日本で、もう一度ノンビリ滞在してあの村この町を歩いてみたいと思う土地は、まず飛騨である。五月ぐらいの気候のよいときが望ましいが、お祭のシーズンもよいかも知れぬ。京都はギオンの夏祭りをのぞいて多くの主要な祭が春の二ヶ月間ぐらいに行われるから祭のシーズンというものがあるが、ヒダはそうでもないらしいから、まとめてお祭を見るわけにはいかないようだ。
お祭りという隠居じみたことをなぜ持ちだしたかというと、お祭りには御開帳というものがあって、ふだんは見せてくれないものを見せる。ふだん見せてくれないものがヒダには多いのである。そして、そのなかには他の土地の秘仏とケタの違う作品がある筈だと私は見当をつけているからだ。
大昔からヒダの大工をヒダのタクミという。大工でもあるし、仏師、仏像を造る人でもあるし、欄間などの精巧な作者でもある。玉虫の厨子のようなものも彼らの手になるものが多かったように思われる。日本の木造文化や木造芸術の源流は彼らに発し、彼らによって完成され、それを今日に伝承していると見られるのである。
ヒダのタクミとはヒダの大工ということで、一人の名前ではない。大昔から、大和飛鳥のミヤコや、奈良のミヤコ、京のミヤコも彼らなくては出来なかったものだ。後世に至って、左甚五郎があるが、これはヒダの甚五郎のナマリであろう。彼の製作年代が伝説的に長い時期にわたっているのを見ると、これも特定の個人の名ではなくて、単にヒダのタクミという場合と同じような、バクゼンとヒダの名匠をさしているもののようである。名匠は概ねあらゆる時代に居たようだが、いずれも単にヒダのタクミで、特定の名を残している者は一人もない。伝説的に最古の仏師と目せられる
作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上もない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味いつつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであった。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすらもとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるのです。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりません。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみたしてきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるような考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。
だからヒダには今も各時代の名匠たちの名作が残っているということは、古美術の専門家すらも知らないのです。むろん私も知らなかった。だから私がヒダの旅にでたのは、ヒダのタクミに関係した目的も含まれていたが、それですらも彼らの隠れた名作に接することがあろうなどゝは夢想もせずに出発したのです。
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ヒダのタクミが奴隷として正式に徴用をうけはじめたのは、奈良朝時代から皇室の記録にでてきます。しかし彼らが帝都の建設に働いたのは、もっと古い時からだ。けれども、それは記録にはでてきません。しかし彼らの本当の活躍は現存する記録時代の以前にあったと思われますが、その時代には彼らは徴用工ではなかったのでしょう。なぜなら大和飛鳥へ進出してそこの王様を追いだして中原を定めたのはヒダの王様でありました。それが
そして大和から追われた嫡流の皇子は故郷たるヒダへ逃げこんで戦って亡されました。それが大友皇子にも当るし、聖徳太子か、太子の嫡男たる山代王にも当るし、
たとえば万葉の歌に、ミヤコから美濃と尾張の境にちかいククリの宮の恋人のところへ通うのに木曾の山を越え美濃の山を越えて、とよまれています。そんなバカな道順があるものか。大和飛鳥の都からククリの宮へ行くには奈良や京都や伊賀や近江を越えるかも知れんが、美濃の山や木曾の山はその向う側じゃないか。てんで話にならぬバカ歌だ。地理を心得ぬこと甚しい。こう云って一笑両断、バカ歌のキメツケを与えて一蹴してしまう。それが過去の歴史の在り方です。しかし天智天皇よりもちょッと前まで都はヒダや信濃にも在ったにきまっているのです。それはこういうアベコベの地理やマチガイ年号を書いているバカ歌やバカ本や金石文等の数々を見ればすぐ分るのです。
そういうわけで、ヒダの王様が大和飛鳥へ進出して中原を平定したのだから、奈良朝以前の、つまり現存の国史の書かれた以前に於てそのミヤコをつくったのはヒダのタクミであったのは当然ですし、また、彼らが大和飛鳥へ進出以前の首府としていたヒダの古京にもヒダのタクミの手になる宮殿も仏寺も(すでに仏寺もあった筈です)したがって日本最古の仏像もあったに相違ないのです。
ヒダの王様が大和へ進出する前に大和飛鳥に居た王様は
天武天皇も持統天皇もヒダ王朝出身の皇統に相違ないのですが、嫡流を亡して、故郷のヒダを敵にしたから、しばらくの期間はヒダのタクミたちを召しだしてミヤコづくりの手伝いをやらせるのに差支えがあったように思われます。いろいろと手をつくしてヒダの土民のゴキゲンをとりむすんで、奈良京の終りごろにはどうやらヒダにも国司を置いて税をとることもできるようになった。
平安京をつくる時にはヒダからとる税はヒダのタクミだけです。山国のヒダに物資が少いせいもあったかも知れませんが、ヒダのタクミの必要は甚大で、毎年百人ずつのタクミをヒダから徴用し、他にはタクミの食う分の米だけ取りたてているにすぎない。
この徴用タクミはよく逃げた。それは必ずしも過去の感情の行きがかりのせいばかりでなくて、他の国から召しだされた税代りの奴隷や使丁もよく逃げたし、土地に定着している農民まで税が重いので公領から逃亡して、私領へ隠れたものです。タクミもミヤコ作りの仕事場からさかんに逃げたが、故郷へ帰ると捕われるから、私領へ逃げる。諸国の豪族や社寺はタクミの手が欲しいからこれをかくまって厚遇して仕事をしてもらう。
奈良、平安初期には、逃亡したヒダのタクミの捜査や逮捕を命じた官符が何回となく発せられていますが、特に承和の官符には、変ったことが記されております。即ち、
「ヒダのタクミは一見して容貌も言葉も他国とちがっているから、どんなに名前を変え生国を偽っていても一目で知れる筈である」
という注目すべき人相書様の注釈がついているのです。
これによって考えると、ヒダ王朝の王様の系統と、タクミの系統は人種が違うようです。ヒダ王朝系統は楽浪文化を朝鮮へ残した人々の系統で、蒙古系のボヘミヤン。常に高原に居を構え、馬によって北アルプスを尾根伝いに走ったり、乗鞍と穂高の間のアワ峠や乗鞍と御岳の間の野麦峠を風のように走っていた。その首長は白馬に乗っており、それが今も皇室に先例をのこしているようだ。したがって、彼らは現今その古墳から発見される如くに相当高度の文化を持っていたが、居住の点では岩窟を利用したり、移動的テント式住居を慣用したりして、建築文化だけが他に相応するほど発達していなかったようです。またこの一族は山中に塩を探している。海から塩をとることを知らなかったようです。
彼らに木造建築法を教えたのは、彼らとは別系統の人々で、折よくヒダの先住民の中に木造建築文化をもつタクミ一族が居合せたのか、彼らがそれを支那、朝鮮から連れてきて一しょに土着したのか、それはハッキリしないが、人種の系統は別であったろうと思われます。
ヒダのタクミの顔とは、どんな顔なのだろう。一見して容貌も言葉も他国とちがうからいくら偽っても分る、という。それは千百年ほど前の官符の言葉ですが、今でもそんな特別な顔があるでしょうか。ヒダ人は朝敵となって、追われて地方へ分散した者が多いし、他国からヒダへはいって土着した者も多く、千百年の時間のうちには諸種の自然な平均作用があって、ヒダの顔という特別なものがもうなくなっているかも知れない。
しかし、私は戦争中、東京の碁会所で、ヒダ出身の小笠原というオジイサンと知り合った。その顔は各々の目の上やコメカミの下や、目の下や口の横や下などにコブのような肉のもり上りがくッついていて、七ツも八ツものコブが集って顔をつくっている。その中に目と鼻と口があって、コブとコブの間の谷がいくつもあって、そのコブは各々すすけたツヤがあって、一ツの顔ができ上っているのです。
ところが大家族制で有名なヒダの白川郷の写真を見ると、そこのジイサン連の顔が似たようなコブコブと谷間が集ってできてる顔ですね。すると、こういうのがヒダの顔かなア、と私は思った。
いったいヒダというところは、昔はミノとヒダを一ツに合せてミノとよんでいたようだ。だから昔のミノはヒダを含んでいるし、ヒダはミノ全体でもあって、私が昔のヒダ王国というヒダはミノも含めた全体です。また信濃も一しょに含まれてこの一族の本貫本拠をなしていたとみてよろしい。越前の大野郡も含まれていたようだ。その古いミヤコは今のヒダの高山と古川の中間にあったと見られるが、また信濃の松本のあたりにもあったようだし、南下して今のミノの
当時は今のカガミガ原のあたりまで入海がきておって、大和飛鳥へ進出するには、陸路づたいの軍兵もあったろうが、舟でこの辺から出て伊勢熊野へ上陸、主力はそっちから攻めこんだようだ。伊勢から鈴鹿を越えたものと、熊野から吉野へ降りて大和へ攻めたものとあったらしい。神武天皇の東征の順はそれ以前の大和平定者たる物部氏の東征の順路と、ヒダ王家の大和進出の順路とを一ツにしているようである。天智以前の国史上の人物には、本当の史実が各時代の人物や事件に分散されたり集合されたりしておって、各々の時代に各々の特定の個人や業績があったわけではない。モロモロの人物や事件を合計して割ると、いくつもない人物と事件に還元されてしまう。本当の史実は百年間ぐらいの短期間に起った大和飛鳥の争奪戦にすぎなくて、九州四国中国方面から攻めてきて大和を平定したニギハヤヒ系の物部氏、次にこれを元の四国へ迫ッ払ったヒダ王家、次にその嫡流をヒダへ追い落して亡したヒダ庶流たる天皇家。この争奪戦のわずかの秘史を神話と三十代の天皇の長い国史に書き代えて、その秘められた史実を巧妙に偽装してしまったのであろう。
朝敵となったヒダ人の多くは信濃から関東へ東国へと逃げたのもあるが、信濃の松本からサイ川づたいに信濃川本流へでて出羽方面まで逃げたのが多かったようだ。平家の落武者という人間人種は、白川の如くに後日たしかにそれが混入したようでもあるが、主としてこの時のヒダ人の落武者ではないかと思う。ヒダ嫡流の皇子サマか天皇サマは殺されて白い鳥になってどこかへ飛び去ったという。ヒダの王様は神の意か、天皇の意か、コウとよんでいたようで、ヒダの古い京にコウノ岡、コウの森などの名が残っていますが、今も諸国にコウの鳥の伝説をもっているのはこの落ち武者の部落のあったところでしょう。白山神社、スワ神社などもここの神様でしょうが、八幡様もそうらしい。ほかにもいろいろこの一族の神様がありますが、以上の三ツなどがヒダ族の主要なウブスナのようです。ヒダ自身の第一の神社は
ヒダ王朝の嫡流を亡して庶流がとって変る時代の国史は、その偽装が幾重にも幾重にもと張りめぐらされておって、恐らく嫡流そのものの本体をいくつにも解体して、その一ツに自分のやった悪役を押しつけたりしているように思われるのですが、たとえば悪役の蘇我氏、または蘇我氏の先祖の竹内スクネ、これらは実在の人物ではなくて、嫡流を解体して幾体かにわれた分身のその一ツで、竹内スクネは神功皇后の
私はこの本もそっくり史実ではないと思っています。この本の作者か、もしくは註釈者(平安末期の相慶子ではなくて、この本の書かれた直後の註釈者)は、本当の史実も知っていました。しかし、この本は時流に即して、現天皇家の定めた国史たる記紀の記述にしたがい、それに合せて法隆寺の縁起や聖徳太子及びその一族のカンタンな歴史を書き残しました。そして現支配者の国史をくつがえして書く自由は許されないので、その偽装の国史に即す限りに於て記紀の誤りを正しておいた。
ところが、作者よりも註釈者の方がもッと大胆で、(実は同一人物かも知れません。かりに註釈者を設定したのかも知れない)たとえば、法隆寺蔵するところの繍帳縫著亀背上の文字を録したのちに、その文字の作者は更々実情を知らざるものである、と意味深重な註釈をつけているのです。そして、聖徳太子の死んだのは、その皇妃の死んだ二月二十一日の翌日である。それは金堂の釈迦像の光背の文字が示している通りである。ところが亀背上の文字は皇妃の死んだ日の翌日、推古三十一年二月二十二日に聖徳太子が死んだと書いている。(この太子の歿年は書紀も古事記も同じです)
ところが註釈者の曰く、釈迦像の光背の文は皇妃の死の翌日に太子が死んだと書いてはいるが、皇妃の死の翌日とあるだけで、決して同じ年の翌日とは書いてない。つまり、太子はたしかに二月二十二日に死んでる。しかし、皇妃の死んだ年の二月二十二日ではないのだ、という実に注目すべき意味深重な暗示をなしているのです。
この法王帝説という本の中で最も重大なのはこの註釈のくだりですよ。巷宜、註、蘇我也、という。これも意味深重な暗示らしい。このところでは、記紀の史実に従いながら、何事か重大な暗示をしようと努めており、その重大なカギがこの註釈のくだりに必ず隠されているように私は思う。私が日本の歴史を疑りはじめたのはここから出発しているのですが、この暗示からはまだ直接の解答をひきだすことができません。
欽明天皇の時代に仏教が渡来した。この欽明天皇及びそれ以後五代にわたるヒダ王家の嫡流は皇居を大和に定めつつもヒダにも(今のミノか)居城か行宮があった。飛鳥寺というのは大和の飛鳥ではなくて今のミノの武儀郡あたりにあったんではないかね。聖徳太子の七大寺のうち定額寺(葛城氏に与えた)というのは、ミノか伊那であろう。物部守屋が像をすてたというナニワの堀江はミノの武儀郡と稲葉郡のあたり、入海がカガミガ原まできていた頃のその海ちかい堀江だろうと思う次第がある。今はそこに南波という地名があるとだけ述べておきましょう。くわしい探偵の結果は後日にヌキサシならぬ物的証拠をとりそろえて本格推理日本史を書くことに致します。
推古天皇の小治田の宮は尾張田の宮とよむのだろう。大和にも皇居はあったであろうが尾張田が暗示するように尾張の国境にちかいミノの地に居城があったと私は思う。この天皇の陵は、大野岡の丘の上より後に
ヒダの嫡流が負けて亡びたとき、ヒダにあった主要な皇陵はあばかれて持ち去られ、神社の神体も、仏寺の仏像も焼かれたり持ち去られたりしたろうと思われます。しかし、そのとき、わずかながら隠されて残ったものがある。その寺はワケあって再建されないが、名もないお堂のようなものの中に、秘密の仏像だけが今も残って伝わるような事実がありうるような気がする。バクゼンとそういうことが考えられるのである。
しかし、そういうことは過去に於て公然と言いうることではなかったから、何寺や何堂に古代の何があるという確かなことは文献的には知り得ない。過去に庶流の朝廷を認めずに闘争的だったヒダ人も、千年の時の流れに祖先の歴史を忘れきってしまってもいる。
――せめてヒダ人の顔がいくらかでも残っておれば、それだけでもホリダシモノだな……
私はヒダの旅にでるときバクゼンとそう考えて、そこにだけ多少の期待をもっていたのであった。
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ドシャブリのクラヤミに
私はヒダの第一夜を下呂でねようとは思っていなかった。もっと名もない町や村で、自分の土地の旅人ぐらいしか泊らないような宿をさがして泊りこんで、古いヒダの顔や言葉が今もどこかにありうるかどうか、私のカンが最も新鮮な第一夜に昔ながらの土地の匂いを嗅ぎ当ててみたい、そう考えていたのだ。
ところが、ドシャ降りである。岐阜駅の鉄道案内所の話では、下呂以外に、ヒダの小さな駅に旅館があるかどうか、たぶんないだろうという話である。ドシャ降りでなければ、まだしもデタラメに下車して当ってみて、民家へもぐりこむ方法を案じることも不可能ではない。ドシャ降りでは仕方がないから、下呂へ降りた。
折からの土曜で旅館はたいがい満員らしかったが、予約した部屋がまだ一ツあいてるが、この汽車で予約の人が着かないからたぶん雨で来ないのだろうという次第で、水明館へすべりこむことができた。
私はこの旅行に「ヒダを語る」というウスッペラな通俗案内書を一冊だけぶらさげて出かけた。ところがこの本は水明館の死んだ先代の著した本だそうだ。その未亡人がやってきて、
「その本はこの土地では手にはいらなくて、一冊ほしいと探していましたが、よくまアお持ちですこと」
再版したいと思って探していたところだが、用がすんだら借してくれと云う。よろしい、と約束してきたが、旅行中に手帳をなくしたので、この本にメモをかきこんだから、まだ用が終らない。もう、じき終るでしょう。
この水明館の先代というのはヒダ出身ではないそうだ。それで却ってヒダについて他国へ紹介したいような気持を起したのかも知れない。ヒダで生れてヒダで育った人というものは、ほとんど自分の国について人に語るべき多くの興味を持たないようだ。
私は考えていた。ヒダの郷土史家の中に、ヒダ流の方法で郷土史を考えている人はないかと。――ヒダ流の方法というのは、ヒダ王朝は日本国史のタブーであり、それは完璧に隠されているが、ヒダに残った伝説をモトにしてヒダ流の国史を考えている人はないか、という意味である。しかし、そういう独特の史家はいなかったようだ。水明館の先代は、むろんそういう史家ではないし、元来が史家でもない。とりとめもない通俗案内書の一種にすぎないのである。
私の部屋の係りは二人のヒダ生れの女中であった。その姉さん株の一人はまさにヒダの顔であった。他国でザラに見られる顔ではない。幾つかのコブがかたまって出来ている顔なのである。こういう顔はその後の旅中に男には三四見かけたけれども、女では彼女の顔が私の見た唯一のものであった。
「いつでしたか、ヒダの顔だと
と、女中は私の言葉を肯定した。ヒダの顔というものに気づいた人がいるらしい。
翌日、高山へたつとき、女中は駅まで送ってくれた。この日も雨であった。彼女は全然無口であったが、汽車のでるまで雨中に立っていた。私はヒダそのものに見送られているようなノンキな旅愁を感じたのである。
高山へつくと、長瀬旅館から車が迎えにでていてくれた。ただちに、雨中の市内をまわってもらう。
私がヒダ王朝の歴史をたしかめるために行かなければならないところは、概ね遠く山中にあるのだ。早朝に出発しなければならないし、雨の日では都合のわるいところであった。とりあえず国府のあとや、高山市内の神社をめぐって歩く。神社の表カンバンの祭神ではなくて、横ッチョに小さく祀られている陰の神サマ、そして恐らく本当の祭神たる神サマをかぎあてるためであった。たいがいの神社の裏手は大きな山で、古墳のようであった。
高山には七台のタクシーと七人のタクシー運転手がいるそうだが、そのうち四名の運転手のヤッカイになった。彼らはいずれも自動車をのりすてた場所から山中へわけこんで雨中をいとわずカンナン辛苦をともにしてくれるのだから、まさしくヤッカイになったと言わざるを得ないのである。中には道のない山中へ一しょにふみこみ、山腹の木の根を伝い岩をよじて、私はまさに死の瀬戸際まで追いつめられた感があったが、ために医者にかかった運転手までいたのである。運転手の献身的な行動は、一ツは長瀬旅館の配慮によるもののようでもあった。
高山市内を案内した運転手は一風変っていた。彼は私の命じた遺跡や神社以外のところで時々車をとめた。ここに仏像があります、とか、仁王様があります、と云いながら。私が思いもよらぬヒダのタクミの名作に接したのは、この運転手のおかげによるものであった。のみならず、それらの名作は彼以外の案内人、たとえば郷土史に通じている文化人に案内をたのんでも、そこへ案内してくれたかどうか疑わしい。なぜなら、後日山中へわけこんでロッククライミングの難路をあえいでいるとき、それまでメモをつけておいた大事の手帳を失ってしまった。そこで失われたメモを復活せしめるために土地の然るべき文化人に私の忘れた寺の名、タクミの名作の所在の大雄寺(ダイオージとよむ)の仁王というのを訊いても、なかなか分らない。それは彼らが物を知らないのではなく、つまり土地の人々は歴史的にヒダのタクミの作品に無関心なのである。彼らはむしろ円空という他国からきた坊主の彫りの腕をほめるのである。徳川時代の坊主で、生国はハッキリしないが、ヒダの人間でないことだけはたしかである。彼は千光寺に住んで、放浪の足を洗い、やたらにナタ一丁で彫りまくった。それがヒダの諸方の寺にある。これをタクミ以上の名作だと云うのである。
彼らが伝統的の気風として土地のタクミについて無関心であるのは結構であるが、円空の作をほめるのは甚しい心得ちがいである。
私はヒダのタクミの名作は、時間の都合があって、いくつも見ることができなかった。ヒダのあの町にこの村に、まだまだ多くの名作が人に知られずに在る筈なのだ。そして、知られざる秘仏の中には、大和の飛鳥朝以前の名作があるかも知れない可能性がある。私はそれを探してみたかったが、何がさて他に目的のある旅であるし、時日も甚だ限られていて、たまたま他の目的で出向いた先で仏像を見せてもらう程度であったが、そこは概ね兵火で焼かれたところであり、もしくは開帳の当日以外は見せられない秘仏であるために、収穫がなかったのである。
私の見たものでは国分寺の本尊、伝行基作という薬師座像と観音立像がすばらしかった。伝行基という手前のせいか、これだけは国宝であったが、諸国でザラに見かける伝行基という非美術品とは違って、これこそはヒダのタクミの名作の一ツであろう。
ヒダの国分寺は創建もまもないうちに焼けた。そこにあった行基作の仏像は共に焼けたに相違ない。今の小さな国分寺ができたのち、高山市の他の寺から、この二ツの仏像をゆずりうけて本尊としたものの由である。
これこそはヒダのタクミという以外に作者の個有の名を失った伝統があって、はじめて生れてくるような名作である。
「美しいなア」
私は思わず叫び声をあげて見とれた。まったく、叫んで、見とれるだけの仏像である。ほかに何もない。この仏像は何も語らないし、一言も作品以外の言葉で補足しようとするようなナマなクモリがないのである。このタクミの名人の澄みきった心境はただ仏像をつくって自ら満足すれば足りるだけのことであったし、その技術もまた心境と同じようにクモリもなく完成されている。そして出来上ったのが一ツのクモリなく一ツのチリもとめていない、ただその美しさに見とれる以外に法のないこの仏像であったのだろう。
円空などいう坊主の作は、とても、とても、こうは行きません。雲泥の差です。私は千光寺で彼の多くの作を見た。彼も、世をすて名をすてたかのような坊主であるが、意識的にそう装うている心境の臭気は作品にハッキリ現れている。その作品がいかにも世をすてた人の枯淡、無慾の風格をだそうとしているだけに、実は甚だ俗悪な慾心や気取りが作品のクモリとなってむらだっている。いろいろな俗な饒舌で作品を補足しようとする言葉の数々が目にしみてイヤらしい。
国分寺の観音サマや薬師サマには作品を補足する一言もありません。この仏像は全然無言で、自分を補足するような一ツの言葉もないのです。余分な、ナマな観念が一ツもありません。その美しさに見とれるだけでタクサン。スガスガしいほど言葉がなく、クモリも、チリもとめないのです。
また、この寺には、タクミの自像が二ツあります。一ツは烏帽子をかぶって、明らかにタクミの自像として伝えられていますが、もう一ツの僧形で、ケサをまとい、この寺の出ボトケとしてこれに手をふれると病気が治るというような御利益用に用いられ、つまり仏像として用いられています。しかしケサをまとうているけれども、これもタクミの自像らしく、さもなければ、この寺の何代前かの住職の像かな。
足利時代の作と伝えられているが、一方はタクミ自像とある通り、この顔がタクミの顔、ヒダの顔であるのは云うまでもない。やっぱりコブコブが寄り集って作っているのである。
大雄寺の山門の仁王様は、私が見た限りに於ては、日本一の仁王様である。
身の丈、三尺五寸ぐらい。だいたいチッポケな山門なのだ。寺に至ってはさらに貧相なつまらない寺だ。それにしても、とにかく山門をつくったから、お前ひとつ、仁王様をつくらんか、という次第で、山門なみにチッポケな仁王でタクサンだぜと念を押されて出来上ッたようなノンキな仁王様なのである。
一方は出来そこないの横綱が威張り返って土俵入りをしているような仁王様だ。ダブダブした腹の肉がたるんでダラシがないこと夥しいが、大いに胸をそらして両の手をぐいと引いて、威張りかえッて力んでいる。
一方の仁王様は、ちょッと凄んだ顔をしてみせたのはいいが、どうも年のせいか、息ギレがしていけねえ。しかし、どうだ、こうやって、こう、にらむ。年はとっても、このオレの凄味を見ねえ。ナニ、だらしなく口があきすぎると? だから云ってるじゃないか。どうも息ギレがしていけねえや。
しかし、チョイと凄んでみせたね。そういう仁王様であります。この名作は全然他国の人には知られずに、小部分のヒダの人に愛されているらしい。この山門の前は子供の遊び場であった。
私はこの仁王を見て、つくづく思った。
「なるほど。そうか。ヒダの顔というものが、たしか、どこかで見かけた顔だと思っていたが、仁王様の顔も、ヒダの顔じゃないか」
まさしく、そうである。仁王様がヒダの顔なのだ。仏師の誰かがこの世に在りもしないあんな怖しい顔をこしらえたわけではなくて、ヒダのタクミが見なれている仲間の顔にちょッと凄味を加えると、たちまちこの顔なのだ。それが、いつか、日本中の仁王の顔の型になったのであろう。
ヒダの高山やその近在で、歩いている仁王サマを時々見かけた。大雄寺の仁王サマと同じように息ギレがするのか、大口あいて、大目玉をギョロつかせて、縁台に休息していた年寄の仁王サマを見たこともある。そこは本町通りであった。また、菅笠をかぶって、ナタ豆ギセルを握りしめて野良から上ってくる仁王サマを見たこともあった。
そう云えば、観音の顔はヒダの女にも、水明館の女中のように男同様コブコブの顔もある。しかし、女の脂肪によってあのコブコブの間にある谷が埋まって平になった場合には、それはまるいツルツルした仏像の顔になるのである。
高山の長瀬旅館の女中にヒダの河合村の生れの娘がいた。この村の字月ヶ瀬というところで仏師止利が生れたという伝説がある。彼女はその隣り字の明ヶ瀬で生れたのである。彼女の顔は国分寺の薬師サマのようにマンマルでポチャ/\した顔であった。
「至るところに仏像がいらア」
このポチャ/\した顔はヒダの顔というよりも、雪深い北国の農村の代表的な顔のようだ。もとはヒダであったかも知れない。今では日本的な顔の一ツ、特に農村の娘の典型的な顔の一ツであろう。
ヒダの郷土史料のことでいろいろ手数をわずらわした田近書店という古本屋の主人が、現在のヒダのタクミに会っては、とタクミ某に会うことをすすめてくれた。私もはからざるタクミの名作に接して、甚しく驚嘆したことであるから、大いに会ってみたくもあったが、田近屋自身が現在はタクミの技術が劣えている時だと云う通り、タクミの技術には時代によって上下があり、いつも名人がいるというワケではないし、名人がそうザラにいるとは考えられないのである。
要するに、いつの時代のタクミにも名がなかったように、ナマ身のタクミに会うことなぞは考えずに、その名作のみを味うのがヒダのタクミの本質にそうことであろう。私はこう考えて、タクミに会う考えはやめにした。ただ、タクミの技術のことではなしに、ヒダの顔ということで、そういう顔の存在を今も知っているか、残っているか、どこにあるか、そんな心当りをきいてみたいと思った。一位彫り(ヒダの彫り物細工)のダルマの顔まで、いわゆるダルマの顔ではなくて、ヒダの顔なのである。ちょッと時代の古い物はみなそうだ。そういうヒダの顔について、彼らはそれを伝統的に無意識にやっているのか、モデルがあってのことか。そういう顔ばかりの聚落があれば面白かろうと考えたりしたが、それはあまりにもヒマの隠居好みのセンサクらしくもあるから、やめにしてしまったのである。
私がヒダの顔をしたダルマを買った店の娘は、きき苦しいほど他の店の悪口を云うのであった。私が買い物をした他の店をヒダの名折れであるとか、その店のためにヒダの塗り物全体が汚名を蒙ってしまうというような聞くにたえぬ悪罵を、私がそれに耳を傾けるフリをすれば恐らく半日は喋りまくるかも知れない。そのくせ、彼女自身はヒダの名折れになるような下らぬ細工物や彫り物を売りつけようとするのであった。ゲテ物屋でも、他店の悪口を言いたてて倦むことを知らぬ店があった。そういう店に限ってくだらぬイミテーションを売りつけたがるのである。
タクミの名作の口数の全くないのには似ざること甚大であるが、これもタクミの気質の一ツではあろうと私は思った。タクミの中にもヘタなタクミがタクサンいるし、名人の数にくらべてヘタなタクミの数が多いのも当り前の話であろう。ヘタなタクミの気質の一ツとして、やたらに他人の作品にケチをつけたがる気質があるのはフシギではない。ヒダのタクミが名人だけだと思うのは大マチガイであるし、その伝統をつぐ細工物や彫り物などの高山名物が今も芸術的であるかというと、決してそうではない。タクミの名作が名もないところに現存するということと、現在のミヤゲ物の芸術性とは、もはや関係がないようである。
しかし、この国だけが一風変ってガンコな歴史を残している。庶流の大和朝廷をうけいれずにかなりの期間ただヒダ一国のみがガンコに抗争して以来、明治の梅村事件に至るまで、何かにつけて妙にガンコな抗争運動をシバシバ起しているのである。その気風はやや異常であるし独特でもあり、それも一途なタクミの気質でもあるらしくもあるし、あのヒダの顔に結びつくものであるかも知れない。それはヒダ王朝の系統と別な、南方的なガンコな鼻ッ柱を感じさせる。そう感じるのは私の思いすごしであろうか。
とにかく、ここは奇妙な土地ですよ。今でもあの小さなヒダの国(ミノも加えて)の山中の町や村々をテイネイに見て歩けば、中央の美術愛好家や歴史家に全然知られていないタクミの名作や、大和の飛鳥や藤原京と同期もしくはそれ以前の仏像すらも、どこかの名もない寺に隠されて忘れ去られているかも知れないのである。そして千三百年も偽装のままで通ってきた歴史の秘密が、そこから次第に真相を語るようになるかも知れないのです。
ヒダの祭りの中には、神前で先祖伝来の伝えを口の中でモグモグくりかえす行事があって決してそれを人に口外しないことになってる部落などもあるようだ。その先祖伝来の伝えなども公開してもらいたいものである。探せばいろいろの秘められた物がでてくるかも知れぬ唯一の秘密国、歴史家の手の加わらぬ唯一の国であった。私にとっては他のどこよりもなつかしい国だ。なぜなら日本の芸術の本当の故郷がここであるし、また妙なイキサツで、その一国が現在に至るまで古墳の底へ閉じられたように史家の目から閉されていた。生きている人間までが歴史的に古墳の中の住人のようなものだ。この古墳からはミイラでなくて生きている歴史が発掘されるかも知れないからである。