草わかば

蒲原有明




やさしきこころのうちに愛のひそむは、森のみどり葉がくれに鳥のすむに似たりといふなるに、このはかなき草わかばのかげにはいまだ夢さそふにほひもなきがごとく、わが調に慣れぬ胸のおもひは、色をも彩をもなしあへぬをいかにせむ。

春の歌


歡樂よろこびふかくもえいづる
香を慕ふにも草嫩くさわかば
細き葉がくれ身をよせて
ぢてひそめる花の影

羞ぢてかくるるさまながら
花はほがひのよそほひや
空には夢のたはぶれの
紅こそ淡くかかるなれ

くちびるく歌の君
春のたくみの手は高く
夕にはまたあやを織る
光は雲にながれけり

日神頌歌


いのちのねざしうるほへば
ここなる花もかをるなり
文布しづりります羽槌雄はづちを
神の高機たかはたしののめに
いろあやとくもととなひて
影かすかなり星のをさ

雲はいと濃き紫に
うすくれなゐの糸をぬき
高野路たかのぢ夢の花罌粟はなげし
つぼみひらくる曙や
げにかぎりなきよそほひの
はえあふぐこそゆかしけれ

いとものふりし冬の夜の
幽宮かくれのみやのまゆごもり
もぬけいでては天の原
春の霞のもろつばさ
まだかよわげに見ゆれども
おほはぬ空もなかりけり。

夜の闇消えてゆく空に
見よ白鳩のはねぎて
にほふ桂の眞鹿兒矢まがごや
生矢いくや千箭ちのりゆぎ
日女ひるめの神は春かへる
かの稚宮わかみやにいでましぬ

御統みすまるの玉おとたかく
あめにきこえて曉の
星の光のゆらぐ時
この世なやめる人の身も
こごえしたまもやはらかき
春の日影にむかへかし

をりこそよけれ常世とこよなる
うまこのみ新釀にひしぼり
碼瑙めなう谿たににしたたれば
わきほとばしる白泡しらあわ
にほふがごとくみなぎりて
光さしそふ日のみ神

ああうるはしき※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)ひるめむち
まだ天地あめつちのわかくして
影清かりし朝ぼらけ
遠き光を身にしめて
誰か高市たけち神集かんつど
神のみ聲をこの日傳へむ

をとめごころ


手にふれたまふことなかれ
うれしき君とおもへども
まだうらわかき野の花は
あつなさけの日にたへじ

ゆめふれたまふことなかれ
いといともろきわが胸に
激浪おほなみたちて白珠しらたま
涙くだかばつらからむ

ただふれたまふことなかれ
めてぞ清き戀なるを
もしかかる夜に罪やどる
ちゆかばいかにせむ

新譜


其一


おもふに夢に

おもふに夢に誰かわが
手にふれたりや知らぬまに
空はかすめる夢としも
げに春はこそいふべけれ

知らですごしぬこの日まで
そのめごとを歡樂よろこび
さあれ知りてはやすからず
ああわが胸のいつになく

おもふに誰かめづらしき
たよりを夢に傳へけむ
かしこよりとしたのむにも
あやなく雲ぞかすみたる

嗚呼さばかりに何ゆゑに
あくがるるわがおもひぞや
微草をぐさよなれもゆかしげに
もゆるは何の夢ごこち

おもふに春にいづこより
遠き調の傳ふとも
かすかなるべきいとにだに
うらわかみこそれもすれ

色し慕へどわりなくも
香をし戀ふれどさながらに
されば少女をとめのわがこころ
めてかつひに夢みてか

其二


野路よりひとり

野ぢよりひとりかへり來て
あやしくなぞやはづかしき
髮にかざしし草の花
それさへめてえも見せじ

髮にかざしし草の花
色さへ香さへさとらせじ
見せよと人のしひていはば
しづかに胸にひめてまし

靜かにさらばめてとか
ああいつはりぬわれながら
春日はるびあまりに樂しくて
かくこそ胸はさわぐなれ

浪だつ胸にたよりつつ
花は眠りてあるならむ
よしや夢みてさめずとも
つらき人にはえも見せじ

彩雲


春うらわかき追憶おもひで
空のこころもかすむ時
雲は流れて古歳ふるとし
よろこびにこそかへるなれ

ああその影のいと淡き
光にゆるくろかみの
少女がくしに匂ふごと
輕げにとくるすがたあり

ああそのかげの靜けさや
たとへば遠き海原うなばら
小島をじまうかびてみゆるごと
うれひにさわぐ浪の外

われや野の空うちあふぎ
いつかなげきを忘れけり
なげきよりこそ人しづ
春のあやある雲を見よ

さてしもなさけいとあつ
胸のしろきにくらぶれば
げにれがたきたのしみの
夢かよふなり春の雲

あくがれたちてながむれば
ちゝをゆく船に似て
また見かへせばうまざけの
大海おほうみにこそ浮びけれ

誰かおもはむこの時し
なかぞら高き紫の
雲ゆふまぐれ消え去りて
幻影まぼろしつひにたえむとは

はえあるさちよゆくすゑを
おもひわづらふこともなく
雲もながれて古歳ふるとし
よろこびにこそかへるなれ

春の野べ


わかやぐひかり野べのいろ
しらべもかすむ春のうた
あはれこの世にいくちとせ
人はなさけのした

たのしや遠きいにしへ
その日に空のあやを見し
小琴をごともけふはよろこびの
まためづらしき音にたたむ

あかつきひとり消えてゆく
星よ雲ゐのみちすてて
しばしは人の世にくだり
めぐらばいかに春の野を

ここには匂ふ若草わかくさ
ゆらめくいきももゆるとき
よろこびしたふ胸にしも
あつきおもひはやどるなり

花野はなのたてのひとおもて
大神おほかみの手のたくみぞと
夢よただへてわづらひの
征矢そや鳴りやめるかげにかくれむ

戀ぐさ


さにてはなきや昨日きのふこそ
冬のあはれはこもりしか
古井ふるゐのかげよ今日けふはまた
追憶おもひで深き草の花

追憶ふかき草なれば
すみれやさしくにほふなり
やさしく匂ふ花なれば
そのこころさへさとからむ

されば知れりや歡樂よろこび
泉にかかる琴のねを
ここにはたれきすてて
世はすががきのみだれのみ

さてしもかたきよろこびや
かくも忘れしめごとや
いやまし人は嘆く日に
匂ひは深き花すみれ

常磐ときはみどり葉をかさね
森の香いかに高くとも
がにほはしのくちづけに
われはかへじよ花すみれ

神のこころはほのかにて
人知るきはにあらねども
いくよ忘れし思ひさへ
ただこの花に忍ばるる

げに世は夢よ歡樂よろこび
泉はつきてかへらねど
古井のかげの戀草こひぐさ
なほ新しきにほひあらずや

君やわれや


海に來て戀をおもへば
わが戀はみだるるうしほ
君にゆき君にむかへば
わが身たださみしきおもひ

わがなさけ君がなさけに
ふたつもしくらべみるとき
いかでわが青沼あをぬまの水
君が野のいづみにかむ

みんなみの花のかをり
浪ひびく夢の小笛をぶえ
君はこれにほひの身なり
君はまたしらべのすがた

われはまたの小鳥
君がそらにかかれる
うるはしきひとみの星の
色すめるかげをぞたのむ

かくてわがいのちかめ
にごりむひくきながれ
君が戀ほのほはげしき
海にこそそそぎいでしか

君はまた常住とはのよろこび
緑なるつきせぬ廣野ひろの
その廣野君が狩くら
狩くらにわが身迷へり

わがなやみ君がよろこび
わが愁ひ君が琴のね
白銀しろがね獵矢さつやを君は
小男鹿さをじか痛手いたでぞわれに

君が戀あまりに高く
黄昏たそがれも知らぬ光や
浮雲うきくものかげにもあはれ
たふれゆくわが身およばじ

牡蠣の殼


牡蠣かきからなる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
ひとりあやふく限ある
そのおもひこそ悲しけれ

身はこれ盲目めしひすべもなく
いはほのかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
しほのみちひをおぼゆめり

いかに黎明あさあけあさじほ
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼

たとへ夕づついと清き
光は浪の穗に照りて
遠野とほの鴿はとの面影に
似たりとてはた何ならむ

いたましきかなわたづみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど

されど一度ひとたびあらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかはくだけざるべき

樹蔭


いまだ葉守はもりの神わかく
枝うちかざし風呼べば
わかるる人もしばしとて
夏は樹蔭こかげを慕ふらむ

さればきのふのわが春よ
草ひきむすびやすらひて
若葉わかばかがやくかげにこそ
過ぎし夜がたりつぐべけれ

ひそむは何のこころぞや
その葉がくれの夢にだに
春よ消えにし花のおも
淡げにのみも見えよかし

青野花草


野路のぢ戀路こひぢにあらねども
野草のぐさあつきあくがれに
みどりの夢のそのいきの
はげしく深き夏の野べ

かなたに消ゆる世のかげの
みだれはここにをさまりて
青野あをの花草はなぐさ日にとくる
白銀しろがねに似たりけり

光は高き洪水おほみづ
この時ひとりただよへば
聲も傳へぬ深海ふかうみ
小舟をぶねの身こそをかしけれ

かしこ港やいと清き
おもひぞつる青葉かげ
かしこ盡きせぬ眞珠しらたま
さぐるもよしや野のいづみ

戀ぢは野ぢにあらねども
なやみの草の夏しげき
かげにもなどや靜けさの
よろこび深き夢のなからむ

枳殼


浪をかぎりて磯濱いそはま
かわけるすなが置きし
へだつればこそ君が
枳殼からたちかき恨みしか

雨緑あめみどりに鳴りみて
皐月さつき風なく日はしぬ
垣根いといとしめやかに
けふ枳殼の花一重はなひとへ

一重に白き花あはれ
一瓣ひとよにこもる夢あはれ
身はいやしくて思ひのみ
しげきわれにはなど似たる

われやたたずむ夕まぐれ
嘆くと知れる君ならず
もとよりかどの枳殼の
花をしづる君ならず

あまりある血をいたづらに
青葉の下に冷さむや
一たび君がにほひある
こころの底に染めてこそ

可怜小汀

鴎に寄する歌

何とはなしにはてもなく
昔にかへるわが身かな
おもふはその日旅の空
すでに三歳みとせを過ぎにけり

その日は海の夕まぐれ
わが船浪にぎくれば
鴎つばさは白くして
ひとりしほげの闇をゆく

苦吟くぎんあやめもわかぬ時
靈光れいくわう頭を射るごとく
鴎よはじめなれを見て
ひそかに驚きぬ

嗚呼塵染めぬつばさかげ
わが身をれよかくばかり
愁ひはさわぐ激浪おほなみ
やみがたくしてすべぞなき

鴎よ行方ゆくへ遠からむ
消え去るかげを惜めども
可怜小汀うましをばまのいづかたを
が戀ふとしも知らざりき

おもひはつきずある夜また
夢にうしほの流れ來て
大海おほうみとほくかぎりなき
そのはてをしも慕ひけり

可怜小汀か甲斐なくも
問ふはいくたびそもいづこ
八汐路やしほぢかたき沖の上
夢浮舟のすゑ悲し

鴎よかくてはてもなく
昔にかへるしばらくは
白き翅にさそはれて
胸ゆらぐこそあやしけれ

菱の實採るは誰が子ぞや


ひしとるはが子ぞや
くろかみ風にみだれたる

菱の實とるは誰が子ぞや
ひとり浮びて古池ふるいけ

鄙歌ひなうたのふしおもしろく
君なほざりにうたふめり

こゑ夢ごこちほそきとき
ききまどふこそをかしけれ

かごはみてりや秋深く
はさばかりにおほからじ

菱の葉のみは朽つれども
げに菱の實はおほからじ

かごはみたずや光なき
日は暮れてゆく短かさよ

なほなげかじなうらわかみ
なさけにもゆる君ならば

君や菱る影清く
はしる市路いちぢのゆふまぐれ

そのすがたをばあはれみて
ああなどたれかつらからむ

君がゑまひの花かげに
ふれなばおちむ實こそあれ

うるはしとおもふ實のひとつ
いつかこの身にこぼれけむ

旅ゆき迷ふわづらひも
しばしぞ今は忘らるる

あやしむなかれわれはただ
なさけのかげを慕ふのみ

さながらわれは若櫨わかはじ
枝に來て鳴く小鳥ことりのみ

ゆふづつ


祈祷いのりあげよ』と星の
少女をとめ一人ひとりその聲よ
愛の泉のしたたりや

その聲よまたさながらに
聖なる小河をがはうち掩ふ
蘆葉あしばさやぎのひめごとや

その聲音こわねこそすみわたる
光の海の遠浪とほなみ
天いと深く傳ひゆけ

『いざ祈祷いのりをぞはえおほき
つとめ』といへばひざまづく
たまの身かげのまた二人ふたり

一人ひとりは高きよろこびに
黄金こがね彩雲あやくもとほ空の
そこにかがやく色を

一人ひとりは殘る愁ひより
むらさき濃雲こぐも故里の
をしまとふとなつかしむ

二人ふたりおもはずかしここそ
ああ夕まぐれわがはと
言はむのまどひさてやみぬ

祈祷はつひにつとめはて
高榮たかはえめぐる聖燭みあかし
ほのほもここにともされぬ

見よ聖燭の火はひぬ
さかりぬりぬ(嗚呼何ぞ
人の世われに夕短かき)

夕かげ


かの紫の夕雲ゆふぐも
かの黄昏たそがれのさびしさの
あふぎ見るだにたへがたき
いろこそ深く染めにけれ

あやある雲に慕ひよる
愁ひの影の夕暮の
魂の少女のくろ髮の
にほひもあらぬ空のうへ

我が胸にしもさらばまた
黄金こがねの色のかはりはて
追憶おもひでつらきかたみなる
みだるる髮のかからずや

みだるる髮はかかるとも
わが手にさぐるちからなく
ひとりもだゆるこころより
ただ大空おほそらをながめけり

沈むこころの海原うなばら
浪の響はさはあれど
やみなるいたみたへがたく
かじとするにすべもなし

わかき血潮はしづみゆく
わが身にもなほ戀あらば
高きみくらにかなしみの
聖燭みあかしへむわがねがひ

問ふをやめよ


かがやきわたれる星のかの
いづれの光もいと慕はし

さはあれひとへにわけてめづる
ゆかしき影こそ胸は照らせ

いろあやととなふ虹のごとく
そのかげあめよりつちにわたり

すぎにし歡樂よろこびいにしうれひ
やすみの園生そのふに夢をさそふ

かたらひ契りし少女の名に
ごとよびさます星は照らす

少女をとめはうせしやはかはいづこ
わが星いづれと問ふをやめよ

憂愁


はてなき空を流れ去りて
星の光も消ゆるごと
愁ひのかげは時として
胸ふかくこそおちにけれ

わがよろこびは新草にひぐさ
野べとしおもふその日だに
いのちはえの花もなく
夕影ゆふかげなどや沈むらむ

愁ひのかげはおほひ來て
闇となる身のはかなしや
幾世いくよなやみの羽音はおとさへ
さても聞きしるわがこころ

げに人の世のことわりの
深きにほひもたそがれて
淺瀬あさせすべなきわづらひの
ながれに夢はみだれけり

たまの身かをるかつらかげ
あめなる光戀ふれども
身はいたづらに沈みゆく
ひくきなやみをいかにせむ

かたみの星


光はにほふあめ
慕ひしたひしたのしさに
薔薇さうびみやとなづけつつ
めでにし星もちてけり

こよひは清き愁ひより
うるほひひらく影見れば
百合ゆり宿座やどりとよびかへて
ふたたび空にあくがれむ

追懷おもひで深きかがやきぞ
迷ふわが身のたよりなる
さればよ照らせ荒磯に
またやみ沈むはかかげに

追憶


光かすかに日は落ちて
愁はせまるゆふまぐれ
またうちさわぐわが胸の
ものおもひこそあやしけれ

つつむは何のこころぞや
おもひいづるぞさてはよき

ゆふべなごりのしづけさに
しばしはあはき影ひけよ
野のあけぼのをわれひて
ひて過ぎしも夢なりや

さしもつつみて何かせむ
憶ひいでずばかひなしや

ただかりそめに星めて
ただうるはしき人すごし
ほのぐらきみちふみゆけば
あつき血しほもえにけり

さあれつつむに忍びむや
憶ひいづればたのしきを

樹杪こずゑわかるる光こそ
雲にかくれてゆきにしか
今宵こよひは昔たえはてし
清きしらべもかへり

つつむといふもこころから
ああまたおもひいでてまし

嗚呼かの野邊のかたらひや
そのさち常久とはきざれば
よろこびのはなせずして
生命いのちくさもにほふなり

つひにつつむにたへがたし
おもひいづるぞさてはよき

かすかに胸に


かすかに胸にけふはまた
むかしの海のひびきすと
ひとり寂しきうたがひに
山邊やまべおきなつぶやける

山邊にかくは齡老としおいて
遠きおもひもあらざりき
今日けふしいかなるたはむれぞ
つばさは生ひぬわが夢に

雲にあやあり高嶺たかねなる
あらきいはほをつつむとき
はえかげをはなれゆきて
夢の翅ぞ匂ふなる

さいぶせさは谷の奧
かくて忘れつ故郷ふるさと
かなたに今はひたすらに
海の響をきかむとす

かすかなれどもわかやかに
みなぎりわたる大海おほうみ
そのおとなひよ歡びの
わが日むかしの歌の聲

れてこそまたなつかしみ
ふるるによけれ何日いつまでも
されどわが世の磯濱いそはま
浪はひとたびすぎしのみ

浪はくだけてすぎけれど
今はた聞けばのちの日の
すさめる胸の追憶おもひで
海のひびきのゆかしきを

なに今更いまさらにたゆたひて
夢の翅のおとろふる
獨りかくてもおくつきに
とくいりはてばいかにせむ

嗚呼また一重ひとへしほからき
狹霧さぎりひらかむ夢もがな
もとなぎさのさのみやは
いつまでわれに見えぬらむ

白晝まひるのをりの眞砂路まさごぢ
うしほはなあきらかに
うつりしさまを戀ふれども
つらくすべなくなりぬめり

嗚呼堪へがたし遠海とほうみ
とよみむなしく聽てあれば
そは似たりけりかのこび
あだなる人の私語ささやぎ

すべて忘れてありつるを
夢よいかなるいつはりぞ
翅もつひに沈むまに
をぐらくなりぬ空のはて

草莽蕪頌


よろこび
なれがゆらめくたかむね
大海原おほうなばらにゆきめぐれる
うしほなれやさこそ
光にみちてもあふるるなれ

よろこび
なれがにほへるくちびる
かの曉にあめあけゆく
焔なれやさこそ
熱きいとふるへにたつなれ

よろこび
なれがすがたや何なる
のぞみに照れるそのよそほひ
さればさればさこそ
いといと高きをたたふるなれ

東方ひんがし
ここにくにするよろこび
高日たかひめぐれる黄金こがね御座みくら
ああ誰かはここに
くらのにほひを仰がざらむ

くにたみ
われらささぐる讃歌ほめうた
せめて眞白き翅とらば
ああ御輦みくるまめぐる
この日のはえもてあまかけらむ

よろこび
なれがねがひはくまなく
かがやくさちやそのもろごゑ
さればさればさこそ
いといと高きをたたふるなれ

高潮

曙のうた

みなぎひら千重ちへの浪
つかるる色は更になし
いだくはつよく張りし琴
おとの高きにへばなり

深き遠きを問はずして
胸によろづの聲を
夜をいたみて夢おほき
人の世の岸洗ひ去る

曙に海鳴りわたれ
 鳴りわたれ海あけぼのに
磯うち湧きてあがり
あふれていさごめよ

曉の星あふぎ見て
びていざよふ雲の君
にほひふくめる唇に
むるは朝の光なり

曉の空いと清く
けゆく雲はやすらひて
あやあるはえの光こそ
その胸にしもうつりけり

曙に風吹きかへせ
 吹きかへせ風あけぼのに
高きに光まと
かすかにきよく拂へ

うれひは谷の霧なれば
思ひは暗きさはがくれ
かなしみ細くいとにが
小草をぐさりしわが身さへ

高潮たかじほ滿ちてめぐりゆく
海のほとりによみがへり
雲は匂へる朝ぼらけ
生るるたまさちおも

曙に海鳴りわたれ
 鳴りわたれ海あけぼのに
ゆたかに遠くたた
流れて岸にれよ

海にうつりつ輝きつ
雲あひきて影へば
母なるつち歡樂よろこび
塵もこの時またきよ

流轉るてん暫時しばしたちかへり
つばさをさめて虚空そらに見よ
野の花わかき髮に添ひ
森の香たけき胸に入る

曙に風吹きかへせ
 吹きかへせ風あけぼのに
はてよりはてに過ぎて
あめよりつちに下りよ
  *  *  *

かさなる歳月ときうつれども
忘られぬ日はまれなりや
古來こらい典籍ふみひもときて
世をばげきせしあとを見よ

無憂樹むいうじゆかげはなおほ
馬槽うまぶねに星照らす
嗚呼そののりの曙の
光もいつか影をさ
いたみてひとり嘆きつつ
懷疑うたがひみち人走る

奔放ほしいまゝなれかかる世や
熱慕ねつぼなさけにただむか
微闇ほのくらき空いかばかり
はなやかに染め來ずや
うちむせぶ海またここに
うしほふたたび滿ち來ずや
らずや高き遠き見て
けゆく磯にわが立てば
この曙に白銀しろがね
獵箭さつや弓弦ゆづるつがごと
雄々しき魂の生れいで
この曙に琴のねの
祝ひの歌をくがごと
やさしき魂の聲あげむ
われ今清き曙に
色と香を慕ふ時
おのづからなるいのちこそ
きてはてなく流れゆけ
響は浪に高くたち
光は雲にたなびきて
嗚呼この清き曙に
風吹きかへせ浪鳴りわたれ
(明治三十五年一月刊)





底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版発行
   1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「草わかば」新聲社
   1902(明治35)年1月
入力:広橋はやみ
校正:岡村和彦
2015年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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