1 八十吉
僕は
維也納の教室を引上げ、
笈を負うて二たび目差すバヴアリアの首府
民顕に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県
金瓶村で僕の父が
歿した。真夏の暑い日ざかりに
畑の雑草を取つてゐて、それから
発熱してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に
大地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の
想出が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『
八十吉』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば
念珠の
珠の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の
童であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。
読書がよく出来て、遊びでは
根木を
能く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の
午すぎに、村の西方をながれてゐる川の
深淵で
溺死した。
そのときのことを僕はいまだに
想浮べることが出来る。その日は村人の
謂ふ『
酢川落ち』の日で、
水嵩が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に
衝当つてそこに一つの
淵をなしてゐたのを『
葦谷地』と村人が
称へて、それは
幾代も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも
溯ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に
蘆荻の類が
繁つてゐて、そこをいろいろの獣類が
恣に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が
侵蝕されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに
葦切がかしましく
啼いてゐるこゑが今僕の心に
蘇つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも
黝ずんだ青い水を
湛へて
幾何深いか分からぬやうな
面持をして居つた。
瞳を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い
水泡が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから
縦ひ大人であつてもそこから余程
川下の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて
掌を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き
徹るやうな砂であるから、
水遊する
童幼は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの
拾競をしたりするのであつた。
旧暦の六月廿六日は『
酢川落ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、
恰も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は
死骸となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の
出づるところにかたまつて
喘いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを
頭に十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。
間が
好くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは
何時までも陸に上らうとはしない。
泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番と
謂つてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりの
距りがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの
刹那である。
そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。
稍しばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに
行著くと、頭の方を下にして水中ふかく
潜つて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息を
屏めて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件を
毫しも
暗指してゐる様な
気色がない。やや
暫くすると、童はつひに
空しく水面に浮上つて来て、しきりに
手掌で顔を
撫でた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身を
逆まにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた
葱の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの
蒟蒻煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は
其の数年後隣村の火事に消防に行つて身を
挺んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵王山の
麓に
湧出る硫黄泉の
湯尻が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の
東境に出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。
此の川の
川原の石はいつも白い様な色合を帯びてゐて
水苔一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと
稲作に害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと
謂つてよい。これを
酢川と
何時の頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は
米沢境の分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。
然るに昔、雨降の後に
洪水が出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な
恰好になつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつと
溯るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に
灑いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを
梁で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『
酢川落ち』と唱へる。
暁に先立つて
草刈に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では
人足を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり
余得にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『
酢川おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、
謂はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。
泳を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
八十吉は
終に蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の
溺れる有様、それから八十吉を水から揚げてから、
藁火をどんどん
焚いて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の
肛門から
煙管を入れて
煙草のけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉の
尻の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ
這入つたどつす。ほして、煙草の
煙が口からもうもう出るまで吹いたどつす』
かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に
驚愕するいとまもなく、父はあたふたと
著物を著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
僕は父の歿した時、
民顕の
仮寓にあつてこのことを
想出して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に
創痍を得て、いまだ父の墓参をも
果さずにゐる。家兄の書信に
拠ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)
2 痰
父は長い間、
痰を煩つてゐた。小男で
痩せた父が
咳込んで来ると、少し前かがみになつて、何だかお
腹の皮でも
捩れるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその
真似をしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から
睨まれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。
年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、
翁媼も、
婦も孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人の
侍が来て退治したり、松前屋
五郎兵衛が
折檻されて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに
山賊が出て来たりした。杉の木立の向うは
暗闇で星が輝いてゐるやうにも
拵へてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでも
穉ごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。
父の
痰持は僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つた
鯉が、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。大雪にならぬ前に、その鯉池の
浚ひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのが
本で、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は
腺病質でひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。
父は痰持であつたから、
水飴だの
生薑の
砂糖漬などを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよく
貰つて来たやうである。宝泉寺では村人が
餅を
搗くたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、
琥珀色の透とほる水飴が
甕に一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んで
嘗めた。
或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外に
棄てた。外には雪が一めんに
降積つて居る。生薑が雪の上におちると三四の
雀が勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの
因縁があるやうにも思へたがそれが
穉い僕には分からない。それから
大分経つて僕は東京にのぼるやうになり、好んで
浪花節を聞いた。浪花節かたりは、『せめて生薑の一へげも』といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は
漢方または民間
医方に興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、『
思の
云く。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。
寿を損じ筋力を減らす。
妊婦これを食へばその子
六指ならしむ』なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に
開痰の作用あることが説いてある。
痰火の
条に薑汁を用ゐることもあり、治
二寒痰咳嗽
一といふ句もあり、
導痰丸、導痰
湯などの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種の
哀ふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。
父は
三山や
蔵王山あたりを信心して一生
四足を食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、
牛が好い、
馬が好い、
犬が好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮
人蔘二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、
鮭の頭に爆発する
為掛をして、
狐六
疋を殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を
辿つて行くと
其処に狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の
藁為事が済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛の
旨く行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。
牛よりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく
勿体無がつたことをおぼえてゐる。
父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に
願を掛けて好きなものを断つことを
盟つた。ただ、酒も飲まず
煙草も吸はぬ父は、つひに
納豆を食ふことを
罷めた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの
精進もした。
併しさういふ普通の精進の
魚肉を食はぬほかに
穀断、
塩断などもした。みんなが大根を
味噌で煮たり、鮭の卵の汁などを
拵へて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を
為るかが分からなかつた。
3 新道
六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は
早坂新道を越えて
上山へ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れても
塵の立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの
尠い朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、
遙か向うから人の来るのが見えてその人に
逢ふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ
街道を父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は
朦朧としてゐるが、
松蝉でも鳴いてゐたやうな気持もする。
上山は温泉場で、松平藩主の
居城のあつたところである。
御一新後はその城をこはして、今では
月岡神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の
碧梧桐がここを旅して、『
出羽で
最上の
上山の夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の
真中を歩いて行つた。然るに
稍しばらくすると、僕のうしろの方で
人力車の車輪の
軌る音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ
懸声がした。これは
避けろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その
刹那にどしんといふ音がして
人力の
梶棒がいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
すると父は
突嗟に振向きしなに人力車夫の
項のところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の
咽のあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が
頻りにそれを止め父に
詫をした。
父は威張つた
恰好で尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを
避けて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に
耽つたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて
漸く
上山に
行著くのであつた。そこは
如何にも寂しい山道で、
夜遊に上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると
屹度道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう
稀なことではなかつた。
一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを
狼石と
称へてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には
狐狸の
変化に関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
そこへ
御一新が来、開化のこゑがかういふ山の中にも
這入つて来るやうになつた。
三島県令が赴任するとたうとう小山の中腹を
鑿開いて山形から上山を経て
米沢の方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が
称へたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の
人足で村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の
臨場の際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が
咎めると、『人としてねぶたきことはあるものを
吾にはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
さて新道が出来ると
人力が通る。荷車は
干魚などを積んで通る。郵便
脚夫が走る。後には
乗合馬車が通り、
新発田の第十六
聯隊も通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて
遠目鏡でそれを見た。
人力車夫が
此の大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種の
誇があつただらう。
恰もヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の
矜尚があつたに相違ない。父の
剛愎な態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その
不意打の行為が僕の父の矜尚の過程に著しい
礙を加へたから父は
忽然として攻勢に
出でたのではなかつたらうか。
4 仁兵衛。スペクトラ
仁兵衛は
謡の上手で、それに話上手であつた。仁兵衛はいつも日の暮方になると丘陵にのぼつて川に沿うた村だの山ふところに点在してゐる村だのを眺める。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも
著換してその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。
祝言の座に
請ぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く
饗せられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、
目出度や目出度を
諧謔で収めて結構な
振舞を土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を『
煙仁兵衛』と云つた。
その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に
騙されてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が
這入つて
酒風呂のつもりでゐる。そして、『あ、
上燗だあ、上燗だあ』と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の
勢が加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ
妖怪変化の出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は
概ね士族の若者であつた、なかには中年ものも居た。『窮理の学』といふことがそれらの教員の口から云はれた。父は冬の
藁為事の暇に教員のところに遊びに行くと、今しがた届いたばかりだといふ
三稜鏡を見せられた。さうして日光といふものは
斯うして七色の光から出来て居る。
虹の立つのはつまりそれだ。洋語ではこれをスペクトラと
謂つて七つの
綾の光といふことである。旧弊ものは
来迎の光だの何のと謂ふが、あれは
木偶法印に食はされてゐるのだ。教員は信心ぶかい父のまへにかう云つて
気焔を吐いた。
父は
切りにその三稜鏡をいぢつてゐたが、特別に
為掛も無く、からくりも見つからない。しかしそれで太陽を
透して見ると、なるほど七
綾の光があらはれる。
父は
暫く三稜鏡をいぢつてゐたが、ふと
其を
以て炉の火を
覗いた。すると意外にも炉の炎がやはり七つの綾になつて見える。父は
忽ち胸に
動悸をさせながら、これは、きりしたん
伴天連の
為業であるから念力で片付けようと思つた。
教師様。お前はきりしたん伴天連に
騙されて居るんではあんまいな。これを見さつしやい。お
天道さまも、ほれから囲炉裏のおきも、同じに見えるのがどうか。からくりが無いやうにして此の中に有るに違ひないな。きりしたん伴天連おれの念力でなくなれ。
かういつて、父は三稜鏡をいきなり炉の炎の中に投げた。教員は驚き慌ててそれを拾つたが、
忿怒することを
罷めて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。教員は日光と炉の
焚火と同じであるか違ふものであるかの判断はつかなかつた。教員の窮理の学はここで動揺した。父は威張つてそこを引きあげた。
後年父は
屡その話をした。文明開化の学問をした教員を負かしたといふところになかなか得意な気持があつた。けれども単にそれのみではなかつたであらう。神を念じて
穀断塩断してゐたやうな父は、すぐさまスペクトラの実験の
腑におちよう
筈はないのである。腑に落ちるなどと
謂ふより
反撥したといつた方がいいかも知れない。
それからずつと月日が立つて、父は還暦を過ぎ
古稀をも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の
喇叭から伝つてくる
雲右衛門の浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは
追尋しようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。
5 漆瘡
村の学校が
隣村の学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
学校まで
小一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは
稀でなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、
麗かな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は『
雪解みち』になつて、朝のうちは氷つても
午過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には
草鞋は毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は『草履道』と云つて、そこを踏んで
躍上がつて喜んだ。
街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに
耀く。木の芽がぐんぐん
萌えはじめる。
苞をやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で
弄ぶものもゐる。
雲雀は空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、
閑古鳥は向うの
谿間から聞こえる。
楢、
櫟の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに
山蚕が生れて、道の上に黒く小さい
糞を沢山おとすのであつた。
五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に
恣に道草を食つて毎日おなじ道を
往反する。
蟻の穴に小便をしたり、蛇を殺してその
口中に
蛙を無理におし込んだり、さういふ
悪戯をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
然るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が
何処か猛烈なところがあつた。一度教員は
忿怒して学校の
梁木にその童子をつるして
折檻したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その
稽古をし、滅多に
穿くことのない
袴を穿き、中にはこれも滅多には
著ぬ
襯衣を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は
何時の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に
吊して、
鞭で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは
総てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする
酢川の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の
漆の木がある。これは秋には
真赤に紅葉したのであつたが、今は小さい芽が枝の
尖端のところから萌えいでてゐる。
その漆の木のところに行くと、童子はみんなに
列ぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の
摘口から白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、
前膊の内面のところに漆の汁で女陰と男根とを
画いた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の
古篆の『日』の字のやうな
恰好をしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆 Pr
putium などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は
癌に
罹つて余命いくばくもないといふとき、「一年有半」といふ随筆を書いた。そのなかに
慥か、『陰陽二物』の何のと云つて日本国を
貶してゐたとおもふが、あれは無理だ。
羅馬は無論
巴里に行つても、
倫敦、
伯林に行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて
貰ふと
皆が声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに
割礼した
耶蘇の男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに
較べてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し
腫れあがつてゐる。
その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが
益黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから
癢味が増して来、それに
痛味が加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、
沢蟹をつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を
一寸避けると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれをつぶして
臓腑をかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く
腫れて汁の出て来たところは今度は
結痂して行つた。
絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから
風呂に入つた時などに、
秘かにその
痂を除いてみると、その下は依然として
爛れて居つて深い
溝のやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに
結痂するといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから
剥げて取れてしまつたのが多かつた。
縦ひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は
空しく二月を過ごした。
けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。
叱られるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした
油薬のやうなものを
拵へて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ
漆瘡の男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。
瘡は極く『平凡』に
癒えた。
『はじめは
脱兎の如く』と云つておいて、そして、『をはりは
処女のごとし』と云ふあたりは、
味つてみるとどうも
旨いところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの
画いた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の
漆瘡物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この
諺、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえた。レオナルド・ダ・ヴインチをおもひ起したのはかういふ
訣である。
『
凡そ児童はその父の能力に就いてどう思惟してゐるか』といふことに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ずることがある。さて時が経つと、児童のまへには父は追々と平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかつた。僕が少しづつ大きくなるに連れて僕の父も益
平凡化されたから、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は心中感服したことはない。然るに僕が
漆瘡であれほど苦しんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はその時、父には何か知らんやはり特殊の『能力』があるのではあるまいかと思つたのである。ここで父の平凡化は別な
色合を以て姿を変へたのであつた。それから『平凡治癒』といふ概念である。これは実地医家は必ず
思当るに違ひない。
疾は幾ら骨折つても癒えぬときがある。さうしてゐて癒ゆるときには極めて平凡に癒えてしまふ。即ち疾を『平凡治癒』の機転に導くのが名医である。
彼の童子から漆の汁で描いて貰つた絵がかぶれて二月も苦しんだけれどもそれは癒えた。癒えたが
痂を結んだところが
瘢痕組織で補はれたと見えてそこに
痕が残つた。その小さい男根図の痕は、小学校を出て中学校に入り中学校を出て高等学校に入るころまでは残つてゐた。僕は風呂に入つたりするとその痕を凝視して追憶にふけることもあつた。然るにその痕はいつのまにかおぼろになつて行き今ではもはやその形を認めることが出来なくなつた。僕もそろそろ初老期へ近づいて来た。南
独逸の客舎で父の死報に接した時も僕は
忽然として漆瘡のことを
想出し、床のなかで前膊の内面を凝視したけれども形はすでになくなつてゐた。
漆瘡に、生蟹黄調塗とか、蟹沫塗之とか、または蟹殻滑石研細※
[#「てへん+參」、121-下-9]之乾者蜜和塗などといふ療方のあるのは漢医方に本づくのであつた。和文に漆まけを
癒しとあるのも
亦さうである。父の
拵へて呉れたものはそんなものではなかつた。油薬のやうなどろどろしたものであつたが、その薬の色やなんかはどうしてもおもひ起すことが出来ない。そのあたりの父の顔も分からない。努めておもひ浮べようとすると、晩年の老いた父の顔のみが浮んでくるのである。
6 初詣
明治二十九年に丁度僕が十五になつたので、父は
湯殿山の
初詣に連れて行つた。その時父は四十五六であつただらうから現在の僕ぐらゐの年であるがもう腰が
屈つてゐた。これは田畑に体を使つたためであつた。しかしそれまで幾度となく湯殿山に
参詣し
道中自慢であつた。
僕も父もしばらくの間毎朝水を浴びて精進し、その間に
喧嘩などを
避け魚介虫類のやうなものでも殺さぬやうにし、多くの一厘銭を一つ一つ塩で磨いて
賽銭に用意した。参詣というても今時のやうに途中まで汽車で行くのではない。夜半にならぬ頃に出立して夜の明けぬうち五六里は歩くのである。第一日は
本道寺といふところに泊つた。そこまでは村から
行程十四里である。第二日は、まだ暁にならぬうちに
志津といふ村に著いて、そこで
先達を頼んだ。それからの山道は
雪解の水を渡るといふやうなところが度々あつた。まだ午前であつたが、湯殿山の
谿合にかかると風の工合があやしくなつてきてたうとう『
御山』は荒れ出して来た。豪雨が全山を
撫でて降つてくるので、
笠は飛んでしまひ、
蓙もちぎれさうである。大木の枝が目前でいくつも折れた。それでも
先達はひるまずに
六根清浄御山繁盛と唱へて行つた。さうするうち、渡るべき前方の谿は一めんの氷でうづめられてそれが雨で洗はれてすべすべになつてゐる。
下手の方は深い谿に続いてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡つて行つたが、そこへ猛風が何ともいへぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、
茂吉匍へ。べたつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかも知れない。さういふことを僕はおぼえてゐる。
『語られぬ
湯殿にぬらす
袂かな』といふ芭蕉の吟のあるその湯殿の山に僕は参拝して、『初まゐり』の
願を遂げた。
鉄の鎖で辛うじて谿底の方へくだつて行つたことだの、それから、谿間の
巌から湯が威勢よく
湧いてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに
志津に一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
第三日は、
麗かな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬた
餅を註文した。ぬた餅と
謂ふのは枝豆を
擂鉢で
擂つて砂糖と塩で
塩梅をつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹を
拵へなければ駄目である。山を越す時などには、
麓で腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
もう
山形の
街も近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくて
溜まらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに
吝嗇だらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。
7 日露の役
日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、
黒溝台から
奉天の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では
誰彼が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ
噂が毎日のやうにあつた。
恰も奉天の包囲戦が
酣になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、
袴を
穿きそれから羽織を
著た。それから
弓張を
灯し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が
偶帰省したりすると
嫂などがよく話して聞かせたものである。
父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその
女形になつたり、
堀田の陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。
木挽ぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に
力※[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124-下-1]いれて、
応和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また
穀断、
塩断などをもした。
僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの
尠いものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり
似寄の無いことに気付くのであつたが、けれども
是は自ら
斯う思ふといい。僕は父が
痰を煩つたときの子である。
生薑の砂糖漬などを
舐つてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても
馬胎を
出でて
驢胎に生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。
8 青根温泉
父は五つになる僕を背負ひ、母は
入用の荷物を負うて、
青根温泉に
湯治に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その
麓を縫うて
迂回して行くことも出来る。
父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に
行。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気
吉。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯
返り。八月廿三日。天気吉。
伝右衛門、おひで、広吉、
赤湯入湯に行。九月
朔。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は
概ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて
幽かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
父は小田原
提灯か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで
其を非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
まだ夜中にもならぬうちに家を出て
夜通し歩いた。あけがたに
強雨が降つて
合羽まで透した。道は山中に入つて、小川は
水嵩が増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を
引かへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて
鰻が一ぱい
泳いでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく
莞爾してゐるが、母などよりもいい
著物を著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日
忙しく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
僕は入湯してゐても毎晩
夜尿をした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな
恰好をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、
湯治客がみんなして芝居の
真似をした。何でも僕らは
土戸のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる
媼なども交つて芝居をした。その時父は
ひよつとこになつた。それから、その
ひよつとこの
面をはづして、
囃子手のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
父の日記に
拠ると、青根温泉に七日ゐた
訣である。それから、明治二十
丁亥年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は
懐妊したのではないかと僕は今おもふのである。
9 奇蹟。日記鈔
不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時『理学』と
謂つてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ『奇蹟』を
対治する立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、『奇蹟』は幾つもある。
大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の
覚帳が煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙で
綴つた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕の
甥は、紙を乾かすのを手伝ひながら、『軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう』などと云つた。また『
被服廠の時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね』『
併しあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいい
筈ですがね』などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
祖父のものは、
俳諧連歌か何かを記入したものであつたが、父のものには、『
品々万書留帳』といふ、明治七
甲戌年二月吉日に
拵へたものである。これは長兄が生れたとき、
祝に
貰つた品々などの記入から始まり、法事の時の
献立、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまと
記してあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人
前の
条に、平(かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ)。手しほ皿(奈良漬。なんばん)。ひたし(
韮)。皿(糸こん。くるみ合)。巻ずし(黒のり、ゆば)。吸物(包ゆば二つ。しひたけ。うど)。あげ物(
牛蒡。いも。かやのみ。くわい。柿)。
煮染(くわい。氷こん。にんじん。竹の子。しひたけ)。手しほ皿(焼とうふ。くづかけ。牛蒡黒煮)。皿(うこぎ。わらび漬)。下あげもの(くわい。牛蒡。柿。かやのみ。赤いも)。
大平(くわい。しひたけ。ゆづ)。汁(とうふ。ふのり)。茶くわし(せんべい)。引くわし(うんどん五わ
但四十めたば。まんぢゆう七つ
但一つに付四厘づつ)。こんなことが書いてある。これで
思起すのは、陰暦の二月すゑには、既に韮が
萌え、木の新芽が
饌に供し得る程になつてゐるといふことである。それから、『わらび漬』などとあるのも少年の頃をしのばしめるのであつた。
その父の帳面に、僕が生れた時祝に貰つた品々を記した個所があるから
一寸書とどめておきたいと思ふ。明治十五
壬午年三月廿七日
出生。
守谷茂吉義豊。
安産見舞受帳。小王余魚七枚、菅野
弥五右衛門。金二十銭外に味噌一重、金沢治右衛門。金十銭、鈴木庄右衛門。金十銭、鈴木
作兵衛。金十銭、斎藤三郎右衛門。
鰹ぶし一本外に味噌一重、永沢清左衛門。焼かれい三枚、松原村山本善十郎。金五銭、斎藤富右衛門。金十銭、大沢才兵衛。以上である。同じ村から八軒祝を貰つてをり、他村から一軒貰つて居る。他村の松原村と記してあるのは、母の姉が嫁入つたところである。それから最後に、大沢才兵衛とあるのは、父の弟で、漆の芽で僕の腕に小男根を描いてくれた童子の父である。明治十五年頃の東北の村ではこんな程度であつた。
僕は留学から帰つて来て、家兄に頼んで少しばかり父の日記から手抄して貰つたのであつた。そのうちに僕に
銭を呉れたのを記したところが処々に見つかる。
明治十九年十月十五日曇り。二銭柿代富太郎、茂吉え
遣し。
明治二十年七月十五日。四銭茂吉え遣し。
明治廿三年正月七日。十八銭、茂吉授業料正二二ヶ月分。三銭茂吉え遣し。十日休日。三銭茂吉え遣し。十五日休日。一銭茂吉え遣し。七月二日。五銭茂吉
書物代。十二日。四銭茂吉え遣し。十二月廿四日。二十二銭茂吉
薬代。こんな工合である。ここに二十二銭茂吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して
黄疸になつたとき、父は
何処からか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
明治廿四年。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気
吉。茂吉直吉おみゑ
上山行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気
吉。七銭茂吉
下駄代。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え
天子様のシヤシン下るに
付而行。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の
葦刈。女中三人は午前
菜つけ。午後
裏畑草取。伝太郎を
頼で十一俵買。
合併になつた隣村の学校に、
御真影がはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つて
播くべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、
大凡農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた
小遣銭の記入などがあるのである。明治廿二年の
条に、宝泉寺え泥ぼう
入、伝右衛門
下男刀
持て表より
行。熊次郎
槍持て裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職
応和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。
倔強の若者が二人ばかり
宿つてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした
名残で、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき『
得手まへ』といふ言葉を
好く使つた。
10
[#「10」は縦中横] 念珠集跋
「念珠集」は、
所詮『わたくしごと』の記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ
怒らずに欲しい。
ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが
主になつてゐた。isch
mische Zellver
nderung といふやうなこと、Kolliquations-Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
ところが、僕の下宿に
馬琴のものが置いてあつた。もう古びて、
何代もの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。
久遠のむかしに、
天竺の国にひとりの若い
修行僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその
精を
泄しつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を
遠離して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の
訃音を受取つた。七十を越した
齢であるから、もはや
定命と
看ても
好いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日
湧いた。夜の
暁方などに意識の未だ
清明にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。
併し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは
尽く
東海の生れ故郷の場面であつた。「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ
怒らずに欲しい。
大正十四年八月に、
比叡山のアララギ
安居会に出席して、それから先輩、友人五人の
同行で
高野山にのぼつた。登山自動車の終点で
駕籠に乗らうとした時に、男が来て北室院といふ
宿坊を紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩
宿り、貧しい
精進料理を食つた。
饅頭が唯ひとつ寂し相に入つてゐる汁で飯を食べたことなどもある。
而して、そこで勧められる
儘に、父の
追善のために
廻向をして
貰つた。その時ふと僕は父が死んでからもう三回忌になると思つたのであつた。
本来からいへば七月に三回忌の法事をするのであるが、
稲作の
為事が終へてから行ふことになり、八月、九月、十月と過ぎて、十月のすゑに行つた。けれども僕は東京の事情に
礙げられて列席することが出来ないので、そのことをも僕はひどく寂しくおもつた。法事終へてから家兄が父の小さい手帳を届けて呉れた。これは大正四年に
西国に
旅した時の父の日記である。
五月六日。旧三月廿三日。天気
吉。吉野町より、朝六時吉野山のぼり、午前十一時吉野駅発。
高野口駅え午後一時三十分著。
是より五十丁つめ三里高野山え上り、午後八時頃北室院に著。一円、吉野町宿料払。五十銭、吉野山見物
車ちん。五十銭、同所寺に参詣費。三十銭、吉野口駅より高野口駅迄切符代。五十銭、昼飯料。二円六十銭、
籠に乗賃払。七円五十銭、日ぱい料北室院に上げる。
五月七日。旧三月廿四日。晴天。朝の八時より参詣
致。総参詣人一日へいきん二万人以上づつ
有由。午後一時より高野山より下り高野口駅え午後四時に著。是より
粉河駅え著。かなも館支店宿泊。一円、参詣費。一円五十銭、北室院宿料。五十銭、荷物
負賃。一円、途中小使。五十銭、昼飯料。五十銭、
車賃。四十銭、汽車賃。
これを見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、
日牌料七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために
供養して貰つたのに相違ない。母は大正二年に
歿したのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。父の日記に
拠ると、高野山を半日参詣して
直ぐその午後には下山して居る。
仏法僧鳥を聞かうともせず、
宝物も見ず、大門の砂のところからのびあがつて、奥深い幾重の山の
遙か向うに
淡路島の
横ふのも見ようともせず、あの大名の
墓石のごたごたした処を通り、奥の院に参詣して半日つぶして直ぐ下山して居る。道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五歳になつて居り、四十歳ごろから腰が
屈つて、
西国の旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた
饅頭を父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持にもなるのであつた。これを「念珠集」の
跋とする。(大正十五年二月記)