森の生活――ウォールデン――

WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS

神吉三郎




 ソーロー Thoreau の『ウォールデン―森の生活』(Walden, or Life in the Woods)はアメリカの代表的古典の一つである。そのうちに盛られた精神は今日われわれの耳目にふれてつくられるアメリカという概念からはだいぶ懸けはなれているように見えるが、実はその基盤によこたわる大きな要素の一つであって、こういう要素を見落としてはわれわれのアメリカという概念には重大な欠陥がのこされるであろう。この書物はまた人類共通の古典である。このように自然と人事とを見、感じ、考え、生きた人の誠実で刻銘な記録は世界の人間の絶えざる反省と刺戟しげきと慰めとの源であらねばならない。現代人は追いたてられるような足どりで、思いつめた眼つきでどこにくつもりであろうか。われわれは「簡素な生活、高き想い」の実践者ソーローとともに sober(しらふ)になり、単純に考え、大地に足をつけた生き方をする必要がありはしないか。もちろん、彼の時代と環境とはわれわれのそれではなく、そのままの形で学ぶことはできないが。
 ソーローは一八四五年七月四日(米国独立祭の日)に自分の住んでいたコンコードの町から南方一マイル半のウォールデン池のほとりの森のなかの、自分の手で建てた小屋に移って二年と二カ月間独り暮しをした。『ウォールデン』はその生活報告である。内容は、その動機、どうしてその小屋を建てたか、畠作り、湖水と森の四季のうつりかわり、そのあたりの植物や動物の生態の描写、そこを訪れる、あるいはそこからソーローが出かけていった隣人たちの叙述、そういう静かな環境における読書と思索、その他、である。
 ソーローはこの二年あまりの独居のあいだに、先年兄のジョンとともに舟遊びしたときの記録『コンコード河とメリマック河の一週間』の原稿をまとめ――これは一八四九年に自費出版されたが、大部分しょい込みとなった――『ウォールデン』の原稿の大部分を書き、森を出てのちさらに筆を加えて一八五四年に世に問うたが、この方は相当よく売れた、そして著者の死後も年を逐うて真価をみとめられ、今ではアメリカ文学の古典の一つとしての地位を確立した。
 著者ソーローは禁欲的な求道者であるとともにたくましい享楽家である。彼の禁欲的な簡素な生活は十二分の享受のための前提であり準備である。彼が朝の清澄な気分をコーヒーや茶で不純にすることを欲せず、もちろん飲酒喫煙せず、肉食をさけて米や粗末なパンや木の実を好んで食べ、恋愛せず、家庭的覊絆きはんをもたず、最小限の生活をささえる以上の肉体労働をしなかったのは、曇りのない眼と清純な感覚とをもって自然と人生の真趣を心ゆくばかり味わわんがためであった。が、彼は消極的に花鳥風月をたのしむ風流人ではなく、魚を釣り、水鳥を追いまわし、兎やリスに餌をやるまめな人間である。また湖水に測鉛を投じ、氷の厚さに物指しをあて、携帯望遠鏡で動物の瞬間的生態をとらえんとする科学者でもある。特に珍重すべきは彼が風景や動植物についてもつ異常に鋭敏な詩的感受性と表現力である。それによって彼はあるいは青空に溶けこむほどうつくしく霊妙な、あるいはずっしりと重みのある変に生ま生ましい、幾つかの、否、幾十かの不朽な心象を創造した。やや注意ぶかくこの書を読む人は、しばしばそれに行きあたり、長くとどまる感銘を心に投ぜられるであろう。ただし彼は効果を考えて過不足のないタッチを按配する器用な芸術家ではない。また彼の着想とその展開とは必ずしも作家が普通に持ちあわせ、読者が待ちもうける溝に沿うては流れない。彼は独断と誇張と飛躍とをはばからず、独りよがりや野狐禅的やこぜんてき口吻こうふんと受けとられがちなものをも挙揚する。そこにある程度まで晦渋かいじゅうと抵抗とがまぬがれがたく、甘脆かんぜい軽快な読物にのみ慣れた読者には取りつきにくい点がなくもない。けれども小さな完成を必ずしもこいねがわず、かりそめの成敗を多く意に介せず、正直と真面目さから来る独創を珍重する読者はこの書物から多くの示唆と収穫とをうるにちがいない。
 彼の友であり彼の伝記を書いた詩人チャニングが評したように、彼は「詩人博物学者」である。自然は彼にとっては冷やかな非情物ではなく、人生と二にして一である。彼にあってはウォールデンの湖水や森が有情うじょうであるばかりでなく、そこに住むいろいろな小動物や植物も人間のさまざまな性格と運命とを反映する。それは人間の本質を、いわば芸術的デフォルマシオンによって一層立体的に一層自由に、時には怪奇とおもわれるまで生き生きと表現する。「彼は人事に向けて自然という鏡を掲げた」と評される所以ゆえんである。逆に、人事に対する切実な関心を背景として森の花は最もうるわしく匂い、月光は一段と清く湖底に澄みとおる。「喜びと悲しみは自然を最も美しく照らし出す光である」と彼自身がいっているとおり。
 けれどもソーローの同感の振幅は、すべての天才のそれも免れないごとく、限られている。彼はあまりに健全すぎ正気すぎ弱味がなさすぎる。この書もまた、一つの告白文学にちがいないのだが、ここには人生の荊棘けいきょくに血を流しうめく声のかわりに、ハックルベリーのの饗宴に充ち足り、想いをガンジスの悠久な流れにはせる、自信にみちた独白がある。あるのは涙ではなくせいぜいほのかな詠嘆である。けれども多くの文学が繊弱なもの病的なものの強調に偏しているほどにはソーローはその逆の方向に偏してはいまい。訳者は特に、文学に親しむ若い人々が人生について思いちがいをしないために、ソーローの好んで吹く笛の、別な調べに耳を傾けることを勧めたい。

 次に、読者の参考のために彼の生涯を一瞥いちべつしてみよう。ヘンリー・デーヴィッド・ソーロー Henry David Thoreau は一八一七年七月十二日アメリカ合衆国の東北部、マサチュセッツ州のコンコード(ボストンの西北二十マイル)の町で生まれた。コンコードの町がエマスンを中心に哲学者オールコット(『四人の少女』を書いたルイザ・メーの父)、小説家ホーソーン、詩人エレリー・チャニング、女流文学者マーガレット・フラー等によってアメリカで最も文学的連想に富む土地となったことはいうまでもないが、ソーローはそういう仲間のうちにあってこの土地をその著作によって不朽ならしめるに最も有力な人物となったのである。父ジョンはフランス人系統であったがむしろ遅鈍なほど実直なたちで鉛筆製造に精を出し、母シンシアは快活でおしゃべりであった。二人の間には男二人女二人の子が生まれた。次男のヘンリーはコンコードの学校を終えて一八三三年にボストン郊外のハーヴァード大学(当時のケムブリッジ大学)に入学し、四年の課程をふんで卒業した。ギリシャ・ラテンの古典にすぐれ、英国の詩人をよく読んでいたが、与えられた課目をまんべんなく勉強する気がなかったので卒業の成績は優秀とはいかなかった。幼少時代の環境からして自然についての知識に富み、その方面の書物も好んで読んでいた。一方東洋思想に強く引かれるようになり、インドの経典や古詩、孔子や孟子などの言説も翻訳によって読み、そこからの引用や言及は彼の著書にしばしば見られる。
 大学を出てから十年ばかりのあいだに、一時、コンコードの学校の教師をしたが、生徒に体罰を加えることに反対し、当局者と意見が合わず辞職した。世間の眼から見ればいわゆるぶらぶらしていたその頃の彼についてエマスンはこういっている、「彼は決して怠惰でも放縦でもなく、長期の職業にしばられるかわりに、金が入用になると、小舟やさくをつくること、植樹、接ぎ木、測量のような何か短期の肉体労働の仕事でそれをた。剛健な習慣と簡素な欲望、森に明るい知識、たくましい算数能力をもっている彼は世界のどこに行っても困ることはなかった。」
 こういう簡素な生活をしながら読書と思索によって自分を成長させることに専念し、その副産物として良書を書いて後世にのこすことを目的とした。一八三七年頃からけはじめた尨大ぼうだいな量にのぼる彼の日記はその素材であり習作でもあった。詩作も試みたが、この方は大成しなかった。一八三九年には自分たちの手で作った小舟によって兄のジョンとともにコンコード河からメリマック河にいたる一週間の舟遊びをし、後に『コンコード河とメリマック河の一週間』という題で出版した。二歳年長のこの兄を彼はたいへん敬愛し、それが破傷風のために一八四二年に若くして死んだのちも追慕の情は永く彼の心にのこった。ヘンリーがある少女に心をかれたとき、兄もまた彼女を愛しているのに気がついてだまって断念したという挿話もある。一八四一年にエマスンの家に二年間ばかり寄寓した。エマスンから受けた感化はさすがに大きく、「鼻までエマスンに似てきた」という悪口をいった者もあるが、ソーローにはやはり曲げがたい個性があり、またエマスンには見られない天賦もあったことはいうまでもない。その頃はエマスンを助けて超絶主義者 Transcendentalists(エマスン一派の理想主義的傾向の人々)の機関誌『ダイアル』Dial の編集に従事し自分もそれに寄稿した。
 一八四三年にはエマスンの家を辞してニューヨークに出て、家庭教師をし、また出版者との交渉などをした。個人を没却する大都会の生活は彼の心に染まなかったが、見聞をひろめるには役だった。
 一八四五年から二年二カ月ウォールデンの森に隠棲したことは前に述べた。
 一八四七年に彼がハーヴァードの同級生会の書記に送った、多少おどけた身上報告はその頃の境遇と心境とをかたっている――
「未婚。わたしのは職業だか商売だかわかりません。まだそれに通暁しておらず、どれもこれも研究する前におっぱじめたのです。そのうちの商業的なものはわたしが独力ではじめたのです。一つではなく無数にあります。その怪物の頭のいくつかを挙げてみましょう。わたしは学校教師であり、家庭教師であり、測量士であり、植木職であり、農夫であり、ペンキ屋であり、大工であり、左官であり、日雇い人夫であり、鉛筆製造人であり、紙やすり製造人であり、文筆家であり、時にはへぼ詩人であります。貴君がイオラスの役目を買って出てこれらの怪物の頭のいくつかに熱鉄をあてて焼き落としてくださるならありがたいしあわせです。わたしの現在の仕事は、右のような何でも屋の広告から生じてきそうな註文に応じることです。ただし、当方の気が向いたら、の話です。わたしは、好ましいまたは好ましくない、普通に仕事ないし勤労と呼ばれているものをせずに生きる道を発見したので、必ずしもそれに飛びつかないのです。実のところ、わたしの主な仕事――それが仕事といえるなら――はわたし自身をわたしの諸条件の上にえて、天地間に起こるあらゆる事態に即応できるように常にしておくことです。この二、三年、わたしはコンコードの森のなかで、どの隣人からも一マイル以上離れて、全く独力で作った家で独り暮しをしました。
 二伸――クラスの諸兄がわたしを慈善の対象とお考えにならないようにねがいます。また、どなたかが何か金銭的援助を必要とし、事情をお知らせになるならば、わたしはその方に金銭以上の価値のある助言を進呈することをお約束します。」
 一八四六年以後数回彼はメーン州の森林地方に遊び、その収穫は死後『メーンの森』の一巻となった。一八四九年には大西洋に突き出た砂の多いコッド岬をおとずれ、一八五〇年には詩人チャニングとともに一週間をカナダで過ごしたが、雑誌に寄稿されたその折々の紀行は死後にまとめられてそれぞれ『コッド岬』と『カナダにおけるヤンキー』の二巻となった。
 一八五四年に出版された『ウォールデン』の成功は彼に経済的余裕と名声とをあたえ、講演の依頼も多くなり、肉体労働の必要もほとんどなくなった。またそのおかげで幾人かの友人も獲たが英国人トマス・チャムリーもその一人であった。
 一八五六年にはオールコットとともにブルックリンに出かけウォールト・ホイットマンに会った。ホイットマンは最大の民主主義者であると思う、と感服し、その詩集『草の葉』は近来にない、ためになる本であった、といったが、そのうちに見られる肉欲主義には少々当惑の口吻をもらしている。エマスンはソーローに感銘をあたえた三人の人物としてトム・ブラウン大尉とメーン旅行におけるインディアンの案内者ジョー・ポリスとホイットマンを挙げている。
 彼は頑健であったが登山・野営等の無理がたたったせいもあり、一八五五年頃から不健康になり、六〇年十二月にひどい感冒にかかり、ついに肺病になった。翌年には保養の意味でミシシッピ河地方に旅行したが、効果ははかばかしくなかった。
 彼は一八六二年五月六日に死んだ。南北戦争(一八六一―六四年)の二年目であり、「自分は国のため心も病み、」「戦争がつづくかぎり快くならないだろう」といった。
 オールコットは死期に近い彼の病床について書いている、「彼は日一日と弱り、明らかに、われわれの眼から消えかかっている。少しは眠れ、食欲もあり、時々本を読み、読んだことの書き込みをし、友だちに会うことを好むが、衰弱のために声までれ、会話がしにくい。……森も野も黒ではなく雪白の憂いの服をまとっている。それらが長いこと知ってきた、そしてまもなく失うにちがいない敬虔と誠実の人のためにこの装いはふさわしいものであった。」生の彼岸のことを問うた訪問者に彼は「一度には一つの世界」と答え、「神と和解したか」との問に対しては「彼とけんかしたことはない」と答えた。死期の近いのを悟って彼はいった、「わたしは喜んで土をいだくことができるだろう。わたしはそのなかに埋められることを喜ぶだろう。そのときにわたしは、口ではそれといわないがわたしが愛していることを思い知るであろう人々のことを考えるのだ。」

 ソーローの時代においては汽車・汽船・電話などが実用に供せられ、アメリカは西部にむかって大発展の途上にあり、物質文明は栄えたが一方、都市・農村における生活難も深刻なものがあった。ソーローの平和なウォールデン生活中にも奴隷問題にからんでメキシコとの戦争があり(一八四六―四七年)、彼の死んだのは南北戦争の最中であった。誠実な魂をもった彼が時代のうごきに無関心でいられなかったのはいうまでもない。
 戦争と奴隷とを支持する政府のために税金を出すことをこばみ、また、奴隷解放のために殉じたトム・ブラウン大尉の弁護のために熱弁をふるったソーローの一面は本文庫の富田彬氏訳『市民としての反抗』について知られたい。

 本書にはすでに明治年間に水島耕一郎氏の『森林生活』という訳があり、その後三種ぐらいの訳もあるが、なお新訳を試みる余地があると考えて訳してみた。「英文学叢書」中の篠田錦策氏の註によって益するところが多かった。翻訳原本には Houghton Mifflin 出版の全集 The Concord Edition を用いた。
一九五一年五月
訳者





底本:「森の生活」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年5月16日改版第1刷発行
   1994(平成6)年11月15日第30刷発行
入力:Cavediver
校正:砂場清隆
2019年6月28日作成
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