怪奇人造島

寺島柾史




   一 怪汽船と怪老人

     どろぼう船

 冷凍船虎丸タイガーまるには、僕(山路健二)のほかに、もう一人ボーイがいた。それは、南京ナンキン生れの陳秀峰チャンチューホーと、自ら名乗る紅顔の美少年だ。
 ピコル船長つきのボーイだから、僕のような、雑役夫ざつえきふにひとしいボーイと、めったに話合う機会もなかったが、船が函館港を出帆し、北上してから三昼夜目、すでに北千島圏内に入ったある日、後甲板で、二人は、ひょっこり出会った。すると、チャン君は、流暢りゅうちょうな日本語で、僕にそっと話かけた。
「カナダのH・G汽船会社の所属船が、どうして、僕等のような東洋人を雇うのか、君は、知っているかい」
 まるで、少女のように優しい声だ。僕は、何となく親しみを覚えて、
「それは、東洋人は、安い給金で雇えるからだろう」
「うん、それもある。だが、もっと他にも理由わけがあるよ。だいち、この船は、どろぼうぶねだってことを、君は、知ってやしまい」
「え! どろぼう船?」
ッ!……この船はね、表面は、カナダから日本の北千島へ、紅鮭べにざけを買いにいく冷凍船とみせかけているが、じつは、千島の無人島で、ラッコやオットセイを密猟する、国際的どろぼう船なのさ」
「へえ。じゃ、僕等も、どろぼうの手下にされたのかい」
「まアそうだ。しかも、さんざ、コキ使ったあとで、密猟が終り、満船して本国へ帰る途中、臨時に雇った水夫や、君たちのようなボーイを海ン中へ放り込んでしまうに都合がいいからだよ。つまり、東洋人を人間扱いにしていないのだ」
「どうして、海ン中へ放り込むのさ」
「この船の船員は、みんなピコル船長の乾児こぶんだろう。だから安心だが、臨時に雇った水夫やボーイたちは、上陸すると、この船の悪事を、みんなもらしてしまう。それがおそろしいので、毎年横浜や函館で、東洋人の水夫や、ボーイを雇って、北洋へ連れてき、うんとコキ使って、不用になると、帰航の途中、海ン中へ放り込んでしまうのだ」
 僕はこれをきくと、おもわず、義憤の血のき立つのを覚えた。
「ひどいことをするなア。こんな船に、一刻も乗ってられやしない。途中で、脱船しなくちゃ……」
「そうだよ。僕は、毎日そのことを考えているのさ」
「だって君は、船長に可愛かわいがられているから、海ン中へ放り込まれる心配は無いじゃないか」
「いや、僕も東洋人だ。同じ東洋人のために、兇暴きょうぼうな白人と戦わねばならない」
 陳君は、昂然こうぜんと肩をそびやかした。
 それにしても、どうして、この怖ろしい密猟船を脱することが出来ようか。

     脱船か奪船か

 虎丸タイガーまるは、案の定、北千島の無人島オンネコタン島近海で、白昼公然とラッコやオットセイを密猟した。それから、日本の極北パラムシロ島近海へ往って、何食わぬ顔で、日本の漁船から、紅鮭べにざけをうんと買込んで、ラッコやオットセイといっしょに、冷凍室に詰込んでしまった。
 それは、日本の監視船や、警備艦の眼を、巧みにのがれるためだった。こうしておいて、ふたたび、千島の無人島を荒し廻ろうというのだ。
 虎丸タイガーまるが、パラムシロ近海を去って南下したのは、八月上旬だった。そして、数十海里南西のアブオス島に向った。この沿岸は、ラッコの棲息地せいそくちとして名高いし、また洋上には、オットセイが、おびただしく群游ぐんゆうする。白人の密猟者にとっては、千島第一の猟場なのだ。
 虎丸は、アブオス島沖に仮泊すると、いよいよ最後の密猟を開始した。五そう端艇ボートは、早朝から、海霧を破って猟に出かけるが、夜半には、いずれも満船して戻ってくる。船長はじめ、乗組員たちはハリ切っている。哀れな臨時雇の水夫たちも、あとで海ン中へ放り込まれるとは知らずに、やはりハリ切っている。
 こうして、祖国の領海が、白人密猟者のために、さんざ荒されるのを傍観して、僕は、おもわず、腕をやくし、義憤の涙にまぶたを濡らすのだったが、多勢に無勢、なんとも手の下しようがない。ある朝、船長はじめ、みんなが、相変らず猟に出かけたあとで、チャン君は、船長室からやってきて僕に耳打ちした。
「君、奴等やつらの密猟も、あと二、三日だぜ。いまのうちに何とかしないと、生命いのちがあぶないぞ」
「うむ。僕も、あせっているが、妙案がないので弱っている。僕は、最後の手段として、火薬庫に忍込んで、日本の領海を荒し廻るこの船を、一挙に爆破してやりたいくらいだ」
「なるほど……。だが、爆破したら、君も僕も、木葉微塵こっぱみじんになってしまうじゃないか」
「仕方がない。みすみす奴等に殺されるよりか……」
「爆弾勇士は、僕は、不賛成だ」
「え! どうして?」
「もっと、うまい考えがあるからさ。僕なら、この船を奪ってやるよ」
「へえ、船を奪う?……。いったい、そんなことが出来るかい」
「出来るとも、見ていたまえ」
 陳君は、確信ありげにいうが、彼とて、たかが船長つきのボーイではないか、お茶を運んだり、靴を磨いたり、寝台の毛布をたたんだりする役目のボーイが、この千五百トン級の汽船を、海賊たちから易々やすやすと、奪うことが出来るものか。
「どうして、この船を奪うのさ」
「なアに、わけはないよ。今から、君は運転士になればいいのさ。僕は、機関士。いいだろう。奴等の留守の間に、二人で、この巨船を動かして、一路横浜へ凱旋がいせんするンだ。愉快じゃないか」
「なるほど、海賊たちを、北洋に置去りして、そのまに横浜へ往くのか。こいつは妙案だ」
 僕は、陳君の奇計に、おもわず手をたたいた。が、考えてみると、この奇計も、やっぱり、少年だけの智慧ちえしかないとおもった。
「僕も君も、素人だぜ。この巨船を運転することが出来やしないじゃないか」
 陳君は、微笑ほほえんだ。
「君は、むざむざ、太平洋の真ン中で、ふか餌食えじきになりたいのか」
「いや、そいつも真ッ平だ」
「じゃ、僕の計画どおりにしたまえ。君は、一等運転士、そして、僕は、機関士。いいかい。僕は、すぐに機関室へ降りて往って、機関エンジンを動かすぜ。絶好の機会だ」
 チャン君は、勇躍一番、そのまま、甲板から姿を消してしまった。

     あッ! 機関がとまった

 僕は、一等運転士を押付けられて、さすがに不安だった。船には、僕等のほかに、当番水夫が四、五人残っているだけだった。それだけの人数で、この巨船を横浜まで回航できるだろうか。素人だけで、こんな汽船を動かせたら、それこそ奇蹟きせきだろう。が、運転室におさまってみると、急に緊張し、さすがに責任を痛感した。
「よしッ! 死んでも、横浜まで往ってみせるぞ」
 僕は、ハンドルを握った。コンパスや海図とにらめっこして待っていると、やがて、機関室へ降りて往った陳君が、出帆を僕に促すために、不意に勇ましく汽笛を鳴らした。
 ボー。ボー。ボー……。
 余韻よいんは長く、北洋の空に響いたが、それは、白人の密猟者に挑戦する、進軍ラッパのようだった。
 果して、汽笛の音を聞きつけると、彼方かなたの入江、此方こなたの島影から、端艇ボートが姿を現わし、本船目指してぎ寄せてくる。
「おーい」「おーい」
 と、船長はじめ、乾児こぶんたちは、声のかぎり絶叫し、死物狂いにオールを漕いでくる。
「ざまア見ろ、みんな無人の孤島で餓死してしまえ」
 僕は、愉快になって、ハンドルを力いっぱい回した。素人運転士の僕だが、白人を克服せんとする意気で、柔腕やさうでにもかかわらず、千五百トンの巨船が自由自在に動き、舵機だきも、スクリウも、僕の命ずるがままになってくれる。同じ素人の陳君も、旨くやってくれているとみえて、機関の音も軽快に響いてくる。
 船首は、南々西に向っている。速力は十四、五ノットはあろう。北洋の三角波を、痛快に破って快走をつづけた。みると、置去りを食った海賊たちは、端艇のうえで、手を挙げ、足を踏み鳴らして去り往く本船に追いすがってくる。
「おーい」「待ってくれい」死物狂いの叫びだ。僕は、いよいよ愉快になって応酬してやった。
「やーい。口惜くやしかったら、泳いで来い」
 そのまに、彼我ひがの距離は、またたくまに遠ざかり、やがて、五艘の端艇ボートは、海霧の彼方に姿を没してしまった。船長ピコルはじめ、海賊たちは、どんなに口惜しがっていることだろう。地団太じだんだ踏んで、わめき立てているさまを想像すると、滑稽こっけいでもあった。二時間ほど、盲目滅法めくらめっぽうに快走をつづけたが、どうしたことか、左手に島影も発見できない。コンパスや海図と睨めっくらしてたしかに、北千島列島を左にして、南々西に針路を向けているのだから、次の無人島を左手に眺望できなければならぬ。海図では、アブオス島の南方には、マカルス島が連なり、それからオンネコタン、カアレンコタン、イカルマなどの諸島が、飛石のようにならんでいるのであるからもう島影を発見しなければならぬが、相変らず茫漠ぼうばくたる水また水である。
「はてな。もしかしたら、舵機も、スクリウも、僕のいう通りにならないのかしら」
 そうおもうと、不安は、刻々にましてくる。このまま、針路を誤り、航行をつづけるならば、世界の果ての魔の海へまでも往ってしまうかもしれない。
 が、そんな不安はまだ生優なまやさしかった。やがてのこと、不意に、船の心臓ともいうべき機関の音がピタと停ってしまった。
「あッ!」僕は、おもわず失策しまった! とおもった。

     水葬にしろ

 素人機関士のチャン君が、船橋ブリッジを駈け登って来た。
「山路君。とうとうやっちゃったよ」
「えッ! 何をやった?」
機関エンジンが急に停ったのだが、どこが故障か、てんでわからないよ」
「そいつは、困ったなア」
「僕が、機関の故障を発見できないくらいだから、君にだって解るはずはないし、もちろん、水夫たちにも解るまい。……山路君、仕方がないから、運を天に任して漂流しよう」
「まア、それよりほかに、手段もないじゃないか」
 僕は、未練にもまだハンドルを握っている。それをみて、陳君は、
「とにかく、機関が停っては、君がここに突立って、コンパスと睨めっくらしていたって無駄さ。船長室へ往って、午睡ひるねでもするさ」
 二人は、悄然しょうぜんとして階段を下りた。
 中甲板をおり立つと、どこにいたのか、五人の水夫が、不意に現われて、二人の前に立塞たちふさがった。
停れストップ――」太い低音バスで叫んだのは、髪の縮れた、仁王のような安南人だ。右手を突出つきだし、ピストルの銃口を二人の胸に向けた。
「やい小僧。てめえたちは、とんでもねえことをしてくれたな。さア、はやく機関を動かせ」
 陳君は、落着払って、
「故障で動かないのだ。このうえは、潮流に乗って漂うまでさ」
「漂流?……よろしい。……で、小僧、てめえたちは、このピストルが怖くはねえのか。怖かったら、乃公おれに降伏しろ」
「降伏?」
「そうだ。本船では、乃公が一番の強者だ。何故なぜなら、乃公はピストルを持っている。そこで、強者の乃公は、ピコル船長に代って、今から船長様だ。てめえたちも、乃公の命令に従うがいい」
「黙れ! 縮毛。船長は、この僕だ。おまえこそ、われわれ二人の部下じゃないか」陳君が、肩をそびやかすと、縮毛の大男は、大口開いて笑った。
「ワハ……。小僧、大きく出たな。だが、いくら力んでも、どうにもならんさ。この船の宝物は、乃公のものだ。絶対に手を触れることはならぬ」
「うぬ!」陳君は、すきをみて、縮毛の大男の右手をたたきつけた。
「あッ!」ピストルは、甲板に落ちた。僕は、素早くそれを拾おうとしたが、同時に荒鷲あらわしのような手がそれに伸びた。
「何を!」
「やるか」僕と、べつな水夫とは、野獣のように組打ちとなった。
「さア来い。小僧!」
「何を! 大僧!」
 陳君と縮毛の大男も、その場で格闘をはじめた。他の水夫たちも、これを傍観しなかった。二組の格闘のうえに、折重なって、はげしい乱闘となった。
 が、二人は、衆寡しゅうかてきせず、たちまち甲板上で、荒くれ水夫たちに組敷かれてしまった。
「太い小僧だ。銃殺にしろ。……いや、それよりか、一束にして、水葬にしてしまえ」
 縮毛の大男は、怒号した。
 水夫たちは、麻縄ロープを持ってきて、僕と陳君を一緒にして、ぐるぐる巻にしてしまった。
 僕も陳君も、観念して、もう抵抗はしなかった。白人海賊たちの手で、海ン中へ叩き込まれる代りに、こんどは、中国や安南の水夫たちのために、同じ水葬の憂目をみなければならないのか。

     中甲板の乱闘

 いよいよ、生きながら水葬にされるのだ。僕は、眼をつむった。と、このとき、水夫の一人が、縮毛の大男に向って、念を押した。
「で、何かい。冷凍室のラッコの分配は、どういうことになるンだ」
 縮毛の大男は、空嘯そらうそぶいた。
「船長の乃公おれの自由さ」
「何に! てめえが船長だと?」
「むろんさ。ピコル親分に代って、きょうから乃公が船長様だ。つまり、この船で一番強い人間が、宝物を独占していいわけだ」
「よし、じゃ誰が一番強いか、腕ずくでいくか」
「やるか!」
 縮毛の大男と、若い水夫とが、野獣のようなうめきを立てて、たちまち、肉弾にくだんあいすさまじい格闘をはじめた。よくの深い水夫たちは、二人の勝敗如何いかにと、血眼ちまなこになってこの格闘を見守っている。
「う……」若い水夫は、低い唸きを立て、縮毛の大男の胸に打かっていくが、そのたびに、甲板に投げ飛ばされた。
「おのれ!」
 ち上って、また突進すると、面倒なりとばかり、大男は、怪腕をふるって、若い水夫の顔面に一撃を加えた。
「あッ!」
 そのまま、鮮血に染って倒れるやつを、足をあげて、脇腹をると、急所をやられたか、そのまま息絶えた様子。このさまを見て、他の水夫――ほお創痕きずあとのある物凄ものすごい男が、
「よしッ! 兄弟のかたきだ! 来い」と、叫んで、縮毛の大男に突進した。が、これも、たちまち、血だらけになって、その場にへたばってしまった。
「口ほどもねえ奴等だ。さア、われとおもわん者は、来い!」縮毛の大男は、仁王立ちになって、四辺あたりを睨め廻したが、この勢いに辟易へきえきしてか、誰もあとに続くものがない。
「誰もいないか、自信のある奴がなければ乃公おれが一番強いのだ。腕ずくで、宝物は乃公の自由にするまでさ」が、このとき、背後にいた水夫の一人が、二、三歩前に進み出で、
「いや、船長は、この乃公だ」と、力強く叫んだ。
「何に! どいつだ」
 縮毛の大男が、振りかえった途端。
 ズドン! と一発、銃声が起った。
「あッ!」胸を射貫いぬかれて、大男は、もろくも、甲板にたおれてしまった。
 ピストルを握った、ひょうのような水夫は、続けさまにピストルを乱射した。そして、中甲板を逃げまどう残りの水夫の背後うしろに、一発お見舞申してしまった。甲板は血に染み、四人の水夫の屍骸しがいが散乱した。ピストルを握った水夫は、会心の笑みをうかべて独言ひとりごった。
「これで、きれいさっぱりした。宝船の主人は、つまり、この乃公おれだ」
 彼は、麻縄ロープでぐるぐる巻にされ、甲板に転がっている僕等に気がつくと、また、険しい眼付で、ピストルの銃口を向けた。
「待ちたまえ」僕は、落着払って云った。
「何だ!」
「僕等は、冷凍室のラッコなど欲しかないよ、……何よりも、君の勇気に感心した。改めて君の部下になろう」
「…………」
 豹のような水夫は、ひょうのように、疑深く、なおもピストルを、僕の胸にしたままだ。
「ね、君! この船は、機関エンジンの故障で航海が続けられないのだぜ。つまり、漂流船だ。この先、何十日、何百日、海洋を流されるかしれないじゃないか。僕等まで射殺して、たった一人で、太平洋を漂流するなンか、心細いだろう」
 豹のような水夫は、うなずいて、僕等の麻縄を解きはじめた。

     怪老人の冷笑

 麻縄を解かれて、やっと自由になった。僕も、チャン君も、雀躍こおどりして、中甲板を飛び廻った。
 と、豹のような水夫は、何をおもったか、不意にまた、陳君の背後に、ピストルの銃口を向けた。
「あッ! あぶない」
 僕は、おもわず絶叫したが、すでに遅かった。兇暴な水夫の放った一弾が、陳君の左肩さけんを貫通した。
「あッ!」
 と一声、悲鳴をあげて、陳君は、よろよろとその場に倒れてしまった。
卑怯ひきょうだ!」
 僕は、水夫を睨みつけながら、駈け寄って陳君を抱いた。
「しっかりしろ。傷は浅いぞ」
 血に染った陳君は虫の息で、
「や、山路君。……く、口惜くやしい」
「しっかりしろ」
「おなじ、東洋人に、や、やられるとは、……く、口惜しい」
「陳君! か、かたきは討ってやるぞ。しっかりしろ」
「た、たのむ……。もう、僕は、だ、駄目だ……」
 陳君は、僕の手を、かたく握り締めたが、しだいにその力が失われ、ぐったりとなってしまった。
「しっかりしろ」
 僕は、猛然と立ち上った。
「何故、罪の無い陳君を射殺うちころしたのだ」
 豹のような水夫は、ピストルを、僕の胸板むないたつきつけたまま、
「陳の奴は、油断がならねえからやっつけたのだ。小僧、てめえだけは、たすけてやろう」
「いや、断じて妥協はせんぞ。陳君の讐を討ってやろう」
「ハハハハハ。無手むてで、このピストルに立向うつもりかい。いくら、日本の少年でも、そいつはいけねえ。乃公おれに降伏しろ」
「黙れ! 日本男児の、鋼鉄のような胸を、射貫いぬけるものなら、討ってみろ」
「ハハハハハ。慈悲をもって、たすけてやろうとおもったが、陳と一緒に、冥途へ往きていなら、一思いに眠らしてやるさ。観念しろ」
 豹のような水夫は冷笑をうかべて、ピストルの引金に指をからませた。
 と、このとき、何処どこからか、不意に、
「ワハハハハハハ」
 と、突破つきやぶったような笑声が起った。それは、豪快な笑いにかかわらず、僕にも、ひょうのような水夫にも、死人の笑いのように冷たくきこえたので、振りかえった。
 おおそこには、いつのまに現われたのか、船室の降り口のところに、白衣びゃくえを着た、白髪の老人が、亡霊のように立っているではないか。しかも、彼は、歯の無い口を開いて、
「ワハハハハハハ。おまえたち、甲板のうえで、生命のやり取をしても無駄だろうぜ」
 と、不気味に、冷たく笑った。
「てめえは、誰だ」
 豹のような水夫は、恐怖におびえた眼で、怪老人を睨めつけながら云った。
「わしこそは、この船の主人じゃ。おまえたち、生命のやり取を、めて、はやく、この船を退散しろ」
「何を!」
 水夫は、こんどは、亡霊のような怪老人に、ピストルを向けた。
「ワハハハハハ。若いの、そいつは無駄さ。おまえが、わしの胸を射貫いぬいても、この船には長く居られまいぞ」
「え! 何故だ」
「船底の、火薬庫が、あと三分で、爆発するだろ」
「えッ!」
「わしは、たった今、火薬庫に、導火線を投入れ、その先に火をけて来たのさ。導火線は、あと三分。いや二分で、燃え尽きるだろう」
「えッ!」
 豹のような水夫は、これをきくと、反射的に駈け出した。たぶん、端艇ボートを探し廻ろうというのだろう。だが、端艇は一艘も本船に残っていない。これに気がつくと、水夫は、真蒼まっさおになってふるえ上った。
 僕は、このまに船橋ブリッジの柱に架けてあった浮袋ブイを外して、それを身に着けた。何しろ、あと二、三分で、一千五百トンの汽船が、爆破して、木葉微塵こっぱみじんになるのだ。愚図愚図していられない。僕は、素早く浮袋を身に着けると、そのまま、身を躍らして、海中に飛込んだ。
 このさまをみた、豹のような水夫も、急いで、浮袋を身に着けると、僕にならって、海中へ身を躍らした。

     亡霊の仕業か

 北太平洋のなみは、さすがに高かった。
 僕も、水夫も、巨浪に飜弄ほんろうされながら、懸命に、本船から遠ざかろうと努めた。
 が、二分っても、五分過ぎても、冷凍船虎丸タイガーまるの火薬庫は爆発しそうにもなく、本船は悠々潮流に乗って、可成かなりの速さで、僕等を遠ざかってく。しかも、甲板のうえでは、白衣の怪老人は、僕等を見送りながら、相変らず、冷笑をうかべている。
失策しまった!」
 僕は、おもわず叫んだ。
「ど、どうした?」
 水夫は、飛沫しぶきを避けながら、僕の方へ近寄ってきてたずねた。
「あの、怪老人に、一杯わされたぞ」
「うむ」
「火薬庫が、一向に爆発しないじゃないか。あの怪老人、うまく僕等をだましたのだ」
「なるほど……」
 水夫は、今になって、しきりに感心している。
「こうなれば、船に泳ぎついて、あの怪老人を退治てやらねばならん」
 僕は、巨浪にさからって、抜手を切った。水夫は、そのあとを追って、
「だが、船は、潮流に乗って、あの速さで走っているぜ。とうてい追いつけまいよ」
「だが、口惜くやしい。あんな、老人にだまされたかとおもうと……」
「それに、あの老人は、ひょっとすると、亡霊かもしれんぜ」
「どうして?」
「だって、本船には、最初からあんな老人が乗組んでなかったはずだ。……そ、それに、乃公おれア見たが、あの老人には、足が無かったようだぜ」
「そんなことがあるものか。亡霊など出てたまるものか」
「いや。虎丸タイガーまるは、これまで北洋で、たくさんの東洋人を殺したので、その亡霊が、老人の姿になって現われたのだろう。乃公は、たしかに見たよ。あいつには、足が無かった」
「じゃ、亡霊が、何のために、僕等を、船から追出したのだ」
「亡霊だって、冷凍室のラッコが欲しいだろう」
「そんな、莫迦ばかなことがあるものか。亡霊が、ラッコの皮を売ってどうするンだ」
「なるほど、そいつもそうだ」
 水夫は、うなずいたが、しかし、怪老人の姿をおもいうかべると、ぞっとした。果して亡霊だろうか、仮面の怪人物か。そのなぞの解けぬうちに、虎丸は、僕等とは、可成りへだたってしまった。およそ、十数分も経ったが、火薬庫など爆発しやしない。潮流に乗って、悠々と、南々東を指して流れて往く。
 僕も、水夫も、北太平洋の真ン中に、置去りにされてしまったのだ。しかも、浮袋ブイ一つに生命を托して、ひょうひょうと巨浪に飜弄されている。
 もうすでに夕暮だ。赤い太陽が、西の空に沈もうとしている。海は、黄金をいたように輝いているが、それを眺めて楽しむどころではない。夕方でも、この寒さだから、夜になったら、一層寒さが加わるだろう。水がやいばのように肌を刺し、僕等は、明日を待たず、凍死するにちがいない。
「ひでえことになったなア」
 ひょうのような水夫も、さすがに心細くなったとみえ、今はもう、もぐらもちのように意気地いくじがなく、浪に乗り、浪に沈みながら、悲鳴をあげている。
「ああ。ああ……」
 そして、いつのまにか、僕との距離が遠ざかってしまった。
「おーい」
 といっても返事がない。
「しっかりしろ」
 振りかえって叫んだが、もはや、姿も見えなかった。虎丸は何処と、顔をあげてみたが、もうそれも僕の視野から消え失せてしまった。
 僕は、ただ一人、浮袋ブイに身を托して、はてしない洋上を、浪に漂わねばならないのだ。

   二 抹香鯨まっこうくじらと人造島

     海の怪物

 その夜半。真暗な洋上で、僕は、何物かに、頭をコツンとたたかれたような気がして、はッ! として、失いかけていた意識を、取返すことができた。
「おや! 何だろう」
 手探りに、四辺あたりを探ると、怪物は、ふたたび僕の頭をコツンと叩いた。
「畜生! 誰だ」
 が、手に触れたものは、変に冷たい、大きな、妙に不気味な怪物だった。
「岩礁かな」
 とおもったが、で廻してみると、いやにつべつべした代物しろものだ。
「動物のような感じだぞ」
 だが、動物にしては、これはまた、変に茫漠ぼうばくとして大きい。
「何でもいい。気力を失って、凍死しかかっている僕の頭を、コツンと叩いて意識をかえしてくれた怪物は、僕の生命の恩人だ。ありがとう」
 僕は、心からそう感謝して、怪物の肌を撫で廻した。すると、それは海の怪物海馬か、海象か、鯨といった感じである。
「あッ! いけない。海馬や鯨だったら、こうしてはいられない。いまに尾鰭おびれで一つあおられると、参ってしまう。こいつは剣呑けんのん剣呑……」
 そこで、周章あわてて、怪物の身辺を離れた。が、離れて暗闇くらやみの海に漂うと、やっぱり心細い。気力を失いかけている僕は、このまま数時間、寒汐さむしおに漂うたら、ふたたび意識を失ってしまうだろう。
「よしッ! 海馬でも、海象でも、何でもいい。そいつの背中を借りて、一息入れるとしようか」
 僕は、またも、怪物に近づいた。そして、小山のような背中によじ登ろうと試みた。海馬や、海象なら、こうして僕に、いくたびか取縋とりすがられると、うるさくなって、海へもぐり込むにちがいない。だのに、一向気にもとめず、僕のすままに任している。
「こいつア、海馬や、海象よりも、もっと大きな怪物かもしれんぞ」
 僕は、いくたびかすべり落ちて、やっと、怪物の背中へい上ることが出来た。そこは、やはりつべつべしているが、小丘のように広い。足もとに気をつけて、歩いてみると、可成かなりある。
「駆逐艦ぐらいあるぞ。鯨かな」
 僕は、不安におもったが、ええままよとばかり、怪物の背中でひじを枕に横になった。鯨なら、やがて海底へ沈んでしまうだろう。そのときは、それまでだ。一緒に海底見物と洒落しゃれようか。
 僕は、そんな暢気のんきなことを考えて、悠々と怪物の背中で横になってみたが、怪物は、一向に海底へ沈んで往く様子もない。僕をのせたまま、潮流に乗って、何処どこへか流されて往くようだ。
 怪物の背中に横になっていると、夜風が肌を刺すようだ。しかし、浮袋につかまって、巨浪に飜弄ほんろうされているのとちがって、飛沫ひまつを浴びることもなければ、手足を動かすこともいらない。濡鼠ぬれねずみになって寒いが、極度に疲れているので、いつか睡気ねむけを催して来た。
「眠って転げ落ちたら大変だ」
 そうおもいながらも、うとうととなる。そこで僕は、怪物の背中で、腹這はらばいになった。これなら、なかなか転げ落つることもあるまい。
 僕は、正体のわからぬ怪物の背中で、そのまま、深い眠りに落ちてしまった。

     あッ! 氷山?

 幾時間眠ったろう。ふと眼がめた。
 朝の太陽が、僕の背中をあたためてくれた。
「おお、こいつは、素敵すてき素敵」
 僕は、怪物の背中に起き直って、四辺あたりの景色を眺め入った。相変らず、水また水の、茫々ぼうぼうたる海原だが、いつか北洋の圏内を去ったとみえて、空気もさわやかで、吹く風も暖かだ。
 もう、凍死することはあるまい。だが、まだ怪物の背中に乗っかっているのだ。幸い、ゆうべは、怪物も、海中へ沈まずにいてくれたから、たすかったようなものの、何時いつ、もぐり込むかわからぬ。眼が醒めて、元気づくと、こんどは、怪物の背中にいることが不安になって来た。
「それにしても、怪物は一体、何物だろう」
 僕は、怪物の正体を突止めるために、背中を歩き廻った。なるほど、駆逐艦ほどもある大きさだ。歩きながら、よく見究めると、やっぱり鯨だった。大きな抹香鯨まっこうくじらだった。しかも、鯨のやつ、白いおなかを上に向けて、悠々潮流に乗っている。
 僕は、ゆうべから、抹香鯨のお腹の上に眠っていたのだった。
「なアんだ。お腹の上にいたのか」
 僕は、可笑おかしくなってひとりで笑った。が、考えてみると、鯨がお腹を上に向けて泳いでいるわけはない。僕は、やっと怪物のなぞを解くことが出来た。
「ああ、そうだ。こいつは、鯨の屍骸しがいだったのか。どうりで、僕を竜宮へ連れて往かなかったはずだ」
 それがわかると、少しつまらなくなった。けれど、鯨の屍骸なら、結局安全だ。竜宮へ連れて往ってくれないかわりに、こうして漂流しているうちに、やがて、捕鯨船に発見されるだろう。
「まずまず安心」
 そこで、僕は、また、鯨のお腹の上で横になろうとして、ふと、左手はるかにひとみを投げると、おもわず、
「おや!」
 と叫んだ。そのおどろきも当然、はるか南東の洋上に、ふしぎな島が、うかんでいるではないか。しかも、その島は純白で、朝陽あさひをいっぱいにうけて、銀色さんぜんと輝いているではないか。
「島かな。帆船かな。それとも氷山かな」
 だが、氷山が、こんな暖かい風の吹く海洋まで流れてくるはずはない。では、貝殻の島かもしれない。貝殻や鳥糞ちょうふんが、島嶼しまのうえに堆積して、白い島にみえるのもある。けれど、その白さとちがって、あの銀色さんぜんと輝いているところは、どうしても氷山だ。
 可笑おかしい。どうして、氷山が、こんな暖かい海洋へ流れて来て溶けないのかしら。
 ふしぎにおもって、なおもよく見入っていると、僕を乗せた鯨の屍骸は、どうしたことか、いつのまにか、急速力を出して、かの氷山を目指して進んでいるではないか。
「おや、いよいよ可笑しいぞ。鯨が生き返ったのかしら」いや、生きたのではない。鯨の屍骸は、狂おしくはやい潮流に乗って、矢のように走り出したのだ。しかも、その方向は、はるか彼方かなたに浮ぶ氷山を目指している。それが磁石に吸いつけられるように、かなりの速力で氷山に近づいているのだ。
「こいつは剣呑けんのん! あの氷山に正面衝突してみろ、鯨諸共もろとも、僕の身体も木葉微塵こっぱみじんになるだろう」
 さすがの僕も、今度こそは、おそろしくなって眼をつむった。氷山と鯨は、刻々にその距離を狭めていくようだ。万事休矣ばんじきゅうす

     人造島の秘密

 あくる朝、僕は、病室とおぼしい、明るい室の、寝台のうえで眼を醒した。僕の身体は、ぐるぐる巻に繃帯ほうたいが施されてある。きのうの朝、鯨の屍骸にまたがったまま、潮流に押流され、急速力で氷山に近づき、ドカンと衝突したまでは覚えているが、そのとき、氷山の一角に五体を強く打突けて人事不省に陥ったまま、この病室に運ばれたものとみえる。
「それにしても、ここは一体、何処だろう。氷山に、こんな立派な病室があるわけはないし……」
 僕は、夢見心地で、寝台を降りて、ふらふらと室内を歩き廻った。
 窓から、朝陽がいっぱいに差込んでいる。戸外からみると、おどろいた。やっぱり氷山、というよりか、氷の陸地である。平坦へいたんな氷の島のうえに、白堊はくあの家が建っているのだ。その一室が、病室になっている。いや、白堊の家だけではない、工場もあるし、動力所とおぼしい建物もあるし、飛行機の格納庫さえある。しかも、氷上には、単葉の飛行艇が二機、よくを休めているし、水色の作業服を着た人々が、水晶のように美しい氷上を歩いている。
「北極から流れて来た氷山じゃないぞ。島の上に氷を張りつめたのかしら。いや、それなら家も、格納庫も、氷にとざされているはずだ。だいいち、こんなに太陽が輝いて、暖かいのに、氷が溶けずに、大理石のように輝いているのは可笑おかしい」
 僕は、いよいよ不審におもっていると、不意にドアが開いて、水色の作業服を着た一青年が入って来た。彼は、僕をじろりみて、いきなり、
「君の国籍は?」と妙なことをたずねた。
「僕は、日本人です」
「うむ……それはいかん。日本人であることが不幸だった。せっかくたすけてあげたが、このまま帰りたまえ」
「え!」
「われわれは、外国の漂流者を救助する義務はないのだ。すぐに、島を退去したまえ」
 その声は、氷よりも冷たく感じられた。
「どうして、僕を追払おうとするのです」
「われわれは、水難救済事業に携っているのではない。しかも、君が、日本の少年であることが不幸だった。君を、この島に滞在させるわけにはいかんのだ」
「……」
「その理由というのはつまり、この島は、人造島だからだ」
「えッ、人造島?」
「そうだ。これは、アメリカの兵器会社の技師が発明した人造島で、われわれ技術員は、その耐熱試験をやっているのだ。氷の島が温帯で、いや熱帯圏内に入っても、果して耐久力があるか否かを試験しているのだ。そこで、この島の秘密を、日本の少年に盗まれては、せっかくの、秘密特許の人造島も、無価値になるじゃないか」
「僕は、少年です。断じて人造島の秘密を盗むようなことはありません。日本へ帰るまで、この島に置いてください」
「いかん。君を救けたのは、君の労働力を必要としたからだ。つまり、君に、炊事すいじやそのほかの仕事をしてもらおうとおもったのだが、不幸にして君は、模倣もほうの巧みな日本人だったじゃないか、一刻も、この島に置くわけにはいかん」
 青年技師は、卓上の呼鈴ベルを押した。と、それへ、同じ作業服を着た数名の男が現われた。
「この少年を、追放してくれたまえ」
 青年技師は、冷酷無情にも、そう命じると、数名の男は、矢庭やにわに僕の肩や、手をとった。僕はこれまで、幾度か生死の境をとおって来ているので、またも、この奇怪な氷の島から追放され、海へ放り込まれることを、それほどおそれなかったが、しかし、何かいわくのありそうな人造島の秘密を、何とかして探りたいとおもったので、むざむざと、海へ放り込まれたくはなかった。
「僕は、どんな労働でもやりますから、この島に置いて下さい」ドアの外へ、つまみ出されるのをこばんで、こう哀訴したが、青年技師はいよいよ冷酷だ。
「日本の少年なら、いいかげんに観念しろ。……さア諸君、面倒だから、この少年を麻袋に詰めて、海ン中へ叩き込んでくれたまえ」
「オーライ」作業服を着た男たちは、声とともに、寄ってたかって僕をとらえ、用意の麻袋を頭からすっぽりかぶせてしまった。そして、藻掻もがく手足を押込んでしまうと、袋の口を麻縄ロープで厳重にゆわいてしまった。ああ、僕は、こんどこそ海底の藻屑もくずと消え失せなければならないのか。
 やがて、麻袋に詰められた僕は、一人の雑役夫に担がれて、氷の島の岸へ運ばれた。
 僕の生命は、風前の灯火ともしびだ。

     中国服の老人

 雑役夫は、麻袋をいったん置くと、こんどは、その両端を二人で持って、高く差しあげた。「ワン」「ツー」「スリー」の号令とともに、一思いにドブンと、海中に投げ込まれようとした一刹那いっせつな
「待て、待ちたまえ」と、皺枯しわがれ声が、人々の背後にあった。雑役夫たちは、麻袋をふたたび氷の上に置いた。皺枯れ声の主は、
「その少年を、海へ叩き込むのは、いつでも出来るじゃろ。何しろ、この島じゃ、逃げも隠れも出来まいから、労働を強いてさんざ使ったあとで、海へ棄てても遅くはあるまい」と、云った。
「うん、それもそうだ」青年技師の声だ。
 僕は、麻袋からつまみ出された。大理石のような硬い氷の上に立って、ひょいと見ると、皺枯れ声の主というのは、中国服を着て、木沓きぐつをはいた老人だが、中国人ではないらしい。彼は、僕の顔をじろじろ見ていたが、
「とにかく、この少年を、わしの研究室で使うことを許してもらおう。なかなか怜悧りこうそうな少年だ」
 こう云って、僕の肩を、枯枝のような細い手でつかんで、よろよろと歩きだした。僕は、この老人を、信じてよいのか悪いのかわからなくなったが、とにかく、危い瀬戸際に、少しでも生命を延してくれたので、感謝してもいいとおもった。
 研究室は、同じ白堊の建物で独立していた。その一室へ、僕を連込んだ老人は、
「それへ掛けたまえ」と、一脚の椅子いすをすすめた。
「何を、お手伝したらいいですか」
「まア、仕事は、だんだんにはじまるよ。きょうは、ゆっくり体を休めたまえ」
 なかなか親切だ。が、結局、僕をさんざん使ったあとで、海へ放り込もうというのだから、ピコル船長と五十歩、百歩だとおもった。
「君は、日本人だといったね」
「そうです」
「日本人は、科学の才能において、ドイツ人に劣らぬ。そこで、わしは、わしの研究室の助手として君を所望したのじゃ」
「あなたは、何を研究なさいますか」
「わしは、人造島を研究している」
「あなたは、この氷の島をつくられたのですか」
「そうじゃ」
「人造島というのは?」
「なるほど、少年にはことのほか、興味があろう。かんたんに説明してあげよう。人造島というのは、ドイツのゲルケ博士の考案したものが始りである。浅い海底へ、組合した太いくだを、無数に取付け、それに海水を凍らせる凍結剤を、絶えず送るという仕組になっている。つまり、そうして海上に、ぽっかり氷の島を浮べ、飛行機の着陸場にしようというのじゃ。ところが、わしの人造島は、浅い海ではなく、太平洋の真ン中でも、自由自在につくられるのだから、ゲルケ博士のものとは、規模、構成において、おのずから異っている」
「どうして、氷の島が、暖かい海でも溶けないのでしょうか」
「氷上に動力所があるだろう。あの動力所から、鉄管で絶えず凍結剤を送っているから、よしんば島の表面が溶けても、急凍する海水が、新陳代謝するから大丈夫。それに、この氷は、化学的に急凍したものだから、大理石のように硬いのじゃ」
「人造島が、自由自在に、どこにでもつくられるようになると、飛行機は、安心して飛べますね」
「そうだ。戦争になると、人造島を各処かくしょにつくって、そこを艦隊や、航空隊の基地とし、不安になれば、たちまち溶かしてしまうことが出来る」
「へえ、おどろいた。じゃ、人造島を発明した国は、戦争に絶対勝つというわけですね」
「人造島をつくったのは、わしだが、わしはまた、人造島に、ある種の人工霧を放射すると、忽ち溶けてしまうという、新しい兵器を発明したのだ。完成の一歩前だが、その研究をやっているのだよ」
 老人は、ふくろうのような眼を輝かした。
「あなたは、科学者ですね。博士ですね。そして、この島の主権者ですか」
「主権者?……。なるほど、この島の創造主だから、主権者であっていいわけだ。ところが、わしは、哀れな奴隷なのじゃ」
「えッ!」

     作戦?

「日本の少年よ。われわれは、人造島の耐熱試験をするために、大平洋の真ン中へやって来たが、試験は大成功。そこで数日ののちに、この島を元の水にかえして、本国へ引揚げるのだが、わしの科学の頭脳を、さんざん使った兵器会社の奴等は、不要になったわしを、この老ぼれ博士を、海洋に棄てて去るだろう」
「それじゃ、僕と同じ運命なのですか」
「そうじゃ、わしは、古ぼけた兵器製造機として、もう不要になったのじゃ。そこで、海へ棄てられてしまう。……わしは、たった一人で死にたくはないので、せめてもの道連れにとおもって、君の命乞いをしたのじゃ」
 ああ、そうだったのか。僕は、それを知ると、この博士に怒りを感じた。
「僕は、あなたの道連れになるのは、お断りします」
 僕は、断然拒絶した。老博士は、さびしく笑って、
「いや、ぜひこの老人と一緒に死んでもらいたい。……それとも、君は、あの麻袋に詰められて海ン中へ叩き込まれたいのかい」
「…………」
「わしと一緒に死んでくれるか、それとも、名もない雑役夫のために、海に叩き込まれるか。その二途ふたみちよりないのだが……」
 少し考えていた僕は、
「あんな雑役夫に殺されるよりか……」
「おお、やっぱり、わしとこの島に残されるか」
「はい」
「うむ。それでこそ、義も情もある日本人じゃ。君は、わしの唯一の味方じゃ……では、わしの本心をあかしてあげよう」
「え! 本心ですって?」
「そうじゃ。わしは、いかにも古ぼけた兵器製造機じゃ。けれども、むざむざと、アメリカの兵器会社の奴等のために、海洋の真ン中に棄てられはしないぞ。君と協力して、彼等の暴力に抵抗するのじゃ」
「では、僕とともに、この島をけ出そうとおっしゃるのですか」
「脱出ではない。この島に住む狼共おおかみどもに、戦いを挑むのじゃ。わしは、最初からその決意でいたが、君を味方に得て、いよいよ勝算が十分だ」
「でも、味方は、わずかに二人、敵は、それに十倍する人数、たいてい勝てますまい」
「ところが、わしは、科学者じゃ。科学の力は百人、千人の凡人の比ではない」
「作戦をもらしてください」
「わしの作戦はこうじゃ。まず、この人造島の心臓ともいうべき、動力所を襲うて、これを占拠するのじゃ。われわれは、動力所にって、敵を迎える。動力がとまって、凍結剤を海中の鉄管に送ることが出来なくなれば、この島は、忽ち溶けてしまうのだから、それを怖れて、敵も手出しは出来まい」
「でも、動力所を占拠して、人造島の心臓を抑えても、数台の飛行機が、彼等の手中にある以上、動力を停めて、人造島を溶かすとおどかしても、彼等は、そのままに、飛行機に分乗して、危機を脱することが出来るじゃありませんか」
「なアに、その前に、ちゃんと飛行機を焼いて、敵の足を奪っておくのさ」
「えッ! 飛行機を焼いたら、僕達も、結局、人造島と運命をともにするだけじゃありませんか」
「冒険に心配は禁物じゃ。科学のともなわぬ冒険は、もう古い。わしの人造島は、自力をもって、時速十三海里の航海が出来る。つまり、この人造島は、大洋の浮島であるとともに、一種の方船はこぶねなのさ。しかも、海中深く潜んでいる、すばらしい幾つかの推進機は、動力所の押ボタン一つで、猛然と回転してくれるのじゃ。動力所の心臓部を抑えながら、わしと君は数十人の敵を同伴して、一路日本へ針路を向けようじゃないか……。なアに、万一、この冒険が失敗したら、そのときは、いさぎよく、海中の藻屑もくずとなったらいい」
「よくわかりました。僕はやります」
「では、君は、夜半に格納庫を襲うてもらおう。わしは、同時刻に動力所を襲うて、彼処あそこを占拠してみせる。君は、格納庫に火を放つのじゃ」
「爆弾がございますか」
「爆弾のような化学兵器が、手に入るくらいなら、こんな命がけの冒険はせんよ。爆弾があれば、宿舎に投げつけて、技術員も、雑役夫も、みんな一気にやっつけることが出来るじゃないか。われわれは、敵に監視されている、全くの無力者だ。そこで、非常手段をとらねばならぬ」
 老博士は、僕の耳元へ、秘策を私語ささやいた。

     格納庫夜襲

 ついに夜襲のときが来た。
 海洋の真只中まっただなかに浮んでいる人造島が、深い眠りに陥っているところをねらうのだ。
 白堊はくあの宿舎には、技術員も、雑役夫も、みんな正体もなく眠っている。外部からの襲撃をうける心配のない人造島では、歩哨ほしょうも、不寝番ねずばんも必要がなく、ただ、動力所だけに、機関士が交替に起きているに過ぎない。
 夜半、約束の時刻に、老博士は、研究室の窓の下にたたずんでいた。そして、僕の姿を見つけると、片手をあげて合図をして、そのまま、風のように動力所の方へ去った。僕も、たった一人で、格納庫焼打に往くのだ。
 満天に星はきらめき、空気は水のように澄んでいる。その星の光が、水晶のような氷の肌に、かすかに映えて、あたかも黒曜石こくようせきのように美しかった。
 海は、はろばろとはてしもなく、濃紫こむらさき色にひろがっていて、何処からか、海鳥の啼音なきねがきこえてくる。こんな静かな夜半、決死の二人が、十倍に余る敵を迎えて、これと闘い抜き、人造島を占拠しようというのだ。いや、あと数分ののち、この黒曜石のような美しい氷上が、血の海と化するであろう。このことが、とうてい想像できなかった。
 格納庫の附近には、歩哨も、動哨もいはしない。だのに、誰か物かげに潜んでいるようで、不気味だった。僕は、四辺あたりに気を配りながら、格納庫のドアを開けた。そして携えてきた小さな石油ポンプを、格納されてある飛行機の方に向けた。それから、上着を脱いで、それに石油を浸した。
 これで、準備はできたのだ。
「いいか」
 僕は、自分自身にこう云って、石油を浸して上衣うわぎに火をけると同時に、それを格納庫内の飛行機へ投げつけた。
 ボーッ! と、すさまじい音を立てて、上衣は燃え上った。
「それッ!」とばかり、僕は、石油ポンプの把手ハンドルを力の限り押した。燃え上った一団の火へ、石油を雨のように注いだからたまらぬ。たちまち、格納庫内は、火の海と化してしまった。
「ばんざーい」僕は、興奮して、おもわず万歳を連呼した。連呼しながら、僕は、両頬りょうほおに伝う熱い涙を感じたが、それをぬぐおうともせず、なおも石油ポンプの把手を、力のかぎり、根かぎり押した。
 と、このとき、はるかに宿舎の方にあたって、
「わア」「わア」という、喊声かんせいとも、悲鳴ともつかぬ、人々の叫喚が、嵐のようにき上った。格納庫が火を吹いたので、それを発見した一人が、度を失って、人々に告げ廻ったのだろう。人々は、半狂乱になって、我先に、こちらへけてくる。それが、火焔かえんの明りではっきり認められた。
 僕は、格納庫に十分に火が廻り、三台の飛行機が、威勢よく燃えているのを見済して、動力所の方へ駈けつけた。
 格納庫の巨大な建物が、火を吹いているので、その凄まじい大火焔かえんが、水晶のような氷の肌に映じて、実に壮観。絵にも、文章にも、描けぬ光景だと、僕は、振りかえり、振りかえり、それに見惚みとれた。

     殺到する敵

 こちらは、動力所へ駈けつけた老博士である。博士は、低過蒸気機関の前で、椅子いすに腰かけたまま、こくりこくり居眠りしている、呑気のんき赤髯あかひげの機関士の前に立って、
「おい、起きろ」と、怒鳴った。不意を喰って機関士は、むっくり顔をあげた。きっと、上役に、居眠りの醜態を見つけられたとおもったのだろう、眼をパチクリさせている。
 老博士は、ステッキを、機関士の胸元へ突付つきつけて、いかにも、新しい兵器のように見せかけ、
「これを見ろ、わしのつくった殺人ガス放射器じゃ。よいか、これがおそろしかったら、わしと行動をともにしろ」
 機関士は、老博士のステッキを、恐ろしい兵器と信じて、恐怖のあまり、わくわくふるえながら、両手をあげて、わけもなく、無抵抗の意を表した。
「よいか、わしの味方の一人はいま、格納庫を襲うて、おまえたちの唯一の足である飛行機を焼こうとしている。そこで、わしは、この動力所を襲うて、人造島の心臓部を握るのだ。われわれは、兵器会社の技術員たちに、戦いを挑まねばならない。おまえは、わしの味方になるか、それとも反抗するか」
「味方になります」
「よろしい。では、おまえの任務に忠実であれ」
 このとき、彼方かなたの格納庫のあたりが、急に明るくなり、ボーッという、凄まじい音がきこえて来た。
「ほう、やったな。おい、窓の外を見ろ。わしの味方が、格納庫を焼いたぞ」
 云われて、機関士は、窓から顔を出した。
「あッ、火事だ」機関士は、おどろいて、戸外へ飛び出そうとした。
「おい、これがわからぬか」
 老博士は、ステッキを突付けた。
此処ここを動いてはならない。でないと、人造島が溶けてしまうのだ。飛行機が焼けてしまったし、島が溶けたら、どうなるとおもうか」
「…………」
 機関士は、神妙に機関エンジンの前に戻った。
 格納庫は、物凄ものすごく火焔を吐いている。
 と、忽ち、人々の叫喚が嵐のように起った。目茶苦茶に、発砲するものもあるらしい。大変な騒ぎとなった。その騒動の中を、巧みに抜けて、動力所へ駈けつけたのは日本少年、僕である。
「おお、うまくやってくれたな」
 老博士は、うれしげに僕を迎えた。
「あなたも……」
「うむ、動力所も、首尾よく手に入れたよ」
「みんな、こちらへ押寄せて来ます」なるほど、火焔の明りでみると、人々は、悪鬼のような叫びをあげながら、動力所を目指して駈けてくる。
「なアに、大丈夫。敵の心臓をつかんでいるから、すでに味方の勝利じゃ」
 老博士は、落着払っている。動力所へ押寄せた一隊は、威嚇いかくするように、小銃を乱射した。わアーという、喚声をあげながら、悪鬼のように、
「博士をやっつけろ」
「おやじを殺せ」
「日本の少年を、渡せ」と、口々にわめき立てて、すでに、ドアの近くまで迫った。

     島が溶けだす

 このとき、老博士は、動力所の窓から、ぬっと首を出した。
「あぶない!」僕は、引止めたが、それには耳をさず、はや間近に迫った一隊に向って、皺枯しわがれ声だが、しかし太い力のこもった声で呼びかけた。
「射撃をめろ。止めないと、人造島の心臓部を止めてしまうぞ」この一言が、たしかに利いたとみえて、敵の一斉射撃が、急に止み、一隊は、その場に釘付くぎづけにされたかたちとなった。老博士は格納庫の火焔かえんに、上半身を照らしながら、語気を強めて、
「わしは、すでに、この人造島の心臓部を握った。飛行機はみんな焼けてしまった。おまえたちは、自由を失ったのだ。よいか、わしに反抗するものがあったら、わしは、ここにいる味方の一人に命じて、動力機関エンジンを、一挙に破壊してしまうだろう。おまえたちが、この動力所へ殺到し、われわれを銃剣で突刺すまえに、発動機の機能は、めちゃめちゃになってしまうが、どうだ」
 と、宣告を与えた。が、戸外にたたずむ敵の一隊は、怒りと怖れのために、一語も発するものがない。完全に心臓部をつかまれているからだ。
 格納庫は、まださかんに燃えている。しかしトラスト型の鉄骨と、飛行機の形骸けいがいを、無慚むざんにもさらして、はや、火焔も終りに近かった。老博士は、敵の銃口に身をさらしながら、なおも言葉をつづける。
「沈黙を守っているのは、無抵抗の意志と認める。飛行機は、あのとおり無惨な姿になってしまったから、いくら暴れても、この島をのがれることは出来ないだろう。どうだ。和睦わぼくせぬか。心臓部を握るわれわれと握手して、この人造島を、大陸へ向けて移動せしめることに同意せぬか」
 戸外の人々は、なおも沈黙を守っている。
「それとも、われわれの手で、動力機関を破壊し、氷の島を溶かして、敵味方諸共もろとも、海底の藻屑もくずとなるか」敵の一隊は、今は進みも退きも出来ず、死のような沈黙をつづけている。
「君たちは、わしのつくった人造島が完成すると、もう、この老ぼれには用は無いというので、わしを、この島に残し、島の動力器械を持去ってしまうのだろうが、それは、あまり酷薄無道だった。君たちは、みんな、そんな残酷な人間ではないだろう。わしを信じ、わしの科学の才能を認め、わしになお、研究を継続させたいものは、銃を捨てて、これへやって来たまえ」
 すると、先頭の一人は、銃を投げ出した。悄然しょうぜんと、こちらへ歩いてくる。すると、これにならって、他の人々も銃を棄て、みなそのあとに続いた。
 が、これは、こちらの油断だった。降服とみせかけて、動力所へ入って来た一隊の半数は、いきなり、老博士に殺到した。
「わア!」
「老ぼれをやっつけろ[#「やっつけろ」は底本では「つけろ」]
 たちまち、老博士は、人々のために組敷かれてしまった。あとの半数は、僕を目指して殺到した。
「日本の少年も、やっつけろ」
「わア!」僕は飛鳥のごとく、動力機関の前までのがれた。僕は、もはやこれまでとおもって、その場にあったハンマーをると、
「やッ!」とばかり、機関を叩きつけた。
「あッ!」殺到した悪鬼のような人々は、おもわず声をんだ。おのれの心臓を、叩きつけられたも同然である。僕は、続けざまにハンマーをふるって機関エンジンを叩きつけた。歯車は砕け、シャフトは折れ、低温蒸気は、すさまじい勢いで、折れまがったパイプの裂け口から吹き出した。僕は、汗をきながら、人々をふりかえって云った。
「さア、これで万事休矣ばんじきゅうすだ。敵も味方も、仲好く、海底見物をしよう。動力が停ったら、この島は、次第に溶けていくだろう。もう、お互に争うことを止めようじゃないか」
 誰も、これに応えるものはなかった。
 老博士を組敷いている人々も、その場を離れ、呆然ぼうぜんとして、僕を見るだけだ。今は誰一人、僕に組付いてくるものもない。死のような沈黙が、動力所の内外にひろがって来た。
 老博士は、僕のそばへやって来て、
「よくやってくれた。君の勇気と果断に感謝する。そして、君と一緒に死ぬことを、わしは、うれしいとおもう」といって、僕の手を、固く握り締めた。
「済みませんでした。機関を破壊したりなんかして……」
「いや、この場合、君の果断の行為は、結局、われわれを救ってくれたのじゃ」
「でも、そのために、みんな溺死できしします」
「が、動力所を、あいつ等の手に渡せば、君とわしが殺されるだけじゃないか……。おお、そういううちにも、島が溶けてくるだろう。死の直前に、人造島の溶けるさまを実際に見ておこうか」
 老博士は、悠々と、戸口の方へ歩きだした。科学に殉ずる、老科学者の態度に、敵も味方も、今は驚嘆せぬものとてない。

     運命の方船はこぶね

 やがて、窓から戸外を眺めていた一人が、甲高い声で叫んだ。
「あっ、大変だ。島が溶けだした」
「えッ!」予期していたことだが、これが余りに突然だったので、人々は色を失って、われ先にと、戸外へ飛出した。彼等は、氷上を右往左往した。なかには、動力所の屋根へよじ登ろうとする者、相抱いて泣いている者もある。いやはや、白人共の、狼狽ろうばいぶりは、滑稽こっけいなくらいだ。
「氷が溶けるのは、当然ではないか。周章あわててはいけない」老博士は、人々をかえりて、こういましめるが、刻々に迫る死を怖れて、人々は、なおも、右往左往して悲鳴をあげている。老博士は、木沓きぐつの先でコツコツ氷を叩いてみて、僕をかえりみて云った。
「うむ、なるほど、凍結剤の効力が失われると、あれほど硬かった氷も、このとおりだ」
 それは、自分の創案した人造島の、溶け失せるのを悲しむというよりか、化学の偉力のおそろしさを証し得たことをよろこぶ、会心の笑いだった。
 そういううちにも、人造島は、刻々と溶けてゆく。海中に没している部分はもちろんのこと、表面も、周囲も、急速度に溶けつつある。
たすけてくれい」
「ああ……」技術員も、雑役夫たちも、今は全く手の下しようもなく、悲鳴をあげていたが、やがて彼等は、ぞろぞろと、博士の方へやって来た。
 彼等は、老博士を取巻いて、哀願した。
「博士。どうか、われわれを救ってください」
「われわれの生命いのちをたすけてください」
「おねがいします」果ては、彼等は、溶けゆく氷の上にひざをつき、手をついて、老博士に哀訴した。
 博士は、微笑をうかべたまま、
「生命が惜しかったら、わしの云うとおりになるか」
「なります」
「救けてください」
「では、あの白堊の建物へ帰りたまえ。あの建物は、島が溶けても、波に浮ぶだろう。あれは創世記の方船はこぶねだ」これをきくと、技術員や雑役夫たちは、
「おお、方船!」
「われわれの船」そう叫んで、われ先に、白堊はくあの建物の方へ駈けだした。
「おお、日本の少年。君も、あの方船に乗って難を避けたがいい」老博士は僕を促した。
「博士は?」
「わしは、この人造島と、運命をともにするとしようか」
「いけません、博士。僕と一緒に、あなたも、あの方船へ帰らなければなりません」
 僕は、老博士の手をって、ぐいぐい引張った。
「なるほど、君と一蓮托生いちれんたくしょうの約束だったのう。……では、敵も味方も、あの方船に乗って、運命の海を漂流するとしようか」老博士はやっと歩き出した。
 人造島は刻々に溶けてゆく。あと、一時間とたぬうちに、洋上の浮島は、跡形もなく消え失せるだろう。人々は先を争うて、白堊の建物へのがれたが、果して方船は人々を収容して、海洋に浮び、潮流に乗って、大陸へ無事に流れて往くであろうか。老博士は、確信をもって、方船に避けよと勧めたのか。運命の方船よ。おまえは、果して、海洋に浮んでくれるか。

   三 心臓と科学

 どろぼう船が、亡霊のような怪老人の出現によって、いつのまにか、幽霊船となり、僕とひょうのような水夫が、海へ飛込んだまでは、読者諸君も、すでに御承知のことだが、その後、幽霊船虎丸タイガーまるはどうなったか。
 物語は、しばらく運命の方船はこぶねを追わず、幽霊船虎丸の甲板へ戻るとしよう。さて、幽霊船虎丸の甲板の、亡霊のような怪老人は、五ツの屍骸しがいよこたわる中甲板を、血のにおいをぎ、よろよろ歩き廻りながら、不気味な薄笑いをもらした。
「そろそろ仕事をはじめるかな」怪老人は、そのまま船室へ姿を消したが、すぐに大きなかばんを提げて現われた。五ツの屍骸しがいに、ガラスのようなひとみを投げながら、
「どいつを、料理まかなってやろうかな」
 と、つぶやいた。いよいよ不気味なことを云う。
 鞄の中から、いろんな怪しい道具を取出した。それは外科手術用ののこぎりや、メスや、消毒剤などだ。メスを握り、白衣びゃくえの腕をまくり、大男の屍骸に居ざりよって、
「久しぶりで、肉を裂くのか。たまらないなア」
 と、またも呟いた。おお、怪老人は、メスをふるって、大男の肉を裂き、肉をくらおうというのか。
 怪老人は、大男の屍骸の胸をひろげ、左胸部のあたりに、ぐさりメスを突立て、肉をえぐり取ったが、それを、一口に啖うと見ていると、そうではなく、なおもメスを突立て、まもなく、大男の血の滴る心臓をつかみ出した。
「なかなか見事見事」それを片手に持って眺め廻したが、こんどは、チャン君の屍骸しがいに居ざりより同じように、胸をはだけ、左胸部にメスを突立てた。手を入れて、つかみ出したのは、銃弾に射貫いぬかれて、めちゃめちゃに砕けた陳君の心臓だった。
「ほう、これは、台無しだ」
 二つの心臓を両手に持って、ややしばらく眺めていたが、銃弾に砕かれた陳君の心臓を、ひょいと海へ投げすてて、大男の心臓を、ていねいに消毒して、陳君の左胸部の穴へ押込んだ。
 怪老人は、大男の心臓を、陳君の左胸部へ移し植え、血管をつぎ合したり、収斂しゅうれん、止血剤を施したり、大童おおわらわになって仕事をつづけたが、やがて、左胸部のきずを縫合せてしまうと、ほっと一息入れ、
「もうこれでよし」と、自信ありげに、ひとつぶやいた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋はくろうのような顔に、一抹いちまつの血がのぼると、
「う……」と、うめきだし、かすかに身動きした。
「おお、やっと生きかえったかな。わしの大手術の成功じゃ」怪老人は、陳君の屍骸の手を執って、脈搏みゃくはくを数えはじめた。
 船長室のベッドに寝かされてから、やっと、陳君は、我にかえった。
「はてな、僕は生きていたのかしら」
 ふしぎで堪らない。豹のような水夫に背後からピストルをたれ、左胸部を貫通され、ばったり甲板にたおれたはずの自分が、船長室のベッドのうえで、意識を取返すなんか、有りうべからざることだ。
 夢ではないかとおもったが、夢ではない証拠に、左胸部のきずが、はげしく痛んでいる。咽喉のどが渇いて、相当に高熱だ。
奇蹟きせきだ!」陳君は、おもわず呟くと、
「いや、奇蹟ではない。科学の勝利じゃ」
 と、応えるものがあった。顔をあげてみると、ベッドのそば白衣びゃくえ白髪の怪老人が葉巻をくわえながら、薄笑うすわらいをうかべている。
「あッ!」
「驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ……」
「あなたは、何処どこから来たのです?」
「わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう船の船医じゃ」
「山路君は?」
「わしにおそれて、海へ飛込んで死んだよ」
「えッ! では、ひょうのような水夫は? 僕をピストルで射殺したあの水夫は……」
「あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、ふか餌食えじきになったことだろう」
「では、もうこの船には?」
「そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ」
「僕は、ほんとうに生きているのですか」
「ハ……。疑うのも無理はない。心臓を射貫かれ、死んだはずのおまえが、そこに生きているのだからなア……」
「誰が、僕をかしてくれたのです」
「生かしてもらって、不服かな」
「いいえ、感謝します」
「生かしてあげたのはわしだが、わしに感謝するより、科学の偉力そのものに感謝したがいい」
「あなたは、僕の胸を手術してくれたのですか」
「そうじゃ。おまえの、砕かれた心臓を、海へすて、あの大男の安南人あんなんじんの心臓を、移植してやったのさ。おまえの心臓は、あの大男からもらったのじゃ」
「えッ! それじゃ、僕のこの心臓は、安南人あんなんじんの心臓なのですか」
「不満かな……。いや、不満とは云わさんぞ。犬の心臓と取替えたのではないからのう。ハ……」
「あなたは、死んだ人間を、勝手に生かすことが出来るのですね」
「そうじゃ。死んだ人間を生かすことが出来るが、生きた人間を殺しはせん。わしは、本国ドイツにいたころから、心臓移植の実験を、しばしば動物によって試みたものだが、人間を試みたのが、こんどが初めだったのさ」
「心臓移植は、あなたが初めて試みられたのですか」
「まず、そうじゃ。しかし、一九三三年に、ポロニーという学者が、一女性の腎臓を摘出して、新しい屍体したいの腎臓を移植して、毒死の危急を救ったことがある。いや、その翌年には、フイラトフという学者が、新しい屍体の眼球を摘出して、十一年間も失明していたある女に移植して成功したという事実もあるのじゃから、わしの心臓移植も、けっして珍しい手術ではあるまい」
「でも、奇蹟きせきです。そして、神の業です」
「おだてるなよ、わしは、奇蹟を信じない科学者だからのう。ハ……」

     亡霊か悪魔か

 怪老人は、妙技をふるって屍体を生きかえらせ、船中には、生きた人間が二人になったが、どろぼう虎丸タイガーまるの船内には、依然として、不気味な空気が漂うている。中甲板には、なおも、四つの屍体がよこたえられたままだ。なぜ、怪老人は、四つの屍体を、海へすてないのか。五日を過ぎ、十日とっても、屍体の処分をしない。
 で、鬼気が身に迫るようだ。胸のきずえて、甲板を散歩することがゆるされたチャン君は、中甲板で、四つの屍体を発見して、ぞっとした。
「どうして、屍体をすてないのですか」
 老人は、にやり笑って、
「いや。まだすてるには惜しいよ」
「また、実験に使うためですか」
「そうかも知れん。ことによったら、おまえの肉体も、必要になるか知れんよ」
「えッ!」
「驚いてはいけない。わしは、大男の心臓を、おまえに移植したのは、おまえをこの世にかえしたいためではなかった。わしの学説の実験に使うためだ。だから、必要になれば、いつでも、おまえの肉体をもらうまでさ」
「あなたは、生きた人間を殺さぬと、おっしゃったではありませんか」
「そうじゃ、わしは、生きた人間を殺さぬ。そんな殺生せっしょうはせぬ」
「でも、僕をまた、殺すつもりでしょう」
「いや、誤解してはいけない。わしは、死んだおまえを、元通りに死なしてやるまでさ。けっして、死んだ人間を生かしたままにはせぬよ」
「…………」陳君は、怪老人の不気味な一言に、ぞッと身顫みぶるいして後退あとじさりした。老人は、自ら亡霊ではないと云ったが、血の通った人間とは信じられない。人間の心臓を勝手に取替えたり、屍骸しがいに息を吹き込んで、また元通り屍骸にしてしまうなぞ、亡霊でなければ、悪魔の仕業だ。
「油断がならぬぞ」チャン君は警戒しはじめた。虎丸タイガーまるは、心臓を失い、両足を失って相変らず、幽霊のように、名も知らぬ海洋をひょうひょうと漂流している。
「戦おうか」だが、仮にも、怪老人は、自分にとっては生命いのちの恩人だ。他人の心臓を取って、移し植え、血の通う人間にしてくれた恩人だ。たとえ、亡霊でも、悪魔でも、ふたたび自分に魔の手を伸し、心臓をえぐり取ろうとするまでは、こちらから手出しはできないとおもった。
 真夜中ごろ、人の気配を感じてふと眼がめた。
「誰だ!」低く、しかも力のこもった声で叫んで、半身を起し、四辺あたりをみると、白衣の怪老人が片手にメスを握り、そっと、陳君の眠っているベッドに近づいて来たのだ。
「何をするのです」怪老人は、不気味に笑って、
「わしはまた、人間の肉を裂きたくなったのさ」
「えッ! では、僕の心臓を、また抉り取ろうというのですか」
「いや、心臓が欲しいのではない。その二つの眼じゃ」
「えッ!」怪老人は、一歩一歩近づいてきて、
「おまえの、美しい、若々しい眼と、このわしのおいぼれた、ガラスのような眼と、取替えて見ようというまでさ。フイラトフ博士は、新しい屍体したいの眼球を取り出して、十一年間も失明していた女の眼に移し植えて成功した。生きた、おまえの眼球を、わしに移し植えたら、わしは、急に若返るだろう」
んでもない。そんな、ガラスのような眼は、真ッ平です」陳君は、ベッドをすべり落ちて、逃げ仕度をはじめた。老人は、じわじわと近寄って来て、
「いや、遠慮せずともよい。中国民族の眼と、ドイツ民族の眼と入替えてみるのじゃ。おまえは、この、あおい眼が欲しくはないか」
「真ッ平です」船室をのがれようとすると、右手を伸して肩先をつかんだ。
「おまえは、また、わしを信じないのか。わしは、学術研究のために、おまえを試験台とするのだ。コマ切れにして、煮て食おうというのではないから、安心して、わしに料理されるがいい」
「試験台にされてたまるものですか。僕は、あんたの奴隷ではありません」
 陳君は、怪老人の手を振り切って、船室を逃れ出た。いっさんに中甲板までけ上って、ほっとすると、あとから、老人の、不気味な声が、
「こら、遠慮するなよ、わしの、この碧い、宝石のような眼を、おまえに与えるというのじゃ、その東洋人の、汚らしい眼と、取替えて見よう」
 陳君は、それには応えず、後甲板の方へ逃げた。
「こら、小僧、待たぬか」
 怪老人は、あくまで執拗しつようおいかけてくる。舷灯の無い、暗い甲板だが、星の光で、四辺あたりの様子がうかがわれる。物かげに身を潜めていると、怪老人は、よろよろと後甲板へやって来た。
「小僧、どこに居る?……。わしの、自由になってくれ。科学のためじゃ。わしの学説を完成させる、最後の試験台だ。わしのために、犠牲になってくれ」怪老人は、後甲板の彼方此方かなたこなたを、探し廻っている。物かげに身を潜めている陳君は、このとき、全身の血のたぎるのを感じ、荒々しい息遣いになって来た。彼の足は、力強く、物かげを出て往く。そして、よろよろ四辺を探し廻る老人の前に、立塞たちふさがった。
「さあ、じいさん。僕を自由にできたらやって見給え。僕の心臓は、安南人あんなんじんおおきな心臓だ。僕の鉄腕は、戦いを要求している。この後甲板で、どっちが勝つか、一騎打ちの勝負をしよう」
 ふりかえった怪老人は、急に、会心の笑いをもらした。
「ハハハ。それだ、わしの求めていたことは」
「え!」
「つまり、わしは、心臓は、動物の生命の原動力であるかどうかを実験したのじゃ。小僧、おまえの小さな心臓の代りに、あの安南人の大きな心臓を移し替えてみると、わしの学説のとおり、おまえは、あの大きな安南人のように、勇敢に、力強くなったじゃないか。ハハハハハ。もうそれでよい。わしと妥協しよう」
「それじゃ、いまのはうそですか。眼球を取替ようというのは」
「嘘ではないが、しばらく中止さ。ハハ……」
 それから、二月は無事に過ぎた。
 怪老人は、ふたたびメスをふるおうとはせぬ。が、油断はならない。すきをうかがってまた、奇怪な解剖をやらぬともかぎらぬ。チャン君は、それで、夜もろくに眠らず警戒しつづけた。
 幽霊船は、長い漂流をつづけているうち、次第に南海の方へ進んでいるようだ。北洋で見うけた、氷の砕片や、寒流特有の海の色は、いつか消えて、暖かい風が甲板を吹いていたが、このごろでは、むしろ、熱風が肌に感じられるようになり、椰子やしの実が、ひょうひょうと波にうかんでいるのを見うける。
 南海に流れてくるうちに、船底の冷凍室の紅鮭べにざけやオットセイが、腐敗しはじめた。急速度に腐敗し、臭気は、船底一杯に充満し、船室に居られなくなった。それで、二人は、夜も、甲板で眠ることにした。
「困った。飲料水が腐りかけましたよ」
 陳君は、不安の面持おももちでいうと、怪老人は、
「なアに、海水をむさ」一向平気である。
「海水なぞ、呑めやしないじゃありませんか」
「心配することはない。わしが、海水から塩分を取りのぞいて、うまい飲料水をつくってやる……それよりかどうだ、小僧。冷凍室のものが腐り、飲料水まで腐りかけたというのに、中甲板にころがっている四つの屍骸しがいが、少しも腐敗せんじゃないか」
「なるほど、妙ですね」
「妙ではない、当然のことなのだ。わしの創案した防腐剤の偉力は、このとおりじゃ。何なら、おまえにも、防腐剤を注射してやろうか」
「え!」
「生きながら、偉効いこうのある防腐剤を注射すると、おまえの肉体は、永遠に死なぬぞ」
「冗談じゃありません。防腐剤は、死んでからねがいます」
「ところが、わしは、生きた人間に、それを試みたいのじゃ。小僧、おまえの肉体を、わしに貸してくれぬかな」
「僕は、お断りします」
「そうか、いやか。……しかし、油断するなよ。真夜中ごろ、おまえの隙をうかがって、おまえの二つの腕に、注射せぬともかぎらぬからのう。ハハハ」
 怪老人は、不気味に笑った。
「生きた人間に、防腐剤を試みると、どうなりますか」
「死ぬまでさ。けれど、ほんとうに死んだのではないから、いつでも生きかえらせることが出来る」
「そ、そんな莫迦ばかなことは信じられません」
「信じられないなら、ひとつ、試みようか」
「真ッ平です。無理にそれを試みようというなら、腕ずくで試みなさい」チャン君の心臓――あの安南人あんなんじんの心臓は、こう力強く叫んだ。
「わしは、あくまでも、おまえを、わしの学説の実験にしようとおもっている。わしは、安南人の心臓を、おまえに移植しなかったら、あのとき限り、おまえは死んでいたのじゃ。それを、きょうまで生かしておいたのは、最後の実験、つまり、防腐剤注射によって、人の生命を、永遠に保たせることは出来るかを実証したかったからじゃ。おまえは、わしの愛するモルモットじゃ。今度こそ、わしの頼みをきいてもらおう」こう情誼じょうぎをこめて頼まれると、さすがの陳君も、あっさり拒絶できなかった。
「どうじゃ、わしの願いをきいてくれぬか」
「…………」怪老人は、陳君を尊い科学の犠牲に供したいとねがうのだ。人命を勝手に科学実験に利用するのは罪悪だが、しかし、科学者の真剣さも買ってやらねばならない。
「もし、わしの実験が失敗して、おまえが、そのまま生き還ることがなかったら、わしも、責任を負うて、この甲板で、おまえのあとを追って死ぬ。わし一人が、おめおめと生きながらえはせぬぞ。わしに見込まれて、不幸だとあきらめてくれ」
「わかりました。僕が学問の犠牲に、よろこんで成りましょう」
「おお、よく理解してくれた。それでこそ、わしの見込んだ少年だった」
 怪老人は、手を伸して、陳君の手を握り締めた。

   四 幽霊船と幽霊船

 物語は、再び運命の方船はこぶねに戻る。
 人造島が、海洋の真ん中で、みごとに溶けて、白堊はくあの建物が、運命の方船として、波間にうかび上ってから、はや二月は経った。方船は、島の上に建っていた建物だから、普通の船のようなわけにはいかない。その半身以上を海に没し、建物の中も海水で充満している。まるで難破した水船みずぶねだ。
 人々は、方船の屋根にとりすがって、波を避けているに過ぎなく、雨露をしのぐことさえ出来ず、食料も、飲料水も、十分に用意することが出来なかったので、二月の漂流で、すでに、それらのものも尽きてしまった。はじめ二十余人もいたが、二月ののちには、数人より残らなかった。波にさらわれて姿を消した者、食料が尽きて餓死した者、運命をのろって、みずから海に投じて死んだ者……。生残いきのこった者といえども、今では、死人も同様だ。
 生残った数人のうちでは、僕は一番元気だった。若いせいもあるが、日本人の頑張りから、歯をいしばって今日まで生きて来たのだ。
 僕のほかに、数人の技術員が、まだ生残っているが、もう明日にも、方船からすべり落ちて、海底へ沈んでゆくかも知れない。それほど、力弱っている。一番元気なのは僕だが、一番弱っているのは、老博士だ。博士は、漂流中に真先にまいってしまったが、僕は、身命をして、老博士の身をまもっているので、きょうまで生きて来たのである。
「山路君……わしはもう駄目じゃ。極度の疲労で、はやく死にたい」老博士は、こうかなしく叫んだ。
「いけません。元気を出しなさい。僕がついていますよ」
「いや、わしのような老体を、かばっていては、君も死んでしまう。わしにかまわずに、君はあくまでも生きてくれ」
「いや、博士が死ねば、僕も死にます。人造島で約束したじゃありませんか。死ぬときは、一緒に……と」
「なるほど、その約束を忘れず、わしをかばってくれるのか、ありがたい。わしは、日本人の仁侠にんきょうの精神に涙ぐまれる」
「そんなことはありません。僕は、あなたの科学の才能を、もっと、世界人類のために働かしてもらいたいとねがうのです。そのために、懸命に、あなたをたすけているのです」
「ありがとう、ありがとう。わしは、きっと、生き抜いてみせる」
 大浪おおなみがくるたびに、方船はこぶねは、顛覆てんぷくしそうになる。
 嵐に吹きつけられて、方船はほとんど浪に没することさえあった。
 何よりも苦痛なのは、暴風雨に見舞われることだ。天蓋てんがいのない建物の屋根の上に、わずかにとりすがっている僕等だから、豪雨には徹底的にたたきつけられる。が、この豪雨は、また漂流者にとって天の恵みでもあった。屋根のくぼみなどに、雨水がたまるからだ。僕等は、それによって、かつやすことができ、雨水を呑んで、わずかに飢えをしのぐのだった。
 ときには、晴れた、気持のよい日和ひよりもあった。海洋は浅みどりに輝き、浪もおだやかで、方船の動揺もほとんどなかった。こういう時に、僕は自分のきているジャケツの毛糸を解き、その毛糸を幾本かあつめて撚糸よりいとにし、また、屋根板から一本のくぎを抜取って、これを曲げて釣針をつくって釣りをした。
 はじめ、の代りに、靴底の革を切って釣針につけて、海に投げてやると、またたくまに、一尾の大きな魚が釣れた。その魚の肉を餌にして、さらにカメアジや、さめや、阿呆鳥あほうどりを釣り上げた。
 阿呆鳥を釣るには、小さな板のうえに、餌のついた釣針を乗せて、浪の上に流してやると、阿呆鳥は、それに食付くいついてくる。それを釣るのだ。
 天気のい日は、老博士も、死人のような生残者たちも、僕から釣道具を借りて、釣りに興ずるのだった。嵐のあとの晴れた朝だった。
 大きなうねりに乗り、うねりに沈んで、方船は、木の葉のように漂うているとき、一人が、海洋の彼方かなたを遠望しながら、とつぜん叫んだ。
「おお、……島だ。島だ」この声は、人々に活気を与えた。なるほど、水平線の彼方に、一点の黒影がうかんでいる。
「無人島かしら」僕は、好奇の眼を見はった。
珊瑚礁さんごしょうだったら、つまらないなア」
 誰かが、力ない声で呟いた。
「パーム・パームリック圏内に迷い込んだのではあるまいかな」これは、博士だった。
「パーム・パームリックというのは、何ですか」
「南海の魔の海だ。珊瑚礁が群生して、おまけに潮流の渦巻く、おそろしい死の海ともいわれるところじゃ」
 人々は、これをきくと、おもわず顔を見合った。
「あっ! 島が動く」誰かが、また叫んだ。
「えッ! 島が動く?」冗談じゃない。人造島ではあるまいし、島が動いてたまるものかとおもったが、なるほど、黒い影がたしかに動いて、だんだんこちらへ近づいてくるではないか。
「おお、船だ。島じゃない、黒船だ」
 老博士は、さすがに、かなしげに叫んだ。
 方船と、黒船とは、次第にその距離を短縮しつつある。
「妙な船ですね」
「難破船かも知れない」
 僕と、老博士は、ささやき合った。だが、難破船にしては、船体がガッチリしている。太い烟突えんとつから、黒煙を吐いてはいないが、まさか、面白おもしろ半分に海洋を流されているのでもあるまい。しかも近づいてくるにしたがって、いよいよ不気味に感じられる。
「幽霊船だ」誰かがまた、恐怖にふるえた声で叫んだ。
「幽霊船?」僕は、おもわず聞き返した。
「難破船の乗組員が、みんな死んで、その亡霊が船を動かしているということを、物語にきいたが、あの船は、それにちがいない」
「それは、船乗たちの迷信さ」
 老博士は、一笑に附したが、
「博士、ひょっとすると、幽霊船かもしれませんよ」
「ハハハハハハハ。君までが、……」
 そういううちにも、死の船、――幽霊船は、意識してか、だんだんと方船はこぶねの方へ近づいて来る。
 おお、死の船? 恐怖の船?……
 船と船とが、すれ違いになったとき、方船は黒船の舷側げんそくにぴったりと吸付いてしまった。いや、吸付いたとみたのは、しおのために、舷々げんげんあいしたのだ。方船の生残者たちは、
「あッ!」と一斉に叫んで、身を避けようとしたので、方船は一方に傾いて、危うく顛覆しそうだった。
 僕は、恐怖と好奇の眼で、幽霊船の甲板を見上げた。それは僕がかつて恐ろしい目にあった虎丸タイガーまるだ。約三ヶ月目であいかいしたどろぼう船だが、もう舷側にはカキ殻がおびただしく附着し、甲板には人影もなく、船体から烈しい臭気が発散している。「博士、死の船です。幽霊船です。甲板から不気味な妖気ようきが立っています」
「うむ」と、老博士も好奇の眼を上げた。
「君たちはどうだ。幽霊船を探ってみないか」僕は、生残った技術員たちに呼びかけたが、彼等は、
「いや、真ッ平だ」
「あんな船に乗移ると、生命が奪われる」
と、口々に呟いて、ふるえている。
「なんだ、意気地いくじなし」
 僕は、虎丸の舷側に垂れ下っている、タラップの端をつかんで、足をかけ、猿のように甲板へ登って往った。老博士はと、ふりかえると、かれもまた勇敢に、タラップを登ってくる。中甲板には、五つの屍骸しがいが、ごろごろしていた。
「あッ!」あまりの恐ろしさに、おもわず叫んだ。
「博士! あの生々しい屍骸をごらんなさい」
「なるほど、三ヶ月も経過して、生々しい屍骸がよこたわっているとは奇怪だ。まさしく幽霊船かな」
「博士、あれに倒れているのは、安南人あんなんじんの大男です。ごらんなさい。その男の胸がえぐられています」
「なるほど、……惨酷ざんこくなことをしたものだな。亡霊の仕業かな」
「あッ! 博士。僕の味方が、やっぱり倒れています。船長附のボーイ、チャン君です」
「おお、あの少年が、陳君というボーイかい。無惨むざんな屍骸となって横たわっているではないか」
 僕はつかつかとけて往って、陳君の屍骸を抱き起そうとすると、突然、どこからか
「待て、その屍骸に触れてはならぬぞ」不気味な声。
 僕は、おどろいて振かえると、いつのまにか、僕の背後に、白衣の白髪の怪老人が立っていて、右の人差指を突付け、物凄ものすごく、歯のない口をあけて笑った。
「あッ、おまえは、亡霊だな」立ち上って、身構えた。
「ハハハハハ。亡霊を退治に来たというのかい。なるほど、それもよかろ。……だが、その少年の屍骸しがいに触れてもらいたくはない」
何故なぜだ」
「おまえの味方だが、また、わしの愛するモルモットじゃ。一指いっしも触れてはならぬぞ」
「黙れ、亡霊!」
「いや、わしの実験の済むまでは、一指も触れてはならぬのじゃ。強いて、屍骸に近寄ろうというのならば、おまえも、屍骸にしてやろう」
「…………」不気味なその一言に、ぎゃふんと参ってしまった。老博士は、二、三歩、怪老人の方へ進み寄り、
「実験といったね。何の実験かね」
「つまり、科学の実験なのじゃ」
「えッ! 科学」
「そうじゃ。亡霊が、死の船の甲板で、科学の実験をするとは、奇怪だとおもうだろう。わしは生きた人間を料理する科学者だが、みだりに生きた人間を取扱うと、陸では、法律上の罪人となるからのう」
「なるほど」
 老博士は、更に二、三歩、前へ進んだ。怪老人は、ガラスのような眼で、相手を見て、
「そこで、わしは、実験室を、北洋のどろぼう船に選んだのじゃ。わしは、船医に化けて、この虎丸タイガーまるに雇われ、横浜から乗船した。そして、生体解剖せいたいかいぼうの実験の機会チャンスねらっていたのじゃ。するうち、それにいるボーイたちが、わしのために、絶好の機会をつくってくれたのじゃ。そこにたおれている少年の心臓が、ピストルに射貫いぬかれ、打砕かれたのを摘出し、それにいる安南人の健全な心臓と取替えたのじゃ。すると、どうじゃ。少年の屍骸は、たちまち、むくむくと起き上ったのだ」
「うむ。……しかし、少年は、屍骸となっているのではないか」
「待ちたまえ。心臓の入替を実験するだけではなく! そのあとで、もっと重大な実験をなしたのじゃ。人間の生命を永遠に保存することだった」
「えッ! 生命の保存?……それは、考えられぬことだ。空想に過ぎない」
 老博士が叫ぶと、怪老人は、ひややかに笑って、
「空想が実現した例は、むかしから無数にある。まして、わしの、生命保存の真理は、空想ではなく、三十年来の実験の結果、到達したものじゃ。わしは、一旦死んだ少年の、左胸部を抉って心臓を取替えて蘇生そせいせしめたので、少年の生命は、わしの所有といってよい。そこで、蘇生した少年に、わしの創案した防腐剤を注射し、そして、ふたたび殺してみたのじゃ。なるほど、少年は死んでいる。が、それは、仮死の状態にあるので、生命は、永遠に保存されてあるのじゃ」
「うむ。……事実とすれば、まさしく科学の奇蹟きせきじゃ」
「どうじゃ、疑うなら、もう一度、少年の屍骸に息を吹込んで見ようか」
「どうか、やって下さい」僕はわれを忘れて叫んだ。
「よろしい。おまえたちの眼の前で、屍骸が、立ち上るだろう。さっそく実験してみよう」

     屍骸が動く

 白衣びゃくえの怪老人は、そのまま船室の方へ消えたが、再び現われたとき、例の大きな鞄を抱えてやって来た。「これが、わしの玉手函たまてばこじゃ」彼は、不気味に笑って、チャン君の屍骸の方へ、よろよろと近より、白衣びゃくえの腕をまくり、鞄から、幾本かの注射器を取出し、屍骸しがいに手をかけた。
「その辺に、ごろごろしている屍骸をみるがよい。三ヶ月の漂流で腐敗して、形は崩れているはずだのに、そのように生々しいのは、わしの創案した防腐剤のおかげじゃ、少年の身体の防腐剤を解消するために、ベツな注射を幾本か施すのじゃ」
「では、ほかの屍骸にも、その注射を施すと、みんなが生きかえりますか」僕は、不安になってたずねた。みんな生き還ったら、どんなにまた暴れるかしれないと、おもったからだ。
「いや、ほかの奴等は、死んだものに防腐剤を施したのだから、肉体のみを防腐したに止って生命は再び肉体に還っては来はせぬ。この少年は、生きたまま防腐剤を施したのじゃから、それを解消すると、この白蝋はくろうのような顔が、忽ち紅潮してくれるだろう」
「はやく、注射して下さい」
「よろしい」
 怪老人はチャン君の屍骸の腕に幾本か注射を試みた。
「これでよろしい。見ていたまえ。屍骸が動き出すであろう」僕も、老博士も、非常な興味を覚えて陳君の屍骸に注目した。
 五分、十分、十五分……と経つうちに、やがて、白蝋のような屍骸の顔に、血の色がさして来た。
「おお」老博士は、低くうめいた。こんどは、眉毛まゆげかすかに動いた。手足が、ビクリビクリと微動した。
「おお、陳君!」僕は、おもわず叫んで、屍骸にけ寄ると、怪老人は、手をあげて制し、
「静かに、静かに」用意の葡萄ぶどう酒を二、三滴、屍骸の口へ垂らしてやった。すると、陳君は、眼をひらいて、四辺あたりをきょときょと見廻した。
「おお、気がついたか。わしだよ」怪老人は、陳君の顔をのぞいた。
「ああ、先生!」
「おまえの友人が、見舞に来てくれているぞ」
「えッ!」陳君は、顔をあげて、僕を見た。
「おお、陳君! 僕だ、僕だ」
「おお、[#「おお、」は底本では「おお 」]山路君!」陳君は、余りのうれしさに、涙をいっぱい両眼にたたえて、
「よく、無事でいてくれた」僕も、感激の涙を流して、陳君の手を固く握りしめた。
 怪老人と老博士。これもまた、感激に身をふるわしながら、手を握り合った。
「あなたは世界最大の科学者です」これは老博士だ。
「ありがとう」白衣の怪老人は、少年のように、はにかんで応えた。
「あなたを、亡霊とおもったのは、われわれの不明でした」
「いや、亡霊であるかもしれない。何故なら、この船は、足を失った死の船だからねえ」
「そうだ、死の船!」
「わしは、人間の心臓を取替えることが出来、死んだ人間を生き還らせることさえ出来るが、死んだ船を蘇生さすことは出来なかったよ。ハハハハハ」
 なるほど、このすぐれた生理学者は、黒船の心臓を生かすことは出来ないのだ。僕は、
「博士、あなたは、人造島をつくった方です。人造島の心臓部の設計をしたぐらいですから、この黒船の故障を直せるでしょうね」
 と、老博士にいうと、陳君は、それを引取って、
「そうだ。この船の心臓部の故障を直していただくと、僕は機関士、山路君に運転士、たちまち船を動かして、一路、日本の横浜へ直航が出来ますぜ」
 怪老人も、うなずいた。
「なるほど。人間の心臓の手入れは、わしの得意とするところじゃが、船の心臓の手入れは、博士におねがいするとしよう」老博士は、とうとう、機関エンジンの修理を押付けられてしまった。
「炭水はあるかね」
「あります。この三ヶ月、一塊の石炭も使わなかったので□」
「機械油は?」
「それも十分です」
「ではひとつ、心臓の手入れをしてみようか」老博士は、やっと腰をあげた。陳君は、僕に向って、
「君は、また運転士だぜ。すぐ用意をしたまえよ。博士の修理が出来たら、僕は、すぐに機関を動かしてみせる。そのまに、石炭を汽罐かまに放り込んで置こうか」気の早い陳君は、逸早いちはやく昇降口から姿を消してしまった。

     魔の海! 魔の海!

 果して、数時間ののち、幽霊船虎丸タイガーまるは、運命の方船はこぶねを、海洋に捨て、単独で動き出した。心臓部の機関が、軽快な響きを立てて回転し、太い煙突からは、海洋を圧するような黒煙が吐き出され、十五ノットの速度で、西に針路を執って航行しはじめた。僕は、得意満面である。西へ! 西へ! 西方には、祖国日本がよこたわっている。
 僕は、運転室で、やたらに口笛を吹いた。
 数ヶ月前、横浜埠頭ふとうで、ハマの船員たちにだまされて、密猟船虎丸のボーイとして乗船した僕が、今は、素人ながら、一等運転士の貫録をみせて、納り返っているなど、まったく夢のようだ。どろぼう船の奴隷が、どろぼう船を分捕って祖国へ凱旋がいせんするのだ。僕は、運転室で、得意になって口笛を吹いていたとき、ふとコンパスが狂いだしたのを発見して、「あッ!」と低く呟いた。コンパスが狂ったのは、コンパス自身の罪ではなく、何かの、見えぬ力が、船の進行を邪魔しはじめたからだ。機関エンジンの狂ったのでも、汽罐かまが破裂したのでもない。船が、急湍きゅうたんのような、烈しい潮流に乗って、目まぐるしいはやさで、一方向に急進しはじめたからだ。
「魔の海! 恐ろしい魔の海だ」僕は、それを知ると、急いで船首を急回転させようと焦った。
 が、魔の海の潮流に逆うことは不可能だった。船は、急湍に乗り、ぐんぐん魔海に進んでいる。コンパスは狂いつづけ、舵機だきや、スクリウは、僕の命令に従わない。僕は、把手ハンドルから手を離し、呆然ぼうぜんとして腕組みした。
 そこへ、老博士や、怪老人や、船に収容した生残りの技術員たちがけつけて来た。
「どうしたのだ」
「運転士! どうしたんだ」
 人々は、口々に叫んでいる。僕は、悲痛な声をしぼって、
「船が、おそろしい潮流に乗ったのです。魔海の底にひきずられて往きます」
「えッ!」人々はおどろいて前方へ視線を投げた。
 おお急湍のような潮流の落つくところは、まさしく魔の海。そこは海洋の真只中まっただなか大鳴門おおなるとだ。約一海里平方ぐらいの海が、大渦巻をなして、轟々ごうごう物凄ものすごいうなりをあげている。「あッ! 大渦巻だ!」「人をも、船をも、一呑みにする魔の海だ」
 生残りの技術員たちは、口々に叫んで、船橋ブリッジから転げ落ちるように、甲板に降りて、なおも、
「大渦巻だ!」
たすけてくれ!」
 と、狂おしく叫び、右往左往している。さすがに、二人の科学者は、自若じじゃくとして、一語も発せず、前方によこたわる物凄い大鳴門に、じいと眼をえた。
「博士。あなたは、この船の船首を転回させる方法を考えているのですか」
 怪老人の生理学者は、ようやく口を開いた。
「いや、わしも、手の下しようがなく、呆然としているよ。しかし、何という壮観だろう。あの大きな渦巻は……」
「まったく。太平洋の真ン中に、こんな大鳴門おおなるとがあるとはおもわなかった。潮流は、四方から、急流をなして、あの大渦巻に、吸寄せられているさまは、見事なものですな……」
 人々の驚愕きょうがく、悲鳴をよそに、二人の科学者は、泰然として、世にも不思議な海洋中の大渦巻に見惚みとれている。僕は、恐怖を忘れて、二老人の顔をみた。
 おお、そういううちにも、狂おしい潮流は、いよいよ急激に、すさまじいうなりをあげて、魔の海の大渦巻の中へ、幽霊船虎丸タイガーまるを、一呑みにとばかり、ひきずり込んで往く。今度こそは、万事休矣ばんじきゅうす

   五 海洋の大渦巻

     狂う人々

 僕等を乗せた幽霊船は、不思議な大鳴門に吸い込まれ、大きく輪を描いて、ぐるぐる船首を独楽こまのように回転しはじめた。
 一海里平方もあろうという大渦巻だから、外側をぐるぐる廻っているあいだは、甲板にある僕等も、さほどおそろしいとはおもわないが、だんだん内側の方へ吸い寄せられ、大渦巻の中心点をぐるぐる回転するようになると、その速度が、あまりはやく、めまぐるしくなって、甲板に立っていられなくなった。
「おお」「おお」技術員たちは、甲板に腹匍はらばいになり、半狂乱になって、哀叫している。
 僕も、チャン君も、二人の科学者も、甲板に立っていられないので、それぞれ柱や、ワイヤーとりすがり、振落されるのを避けながら、互に顔を見合った。
 急速度の回転のために、何だか頭が狂いそうだ。このまま気が遠くなって死んでしまうにちがいない。空も、海も、船も、人も、ぐるぐる狂い廻っているので、頭の中も、心臓も、血も、ぐるぐる狂い廻っているようだ。
「諸君、このままだと、われわれの生命いのちは、三日と保つまい。人間の肉体は、この急速度に対抗できても、心理的に疲れて、気が狂うか、もしくば心臓が破裂するだろう。まず、宿命とあきらめるのだね」生理学者の怪老人は、マストから張られた縄にとりすがりながら、冷たい言葉を吐いた。
機関エンジンをうんとかけて、渦巻の反対の方向へ舵機だきを廻したら、少しは、急速度な回転を緩めることは出来ませんか」陳君は、機関士らしいことを云った。
「それは、徒労さ。この物凄ものすごい渦巻に反抗してみろ。舵機はまたたくまに折れ、船も真二つになりかねないよ」物理学者らしい老博士の答えだ。
「幽霊船と運命をともにしたくないなら、この船をのがれることだね」陳君は僕にささやいた。
「この魔の海を、どうして脱することが出来る?」
「さア、そいつは、僕の頭では考えられない。……あなたは、この幽霊船を脱することを、思案しているのではないのですか」チャン君は、怪老人にたずねた。生理学者は、歯のない口を開いて笑った。
「ハハハハハ。心臓の入替なら、いつでも御用に応ずるが、宿命の大渦巻を脱れる工夫は、わしの手腕力量ではないね」「ほんとうに、絶望ですか」
「そうだね。三日間の生命といったが、あるいは、きょう明日にも、気が狂うかも知れない。見給え。あの方船はこぶねの生存者たちは、すでに気が狂っているではないか」なるほど、彼等は、もう沈着、自制を失って、甲板上で、狂おしく泣き叫びながら、お互の身体からだ引掻ひっかいたり、たたき合ったりしている。
「おお、あいつ等は、もう気が狂いかけたのか」
 僕は、暗然となった。僕等もまた、ほどなく、気が狂い、心臓が破裂して、幽霊船と、運命をともにするのか。
 恐ろしい一夜が明けた。
 幽霊船は、相変らず、大渦巻の中心を、独楽こまのように、急速度に回転している。
 睡眠不足と、心理的な疲労のために、僕は、まだ正気なのかどうかを疑って、四辺あたりを見廻した。
 二老人も、陳君も、ゆうべと同じ箇処で、宿命の死を待っている。彼方かなたの中甲板をみると、約半数は、すでに気を失って、海賊たちの屍骸しがいに折重ってたおれ、あとの半数は、わずかに手足を動かして藻掻もがいているが、もう正気の沙汰さたではない。
 僕は、しかし正気だ。まだまだへこれない。陳君はと見ると、彼も、唇をみしめながら、じいとこらえている。二老人も、沈痛な顔に、疲労の色をみせているが、二人は、最初から宿命とあきらめているので、気を失うことはない。
「どうして、僕等四人だけが、気が狂わないのだろうか」僕は、陳君に訊ねた。陳君の答えは、すこぶる明快だ。
「君は、日本人だろう。日本人は、鉄のような心臓を持っているからだ」
「では、二老人は?」
「二老人は、ドイツの科学者だ。ドイツ人の沈着、剛毅ごうきな精神力が、この心理的な残虐に堪え得るだろうとおもう」
「なるほど……君は?」
「僕は、中国人だ。東洋人は、概して西洋人よりも心臓が強健だ。けれど、日本人にはかなわぬよ。しかし、僕は、安南人あんなんじんおおきな心臓を移し植えられたので、そこで、君の鉄の心臓に負けないくらい強いのだ」しかし、いくら剛毅な精神の所有者でも、鉄の心臓の持主でも、この難局を打破ることは出来ないだろう。技術員たちより、一日か二日生延いきのびるだろうが、やがて、同じ運命に陥るのはわかり切っている。
「どうだろう。この船から、海中へ飛込んで見たらどうだろう」と、陳君は奇抜なことを云う。
「すると、どうなるかね」
「海へ飛込んで、海中深く潜りながら、大渦巻の圏外へ脱れるのさ。僕は、鉄の心臓の所有者だから、一気に脱れ出られるとおもうよ」「だが、この大渦巻は、表面だけではないのだぜ。きっと、海底まで、渦を巻いているよ。だから、海へ飛込んで見給え。たちまち、海中へき込まれるにきまっているさ」
「なるほど。そうだ」先刻から、何事かじいっと考え込んでいた老博士は、僕等に向って、
「君たちは、それほど、生きたいのか。……では、この幽霊船を脱れる工夫をするがいい」
「それが出来ますか」チャン君は、息をはずました。
「君は、海へ飛込もうといったが、それは無茶だ。海よりか、大空へ脱れる方が、はるかに容易じゃないか。大空には、こんな渦巻がないだろう」
「ああそうだ。大空へ脱れよう。……でも、博士。翼もない僕等は、どうして大空へ脱れることが出来ますか」
「それを考えるのさ」老博士は、泰然として云った。

     別離の悲しみ

 僕は物凄く渦巻く海面を見ていて、悠々とひろがる大空を見上げなかったのだ。海上を脱れ出ることが不可能だとあきらめる代りに、大空は、僕を救おうとして、手を伸べて待っている。こう考えたとき、僕は、独楽こまのように、ぐるぐる廻る幽霊船の甲板で、大空へ脱れ出る方法について、工夫をこらすだけの、心の余裕を生じた。
 老博士の指図にしたがって、一個の飛行機を建造しつつあるのだ。飛行機! 冗談いっちゃいけない。飛行機をつくる材料など、何一つない、北洋通いのどろぼう船ではないか。空想しただけでも、おかしいではないかと、笑うかも知れない。では、飛行機といわず、単に飛翔機ひしょうきといおう。幽霊船の甲板で、独楽のように、ぐるぐる廻りながら、苦心惨憺さんたんして製作しているのが、この飛翔機だ。いやむしろ、風船といった方がいい。
 幸い、二人の科学者が、協力してくれる。科学者は、不可能なことを可能ならしむるに妙を得た神人だ。殊に老博士は、人造島を創案した大科学者だ。彼は幽霊船中にある帆布はんぷや、麻布を、僕等に集めさした。それを縫合ぬいあわすのは、生理学者の怪老人の仕事だった。そのままに、僕等は、船内をくまなく探し廻って、ろうや、ゴム類をおびただしく集めて来た。
「それを、麻布に塗りたまえ」
 老博士の命令どおり、たんねんに麻布に塗った。
 まもなく長さ数メートルの大きな蝋塗りの麻袋が出来上った。それに幾本かの麻縄ロープを結び、その端に、ハンモックを取付けた。
「これでよい。この原始的な飛翔機で、大空へうかび上るのだ」
 老博士は、満足げに云った。
「でも、博士、この麻袋の中へ、瓦斯ガスめなければ浮びませんよ」
勿論もちろんさ。瓦斯の代りに、冷凍室で使う圧搾空気を入れたらいい」
「ああ、そうだ圧搾空気をつくろう」
 僕は、うれしげに叫んだ。
 はげしい風が吹いていた。風船を空に浮べるに絶好の日だ。
 陳君は、この日朝から汽罐かまいた。蒸気が機関のパイプに充満すると、動力をはたらかして、圧搾空気をつくった。それを甲板まで導いて、麻布の風船の中へ充填じゅうてんした。
 天佑か、奇蹟きせきか、大きな麻袋は、大きくふくらみ、空へ飛翔せんとて暴れ廻る。その口を固く結んで、縄を船橋ブリッジの柱へ縛りつけた。
「おい、はやく、ハンモックへ乗りたまえ」
 老博士は、僕等を促した。
「博士は?」僕は訊ねると、彼はしかりつけるように、
「この、不完全な風船に、われわれが乗れやしないじゃないか」
「でも、僕等だけ……」
「何を云うのか、おまえたちは、前途有為な少年じゃ。この魔の海を脱れなければならないが、われわれ老人は、もう任務が終ったので、この幽霊船と運命をともにするのじゃ」
「そうだ。君たち少年だけで、大空へ脱れたまえ。わしと、博士とは、従容しょうようして、君たちを送るよ」怪老人も、僕等を促す。
「それはいけません。僕等は、あなた方を見殺みごろしには出来ません」
「またそんなことを云う。この風船は、四人の人間を乗せることが出来ないのだ。君たち二人が乗っても、危険なくらいだ。が、この船で死ぬよりか、ましだとおもって乗りたまえ」
「でも」
「まだ躊躇ちゅうちょするか。いかん。せっかく充填した圧搾空気が効力を失い、浮揚力を失ってしまうじゃないか。それ、もっと圧搾空気をめろ」
 ふたたび、圧搾空気を、風船に填めた。
「さあ、一刻もはやく、ハンモックに乗りたまえ」
「…………」僕等は、もう拒むことも出来ず、ハンモックに乗った。
「博士、では」
「先生! きっと迎えに参りますよ。それまで生きていてください」僕等が、涙ぐみながら、口々に叫んだとき、船橋の根元の柱に縛りつけてあった麻縄ロープを、怪老人は解いた。おお、果して、この不完全な風船は、大空に浮き上った。
「博士。さよなら」
「先生! 御壮健で……」あとは涙。甲板上の二老人も、両眼に涙をたたえて、
「おお、元気な日本の少年よ。中国の少年よ。必ず祖国へ帰れよ」
「圧搾空気は瓦斯ガスのようなわけにはいかぬから、やがて風船の浮揚力は失うが、それまでにこの魔の海を脱れ出るがよい。運命の風よ。強く吹け」口々に叫びながら、多難な前途を案じ顔だった。
 幸いに、風が強く、僕等をのせた怪しげな風船は、幽霊船の上空を離れて、大渦巻の圏外へ吹き飛ばされようとする。
「さようなら……」
「さよなら!」僕も、チャン君も、泣きながら叫んだ。

     風船の墜落

 僕等を乗せた風船が、風に吹きつけられて、やっと、大渦巻の圏内を脱したとおもうころ、予期したとおり、いや案外にはやく麻袋の風船は、浮揚力を失って、大海原に墜落した。
「あッ!」僕も、陳君も、絶望の叫びをあげた。
 が、ふしぎにも、僕等は、それなり海底へ沈まなかった。
「おや」「おや!」
 横に倒れたまま、海に墜落した風船は、海底に沈まず、ふわりと浮んだままだ。
 二人とも、水におぼれかけながら、顔を見合った。
「風船が水に沈まないぜ」
「ほんとうだ。……麻袋にろうを塗ってあるからだろう」
「それにちがいない。試しに、あの風船に乗って見ようか」
「よかろ」二人は、ハンモックを離れて、畳のように海面に拡がった風船にい上った。大きな麻袋なので、二人を乗せても平気だった。
「天佑天佑」僕らは手をってよろこんだ。
「思慮の深い博士の考案だ。これくらいのことは当然だろう」
「まったくだ。こいつは、まるで革の船みたいだね」たすかったとおもったら、急に眠くなった。
 二人は、風船の浮船の真中ごろに陣取って、横になった。
「お腹が空いて、ぺこぺこだ」僕がいうと、陳君は、
贅沢ぜいたくいうなよ。あの大渦巻に捲き込まれて、独楽こまのように廻っている老博士たちのことを考えたら、贅沢は云われないぜ」
「そうだ」
「怪老人も、博士も、じつに偉大な科学者だ。あの魔の海で死なしたくはないね」
「まったくだよ。僕は、何とかしてたすけてあげたいとおもっている」
「そうだな。何とか、この辺で、飛行機にでもめっからないかな。そうすると、飛行機の人に救助して貰うンだが……」
「そんなうまい具合にいくものか」
「でも、運命ってやつは、わからんよ。こうして漂流しているうちに、ひょっとして、この上空を飛行機が通らぬとも限らんよ」
「夢みたいな話さ」
「そうかなア」二人は疲労のためにうとうとした。
 と、意外意外、それから数時間ののち、その日の夕方、僕等の漂流する上空はるかに、壮快な飛行機のプロペラの音がきこえはじめたではないか。「あッ! 飛行機だ」
「そら見ろ。とうとうやって来たではないか。万歳! 万歳」
 僕は、雀躍こおどりして叫んだ。

     むなしい救助

 僕等を救助した飛行機は、祖国日本の大型海軍機だった。
 遠洋における耐空試験をやっていて、奇妙な革船に乗って漂流する僕等を発見したわけだ。
 やさしい海軍の飛行将校たちは、僕等を救助し、飛行機に乗っけてくれたばかりでなく、いろいろ珍しい携帯糧食を、わかち与えてくれた。固型寿司ずしや、水玉のように、ごむ袋の中に入った羊羹ようかんは、とても美味おいしかったので、舌鼓を打つと、将校の一人は、
「小僧、そんなにうまいかい」顔をのぞき込んだ。
「だって、随分おなかかしているンですよ」
「だが、そんなに食べると、胃袋がびっくりするぜ」
「閣下」僕は、将校の一人に、こういうと、
「ハ……。閣下はありがたいな……」
 と、笑われた。海軍大尉は、閣下じゃなかった。
「では、訂正します。大尉殿。僕等を救けて下すってありがたいが、ついでに、もう二人救けて下さい」
「もう二人?」
「そうです。いまもいったとおり、魔の海の大渦巻に捲き込まれた、幽霊船にいる、二人の科学者を、一刻もはやく救助して下さい。この大型の飛行機は、まだ二人ぐらい収容できましょう」
「おう、その二人か。むろん救助したいが、その渦巻く大鳴門おおなるとの方向が、小僧には、わかるかい」
「さア……夢中で脱れて来たので、方向は、わかりませんが、あまり遠くはないですよ」
「そうか、よし来た」元気一杯な操縦士の返事だ。
 長距離飛行に耐ゆる、わが優秀な海軍機は、僕等を乗せて、割合に低空を飛んだ。東に、西に、南に、北に……。海洋の魔所……大鳴門の所在を探し廻ったが、なかなか発見できない。
「何だ、小僧。大渦巻なンか、この近海にありゃしないじゃないか」
「でも、たしかに僕等が、そこをけて来たのです」
「夢でも見たんじゃないか」
「そんなことは、ありません」
「とにかく、もう少し探し廻ろう。暗くならないうちに探し当てなければ、救助が出来ないからなア」
 なおも、低空をつづけているうちに、何処どこからか、ごうごうという物凄い音がきこえて来た。
「それ、閣下、大鳴門おおなるとの音です」
 僕はまた、閣下といってしまった。
「ほいまた閣下かい。ハハハハ。おおなるほど、すさまじい音だな。ああ、大渦巻だ」と、叫んで下界を見おろした。なるほど一海里平方もあろうという面積の海上が、大きく、烈しく、凄じく、渦を巻いている。外側はゆるやかに、中心になるにしたがって、急速度に、水がぐるぐる渦巻いている。
「おお、これは壮観」
「こんなところに、こんな難所があるとはおもわなかった」将校も、操縦の下士も、あまりの物凄さに、しば見惚みとれた。
「はやく、博士たちを救って下さい」
「はやくしないと、死んでしまいます」
「よし来た」将校は、大きくうなずいて、もう一度渦巻の中心とおぼしい下界を見おろしたが、
「小僧! 幽霊船が、いやしないじゃないか」
 僕も、チャン君も、びっくりして下界を見おろすと、なるほど、大渦巻の中心に、捲き込まれて、独楽こまのようにぐるぐる廻っているはずの、死の船――幽霊船が、姿を見せないではないか。
「どうだ。小僧! やっぱり、おまえたちの夢だ」
「いいえ、たしかに、あの大渦巻に捲き込まれていたのです。僕等は、その幽霊船の甲板から、風船で脱れたのです。博士たちは、船に残っているンです。たすけて下さい」陳君は、寂しげに云った。
「だって、幽霊船が、一向に見当らぬではないか。どうしたというンだ」
 いくら、低空を旋回してみても、渦を巻く海上に、幽霊船の姿を見出すことが出来なかった。
「ああ、やっぱり、ほんとうの幽霊船だったかもしれないね」
 とうとう、陳君は、こんなことをつぶやいた。
「じゃ、君は、あの怪老人を、あの偉大な生理学者を、亡霊だったというのかい」僕は、聞返すと、
「だって、妙じゃないか。幽霊船が、やっぱり、ほんとうの幽霊船なら、あの白衣びゃくえの老人も亡霊にちがいないよ」
「じゃ、君だって、亡霊かい」
「どうして?」
「君は、あの船の甲板で、ひょうのような水夫のために、左胸部を背後から射貫いぬかれて、死んだのじゃないか。僕は、たしかにそれを目撃したのだ。だのに、また生きかえるなンか、ふしぎだよ。やっぱり、亡霊かもしれないよ」
「そ、そんなことがあるものか。僕は、いったんは殺されたが、あの白衣の老人の手術で、心臓を取替てもらって生き還ったのだ」
「じゃ、白衣の老人の腕前を信じることが出来るだろう。そしたら、あの人を亡霊というのはまちがっている。君が亡霊でないなら、あの科学者だって亡霊じゃないよ。もちろん、人造島をつくった博士だって、亡霊じゃない」
「うむ……。可笑おかしいね。何が何だかわからなくなって来たぞ。……待てよ。じゃ、あのどろぼう船だけが、亡霊だったのかもしれないね」
「それなら、僕もそうおもうね。渦巻く海面から、忽然こつぜんと消えて無くなるなンか、やっぱり幽霊船だった」そのまに、飛行機は、もう可成かなり遠くまで飛んでいた。
「大尉殿。もう一度、あの大渦巻の中心を探して下さい」僕は、あきらめ切れず、そう云うと将校は、
「いくら探しても無駄さ。あのとおり、八ツの眼で、下界をくまなく探したが、見つからなかったのだから、もうあきらめた方がいいぜ」
「でも、あの科学者が、行方不明になったのが、ほんとに惜しいンですもの」
「われわれだって、惜しい人物を、魔の海で失って、残念におもうよ。何しろ、人造島をつくった博士や、心臓を入替たり、生命を永久保存することを発見した大科学者だからね」
「それに、僕等の恩人です」
「まったくだ。しかし、幽霊船の犠牲になって、あの大渦巻に吸込まれ、海底深く没してしまったのだから、あきらめるより外はあるまい」
「ひょっとすると、博士たちは、火薬を爆発さして沈んだのかも知れませんよ」
「うむ、そうかも知れん……君たちも、うんと勉強して、将来御国のために、人造島ぐらい、わけなくつくる大科学者になってくれることだね。世界人類のために、生命の保存法を、君たちこそ、ほんとうに発見してくれるンだね」
「僕は、きっと、人造島を発明します」
「僕も、心臓の入替なぞ、平気でやれる大科学者になって見せるよ」といった。将校は、うなずいて、
「うん。それでこそ、死んだ二人の科学者の、恩に報いられるのだ。しっかりやってくれ」
「はい」「はい」海軍機は、すでに、魔の海――大渦巻の上空を去って、夕靄ゆうもやの深くとざした大海原おおうなばらを、西方指して飛んでいる。
「大尉殿」僕は、訊ねた。
「何だ」
「この海軍機は、ドイツから輸入したのですか」
「いや、国産だよ」
「へえ、素晴しいなア。こんな優秀機が、もう日本でも出来るンですか」
「出来るとも。もっと素晴しいのが出来かかっているよ。これは、東京帝国大学の航空研究所で設計したものだ。太平洋なぞ、無着陸で往復できるよ」
「ほう、愉快だなア」
「小僧たちも、うんと勉強して、これに負けない飛行機をつくってくれよ」
「つくるとも。大丈夫」
「何だぜ。もう、どろぼう船になンか、乗るんじゃないぜ」
「あれは、横浜ハマで、船乗マドロスたちにだまされたのだよ。もう、北洋へなぞ往かずに、うんと勉強するよ」
「よし。チャン君、君も、うんと勉強したまえよ」
「はい」
「中国も、日本と協力して、もっと強くならなくてはいかんなア。東洋平和のために、日本と協力して、進むンだなア」
「僕は、山路君の、忍耐と、勇気と、仁侠にんきょうに感動させられました。日本人と、中国人とは、兄弟のように仲好くなるのが、ほんとうだと、こんどの冒険旅行で、しみじみ感じました」
「それだ。それは、大きな収穫だった。山路君と陳君との友情は、やがて、日本と中国との永遠の友情のくさびとなるのだ」国際優秀機は、太平洋の上空を、秀麗富士のそびえる日本の空を目指して、悠々と飛んでいる。四ヶ月余にわたる、怪奇な冒険旅行を終えて、故国へ帰る僕は、疲労も、眠気も忘れて、元気一杯、口笛を吹いた。
 日本へ帰ってから、人々に、老博士の人造島のことや、白衣の老人の心臓入替の話や、さては、幽霊船のことや、魔の海の大渦巻のことを物語ったが、誰も、それを信じるものが無かった。「そんな莫迦ばかなことがあるものか!」一笑に附してしまう。だから、どろぼう船を脱れて、巨鯨のおなかに乗っかって、漂流したなぞといったら、きっと、みんなは、吹き出してしまうだろう。僕は、目下、日本の有名な理学博士の主宰する化学研究所に助手として働いている。僕は、他日きっと人造島を発明してみせる。そのときこそ人々は、はじめて、僕の冒険談を、ほんとうにして聞いてくれるだろう。





底本:「少年小説大系 第8巻 空想科学小説集」三一書房
   1986(昭和61)年10月31日第1版第1刷発行
初出:「日本少年 付録」
   1937(昭和12)年8月号
※底本に、初出誌での原題は「幽霊船」との記載がありました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部良子
校正:小林繁雄
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について