この
息もつかず流れている
大河は、どのへんから出て来ているだろうかと思ったことがある。
維也納生れの
碧眼の
処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の
流を見ていた時である。それは晩春の午後であった。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしている
勢を見に行ったことがある。それは初冬の午後であっただろうか。そのころ活動写真でもその実写があって、濁流に流されて漂い著いた馬の
死骸に人だかりのしているところなども見せた。その時も、この大河の源流は何処だろうかと僕は思ったのであった。
地図を辿って行くに、河は西南独逸の山中から
細くなって出て来ている。僕は
民顕に来てから、
“die Donau”という書物を買った。これは、
Schweiger-
Lerchenfeld の撰で、西紀一八九六年に
維也納から出版されたものである。僕は此の書物を愛して時々拾読した。その中には
Donau を中心として、地理学・水路学・船舶学・人類学・考古学・博物学・歴史があった。おなじ大河でも
Wolga と
Donau とは趣のちがうことをいうあたりには何かの感激があった。それから、
Donau に沿うた維也納の古い絵図などを見ると、やはりなつかしい気持が湧き、それは、ヨハン・シュトラウスの、
“Spiegelt sich in deiner Wellen Tanz”などという歌曲に因るのみではなかった。
僕は地図のうえのその細い流を実地に見たいとおもい、復活祭の休を利用しようとした。そこで、西紀一九二四年四月十八日、午前七時半の汽車で
民顕を出発した。この汽車は、
Augsburg,
Ulm を経て
Stuttgart の方へ行く急行列車である。僕はその三等車内にいて気を落付けている。今朝、宿の媼
Hillenbrand が六時に僕を起して、朝食を食べさせて呉れたのであった。
朝はまだ早いのに畑では農夫がもう働いていた。妻が牛の口を取り、夫が鋤の方を操縦しているのなども目についたが、きょうは Karfreitag である。復活祭前の金曜であるのにこうして農夫は働いているのが目についた。維也納の郊外に行ったときも日曜に農夫が幾たりも働いていた。これは信心ぶかくないという証拠にはならなかった。然し春寒であるから耕し了えた畑はまだ幾枚もない。冬枯の草で蔽われているところを
田鼠が恣に歩くので、掘りかえされた土が小さい山の様になって幾つも見えていた。そのうち、汽車が走るにつれて、畑の間を一直線に流れている水が見えたり、白樺の林が松林になり、樅林になり、落葉樹林になる。けれども大体の風光は、ゆるやかな勾配を持った畑と草野から成立っていると謂っていい。これは墺太利でも同じである。
僕は
民顕の停車場から買って来た新聞を読むと、それに日本人の記事があった。北米合衆国で日本の移民問題が紛糾しかかった時に、その記事がちょいちょい独逸の新聞にも載った。きょうの日本人に関する記事というのも、自然亜米利加との問題からの連想であった。未だ大戦の起らぬだいぶ前に記者は露西亜に旅したことがある。その同じ列車に日本の留学生も五六人いた。ある時、汽車の旅の
無聊に、みんなが
餐を共にし、酒も飲んだ。日本の留学生の二三は快活に飲み快活に話したが、二三の留学生は黙々として何も語らない。ところが其の沈黙の一人が何かのはずみに、『私どもは天皇のために命を捨てることなどは何でもありません』と云った。これが記者には何かを
暗指している異様な響で聞こえたのであった。そこで記者は、『
御国のいまの天皇の御名前は何と仰せられますか』と問うた。するとその沈黙の留学生は、『私どもは決して天皇の御名前を申あげることはありません』と答えた。そして、『それは
畏多いことだからです』と付加えた。そういう話であるが、その沈黙の留学生の言葉を記者は今おもい起して、亜米利加問題と或る関連を
有たせたいのであった。そして、その記者は、日本の国民は何時でも天皇のために命を捨てるものだと堅く信じて居た。そうして、
“schweigsame Japaner”などといって、底気味の悪い国民だということを其処に暗指していた。
僕はその記事を読んで心中秘かに微笑した。そして、その沈黙の留学生は、天皇の
御名を
睦仁と申し奉ることを知らなかったのだろうと思ったのである。併し僕はこの記事を読んでから、眼を瞑ってしばらく思に耽っていた。
そのころの独逸の漫画雑誌には又、こんなのがあった。
絹帽に星のついたのを冠っている老翁の寝部屋に一つの尾長猿が這入って来ているところが先ず画いてある。老翁が猿の尾をつかんで、
“Der verdammte Japs hat nichts bei mir zu suchen!”といっている。その次は、老翁が両手で猿の尻尾をしっかりと握って放り出そうとしている。翁は忿怒の相をして、絹帽は飛んでしまっている。猿は放り出されまいとして両手で翁の
寝衣の
臀の処の
ずぼんにかじり付いている。その次は、もう翁の白髪は逆立っている。猿の体が延びて彎曲して
断れそうになっている。それでも猿は苦しまぎれに寝衣にかじり付いたから、寝衣はずるりと
捲れて、老翁の臀が全く露出したところである。そして老翁の眼は爛々とかがやいている。僕はこの絵を見てなかなか旨いと思った。旨いと思ったのはその
画方にあったが、今はその筋書が頭に浮んで来ている。僕はその絵のことを思い出してしばらく思に耽っていた。
この新聞にも、四月十七日発の華盛頓電報で移民法案が既に決められたことを報じている。四月十七日といえば
昨日である。それから巴里発電報では、石井大使がポアンカレを訪うて懇談したことをも報じている。そして、仏国は日本とは親善の間柄ではあるが、この問題に就いては不干の状態に処るだろうということが付加えてあった。僕には一国のことは余り大き過ぎる。けれども之を個人の間柄に還元して観るなら、随分その例に乏しくない。
けれどもその間は十分間ぐらいに過ぎなかったであろう。窓外には緩い線の丘から赤い屋根が見えたり隠れたりしている。畑の小路に十字架の耶蘇が祭ってある。小さい沼が見えて静かな水が湛えている。国家ということを思う。民族ということを思う。コスモポリートのことを思う。併しそういう観念はいつのまにか朦朧となってしまうのであった。
車内で少しの間まどろんだとおもうと、汽車は
Augsburg に著いた。寺院の大きいのなどが見え、家屋も急に高くなったように思えた。ひとりの貧しい
身装をした娘が、汽車の窓のところに来て、
麺麭と
燻肉と復活祭の卵を売ろうとしている。Osterei! Osterei! と細いこえでふれて歩いているのが、何となくものあわれである。卵は一様に褐色に色づけてあったり、色々の模様があったりした。僕の近所では誰も買うものはない。僕は一寸こころが動いたが、心中に何物か抑制するものがあって到頭その卵を買わずにしまった。
停車場に、殺人犯の者を幾百マルクの懸賞で捜す警察署の貼紙がある傍に、手提かばんを盗まれて、二十金貨マルク懸賞の小さい貼紙などのあるのも目についた。
Offingen 駅を過ぎたころ、そのあたり一面は落葉樹林で、また
伐木が盛にしてある。土手には菫が沢山咲いている。そこの小流の汀には菖蒲のような草がもう萌えている。それから、川柳の背の高いのがそのあたり一帯にあって、花はもう
盛を過ぎてほほけている。僕は、「これは何かの流に近くなって来たのだな」とおもった。もう少し行くと、果してドナウが直ぐ傍を流れていた。僕は心のはずむのをおぼえた。川柳の群生を透して、ドナウは稍水蒿が増して、岸を浸さんばかりになって流れているのが見える。即ち『充満』の気魄である。汽車は暫らくドナウに沿うて走った。その岸をふたりの若者がもう外套も著ずに散歩していた。汽車の通るとき、まぶしそうにこちらを見ていたが、手を活溌に振って僕らの汽車を祝福した。
汽車は
Ulm について僕は下車した。伽藍の大きいのが直ぐ家並から擢んでて見える。
午にはまだだいぶあるので、僕は手提かばんを停車場に預けて町へ出掛けた。ウルムは十四世紀から十五世紀にかけて栄えた都で、今でもウイルテンベルクの首府である。古い建物が今でも処々に残っている。M
nster(伽藍)の前に行くと悲しい歌のこえが聞こえているが戸を閉してある。そして僕のような旅人は中に這入れない。為方がないから僕は其処を去って
下手の方へ下りて行った。そこに古代の石門がある。時代を食って物寂びしているが、そこを僕はくぐって行った。すると直ぐドナウの岸に出た。岸のところに石で畳んだ散歩道が出来ていて、恰も石の廻廊のようになっている。両側の石壁も可なりの厚みがあるから、
童子等はその上をも歩いている。穉児などは散歩道からその石壁に両手でつかまって、背延びをして、辛うじてドナウの水を見ている。その散歩道を大勢の人が往反している。なかには石壁に腰かけて話しているものもいる。そこを歩きながら石壁の向うの家の人と大ごえで話したりする。石壁の向うの家々は皆古く、壁に古風な絵模様を画いたのなどが残っている。その人通りのなかを僕は歩き抜けたが、誰も余り顧ない。
民顕のように、
Japs! などというこえは一つも聞こえない。僕は静かにそこを通り抜け、古い
砦の残っているのを右手に見ながら、汀の方へ下りて行った。
ドナウの水は此処は可なり急流になっている。汀に立って岸の草を浸すところを見ていると、ドナウも平凡で、直ぐ対岸に渡れそうでもある。ただ川上から流れて来る水が、
川下の方へ稍低くなって行き、そこに瀬を作り、瀬が鳴って二たび
川下の方へ流れて行ってしまうところまで一気に見ると、ここのドナウもやはり犯し難いところがあった。
そこの岸に、水泳のために建てた粗末な建物などがあった。そこに童子等の楽書なども見える。8 tung! などと云って、二つも三つも書いているのは、Achtung の洒落であった。なかには稚ごころに文字を模様風に書いたのなどもある。
業房から放たれたような気楽さで旅している僕も、気が付けばやはり異国にいるのだということが
染々と思えた。天が好く晴れて、日はもう中天にのぼっている。ドナウの水の清く澄んでいる汀のところに蹲跼んで、魚でも泳いでいるかと思って見ていたが魚は一つも見えなかった。そんなら魚の子でもいるかと思ったが、それも見えなかった。川下の方に支流が一つ合している。これは
Blau 川である。そこに五六人が釣を垂れていた。そして家鴨が水に入ったりまた出たりしていた。小学生が十四五名通って行った。皆白い帽子を冠っているのが目に付いた。
「それでは、一つ鯉をあげましょうか。ドーナウの鯉でございますよ」
「そいつは珍らしいね。ひとつ旨く料理して呉れ」
「よございます。お国ではどうして召上りますか」
「そうだね。一寸むずかしいが、まず Maggi のようなもので煮ても食べるね。それは
様々だ。何しろ日本は魚を沢山食べるところだから、料理の為方がなかなか発達しているからね」
「さようでございますか。日本はキナの方でございましたね。行くのに何日ぐらいかかるのでございますか」
「まあ船で五十日だね」
お上は、「ほお!」と云って、右の手を妙な工合にあげて台所の方に行ってしまった。ここは、Wirtschaft zum Ulmerspatz という看板を出している小さい食店である。僕は川岸を離れて、市役所の壁に色々の壁画の描いてあるのを見、それから市立浴場を覗き、こういう町にふさわしくないような急進派の画家のものなどを並べてある店を覗いたりして、ここの食店へ入って来たのであった。思い切って肥ったお上は愛想よく僕にのしかかるようにして、今日は獣肉を食わないことを説き、卵と魚ならあるというので、此の如き問答が始まったのであった。僕はここで鯉を食べて秘かに幸福を感じていた。それから葡萄酒をやめて、Goldochsen-Bier という銘の麦酒を飲んだ。これは通人の飲むものでは無かろうが、微かに植物の花のような香がして僕には気に入った。僕の味覚は、ここのウルムの住民ぐらいのものであった。
物理学者の
Einstein もこの町に生れた。それからこのごろ、日本と関係ふかかった
Siebold(1796-1866)の妹さんが、郊外に住んでいることを知ったので、上さんに一寸
当って見たが、上さんはまた
怪訝な顔をしたかとおもうと、亭主を呼んで来た。亭主もまた怪訝な顔をしたのは極く自然であった。僕は稍滑稽を感じ、勘定をすませてそこを出た。
僕は心の抑制から脱して、伽藍の壁の日時計の残っているのを見ていた。時計の真中に黄金の光が炎のように画いてあって、そこに針の影がうつるのである。この伽藍は、十三世紀から始まって十六世紀頃までに出来た、ゴシック風の大伽藍である。なるほど雀が藁を
啄んでとまっている。これが Ulmer-Spatz に相違ない。いろいろな細工と尖りが雑然として居って、僕には何だか煩わしい。旅人である上は、そういうものをも見免しては済まぬような気持が、意識の奥の方で動いているが、疲れと煩わしさとがそれを否定している。美術行脚などをする人でも、やはりそうであろうか。
僕は銭を払って、伽藍の塔に昇って行った。狭苦しい石段を一つ一つ昇るのに、麦酒が廻って来ているので、動悸がしてならない。僕は目を瞑って休んでいると、下の方から活溌な足音がし出して、少年が僕をぐんぐん追越して行ったりする。僕が難儀してのぼるのに、幾人もこうして僕を追越してしまう。下の方から風があふり上げて来るので、これはなかなか気流が好く出来ているなどと思って休んでいたこともある。けれども僕は遂に頂上までのぼって行った。
天が美しく晴れて、其塔の頂上は風がなかなか強かった。手で
掴まり下の方を覗くと町を歩く
人馬がすでに蟻程になって見える。僕は
眩暈をおぼえた。目を馴らそうとして下の方を暫らく見ていたけれども、そう急に馴れるものでない。
今しがた僕が汀に立ったドナウが遙か下の方に小さくなって見えている。その岸を歩く童子などは
胡麻粒の様だ。けれども
今度はドナウが婉々として
国土を限ってながれて居るありさまが見える。北方はウイルテンベルクであり、南方はバイエルンである。かくの如く国を限ったドナウが西方にだんだん細くなって行くのを僕は見ている。僕の
振りさける国は
一帯の平原であるが、平原に村落があり、丘陵が起伏し、森林の断続がある。そこをドナウはゆるくうねり、銀いろに光って流れている。そのながれが遠く春の
陽炎のなかに没せむとして、
絹糸の如くに見えている。
東方のドナウもついに
国土のなかに没した。僕は
目金を拭いてなお東方のドナウを見た。ドナウは、此処で
Iller を合している。この川は南バイエルンのアルゴイ山中から発するものである。次いで、
Lech を合する。
Lech も南バイエルンのアルプス山系に源を発し、その道に
Augsburg の市がある。それから東の方に辿ると、
Isar が合する。
Isar も亦遠く南方の山中から出て来て北へ流れ
民顕を通って道を東北にとり遂にドナウに合するので、その口に
Deggendorf の町がある。それから墺太利の境に来て、
Inn が合する。
Inn は南バイエルンと境する墺太利の山中に発し、東へ流れ又北へ流れて独逸に入り
Salzach と合して遂にドナウに灑ぐのである。灑ぐところに
Passau の町がある。
ドナウが墺太利に入り東に流れて匈牙利に入る。その沿岸に、
Linz があり、
Wien があり、
Budapest がある。
Budapest 以後は、急に道を南方に取り、バルカンの諸国を貫いて、遂に黒海に入るのである。ドナウの流れるバルカンには、セルボ・クロアト・スロ
ーンがある。ルーマニアがある。ブルガリアがある。
墺太利に入るまでの沿岸には、なおそのほかに、
Donauwrth,
Lechsmund,
Ingolstadt,
Abbach,
Regensburg などの都邑がある。是等の都邑はドナウと関連して皆一時繁栄したところである。
Ingolstadt の如きは十五世紀に既に大学を以て響いていた。僕は伽藍の塔の上にいて、そういう都邑の盛衰のことなどをも思った。
それから朦朧として国の興亡のことなどをも思った。
“die Donau”の著者は、遠くアリアン族の移住から筆を起して、石器、青銅時代の遺物に就いて記述している。それからケルト族のことも説いている。ホメールの用いた地図だの、ヘロドートの用いた地図だの、エラトステネスの用いた地図なども載っている。そういう地図を見ると、ドナウは、
Ister ともなっている。又
Danuvius とも云った。亜歴山大王のこと、羅馬人占住のこと、トラヤン帝の戦のこと、羅馬街道のこと、などが書いてある。羅馬人の勢が衰えて、
呉底族の侵入して来たあたりから、いろいろの種族が相興亡し、東洋の種族までその辺にあばれ廻ったりなどして、次いで段々と国の出来て来る有様が書いてある。西紀第六世の終頃のクロヴァチアと、アヴァールと、東羅馬帝国との境界は全くドナウによって限られて居り、スロヴェン族の勃興した第七世紀から第八世紀にかけても、その境界はやはりドナウに拠った。匈牙利王国が起り、セルビア国と、ワラカエ国が起った時でもそうである。それゆえ、ドナウの沿岸には砦があり、軍が屯し、いろいろな哀な物語などをも残した。ニイベルンゲンの歌の如きはその一つに過ぎない。それ以後いろいろの国が起るに及んで、ドナウは必ずしもその境界ではなくなった。そういう興亡の史蹟を此の書物が書いて居る。僕は伽藍の頂にいて、その輪廓をおもい浮べていた。
伽藍の塔を降りるときには割合に活溌に降りることが出来た。伽藍の内にはもう誰も礼拝しているものはなかった。僕はそのなかを無意味に大股に歩いて、そして出て来た。街の辻々に
“Hunde und Katzen sperre”などという張札がある。犬猫を拘禁して置けというのは、はやり病の予防のためだなと僕は思いながら歩いて行った。
ブラウの水が威勢よく流れている、その流に
直に家の建っているところがある。そういう処は古代その儘の家が残っているので、伊太利のヴェネチアを連想せしめる。また同じ水郷と云っても、日本のはも少し土地の余裕があるのに、此処のは水から直ぐ家になっていた。そして水は急流で渦巻いてながれている。こういう建築の気持は、そのまま腑には落ちなかったが、ずっと時代を溯って味うと、極く静かな快感をおぼえて来るのであった。恐らく僕にはこういう
鄙びた
寂に同情する心があったのであろう。僕は其処の写真を撮ろうとおもってひどく骨折った。童が二三人来てたかったのを制しながら兎に角一枚撮った。流の片側の方は恐らく旨く撮れただろう。
僕は午後四時二十五分発の汽車に乗ってウルムを立って西へ向った。汽車は小駅にも一々停るので、非常にのろい様な気がする。発車してから暫く窓外を見ていたが、汽車はブラウの川に沿うて走っていて、それに小さい川が幾つも流れ込むのが見える。その細流の出て来るあたりは一寸日本の景色に似ていた。
急に眠くなって僕は眠った。だいぶ眠ったとおもって目醒めたが、まだ何程も来ていなかった。小さな村にも工場があり、祭日なのに烟が出ているなどと思いながら、汽車のなかにぼんやりとしていた。そのうちまた幾らか眠った。
Ehingen 駅に五時半に著いた。ここで黒まわし著た羊飼の帰路につくところを見た。しばらく行くと汽車はドナウの直ぐ傍を通った。ドナウは青野と畑と丘の間を極めて平淡にながれて居る。「ははあ。だいぶ細くなって来たな」こうおもいながら、暫く流を見ている。極く平凡だが、よく見ると水量が多くて流が可なり早いのであった。水嵩の増すこともあると見え、岸の柳の木に藁くずなどが引掛っていた。
Rottenacker 駅を過ぎた頃に、
草野の間にあらわれて見えるドナウは青く光った。湖水のようにも見えた。しばらくすると捨小舟などが一つ浮いていた。あるところでは、川筋が二つに分れて洲などを拵えている。概して陸の面とドナウの面とは何程も違わない。時にはドナウがふくれて見えるようなところもあった。汽車は、川に離れたり近づいたりして走った。川が見え出すと、「だいぶ細くなって来たな」いつも僕はそう思った。けれどもそれにはやはり錯誤があった。川が崖に沿うて走るようになり、白い巌壁からなる
峡の鉄道橋を渡ったとき、ドナウが依然としてそう細くなってはいなかった。
Riedlingen 駅に六時半に着いた。太陽は向うの丘に傾いて、美しく晴れた空にその太陽の光が銀粉をまいたようにさしていた。ドナウに中華流の小橋が懸っていたりした。向うの山上に寺が建っている。ここでも羊飼がもう帰るところで、年寄った一人の媼が群羊を指揮して居る。そのうち太陽は紅く大きくなって落ちた。日がかげると山陰の村落の家々の白と黒との色の交錯のなかに寺の尖塔にいまだ幽かな光の残っているのなどが目についた。西に黄金の余光があり、そのうえに雲がしずかに棚びいた。
ドナウは山峡に沿うてしばらく流れた。大きな月が出たが、恰も満月であった。それがドナウを照らすと、ドナウは全く銀色になった。汽車は、
Sigmaringen 駅に著いた。そこで僕は夕食の麺麭を買った。独逸人が二三人乗込んで来た。僕はひとり麺麭を食っていると、
背嚢を棚へあげて僕のまえに腰かけた男が僕に話しかけた。僕は麺麭を食うことをやめて暫く応対していた。
話はありふれた会話に過ぎなかった。また僕には込入ったことは旨く言えなかった。そのうち若者はこんなことを話した。若者は
民顕の生れだが、フランクフルトに住んで、今年そこの大学を卒業したのである。これから三つばかり駅を行くと、そこの山上に孤児院がある。若者の姉はそこの
褓母になっている。今夜はその姉を訪ねるところであると、こういうのであった。僕はこの話を聞いて心が動いた。汽車は以上のように山峡を走っている。月光は流れるように谷間を照らしている。汽車が駅に著くと、若者は山上を
指して呉れた。そして慇懃に
会釈し、僕の手を強く握って降りて行った。そこから僕ひとりになった。そしてしばらく窓をあけて月の光を見た。
僕は山上の孤児院のことを思い、そこに勤めている若い女のことを思った。遙々と留学して来て以来、月光のこのように身に沁みたことは、今までになかった。
業房に閉じ籠もって
根をつめて居たせいもあろうが、月光を顧みたことなどはついぞなかった。然るに今夜は不思議にも、生れ故郷の月を見るような気がしてならない。この月に照らされているドナウがうねりながら遙か向うに見えなくなるのをみていると、目に涙のにじんで来るような気がした。僕は
“Tiefsten Ruhens Glck besiegelnd herrscht des Mondes volle Pracht”のところのファウストの句、「いと深き
甘寝の
幸を護りて、月のまたき光華は上にいませり」を思い出していた。
汽車の窓から、遙か向うの山上の塔に、灯のついているのが見えた。汽車が
Immendingen に着いたのは九時四十五分である。そこで僕は汽車を乗換えた。そうしてやはりドナウに沿うて、西北へ向って走った。銀いろにうねっているドナウが直ぐ窓外に見えたりすると、僕はまた、「これはだいぶ細くなった」と思った。
汽車は、十時三十分に遂に
Donaueschingen 駅に著いた。僕は月光を浴びて汽車から降りた。
手提かばんを持って、僕は Sch
tze という旅館を尋ねて行った。そうすると、こういう辺土の旅舎であるのに、まだ宵の口の様な気分が漂うていた。僕は部屋を
極め、それから料理二品ばかりと麦酒とを部屋に用意しておくように命じて外に出る。出口から少し行ったところから戻って来て、ドナウがどの辺を流れているか尋ねると、帳場の若者はこう答えた。
流は直ぐ近くにある。これは
Brigach 川である。この流をしばらく下ると
Brege 川がこれに合する。ドナウはそこから始まるというのであった。早口で云われたのだが、前に地図で調べて置いたので、若者のいうことが
略分かった。若者は出口のところまで来て、流の方を指して呉れた。
なるほど川は直ぐ近くを流れていた。僕はそこの石橋を渡らずに右手に折れて、川に沿うて行った。明月の光は少し
蒼味を帯びて、その辺を隈なく照らしているが、流は特に一いろに光って見えている。それは瀬の波から反射してくるのでなく、豊富な急流の面からくる反射であった。川沿の道は林の中に入って、川はしばらく寂しいところをながれた。うすら寒いので、僕は外套の襟を立て、両の隠しに堅くにぎった拳を入れて歩いて行った。深い林が迫って来たとおもうと、水禽が二つばかり水面から飛び立った。僕は驚いたが刹那に気を取直して、こんなことではいかぬ。何の鳥だろう。今ごろ飛んだりするのはと思った。若し僕が、
Zigeuner であったら、こんな時にどうするだろうなどともおもった。もうこのあたりの道は、人の往反が全く絶えている。
僕は小ごえで歌のようなものを歌った。何も彼も出まかせだが、ひとりでに
覚えた浪花節のようなところもあった。
これやこの、知るも知らぬも逢坂の、行きかう人は
近江路や
[#「近江路や」は底本では「近紅路や」]、夜をうねの野に啼く
鶴も、子を思うかと哀なり。番場、醒が井、柏原、
不破の
関屋は荒れはてて、ただ漏るものは秋の月。不破の関の
板間に、月のもるこそやさしけれ。ありがたの
利生や。おありがたの利生や。仏まいりの利生で、妻に行きあうたのう。悪しきを払うて助けたまえ、天理おうのみこと。ちよとはなし、神の云うこと聞いて呉れ、悪しきの事は云わんでな、この世の
地と
天とを
形どりて、夫婦を拵えきたるでな、これはこの世の始だし。あしきを払うて助けせきこむ、一れつ済ましてかんろだい。山の中へと入り込んで、石も
立木も見ておいた。これの
石臼は挽かねど廻わる。風の車ならなおよかろ。み
吉野の、
吉野の鮎。鮎こそは。枕絵によくにしを鮎、おし鮎の口すうと人のかげごとぞうき。汗水を流して習う剣術の役にもたたぬ御代ぞめでたき。
何だか出任せであった。けれども、小さいこえでうたう浪花節の道行ぶりのようなところも一寸あったりして、妙に僕の心を落付かせた。僕は月光を遮えられた流の岸をこんな工合で暫く歩いた。
林が尽きて月が見えたかとおもうと、また急に
流の面が光り出した。向うが開けて、平野のようになっている。月光の涯は煙っているようでもある。僕は一寸立止ったが、「ドナウもこれぐらい細くなればもう沢山だ」と思った。そして其処の汀の草のうえに尻をついていると、幽かに
水の
香がしている。佐賀県の山中にいた時に嗅いだあの水の香と同じだと僕はおもった。たまに水が音を立てたりした。これは岸のところに出来る渦の音であった。
もう余程遅いかも知れんと思って、やおら立ちかけて、平野の向うを見ていると、また僧
霊仙のことが意識をかすめた。業房に入ってやっている為事がなかなか片付かずに難儀した時、僕はたまたま「霊仙大徳の死」を思って自ら慰めたのであった。霊仙は、興福寺の僧で、延暦二十二三年ごろ
最澄、
空海と共に入唐した。或はもっと早く宝亀年中だという考証もある。そして長く向うに居た。
長安醴泉寺僧内供奉翻経大徳として崇められたが、後、五台山に入って修道中、人のために殺されたというのであった。慈覚大師の『入唐求法順礼記』に「到
二大暦霊境寺
一。向
二老宿
一問
二霊仙三蔵亡処
一。乃云。霊仙三蔵。先曾多在
二銭勲蘭若及七仏教戒院
一。後来
二此寺
一。住
二浴室院
一。被
二人薬殺
一。中
レ毒而亡過。弟子等埋殯。未
レ知
二何処
一。」こう書いてある。最澄は延暦二十四年六月に帰朝して、八ヶ月余しか向うに居ぬ。空海は大同元年十月に帰朝して、二ヶ年足らず向うに居たに過ぎぬ。けれども最澄の
道邃・
順暁・
行満などに於ける関係、経典疏注すべて二百三十部四百六十巻其他を将来したこと。比叡山天台宗開祖となったこと。空海の
恵和・
牟尼室利・
曇貞などに於ける関係。最澄よりももっと沢山
書物を持って帰ったこと。高野山真言宗開祖となったこと。この二人に較べると霊仙の一生は奈何にも寂しい。
伝教も弘法も共に尊むべき人である。けれども遙々ここに留学生となって来て居る僕の身には、余り楽々と光明に耀いた二人の径路と、その求法の為方とが、先ず先ず為めにはならなかったと謂って好い。僕は、当時の「
還学生」の名より「留学生」の名を好んだごとく、「在外研究員」の名を厭うて、自ら「留学生」と謂っていたのであった。僕はみずから寂しい時には霊仙の寂しい一生を思ったのは、こういう機縁に本づいていた。僕は歩き出してからも、一寸霊仙のことを思ったが、この頃は霊仙のことにもおのずから馴れて、感激の度も薄らいで来て居った。
僕は月光に由縁ふかい東洋詩人の感傷から離れて、大股に歩いた。併し旅舎に帰って来た時はもう
遠に夜半を過ぎていた。僕は自分の部屋に行って料理を食べながら麦酒を飲んでいると、「籠っている」感じで気持が好い。ことに段々と澄徹の境を離れるところにいかにも
安気があった。
一夜明けて、写真機を持って出掛けた。なるほど、ブリガッハ川は直ぐ近くにあった。僕は
昨夜のように石橋のところから右へ折れて行った。川の水量が豊かで、張切ってながれている。川底に近いところを凝視すると、魚が群をなして泳いでいる。あるところでは水草が密生して流の方嚮に靡いて居り、そこにも魚の列が一定の保護色を保ちながら泳いで居た。魚は Forelle の一種で、
民顕の市場などでも時にこれを買うことが出来た。
川藻の靡いているところは直ぐ徒渉し得るようにも思えたが、そうは行かなかった。Amsel 鳥が既に啼いている。水面からたまたま魚が跳ねた。汀の或る処に清水が湧いて、其処にいろいろの水草の生えているのなどが目についた。
ゆうべ林中を通ったと思うたのは、公園の一部であった。落葉樹は未だ芽吹かないと謂って好いくらいである。公園から出て来て、ブリガッハに入る小川も水が極めて豊かで、溢れるようにして流れている。公園は大名(公)時代の庭園の名残で、そこに侍医の碑などもあった。Dr. W. Rehmann. F.F. Hofrath und Leibarzt. geb. zu Donaueschingen 26. Juni 1792. gest. daselbst 7. Juli 1840. と刻してあった。僕はその前で一寸脱帽し、それからその儘ゆうべのように流に沿うて歩いて行った。
しばらくすると森林が尽きて眼界が展けて来た。ここは昨夜、月光に照らされていたところであった。僕は昨夜のことを思い出して、「月夜のドナウ」を何とかして書いておきたいような気がした。そして昨夜は大分遠く来たようなつもりであったが、今朝見ればそんなでもなかった。林間をながれているブリガッハは暗く青ずんで見えている。近くの水面に浮寝をしていた禽は、いまもひとつ飛立った。これは
雁である。未だ春寒なので雁は帰らずにいるのであろうか。晩春となればもっと北の方へ帰るのであろうかなどと思った。飛立った雁は余り僕を恐れぬらしく二たび少し隔った水面に落ちた。僕は、春のドナウに浮寝している雁は、抒情詩になるだろうと思った。
暫く行くと、向うからブレーゲが来て、ブリガッハに合した。ブレーゲは平野の彼方からながれ来るので、それが幾うねりにもうねって、平野のすえに見えなくなっている。そのブレーゲも、僕が汀に立っているブリガッハも、無障礙の日光を受けて照りかがやいて居る。まぶしく白い光の反射している水面は、何だか
膨れたようになって流れている。水面は直ぐ陸から続く気持で、しゃがんでその儘水を掬ぶことも出来た。ここから愈々ドナウがはじまるのである。
この張のある、白い光の耀いている水面を見ると、「ドナウもいよいよ細くなって来た」とは言兼ねるところもあった。けれども僕は秘かに満足せねばならなかった。そして、ブレーゲをドナウの支流と看做して地図を辿って行くと、ブレーゲは平野から追々谷へ入って行った。それから西の方へ折れて、そこの山中から出て来ていた。僕はドナウの写真を撮ろうとおもったが、逆光線で旨く行かない。しかしかまうことがないと云って二枚ばかり撮った。僕は
息のあるうちに二たび此処に来るようなことは無いと思ったからであった。彼岸の平野の道を人が歩いていたが、非常に背が高いように見えた。
僕はドナウの流に沿うてくだることをやめ、一先ずそこで満足することにした。そして林中に入ったが、林中にも幾筋かの流があり、その浅い処に芹が萌え、靴などが棄ててあった。車轍の跡に溜まった水は、日が差さぬので氷った儘になっていた。それから公園に入って来たが、公園は相当に寂びて居り、林泉などもなかなか調っていた。赤帽をかぶった掃除夫が道を掃除して歩いているのに、林中を野兎が駈けていたりした。
Donaueschingen は、フュルステンベルヒ公の治めた処で、その居城もあり、加特利教の寺も、醸造所も、美術館も、庭も古い時代からあったものである。西暦一九〇八年の火事以来、焼けた部分の町は新しく出来たのだそうである。
僕は「ドナウ源泉」(Donauquelle)を見に行った。清冽な泉で、昔は寺の礼讃を終えてこの泉を掬んだということである。又公爵が家来を連れてここで酒宴をしたということである。この泉は、海抜六七八米。海洋に至るまで二八四〇基米と註され、大理石の群像は、バアル神が童子と娘とを連れて、行手の道を示すところを刻したものである。泉の水は、直ぐ下をくぐってブリガッハに灑いでいる。その灑ぐところに、ウィルヘルム二世が小さい堂を建てて(西暦一九一〇年)、Danuvii caput exornavit Guilelmus II., Friderici filius, Guilelmi Magni nepos, Imperator Germanorum という銘を彫らせて居る。独逸人は、このあたりのドナウをば
“junge Donau”というが、発音に快い響を持っている。そこにも掃除夫が居たので、その老いた掃除夫と少しばかり会話をし、泉の水を飲んでそこを出た。公の居城は直ぐ隣だが見ることは出来ないということであった。
寺を見て、それから Karlsbau を見に行った。そこには絵が可なりあった。けれども多くはウルム派、シュワーベン派、それからボーデン湖畔の画家のものなどが多かった。ホルバイン。クラナッハ。グリュネワルドなどのものは模写が多かった。其等の流派のものは、堅く陰気で、清楚で無いところに特色があった。僕には、テエーヌなどの議論も或程度まで受容れていいような気持がその時して居た。
Bezirksmuseum というのを見に行った。箪笥とか、古時計・著物・靴・うば車・額面など、そういうものが沢山陳列してある。ここにも矢張り古い時代の呵責道具が並べてあった。それから
玻璃に画いた農民美術のいろいろのものがあり、この中には、欲しくて溜まらぬものもあった。素朴な色と、その配合と、女の顔などの邪気無いところは、僕をして所有心を起させた程である。それから古い寝台のいろいろがあった。寝台は維也納で、チロール山中地方のものを見て来ているが、此処のもなかなか好かった。その単純な模様が僕の心を引いた。それから、日本の品物のあるのが僕を驚かせた。
漆塗の小箪笥があったり、竹の模様ある置物台。膳七重。高砂の翁媼図の縫取。書棚。香炉。屏風。大花瓶。太鼓など。目ぼしいものは無くとも、こういう処に日本の物が丁寧に飾られているのは決して悪い気持ではなかった。譬えば、長崎でシイボルトが伊藤圭介に呉れたという虫目金とか、久能山東照宮にある西班牙マドリー製の置時計とか、京都市妙心寺の南蛮寺鐘とか、そんなものを西洋の遊覧者が見て起す気持に似ていたかも知れなかった。少し誇張もあるけれども。
そこに Johann Grund という人の絵があった。これは美術史家の筆端にのぼるものでないから、かかる辺土に年を経るのであろうが、僕はその人の画いた女の図を見て静かな快楽を覚えた。この画家は豊麗な、可憐な女を画いた。そうすれば、これで本望なので、そういう覚悟に物哀れなところもあり、倨傲なところもあったのではあるまいか。そんな気がして幾つかの可憐な女人図を僕は見ていた。
その処を出て僕はカフェに入った。そこへ遠足に来た女学生の群が入込んで来て、菓子売るところにたかっていた。僕の傍に兵士が一人来て、珈琲を飲んで出て行った。僕はそれから、Gasthaus zur Sonne という食店に入った。上さんは顔の赤い肥った女で、亭主は跛であった。そこで僕は、分量の多いソップと、塩辛い料理とを食べた。町内に住む上さんが来て此処の亭主と何か話しているのを聞くと、訛が多くて僕には非常に分かりにくい。上さんも亭主も、僕が日本人だなどということを気にせぬらしく、恬然としているところは、
民顕の人などとは丸で違っていた。机のうえに合本した雑誌のあるのを見ると、西暦一八九六年発行の M
nchner humoristische Bl
tter というのであった。これを見ても、僕の今居る食店の程度が分かるのであった。その滑稽新聞には、日本の事などはいまだ一つもなかった。そのなかに、泥の様に酔った学生を二人の学生が引ぱって連れて行く。雪がさかんに降っている。酔どれの学生の服が引ぱられるので段々ぬげて行く、しまいに服だけを二人が持って向うの方へ行く。肝腎の学生は見えない。そして雪の中に埋まってしまったという絵で、verlorener Student と題してある、当時の
民顕の学生が如何に沢山麦酒を飲んだかが分かる。それから、vereitelte Liebeserkl
rung と題された滑稽図があった。これは、男と女が自転車に乗って相並んで嬉しそうに来るところが先ず画いてある。それから一人の男が石橋の袂で待伏しているところが画いてある。二人が石橋のところまで来ると、待伏していた男が二人を川のなかに、逆様に転倒せしめるところが画いてある。これは、自転車が流行り出して、如何に色々の事があったかを暗指しているのである。僕が維也納を去って民顕に来た時、先ず気づいたのは自転車乗の民顕に多いということであった。小さい町の古びた食店で計らずも二十六七年前の世相を観たような気がして、秘かに僕は満足した。
僕はその食店に居るうち、案内書などを見ながら、今日の午前中の出来事を簡単に手帳に書きつけた。そうして稍疲れたような気もする、これからどうしようかと思った。
この
上は
一体どうなっているだろうか。自分は此処まで来て、ブレーゲがブリガッハに合し、そうしてドナウの源流を形づくるところを見て、僕の本望は遂げた。このさき、本流と看做すべきブリガッハに沿うて何処までも行くなら、川はだんだん細って行き、森深く縫って行って、谿川になり、それからは泉となり、苔の水となるだろう。そこまでは僕の目は届かぬ。僕は今夕此処を立たねばならぬ。こんなことを思って古びた食店を出た。
僕は時計を持っていたが
弾機が途中でこわれて役に立たぬ。此の時計は目覚まし時計で、闇に見ると数字のところの光る様に作ったものである。そういう時計がはじめて日本に入りたてに、鉱山学の方をやっている友の呉れたものだが、奥山などに行くには是非必要だと云って呉れたのであった。その時計はだいぶ古くなって、神戸を出帆するとき神戸の時計店で
弾機を直した。それから
維也納にいるときも、
民顕にいるときも度々その弾機を直した。それが今度も汽車の中で
毀れてから役に立たぬ時計を持って歩いていたのであった。僕は時間を
大凡で見積ってやろうと思って、いつの間にか
川上の方に歩いて行った。
川の
両岸は少し高くなって、流を見おろす位置でしばらく歩いた。そこの両岸は石垣で堅めてある。大体新開の町はずれの気分であるが、古い家も間々残って居り、大名時代の御用印刷処という文字が古びた壁に残っていたりする。或る役所らしい跡にはウィルヘルム一世の像があった。そのうち道に敷石が無くなって、歩くと沙塵が立った。そしてだんだん家が疎になってゆき、ついに町は尽きた。そこで道は
自ずと低くなっていたから、僕と流とは近づいて来た。そこの川幅は広くなり瀬をなしている。汀のところに立つと、流が曲ろうとして勢づいているのがようく見える。大体このへんを源としておこうか。何だか寂しいから、もう引返そうかともおもって、川柳の花のほうけているのを弄んだりなどして暫くそこに
蹲跼んでいた。
それから身を起して、
何向も少し歩こうと思った。そして、水車のようなものがあると見え、流を
堰いた処をわたって行った。人家は全く絶えて、すでに森が迫って来ている。その両方に迫って来ている森の間を、まばゆい春の日光に照らされた川は、
極くゆるく
迂って流れているのである。
僕は川に接近することを努めながら奥の方へ歩いて行った。ある時はすぐ川の汀を歩いていた。湿地で靴がぬかり、そこから泡が幾つも音をさせて上って来るところなどを歩いた。汀の草は冬がれて未だ芽ぶいていない。
流とそんなに近く歩いているから、直ぐ口を付けて水を飲むことも出来る。然るに水は流れているように見えず、ただいっこくに湛えているように見える。その銀色の水に
直さま顔を接することが出来るが、水はまだ
深淵であって、水に顔を寄せ瞳をすえて水中を覗くに、汀の土が漸く水中に没し、深いところの土には水草が泥をかむって生えている。その奥は暗くなってもう見えない。しかし水の泡がゆるく水面を流れているから水は死んでないのである。
銀色の光る水を湛えて、川は遙か向うの森かげに曲ってしまう。僕の近くの川は訣なく跨ぐことの出来るようにおもうのは、水面と僕と距離の親しさがあるためであった。けれども川はやはり水の量豊かで、底にこもる
不可犯のこの
厳しさはおのずから大河の源流を暗指していたから、僕は心中に或る満足をおぼえたのである。小さい蛙が岸から水中に入って泳ぐなら、少し泳いだと思うとまた戻って来ただろう。その蛙は流にながされるようなことはない。極く放埒に戻って来ただろうと思った。
響がして来て対岸の向うの森のところを汽車が通って行った。この汽車は流に沿うて川上の方に通じた支線鉄道のうえを走って行くのであった。銀色の川が向うの森の麓をゆくとき紺のいろを現出した。僕は鉄道線路の橋を渡って、今度は向側を歩いて行った。まだ芽ぶかない灌木の群生しているところから向うを見ると、さっき森のかげに曲って行った川が目路から開けて来て、それがまた遙か向うに没している。そこのところに村が見える。点在している赭い屋根の間に、寺院の尖塔が一つあって、それが村の中心を保っている。
僕は二時間半はたっぷり歩いただろう。そう見積って汀を離れて丘をのぼって来た。そこに村から村へ通ずる道があった。そこまで来た。眼界が開けたから、森は暗黒の色を帯びて幾重にも畳なわって見える。その緩慢な曲線は何かの膚のようであった。その奥の奥に川の源があるのであるが、そういう落葉がくれの水、苔の水の趣味は差向きここに要求しなかった。
けれども、この細くなって西北の方に消えている川が、写真に撮れるだろうかどうかなどと思っていると、下手の方から自転車でのぼって来た二人の村人が行過ぎしなに、「キナ人かな」などと問答するこえが聞こえた。僕は午食をした食店を出てから、一度も独逸語を使わなかった。ただ水際を歩いて、時々日本語でひとり言を言ったのみであった。そこから僕は、今度はその道に拠って、ドナウエシンゲンへどんどん引返した。時間は殆ど目分量で極めていて不安心だから、時には駆歩をした。
あるところに来ると家が二軒あって、そこで鶏が黄いろい家鴨の雛を育てているところがあった。家鴨の雛が無遠慮でいるのに鶏がしきりに気にしてるところも僕の目についた。そのうち二たび両岸の高いところの川べりに来た。古い家に
向日葵のような花を黄に大きく画いたのがあった。宿に著くと時がまだ少しあった。僕は顔を洗い勘定をすましそれから
麦酒を一杯飲んだ。
汽車は午後四時二十分に此処を発した。日は未だそう傾いてはいない。汽車のなかで僕は幽かに婬欲のきざすのを感じた。僕は虫目金を出して地図で川の源の方へ辿って行った。川は森と森の間の平地を縫うて、
Vilingen の町に著く、そこまではあのように銀いろをした静寂な川に違いない。そこからは森と森の間が狭くなって、谿をなしている。そこを
Gropper の谿と名づける。川はそこを流れている。そこからもっと川上へ辿って行くと、川は西の方へ緩く曲って、遂に無くなってしまう。そこはブリガッハの森である。そこから水が出でて来るのであった。
汽車はドナウに沿うて走り、イムメンヂンゲン駅までは元来た同じ道を戻るのである。ドナウは午後の日を受けて飽くまで白く光っている。そして平野のなかを、流れるか流れぬか分からぬような工合で流れている。岸に枯れた葦のあるのが見える。鴉が四五羽岸の処に飛び、時には雁が浮いている。このあたりは来るとき明月の光で見た処である。或処では原始的な橋の架かっているのなどが目に付いた。麓の村からその背後の森に入って行く白い路などが見える。その丘のうえに牛が耕している。耕したところだけが褐色になって見える。暫くすると、峡間になってドナウはその間を流れた。汽車は今度は丘のうえを走ったからドナウを見おろすようになった。このあたりは来る時に月明で見たのかも知れない。隧道をくぐると落葉樹林でその間に常緑樹も交っている。落葉樹は未だ微かな芽を吹いているに過ぎない。汽車がイムメンヂンゲン駅を出ると間もなく、僕等はドナウと別れた。それから大きな隧道一つくぐると谿が開けて、緩く起伏する丘陵と、その間に埋まるようにしている村が見えた。それから汽車はまた深い山中を走り、やがて谷間を見おろすような位置を保ちながら走った。そのあたり一面の落葉樹林は広大で規模が大きかった。それから国土は下り坂になって、汽車は南方の平野に向って
驀地に走った。して見ると、ドナウはやはり高原を流れていたのだということを僕はおもった。午後五時四十分に、汽車は
Engen 駅に著いた。
Gttingen Tbingen などは名ある都市だが、日本の留学生は、「
月沈原」などという字を当てて寂しい心を遣ったものである。そういう特有の音を有っている町村はドナウの源流あたりを中心にしてなかなか多い。ドナウエシンゲンを始として、ツットリンゲンというのがある。リプチンゲン。ハッチンゲン。ウルムリンゲン。シグマリンゲン。ウイリンゲン。ヅンニンゲン。メッチンゲン。デッチンゲンというのがある。それから東北の方の道筋には、プリンゲン。トロホテルフィンゲン。コムメルチンゲン。インネリンゲン。ミュンジンゲン。ライヒンゲンなどという都邑がある。こういう都邑の名称も旅人の僕の興味をひいた。何となく素朴で、「黒林」の情調とドナウののろい流の趣とに、この撥音が却って旨く当嵌まるような気がしたのであった。
それから、「黒林」地方の女達の風俗などのこともおのずから僕の心にのぼって来た。男も女も何か事があると、そういう風俗をして現代の街を歩いて居た。古代の
姿をした、舞台に出て来そうなものが、
街頭を歩いているのであった。そういう幾たりかの男女を、僕は或日
Freiburg で見た。けれども、それが山間の村などで見ると、非常に静かな調和があった。古い寺院からは、皿のような帽子に房の沢山ついたのを冠った女が沢山出て来たりした。女の帽子は或時は小さい土耳其帽のような形に黒い布が付いたのを
のところで結んでいた。或時は非常に大きなリボンのついた帽子をかぶっていたり、紅い大きな毛玉の幾つもある帽子をかぶっていたりした。胸当には種々の縫取がしてあり、胸当は紅いのもあり紺のもあり白青のもあり色々であった。処女は頬が赤く、みな健康な性欲をおもわしめた。会釈をするときに頬に微笑を湛えて脣の
角のところに一寸
竪の
皺を寄せてもの言うのはモナ・リザを連想せしめた。
僕等はドナウから別れてだいぶ来た。今著いたエンゲンの停車場で窓から僕は外を覗いていた。そこから見える寺は尖塔は暗緑に塗られてあった。そして、小さい窓のところが褐色で、そのほかの寺の部分は灰色である。それを僕は一寸手帳に書きつけた。そのうち汽車が動き出した。そのあたりには実に古い小さい家が並んでいる。玩具のような窓から
童女が顔を出していたり、青味がかった野の斜面に童が五六人固まって寝ていたりするのが見える。向うの道を女が自転車で通った。家の前で焚火をしてあってけぶりいる。つまりフイルムを見ているようで慌しいが、異境を歩いているような感がやはりしている。汽車は平原を走るが、向うには尖った山が見えている。それがアルプスのような峻峰ではない。そして黒ずんだその山がなかなか近寄らないのを、何心なく見ていたりする。先程から汽車が川に沿うて走っている。岸の柳は芽を吹いてもう萌黄になって居る。「あの川は何といいますか」「あれですか、
Aach 川です」「どう綴りますか」「AACHと綴ります。この先の方にある町の名を取ったのです」。極く小さい川だが、その客は川の名を知っていた。それから、僕が東洋人だなどということを余り気にかけぬらしい。
六時五分に
Singen の停車場に著いた。そこには峻しい山があって古城の残りなどが見えていた。寺院が三つも四つも見えるところで、町のなかを川の流れている、可なりの町である。Reformp
dagogium とか、Hauptzollamt などの看板も見える。瑞西へ入る乗客は、ここで乗換えて行くのであった。そう思えば国境らしいところもあり、暫くすると人がどやどや乗込んで来た。その時可哀らしい娘がひとり乗って僕の前に腰かけた。娘は直ぐ手提かばんを明けて、チョコレートを出して食べた。それから
手巾で鼻をかんだ。それから手提かばんの中を何か音させていたが、しまいにそれを閉じた。それから絵入雑誌を出して暫く見ていたが、二たび手提かばんを明けチョコレートを出して食べた。そのうち空が一面に曇って来て、汽車は、
Bhringen-
Rickelshausen に著いた。
右手には既に湖が見え出して、そのあたりに並木が規則正しく立って居るのはポプラアらしい。湖が段々大きくなり、島なども見える。ここは入海の様なところであった。これが
Untersee である。対岸の村もそこの寺院も霞んでいる。汽車が岸に沿うて走ると、汀の白き小石さざれが見える。それから養魚池。豚と其の児ども、枯葉をもやしているところ、犬が桟橋を下ってゆくところ、それ等が映画のようである。暮色が蒼然として至った。
それから急に眼界が広くなった。これは、
Bodensee の大湖が見え出したのである。隣の乗客は口笛を吹き出した。これは何か俚謡のようなものを歌うらしい。
暮靄が低く
湖水をこめて、小山の上の方だけが浮出ているように見える。途中でそこに連隊でもあるらしく番兵のいる門などもあった。それから、煙突の太いのが見え出す。寺が見える。或る橋を渡ると両側の町が急に綺麗になり、人の往反が活溌になった。汽車は
Konstanz に著いたのである。停車場の時計は七時半を指している。
僕はここの湖畔の旅舎に一夜ねむり、あくる日は此の大湖を縦断して、アルプス山系の延びて来ている南独逸の山中に行こうとするのである。そこで、ついにはドナウへ灑ぐ筈の、「迂りながら急いで谷へながれ入る無数の小川」を見ようとするのである。