜見すると、斯の如きは明治維新後、内地から獨身者の縣官などが來て、自から馴致した惡風であると書いてあつたので恐入つてしまつたが、それにしても彼等は朝鮮の妓生と共に、昔の白拍子的の遺風を傳へてゐる、現代に於ける可憐なる一つの存在である。之を呼ぶに尾類ズリの文字を以てするのは、如何にも殘酷な氣持がすると思ふのは私ばかりではあるまい。

二一 識名園、沖繩の別れ


 昨夜遲く宿へ歸ると、病院の中川君が待つて居られて、古い琉球の型染の衣裳や、下手物の陶器などを持つて來られ、私は坐ながらにして好箇のお土産を獲ることが出來た。さて私の沖繩滯在の最後の日は午前中西山君に伴はれて、小竹君、島袋君と共に、首里の西南部にある尚家の南苑識名園を拜見することが出來た。規模は必しも大きくないが、大體は日本風の庭園で、心字形の池の中島には六角亭があり、書院の御殿も亦和風であるが、石の拱橋だけが支那風である。優雅な庭園の一端には、勸農臺と言ふ見晴しがあり、島尻の平野丘陵を望み、昔國王はこゝから人民の農業に從ふ所を見たと言ひ、又支那の册封使がこゝに來ても、沖繩の島の小さいことを隱す爲めに、海が少しも見えない樣になつてゐるとのこと。但し今は遠い丘陵の樹木がなくなつて少し位海岸の隱見してゐる處もあるが、とにかく廣い見晴しである。歸途には人家の石垣の上に生えてゐる「大谷ワタリ」を記念に取つて歸り、又高倉のあるのを見た。
 宿へ歸つて中食をして、二時出帆の船に乘らうとすると、出帆が五時に延びたとのことで、圖書館や縣廳へ挨拶に行く時間が見つかつた。いよ/\四時過ぎ臺南丸に乘込むと、丁度前内務部長が歸國せられるのを送る人々で、船も岸も見送りの男女で一ぱい。私は丁度京都へ歸られる福原君と行を同じくした上、はからず臺灣からの歸途、此の島に立寄られた農學部の沼田教授とも同船したので、神戸まで四日の船路の淋しさを忘れることが出來た。
 やがて臺南丸は埠頭を離れて港外へ搖ぎ出した。數日の間さながら古い友達の樣に親切にして下さつた西山、眞境名[#「眞境名」は底本では「眞識名」]、島袋などの諸君と、振りかざす帽子の影も互に見えなくなり、波上の岬、無線電信の柱も、やがて視界から消え去つてしまつた後、私は臺南丸の船室に這入つて、三十餘年前日清戰爭の直後、亡き父が此の船に乘つて臺灣に往來せられたことを思ひ出して心を破つたと同時に、當年の優秀船が今は琉球通ひに廻はされてゐる運命の變轉を悲しんだ。而して大島に寄港した翌日からは、晝は中城貴族院議員の氣焔に聞入り、モンスーンの大ウネリに惱まされつゝ、夜は樂しかつた沖繩の旅に夢路を馳せた。
 清河君が私の小さい娘に贈られた木の葉蝶の額、福原君からの蘇鐵の鉢をはじめ、大谷ワタリの株、パパイヤの籠等々、南島のお土産を大事に携へながら。
(ドルメン二―九 昭和七、五―一二)





底本:「青陵隨筆」座右寶刊行會
   1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「ドルメン 第二號〜第九號」
   1932(昭和7)年5〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※校正にあたって「現代紀行文學全集 第五卷 南日本篇」(修道社、昭和33年9月15日発行)所収の「沖繩の旅」を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2006年1月14日作成
2012年5月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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