三年
斎藤茂吉
三年と云つても、この三年といふものは、三十年ぐらゐの気持であつた。荷作したまま荷が動かず、紹介してもらつた丸通の課長でさへ、『斎藤さん、もう手おくれですよ』などと云つたほどであつた。
渋谷駅に行つて見ると、いはゆる『疎開荷物』といふものが小山ほどに積まれて居る。然もこの小山ほどといふのは、誇張でない、ぎつしりと隙間のないまでに積まれてゐるので、自分は来る度毎に驚き愕いたものである。なぜ驚いたかといふに、まさかこれほど沢山の荷物が集まつて居るとは、想像もしなかつたからである。いつたいこんなに沢山に集まつてゐる荷物はどうして動くのだらうか。空襲は日毎時毎に劇しくなつて来る。このまま空襲に会つたら、尽く焼けてしまはねばならぬのである。愕くのはさういふ点にもあつた。そこへ次から次へと荷を満載したトラツクが来る。荷を満載した馬車が来る。汗みどろになつて人の挽いて来るリヤカーがあるといつた調子で、かういふ方面に全くの素人である自分の如き者にとつては、『名状すべからざる』光景といふべきものであつた。
しかるにこの如き状態の荷物は、毎日動いて居るのである。此処に集まつた限りの荷物は兎に角動いて居るのである。名状すべからざるこの光景は少しづつ整理されつつあるのである。自分はこの運輸機関といふものを讃歎したのであつた。『実に偉いものだ』と独語したのであつた。実に『偉大なる存在』として受取れたのであつた。
自分は三月九日の大空襲の時には、東京青山の自宅にゐた。浅草観音堂の焼けたあの大空襲である。あの時は自分の病院玄関にも焼夷弾の重いのが三つも落下したのであつた。自分はいよいよ覚悟し、郷里に逃れようとして、四月三四日には上野駅から出発するつもりでゐた。ところが四月一日の朝、義歯の床が割れて居ることに気づいた。これは困つた。郷里には善い歯科医が居ないかも知れない。さうすれば何とかして東京でこの義歯を直して行かねばならない。さう思ひ、これまでかかりつけの赤十字社病院前の歯科医を訪ねると、そこは強制疎開のために家を取りこぼつてゐる最中であつた。労働服などを著て埃の中で立働いてゐた。致方がないので、その近くの歯科をたづねると、いづれも休院か廃院の有様であつた。困つてゐると、渋谷美竹町にある大久保歯科医院を教へてくれた人があつたので、訪ねて応急手当を依頼したところが、大久保氏は特別の好意を寄せられ、義歯の割れたところを大急ぎで修繕してくれた。しかし未だしつくりしないので四五日その歯科医院に通つた。その間にも毎日のやうに空襲警報が発せられたが、自分はついでに丸通を訪問して、自分の荷を動かしてもらふことに努めた。また、吉田勲生氏の恩頼を受けた。さうして四月中ばに自分は上野駅を立つて郷里へ逃げて行つた。それからも荷がなかなか届かず、殆ど諦めてゐたところが、だいぶ経つてから荷が届いた。日用生活の品物であつたが、これも彼の小山ほど積まつた荷の名状すべからざる中をくぐり通過して、遙々届けられたのだとおもふと、自分は日本の運輸機関を祝福し感謝したのであつた。人夫は自分の疎開して居る、十右衛門の炉辺で夕飯を食ひ酒を飲んで帰つて行つた。
自分は今度三年ぶりで東京へ帰つて来た。さうして某日渋谷駅、渋谷駅貨物取扱所をたづねた。無用者立人禁止といふ札がかかつて居り、三年前のあの小山の如き、名状すべからざる荷のありさまと違ひ、フオームにはこぢんまりとして荷が積まれてあつた。自分は今昔の感に堪へぬといつた面持で暫くそこに佇立してゐた。それから、日本通運株式会社をたづねてみた。そこは一部の火災であつたらしいが、その隣に別に新築せられ、課長も替はつて居られた。ここは三年前、自分の屡訪れて荷を依頼したところである。さうして空襲の劇甚なころであつた。今は平和にかへり、機関も益整頓せられた。自分は此処でも佇立してややしばらく感慨にふけつた。それから美竹町の歯科医院をたづねたが、そのあたり一面が灰燼に帰し、大久保氏の行方も不明であつた。自分は其処を去つた。
自分は二月一たび山形県上山町に行き、弟が経営してゐる旅館山城屋に泊つて、疎開の相談をしたのであつた。先づ山城屋の近くに間借をし、山城屋で食事し、入浴したりして、その借りた部屋で寝起しようといふのであつた。さうすると、四月此処に逃げて来る早々に、陸軍軍医学校が山形地方に疎開して来ることになり、上山町の旅館の大部分は軍医学校の病室となり、旅館の主人主婦女中などは職員といふことになつた。従つて旅館廃止といふことになつたので、自分が上山に疎開生活をすることは極めて不自由になつた。そこで金瓶村斎藤十右衛門方に移居することになつたのである。十右衛門は自分の妹の嫁したところで、自分が生れた家の直ぐ上隣りになつて居る。右の如く、金瓶村は自分の生れた村で、自分は明治十五年生であり、明治廿九年上京したから、まる五十年ぶりで金瓶に二たび住むこととなつたわけである。村では遊び仲間の大部分は歿して居たが、長生してゐたものも可なりあつた。自分の家に奉公したことのあるサヨといふ女などは九十二歳でまだ働いてゐた。
十右衛門では自分を親切に取扱つて呉れたが、それでもいはゆる疎開者といふ者の寂しい生活をした。ここに来た時には、蔵王山は雪をいただいて真白であつたが、追々それも消えて夏になつた。警戒警報から空襲警報が発せられた。夜中に警戒警報が発せられると、十右衛門はじめ家人が起きて警戒して居るが、自分は御免をかうむつて寝てゐた。東京であのやうにひどい空襲を経験して来た後なので、金瓶に来て、何ともいへぬ心の安楽を感じてゐた。五月二十五日には、東京の病院も家も全焼してしまつた。自分の金瓶に行つたころは、村民が竹槍の稽古をしてゐた時分で、競馬場あとに村民が集まり、寺の住職などもそこで竹槍の稽古をした。それから、役場には手榴弾の見本と称するものが二つ置かれてあつて、追々は国民全部に一つぐらゐづつ渡されるといふことであつた。沖繩戦が激烈になり、司令長官も陣歿したといふから、十右衛門の次男の大尉も当然陣歿したに相違ない。皆もさう信じて、十右衛門は葬式の用意などを為はじめた。それから米空軍の編隊が蔵王山のやや西方の空を通つて、神町の飛行場を襲うたが、日本の飛行機は何一つ手出しが出来なかつた。それを現実に見た農民は、はじめて戦の結果を疑ふやうになつた。そのうち彼の強烈な釜石への艦砲射撃が行はれた。その音といふものは、まるで地軸をゑぐるといつたやうな強烈な音であつた。
自分は不安のうちに時を過ごしたが、午後から夕にかけて蟻を見るのが楽しみで、いつもそれで気をまぎらせてゐた。蟻はよく戦をした。ある時かういふことがあつた。大きい蟻の足を小さい蟻が銜へてどうしても離さない。大きい蟻が怒つて車輪の如くに体をまはす、小さい蟻はそのままに廻はされ、埃を浴びて死んだやうになる。それでも銜へた大蟻の足を離さない。また大蟻がそのまま小さい蟻を牽いて行かうとすると、さう容易には牽いて行かれない。大きい蟻は車輪の如くにまはす運動を繰返して小さい蟻を押潰さうとするが、小さい蟻はそれに任せて置いて、一時死んだやうになるが、死んでは居ない。そのうち大きい蟻が疲れて運動が鈍くなつて来た。それでも歩かうとする。さうなると今迄死んだやうになつてゐた小さい蟻が、むくむくと動き出して、あべこべに大きい蟻を牽くやうな恰好をする。これは実におもしろい。実にすばらしい習性である。さう自分は心に思つて、夕飯まへまでそれを見つめて居た。そしてひよつとすると、これは小さい蟻の勝になるかも知れない。目下の形勢では小さい蟻に分がある。大きい蟻が小さい蟻を一気に噛みつけば何の事はないのだが、一度もこれまで噛みつくことをしない。さうせば小蟻の勝になるだらう。さうして自分は暗々裏に小さい蟻の贔負をした。その贔負のうちにはただの贔負でない切実なものがあつたこと無論である。そのうち段々くらくなつて来て夕飯になつた。自分は夕飯を済ましてから、二たびこの蟻の闘を見に来た。すると殆ど人目では見えなくなつた黄昏の中に、二つの蟻が先程とさう違はない場処に、先程とさう違はない状態に、闘をつづけてゐた。
それから三年になつた。さうして自分は東京へ帰つて来た。自分は終戦の年の翌年一月三十日に金瓶村から大石田町に移つたが、三月はじめから肋膜炎にかかり、実に苦しいおもひをした。病がやうやく癒えたころ、程近い愛宕神社まで散歩して蟻の歩いてゐるのを見る毎に、金瓶村、十右衛門裏庭での、大きい蟻と小さい蟻との闘を想起するのであつた。一体あの後奴等の運命はどうなつたであらうか。往古にはダビデは巨漢ゴリアーテを僵した話がある。ダビデは小、ゴリアーテは大であつた。けれどもそれは遠い過去世の物語で、只今の現実は必ずしもさうではない。当来の勝利といふものは正にして真なるものであらねばならぬ。さう思つて自分は東京に帰つて来、灰燼になり果てたほとりに佇立して、当来勝利の何であるかを見ようとした。小握飯一箇、薩摩芋数片の弁当を持参しながら。(二三・一・二一)
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