筆
齋藤茂吉
『書』のことになると、中華の人々は昔から偉い。シンの王右軍一人の存在だって、もはや沢山だといふ気持がするのに、ぞくぞくとその後に偉い人が出て居る。しかし私は書のことは分からずにしまつた。蘭亭序だつて、右軍がどの程度に偉いのか、つひに分からずにしまつた。そこで、私は書のことなどは論じられない。
私はある年、中国の北平に遊び、ルリシヤンといふ所を散歩した。そこには、賀蓮青だとか、戴月軒だとかいふ筆匠があつて、日本人の旅人がよく土産に筆を買つたものだ。いはゆる日本人向きの筆匠で、いくらか和臭を帯びたものだつたやうである。
しかるに私はある日そこの路地の古ぼけた店で、一本の小さい羊毫筆を手に入れた。それを商つて居る翁は、ケンリユウの世の物だと云つた。
ヨウロツパを旅した人は、スイスのチユリヒあたりの時計店に貼紙があり、日本語で、『日本の皆様には割引します』と書いたのが見あたつたものである。その時計に和臭があつたかどうか不明であるが、ルリシヤンの筆匠のは、幾分和臭があつたやうである。
私の買つた、古ぼけた、小さい羊毫は、その時和臭が無いやうな気がしたので、それを日本へ持つて帰つた。
北平に行つたのは、私の四十代の時であるから、六十ぐらゐになつて、閑にでもなつたら、『書』でももてあそんで見ようか。書道複製の安物でも買つて、ながめて居ることにしようか。その時にケンリユウ小筆が役に立つだらう。さうおもふと、何だか楽しみである。
しかるに、私に閑が来ず、光陰矢のごとくにして、私は五十になり、六十になり、戦争になつた。中国の文章にも、佳山幽水のやうな間にあつて字を書くといふことがある。戦争がはじまつて、今後どうなるか分からぬといふときに、書のことをいぢくつて居られるわけは無い。
戦が劇甚となり、空襲が恐ろしくなつて来たときに、私は地方へ逃げて行つた。そのときのあわただしい荷物の中に、くだんの小筆も入つてゐて、私はナフタリンなどを入れて居た筈であつた。
昭和二十年の夏に、やぶれて終戦となつた。昭和二十一年の一月すゑ、私は大石田といふところに移動したが、筆などを使ふ機会にはならなかつた。そのうち私は肋膜炎にかかつて苦しんだが、幸に癒つて、九月一ぱいは寝たり起きたりしてゐた。
二十一年は暮れて、二十二年になつた。けれども時勢は刻々に変化して、汽車の旅も難儀で出歩くこともむつかしくなつた。
併しながら私もさう何時迄もべんべんと此処に居るといふこと出来ず、昭和二十二年の十一月、大石田を立つて、帰京の途にのぼつた。その時以来、東京で満二年を経過したが、今年の九月、これ迄省みないでゐた荷を片附けて居ると、彼のケンリユウ小筆が、虫に食はれ、羊毛のところがすっかり無くなつて、まる坊主になつて出て来た。ナフタリンの気が無くなつた状態につけ込んで、虫の奴が攻勢に出たものと見える。空襲にも助かつたこの小筆が、一夜のうち(多分さうだらう)に一昆虫のために、坊主にされてしまつた。
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