漁師とそのおかみさんの話

グリム Grimm

矢崎源九郎訳




 むかしむかし、ひとりの漁師りょうしとそのおかみさんがおりました。ふたりは、海のすぐそばの小屋こやに住んでいました。漁師はまい日さかなつりにでかけました。あけてもくれても、魚つりばかりしていました。
 あるとき、漁師りょうしはつりざおのそばにすわって、きらきらかがやく水のなかをじっとのぞきこんでいました。漁師は、いつまでもすわったきりでした。
 と、とつぜん、つり糸が水底みなそこふかくぐんぐんしずんでいきました。漁師がさおをあげてみますと、大きなヒラメがかかっていました。すると、そのヒラメが漁師にむかっていいました。
「ねえ、漁師りょうしさん、おねがいだから、わたしを生かしておいてください。わたしは、ほんとうはヒラメではなくって、魔法まほうをかけられている王子おうじなんです。あなたがわたしをころしたところで、なんのやくにたちましょう。食べてもおいしくはありませんよ。どうかもういちどわたしを水のなかにいれて、にがしてください。」
「よしよし。」
と、漁師りょうしはいいました。
「そんなにいろいろいいたてなくてもいい。口のきけるヒラメなら、にがさずにおくもんかい。」
 こういって、漁師はきらきらかがやいている水のなかへ、もういちどさかなをはなしてやりました。ヒラメは水底みなそこへもぐっていきましたが、あとへ長いのすじをのこしていきました。そこで、漁師は立ちあがって、おかみさんのいる小屋こやにかえっていきました。
「おまえさん、きょうはなんにもとれなかったのかい。」
と、おかみさんがたずねました。
「うん、なんにもだ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「ヒラメを一ぴきとりはしたがな、そいつが魔法まほうをかけられた王子おうじだっていうもんだから、またにがしてやっちまった。」
「で、おまえさん、そいつになんにもたのまなかったの。」
と、おかみさんがたずねました。
「そうよ。」
と、漁師はいいました。
「いったい、なにをたのもうっていうんだい。」
「あきれたねえ。」
と、おかみさんがいいました。
「こんな小屋こやにいつまでも住んでるなんて、いやんなっちゃうよ。このなかはくさくって、むねがむかむかするじゃないの。小さなうちをひとつほしいっていやあよかったのに。もういっぺんいって、そのヒラメをよびだしてさ、わたしたちゃ小さなうちがほしいっていってごらんよ。きっと、くれるから。」
「それにしてもなあ――」
と、漁師りょうしはいいました。
「なんだって、もういっぺんいくんだい。」
「だってさ、おまえさん、そいつをつかまえて、またにがしてやったんだろ。だから、きっと、なんとかしてくれるさ。すぐいっといでよ。」
挿絵
 漁師りょうしは、それでもまだ気がすすみませんでしたが、おかみさんに反対はんたいしようとも思いませんので、海へでかけていきました。さっきのところへきてみますと、海はすっかりみどり色と黄色になっていて、もうきらきらひかってはいませんでした。
 漁師りょうしは海べに立って、こういいました。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
 すると、あのヒラメがおよいできて、いいました。
「なんです、おかみさんはなにがほしいっていうんです。」
「いやなあ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「おれはおまえをつったろう。だから、おまえになにかたのめばよかったと、女房にょうぼのやつがいうんだよ。あれはもうぼろ小屋ごやに住むのはいやで、小さなうちが一けんほしいんだそうだ。」
「おかえりなさい。おかみさんには、もううちができていますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 こういわれて、漁師が家にかえってみますと、おかみさんはもう小屋にはいませんでした。そこには小さな家が一けんたっていて、おかみさんは戸口のベンチにこしかけていました。おかみさんは漁師りょうしの手をとって、いいました。
「まあ、はいってごらん。まえよりはずっといいよ。」
 ふたりはなかへはいりました。家には、小さな玄関げんかんと、小さなりっぱな居間いまと、ベッドのおいてある小べやがありました。それに、台所だいどころ食堂しょくどうもあります。どのへやにもじょうとうの道具どうぐがそろっていて、入り用なものは、すずしんちゅうでまことにみごとにそなえつけができていました。さらに家のうしろには、ニワトリやアヒルのいる小さなにわもありましたし、いろんな野菜やさいや、くだものの木のうわっている、ちょっとした畑もありました。
「ごらんよ。」
と、おかみさんがいいました。
「わるくないじゃあないか。」
「まったくだ。」
と、漁師りょうしがいいました。
「ずうっとこのまんまでいてもらいたいもんだ。もう、これでいいとしてくらそうぜ。」
「まあ、よく考えてみようよ。」
と、おかみさんはいいました。
 それから、ふたりはなにか食べて、ベッドにはいりました。
 こうして、一週間か二週間は、うまいぐあいにすぎました。ところが、そのうちに、おかみさんがこんなことをいいだしました。
「ねえ、おまえさん、このうちはせますぎるよ。それにさ、にわだって畑だって小さすぎるよ。ヒラメは、もっと大きいうちだってあたしたちにくれられたろうにねえ。あたしゃ大きい石のおしろに住んでみたいよ。ヒラメのところへいって、お城をもらっといでよ。」
「あきれたなあ、おまえ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「このうちでたくさんじゃないか。なんだってお城に住みたいなんていうんだ。」
「なにいってんだい。いいから、いっといでよ。ヒラメにゃそのくらいのこと、いつだってできるんだよ。」
と、おかみさんがいいました。
「そいつあ、いけねえよ、おまえ。」
と、漁師はいいました。
「ヒラメはこのうちをおれたちにくれたばっかりじゃないか。いますぐいくなんて、おれはまっぴらごめんだ。そんなことをすりゃ、ヒラメだって気をわるくすらあ。」
「いいから、いってきてよ。」
と、おかみさんがいいました。
「そのくらいのこと、ヒラメならうまくやってのけるよ。よろこんでしてくれるさ。さあさあ、いっといでよ。」
 漁師りょうしは気がおもくて、いきたくはありませんでした。
「こいつは、どうもよくねえ。」
と、漁師はひとりごとをいいましたが、しかたなくでかけていきました。
 海にきてみますと、水の色はすっかりスミレ色とあい色と灰色はいいろになっていて、おまけにどろっとしていて、もうまえのようにみどり色や黄色ではありませんでした。でも、まだおだやかでした。
 漁師りょうしはそこに立って、いいました。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
「どうしたんです、おかみさんは、いったいなにがほしいんです。」
と、ヒラメがいいました。
「それがなあ。」
と、漁師りょうしははんぶんびくびくしながら、いいました。
「大きな石のおしろに住みたいっていうんだよ。」
「おかえりなさい。おかみさんは戸口に立っていますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 そこで、漁師りょうしはひきかえして、家へかえろうと思いました。ところが、もどってみますと、そこには大きな石のおしろがそびえています。おかみさんは、ちょうど階段かいだんの上に立っていて、いまなかにはいろうとしているところでした。おかみさんは漁師の手をとって、
「なかへおはいりよ。」
と、いいました。
 こういわれて、漁師りょうしがおかみさんといっしょになかへはいってみますと、おしろのなかには、大理石だいりせきをしきつめた、大きな入り口のがありました。そして、そこには召使めしつかいたちがおおぜいいて、大きなとびらをつぎつぎとあけてくれました。
 ぐるりのかべは、みんなぴかぴかひかっていて、美しい壁かけがかかっていました。へやのなかのいすやテーブルはきんでできていて、天井てんじょうからは水晶すいしょうのシャンデリアがさがっていました。そして、どのへやにもどの小べやにも、すっかりじゅうたんがしきつめてありました。しかもテーブルの上には、ごちそうや、とびきりじょうとうのブドウしゅが、いまにもテーブルをおしつぶしてしまいそうなくらい、いっぱいのせてありました。
 それから、おしろのうしろには大きなにわがあって、そこには馬小屋うまごやも牛小屋もありました。そして、りっぱな馬車ばしゃも、いく台かおいてありました。
 また、にも美しい草花や、おいしいくだものの木のうわっている、大きなすばらしい花壇かだんもありました。それにまた、たっぷり半マイル(一ドイツマイルは七・五キロメートル)はある遊園ゆうえんもあって、そこには大きなシカでも、小さなシカでも、ウサギでも、人のほしいと思うものは、なんでもおりました。
「どう、よかあない。」
と、おかみさんがいいました。
「まったくよ。」
と、漁師りょうしがいいました。
「ずうっとこのまんまでいたいもんだ。おれたちゃこのきれいなおしろに住むんだぞ。これでもう、いいとしようぜ。」
「まあ、よく考えてみようよ。」
と、おかみさんはいいました。
「とにかく、ねるとしようよ。」
 こうして、ふたりはベッドにはいりました。
 つぎの朝、おかみさんのほうがさきに目をさましました。ちょうどがあけたばかりのところでした。おかみさんは、ベッドのなかから、目のまえにひろがっているすばらしい土地をながめました。
 漁師りょうしはまだ手足をのばして、ねていました。すると、おかみさんはひじで漁師のよこぱらをつっついて、いいました。
「おまえさん、おきて、まどのそとを見てごらんよ。ねえ、あたしたち、ここらじゅうの王さまになれないもんかね。ヒラメのとこへいっといでよ。あたしたちゃ、王さまになりたいんだもの。」
「いやんなっちゃうなあ、おまえ。」
と、漁師りょうしがいいました。
「なんだって王さまになんかなりたいんだ。おれは王さまなんぞ、ごめんこうむる。」
「へえ、そうかい。」
と、おかみさんがいいました。
「おまえさんが王さまになりたくなけりゃ、あたしが王さまになるよ。ヒラメのとこへいってきとくれ。あたしゃ、王さまになりたいんだよ。」
「おどろいたなあ、おまえ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「どうしてまた、王さまになんかなりたいんだ。おれは、そんなこというのは、いやだよ。」
「なにがいやなのさ。」
と、おかみさんはいいました。
「ぐずぐずいわずに、さっさといってきとくれよ。あたしゃ、どうしたって王さまになるんだから。」
 そこで、漁師りょうしはでていきましたが、おかみさんが王さまになりたいなどというものですから、すっかりよわりきっていました。
(こいつはよくねえ。よくねえこった。)
と、漁師は思いましたので、いきたくはありませんでした。しかし、どうにもしかたなく、でかけていきました。
 海べへきてみますと、海はすっかり黒ずんでネズミ色をしていました。水はそこのほうからブツブツわきかえっていて、くさったようないやなにおいが、ぷんぷんしていました。
 漁師りょうしはそこに立って、いいました。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
「どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんです。」
と、ヒラメがいいました。
「それがなあ。」
と、漁師はいいました。
「王さまになりたいっていうんだよ。」
「おかえりなさい。おかみさんはもうのぞみどおりになっていますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 そこで、漁師りょうしはかえっていきました。おしろのそばまできてみますと、お城はまえよりもずっと大きくなって、大きな門にはすばらしいかざりがしてあります。とびらのまえには番兵ばんぺいが立っています。そこらじゅうに、おおぜいの兵隊へいたいがいて、たいこやラッパもたくさんありました。
 おしろのなかへはいってみますと、なにもかもがほんものの大理石だいりせききんをとりあわせたものばかりでした。ビロードのおおいには、大きな金のふさがついていました。
 大広間おおひろまとびらがあきますと、そこには宮中きゅうちゅうのお役人やくにんが、ひとりのこらず、いならんでいました。そして漁師りょうしのおかみさんは、金とダイヤモンドでできている高い玉座ぎょくざにすわり、大きな金のかんむりをかぶって、金と宝石ほうせきしゃくをもっていました。そして、おかみさんの両がわには、わかい侍女じじょがそれぞれ六人ずつ一れつにならんで立っていました。そのひとりひとりは、頭の高さだけじゅんじゅんにがひくくなっていました。
 漁師はおかみさんのまえまで歩いていきますと、立ちどまって、いいました。
「おやおや、おまえは王さまになったのかい。」
「そうだよ、あたしゃ王さまだよ。」
と、おかみさんはこたえました。
 漁師りょうしはそこにつっ立ったまま、おかみさんをじろじろながめていました。こうして、しばらくながめてから、漁師はいいました。
「なあ、おまえ、おまえが王さまたあ、すばらしいこった。もうこのうえのぞむのはよそうぜ。」
「それがねえ、おまえさん。」
と、おかみさんはちっともおちつかないようすで、いいました。
「あたしゃあ、すっかりあきあきしちまって、もうどうにもがまんができないんだよ。ヒラメのところへいってきとくれ。あたしゃ王さまなんだから、こんどは、どうしても皇帝こうていになりたいんだよ。」
「じょうだんじゃないよ、おまえ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「どうしてまた、皇帝になんかなりたいんだ?」
「おまえさん、ヒラメのとこへいってきとくれよ。あたしゃ、皇帝になりたいんだもの。」
「だがなあ、おまえ。」
と、漁師はいいました。
「ヒラメだって、皇帝こうていになんかするこたあできない。おれは、ヒラメにそんなこというのはいやだ。皇帝といやあ、国じゅうにひとりっきりしかいないもんだ。いくらヒラメだって皇帝をこしらえるこたあできない。どうしたって、そんなこたあできない。できやしないよ。」
「なんだって。」
と、おかみさんがいいました。
「あたしが王さまで、おまえさんはただの、あたしのおっとなんだよ。すぐいってくれるね。さあ、すぐいってきておくれよ。ヒラメは、王さまだってこしらえたんだもの、皇帝こうていだってこしらえられるさ。あたしゃ、どんなことをしても皇帝になりたいんだよ。すぐいってきておくれ。」
 漁師りょうしはどうしてもいかなければなりません。それで、でかけるにはでかけましたが、なんだか心配しんぱいで心配でなりませんでした。そして歩きながら、ひとりで考えました。
(こいつぁあ、よくねえ、よくねえことになるぞ。皇帝こうていたあ、あんまりあつかましすぎらあ。ヒラメだって、しまいにゃいやになっちまうぞ。)
 こんなことを考えながら、海べにきてみますと、海はまっ黒で、どろどろしていました。そして、そこのほうからブツブツわきかえりはじめましたので、たちまち、あわだらけになりました。しかもその上を、つむじ風がふきまくるものですから、水はちりぢりにちぢれました。このありさまを見て、漁師はおそろしくなりました。けれども、はまべに立って、いいました。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
「どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんですか。」
と、ヒラメがいいました。
「それがねえ、ヒラメさん、皇帝こうていになりたいっていうんだよ。」
と、漁師りょうしはこたえました。
「おかえりなさい。おかみさんはのぞみどおりになっていますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 そこで、漁師は家にかえりました。もどってみますと、おしろぜんたいが大理石だいりせきづくりになっていて、まっ白なせっこうの彫像ちょうぞうもおいてあれば、きんのかざりもついていました。
 とびらのまえでは兵隊へいたいたちが行進こうしんして、ラッパをふいたり、大だいこや小だいこをうちならしていました。お城のなかでは、男爵だんしゃく伯爵はくしゃく公爵こうしゃくが、家来けらいとしていったりきたりしていました。そしてその人たちが、純金じゅんきんでできているとびらをあけてくれました。
 漁師りょうしがなかにはいってみますと、おかみさんは玉座ぎょくざにすわっていました。その玉座は、ひとかたまりのきんでつくってあって、高さはたっぷり二マイルぐらいもありそうでした。そして、おかみさんは金のかんむりをかぶっていましたが、その高さがまた、三エレ(二メートル)ほどもあって、ダイヤモンドとルビーがちりばめてありました。それから、かたほうの手にはしゃくをもち、もういっぽうの手には皇帝こうていのしるしの、宝珠ほうじゅをもっていました。
 そのうえ、おかみさんの両がわには、近衛兵このえへいが二れつにずらっとならんでいました。それがまた、のたけ二マイルもある大男から、ひとりずつじゅんじゅんに小さくなって、おしまいはわたしの小指こゆびぐらいしかない小男までがならんでいるのでした。そのまえには、ちょうどおなじ数だけの公爵こうしゃく伯爵はくしゃくが立っていました。
 漁師りょうしはそのなかを歩いていって、まんなかに立ちどまって、いいました。
「おまえ、皇帝こうていになったのかい。」
「そうだよ、あたしは皇帝だよ。」
と、おかみさんはこたえました。
 それから、漁師はまた歩いていって、立ちどまりますと、おかみさんをつくづくながめました。しばらくこうしてながめてから、いいました。
「なあ、おまえ、おまえが皇帝こうていたあ、すばらしいこった。」
「おまえさん、なんだってそんなとこにつっ立ってるんだい。あたしゃ皇帝になったけど、こんどは法王ほうおうにもなりたいんだよ。ヒラメのとこへいってきとくれ。」
と、おかみさんがいいました。
「あきれてものもいえねえな。」
と、漁師りょうしはいいました。
「いったい、おまえがなりたくないってものは、ないのかい。法王ほうおうになんかなれっこねえよ。法王といやあ、キリストきょう世界せかいでたったひとりしかいないんだからな。いくらヒラメだって、法王はこしらえられねえよ。」
「おまえさん、あたしゃ法王ほうおうになりたいんだよ。さあ、はやくいってきとくれよ。あたしゃ、なんでもかんでもきょうのうちに法王になりたいんだもの。」
と、おかみさんがいいたてました。
「いやだよ、おまえ。」
と、漁師りょうしはいいました。
「おれは、そんなこというのはごめんだ。そいつはよくねえぜ。あんまりあつかましすぎるもの。ヒラメにだって、おまえを法王ほうおうにするなんてこたあ、できやしないよ。」
「おまえさん、なにをばかなこといってんだい。」
と、おかみさんがいいました。
皇帝こうていにすることができるんなら、法王にだってできるはずさ。さっさといってきとくれ。あたしゃ皇帝で、おまえさんは、ただのあたしのおっとなんだよ。すぐいってきてくれるかい。」
 こういわれますと、漁師りょうしはびくびくして、でていきました。けれども、からだの力がすっかりぬけてしまったようです。からだはがたがたふるえ、ひざふくらはぎはがくがくしていました。
 風が陸地りくちの上をビュウビュウふきまくっています。雲はのようにはやくとんでいます。日がくれかかって、あたりがくらくなってきました。が、木からバラバラとおちてきました。水はえくりかえるように、とどろきゆれて、バチャバチャと岸べをうっていました。
 遠くのほうに、いくそうかのふねが見えました。船はなみの上で、おどったりはねたりしながら、鉄砲てっぽうをうって、たすけをもとめていました。
 しかし、空のまんなかには、まだわずかながら青いところが見えました。そのまわりは、ひどいあらしのときのように、まっかでした。
 このありさまに漁師りょうしはすっかりおじけづいて、おどおどしながら、はまべに立って、いいました。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
「どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんですか。」
と、ヒラメがいいました。
「それがねえ。」
と、漁師りょうしはこたえました。
法王ほうおうになりたいっていうんだよ。」
「おかえりなさい。おかみさんはのぞみどおりになっていますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 そこで、漁師はかえっていきました。もどってみますと、こんどは、りっぱな宮殿きゅうでんでかこまれた大きな教会きょうかいのようなものがたっています。
 漁師りょうしが人ごみをおしわけていきますと、そのなかは、何千というあかりであかあかとてらされていました。おかみさんはきん衣装いしょうにつけて、まえよりもずっと高い玉座ぎょくざにすわり、大きな金のかんむりを三つもかぶっていました。
 そのまわりには、ぼうさんたちがおおぜいいました。それから、両がわには、ろうそくが二れつに立てられていました。そのなかのいちばん大きいのは、世界せかいでいちばん大きいとうぐらいもふとくて大きく、いちばん小さいのは台所だいどころまめろうそくぐらいしかありませんでした。
 皇帝こうていや王さまがひとりのこらずそこにいて、おかみさんのまえにひざまずいて、そのくつにせっぷんしていました。
「おまえ――」
と、漁師りょうしはいって、おかみさんをじろじろながめました。
法王ほうおうになったのかい。」
「そうだよ、あたしは法王だよ。」
と、おかみさんはいいました。
 それから、漁師はそばへあゆみよって、おかみさんをじいっと見つめました。そのようすは、まるで明るいお日さまを見ているようでした。こうして、しばらく見つめてから、いいました。
「なあ、おまえ、おまえが法王ほうおうたあ、すばらしいこった。」
 けれども、おかみさんは、まるで木のようにしゃちほこばって、身動みうごきひとつしません。
 そこで、漁師りょうしはいいました。
「おまえ、もうこれでいいとしろよ。おまえは法王ほうおうなんだぞ。もうこれいじょうのものにはなれやしねえ。」
「まあ、よく考えてみるよ。」
と、おかみさんはいいました。
 こうして、ふたりはベッドにはいりました。けれども、おかみさんはまだ満足まんぞくしてはいませんでした。おかみさんはよくかわがつっぱって、どうしてもねむることができません。こんどはなんになってやろうかと、そんなことばかり考えていたのです。
 漁師りょうしのほうは、すぐにぐっすりとねむりこんでしまいました。むりもありません。一日じゅうかけずりまわったんですからね。
 ところがおかみさんのほうは、どうにもねむることができず、ひとばんじゅう、ごろごろねがえりばかりうっていました。そして、こんどなれるのはなんだろうと、いっしょうけんめい考えていましたが、なにひとつ思いつくことができませんでした。
 そうしているうちに、とうとう、お日さまがのぼりだしました。おかみさんは東の空が明るくなってくるのを見ますと、ベッドのはしにからだをおこして、そっちのほうをじっとながめていました。こうして、まどのそとにお日さまがのぼってくるのを見ますと、おかみさんは、
(ふん、あたしにも、お日さまやお月さまをのぼらせることはできないもんかね。)
と、こんなことを考えました。
「おまえさん。」
と、おかみさんはいいながら、漁師りょうしのあばらぼねをひじでつつきました。
「おきて、ヒラメのとこへいってきとくれ。あたしゃかみさまになりたいんだよ。」
 漁師はまだねぼけまなこでいましたが、びっくりぎょうてんして、ベッドからころげおちました。そして、じぶんがききちがえたのではないかと思って、目をこすりこすり、
「ねえ、おまえ、いまなんていったんだい。」
と、たずねました。
「おまえさん。」
と、おかみさんはいいました。
「あたしゃあね、じぶんでお日さまやお月さまをのぼらせることもできないで、お日さまやお月さまがのぼっていくのを、ただぼんやりながめているだけじゃ、どうにも承知しょうちができないんだよ。じぶんでのぼらせることができないようなら、もう一時間だっておちついちゃいられないよ。」
 こういって、おかみさんはおそろしい顔をして漁師りょうしをにらみつけたものですから、漁師はふるえあがってしまいました。
「さあ、さっさといってきとくれ。あたしゃかみさまになりたいんだよ。」
と、おかみさんがいいました。
「なあ、おまえ。」
と、漁師りょうしはいって、おかみさんのまえにひざまずきました。
「そんなこたあ、ヒラメにゃできやしないよ。皇帝こうてい法王ほうおうにならすることもできるけどさ。おねがいだから、このまま法王でがまんしていてくれよ。」
 それをききますと、おかみさんはものすごくはらをたてました。かみはさかだってぼうぼうになり、むねははだけました。そうして、漁師をけとばして、さけびました。
「あたしゃあ、もうがまんできない。もうこれっぱかしもがまんできない。おまえさん、いってくれるかい。」
 そこで、漁師りょうしはあわててズボンをはいて、気がくるったようにかけだしました。
 ところが、おもては、ものすごいあらしがあれくるっていましたので、漁師はほとんど立っていることもできないくらいでした。
 家や木ぎはひっくりかえり、山やまはぐらぐらゆれて、岩はごろごろと海のなかにころがりおちました。空はまっ黒で、かみなりがとどろきわたり、いなびかりがぴかぴかひかっていました。海は教会きょうかいとうか山ぐらいもあるまっ黒な大波おおなみをもりあげていました。その大波のひとつひとつのてっぺんには、白いかんむりのようにあわがわきたっていました。
 漁師りょうしは大声をはりあげてどなりましたが、じぶんの声もきこえないくらいでした。
小人こびとさん 小人さん きておくれ
ヒラメさん 海のヒラメさん
おれの女房にょうぼのイルゼビルが
おれの思うようにならんのだ
「どうしたんです、おかみさんはなにがほしいっていうんですか。」
と、ヒラメがいいました。
「それがねえ、かみさまになりたいっていうんだよ。」
「おかえりなさい。おかみさんは、もとのぼろ小屋ごやのなかにいますよ。」
と、ヒラメがいいました。
 ふたりは、それからずうっと、いまでも、その小屋のなかにすわっていますよ。





底本:「グリム童話集(1)」偕成社文庫、偕成社
   1980(昭和55)年6月1刷
   2009(平成21)年6月49刷
※表題は底本では、「漁師りょうしとそのおかみさんの話」となっています。
入力:sogo
校正:チエコ
2020年10月28日作成
2023年9月6日修正
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