すでに今から二十五年ほど前、私がこの小さな『ベートーヴェンの生涯』を書いたあの頃、私は音楽学(ミュジコロジー)的な著作をしようとしたのではなかった。それは一九〇二年であった。破壊し更新する幾多の嵐に富む、紆余曲折の一時期を私はくぐり抜けつつあった。私はパリから飛び出して、十日のあいだ、ベートーヴェンのもとに隠れ家を求めに行った。私の子供のとき以来、彼は私の生活のための道づれであり、生の戦いの中で私は一度ならず彼によって支えられて来ていた。私はボンのベートーヴェンの家を訪れて、そこで、亡き彼のおもかげに触れ、彼の親友らと相まみえた。コブレンツのヴェーゲラー家をおとずれて、ベートーヴェンの親友だったヴェーゲラーの孫たちに会い、マインツでは、ヴァインガルトナーの指揮するベートーヴェン・シンフォニー諸曲の音楽祭 Musikfest を聴いた。雨しげき四月の灰いろの日々に、霧に包まれたラインの川岸で、ただベートーヴェンとだけ、心の中で語り合い、彼に自分の思いを告白し、彼の悲しみと彼の雄々しさと、彼の
私自身のことをくだくだしく述べたのを許していただきたい。それは、このベートーヴェン賛歌の中に、歴史学の厳密な方法に従っている一つの学問的な著述を求めようとする今日の人々の要求に対して私は答弁をしておかなければならないからである。私は歴史家である。しかしそれは私が歴史家であるべき時においてのことである。いくつかの著述によって私は音楽学のために厳正な貢を支払った。すなわち、私の『ヘンデル』や、オペラに関する私の著述の中で。しかしこの『ベートーヴェン』は
世界がこの『ベートーヴェン』をつかんだ。このささやかな本が少しも予期しなかった一つの幸運を、世界がこの本に与えた。この本が世に出た当時には、フランスの数百万の人々からなる一世代――自己の理想精神が抑圧されているのを感じている一世代が存在していて、この人々は、彼らの精神に解放の力が来るのを心待ちに待っていた。そういう解放の言葉を、彼らはベートーヴェンの音楽の中に見いだして、彼らはそれをこの本にも求めに来たのである。あの当時を体験して今も生き残っている人々は誰しも、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の音楽会の印象を今も思い出すであろう。それはまるで、アグヌス〔(訳注――神の仔羊――万人のための犠牲を象徴するキリスト)〕の祈りがいわれる瞬間の教会のようであり、聴衆の悲痛な表情は、ベートーヴェンの音楽が辿る悲しみの聖なる道筋について行きながら、その道筋の意味の啓示から来る反映に照り輝かされていた。今生きている人々は、昨日生きていたあの人々から遠ざかっている。(しかし昨日のあの人々は、明日生きるであろう人々に、かえっていっそう近しいのではあるまいか?)二十世紀初頭のあの世代の人々の多数が薙ぎ倒された。戦争が一つの淵を掘り、その淵の中に、彼らと、そして彼らを継承していた最良の人々が消え失せたのである。私のこの小さな『ベートーヴェンの生涯』の中には、消え失せた彼らの魂のおもかげが宿っている。一人の孤独者によって書かれたこの本は、この本自身少しもそうだとは意識しないままに、あの人々に似ていた。そしてあの人々は、この本の中に彼ら自身を認めた。無名の著者によって書かれ名もなき出版所から出た小冊子が、まもなく手から手へと渡された。そして今ではもうこの本は私の
この本を私は再読してみたところである。そして私は、この本の不完全さを認めるにもかかわらず、少しもこれを書き変えはしないであろう*。なぜならこの本は、当初の性格と、そしてあの偉大な一世代の神聖なおもかげとを保存していなければならないから。今、ベートーヴェン百年祭に際会して、生きることと死ぬこととを私たちに教えてくれた彼、
一九二七年三月
ロマン・ロラン
* 著者はベートーヴェンの芸術および彼の創造的人格についての研究へ、いっそう正確な史的および技術的性格を持つ別の著作を献げるつもりである。
[#改丁]善くかつ高貴に行動する人間はただその事実だけに拠っても
不幸を耐え得るものだということを私は証拠だてたいと願う。
ベートーヴェン
一八一九年二月一日・ヴィーン市庁宛の書簡より
空気は我らの周りに重い。旧い西欧は、毒された重苦しい雰囲気の中で麻痺する。偉大さの無い物質主義が人々の考えにのしかかり、諸政府と諸個人との行為を束縛する。世界が、その分別臭くてさもしい利己主義に浸って窒息して死にかかっている。世界の息がつまる。――もう一度窓を開けよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹を吸おうではないか。
生活は厳しい。魂の凡庸さに自己を委ねない人々にとっては、生活は日ごとの苦闘である。そしてきわめてしばしばそれは、偉大さも幸福も無く孤独と沈黙との中に戦われている憂鬱なたたかいである。貧と、厳しい家事の心配と、精力がいたずらに費える、ばかばかしくやりきれない仕事に圧しつけられて、希望も無く悦びの光線もない多数の人々は互いに孤立して生き、自分の同胞たちに手を差し伸べることの慰めをさえ持っていない。その同胞たちも彼らを識らず、彼らもまたその同胞たちを識らない。彼らはただ自分だけを当てにするのほかはない。そして最も強い人々といえども、その苦悩の下に挫折するような瞬間があるのである。彼らは一つの救いを、一人の友を呼んでいる。
善のために悩んだ偉大な魂の人々、雄々しい「友ら」の一群を人々の周りに据えようと私が企てるのは人々に助力を贈るためである。「卓越せる人々の生涯」のこの一群は、野心家たちの慢心へ語りかけるためではない。これらの伝記は不幸な人々に捧げられる。しかも煎じ詰めればいったい誰が不幸でないであろうか? 悩める人々に、聖なる苦悩の香油を捧げようではないか。われらは戦いにおいて孤独なのではない。世界の闇は神々しい幾つかの光によって照らされた。今日でも我らの身の近くに、最も浄らかな二つの炎、正義の炎と自由の炎とが
彼らに従って前進しよう。またあらゆる国々あらゆる世紀の中で、彼らのごとく孤立して散在しつつ戦うあらゆる人々にしたがって前進しよう。時間の障壁を取り除こう。英雄たちの種属を復活させようではないか。
思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心に拠って偉大であった人々だけである。彼らの中の最大な一人、その生涯を今ここに我々が物語るところのその人がいったとおりに「私は
ここにわれわれが物語ろうと試みる人々〔(訳注――ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイ、画家ミレーらの伝記が書かれた)〕の生涯は、ほとんど常に永い受苦の歴史であった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的なまた精神的な苦痛、病気や不幸やの
この雄々しい軍団の先頭にまず第一に、強い純粋なベートーヴェンを置こう。彼自身その苦しみの只中にあって希念したことは、彼自身の実例が他の多くの不幸な人々を支える力となるようにということであり、「また、人は、自分と同じく不幸な一人の人間が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、人間という名に値する一個の人間となるために全力を尽したことを識って慰めを感じるがいい」ということであった。超人的な奮闘と努力との歳月の後についに苦悩を克服し天職を――その天職とは彼自身の言葉によれば、憐れな人類に幾らかの勇気を吹き込むことであったが――天職を完うすることができたときに、この
彼のこの誇らしい言葉からわれわれ自身の霊感を汲み採ろう。彼の実例によって、人生と人間とに対する人間的信仰をわれわれ自身の内部に改めて生気づけようではないか。
一九〇三年一月
ロマン・ロラン
[#改ページ]
Woltuen, wo man kann,
Freiheit ber alles lieben,
Wahrheit nie, auch sogar am
Throne nicht verleugnen.
BEETHOVEN.
(Albumblatt 1792.)
能うかぎり善を行ない
何にも優りて不羈 を重んじ
たとえ王座の側にてもあれ
絶えて真理を裏切らざれ
ベートーヴェン
(一七九二年、記念帳)
[#改ページ]Freiheit ber alles lieben,
Wahrheit nie, auch sogar am
Throne nicht verleugnen.
BEETHOVEN.
(Albumblatt 1792.)
能うかぎり善を行ない
何にも優りて
たとえ王座の側にてもあれ
絶えて真理を裏切らざれ
ベートーヴェン
(一七九二年、記念帳)
彼は広い肩幅を持ち力士のような骨組みであったが、背が低くてずんぐりしていた。顔は大きくて
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは一七七〇年十二月十六日に、ケルン市に近い、ライン河畔ボン市の貧しい家の見すぼらしい屋根裏部屋に生まれた。先祖はフランドルの家系であった(5)。彼の父は不聡明な、そしていつでも酒に酔っぱらっている
つらい子供時代――そこには、いっそう幸運なモーツァルトの幼時を取り巻いていたような家庭的な愛情の雰囲気が無かった。最初からすでに彼にとっては人生は悲しく冷酷な戦いとして示された。父は彼の音楽の才を利用して、神童の看板をくっつけて子供を食いものにしようとした。彼が四歳になると父は日に数時間もむりやりにクラヴサンを弾かせたり、ヴァイオリンを持たせて一室に閉じ込めておいたり、過度な音楽の勉強を強いた。子供はもう少しで徹頭徹尾音楽が嫌いになるところだった。ベートーヴェンにそれを習わせるには暴力を用いねばならなかった。少年時代は物質上の心配、パンを稼ぐ
ベートーヴェンの幼時がそんなに悲しいものであったにもせよ、彼は常にその幼時に対して、またその幼時の日々が過ごされた幾多の場所に対して、優しさとメランコリーとの籠もった追憶の思いを持ちつづけていた。ボンを離れて、ほとんど全生涯をヴィーンで――軽佻なこの大都会とその陰気な場末で暮らさなければならなかったとはいえ、彼は、ラインの谷間を、威容のある父親らしい大河、彼がそう呼び慣れていた「われらの父ライン」unser Valter Rhein をけっして忘れはしなかった。実際この河はほとんど人間のように生きており、さまざまの思想や無数の精力がそこを横切る雄大な一つの魂に似ているのであるが、しかもラインは精美なボンの町においてこそ最も美しく強くかつ優しい。
「革新」が勃発していて、次第にそれは西欧を浸し始めていた。それはまたベートーヴェンの心をとらえた。ボン大学はあたらしい考えの炉であった。ベートーヴェンは一七八九年の五月十四日にこの大学の聴講生となる届を出してドイツ文学の講義を聴いた。教授は有名なオイロギウス・シュナイダーであった。(後に低部ライン地方検察官。)バスチーユ占領の報がボンにつたわったときシュナイダーは講壇で熱烈な詩を朗読して学生たちを感激させた。翌年彼は革新的な詩集を出したがその予約申込者の中に、ホーフムージクス・ベートーヴェンの名とブロイニング家の名があった。
一七九二年十一月にベートーヴェンがボンを発ったのはちょうど戦乱がボンへ侵入して来たのと入れ違いだった。彼は、当時のドイツの音楽首都であったヴィーン市に落ちついた(10)。ヴィーンへ赴く途次、彼は、フランスに向かって進軍するヘッセンの軍隊に行き遭った。彼は確かに愛国的感情に憑かれた。一七九六年と九七年とに、彼はフリートベルク作の二つの戦争詩を作曲した。一つは『出征に際してのヴィーン市民への告別の歌』であり、他は合唱歌『われらは偉大なるドイツの民』である。しかし彼が「革新」の敵たちを歌おうとする努力は甲斐なきことであった。「革新」は世界を征服し、またベートーヴェンをも征服したからである。一七九八年以後、オーストリアとフランスとの関係は緊張していたにもかかわらずベートーヴェンはフランス人たちとの、フランス大使や、ちょうどヴィーンへ到着したばかりのベルナドット将軍との親密な関係に入った。ベルナドットの一行中に提琴家のクロイツァーがいた。それが後年あのすぐれた『クロイツァー・ソナータ』をベートーヴェンが献呈した提琴家なのである。こんな交遊からベートーヴェンの心には共和主義的な感情が形作られ始めた。そしてその感情の強大な展開を、われわれは彼のその後の全生涯の中に見るのである。
この時期の彼を描いたシュタインハウザー作の素描画像は当時の彼の姿をかなり良く示している。その後のさまざまなベートーヴェンの肖像に比較してみるとあたかもゲラン作のボナパルトの肖像、あの野心的情熱に噛まれている鋭い表情の画像が他のいろいろなナポレオン像に対して持つ関係と似通うところがある。この像ではベートーヴェンは年齢よりも若く見え、痩せて、首を真直ぐにして、高い襟飾りの中で硬ばり、油断の隙を見せぬ緊張した眼つきをしている。彼は自分の価値を自覚している。彼は自己の力を信じている。一七九六年に手帳の中にこう書いた――「勇気を出そう。肉体はどんなに弱くともこの精神でかって見せよう。いよいよ、二十五歳だ。一個の男の力の全部が示さるべき年齢に達したのだ(11)。」フォン・ベルンハルト夫人およびゲーリンクのいっているところによると、彼ははなはだ尊大で、がむしゃらで憂鬱で、それにまたひどい国なまりで話していた。しかし最も親密な友人たちだけは、ベートーヴェンの霊妙な親切さを――尊大に見える不器用な態度の背後に隠れていた親切さを識っていたのである。あるとき彼がヴェーゲラーに自分の音楽会の大きな成功の模様を知らせたとき、まず第一に彼の思いついた考えというのはこうであった――「たとえば今、一人の困窮している友に僕が出逢うとする。僕の財布が即座に彼を助力してやれないとすれば僕は自分の机に向かって坐りさえすればいい。たちまちにその友人は助かるわけだ。……これは素敵な状態だといえるではないか……(12)」また、同じ手紙の少し先でこういっている。「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ。」Dann soll meine Kunst sich nur zum Besten der Armen zeigen.
悲哀はすでに彼の扉をたたきつつあった。それはベートーヴェンの内部に住みかを定め、そしてもはや再び立ち退こうともしなかった。一七九六年と一八〇〇年の間に聾疾はその暴威を振いはじめた(13)。夜も昼も耳鳴りが絶えなかった。そして彼はまた腸の疾患に始終なやまされた。聴覚はしだいに弱くなって行った。数年のあいだは、誰にも、最も親しい友人にも、彼はそれを打ち明けなかった。自分の致命的な病患を人に気づかれないために人々を避けて、この恐るべき秘密をひた隠しにかくしていた。しかし一八〇一年に至ってもはや隠し切れなくなった。彼は絶望をもって、
「親しい、善良な、親切なアメンダ……君が僕の傍にいてくれたらと僕はどんなにたびたび願うか知れない。君の友ベートーヴェンは自然と造物主とからの不遇のためひどく不幸になっているのだから。僕の最も大切な部分、僕の聴覚が著しくだめになって来たのだ。君が僕の傍にいた頃、僕は実はすでにその兆候を感じてはいたがそれを口に出さなかった。ところがますますわるくなるばかりだ。癒るだろうか? むろんそれを期待してはいるがよほどむつかしい。こんな病気は最も癒りにくい。僕は何と悲しく生きなければならないことか! 僕の愛する親しい者の一切を避けながら、くだらない利己的な人々の中で生きなければならないとは! 悲しい諦念――それを僕は自分の隠れ家としなければならないのだ。これら一切の不幸を超越した立場へ自分を置こうとしてもちろん僕は努めてはみた。しかしどうしたらそれが僕にできるだろうか……(14)」
またヴェーゲラーに宛てて――「……僕は惨めに生きている。二年以来、人々の中へ出ることを避けている。人々に向かって、僕は聾なのだ、と告げることができないために。僕の職業が他のものだったらまだしもどうにかいくだろうが、僕の仕事では、これは恐ろしい状況だ。僕の敵たちが知ったらどんなことをいうか知れはしない。しかも敵の数は少なくはないのだ!……〔僕の聾のひどさを君に知らせるために一例を挙げてみるなら〕僕は劇場で役者の言葉を聴くためにはオーケストラにくっついた座席にいなければならない。少し離れているともう楽器や歌声の高い調子の音は聞こえない。低い声で話す人の声もときどきほとんど聞こえないことがある。――しかも誰かが叫び声を立てると、それも僕には耐え難いのだ。……すでにたびたび僕は造物主と自分の存在とをのろった。……プルタークを読んで僕は諦念へみちびかれた。できることなら僕はこの運命に戦い克ちたいのだが、しかし僕は自分をこの世で神の創った最も惨めな人間だと感じる瞬間がたびたびあるのだ……諦念! 何という悲しい避難所だろう! しかもこれが僕に残されている唯一の避難所なのだ(15)!」
この悲劇的な悲しみは、その時期の幾つかの作品にあらわれている『
肉体の苦痛にさらに別の厄災がつけ加わった。ヴェーゲラーはいっている、彼が知るかぎりにおいてベートーヴェンは絶えまなく恋愛の熱情につかまれていた、と。これらの恋愛は常にきわめて純潔なものであったようである。情熱と逸楽との間に何の関係もなかった。この両者を
一八〇一年に彼の情熱の対象はジュリエッタ・グィッチャルディであったらしい。彼は、いわゆる「月光曲」と呼ばれる作品二十七番の有名なソナータ(一八〇二年)をこの人に捧げることによってこの女性を不滅化した。「僕の生活は今までよりも優しみのあるものになった」とヴェーゲラーに宛てて書いた。「僕はいっそう人々になじむようになった。……一人のなつかしい少女の魅力が、僕をこんなふうに変わらせたのだ。その人は僕を愛しているし、僕もその人を愛している。二年この方はじめての幸福の幾瞬時を僕は持っている(16)。」ところで彼はこの幸福の幾瞬時に対してやがて辛い代償を支払うことになる。最初からこの恋は彼に、自分の病身の惨めさと、そして愛する人との結婚を不可能にする不安定な生活状態とをますます痛感させた。それにジュリエッタはコケットで幼稚で利己主義であった。彼女は残酷にベートーヴェンを苦しませた。そして一八〇三年の十一月にガルレンベルク伯爵と結婚してしまった(17)。こんな熱情は魂を
「私を支えて来た最も高い勇気も今では消え失せた。おお、神のみこころよ。たった一日を、真の歓喜のたった一日を私に見せて下さい。真の悦びのあの深い響きが私から遠ざかってからすでに久しい。おお、わが神よ。いつ私は再び悦びに出遭えるのでしょう?……その日は永久に来ないのですか?……否、それはあまりに残酷です!」
これは絶体絶命の呻きである。しかもベートーヴェンはその後なお二十五年生きながらえるであろう。彼の生来の頑強さは、試練の重みの下に圧しつぶされることを承服しはしなかった。「僕の体力も知力も、今ほど強まっていることはかつてない。……僕の若さは今始まりかけたばかりなのだ。一日一日が僕を目標へ近づける、――自分では定義できずに予感しているその目標へ。おお、僕がこの病気から治ることさえできたら、僕は全世界を抱きしめるだろうに!……少しも仕事の手は休めない。眠る間の休息以外には休息というものを知らずに暮らしている。以前よりは多くの時間を睡眠に与えねばならないことさえ今の僕には不幸の種になる。今の不幸の重荷を半分だけでも取り除くことができたらどんなにいいか……このままではとうていやりきれない。――運命の喉元をしめつけてやる。断じて全部的に参ってはやらない。おお、人生を千倍にも生きられたらどんなにいいか(20)!」
この愛情、この苦悩、この意志力、そして失意と誇りとのこの交替、内心のこれらの悲劇が、一八〇二年に書かれた大きい作品の中に現われている。すなわち、『葬送曲のついたソナータ』(第二十六番)、第二十七番の二つのソナータ(幻想風のソナータと月光曲)、また、絶望に向かっての広大な独白のような感じのする劇的な
人はこれらの作の大多数を聴くときにベートーヴェンの行進的な旋律と戦闘的な旋律との強さと迫力とに打たれる。とりわけ『第二交響曲』のアレグロとフィナーレとの中に、さらにまた『アレクサンダー皇帝にささげたソナータ』のはなはだ雄々しい第一楽章の中にそれが感じられる。この音楽の特性である或る種の戦士的性格は、この音楽の生まれ出た時期を思わせるものがある。革新がヴィーンにまで到達していた。ベートーヴェンはそれに心をさらわれていた。「親しい人々のあいだで」と、
ベートーヴェンは突如『第五交響曲』の作曲を中途で停滞させた。それは、下書きを幾つも作る彼の平生のやり方をしないで一気呵成に『第四交響曲』を書くためであった。幸福が彼の前に現われかけていた。一八〇六年の五月に、彼はテレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(25)と婚約したのである。テレーゼはずっと以前から彼を愛していた。――それはベートーヴェンが初めてヴィーンに来た頃、ピアノの稽古を彼から受けていた少女時代以来のことである。ベートーヴェンは彼女の兄、フランツ伯の友人であった。一八〇六年にハンガリアのマールトンヴァーザールで彼はブルンスヴィック家の客となったが、その時期にベートーヴェンとテレーゼとの間の愛情は深まった。幸福なこれらの日々の思い出は、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックの書いた二、三の話の中に記されてある(26)。「或る日曜日の夕方、食後、月の光の中でベートーヴェンはピアノに向かって坐った。まず最初手を鍵盤の上に平たく置いた。フランツと私とはこれがベートーヴェンの習慣であることを良く識っていた。彼は弾き始めるときいつでもそうするのであった。それから低音の幾つかの
この年に書かれた『第四交響曲』は、彼の全生涯の最も静穏なこれらの日々の薫りをとらえて漂わせている浄らかな一つの花である。そこに人が「先人たちから手渡された音楽諸形式の中で広く知られかつ好まれているものと彼自身の独自の天才とをできるかぎりよく調和させたいと思う当時のベートーヴェンの意向(28)」を見て採ったことは正当なことである。恋愛に起因して生まれたこの調和的な意向は、また彼の動作や生活ぶりにも影響を及ぼしていた。イグナッツ・フォン・ザイフリートとグリルパルツァーとのいうところによると、ベートーヴェンは陽気さに充ち溌剌として嬉しげで、才気煥発の風を示し、社交界の中で慇懃であり、面倒くさい連中に対しても気永に応対し、
この深い静穏も永続する運命を持たなかったが、それでも恋愛の幸福な影響力は一八一〇年に至るまでつづいていた。彼の天才からその頃の最も完璧な幾つかの果実を作らせたところの自己統御のちからを確かにベートーヴェンはあの恋愛に負うている。すなわち古典的悲劇というべき『第五交響曲』や、夏のひと日の神々しい夢想である『田園(第六)交響曲(30)』やが、その果実であり、そして、また、シェイクスピアの『
「わが天使、わが
私の心はあなたに伝え得ないほど満ち溢れている……おお、私がどこにいても、あなたは私と共にいる。……おそらく日曜日が来るまでは私からの消息をあなたがお受け取りにはなるまいと考えると私は泣けてくる。――あなたが私を愛して下さるだけ、いや、それよりもずっと強く私は貴方を慕っている……ああ! あなたに逢わずに生きているこの生活は味気無い!――(あなたは)こんなに近いのに、こんなに遠い!――……私の想いはあなたに向かって飛ぶ、不滅の、わが恋人よ(meine unsterbliche Geliebte)私の想いはときおり歓ばしくてやがて悲しくなり、運命に問いかけ、運命が私たちの望みを叶えてくれるかと尋ねながら飛ぶ。――私はあなただけと共に生きるか、まったく生きないかどちらかだ。……あなた以外の
どんな秘かな原因が、愛し合っているこの二人の幸福への道を妨げることになったのであろうか?――おそらくは、ベートーヴェンの側の財産の欠如、二人の身分の相違。おそらくはまた、ベートーヴェンがいつまでも待ちぼけを喰わされて、愛を秘密にしておかねばならぬ屈辱に
おそらくはまた、がむしゃらで病身で厭人的な彼が不本意にも、愛する彼女を苦しめて、みずから絶望に陥ったのかも知れない。――婚約は破棄された。しかも、二人ともにいつまでもその愛情を忘れることができなかったように見える。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックは(一八六一年まで存命していたが)その生涯の最期の日までベートーヴェンを愛していた。
ベートーヴェンも一八一六年にいった――「彼女のことを考えると、僕の心臓は、初めて逢った日と同じくらいに強く
彼は手記の中に書いた――「忍従、自分の運命への痛切な忍従。お前は自己のために存在することをもはや許されていない。ただ他人のために生きることができるのみだ。お前のために残されている幸福は、ただお前の芸術の仕事の中にのみ有る。おお、神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい!」
かくして彼は恋愛に見捨てられた。一八一〇年には彼は孤独になっていた。しかし名声がやって来た。そしてまた自己の力への自覚も来た。彼は屈強な力を身内に感じる年齢に達した。もはや世間にも習慣にも他人のおもわくにも気兼ねせず、何ごとをも頓着せず、荒く烈しい自己の天性のままに振舞った。何を
「王様や君侯は教授先生や枢密顧問官を作って、彼らに肩書や勲章やをたくさんお与えになることはできる。しかし偉大な人物を、――うごめく人間群から抜きん出ている精神を、拵えるというわけにはいかない。――私とゲーテのような二人の人物が
この時期に(一八一二年)『第七』と『第八』の交響曲が、テプリッツ滞在中に数カ月間に書かれた。『第七』は「
一八一四年はベートーヴェンの名声が高潮に達した年であった。ヴィーン会議において、彼は全ヨーロッパの一光栄として遇せられ、祝祭には積極的に参与して、王侯たちは彼に頌敬を贈り、彼自身は誇りかに(それをシンドラーに向かって自慢したとおりに)人々がもてなすがままになっていた。
彼は独立戦争に心を奪われていた(43)。一八一三年には一交響曲『ウェリントンの戦勝』(作品第九十一)を書き、一八一四年の初めには、『ゲルマニアの復活』の戦闘的な合唱を書いた。一八一四年十一月二十九日には王侯たちを聴衆として、愛国的な
† 訳者注――「大気の国」を、ロランは最近(一九三八年三月)の研究の中では songe(夢想)の国とフランス語訳している。そして、このベートーヴェン的ソンジュ、魂の夢、いわば内面性の特徴は、ロランが最近のベートーヴェン研究において最も力を入れている題目の一つであって、たとえば作品第百六番のピアノ・ソナータの解釈などにそれが現われている。
この光栄の時期に相継いで、最も悲しく最も惨めな時期が来る。
ヴィーンの町がベートーヴェンに対して真の同感を持ったことは、実は一度も無いのであった。彼のように衿恃を持った
遺憾ながら実現が約束に呼応しなかった。この年金の支払いはつねにはなはだ不規則であった。そして間もなくまったく停止された。それにまた一八一四年のヴィーン会議ののち、ヴィーンの特徴も変化した。人々は政治に心を奪われて芸術を忘れた。音楽への好みはイタリア派のために毒せられた。そして、すっかりロッシーニにかぶれた新流行が、ベートーヴェンを固陋な
ベートーヴェンの味方であり擁護者であった人々は、そのあいだに散り散りになったり死んだりした。キンスキー公は一八一二年に、リヒノフスキーは一八一四年に、ロプコヴィッツは一八一六年に歿した。ベートーヴェンが作品第五十九番のすばらしい
聾疾は完全に進んでしまった(50)。一八一五年の秋からは、他人と筆談で語るよりほか仕方がなくなった。筆談帳の最初のものは一八一六年である(51)。一八二二年の、歌劇『フィデリオ』上演のときの、シンドラーの書いたあの悲しい物語は有名なものである――
「ベートーヴェンは総試演を指揮することを望んでいた。……しかもはや最初の
二年のちの一八二四年五月七日に、『第九交響曲』すなわち『合唱を伴える交響曲』を指揮したとき(むしろ、その時のプログラムに書いてある言葉によれば「演奏の方針に参与した」とき)彼に喝采を浴びせた会場全体の雷鳴のようなとどろきが、彼には少しも聴こえなかった。歌唱者の女の一人が彼の手を取って聴衆の方へ彼を向けさせたときまで、彼はまったくそのことを感づきさえしなかった。突然彼は、帽子を振り拍手しながら座席から立ち上がっている聴衆を眼の前に見たのだった。――一八二五年頃に、ベートーヴェンがピアノを弾いているのを見た英国の一旅行者ラッセルのいうところによると、ベートーヴェンが静かに弾いているつもりのとき、音は少しも鳴ってはいなかった。そして、ベートーヴェンを生気づけている感動の様子を、彼の表情と力をこめている指とに見つめつつ、しかも音楽は少しも鳴っていないその光景の中にいると、胸をしめつけられるような気持がしたという。
自己の内部へ閉じこもり(53)、一切の人々から切り離された彼は、ただ自然の中に浸ることだけを慰めとした。「自然がベートーヴェンの唯一の友であった」とテレーズ・フォン・ブルンスヴィックはいっている。自然が彼の安息所であった。一八一五年に彼を識ったチャールズ・ニートがいっているが、彼は、ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を完全に愛する人間を見たことがなかった(54)。自然はベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。「私ほど田園を愛する者はあるまい」とベートーヴェンは書いている「私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する……」〔「……森や樹々や巌が返し与える
彼を圧しつけていたいろいろな窮迫から、彼はこんな散歩によって息をついた(55)。彼は金のための苦労に悩まされていた。一八一八年に彼は書いた「ほとんど乞食をしなければならないほどになっているが、困っていないかのようなふうを装わねばならぬ。」さらにいっている――「作品第百六番の
彼は心に溢れていた父親らしい愛情を、この甥の上にそそぎかけた。そしてそこでもまた大きい苦労を味わわされた。それはあたかも一種の恩寵が、彼に不幸を絶え間なく新しく与えつつ、それを募らせつつ、畢竟彼の天才がつねに滋養分に事欠かないように摂理しているかのようにも見えるのである。――ベートーヴェンから少年カルルを取り上げようとしたやくざな母親からその少年を取られないために彼はまず争わねばならなかった――
「おお、わが神よ」と彼は書いている「わが砦、わが護り、わが無二の隠れ家よ! おんみには私の心の底がお判りになっています。私から、私の宝を、私のカルルを取り上げようと(57)している人々を今私が止むを得ず苦しめねばならぬこの悲しさはおんみが御存じです! 私が何と名づけていいか知らない実在者よ。私に耳を傾けて下さい、おんみが造られた人間の中の最も不幸な者のこの祈りをお聴き取り下さい!」
「おお神よ、私を救いに来て下さい! 私が不正と妥協したくないために、私があらゆる人間から見捨てられている有様はごらんの通りです! 私の祈りをお聴き下さい、せめてこの
しかるに、彼がこんなに愛着したこの甥たるや、伯父の信頼に価しない証拠を示すようになるのである。ベートーヴェンと甥との文通はミケランジェロとその弟たちとの文通に似て痛ましく腹立たしい調子のものであるが、しかもいっそう素樸な感動的なものである。
「わしはまたしてもこれほどひどい忘恩を報いられねばならないのか? よろしい。わしたちの間のつながりが断たれるよりほか仕方がないならそうなるがいい! 誰でも公平な人間はお前の忘恩を知ったらお前を憎むだろう。わしらを結んでいる愛の絆がお前には重荷になり過ぎるというなら、わしは神の名において神のみこころにお任せする他はない。神の摂理にお前をおまかせする。できるかぎりのことは尽して来たつもりだ。わしは甘んじて神の
「お前がだめな人間になっているとはいえ、今からでも、正直な人間になろうと決心してみてはどうか? わしに対するお前の狡いやり方のため、わしの心は実に苦しんだのだ、それを忘れてしまうことはなかなかできぬほどだ。わしがお前と、やくざな弟と、恥知らずな家庭からすっかり縁を切ってしまいたいという気持になることは神さまが御存じだ。――わしはお前をもう信用しない。」そして彼は署名する「残念ながらお前の父なる、むしろお前の父ならざるベートーヴェン(59)」と。
しかしその後で彼はたちまちに赦す――
「わしの愛する息子よ、もう何もいわぬ。わしの両腕の中へ還って来ておくれ。もうお前に何も厳しい言葉は聞かせはしない。……いつもにかわらぬ愛情をもってお前を迎えるよ。お前の将来についてのことを、打ちとけて話し合おう。――けっして叱らないことを約束する。そんなことはもう何にも役には立たないからね。お前はわしから最も
「どうか欺してくれるな」と彼は切願する。「いつもわしの愛する良い息子であってくれ! 人がわしにそう思い込ませようとすることがほんとうで、もしもお前がわしの目をごまかしているとすると、それは何という恐ろしい過ちだ!――今日はこれだけにする。お前の生みの父親ではないとはいえ、確かにお前を育てて来、お前がよい人間になるようにとできるかぎりの面倒をみて来たこのわしは、生みの親にもまさる愛情をもって心の底からお前に頼む、どうか正しい善い道だけを歩いてくれ(61)!」
知能が足りないわけではなかったので、ベートーヴェンが大学教育の過程を踏ませたいと考えていたこの甥の将来にありとあらゆる希望の夢をはぐくんだのちに、彼は甥を商人にすることに同意せざるを得なくなった。しかしカルルは賭博に入りびたって借金をした。
人が想像する以上にしばしば起こる悲しい事実であるが、この場合、伯父の大きい道義性は、甥に幸いせずかえってわざわいしたのである。それは甥を自棄的にさせ、ついには反抗心を起こさせるに到った。甥自身がいった次の恐るべき言葉には、この惨めな魂の真相があらわに示されている――「伯父が僕を善人にしようとしたために、僕はかえって悪人になった。」一八二六年の夏にカルルは自分の脳天へピストルの弾を撃ち込む事態にまで立ち到った。カルルはそれによって命を落とさずに済んだが、そのために致死的な打撃を受けたのはベートーヴェンであった。この恐ろしい激動から彼は再び立ち直ることができなかった(62)。カルルは全快した。彼は生き延びて最後まで――ベートーヴェンの死ぬ日まで――彼を悩ましつづけた。そしてベートーヴェンの死の原因に対しても決して無縁とはいえないこの男は、ベートーヴェンの臨終のときにもその側にいなかった。――「神はこれまでわしを見棄て給わなかったのだから」とベートーヴェンは、死に先だつ数年前に甥に宛てて書いた「わしが死ぬときにも、わしの瞼を閉じてくれる人間が誰か一人はいてくれるだろう。」――この誰か一人の人間は、彼が「自分の息子」と呼び慣れたその者ではついに無かったのである(63)。
ベートーヴェンが歓喜を
それは彼の全生涯のもくろみであった。まだボンにいた一七九三年からすでにそれを考えていた(64)。生涯を通じて彼は歓喜を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて彼は頌歌の正確な形式と、頌歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。『第九交響曲』を作ったときでさえも、究極の決定を与えかねて「歓喜への頌歌」は、これを第十か第十一の交響曲の中へ置き換えようという気持を、最後の決意の瞬間まで持ちつづけていた。われわれは、『第九』が世に普通呼ばれるごとく『合唱を伴える交響曲』と題されてはおらず、『シルラーの詩「歓喜への頌歌」による合唱を
交響曲へ合唱を入れるということには幾多の技術上の大きい困難があった。ベートーヴェンの手記や、また、いろいろな試作――すなわち人間の歌声をこの作の現在入れられてある箇所とはたぶん別な箇所へ、別なやり方で入れるつもりで、あれこれとやって見たいろいろな試作が、これらの大きい困難をわれわれに確証している。『第九』の
けれどもこの不決断と延引との理由をさらに詳細に理解してみることが緊要である――その原因はいっそう深いところにあるのだから。絶えず憂苦に心を噛まれていたこの不幸な人間は、またつねに「歓喜」の霊妙さを
歓喜の
凡庸なヴィーンの聴衆もこの巨人的作品にはさすがに圧倒せられた。ヴィーンの朝三暮四流もそのため一時は熱狂した。しかし彼らの口には結局ロッシーニとイタリア歌劇の味の方が適していた。ベートーヴェンは屈辱と悲しさとを感じてロンドンへ住みに行こうとした。彼はそこで『第九』の演奏をさせるつもりであった。一八〇九年の場合と同様に今一度、ベートーヴェンがオーストリアを去らないようにと彼に懇願したのは、彼の味方である数人の貴族たちであった。――彼らは書き送った――「あなたが一つの新しい宗教音楽曲(67)を作曲せられ、あなたが深い宗教的信仰から霊感されていられる感情をその作によって表現せられたことをわれわれは承知しています。あなたの偉大な魂を貫流するこの世ならぬ輝きがお作を照らしています。さらにまたわれわれは感じています。まだ完成していないすばらしい幾多の交響曲の花の鎖のなかには、さらに一つの新しい不朽の花が咲き出ようとして輝いていることを。……万人の眼が待望の中にひたすらあなたに向けられていることは今さら申すまでもありません(68)。また、われわれが音楽の領域でだれにも優る至高者と呼ばざるを得ないその人が、目下の音楽界の実状を――すなわち、外来の音楽がドイツの土地、名誉あるドイツ音楽の領土に陣取り、ドイツの音楽が外来の甘ったるい音楽の影法師にしか過ぎなくなっているようなこの現状を無言をもって(あなた御自身の作品を示されずに)眺めていられるのを知ってわれわれの心が悲しみの念に打たれていることもまた申すまでもないことです。……祖国の芸術は現下の流行がいかにあれ、新しい開花と若返る生命と、そして真実なるもの美しきものの新しい征服的支配力とを、正にあなたからこそ待ち望んでいるのです。……まもなくわれわれの待望は充たされるという
これらの言葉を読んでベートーヴェンは深く感動した。彼はヴィーンに留まった。一八二四年五月七日にヴィーンにおいて『荘厳な
「生活の愚劣な瑣事を常におんみの芸術のために犠牲とせよ! 神こそ万事に優れる者!」(O Gott ber alles!)
かくて彼はその全生涯の目標であったところのもの、すなわち歓喜をついにつかんだ。――多くの嵐を統御するこの魂の絶頂に、彼は永くとどまることができるであろうか?――確かにさらに幾度も、彼は旧知の悩みの中へずり落ちねばならなかった。確かに、彼の最後の幾つかの
一八二六年に彼に逢ったシュピラー博士は、ベートーヴェンの様子が悦ばしげで晴れやかになっていたといっている。グリルパルツァーがベートーヴェンと最後に語ったのもその同じ年のことであるが、そのとき落胆している詩人の心を鼓舞したのはベートーヴェンだった。グリルパルツァーは嘆いていった――「ああ、あなたの千分の一の力と不屈さを私が持てたらいいのだが!」と。苦しい時代であった。復古的な勢力が人々の精神を抑圧していた。「検閲が私を殺した」とグリルパルツァーは呻いた――「自由に語ったり考えたりしようと思えば、北アメリカへ移住するほかはない。」しかしベートーヴェンは、自分の考えをぶちまけていた。「言葉はつながれている。しかし幸いに音は今も自由です」と詩人クッフナーは彼に宛てて書いた。ベートーヴェンは偉大な、とらわれない声である――おそらく当時のドイツ思想の中では唯一の。彼はそれを自覚していた。彼は自己に課せられていると感じた義務についてしばしば語っている、それは、自己の芸術を通じて「不幸な人類のため」「未来の人類のため」der knftigen Menschheit に働き、人類に善行を致し、人類に勇気を鼓舞し、その眠りを揺り覚まし、その卑怯さを鞭打つことの義務である。甥への手紙にも書いている――「今の時代にとって必要なのは、けちな狡い卑怯な乞食根性を人間の魂から払い落とすような剛毅な精神の人々である」と。ミュラー博士は一八二七年にいった「政府や官憲や貴族やについてベートーヴェンは常に公々然と意見を述べた。官憲はそれを知っていたが彼の批評や諷刺やを罪のない夢物語だとして大目に見ていた。ベートーヴェンが非凡な天才であるがために放任しておいた(78)。」
この不撓の力を屈せしめることは何者にも不可能であった。そしてこの力は今や悲哀と戯れているかのように見える。最晩年に書かれた作品は、それらが作られた境遇の惨めさ(79)にもかかわらずしばしばまったく新しいふざけ心や、雄々しく楽しげな無執着の性格を持っている。死に先だつ四カ月のとき、一八二六年十一月に書き上げた最後の楽章、すなわち作品第百三十の
とはいえ死は近づいて来た。一八二六年の十一月の末に彼は肋膜炎性の風邪をひいた。甥の将来の安定を配慮するためにした冬の旅から帰ってヴィーンで病床についた(80)。友人たちは近くにいなかった。医者を招いてくれと甥に依頼した。このやくざ男はその用向きを忘れてしまい、二日の後にやっと思いついた。医者はあまりにも遅れて来て、ベートーヴェンをぞんざいに取り扱った。三カ月間彼の頑強な体質は病気と戦った。一八二七年の一月三日に彼は最愛の甥を全部の遺産相続者に指定した。ベートーヴェンは今一度、ライン河畔の幼な友だちらの上を偲び、ヴェーゲラーに宛てて書いた――「どんなに多くのことを僕はもっと君にいいたいか知れないのだが、もう弱り過ぎた。僕は君と君のロールヒェンとを、心の中で抱くことしかできない。」英国の数人の友らの寛宏な親切心がなかったら、彼の最後の瞬間すら悲惨の暗さに包まれたのかも知れなかった。彼は非常に柔和になり、非常に辛抱づよくなっていた(81)。死が迫って来た床の上で一八二七年二月十七日に彼は三度目の手術の後に四度目(82)のを待ちながら朗らかな調子でこう書いた――「辛抱しながら考える、一切の禍は何かしらよいものを伴って来ると。」
その「よいもの」は、このたびこそは死の解放なのであった。臨終の彼自身の言葉によれば「喜劇の大団円」なのであった。――われわれはむしろいおう「彼の全生涯の悲劇の終結」と。
彼が息を引き取ったときは嵐と吹雪の最中であり、雷鳴が鳴り渡っていた。そして彼の瞼を閉じてやったのは行きずりの見知らぬ人(83)の一つの手であった。(一八二七年三月二十六日)
親愛なベートーヴェン! 彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりもさらにはるかに以上の者である。彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。愛する者を失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前にすわって何もいわずに、あきらめた嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように。そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗しての
彼の全生涯は嵐の一日に似ている。――最初にはさわやかに澄んでいる朝。もの倦いかすかな
どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか? ボナパルトのどの勝利、アウステルリッツのどの赫々たる日がこの光栄に――かつて「
『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』
Durch Leiden Freude.
(一八一五年十月十九日・エルデーディー伯夫人に)
[#改ページ](1) J・ラッセル(一八二二年)――カルル・ツェルニーは、その幼時(一八〇一年に)、ベートーヴェンが幾日もの不精ひげを伸ばして髪ぼうぼうで山羊の毛の胴着とズボンとを着けている姿を見たとき、ロビンソン・クルーソーに逢ったのかと思った。
(2) 画家クレーバーが一八一八年頃ベートーヴェンの肖像を描いたときそれに気付いた。
(3) W・C・ミュラー博士はいっている「或るときは親愛で優しく、あるときは荒く威嚇的で畏怖を感じさせた美しく雄弁な彼の眼」と。(一八二〇年)
(4) クレーバーは「オシアンの描いた人物」といっている。彼の容貌のこんな細部 はすべて彼の友人たちおよび彼を見た旅行者たちの記録から借りた。すなわち、ツェルニー、モーシェレス、クレーバー、ダニエル・アマデウス・アッターボーム、W・C・ミュラー、J・ラッセル、ユーリウス・ベネディクト、ロホリッツら。
(5) 彼の祖父ルートヴィッヒは彼の家族の中で最も有為な人物でかつ最もベートーヴェンに似たところのある性格を持っていたが、この祖父はもとアントワープの生まれであって二十歳頃に初めてボンに定住して選挙公に仕える楽長となった。これは、ベートーヴェンの性格にある勁 い不羈 性やその他本来ドイツ的でない他のいろいろな彼の性質を理解しようとするとき忘れてはならないことである。
(6) 一七八七年九月十五日、アウグスブルクのシャーデ博士宛(ノール編『ベートーヴェン書簡集』第二。以下、ノールと略記)
(7) その後(一八一六年に)彼はいった――「死ぬ術 を悟らぬ人間は気の毒だ。私は十五歳ですでにそれを悟っていた。」
(8) 二、三の手紙をこの巻の付録として添える。彼の教師であった卓抜なクリスチァン・ゴットロープ・ネーフェ Neefe をベートーヴェンは自分の知己であり導きてであると感じていた。この人の精神的高貴性と、博大な基礎の上に築かれている芸術的知性との両方が、いずれ劣らずベートーヴェンに感化を与えた。
(9) ヴェーゲラー宛、一八〇一年六月二十九日(ノール・第十四)
(10) 一七八七年の春にすでに一度ヴィーンへ短い期間の旅行をしたことがあった。そのときベートーヴェンはモーツァルトに会ったのだが、モーツァルトは彼にほとんど注意を払わなかったらしい。
一七九〇年十二月にベートーヴェンがボンで近づきになったハイドンは彼に幾度か稽古をつけた。ベートーヴェンはまたアルブレヒツベルガーとサリエーリをも師として稽古を受けたことがある。
(11) 彼はまだ初演奏 をしたかしないかだった。ヴィーンにおける初めての演奏はピアニストとして一七九五年三月三十日に行なわれた。
(12) ヴェーゲラー宛、一八〇一年六月二十九日(ノール・第十四)
「僕が幾らかでも持っているあいだは、僕の友人の誰かがまったく窮するということはあり得ない。」と一八〇一年頃リースに宛てて書いている。(ノール・第二十四)
(13) 一八〇二年の「遺書」の中でベートーヴェンは、六年以前から(すなわち一七九六年以来)耳の病気が始まったと書いている。ベートーヴェンの作品表を見ると一七九六年以前にできた作品は作品第一番の三つの三重奏曲 だけである。作品第二すなわち最初の三つのピアノ奏鳴曲が発表されたのが一七九六年の三月である! それ故ベートーヴェンはその全作品を聾者として作ったのだといえるのである。彼の聾疾については一九〇五年五月十五日の「医学時報」Chronique mdicale に載っているクロッツ・フォレスト博士の論文を読まれるがいい。この論文を書いた学者の確信によるとベートーヴェンの病気の原因は遺伝性(母の肺患)の中に求めらるべきものである。一七九九年頃に烈しい中耳炎を起こす原因となった一七九六年の病気を耳の喇叭管カタルと診断している。手当を怠っていたため中耳炎は慢性になってそのあらゆる結果を引き起こすに至った。ベートーヴェンは調子の高い音よりも低い音のほうがよく聞き取れた。人の伝えるところによるとベートーヴェンは晩年には一本の木製の棒を用いて、その一端をピアノの箱の上にのせ、他の一端を自分の歯のあいだにくわえていたといわれる。作曲するときにもこんな聴覚橋の方法で音を聴いた。
(この問題については次の文献参照――C. G. Kunn: Wiener medizinische Wochenschrift 一八九二年二月・三月号――Willibald Nagel: Die Musik 一九〇二年三月――Theodor von Frimmel: Der Merker 一九一二年七月)
ボンのベートーヴェン博物館 には、一八一四年頃に機械師メルツェルがベートーヴェンのために作製した聴音器が保存されている。
ボンのベートーヴェン
(14) ノール・第十三
(15) ノール・第十四
(16) ヴェーゲラー宛、一八〇一年十一月十六日(ノール・第十八)
(17) その後彼女はベートーヴェンとの以前の恋を、自分の夫のために利用することをあえてした。ベートーヴェンはガルレンベルクに助力を与えた。「彼は僕の恋仇だった。僕が彼のためにできるかぎり助力を惜しまなかったのは正にそのためだ。」と、一八二一年の筆談においてシンドラーに語っている。この談話は部分的にベートーヴェン流のフランス語でなされている。彼はガルレンベルク伯夫人を軽蔑していた。――「ヴィーンに来ると彼女は泣きながら私に頼って来た。しかし私は彼女を軽蔑した。」Arrive Vienne, elle cherchait moi, pleurant, mais je la mprisais.
(18) 一八〇二年十月六日(ノール・第二十六)
(19) 「お前たちの子供らに徳を奨めよ。徳だけが人間を幸福にする。金ではない。私は自分の経験からこれをいう。私の不幸な状態の中で私を支えて来たのは徳の力だ。私が自殺によって自分の生活を終わらさずに来たのは芸術のおかげであるとともにまた徳のおかげなのだ。」そしてヴェーゲラーに宛てた一八一〇年五月二日の手紙には――「人間がまだ善行をする可能性を持っているかぎりは自ら欲して人生から去ってはならぬ、という言葉を、僕がどこかで読んでいなかったとしたら、僕はもうとっくにこの世にはいなかったろう――疑いも無く自分自身の行為によって。」
(20) ヴェーゲラー宛(ノール・第十八)
(21) 一八〇二年に画家ホルネマンの描いたベートーヴェンの細画像 は当時の流行的服装をした彼を示している。顳 の鬚を生やし長髪でバイロンの描いた人物のような悲劇的な様子をしている。ただしナポレオン的な眼なざしの不屈な強さは少しも失われていない。
(22) 『英雄交響曲 』がボナパルトのために、また彼について書かれ、最初の草稿が「ボナパルト」という題名を持っていることは周知のとおりである。その後ベートーヴェンはナポレオン戴冠の報道を耳にした。彼は憤激していった――「彼もやはり凡人に過ぎなかったか!」感情を害した彼は献呈辞を引き裂いた。そして意趣ばらしであると同時にしかしまた感動力のある題名を書いた――「一人の偉人の追憶を讃えるための英雄的交響曲」。(Sinfonia Eroica composta per festeggiare il souvenire di un grand Uomo.)シンドラーの語ったところによるとその後ナポレオンに対するベートーヴェンの侮蔑はやや緩和した。彼はナポレオンを同情に値する一個の不幸な人物、天から墜ちたイカルスとしてのみ考えるようになった。一八二一年にセント・ヘレナの破局を彼が識ったときにいった――「今日 のこの哀れな出来事に相応する音楽を、僕はすでに十七年前に書いておいた」と。エロイカの葬送曲の中に、征服者の悲劇的終局への予言を認めて彼はみずから興がっていた。――だから『英雄交響曲』が、とりわけその第一楽章がベートーヴェンの考えの中で一種のボナパルト像だったということは大いにありそうなことである。その像はたしかにモデルとは相違してはいるが、しかしそれはベートーヴェンが思い浮かべていたままの姿、彼が理想的に夢想していたような姿、すなわち「革新の天才」の像である。それにまた、ベートーヴェンは『エロイカ』の終節の一主題を一八〇一年の作品から取っている。その作品というのは、真に革新的な半神、自由の神への恭敬から書かれた作品『プロメトイス』(一八〇一年)である。
(23) ローバート・フォン・コイデル(ローマに派遣されていた元ドイツ大使)の著書『ビスマルクとその家庭』そのフランス語訳 Bismarck et sa famille (1901) は E. B. Lang の訳。
ローバート・フォン・コイデルはこの奏鳴曲(アパッショナータ)を一八七〇年十月三十日にヴェルサイユで一台のわるいピアノでひいてビスマルクに聴かせた。この作品の最後の部分についてビスマルクはいった――「これは人間の全生活の奮闘と嗚咽だ。」彼は一切他の音楽家よりもベートーヴェンを好んだ、そして一度ならず確言した――「私の神経にはベートーヴェンが一番ぴったりする」と。
(24) ベートーヴェンの家は、ナポレオンがヴィーン市占領の後に爆破させた市砦の付近にあった。「何と殺風景な廃墟が僕の生活を取り巻いていることだ!」と彼はブライトコップフ・ウント・ヘルテルに宛てて一八〇九年七月二十六日に書いている。「太鼓の音と砲声とあらゆる種類の悲惨以外には何もない。」
この時期のベートーヴェンの一肖像的叙述が遺っている。描いたのは、一八〇九年にヴィーンでベートーヴェンに会う機会をもった一フランス人ド・トレモン男爵である。彼は国会陪審官であった。彼はベートーヴェンの住居を占めていた乱雑さを絵画的に叙述している。彼とベートーヴェンとの話題は哲学のこと宗教のこと政治のこと、「そしてとりわけベートーヴェンが崇拝しきっていたシェイクスピアのこと」であった。ベートーヴェンはパリへトレモンに同行する気持にもかなり成っていた。パリの音楽学校 が彼の交響曲をすでに演奏したことを彼は知っていたし、また彼は熱心な賛嘆者たちをパリに持っていた。――(一九〇六年五月一日の Mercure musical 中の Une visite Beethoven, par le baron de Trmont; publi par J. Chantavoine を参照)
(25) 正確に書くと Therese von Brunswick よりもむしろ Therese Brunsvik。一七九六年と九九年とのあいだにヴィーンでベートーヴェンはブルンスヴィック家の人々と識り合った。ジュリエッタ・グィッチャルディはテレーゼの従妹 であった。ベートーヴェンはしばらくのあいだテレーゼの妹ジョゼフィーヌにも心を惹かれていたらしい。ジョゼフィーヌはダイム伯に嫁し後にシュタッケンベルク男爵と二度目の結婚をした。――ブルンスヴィック家についての最も生き生きとした詳しい記述を人は Andr de Hevesy 氏の一論文 Beethoven et l'Immortelle Bien-aime『ベートーヴェンと「不滅の恋人」』の中に見いだすだろう。(Revue de Paris 誌、一九一〇年三月一日および十五日号)ド・エヴジー氏は、ハンガリアのマールトンヴァーザールに保存されているところのテレーゼ自筆の手記の原稿をこの研究論文のために用いている。氏はブルンスヴィック家の人々とベートーヴェンとの親密さを十分証明しながらも、テレーゼに対する彼の恋愛に関しては、これを疑問として残している。しかし氏の論証だけではまだ足りないものがあるようである。
訳者注――ロマン・ロランは一九二八年の著作 〔Beethoven (Les grandes poques cratrices『盛んな創作の時期のベートーヴェン』の中でこの問題を詳論している。その中に引用されているテレーゼ自身の「日記」の数行をここに訳出しよう。ロランによればこれらの言葉の中には「ベートーヴェン的なもの」が響いている――
「……もはや私は善良さを弱さと混同したくないと思う。真の善良さは強さと同盟しているものだと信じてみれば、私は今までけっして善良でなかった……」
「硬化した善良さは実は、精神と性格との薄弱さなのだ。……もしもそんな硬化した善良さに自ら満足すれば人間はお人好しの動物になってしまう。しかもそこへ気取りが付け加わったりすると、その人間は最も憐れな気の毒な者だ……」(未発表の『日記』――一八〇九年)〕
「……もはや私は善良さを弱さと混同したくないと思う。真の善良さは強さと同盟しているものだと信じてみれば、私は今までけっして善良でなかった……」
「硬化した善良さは実は、精神と性格との薄弱さなのだ。……もしもそんな硬化した善良さに自ら満足すれば人間はお人好しの動物になってしまう。しかもそこへ気取りが付け加わったりすると、その人間は最も憐れな気の毒な者だ……」(未発表の『日記』――一八〇九年)〕
(26) マリアム・テンガー著『ベートーヴェンの「永遠の恋人」』Mariam Tenger: Beethoven's unsterblichte Geliebte, 1890.
(27) この優れたアリアはヨーハン・セバスチァン・バッハの二度目の妻アンナ・マグダレーナの記念帳 の中にあって Aria di Giovanni (Edition Peters, 2071.) という題が付いている(一七二五年)。これが実際バッハの作曲かどうかについては多くの論議がなされた。
(28) ノール著『ベートーヴェン伝』
(29) 事実ベートーヴェンは近視眼であった。イグナッツ・フォン・ザイフリートのいうところに拠ると、ベートーヴェンの視力は天然痘に罹ったために弱くなって、ごく若い頃から眼鏡をかけねばならなかった。この近視眼のために彼の眼の焦点の狂っているような表情が習慣づけられたに違いない。一八二三年―二四年の書簡の中で彼は絶えず眼に悩まされていることを書いている。――クリスチァン・カリシャーの論文『ベートーヴェンの眼と眼病』Beethovens Augen und Augenleiden(Die Musik 誌、一九〇二年三月十五日および四月一日号)参照。
(30) ゲーテの戯曲『エグモント』の場面 のための作曲は一八〇九年に始められた。――彼はシルラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』のための作曲をもしたかったのであるが、その作曲家としては、彼ではなしにギローヴェッツが採用せられた。
(31) シンドラーとの談話。
(32) 日付のない「不滅の恋人へ」の手紙はコロンパのブルンスヴィック家で書かれたものと推定される。
(33) ノール・第十五。〔訳者注――A. Leitzmann: L. v. Beethoven (1921) ライツマン編『ベートーヴェン』第二巻第八十三頁。以下、ライツマンと略記〕
(34) この肖像は今ではボンの「ベートーヴェンの家 」〔彼の生家・現在は博物館に保存されている。フリンメル著『ベートーヴェン伝』の第二十九頁および Musical Times 誌の一八九二年十二月十五日号にその複製が出ている〕
(35) グライヒェンシュタイン宛(ノール・第三十一)〔訳者注――ライツマン・第二巻第六十一頁〕
(36) Der Gemt ist der Hebel zu allem Tchtigen.「すべて価値ある行ないを起こす槓杆は心情 である。」(ヴィーン市の学校長ジャンナタジオ・デル・リオ宛――ノール・第百八十)〔訳者注――ライツマン・第二巻第百三十六頁〕
(37) 「……私が『エグモント』のために音楽を作ったのはひたすらゲーテの詩作品への敬愛からです。彼の詩は私を幸福にしてくれるのです。」と、一八一一年二月十日にベッティーナ・ブレンターノに宛てて書いている。〔訳者注――ライツマン・第二巻第七十一頁〕
さらに――
「……ゲーテとシルラーの完全な作品集を私にお送り願えないものでしょうか。この二人は私の最も愛読する詩人たちです。また私はオシアンとホーマーとが好きですが、しかしこの詩人たちは私には翻訳でしか読めません。」(ブライトコップフ・ウント・ヘルテル宛、一八〇六年八月八日――ノール・第五)。〔訳者注――ライツマン・第二巻第五十九頁〕
ベートーヴェンが大して教育を受けてはいなかったにもかかわらず、彼の文学上の趣味のいかにも確実であったことは注目さるべきことである。「偉大で堂々として常にDドゥア(ニ長調)だ」と彼の感じていたゲーテと並べて、否ゲーテ以上に、ベートーヴェンはホーマーとプルタークとシェイクスピアの三人を愛読した。ホーマーの中では『オディセー』を好んだ。シェイクスピアを絶えずドイツ語訳で読んでいた。そして彼がいかに悲劇的な偉大さをもって『コリオラン』と『嵐 』とを音楽に訳出したかをわれわれは知っている。プルタークについては、「フランス革命」時代の多くの人々と同様に彼もプルタークに養われていた。ブルーツスは、ミケランジェロにとってと同様にベートーヴェンの英雄であった。彼の好きなこの英雄の小さな像を自分の室に置いていた。彼はまたプラトンを愛して、プラトンの考えたような共和国を全世界にもたらすことを夢想していた。「ソクラテスとイエスとが私の模範であった」と彼はどこかでいっている。(談話・一八一九年―一八二〇年)。〔訳者注――ライツマン編の『ベートーヴェン』に収められている彼の「手記」の中には、ゲーテの『西東詩篇』シェイクスピアの『オセロ』や『ロメオ』や『ヴェニスの商人』ホーマーの『オディセー』などからベートーヴェンがした書き抜きが集まっている〕
「……ゲーテとシルラーの完全な作品集を私にお送り願えないものでしょうか。この二人は私の最も愛読する詩人たちです。また私はオシアンとホーマーとが好きですが、しかしこの詩人たちは私には翻訳でしか読めません。」(ブライトコップフ・ウント・ヘルテル宛、一八〇六年八月八日――ノール・第五)。〔訳者注――ライツマン・第二巻第五十九頁〕
ベートーヴェンが大して教育を受けてはいなかったにもかかわらず、彼の文学上の趣味のいかにも確実であったことは注目さるべきことである。「偉大で堂々として常にDドゥア(ニ長調)だ」と彼の感じていたゲーテと並べて、否ゲーテ以上に、ベートーヴェンはホーマーとプルタークとシェイクスピアの三人を愛読した。ホーマーの中では『オディセー』を好んだ。シェイクスピアを絶えずドイツ語訳で読んでいた。そして彼がいかに悲劇的な偉大さをもって『コリオラン』と『
(38) ベッティーナ・ブレンターノ(フォン・アルニム)宛(ノール・第九十一)――ベートーヴェンからベッティーナ宛の手紙の真偽についてはシンドラー、マルクス、ダイタースはこれを疑い、モーリッツ・カリエール、ノール、カリシャーはこれを真実のものとして弁護している。ベッティーナはベートーヴェンの手紙の内容を幾らか「美化した」には相違なかろうがしかし手紙の内容の本質は変えられてはいないと思われる。
〔訳者注――ベッティーナ・ブレンターノ(後にアルニムの妻)はドイツ浪漫主義時代の問題的な性格と見なされて来た。彼女がゲーテとの文通を発表して以来、この文通の内容が、ゲーテとの交誼の親密さを誇大した捏造のものだという意見がかなり有力であった。しかし近年その手紙のオリジナルが世に発表されてからは、もはや疑う余地は無くなった。ロランはその後の著作『ゲーテとベートーヴェン』の中で、新しい文献に基づいたベッティーナ論を発表した。――ベートーヴェンの音楽の価値をゲーテに説いたのは彼女であった〕
(39) ゲーテはツェルターに語った――「ベートーヴェンは残念ながらまったく無制御な性格だ。彼が世の中を厭うべきものと観ることは無理もないが、しかしそういう考え方によって自分のためにも他人のためにも世の中をいっそう住み心地のいいものにすることはできはしない。だが彼は聴覚を失っているのだから、ああなることも寛大に考えてやるべきだし、同情してもやるべきだ。」――その後ゲーテはベートーヴェンに抗う何事をもしなかったが、しかしまた彼のために何事かをしてやるということもまったく無かった。ベートーヴェンの作品、いなその名前の上にすら完全な沈黙を置いた。――心の底ではゲーテはベートーヴェンの音楽に賛嘆を感じていたがしかしまたそれに恐れを感じていた。その音楽がゲーテの心の安定を奪ったからである。ゲーテが幾多の苦労の代償を支払ってようやく獲得していた魂の静朗さを、ベートーヴェンの音楽が彼に失わせはしないかとゲーテは危懼したのである。――一八三〇年にヴァイマールに滞在した若いフェリックス・メンデルスゾーンの一通の手紙は無邪気にもゲーテの魂の底を人々に示している――その魂は、強大な知性が制御しているところの惑乱せる情熱的な魂であった。(ゲーテ自身がいったとおりに「激しい嵐と惑乱との魂」leidenschaftlicher Sturm und Verworrenheit であった)
「最初のうち(とメンデルスゾーンは書いている)ゲーテはベートーヴェンについての話を聴くのを望まなかった。しかし私は彼にいった、どうしてもベートーヴェンのことをいわずにはいられないと。そして彼の前で『第五交響曲』の最初の楽章を弾いて聞かせた。これがゲーテをまったく異様に感動させた。――初めのうちゲーテはいっていた『まるで心を感動させるところがない。ただ人をびっくりさせるだけだ。大がかりだ』と。その後ぶつぶついいつづけていたが、やがてしばらく経った後に――「こいつは偉大だ。無鉄砲なしろものだ。家がくずれ落ちはしないかと思うようだ。」そして食事中ゲーテは考え込んでいたが話題がベートーヴェンのことになった瞬間から彼は私にベートーヴェンのことをしきりに問い質し始めた。効 き目がそろそろ出て来たことを私は看て取った……」
ゲーテとベートーヴェンとの関係についてはフリンメル Frimmel の幾つかの論文参照。〔訳者付記――ロマン・ロランの一九三〇年の著作 Goethe et Beethoven (Editions du Sablier, Paris) 『ゲーテとベートーヴェン』は二人の関係を取り扱っている。ことに「音楽者としてのゲーテ」の章において、ゲーテと音楽との関係が精妙に取り扱われている。「眼の人 ゲーテは音楽を理解しなかった」と簡単に片づけがちな問題は実は複雑な立体的なかつ戯曲的な事実を含んでいることをロランが示している〕
ゲーテとベートーヴェンとの関係についてはフリンメル Frimmel の幾つかの論文参照。〔訳者付記――ロマン・ロランの一九三〇年の著作 Goethe et Beethoven (Editions du Sablier, Paris) 『ゲーテとベートーヴェン』は二人の関係を取り扱っている。ことに「音楽者としてのゲーテ」の章において、ゲーテと音楽との関係が精妙に取り扱われている。「
(40) ゲーテからツェルターへの手紙(一八一二年九月二日)。――ツェルターからゲーテへの一八一二年九月十四日の手紙に――「私もまた彼を驚愕をもって(mit Schrecken)賛嘆します。」一八一九年にツェルターからゲーテへ「人のいうところによると彼は狂人だそうです。」
(41) ディオニソス的祝祭の音楽を書くということはとにかくベートーヴェンが考えていた題目ではあった。われわれは彼の手記の中に、とりわけ『第十交響曲』の草案の中にそれを見いだすのだから。
(42) ベルリンの若い婦人の歌唱者アマーリエ・ゼーバルトはテプリッツで一八一一年と一二年とにベートーヴェンを識った。彼女との非常に深い情愛による友情がベートーヴェンにこれらの作品を書く霊感を与えたということはあり得ることである。
(43) この点彼と非常に相違していたシューベルトは一八〇七年に機会的な作品 『ナポレオン大帝への恭敬』を書いた。そしてそれを自ら「皇帝」の前で指揮した。
(44) 「われわれの君侯たちや君主政のことについては私は何事も貴方に申し上げません」と彼はヴィーン会議開期中にカンカに宛てて書いた――「私にとっては精神の国こそ最も親愛なものです。それは宗門的なまた世俗的なあらゆる邦土のうちの最高のものです。」Mir ist das geistige Reich der Liebste, und der Oberste aller geistlichen und weltlichen Monarchen.〔訳者注――ライツマン・第二巻第九十七頁〕
(45) 「或る人がヴィーンに生活してヴィーンだけを識っていた。――とこういえばすべてがいいつくされている。ドイツ・プロテスタンティズムの消滅ののちローマ・ジェスイット教の学校で育て上げられたオーストリア人は自国語の正しいアクセントをさえ失って、あたかもわれわれにとっての古代世界の古典的な名前か何かのように彼にとっては自国語が非ドイツ的に変えられて発音されていた。ドイツ精神とドイツ的な風習とがイタリアとスペインの舶来品で解釈せられていた。……歴史も科学も宗教も歪曲されたものとなっている地盤の上に育てられたため、元来は明朗で快活な素質のあの国民は懐疑主義者になってしまい、その懐疑主義はまったくの軽佻浮薄者流となりおおせて、真理と品位と不羈 独立の精神に対する敬愛の念を葬り去ってしまったのだ!……」(リヒアルト・ヴァーグナー著『ベートーヴェン』一八七〇年)
グリルパルツァーは自分がオーストリア人として生まれたことを一つの不運だといっている。十九世紀の末葉にヴィーンに生活した作曲家たちは俗臭のつよいブラームス崇拝に身をゆだねたこの町の精神のため痛く悩まされた。そこにおいてブルックナーの一生は一箇の永い受難であった。憤激して身をもがいたフーゴー・ヴォルフは力尽きて斃れる以前に、ヴィーンについて苛烈な判断を表明した。
(46) 王ジェロームは金貨六百ドゥカーテンの年金と銀貨百五十ドゥカーテンの旅行補助費とを与えた。それに対するベートーヴェンの義務は、ときどき王の御前で演奏すること、また、長時間にわたらず、度数も少ない室内音楽の演奏会を開くことであった。(ノール・第四十九)ベートーヴェンはもう少しでヴィーンを去るところであった。
(47) ドイツ音楽の全地盤を揺るがすには、ロッシーニ作『タンクレード』の出現だけで十分だった。エールハルトの引用に拠ると、バウエルンフェルトは一八一六年にヴィーン社交界の流行語となった判断を彼の「日記」の中に記している。――「ベートーヴェンとモーツァルトは老いぼれた理窟屋 だ。彼らの音楽を好んだのは前の時代の愚かしさ故だ。そしてロッシーニ以来はじめて人は旋律 の何たるかを悟ったのだ。ベートーヴェンの歌劇 『フィデリオ』はきたならしい音楽だ。わざわざ退屈するためにあんなものを聴きに行くなんておよそわけの判らん話さ。」一八一六年にこんな批評がヴィーンを風靡していたが、ベートーヴェンがピアニストとしての最後の演奏会をひらいたのは一八一四年である。
(48) ベートーヴェンはこの年にまた弟カルルと死別した。「私が自分の命を捨てたく思うのと同じ程度に、弟は生命に執着しています。」と彼はその弟についてアントニー・ブレンターノ〔ベッティーナ・ブレンターノの兄フランツの妻――訳者〕に書いている。
(49) ただし除外例はマリア・フォン・エルデーディー伯夫人との彼の感動的な友情である。この婦人も彼と同様に不治の病気のため絶えず悩んでいたが一八一六年にその一人息子を突然失くしてしまった。ベートーヴェンは一八〇九年に作品第七十の二つの三重奏曲 を、そして一八一五―一七年に作品第百二の、ヴァイオリンセロのための二つの大きい奏鳴曲 を彼女に献呈した。
(50) 耳の病気以外に彼の健康状態はだんだん悪くなった。一八一六年の十月以降、彼ははげしい※衝性 [#「りっしんべん+欣」、U+60DE、92-12]カタール Entzndungskatarrh を病んだ。一八一七年の夏、彼の医者はそれを肺患だといった。そのため一八一七年・一八年の冬には、このいわゆる肺病のことを思いつめて苦しんでいた。一八二〇年・二一年には激烈なリウマチ、二一年に黄疸、二三年には結膜炎をやった。
(51) 筆談のはじまった一八一六年は彼の音楽に様式 の変化の生じた年であることは注目すべきことである。すなわち作品第百一が、変化した様式の最初のものである。
一万一千頁を越える筆談帳は、今日ベルリンの国立図書館に集められてある。
(52) シンドラーがベートーヴェンと相識ったのは一八一四年であるが二人の友情は一八一九年に至って始めて親密なものになった。シンドラーに親愛を示すことが最初はベートーヴェンにとってはできにくかった。ベートーヴェンは初めのうちはシンドラーを尊大な侮蔑的態度で遇してさえいた。
(53) ベートーヴェンの聾疾に関するリヒアルト・ヴァーグナーの立派な叙述参照。(『ベートーヴェン』一八七〇年)
〔訳者はヴァーグナーの『ベートーヴェン』からここに次の部分を訳出する――
「……かくて天才的精神はあらゆる「己れの外」から解放せられて、まったく己れにおいてあり、己れの内に在る。あらゆる現象の根柢を内的視力で見ることのできる人間が当時のベートーヴェンを視たと仮定したら、その人間には何たる奇蹟が見えたことであろう。その人間は、人々に立ち交じって歩いている一世界を見たことであろう。――換言すれば歩いている人間としての世界の本質自体 das Ansich der Welt als wandelnder Mensch を!
今やこの音楽家の視力は内部へ向かって照った。今や彼は、彼に内在する光に照明せられて数々のすばらしい反映となって再び彼の心へ把握せられるに至るような性質の現象へも視力を向けた。今やただ諸物の本質だけが彼に語りかけることとなって、その本質は、美の静平な光に包んでそれらの事物を彼に示すようになった。今や彼は理解する、森を、小河を、牧場を、碧々とした大気を、快活な群衆を、恋し合っている男女を、鳥たちの歌を、雲の列を、嵐のとどろきを、そして浄福のうごきを持つ静かさを。そこでこの不思議な朗快が彼の観照と形成との作用へ浸徹するのであるが、この朗快は彼をまって初めて音楽の所有 となった。もともとあらゆる音にあんなにも固有な特質である嘆きさえもが、軽やかになり微笑となる。世界がその子供らしい無邪気さを再び取りもどす。「今日おんみら我れと共に天国にあれ」――『田園交響曲』を聴く者は、誰しもあのキリストのことばが自分に向かって呼びかけているのだと感じないではいられまい!……」〕
「……かくて天才的精神はあらゆる「己れの外」から解放せられて、まったく己れにおいてあり、己れの内に在る。あらゆる現象の根柢を内的視力で見ることのできる人間が当時のベートーヴェンを視たと仮定したら、その人間には何たる奇蹟が見えたことであろう。その人間は、人々に立ち交じって歩いている一世界を見たことであろう。――換言すれば歩いている人間としての世界の本質自体 das Ansich der Welt als wandelnder Mensch を!
今やこの音楽家の視力は内部へ向かって照った。今や彼は、彼に内在する光に照明せられて数々のすばらしい反映となって再び彼の心へ把握せられるに至るような性質の現象へも視力を向けた。今やただ諸物の本質だけが彼に語りかけることとなって、その本質は、美の静平な光に包んでそれらの事物を彼に示すようになった。今や彼は理解する、森を、小河を、牧場を、碧々とした大気を、快活な群衆を、恋し合っている男女を、鳥たちの歌を、雲の列を、嵐のとどろきを、そして浄福のうごきを持つ静かさを。そこでこの不思議な朗快が彼の観照と形成との作用へ浸徹するのであるが、この朗快は彼をまって初めて音楽の
(54) ベートーヴェンは動物を愛し憐んだ。歴史家フォン・フリンメルの母が語ったところによると彼女は永いあいだベートーヴェンに対して捨て切れぬ恨みの感情を感じつづけていた。その理由 は彼女が幼い頃に、捕えようとした蝶々をベートーヴェンがハンケチを振ってすっかり追い払ってしまったために。
(55) 彼はいつでも住居に住みつけなかった。三十五年間にヴィーンで三十度転居した。
(56) ベートーヴェンは「同時代の音楽家の中で彼が最も高く評価した」ケルビーニに自分の方から手紙を書いた。(ノール・第二百五十)ケルビーニは返事をしなかった。
(57) 彼は或るときナネット・シュトライヒャー夫人に宛てて――「復讐なぞということはけっして私はしない。他人に反対する行ないをしなければならないような場合には、ただ彼らに対して身を護り、また、彼らがそれ以上悪を行なうことを妨げるために、どうしてもせざるを得ないことだけをします。」
(58) ノール・第三百四十三
(59) ノール・第三百十四
(60) ノール・第三百七十
(61) ノール・第三百六十二―六十七。カリシャー氏がベルリンで発見した一通の書簡は、ベートーヴェンが、どれほど熱心に彼の甥を「国家のために有為な廉直な一市民」にしようとしたかを示している。(一八一九年二月一日)
(62) その後ベートーヴェンに会ったシンドラーは彼が急に老 けてしまって、七十歳位の衰えた虚弱な意気地の抜けた老人みたいな風采になっているといった。
(63) 好事癖 の盛んな今の時代には、この恥知らずの甥を洗って潔白にしたがる試みもなされたが、こんなことも別に驚くには当たらない。
(64) フィッシェンニッヒからシャルロッテ・シルラー(詩人シルラーの夫人)宛の手紙(一七九三年一月)。シルラーの詩『歓喜への頌歌』が書かれたのは一七八五年である。――ベートーヴェンが「頌歌」につけた合唱の現在の主題 は一八〇八年の『ピアノ、オーケストラおよびコーラスのためのファンタジー』(作品第八十)さらにまた一八一〇年の歌謡曲 、ゲーテの詩「小さき花や小さき花びら」Kleine Blumen, kleine Bltter につけたものの中にすでに現われているのである。――ボンのエリッヒ・プリーガー博士が所蔵するところの一冊のノート・ブックの中に、『第七交響曲』の草案や『マクベスの序曲 』の計画 などの中に交じって、シルラーの詩句を音楽主題へ嵌めようとする試みのあるのを私は見たことがある。この音楽主題は、その後ベートーヴェンが作品第百十五(Namensfeier『命名日の祝』)の序曲の中に用いたものである。――『第九交響曲』の器楽の主題の幾つかは一八一五年以前にすでに現われている。「歓喜 」の決定的主題 はベートーヴェンがこれを『第九』のすべての合唱の主題とともに(ただしもっと後にできた三重唱 だけは別であるが)一八二二年に草稿によって確定したのである。それから andante moderato ができ最後に adagio ができた。
シルラーの詩『歓喜への頌歌』および、その詩の中の歓喜 という語を近頃自由 と読もうとしたことから生じた誤った解釈についてはシャルル・アンドレルが Pages libres「自由なページ」誌(一九〇五年七月八日)に発表した一論文を参照。
(65) ベルリン図書館。
(66) Also ganz so als stnden Worte darunter.「その譜には詩句がずっと副 っているかのように。」
(67) ニ長調の『荘厳な弥撒曲』(作品第百二十三)
(68) 家事の繁労、さまざまな心労に逐われて一八一六年から二一年までの五年間に彼はピアノの為の三つの作品(作品第百一、百二、百六)しか書かなかった。ベートーヴェンはもうだめだと敵たちはいった。一八二一年から彼は再び作り始めた。
(69) 一八二四年二月。署名者は、公爵C・リヒノフスキー、伯爵モーリッツ・リヒノフスキー、伯爵フリース、伯爵ディートリヒシュタイン、伯爵パルフィー、伯爵ツェルニーン、イグナッツ・エートラー・フォン・モーゼル、カルル・ツェルニー、僧 シュタットラー、A・ディアベリ、アルタリア、シュタイナー、A・シュトライヒャー、ツメスカル、キーゼヴェッターその他。
(70) 「私の道徳的性格は世間に広く承認せられているのみならず、ヴァイセンバッハのようなすぐれた文筆家がそれについて文章を書く労を惜しまなかったのであります」と、ベートーヴェンは一八一九年二月一日に、甥に対する後見の権利を取り戻すためのヴィーン市当局宛の手紙の中で誇らかに述べている。
(71) 一八二四年八月に、彼は急な発作で死にはしないかという恐れにとらわれていた。「私がよく似ている私の親愛な祖父と同じにたぶん私は急死しそうな気がします」と医師バッハに宛てて書いている(一八二四年八月一日)。彼は激烈な胃痛に苦しんでいた。一八二四年から二五年にかけての冬、容態がたいへん悪かった。二五年の五月には喀血と鼻血に苦しんだ。同年六月九日に甥に宛てて――「わしの衰弱はたびたび極度になる。大鎌を持った男(死)は、もう余裕をわしにくれまい。」
(72) 『第九交響曲』のドイツにおけるそもそもの初演は一八二五年四月一日、フランクフルト市においてであった。ロンドンで早くも同年三月二十五日に、パリでは一八三一年三月二十七日に音楽学校 に拠って初演奏。十七歳のメンデルスゾーンは一八二六年十一月四日にベルリンのイェーガーハルレでこの作品をピアノで紹介した。当時ライプチッヒの大学生であったリヒアルト・ヴァーグナーは『第九』の譜の全部を自分の手で写し取った。出版者ショット宛の一八三〇年十月六日の手紙でヴァーグナーは、この作をピアノ双手奏に書き変えた譜を作ろうと申し出ている。『第九交響曲』がヴァーグナーの全生涯に決定を与えたということは断言ができる。
(73) 「アポロ神と芸術の女神 たちとがまだまだ死神に私を引き渡しはしますまい。私はあの芸術神たちに支払うべき仕事をまだたくさん持っているのですから。「霊」が私に書けと命じ、完成せよと命ずることがらを成就してその後に、私は「エリジウムの野」(「幸福なる者たちのいる仙境」)へ降りて行くでしょう。私は今までにまだ何ほどの音楽も作っていない気持がしています。」(出版者ショット兄弟宛、一八二四年九月十七日――ノール・第二百七十二。〔訳者注――ライツマン・第二巻第百九十九頁〕)
(74) ベートーヴェンは一八二七年三月十八日にモーシェレスに宛てて――「すっかり草案のでき上がった一つの交響曲が、新作の序曲 といっしょに僕の机の引出しにはいっている。」この草案はその後発見せられない。――手記の中に次のように書かれてあることだけがこの作品を暗示している――
「Adagio cantique「賛歌的な緩徐調」――古代ふうの一交響曲のための宗教歌。『主なる神よ、われらおんみを讃 めまつる――ハレルヤ(Herr Gott, dich loben wir, Alleluja)』独立的なものとするか或いは追覆曲 の導入部とするか。この交響曲は終曲 またはアダジオの中に声楽を入れることによって特徴づけられることができよう。オーケストラのヴァイオリン等は最後の楽章で十倍にする。或いはアダジオを何かの仕方によって最後の楽章で反覆して、そこに声楽が順次挿入せられる。アダジオの詩句はギリシャ神話、旧約聖書中の雅歌。急調 の中で酒神 の祝祭。」(一八一八年)このように、声楽合唱を入れる終曲は本来は『第十交響曲』のために考えられていたのであって『第九』のためではなかった。
その後ベートーヴェンのいったところによると、彼はゲーテが『ファウスト』第二部で試みたような、近代世界と古代世界と〔訳者注――キリスト教を閲した世界と、それ以前のギリシャ的世界〕の和解を『第十交響曲』の中で成就したいと望んでいた。
その後ベートーヴェンのいったところによると、彼はゲーテが『ファウスト』第二部で試みたような、近代世界と古代世界と〔訳者注――キリスト教を閲した世界と、それ以前のギリシャ的世界〕の和解を『第十交響曲』の中で成就したいと望んでいた。
(75) グリルパルツァーの『メルジーネ』の筋は、美しい水の精メルジーネに恋して結婚しやがてまた、自分が失くした自由への憧れ心を感じて悩むというあの騎士の物語である。この題材とタンホイザーの問題とのあいだには確かに相似点がある。ベートーヴェンは一八二三年から二六年までのあいだに『メルジーネ』の作曲に取りかかっていた。(A. Ehrhard: Franz Grillparzer, 1900 参照)
(76) 一八〇八年以降ベートーヴェンはゲーテの『ファウスト』に拠る作曲を計画していた。(『ファウスト』第一部は一八〇七年の秋に『悲劇 』という表題で世に出たばかりであった。)この計画はその頃の彼にとって最も大切な計画だった。Was mir und der Kunst das Hchste ist.「これは私にとってまた音楽にとって至上の仕事である。」
(77) 「フランスの南方へ! そこへ行こう! そこへ行こう!」Sdliches Frankreich! dahin! dahin!(ベルリン国立図書館に在る「手帳」より)「ここを立ち去ることだけがお前自身を救う唯一の方法だ。それによってのみお前は再びお前の芸術の高みへ舞い登ることができる。――もう一つだけ交響曲を作ったら――出発だ――出発だ――出発だ。夏中仕事をして旅費をつくる……それからイタリアを、シシリー島を、二、三の芸術家たちと遍歴する。」(同じ「手帳」)
(78) 一八一九年に彼はもう少しで官憲といざこざを起こすところだった。理由は彼が「キリストは結局はりつけにされたユダヤ人さ」と大声でしゃべったためである。しかるに当時彼は『荘厳な弥撒曲』を書いていたのである。このことは、彼の宗教的感激が、とらわれない性質のものだったことを十分に物語っている。(ベートーヴェンの宗教的見解については Theodor von Frimmel: Beethoven (Verlag Harmonie)第三版および Beethoveniana「ベートーヴェン資料」(Georg Mller 出版所)第二巻、Blchinger の章を参照。)政治的なことがらについてもベートーヴェンは政府当局の欠点と思われるところを忌憚なく批評した。とりわけ裁判の遅延によって故障を生じることの多い情実的弊害と不規律との少なからぬ裁判制度や、警察権の愚かしい濫用や、個性と活力とをそぐ非常識で無能なビューロクラシーや、最も高い地位を失わないことにのみ汲々としている堕落せる貴族階級の特権やを批評した。――当時ベートーヴェンの政治的同情は英国に向かっていたようである。
(79) 彼の甥の自殺未遂。
(80) クロッツ・フォレスト博士の論文『ベートーヴェンの最後の病気と死』参照。「医学時報」Chronique mdicale(一九〇六年四月一日および十五日)――「筆談帳」の中にはかなり正確な示唆がある。また、ベートーヴェンを診察していた医師(ドクトル・ヴァウルーフ)自身が書いた rztlicher Rckblick auf L. v. B. s letzte Lebenstage『ベートーヴェンの生涯の最後の日々への医学的省察』(一八二七年五月二十日記)という一文も参考になる。(この文章は Wiener Zeitschrift(一八四二年)に所掲)
ベートーヴェンの最後の病気の経過には二つの段階があった。第一は、肺の病状が現われて六日後にそれがおさまったらしい。「七日目に彼は大変いい気分になって、起きて歩いたり読んだり書いたりすることができた。」第二は、血液循環の障害に促進せられた消化器系統の障害。「しかし八日目に私は少なからず驚いた。午前の往診のとき、彼が全身に黄疸の症状を呈してよほど容態のわるいのを私は見た。激烈な吐瀉下痢の発作のため、その前夜は持ちこたえるかどうか心配せられたほどだったという。」このときから水腫 が来た。
実はこの容態悪化には詳細には判らない一つの精神的な原因が隠れていたのだ。「人から受けた或る忘恩的態度と、やくざな、礼を失した仕打ちに対するはげしい憤りと深い悲しさとが原因になってベートーヴェンの病状は悪化した。肝臓と腸との激痛に彼はブルブル悪寒にふるえながら身体をちぢめていた。それまでにかなりむくんでいた両脚の水腫がひどくなった。」と、ドクトル・ヴァウルーフは書いている。
これらのいろいろな点から総括して、ドクトル・クロッツ・フォレストは、肺充血の発作ののち肝臓の萎縮硬化 Lanne Leberschrumpfung が腹部と脚と足との浮腫をともなって来たのだと診断している。彼の意見ではベートーヴェンが酒精飲料を過度に飲んだこともこの症状の原因になっているという。これはすでにドクトル・マルファッティーの意見でもあった。Sedebat et bibebat「坐ると飲んだ。」
実はこの容態悪化には詳細には判らない一つの精神的な原因が隠れていたのだ。「人から受けた或る忘恩的態度と、やくざな、礼を失した仕打ちに対するはげしい憤りと深い悲しさとが原因になってベートーヴェンの病状は悪化した。肝臓と腸との激痛に彼はブルブル悪寒にふるえながら身体をちぢめていた。それまでにかなりむくんでいた両脚の水腫がひどくなった。」と、ドクトル・ヴァウルーフは書いている。
これらのいろいろな点から総括して、ドクトル・クロッツ・フォレストは、肺充血の発作ののち肝臓の萎縮硬化 Lanne Leberschrumpfung が腹部と脚と足との浮腫をともなって来たのだと診断している。彼の意見ではベートーヴェンが酒精飲料を過度に飲んだこともこの症状の原因になっているという。これはすでにドクトル・マルファッティーの意見でもあった。Sedebat et bibebat「坐ると飲んだ。」
(81) 歌唱者ルートヴィッヒ・クラモリーニは近頃出版された『回想記』の中に、彼が死に近い病床のベートーヴェンを訪れた日の感動的な思い出を書いているが、そのときのベートーヴェンの快活さと親切さとには人の胸を打つものがあった。(一九〇七年九月二十九日の新聞 Frankfurter Zeitung 参照)
(82) 手術は十二月二十日、一月八日、二月二日および二十七日に行なわれた。――死の床にいるこの気の毒な男は、おまけに南京虫に噛まれて苦しんでいた。(ゲルハルト・フォン・ブロイニングの手紙)
(83) 若い音楽家アンゼルム・ヒュッテンブレンナー。
「神は頌 むべきかな!」とブロイニングが書いている――「永い間苦労の多かったこの受難の一生を神がついに終わらしめ給うたことを神に感謝しようではないか!」
ベートーヴェンの筆蹟原稿、蔵書、家具一切は競売によって千五百七十五グルデン〔訳者注――一グルデンは二マルク〕で売り払われた。目録には二百五十二の原稿と音楽書籍があったが、その全部の売価は九百八十二グルデン三十七クロイツァーを超えなかった。「筆談帳」と「日記」全部の売価が一グルデン二十クロイツァーであった。――ベートーヴェンの蔵書の中には次のようなものがあった――
カント『自然科学と天文学理論』Naturgeschichte und Theorie des Himmels ボーデ『天体の知識の手引き』Anleitung zur Kenntnis des gestirnten Himmels トーマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』Nachfolge Christi. 検閲官が押収した書物はゾイメ Seume『シラクサへの旅』Spaziergang nach Syrakus コッツェブー Kotzebue『貴族論』フェスラー Fessler『宗教および教会についての意見』Ansichten von Religion und Kirchentum.
ベートーヴェンの筆蹟原稿、蔵書、家具一切は競売によって千五百七十五グルデン〔訳者注――一グルデンは二マルク〕で売り払われた。目録には二百五十二の原稿と音楽書籍があったが、その全部の売価は九百八十二グルデン三十七クロイツァーを超えなかった。「筆談帳」と「日記」全部の売価が一グルデン二十クロイツァーであった。――ベートーヴェンの蔵書の中には次のようなものがあった――
カント『自然科学と天文学理論』Naturgeschichte und Theorie des Himmels ボーデ『天体の知識の手引き』Anleitung zur Kenntnis des gestirnten Himmels トーマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』Nachfolge Christi. 検閲官が押収した書物はゾイメ Seume『シラクサへの旅』Spaziergang nach Syrakus コッツェブー Kotzebue『貴族論』フェスラー Fessler『宗教および教会についての意見』Ansichten von Religion und Kirchentum.
(84) 「困難な何ごとかを克服するたびごとに私はいつも幸福を感じました。」(「不滅の恋人」への手紙)「おお、人生を千倍も生きることはすばらしい! 寂しい生活、いな、僕はもはや寂しい生活をするに適する人間ではないことを感じている。」(ヴェーゲラー宛、一八〇一年十一月十六日)
(85) シンドラーはいっている――「ベートーヴェン先生が私に自然の知識を授けた。〔ベートーヴェン先生に同行して野原や山や谷を歩く幸福が数えきれないほどたびたび私に与えられた。〕彼は私に音楽の研究を指導したと同様に自然の研究を指導した。彼の心を魅惑したのは自然の諸法則ではなくてむしろ自然の本源的な力であった。」
(86) 「おお、この人生は美しい。しかし僕の生活にはいつまでも苦い毒が交ぜられて(vergiftet)いる。」(ヴェーゲラー宛、一八一〇年五月二日)
「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」Durch Leiden Freude という言葉は、一八一五年十月十九日にエルデーディー伯爵夫人に贈られた。
〔訳者注――ライツマン・第二巻第百七頁にこの手紙がある。エルンスト・ベルトラムが一九二七年にケルン大学でやった「ベートーヴェン」講演の中で用いている「無限の霊を持てるわれら有限の者たち」Wir Endliche mit dem unendlichen Geist というベートーヴェンの言葉も同じ手紙の中にある。
「……無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう――最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと……」〔傍点訳者〕〕
〔訳者注――ライツマン・第二巻第百七頁にこの手紙がある。エルンスト・ベルトラムが一九二七年にケルン大学でやった「ベートーヴェン」講演の中で用いている「無限の霊を持てるわれら有限の者たち」Wir Endliche mit dem unendlichen Geist というベートーヴェンの言葉も同じ手紙の中にある。
「……無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう――最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと……」〔傍点訳者〕〕