紙幣鶴

斎藤茂吉




 ある晩カフェに行くと、一隅の卓にったひとりの娘が、墺太利オウストリーの千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐ゆうさんをしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せんさくせぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。
「こんばんは。何している」
「こんばんは。どうです、うまいでしょう」
「なんだ千円札じゃないか。勿体もったいないことをするね」
「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利オウストリーのお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」
 そうして娘は口を細め、ほおをふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、たちま牀上しょうじょうに落ちた。
 娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、[#下側の右ダブル引用符、U+201E、41-1]fliegende oesterreichische Kronen!“こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪こしゃくで、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。
 この小話は、墺太利オウストリーのカアル皇帝が、西班牙スペイン領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。





底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第八巻〜第十三巻」岩波書店
   1981(昭和56)年〜1982(昭和57)年
初出:「改造」
   1925(大正14)年6月号
※底本巻末の相澤正己氏による注釈は省略しました。
入力:秋谷春恵
校正:高瀬竜一
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

下側の右ダブル引用符、U+201E    41-1


●図書カード