北原白秋君を弔ふ

齋藤茂吉




 北原白秋君は昭和十七年十一月二日年五十八を以て逝かれた。私等は哀惜の念に堪へず、涙をふるつて君を弔つた。五十八歳といへば私よりも三つ年若であるが、君の天才の華がもう二十歳でひらいて、爾來斯壇の大家として、詩に於て小曲に於て童謠に於て短歌に於て縱横に君の力量を發揮し、往くところとして可ならざるものなかつた。そのかがやかしき業績は既刊の白秋全集數種に於て、それからそれ以後の全貌等に於て隈なくうかがふことが出來る。君は詩の世界に於ては無論のこと、短歌の世界に於ても確乎たるエポツクを作つたのであつて、約むれば君は詩人として現世的にも功成り名遂げたと申すべく、既に圓滿の華報を得たとも謂ふべきであるから、それがせめてもの私等のあきらめといふものである。それから君の病氣も新萬葉集の選ごろからその證候をあらはしたともいはれてゐるから、さうすれば滿五ヶ年の『鬪病』生活をしたこととなり、やはりこれも君にしてはじめてこの實行が出來たのだとも謂ひ得るのである。ああ君は斯くのごとくにして此世を去つた。
 短歌研究の記者が來つていふに、君のおもひでの一端を綴つて君を弔ふの縁とせないか。そこで私は一夜君との交關について思を馳せ、それが長い長い絲のごとくにつづいたのであつた。今次にその一部を記録する。
 はじめて君と相見たのは鴎外先生の觀潮樓歌會の席上であつて、あたかも君の詩集邪宗門の上梓せられたころであつた。それから歌集では吉井勇君の酒ほがひの出たころであつただらうが、歌風の古樸に沒頭してゐた自分等はさういふ有名にして劃期的な詩歌集をも讀まずに過ぎたのであつた。また其時分のことを思出さうとしても朦朧として思出すことが出來ない。
 そのうち白秋君がザムボアといふ雜誌を出すこととなり、丁寧な手紙を送つて私に短歌數首を求めたので私は數首の短歌を送つた。只今諳記してゐないが、蟋蟀の歌か何かを送つたやうに記憶してゐる。まだ左千夫先生が在世中とおもふから、私の赤光の出るまへのやうにおもふ。
 そのころから親しい交渉が出來、そのあひだに白秋門の河野愼吾君も交り、河野君から私と中村憲吉君とが槍さびをうたふことを習つたりしたころであるが、こまかい事はもう忘れてしまつてゐる。
 大正四年十月發行のアララギ第八卷第十號には、白秋君のスケツチした私の像が載つてゐる。それには白秋君の筆で、『茂吉、九月十一日、白秋畫』と書いてある。これは白秋君の阿蘭陀書房が麻布坂下町にあつた時分で、私は其處をたづねて酒を飮み、醉つて宿りこみ、次の日は更科の蕎麥などを取つてもらつてまた酒を飮んだりした時に私をスケツチしてくれたのであつた。白秋君の雲母集が出、鴎外先生の沙羅の木が出たころであつた。白秋君が先生をたづねたとき、『だいぶ歌が近寄つたやうだね』といはれたといつて白秋君も嬉しがつてゐたが、實際そのころの白秋君の歌と私の歌は隨分似たのがあり、梁塵祕抄から共に影響を受けたりしたものだから、自然に類似したわけであるが、沙羅の木の序に、『其頃雜誌あららぎと明星とが參商の如くに相隔たつてゐるのを見て、私は二つのものを接近せしめようと思つて、雙方を代表すべき作者を觀潮樓に請待した』といふのがあるので、『だいぶ歌が近寄つたやうだね』といふ語が相照應することになるのである。君の雜誌はそのころ地上巡禮からアルスになつてゐただらうか。
 そのころよりは少し前になるとおもふが(誰かしらべて確めて欲しい)、若山牧水君が病氣で靜養してゐるころ、見舞のために歌壇で短册會を催したことがある。その時、連中が晩餐を共にし、深川の方へ遊んだことがあつた。その時白秋君が電車の線路の上にあふ向に寢たり何かしてあぶなくて爲方なく、私がその面倒を見たり、二人で肩を組んでひよろひよろ歩いたり、今でも記憶に殘つて居る晩であつた。
 大正五年ごろ、岩野泡鳴を中心とする十日會といふのがあり、よく鴻巣あたりで會をひらいた。これは雜誌編輯者と作家との親睦連絡を計る會で、料理は食ひたいだけ註文して銘々勘定するといふ極めて自由なものであつた。私は大須賀乙字君の紹介で入會したとおもふ。それから數ヶ月經つて、私の紹介で白秋君も入會した。そのころ白秋君も元氣よく、會場の襖に足ゆびに墨をつけて歌を書かうとしたことなどもあつた。それから、ある夜會が濟んでから二人で街を歩いたことがある。酒を飮み次第飮んで歩き、夜が更け、赤電車も無くなつたので、旅館に宿らうとして京橋日本橋あたりの旅館をたづねたが一軒として泊めて呉れるところがない。實にひどい目に會つて、とうとう夜を明かしたことなどもあつた。
 そのやうな交流があつて、まことに樂しい時代であり、私が大正六年の暮に長崎に往くやうになるまでは、一般歌壇とも親しく、白秋君とも親しく交つてゐた。そのころ白秋君は幾晩も徹夜することが出來、握飯をかじつては詩作し、作歌したもので、私などは驚き入つてゐた。
 白秋君は三浦三崎から、小笠原島、それから葛飾眞間などに移つたりし、私も長崎に住み、大正十年には洋行してしまつたので全く相見る機會がなくなつてゐたが、大正十三年の晩春、私がミユンヘンに於て勉強してゐると、東京では殆ど當時の歌壇の大家を網羅して、雜誌日光が發刊せられ、アララギからは石原純、古泉千樫、釋迢空の三家が參加した。その時もらつた赤彦君の手紙に對して私はひどく同情したし、それより前、赤彦・白秋の論戰の次第などをも知つて居るので、精神的にも白秋君と疎遠にならざることを得なかつた。私は大正十四年に歸朝したが、子規全集がアルスから出てゐるにも拘らず、白秋君が子規を罵倒したり何かするので、をかしな事をすると思つて私は見てゐた。また近年多磨を發行するやうになつてから、白秋君の氣持は隨分變つてゐたし、歌風なども、私とは遠く隔つたやうに思へた。
 さういふ風であつたが、私は、昭和四年十一月二十一日に白秋君がスケツチしてくれた私の肖像を所持して居る。『茂吉君像、白秋』と書いてある。
 それから、近年愛馬行進曲歌詞の選を頼まれたとき、殆ど素人といつてもいい私が一等に選んだものを白秋君は二等に推薦してくれた。これなどもさういふ方面に手馴れぬ私に對する好意ある會釋であつたのであらう。その時には白秋君は既に眼を患つてゐた。
 昭和十五年二月二日夕、讀賣新聞社で皇紀二千六百年賀歌を募集し、舊派歌人をも交へて私等もその選者に依頼せられたとき白秋君と同席したのであつた。その時の君の選の態度の丁寧親切なのを見て私は強く感動した。君は天眼鏡を以て一々のぞきながら、自分の選した歌は大きな字で書直して持參してゐた。その晩、會が未だおしまひにならぬのに、君は、齋藤君今夜は附合へなどといつて、日本橋邊のある靜かな家に私を連れて行つた。部屋には炬燵がかかり萬事が綺麗で且つ豐かな感じであつた。そのうち老妓一人來てしきりに白秋君の久しく見えぬのを責めてゐた。白秋君のことをハアさんハアさんと呼んでゐるのも私には珍しかつた。この藝者がもつともつと若かつたころからの馴染で、感慨無量の話が續出した。そのうち若い藝者一人來たがそのために座敷が特別甘美になるといふわけもなく、私等を若干もてなして、間もなく歸つて行つた。酒がまはるにつれ、疇昔十日會のかへりに二人で夜ぢゆう街上を歩いたことを想起し、親愛の心の頓に深まるのをおぼえた。私は元のやうに酒が飮めなくなり、また醉つては體に惡いので、白秋君を促してその家を出たが、その夜は昔ながらの白秋君の温情に接したのであつた。その夜選者等の會合した場所に白秋君が忘れ物をしたことを翌日新聞社からの電話で私は知つた。これが白秋君と二人で親しく歡談した最後であつた。大日本歌人協會の件で談合したのは昭和十六年であるが、あの時は相談會に過ぎなかつた。
 私は長崎にゐたとき、短歌雜誌社から頼まれて白秋我觀を書いて送つたが、あの時は白秋君をば富士山に譬へたやうにおぼえてゐる。(昭和十七年十一月十一日記)





底本:「齋藤茂吉全集 第七卷」岩波書店
   1975(昭和50)年6月18日発行
底本の親本:「文學直路」青磁社
   1945(昭和20)年4月25日初版発行
初出:「短歌研究」改造社
   1942(昭和17)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:きりんの手紙
校正:nagi
2021年10月27日作成
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