マカーガー峽谷の秘密

THE SECRET OF MACARGER'S GULCH

アンブローズ・ビアス Ambrose Bierce

妹尾韶夫訳




 マカーガー峡谷は、インディアン山から、まっすぐに九マイル西北の地点にある。峡谷とはいうものの、じつはあまり高くもない、木のはえた二つの尾根にはさまれたくぼみにすぎず、上流の口から下流の口まで――峡谷も河とおなじように、それ自身の構造をもっていて、かみてとしもてがある――長さ二マイル以上ではなく、幅も十二ヤード以上のところは、一ヵ所しかない。というのは、冬は流れるが、春さきになると乾く渓流がまんなかにあって、その両岸にほとんど平地がないからである。そして、山の急斜面には、ほとんど歩くこともできぬほど、マンサニータや、ケミサルがしげっていて、それが渓流の岸までつづいている。だから、まれにマカーガー峡谷に足を踏みいれるのは、ちかくの大胆な猟師ぐらいのもの、五マイルも離れると、峡谷の名を知った者すらない。それというのも、この峡谷より、もっと珍らしいところで、名さえついていないのが、この付近にたくさんあるからなのだ。土地のものにこの峡谷の名の起りをきいても、誰も満足にはこたえてくれない。
 ところで、この峡谷の入口から出口までのあいだの、ほぼまんなかに当るあたりに、下流からみて右がわに、一つの水のない峡谷が枝のように分れていて、その分岐点に、三エーカーぐらいの平地があり、そこに数年まえ、板かこいの、一部屋の家が立っていた。それはまるで小屋のような小さい家にはちがいないが、どうしてこんな近づきがたい地点に、建築材料をはこんだかという問題は、考えてみたところで仕方はなかろうが、いちおう興味をそそる事柄にちがいない。おそらく河床を道として使ったのだろう。たぶん採鉱の目的で、この峡谷をくわしく調査したことがあって、その時道具や補給品を馬かなにかで運んだのだろうが、製材所のある町とこの峡谷をつなぐ費用にくらべ、利潤のすくない見きわめがついたのだろう。でも、とにかく家だけは残った。そして、残った家のドアや窓枠はなくなり、土と石でつくった煙突は、むざんに崩れて、そのうえに雑草がはびこっている。いぜんは粗末な家具ぐらいはあったのだろうが、そんなものは、壁板の下のほうとともに、猟師たちの燃料となってしまったらしい。家のそばに、幅の広い、底の浅い古井戸があるが、そのふち石でさえ、いまはなくなっている。
 さて、私が乾いた河床をつたって谷をさかのぼり、このマカーガー峡谷にはいったのは、一八七四年、夏のある日の午後のことであった。峡谷のなかに家のあることは聞いていなかったが、そのあたりまでたどりついた私は、すでに獲物袋のなかに、射ち落した一ダースばかりのうずらをいれていた。私は大した興味ももたず、その廃屋をちょっとのぞいてみたあとで、また猟をつづけた。日暮ちかくなると、人家の遠いことに気がついた。明るいうちに人家をさがすことは、できそうもなかった。しかし、考えてみると、獲物袋には食物があるし、雨露をしのぐには廃屋があった。しかも、シエラ・ネヴァダ付近の山のなかで、露のない暖い夜をむかえるには、なにもかぶる必要がない、ただ松葉のうえに横になるだけで、安眠できるのである。私は孤独が好きだったし、夜も好きだった。それで、さっそくその廃屋で泊ることにきめ、暗くならないうちに、部屋の片隅に小枝と草で寝床をつくり、煖炉に火をたいてうずらを焼いた。こわれた煙突から煙がもれて、煖炉の火は気持よい光を部屋になげた。その地方は水がすくないので、私は猟をしながら、その日は午後中、水がわりに葡萄酒を飲んだのだったが、私はその赤い葡萄酒ののこりをのみ、焼いただけの簡単な鳥を食べた。ただそれだけだったが、私は立派な部屋で、山海の珍味をあじわう以上の、気持よさと満足をおぼえた。
 だが、そこにはなにかが欠けているように思われた。気持よさはあっても、安全感はなかった。どうかすると、必要もないのに、開けっぱなしの入口や、ガラス戸のない窓に目をやる自分に気がついた。入口や窓の外は暗闇だった。その暗闇につつまれた外の世界を想像し、そこにうごめいているかもしれない、非友好的な自然界のものや、超自然のものを胸に描くと、私は不安な気分にならずにいられなかった。なかでも、すぐ胸にうかぶのは、まれにこの地方に出てくるという、灰色の熊だった。理性で否定している幽霊もこわかった。不幸にして、人間の感情というものは、かならずしも理性を尊重しない。そしてこの夜の私は、可能なことと不可能なこと、すなわち理性で否定していることが、おなじ程度に気がかりだったのである。
 ところで、こうした経験をもつ人は、人間というものは、ドアをあけはなした家で夜をすごすより、むしろ屋外のほうが危険を感じなくて、結局気楽なものであるということを知っているだろう。部屋の隅の、炉辺の草の寝床に横になって、火が消えるにまかしていた時の私も、ちょうどそんなことを考えた。部屋がだんだん暗くなり、入口がほとんどみえなくなっても、私はその入口から目をはなすことができず、なにか敵意をもつ、威嚇的なものがそこにいるという観念が、しだいに強くなった。そして、やがて最後の残り火が消えてしまうと、そばにあった銃をとり、もはやみえなくなった戸口に銃をむけて、いつでも打金をおこせるように、親指をあて、全身をこわばらせて息を殺した。だが、しばらくすると、自分のしていることがはずかしくなり、嫌気がさして銃をおいた。いったい、私はなにをこわがるのか? なぜ?
人間の顔より、
夜の顔――
に親しみをもつ私、人間が誰しももっている遺伝的迷信のせいか、孤独と、闇と、沈黙に、より多くの興味や誘惑を感ずる私――その私がなにを恐れるのだ? 私は自分ながら馬鹿らしくなった。そして、憶測のなかで憶測が作ったものを忘れて眠りにおちた。それから、その眠りのなかで夢をみた。
 外国の大きな都会に私はいた。そこの住民は、言葉や服装がすこしちがうだけで、私とおなじ人種だった。しかし、そのちがっているのが、どんな点であるかということは、感覚がはっきりしていないので分らない。その都会には、大きな城のある山があって、その山の名を私は知っているはずなのだが、はっきり口でいうことはできない。その都会のいろんな街を、私はさまよい歩いた。ある街は広くまっすぐで、両がわに、高い近代ビルディングがそびえていた。ある街は狭く陰気で、曲りくねって、破風のある古い奇妙な家々の二階は、階下より前につきでて、それに石や木の彫刻があるので、どうかすると、それが街を歩く私の頭にぶつかりそうだった。
 まだみたことのない人を、私はさがしていた。会えばすぐ分るはずだった。私がその人をさがすのは、無意味でも、不意なできごとでもなく、ちゃんと筋道がたっていた。錯綜した迷路を、私はひとつの街からつぎの街へと、いささかのためらいもなくさまよい歩いて、迷い子になるというような不安はすこしも感じなかった。
 やがて、私は高級の職工の住宅と思われる、ある質素な石造の家の、小さいドアのまえにたちどまり、案内もこわずになかにはいった。部屋に家具はすくなかった。たった一つの窓に、小さい菱型のガラスをたくさんはめてあった。部屋にいるのは、男が一人と女が一人だけだった。彼らは私がはいってもふりむきもしなかったが、それは夢なので、不思議には感じられなかった。二人は話をしてはいなかった。むきあってすわって、なにもしないでむっつりとした顔をしていた。
 女は若くて、どちらかというと太ったほうで、立派な、大きな目をして、重みのある美しさ、といったようなものが感じられた。私はその女の表情をあざやかに感じたが、夢なので、顔のこまかいところは覚えていない。肩に格子縞の肩掛がのっかっていたようだ。男はかの女より年をとり、皮膚があさ黒く、毒々しい顔をしているばかりでなく、左のこめかみから黒い口髭にかけて、ななめに長い傷痕がみえた。
 私の夢ではこの傷痕が、ただ顔にのこっているというより、妙に浮びあがっているようにあざやかにみえた。浮びあがっているというのはおかしいが、どうも、それよりほかにいいようがない。そして、この二人をみると、私はすぐそれが夫婦であることを知った。
 その後のことはよく覚えていない。すべてが不合理にこんがらがったような気がするが、それは夢のなかに、意識の光がさしこんできたためだろう。すなわち、現実に私をとりかこんでいるものと、夢との、二つの映像がしばらく混合して重なりあい、やがてゆるやかに夢の場面がうすれて、廃屋の眠りから覚めて、静かに現実にかえったのである。
 私の馬鹿げた恐れは去った。顔をおこしてみたら、焚火は消えたのでなくて、一本の木が倒れて、また燃えあがり、かすかに部屋を照らしているのだった。私はほんの数分間、眠っていたものらしい。だが、いまみた夢に強く胸をうたれて、それ以上眠る気にはなれなかった。しばらくすると、私は起きあがって、火をかきあつめてパイプに火をつけ、馬鹿ていねいにいまの幻の意味を考えはじめた。
 そんなことを、考えてみるだけの価値があるかどうかということは、その時、自分でも分らなかったが、まず最初にゆっくりと考えて分ったことは、その都会がまだ行ったことのない、[#「行ったことのない、」は底本では「行ったことのない。」]エディンバラであるということだった。行ったことのない土地だから、夢が記憶からくるものとすれば、私の読んだ本や、見た写真の記憶からきたのだろう。だが、それにしても、私はエディンバラの夢をみたということに気がついて、ちょっと驚いた。というのは、私の心の中の神秘な何物かが、私の意志や理性に反抗して、エディンバラということの重要さを主張したことになるからだった。そしてその神秘な何物かは、私の口まで支配してしまって、「きっと、マグレガー夫婦がエディンバラからやってきたんだ。」と、心にもないことをつぶやかせた。
 だが、その時には、この言葉の意味や、どうしてそんなことをいったかということは、ちっとも私に不思議に思われなかった。夢にあらわれた人物の名前はもとより、その人物の素姓まで知っているのが、むしろ当然のことのように思われた。が、まもなく私はその不合理に気がついた。私は声をだして笑い、パイプの灰をたたきおとし、また草の臥床に横になって、しばらくは夢のことも、現在のことも忘れて、ただぼんやり、しだいに消えゆく炎をみつめていた。すると、残っていたただ一つの小さい炎が、ひとしきり低くひれふし、ぱっと燃えあがって、薪木をはなれて空中で消え、あとはまったくの暗闇となった。
 ちょうどその時――まだ炎の光が私の網膜にのこっているうちに――なんだか重い物が、ずしんと床の上に落ちたような音がして、私は寝床の下に床の震動を感じた。私はなにか野獣のようなものが窓から飛びこんだと思ったので、急いで上体をおこして銃を手さぐった。だが、まだ粗末な造りの床の震動がやまぬうち、なにか叩くような音と、床をひきずる足の音が聞え、それから、手をのばせばとどきそうなまぢかなところで、死苦にあえぐ女の、鋭い悲鳴が聞えた。
 それは、今まで聞いたこともなければ想像してみたこともない、恐しい悲鳴だったので、私はただ茫然となってしまった。ただこわいと思うだけで、ほかのことはなにも意識しなかった。さいわい私の手はさぐっていた銃にふれたので、その親しみのある手触りがいくぶん私を勇気づけてくれた。いそいで立ちあがって、闇をみつめた。はげしい物音はそれきり聞えなかったが、それにかわって、なにか生きたものが死んでゆく時にもらす、あえぐような音が長い間隔をおいて、時々聞えるのが、まえのはげしい物音より、かえっておそろしいものに思われた。
 かすかな煖炉の炭火に目がなれて、最初に目に映ったのは、黒い壁よりなお黒くみえる、窓と入口の四角な形だった。つぎに壁と床との区別がつきだし、それから、床のすみからすみまでの形がおぼろにみえだした。ただそれだけで、そのほかにはなにもみえず、なにも聞えなかった。
 片手に銃をにぎったまま、まだ震える片方の手で火を燃やし、私はその明りで部屋のなかをみまわした。部屋に誰かのはいった形跡は、どこにもみられなかった。ほこりだらけの床に残っているのは、私の足跡だけで、他の者の足跡はどこにもなかった。私はパイプに火をつけ、外の暗闇にでたくなかったので、部屋の薄板を一、二枚はがして火にくべ、夜が明けるまで煙草をすいながら考えつづけた。時々火を盛んにして、二度と消えないようにした。
 数年後、私はサンフランシスコの友人の紹介状をたずさえて、サクラメントにモーガンという人を訪問した。ある晩、彼の家で食事していた私は、壁にかけてあるいろんな記念品で、彼が狩猟を道楽としていることを知った。そして、いろいろ彼から猟の話をきいているうち、例の峡谷のある地方に、足をむけた人であることもわかった。
「モーガンさん、あのへんにマカーガーという峡谷があるのを、ごぞんじありませんか?」と、私はだしぬけにきいた。
「知っているどころじゃない。あすこで去年骸骨を発見したことを新聞記者に話してきかせたのは、じつはこの私なんですよ。」
「そんな記事は読まなかったです。私が東部へ旅行しているあいだの新聞にでたんでしょう。」
「ついでだからいいますが、あの峡谷の名は訛りなのです。ほんとはマカーガーでなく、マグレガーなのです。」モーガンはそういったあと、夫人をふりかえり、「エルダースンさんが、酒をおこぼしになったよ。」
 酒をこぼしたというのは内輪な表現で、じつは葡萄酒のはいったグラスを、私は落してしまったのだった。
 モーガンは、落したガラスの片付けがおわるとつづけた。
「あの峡谷には、もと小屋があったのですよ。しかし、私があすこへ行くちょっとまえ、その小屋は風で倒されてしまった。というより、吹き飛ばされたというのがいいでしょうね。方々に木材が飛んでいましたから、床板も大部分はがされていた。ところが、私は一人の仲間といっしょにそこへ行ったのですが、床板のうけ木とうけ木とのあいだに、格子縞の肩掛の切れはしのようなものがみえる。よく調べてみると、なんと、それが女の死体の肩にかかっている肩掛なのです。むろん、大部分が白骨で、ただすこしばかり茶色に乾いた皮膚と、服の切れはしが残っているだけです。しかし、家内がいやがるから、もうこんな話、よしましょうか。」そういって彼は微笑した。事実、夫人は同情的というより、不愉快な色をその顔にうかべていた。
「でも、その頭蓋骨は、鈍器でなぐられたように、方々がくだけていたのです。鈍器というのはつるはしの柄です。まだ血痕のあるつるはしの柄が、やはり床下からでてきたんですよ。」
 そういったあと、モーガン氏は夫人をふりむき、愛情のこもった真顔で、
「気味のわるい話をしてわるかったね、たぶん、細君がいうことをきかぬから、それで夫婦喧嘩をしたんだろうが、それにしても、じつに悲しむべき災難だ。」
「わたし、なるべく気に掛けぬようにしようと思っていますのよ。」夫人は落着いてこたえた。「いつもあなたは、おなじことをおっしゃるのですけれど。」
 この話をくりかえすのを、むしろ彼は好いているように私には思われた。
「いよいよ検屍尋問になると、いま話したとおりの情況や、その他の情況により、被害者ジャネット・マグレガーは、誰か不明の人物に殴り殺された、その不明の人物は、当時の情況からみて、おそらくその良人トーマス・マグレガーであろう。陪審員はそういう評決をくだしたのです。けれども、トーマス・マグレガーは行方不明で、どこへ行ったのか分らない。ただ分っていることは、その夫婦者がエディンバラからきたということだけ――や! エルダースンさんは、鶏の骨を濡らしていらっしゃる!」
 私は鶏の骨を、フィンガーボールに入れていたのだった。
「私は小屋の小さい戸棚のなかから、マグレガーの写真をみつけたので、その写真をみんなにみせたのです。写真をみせても、行方は分らなかったです。」
「ちょっとその写真をみせてください。」私はそういった。
 手にとって、その男の写真をみると、あさ黒い毒々しい顔で、こめかみから黒い口髭のあたりにかけて、物凄い長い傷痕が、ななめについていた。
「しかし、エルダースンさん、あなたはどうしてマカーガー峡谷のことを、おたずねになったのです?」愛想よく主人はきいた。
「あの付近で騾馬に逃げられましてな――それで――それで――すっかり慌てまして――」
「あのね」と、モーガン氏は夫人にむかい、通訳でもするような機械的な声で、「エルダースンさんは、騾馬に逃げられたので、それでコーヒーに胡椒をおいれになったりするんだって。」





底本:「山岳文学選集九 ザイルの三人」朋文堂
   1959(昭和34)年6月30日発行
入力:sogo
校正:枯葉
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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