わたくしはいつもの瞑想をはじめる。――否、瞑想ではない、幻像の奇怪なる饗宴だ。雜然たる印象の凝集と發散との間に感ずる夢の一類だ。さうしてゐるうちに突然とわたくしの腦裡に、仙人掌と花火といふ記號的な概念が浮んでくる。その概念が内容を摸索する。人間の日常生活には、さして交渉を保たないこの二つのものが、漸次に一つの情調の中に人工的な色と形のアレンジメントを創造する。
仙人掌の聯想の奧から、まづ第一に、或る老人の顏面が潮氣をふくんだ夕影のしつとりとしたアトモスフェアの中に現れてくる。顏から頤にかけて、拂子のやうな長い眞白な髯が垂れてゐる。そのためか顏色がひどく赤く見える。それがいつも眞白な髯に醉つてゐるのではないかと思はれる。
老人は右の手に亞鉛製の如露を持つたまゝ、左の手で髯を靜かに撫でおろす。聲調の緩い言葉がそれに伴つて起る。
「不思議ぢやありませんか、この仙人掌にこんな花がさきましたよお。」
吐いたものを呑みこむやうな、この海村特有の語尾のひびきが、「不思議」といふものをゆつたりと運び來り運び去るが如く聞える。
如露のさきからは濺ぎ終つたあとの雫がぽたりぽたりと滴つて、まだ熱氣を含んでゐる砂地に染みこんでゆく。その雫の一つが仙人掌の花の上に落ちかゝつたとき、鮮紅に匂つてゐる花が微かにゆらめくと見てとつたが、わたくしはその花の姿から、怪しい微笑を控へる異國の貴女の畫像の表はす情趣と共に、日光を怖れると同時に日光を嘲笑ふマニヤにかゝつてゐるステンド・グラスの神經質とを想ひ浮べる。そしてわたくしの眼の前には極めてイマジナチイブな瞬間が閃めいて過ぎ去つたのであるが、ふと氣がつくと、花の頸はまたもとどほり眞直になつてゐる。
傍に立つてゐる別莊守の老人の顏には單純な沈默がいつまでも夢をむさぼつてゐる。
この老人が足輕であつた若いをりに、米利堅の黒船といふものが渡來して、世の中が大變にざわめいた。今の老人はその時下田に警護のために行つてゐて、さまざまな不思議を感得した。老人はこんな話をよくわたくしに聞かしてくれたが、一つには記憶の朦朧と混雜とを恐れるがため、また一つには時世のちがつた新代の若者の心に、その當時感じたこゝろもちが如何にも傳へにくいがために、いつもそんなをりには、どことなく漠然とした、耻ぢるやうな表情をしめした。老人の顏には、今もまたさういつた空虚な影があらはれてゐる。
老人はこの齢になるまで仙人掌の花を注意して見たこともなかつたらしい。
別莊のうしろからは駿河灣の紺碧の色がのぞいてゐる。鮮紅の仙人掌の花は、やうやく逼り來る黄昏のかげにつゝまれながら、大海の潮を傾け盡すも洗ひ去り難い、重い罪の斑痕のやうに見える。
執著と矜持――その表面には濃艶と奇異がある。わたくしは多くの植物のうちで最もこの仙人掌を好む。道徳的な何等の意味も、その形と色とから探り求めることは出來ない。自然であつて、自然の力が變形させたエニグマチカルな生態に、わたくしは多趣なる技巧の滋味を深く感ずるものである。
一個の仙人掌は美的鑑賞に上す價値があるばかりでなく、わたくしには耽美主義そのもののやうに考へられもする。結局、人間の藝術は自然の變形であるに外ならない。自然の精髓を捉へて、對象の自然を情緒的に神經的に變形させる。自然を解釋するといへば平俗に聞えるが、自然を變形させるといふことは、さう突飛なことでもないのである。その中から極めて魅惑的な風光が現はれて來る。藝術の尊重すべきところは、最初にもまた最後にも、自然の力の代りに藝術家の力の働いてゐるところ、その變形の祕術でなければならない筈だ。
物質の剖析は科學的に、肉靈の合一は宗教的に、人生の改造は道義的に、そしてまた自然の變形は藝術的に、それぞれの方向を分つてゐる。その各は誇張された人間の思索及欲望である。然しながら藝術のそれが最も個性的であるのは、その一々に混同すべからざる深大な技法があるからだ。肉靈合一の一元的説相がいつしか空虚な夢に陷るのを引とめ、破壞すべき道徳をも認めぬところに、却て眞生命の流動を感知し、これを多樣異常なる技法によつて永遠の苑に移植する。藝術とは畢竟この事に外ならない。
然るに何うであらう。現代の諸の方面の中で、純藝術の一面が頗る異端視されてゐる。その上に時機を得たジャアナリズムが頻りに文藝の大衆化を宣揚する。――だがわたくしは今あまりにも見さかひなく、徒らな感慨に耽りすぎた。わたくしはまた徐ろに幻想の花園を徘徊しよう。
Fleur Mystique ――これはギュスタアヴ・モロオの圖題の一つだ。神祕なる花卉の中には各時代の耽美性によつて代表された百合の花の屬や向日葵を數へあげることが出來る。わたくしは更にモオリス・マアテルリンクの Serres Cnaudes をそつと窺つて見る。よくは見極められぬが、月光に育まれた奇異な草木の花葉から蒼白いさざめきの聲が起る。こゝにもあのラファエル前派の蘭のにほひが幽かに顫へてゐるらしい。歩を轉ずればシャルル・ボオドレエルの Fleur du Mal ――こゝに到つては言葉を知らない。爛れた落日の光に照らし出される肉慾の精神、宿業の重い霧のメランコリア、執著の火むらから生じた摩訶鉢特摩。――何とでも云へるが何事も云へないのである。
それは兎に角、わたくしは、あの寶石の情調を解した色彩家、ギュスタアヴ・モロオはまさしく仙人掌の愛好者であつたといふことを、こゝに書き添へて置きたい。
わたくしは世俗のかげにかくれて、をりをり植物園に出掛けることがある。それはその園内にある温室の、しかも仙人掌を蒐集したその一隅に心が牽かされるからである。この時わたくしの渇きを覺える眼精には素より植物としての仙人掌は映じないのである。どれもこれも不思議な幻覺に襲はれて美しい曲線の麻痺を示す蛇蝎類の姿だ。わたくしの胸にはセンジュアルな情念が湧いて來る。夢を見る。どこか遠い異國で、藝術的な傳説が實現される。塵もすゑない大理石の階段に裸體の女が日光を享樂する。女は慵い眼瞼を半ば開いて、柔らかな足の指先に這ひ寄る美しい蜥蜴を愛してゐる。――わたくしがこんな夢に耽つてゐるひまに、幾組かの見物人は、わたくしの側を通り越して往つてしまふ。
紅い唇が驚異の聲を放つ。
「まあ、これが仙人掌」かう云つて、無意識の衝動に驅られたらしく同伴の女の肩に手をかける。だがその女は冷然として、
「仙人掌てわたし嫌ひよ。厭らしいわ。あら、あんなのがありますよ、そらあすこに」と云つたが、急に「さあ行きませう」と云つて、うながしたてた。
しばらくして二人の華やかな笑ひ聲が大きな緑の間から洩れて來る。
わたくしはまた温室内の蒸した淡碧の光線に浸つて、優曇華とも見え、毒茸とも見える花の姿を賞でながら、女の嫉妬といふことを考へて見る。
わたくしが仙人掌に親んだのは、少年のころ、兩國の川開きの歸り路で、夜店からその一鉢を買つて來た時から始まつてゐる。それは偶然であつたとだけには思はれない。わたくしの藝術の途もまた當夜の光景と異常な美を欲求する同じ線の上にあるべき必至の運命であらうも知れない。
兩國の川開きについてはこゝに多く云ふの必要を認めない。江戸時代の都會の趣味を集中した年中行事の名殘の一つも、今では殆どその美的精神を失つてゐる。夏の夜の都會の空も、耀くまゝに滅えてゆく精錬された色彩の雨の代りに、單調な電燈飾によつてその幽趣と諧調を破られてゆくかのやうに思はれる。光と色の微妙なるエフェクトを花火の技術から感ずるものは、その人自身すでに一個のアアチストである。韻律的な、そして即興的な技術の極致が暗碧の空に展開する。わたくしは花火の技術に於て印象主義の瞬時的な光影の眩惑を認める。
殺伐な火藥の修錬され整調された變形がこゝにある。それはまた人間の贅澤な誇と歡樂を示すと共に、滅えてゆく銀光のすゑに夏の夜の哀愁を長く牽く。
廣重の版畫が殘る。
そして英吉利は大倫敦のテエムスの河のほとりで、「青と銀とのノクタアン」が描かれる。バッタアシイ古橋のシルウェットを月夜の灰碧の空氣の中に捉へた畫人は廣重の版畫に對する鋭い感覺で張りきつてゐる。更にまたクレモン・ガアデンスの煙火戲の夜、崩れ落ちる五彩陸離たる火光を、いみじくも繋ぎとめた「黒と金とのノクタアン」を見よ。老ラスキンをして理性を失はしめた前代未聞の藝術がこゝにある。
官能の音樂、神經の詩がこれ等の夜曲の中に顫へてゐる。
わたくしは好んでホヰスラアの描いた藝術の氣分を想像の綾に織りまぜて置いて、これを鑑賞すると共に、飜つて廣重の古調をなつかしむ。
純藝術はどこまでも異端である。花火の畫を描いたホヰスラアは世間から山師と呼ばれてゐた。
「世俗と歡樂の途を異にしたこの人――異常なる模型の案出者――例へば火花に照らし出された顏面の如き奇趣ある曲線を、身邊に於ける自然の中に認めた人――この超然たる夢想家こそは第一の藝術家であつた。」―― Ten o'clock.
(明治四十三年)