竹取物語は我國に小説あつて始めての者である。製作の時代は平安朝の初期といふだけで、その外のことはわからず、作者は全く不明である。其頃の小説らしい者も他にいくらかあつたのであらうが、それらは一つも傳はらず『竹取』たゞ一部が後世に遺つた。其後小説類が追々現れて來て、中にも『字津保』、『落窪』、『源氏』の諸物語などが有名であるが、文章や語法の上から見ると、この『竹取物語』は格別に古體である。この『竹取』のことは『源氏物語』の中に引用されて、巨勢相覽の畫、紀貫之の書の一本のあつた趣が見えてゐる處を見ると(それは假設であること勿論ではあるが)、延喜年代以前に世間に流行してゐたといふ想像はつく。詞つきがいかにも素朴で、構造の單純な處も、何さま早い頃の假作物の特徴と謂はれる。大體についていふと、説話小説の部類に屬し、ちようど後世のお伽話の稍長いようなものであり、頗る滑稽趣味に富んだ無邪氣な一片の談話である。もとより短い者であるけれど、後世の諸物語のようにやゝもすると缺卷や錯簡があるのに反して、全く無瑕に傳はつてゐるのは結構である。我國の小説がかういふもので幕を開けたことは文學史上に注目すべきことであるが、どこの國の假作文學も發端は大抵同樣である。其點で『竹取物語』は相當の價をもつのであらう。
此物語の大略の筋が『今昔物語』卷第三十一中の一篇として現れてゐるのを見ると、平安朝の後期頃には本元の『竹取物語』は一時影が薄くなつて、單に梗概だけが一箇の傳説のように傳はつてゐたのではあるまいか。これは次ぎの『今昔物語』に關係のあることであるから、ちよつと述べて置く。
『今昔物語』は宇治大納言と呼ばれた源隆國(承暦四年齡七十四で薨去)の所編といふことになつてゐる。編者の名を取つて『宇治大納言物語』とも呼ばれた。但し隆國薨後の寛治頃の源義家阿部宗任などの記事が交つてゐる處から推して、後人の補筆もあることを拒否し得ない。
この物語はもと三十卷あつたのであるが、中ごろ缺卷(卷八 十八、廿一)が生じ、また一卷内の缺章も出來て、今では聊か不完全の姿になつてゐる。それでも現存の説話千有餘に上り、我國に於ける説話集の最大最古のものである。一話ごとに『今は昔』と云ふ冒頭を置いてある處から、全集の題名が起つてゐる。
内容の豐富なのに驚かれるばかりでなく、取材の多方多面なのも他の説話集の比でない。大體を三部に別けて天竺(印度)震旦(支那)本朝(日本)の傳説、逸事、史譚、怪談、巷説の類を根氣よく集め、それを編者一流の氣骨ある文章で記してある。天竺の部は佛教に關したものが多く、震且の部、本朝の部またやゝ同樣であるが後の二部には史傳其他世俗のことに係る逸話も相半してゐる。三部の中、最も話數の多いのは本朝の部で、全編の約三分二を占める。その本朝の部だけで佛法の話が九卷、世俗談及史譚と謂ふべきが五卷、その外宿報、靈鬼、惡行、雜事の各一二卷が區別されてある。
題材に取られた人物は、天竺の部では釋迦及び其弟子の羅漢たちから釋迦に親縁ある人々、さては佛教界の大徳名匠の類であつて、釋迦の一生がこの部の中心になつてをり、その出處は近くは『法苑珠林』『佛祖統記』等の外、遠くは『因果經』『佛本行經』等多數の經典である。
震旦の部では取題の人物は秦の始皇、漢の高祖、楚の項羽、後漢の明帝、梁の武帝、唐の玄宗等の王者から、玄奘三藏、善旡畏等の諸高僧や、郭巨、孟宗等の孝子、孔子、莊子、季札、蘚武等、また上陽人、楊貴妃などに及び、その出處は、『史記』『漢書』『唐書』『白氏文集』『世説』『説苑』諸子百家の書、詩話、隨筆等さまの書である。
本朝の部では上題の人物は最も廣く、聖徳太子、行基菩薩、役小角、玄

要するに印度、支那、日本を通じて佛教思想の輪回轉生や因果應報に基いた説話が甚だ多く、また法華經などの功徳や觀音、地藏などの靈驗を述べたものが澤山あるのは、いかに當時の我國民生活が佛教の影響を蒙つてゐたかを窺ひ得られる。しかし我國固有の優しい歌物話りも、雄々しい武者物語りも、かなり多數に集められてあつて、なか/\に變化に富んでゐる。よくもかくまでに多種多樣の説話を蒐集し得たものとの感想は一たび本書を讀んだ人の頭に必ず浮ぶことであらう。
後世の人の手に成つた多くの説話集、即『宇治拾遺物語』『十訓抄』『寶物集』『沙石集』『古今著聞集』『古事談』等に本書から採られてゐる話が少くないし、又『扶桑略記』『帝王編年記』『平家物語』『源平盛衰記』その他諸寺の縁起等に引用されてある

文學書としては眞率直截の書き方で、強ひて文詞を修飾した痕は見えぬが、其處に氣あり力あり、一種淨潔な趣もあつて、かへつて讀者をして心を弛緩せしめぬ所が妙である。編者の博覽洽聞は勿論驚くべきものである。
全部千章もある中から特に面白そうな説話、ことに兒童の了解に適ふものを拔いて、本書の一斑を示さうと試みるのは、稍むづかしい業であるが、他日原本を手にするまでの階梯として上の三十篇を擧げることにした。
謠曲とは足利義滿將軍の時代應永年中觀世觀阿彌、同世阿彌父子の大成した猿樂の能のうたひ物の謂で、其作者としては觀世世阿彌(元清)、同小次郎(信光)、同彌次郎、金春禪竹、同禪鳳、宮増新九郎等が有名で、中にも世阿彌の作最も多く且傑作に富む。其後も斷えず新曲が製出されて遂に千有餘篇にも及んだが、後世に至つて自然に廢れたものも少からず、近代は二百曲内外を以て普通とすることになつた。能の流派即、觀世、寶生、金春金剛、喜多の五流によつて所用の曲數に相違があり、同一の曲でも文章に幾分の異同があるけれど、大體は似よつたものである。
さて謠曲の題材は神話、佛説、史的逸話、戀愛談、怪異談、その他諸種の傳説巷談及び古代の假作物語類の一節等を採つたのが多く、舊來之を大別して神祇物、修羅物、女物(かづら物)雜の四部に立ててゐる。文章は製作當時の通行文よりも稍古い時代の風格を經として、室町期の通用語を緯とし、前者には多く譜節を附して諷吟させ、後者は臺詞(白)として、諷吟の間を點綴するやうにしてある。
普通の説話文と違つて舞臺文學である謠曲には、曲中の人物が相手なしの獨語的に自己の所懷を述べて、觀客に曲の筋や意趣を釋くような箇處が必ずある。往々地の文と曲人の白との差別のつかぬ場合も出て來る。
それから能の構造には單複の二樣があつて、單式では一曲の主人公たる者が其曲を通じて更らぬのに、複式では主人公が前後姿を變へ又は人格を更へて現れる。謠曲の文にも其次第は率ね寫し出されてゐるけれども、其變り方のいかようであるかの明示を缺くこともある。此等は單に謠本を見たのみでは十分の理解をなしかねる。どうしても能を觀て知るべきである。
謠曲には佛教思想を取り込んでゐる者が多いが、これは作製當時の一般民衆の心的趨向を考へてのことであるから、特に謠曲に因果應報談の少からぬことを求めるわけにゆかぬ。怪力亂神的の曲が大分にあるのも、やはり時代の信念の反映に外ならぬ。
少くとも二百餘曲の現行されてゐる中から、代表的の數曲を選ぶことは頗る困難であるが、主ら能として早分りがしてしかも興味のあるもの十篇をとつて、兒童をして謠曲の概觀をなし得るようにした。たゞし實際大人の賞翫に價する曲はこの外に尚澤山あることを斷つて置く。