世界怪談名作集

ヴィール夫人の亡霊

デフォー Daniel Defoe

岡本綺堂訳




 この物語は事実であるとともに、理性に富んだ人たちにも、なるほどと思われるような出来事が伴っている。この物語はケント州のメイドストーン治安判事を勤めている非常に聡明な一紳士から、ここに書かれてある通りに、ロンドンにいる彼の一友人のところへ知らせてよこしたもので、しかもカンタベリーで、この物語に現われて来るバーグレーヴ夫人の二、三軒さきに住んでいる上記の判事の親戚で、冷静な理解力のある一婦人もまたこの事実を確証している。
 したがって、治安判事は自分の親戚の婦人も確かに亡霊の存在を認めているものと信じ、また彼の友達にも極力この物語の全部はほんとうの事実だと断言している。そうして、その亡霊を見たというバーグレーヴ夫人自身の口から、この物語を聞いたままを治安判事に伝えたその婦人は、正直で、善良で、敬虔けいけんな一個の女性としてのバーグレーヴ夫人が、この事実談を一つの荒唐無稽こうとうむけいな物語に粉飾するような婦人でないことを信じているのである。
 私がこの事実談をここに引用したのは、この世の私たちの人生には更にまた一つの生活があって、そこに平等なる神は私たちが生きている間の行為にしたがって、それに審判をなされるのであるから、私たちは自分が現世でなして来たところの過去を反省しなければならない。また、私たちの現世の生命は短くて、いつ死ぬか分からないが、もし不信仰の罰をまぬかれて、信仰のむくいとして来世における永遠の生命を把握はあくしようとするならば、今後すみやかに悔い改めて神に帰依きえし、努めて悪をなさず、善をおこなおうと心がけなければならない。幸いに神が私たちに目をかけて下されて、神の御前みまえで楽しく暮らせるような来世のために、現世において信仰の生活を導いて下さるならば、ただちに神を求めなければならないということを、お互いに考えんがためである。

 この物語は、こうした種類の出来事のうちでも非常に珍らしく、実際をいうと、私が今まで書物の上で読んだり、人から聞いたりしたことなどは、この事実談ほどに私のこころをかなかった。したがって、これは好奇心に富んだ、まじめな詮索せんさく家を満足させるに十分であると思う。バーグレーヴ夫人は現在生きている人で、死んだヴィール夫人の亡霊が彼女のところに現われたのであった。
 バーグレーヴ夫人は私の親しい友達で、私が知ってから最近の十五、六年のあいだ、彼女は世間の評判のよい夫人であったこと、また私が初めて近づきになった時でも、彼女は若い時そのままの純潔な性格の所有者であったことを確言し得る。それにもかかわらず、この物語以来、彼女はヴィール夫人の弟の友達などから誹謗ひぼうされている。その人たちはこの物語を気違い沙汰ざただと思って、極力彼女の名声をくじこうとするとともに、一方には狼狽してその物語を一笑にふしてしまおうと努めている。しかも、こうした誹誘をこうむっている上に、さらに不行跡な夫からは虐待ぎゃくたいされているにもかかわらず、快活な性格の彼女は少しも失望の色をみせず、また、こういう境遇の婦人にしばしば見るような、始終なにかぶつぶつ言っているような鬱症うつしょうにおちいったということもかつて聞かず、夫の蛮的行為のまっ最中でも常に快活であったということは、私をはじめ他の多数の名望ある人びとも証人に立っているのである。
 さてあなたに、ヴィール夫人は三十歳ぐらいの中年増ちゅうどしまのわりに、娘のような温和な婦人であったが、数年前に人と談話をしているうちに突然発病して、それから痙攣けいれん的の発作に苦しめられるようになったということを知っておいてもらわなければならない。彼女はドーバーにうちを持っていた、たった一人の弟の厄介になっていた。彼女は非常に信心の厚い婦人であった。その弟は見たところ実に落ち着いた男であったが、今では彼はこの物語を極力打ち消している。ヴィール夫人とバーグレーヴ夫人とは子供のときからの親友であった。
 子供時分のヴィール夫人は貧しかった。彼女の父親はその日の生活に追われて、子供の面倒まで見ていられなかった。その当時のバーグレーヴ夫人もまた同じように不親切な父親を持っていたが、ヴィール夫人のように衣食には事を欠かなかったのである。
 ヴィール夫人はよくバーグレーヴ夫人にむかって、「あなたはいちばんいいお友達で、そうして世界にたった一人しかないお友達だから、どんな事があっても永久に私はあなたとの友情を失いません」と言っていた。
 彼女らはしばしばお互いの不運を歎きあい、ドレリンコート(十七世紀におけるフランスの神学者)の「死」に関する著書や、その他の書物を一緒に読み、そうしてまた、二人のキリスト教徒の友達のように、彼女らは自分たちの悲しみを慰めあっていた。
 その後、彼女はヴィールという男と結婚した。ヴィールの友達は彼を周旋しゅうせんしてドーバーの税関に勤めるようにしたので、ヴィール夫人とバーグレーヴ夫人との交通は自然だんだんに疎遠になった。といって、別に二人の間が気まずくなったというわけではなかったが、とにかくにその心持ちが追いおいに離れていって、ついにバーグレーヴ夫人は二年半も彼女に逢わなかった。もっとも、バーグレーヴ夫人はその間の十二カ月以上もドーバーにはいなかった。また最近の半年のうちで、ほとんど二カ月間カンタベリーにある自分の実家に住んでいたのであった。

 この実家で、一七〇五年九月八日の午前に、バーグレーヴ夫人はひとりで坐りながら、自分の不運な生涯を考えていた。そうして、自分のこうした逆境もみな持って生まれた運命であるとあきらめなければならないと、自分で自分に言い聞かせていた。そうして彼女はこう言った。
「私はもう前から覚悟をしているのであるから、運命にまかせて落ち着いていさえすればいいのだ。そうして、その不幸も終わるべき時には終わるであろうから、自分はそれで満足していればいいのだ」
 そこで、彼女は自分の針仕事を取りあげたが、しばらくは仕事を始めようともしなかった。すると、ドアをたたく音がしたので、出て見ると、乗馬服を着けたヴィール夫人がそこに立っていた。ちょうどその時に、時計は正午の十二時を打っていた。
「あら、あなた……」と、バーグレーヴ夫人は言った。「ずいぶん長くお目にかからなかったので、あなたにお逢いすることが出来ようとは、ほんとうに思いも寄りませんでした」
 それからバーグレーヴ夫人は彼女に逢えたことの喜びを述べて、挨拶の接吻を申し込むと、ヴィール夫人も承諾したようで、ほとんどお互いの口唇くちびると口唇とが触れ合うまでになったが、手で眼をこすりながら「わたしは病気ですから」と言って接吻をこばんだ。彼女は旅行中であったが、何よりもバーグレーヴ夫人に逢いたくてたまらなかったのでたずねて来たと言った。
「まあ、あなたはどうして独り旅なぞにおいでになったのです。あなたには優しい弟さんがおありではありませんか」
「おお!」とヴィール夫人が答えた。「わたしは弟に内証で家を飛び出して来ました。わたしは旅へ立つ前に、ぜひあなたに一度お目にかかりたかったからです」
 バーグレーヴ夫人は彼女と一緒にうちへはいって、一階の部屋へ案内した。
 ヴィール夫人は今までバーグレーヴ夫人が掛けていた安楽椅子に腰をおろして、「ねえ、あなた。私は再び昔の友情をつづけていただきたいと思います。それで今までのご無沙汰ぶさたのおびながらに伺ったのです。ねえ、ゆるして下さいな。やっぱりあなたは私のいちばん好きなお友達なのですから」と、口をひらいた。
「あら、そんなことを気になさらなくってもいいではありませんか。私はなんとも思ってはいませんから、すぐに忘れてしまいます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
「あなたは私をどう思っていらっしゃって……」と、ヴィール夫人は言った。
「別にどうといって……。世間の人と同じように、あなたも幸福に暮らしていらっしゃるので、私たちのことを忘れているのだろうと思っていました」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
 それからヴィール夫人はバーグレーヴ夫人にいろいろの昔話をはじめて、その当時の友情や、逆境当時に毎日まいにち取りかわしていた会話のかずかずや、たがいに読み合った書物、特におもしろかった「死」に関するドレリンコートの著書――彼女はこうした主題の書物では、これがいちばんいいものであると言っていた――のことなどを思い出させた。それからまた、彼女はドクトル・シャロック(英国著名の宗教家)のことや、英訳された「死」に関するオランダの著書などについて語った。
「しかし、ドレリンコートほど死と未来ということを明確に書いた人はありません」と言って、彼女はバーグレーヴ夫人に何かドレリンコートの著書を持っていないかといた。
 持っているとバーグレーヴ夫人が答えると、それでは持って来てくれと彼女は言った。
 バーグレーヴ夫人はすぐに二階からそれを持って来ると、ヴィール夫人はすぐに話し始めた。
「ねえ、バーグレーヴさん。もしも私たちの信仰の眼が肉眼のように開いていたら、私たちを守っているたくさんの天使エンジェルが見えるでしょうに……。この書物でドレリンコートも言っているように、天国というものはこの世にもあるのです。それですから、あなたも自分の不運を不運と思わずに、全能の神様が特にあなたに目をお掛け下すっているのですから、不運が自分の役目だけを済ませてしまえば、きっとあなたから去ってしまうものと信じていらっしゃい。そうして、どうぞ私の言葉をも信じて下さい。あなたの今までの苦労なぞは、これからさきの幸福の一秒間で永遠にむくわれます。神様がこんな不運な境遇にあなたの一生を終わらせるなどということは、私にはどうしても信じられません。もう今までの不運もあなたから去ってしまうか、さもなければ、あなたのほうでそれを去らせてしまうであろうと、私は確信しているのです」
 こう言いながら彼女はだんだんに熱して来て、手のひらで自分の膝を叩いた。そのときの彼女の態度は純真で、ほとんど神のように尊くみえたので、バーグレーヴ夫人はしばしば涙を流したほどに深く感動した。
 それからヴィール夫人はドクトル・ケンリックの「禁欲生活」の終わりに書いてある初期のキリスト信者の話をして、かれらの生活を学ぶことを勧めた。かれらキリスト信者の会話は現代人の会話と全然ちがっていたこと、すなわち現代人の会話は実に浮薄で無意味で、古代のかれらとは全然かけ離れている。かれらの言葉は教訓的であり、信仰的であったが、現代人にはそうしたところは少しもない。私たちはかれらのしてきたようにしなければならない。また、かれらの間には心からの友情があったが、現代人には果たしてそれがあるかというようなことを説いた。
「ほんとうに今の世の中では、心からの友達を求めるのはむずかしいことですね」と、バーグレーヴ夫人も言った。
「ノーリスさんが円満なる友情と題する詩の美しい写本を持っていられましたが、ほんとうに立派なものだと思いました。あなたはあの本をご覧になりましたか」
「いいえ。しかし私は自分で写したのを持っています」
「お持ちですか」と、ヴィール夫人は言った。「では、持っていらっしゃいな」
 バーグレーヴ夫人は再び二階から持って来て、それを読んでくれとヴィール夫人に差し出したが、彼女はそれをこばんで、あまり俯向うつむいていたので頭痛がして来たから、あなたに読んでもらいたいと言うので、バーグレーヴ夫人が読んだ。こうして、この二人の夫人がその詩に歌われたる友情をたたえていた時、ヴィール夫人は「ねえ、バーグレーヴさん。私はあなたをいつまでもいつまでも愛します」と言った。その詩のうちには極楽という言葉を二度も使ってあった。
「ああ、詩人たちは天国にいろいろの名をつけていますのね」と、ヴィール夫人は言った。
 そうして、彼女は時どきに眼をこすりながら言った。「あなたは私が持病の発作ほっさのために、どんなにひどく体をこわしているかをご存じないでしょう」
「いいえ。私には、やっぱり以前のあなたのように見えます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
 すべてそれらの会話は、バーグレーヴ夫人がとてもその通りに思い出して言い現わすことが出来ないほど、非常にあざやかな言葉でヴィール夫人の亡霊によって進行したのであった。
(一時間と四十五分をついやした長い会話を全部おぼえていられるはずもなく、また、その長い会話の大部分はヴィール夫人の亡霊が語っているのである。)
 ヴィール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかって、自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰だれに贈ってくれ、二カ所の広い土地は彼女の従兄弟いとこのワトソンに与えてくれ、金貨の財布は彼女の私室キャビネットにあるということを書き送ってくれと言った。
 話がだんだんに怪しくなってきたので、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人が例の発作におそわれているのであろうと思った。ひょっとして椅子から床へ倒れ落ちては大変だと考えたので、彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。こうして、前の方を防いでいれば、安楽椅子の両側からは落ちる気づかいはないと思ったからであった。それから彼女はヴィール夫人を慰めるつもりで、二、三度その上着の袖を持ってそれをめると、ヴィール夫人はこれは練絹ねりぎぬで、新調したものであると話した。しかも、こうした間にもヴィール夫人は手紙のことを繰り返して、バーグレーヴ夫人に自分の要求をこばまないでくれと懇願するのみならず、機会があったら今日の二人の会話を自分の弟に話してやってくれとも言った。
「ヴィールさん、私にはあまり差し出がましくて、承諾していいか悪いか分かりません。それに、私たちの会話は若い殿方とのがたの感情をどんなに害するでしょう」と、バーグレーヴ夫人は渋るように言って、「なぜあなたご自身でおっしゃらないのです。私はそのほうがずっといいと思います」と付けたした。
「いいえ」と、ヴィール夫人は答えた。「今のあなたには差し出がましいようにお思いになるでしょうが、あとであなたにもわかる時があります」
 そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願をれるために、ペンと紙とを取りに行こうとすると、ヴィール夫人は、「今でなくてもよろしいのです。私が帰ったあとで書いてください、きっと書いて下さい」と言った。別れる時には彼女はなお念を押したので、バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであった。
 彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことをたずねたので、娘は留守であると言った。「しかし、もし逢ってやって下さるならば、呼んで来ましょう」と答えると、「そうして下さい」と言うので、バーグレーヴ夫人は彼女を残しておいて、隣りの家へ娘を探しに行った。帰って来てみると、ヴィール夫人は玄関のドアの外に立っていた。きょうは土曜日でいちの開ける日であったので、彼女はその家畜市のほうを眺めて、もう帰ろうとしているのであった。
 バーグレーヴ夫人は彼女にむかって、なぜそんなに急ぐのかとたずねると、彼女はたぶん月曜日までは旅行に出られないかもしれないが、ともかくも帰らなければならないと答えた。そうして、旅行する前にもう一度、従兄弟いとこのワトソンの家でバーグレーヴ夫人に逢いたいと言った。それから彼女はもうおいとまをしますと別れを告げて歩き出したが、町の角を曲がってその姿は見えなくなった。それはあたかも午後一時四十五分過ぎであった。

 九月七日の正午十二時に、ヴィール夫人は持病の発作ほっさのために死んだ。その死ぬ前の四時間以上はほとんど意識がなかった。臨床塗油式サクラメントはその間におこなわれた。
 ヴィール夫人が現われた次の日の日曜日に、バーグレーヴ夫人は悪感さむけがして非常に気分が悪かった上に、のどが痛んだので、その日は終日外出することが出来なかった。しかし、月曜の朝、彼女は船長のワトソンの家へ女中をやって、ヴィール夫人がいるかどうかを尋ねさせると、そこの家の人たちはその問い合わせに驚かされて、彼女は来ていない、また来るはずにもなっていないという返事をよこした。その返事を聞いても、バーグレーヴ夫人は信じなかった。彼女はその女中にむかって、たぶんおまえが名前を言い違えたのか、何かの間違いをしたのであろうと言った。
 それから気分の悪いのを押して、彼女は頭巾ずきんをかぶって、自分と一面識のない船長ワトソンの家へ行って、ヴィール夫人がいるかどうかをまた尋ねた。そこの人たちは彼女の再度の問い合わせにいよいよ驚いて、「ヴィール夫人はこの町には来ていない、もし来ていれば、きっと自分たちの家へ来なければならない」と答えると、「それでも私は土曜日に二時間ほどヴィール夫人と一緒におりましたのですが……」と彼女は言った。
 いや、そんなはずはない。もしそうだとすれば、第一自分たちがヴィール夫人に逢っていなければならないと、たがいに押し問答をしている間に、船長のワトソンがはいって来て、おおかた彼女が死んだので、お知らせがあったのだろうと言った。その言葉がバーグレーヴ夫人には妙に気がかりになったので、早速にヴィール夫人一家の面倒を見てやっていた人のところへ手紙で聞き合わせて、初めて彼女が死んだことを知った。
 そこで、バーグレーヴ夫人はワトソンの家族の人たちに、今までの一部始終から、彼女の着ていた着物の縞柄や、しかもその着物は練絹であるといったことまでを打ち明けて話した。すると、ワトソン夫人は「あなたがヴィールさんをご覧になったとおっしゃるのは本当です。あの人の着物が練絹だということを知っている者は、あの人と私だけですから」と叫んだ。ワトソン夫人はバーグレーヴ夫人が彼女の着物について言ったことは、何から何まで本当であると首肯しゅこうして、「私が手伝ってあの着物を縫って上げたのです」と言った。
 そうして、ワトソン夫人は町じゅうにそのことを言いひろめながら、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の亡霊を見たのは事実であると、証明したので、その夫のワトソンの紹介によって、二人の紳士がバーグレーヴ夫人の家へたずねて来て、彼女自身の口から亡霊の話を聞いて行った。
 この話がたちまち拡まると、あらゆる国の紳士、学者、分別のある人、無神論者などという人びとが彼女の門前にいちをなすように押しかけて来たので、しまいには邪魔をされないように防禦するのが彼女の仕事になってしまった。というのは、かれらはたいてい幽霊の存在ということに非常な興味を持っていた上に、バーグレーヴ夫人が全然ぜんぜん鬱症になどかかっていないのを目撃し、また彼女がいつも愉快そうな顔をしているので、すべての人たちから好意をむけられ、かつ尊敬されているのを見聞して、大勢の見物人は彼女自身の口からその話を聞くことが出来れば、大いなる記念にもなると思うようになったからであった。
 私は前に、ヴィール夫人がバーグレーヴ夫人にむかって、自分の妹とその夫がロンドンから自分に逢いに来ていると言っていたことを、あなたに話しておかなければならなかった。その時にも、バーグレーヴ夫人が「なぜ今が今、そんなにいろいろのことを整理しなければならないのですか」とくと、「でも、そうしなければならないのですもの」と、ヴィール夫人は答えている。
 果たして彼女の妹夫婦は彼女に逢いに来て、ちょうど彼女が息を引き取ろうというときに、ドーバーの町へ着いたのであった。
 話はまた前に戻るが、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人にお茶を飲むかと訊くと、彼女は「飲んでもいいのですが、あの気違い(バーグレーヴ夫人の夫をいう)が、あなたの道具をこわしてしまったでしょうね」と言った。そこで、バーグレーヴ夫人は「私はまだお茶を飲むぐらいの道具はあります」と答えたが、彼女はやはりそれを辞退して、「お茶などはどうでもいいではありませんか。打っちゃっておいてください」と言ったので、そのままになってしまった。
 私がバーグレーヴ夫人と数時間むかい合って坐っている間、彼女はヴィール夫人の言ったうちで今までに思い出せなかった言葉はないかと、一生懸命に考えていた結果、ただ一つ重要なことを思い出した。それはブレトン老人がヴィール夫人に毎年十ポンドずつを給与していてくれたという秘密で、彼女自身もヴィール夫人に言われるまでは全然知らなかった。
 バーグレーヴ夫人はこの物語に手加減を加えるようなことは絶対にしなかったが、彼女からこの物語を聞くと、亡霊の実在性を疑っている人間や、少なくとも幽霊などと馬鹿にしている連中も迷ってしまった。ヴィール夫人が彼女の家へ訪ねて来たとき、隣りの家の召仕めしつかいはバーグレーヴ夫人が誰かと話しているのを庭越しに聞いていた。そうして、彼女はヴィール夫人と別れると、すぐに一軒置いて隣りの家へ行って、昔の友達と夢中になって話していたと言って、その会話の内容までを詳しく語って聞かせた。それから不思議なことには、この事件が起こる前に、バーグレーヴ夫人は死に関するドレリンコートの著書をちょうどに買っておいた。それからまた、こういうことに注目しなければならない。すなわちバーグレーヴ夫人は心身ともに非常に疲れているにもかかわらず、それを我慢してこの亡霊の話をいちいちみんなに語って聴かせても、けっして一銭も受け取ろうとはしないばかりか、彼女の娘にも人から何ひとつ貰わせないようにしていたので、この物語をしたところで彼女には何の利益もあるはずはないのである。
 しかも、亡霊の弟のヴィール氏は、極力この事件を隠蔽いんぺいしようとした。一度バーグレーヴ夫人に親しく逢ってみたいと言っていたが、彼は姉のヴィール夫人が死んだのち、船長のワトソンの家までは行っていながら、ついにバーグレーヴ夫人をおとずれなかった。彼の友達らはバーグレーヴ夫人のことを嘘つきだと言い、彼女は前からブレトン氏が毎年十ポンドずつ送って来ることを知っていたのだと言っているが、私の知っている名望家の間では、かえってそんなふうに言い触らしているご本尊のほうが大嘘つきだという評判が立っている。ヴィール氏はさすがに紳士であるだけに、彼女は嘘を言っているとは言わないが、バーグレーヴ夫人は悪い夫のために気違いにされたのだと言っている。しかし彼女がただ一度でも彼に逢いさえすれば、彼の口実を何よりも有効に論駁ろんばくするであろう。
 ヴィール氏は姉が臨終の間ぎわに何か遺言することはないかとたずねると、ヴィール夫人は無いと言ったそうである。なるほど、ヴィール夫人の亡霊の遺言はきわめてつまらないことで、それらを処理するために別に裁判を仰ぐというほどの事件でもなさそうである。それから考えてみると、彼女がそんな遺言めいたことを言ったのは、要するにバーグレーヴ夫人をして自分が亡霊となって現われたという事実を明白に説明させるためと、彼女が見聞した事実談を世間の人たちに疑わせないためと、もう一つには理性のった、分別のある人たちの間にバーグレーヴ夫人の評判を悪くさせまいための心遣いであったように思われるのである。
 それからまた、ヴィール氏は金貨の財布もあったことを承認しているが、しかし、それは夫人の私室キャビネットではなくて、櫛箱の中にあったと言っている。それはどうも信じ難い気がする。なぜなれば、ワトソン夫人の説明によると、ヴィール夫人は自分の私室の鍵については非常に用心ぶかい人であったから、おそらくその鍵を誰にも預けはしないであろうというのである。もしそうであるとすれば、彼女は確かに自分の私室から金貨を他へ移すようなことはしなかったであろう。
 ヴィール夫人がその手でいくたびか両方の眼をこすったことと、自分の持病の発作が顔容かおかたちを変えはしないかと訊ねたことは、わざとバーグレーヴ夫人に自分の発作のことを思い出させるためと、彼女が弟のところへ指環や金貨の分配方を書いて送るように頼んだことを、臨終の人の要求のように思わせずに、発作の結果だと思わせるためであったように考えられる。それであるから、バーグレーヴ夫人も確かにヴィール夫人の持病が起こって来たものと思い違いをしたのである。同時にバーグレーヴ夫人を驚かせまいとしたことは、いかに彼女を愛し、彼女に対して注意を払っていたかという実例の一つであろう。その心遣いはヴィール夫人の亡霊の態度に始終一貫して現われていて、特に白昼彼女のところに現われたことや、挨拶の接吻を拒んだことや、ひとりになった時や、更にまたその別れる時の態度、すなわち彼女に挨拶の接吻をまた繰り返させまいとしたことなどが皆それであった。
 さて、なぜにヴィール氏がこの物語を気違い沙汰であると考えて、極力その事実を隠蔽しようとしているのか、私には想像がつかない。世間ではヴィール夫人を善良の亡霊と認め、彼女の会話は実に神のごときものであったと信じているのではないか。彼女の二つの大いなる使命は、逆境にあるバーグレーヴ夫人を慰藉いしゃするとともに、信仰の話で彼女を力づけようとした事と、疎遠になっていた詫びを言いに来た事とであった。また仮りに、何か複雑の事情とか利益問題とかいうことを抜きにして、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の死を早く知って、金曜の昼から土曜の昼までにこんな筋書を作りあげたものと想像してご覧なさい。そんな真似をするような彼女であったらば、もっと機智があって、もっと生活が豊かで、しかも他人が認めているよりも、もっと陰険な女でなければならないはずである。
 私はいくたびかバーグレーヴ夫人にむかって、確かに亡霊の上着に触れたかどうかをただしてみたが、いつも彼女は謙遜して、「もしも私の感覚に間違いがないならば、私は確かにその上着に触れたと思います」と答えるのであった。それからまた、亡霊がその手で膝をたたいた時に、確かにその音を聞いたかと訊ねると、彼女は聞いたかどうかはっきりとは記憶していないが、その亡霊の肉体は自分とまったく同じものであったと言った。
「それですから、私の見たのはあの人ではなくて、あの人の亡霊であったと言われれば、いま私と話しているあなたも、私には亡霊かと思われます。あの時の私には、怖ろしいなどという感じはちっともいたしませんで、どこまでもお友達のつもりで家へ入れて、お友達のつもりで別れたのでございます」
 また、彼女は「私は別にこの話を他人に信じてもらおうと思って、一銭の金も使った覚えもございませんし、また、この話で自分が利益を得ようとも思っていません。むしろ自分では、長い間よけいな面倒がえただけだと思っています。ふとしたことで、この話が世間へ知れるようにならなかったら、こんなに拡まらずに済みましたのに……」と言っていた。
 しかし今では、彼女もこの物語を利用して、出来るだけ世の人びとのためになるように尽くそうと、ひそかに考えてきたと言っている。そうして、その以来、彼女はその考えを実行した。彼女の話によると、ある時は三十マイルも離れた所からこの物語を聞きに来た紳士もあり、またある時は一時いちじに部屋いっぱいに集まって来た人びとにむかって、この物語を話して聞かせたこともあったそうである。とにかくに、ある特殊な紳士たちはバーグレーヴ夫人の口からみな直接にこの物語を聞いたのであった。

 このことは私を非常に感動させたとともに、私はこの正確なる根底のある事実について大いに満足を感じている。そうして、私たち人間というものは、確実な見解を持つことが出来ないくせに、なぜに事実を論争しあっているのか、私には不思議でならない。ただ、バーグレーヴ夫人の証明と誠実とだけは、いかなる場合にも疑うことの出来ないものであろう。





底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について