大震災から三年過ぎた年の話である。昨今隆盛を極めているアパートメントの走りがそろそろ現れた頃で、又青年子女が「資本論」という魔法使いの本に
然し、たまたま時世が時世であったから、人々は栗栖按吉の考え深い顔付を見ると、さては、という必要以上に大きな空気をごくりと呑んで、つまりこういう顔付が刑務所の鉄格子のあちら側にある顔だと思いこんでしまうのだった。即ち、これが「主義者づら」だと思ったのである。
栗栖按吉という男が、この時まで、
涅槃大学の印度哲学科には十三人の生徒がいた。栗栖按吉という場違い者を除いてみると、あとはみんな素性の正しい坊主であった。
坊主の子供が大学へはいる。一番先に何をする。一番先に毛を延すのだ。必要以上にポマードをたっぷりつけて、ああ畜生めなんだって帽子などいう意味のはっきりしないものがあるのだろうと考えるのだ。と、容易ならぬ事件が起きた。突然栗栖按吉がクリクリ坊主になって登校したのである。これはもう革命を愛する精神だ。十二人の同級生は悲憤の涙を流したのだった。
まったく、なさけなくなるのである。栗栖按吉は小学校の一年生と同じように大きな帽子をかぶっている。帽子の中には新聞紙が三日分も折りこんであるのである。按吉は教室へ這入ってくると、やがて大きな帽子をぬぎ、ハンケチを持たないから、ポケットから鼻紙をだして、クリクリ坊主をふくのであった。
「ねえ旦那。頭に傷がつくかも知れないね。なにぶん頭というものは、
「或る程度まで我慢します」と、按吉は冷静に答えたのだった。頭には頭蓋骨というものがある。頭を剃るということとハムマーで殴ることとは違うから、脳味噌に傷のできる憂いはない。それを充分心得ている顔付だった。フレンド軒は横を向いて息をのんだ。この
ところで栗栖按吉はここに奇怪な発見をして度を失った。というのは、毛髪を失った頭の熱いことといったら、これを一体誰が信じてくれるだろう。普通汗をかくというが、クリクリ坊主の頭からは汗が湧出し流れるのである。目へ流れこみ、鼻孔をふさぎ、口へ落ち、耳にたまり、遠慮会釈もなく背中へ胸へ流入する。これはもう頭自体が
人体に於て最も発汗する場所はどこか? 頭! 毛髪はなんのために存在するか? 汗をふせぐためである! ああ。医学博士でも生理学者でも、ここまで知っている筈はない。なぜなら彼等には毛髪があるから。――まったくもって栗栖按吉の思考にうっかりこだわっていると、私まで愚かな奴だと思われてしまう。私は急いで話をすすめなければならない。
無意味な先生は誰かと云えば、先生よりも
こんなにあっさりしたクラスに、先生の言葉を真剣にきいている生徒がいたらどうだろう。実際笑止で、気の毒なほど惨めなものだ。耳と耳の中間の風洞に壁を立て、先生の言葉をくいとめようと必死にもがいているのである。なんのためだか、てんで意味が分らない。一目見て、これはもう助からないほど頭の悪い奴だという印象を受けてしまうのである。第一こいつは何のために学校へ来ているのだろう。あまりのことに――いや、まったくだ。物質の貧困よりも、このような精神の貧困ほど陰惨で、みじめきわまるものはない。そこで先生は泣きだしたいほどがっかりして、学生の本分とは何か、とか、学校の精神は何か、もっと正々堂々たれ、惨めであるな、
即ち栗栖按吉がこのようなたった一人の惨めな生徒であったのである。
ここに坊主の子供達が御布施をくれたって俺はでないねという講座が二つあるのである。
けれども先生はやさしい心のお方だから、二学期になったというのに、まだひとり生徒が出席していても、決してお怒りにならないのだった。いつもやさしく、にこにこと講義をつづけて下さるのだが、幾分薄気味わるくお思いになるのであろう、というのは、この男が思い余った顔付をして質問したりするからで、この男が首をあげて今にも物を言いそうになると、先生は
梵語とか巴利語はなるほど大変難物だ。
梵語の方では名詞でも形容詞でも勝手気儘に変化する。ひとつひとつが自分勝手と言いたいほど不規則を極めている。だから辞書がひけないのである。
按吉はどこでどうして手に入れたかイギリス製の六十五円もする梵語辞典を持っていた。日本製の梵語辞典というものはないのである。これを十分も膝の上でめくっていると、膝関節がめきめきし、肩が
按吉の机の上にはこれも苦労して手に入れた「ラージャ・ヨーガ」という梵書とその英訳が置かれている。もう半年も第一頁を
先生はやさしい心のお方だから、時々按吉をいたわって下さるのである。
「いまに原書が読めるようにおなりでしょう」先生はにこにこと仰有るのだった。
「もうひと苦労でございます」
然し按吉にしてみると、六時間も七時間も辞書をめくった
「いえいえ。梵語はもうそれで
これは又心細い話である。これでは却々釈然と笑うわけにはいかないのである。そこで先生は益々浮かない顔付の生徒を見て、益々やさしく、いたわって下さる。
「梵語はあなた、まだまだ楽でございます」先生はにこにこ仰有るのである。「チベット語ときたら、これはもう私はあなた、もう満五年間というもの山口恵海先生に習っているのでございます。単語がもう何から何までひとつひとつが不規則変化。いまだに辞書がろくすっぽ引けは致しません。それでも帝大で講義致しております。大変つろうございます」
先生は帝大でチベット語の講師を務めていらっしゃるのであった。先生がいつもにこにこしていらっしゃるので、浮かないながら、按吉は次第に心気爽快になっていた。文法もよくお知りにならず、辞書もお引けにならなくとも、帝国大学で講義していらっしゃるのである。チベット語や梵語というものは、辞書が引けず、読むことができなくとも、ちゃんとそれで読めている結果になっているのかも知れぬ。そうして栗栖按吉は辞書もろくに引けないうちに、ちゃんと原書を読んでいる気持になってしまうのだった。
そのころ、栗栖按吉は不思議な学者と近づきになった。
この学者はゴール共和国のラテン大学校の卒業生で、言語学者であった。東洋の二十数ヶ国語に通じているという話なのである。鞍馬六蔵という大変雄大な姓名だったが、いかにも敏捷な学者らしく、五尺に足らないお方であった。
鞍馬先生は追分の下宿を二室占領して数千巻の書籍と共にくすぶっていたが、朝になると、大概脱脂綿にアルコールをしめして、丁寧に本を拭いていらっしゃる。というのは、最近鞍馬先生に夢遊病の症候が現れて、先生は夜中無意識のうちに歩行し、最も貴重な本箱に向って放尿し、またお眠りになる。そこで先生は毎朝目を覚して仰天し、アルコールで本をふく始末になるのであったが、夢遊病はとにかくとして、貴重な書物に放尿するに至っては、どうにも悲痛なことである。要するに夜中尿意に悩まなければいいのであるから、先生は午後になるとお茶をのまず、その上部屋の四隅へ
孤独の先生は思うに弟子が欲しかったのだ。けれどもペルシャ語だの安南語などいうものは、先生の方が月謝を払っても習ってくれる者がない。だから遂に見出したたった一人の弟子、栗栖按吉をいたわってくれることといったら涅槃大学校の梵語の先生も及ばないという風がある。
「その程度なら、君、語学を専攻するだけの
先生の言葉はなんとなくあらゆる物に心安い感じを起させる。ラテン大学校の天才だの安南の哲学者だのネパールの王様だのというものが友達のような気がするのである。日本の梵語学者なんてものは、どうも、俺の弟子に当る男じゃなかったかな、などいう気持についなってしまうのだった。
ところが先生は按吉に向って、大いに見込みがあるからチベット語を伝授しようと言う。二十世紀に仏教を勉強するほどの者なら、先ずチベット語をやらなければ話にならない、と仰有るのである。梵語や巴利語の文献はいくらも残存していないが、仏教関係の文献は殆んど全部チベット語に訳されて伝わっている。だから仏教はチベットから這入らなければ二十世紀の学者として
「いや、君々」と先生は仰有る。「チベット語は仏教のために存在する言語ではないです。君、興味のない印度哲学は即座に止すべきところだね。そしてチベット学者になりたまえ。元来チベット語の話せる人は日本に四五人いるいないの程度だぜ。即ち君は六人目だな。一ヶ国語に通じることはその国土と国民を征服したことになるんだぜ。そうだろう。君」
どうも先生の話はうますぎる。おだてには至って乗り易い按吉だったが、言葉を征服すれば国土と国民を征服したことになるという、女の人に道を尋ねて女の人が返事をしてくれれば、女の人をわが物にしたことになるというのと同じようなものじゃないか。尤も按吉が六人目のチベット学者になりかねないのは正真正銘のところらしく、即ち帝国大学の先生が文法もよくお知りにならず、辞書もおひけにならないことでも大概察しがつくのであった。
丁度そのころチベット語の大家山口恵海先生の所説で、古来から
この程度にわが国の古い文化に密接な関係があってみると、鞍馬先生のうますぎるおだてに乗るのは危険だと思いながらも、つい六人目の学者になるのも満更ではなさそうだという大きな気持になるのであった。
さあ按吉がチベット語の伝授を受ける快諾をすると、先生の勇み立つこと、それ教科書だ、辞書だ、文法書だ、参考書だ、チベットの事情に関する紹介書だ、これもやる、あれもやると按吉の膝の上へ積み重ねてくれる。と、按吉がこれをひそかに注意を怠らずにいたところが――というのは、これが相当問題が臭いからで――先生がこれらの書物を忙しく取り出してくる場所が、決して本箱の腰から上に当る場所ではないではないか。してみればこれはもう洗礼を受けたあれである。けれども学問の精神は遥か高遠なところにあるべきだから、按吉は膝の上の書物がたしかに湿っていても、これは神秘な書物だから汗をかいているのだなと考える。印度では糞便の始末を指先でするほどだから言語も多少は臭いなど自ら言いきかすのであった。
ところが、不思議な因縁で、チベット語はたしかに臭いのであった。というのは、先生は大変放屁をなさる癖があった。伝授の途中に「失礼」と仰有って、廊下へ出ていらっしゃる。戸をぴしゃりと閉じておしまいになるから、廊下でどのような姿勢をなすっていらっしゃるかは分らないが、大変音の良い円々とした感じのものを矢つぎばやに七つ八つお洩らしになる。夜更けでも陰気な雨の日でも、先生のこの音だけはいつも円々としていて、決して
ここで筆者は日本帝国の国威のために一言弁じなければならないが、帝国大学の先生が辞書がおひけにならなくともそれは日本帝国の不名誉にはならないという事である。なぜならば、ラテン大学校の秀才も、やっぱり辞書がおひけにならないからであった。先生は親切な方だから、生徒の代りに御自分で辞書をひいて下さる。按吉の面前でものの二三十分も激しい運動をなすっていらっしゃるが、なかなか単語が現れてくれないのである。そのうち失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。屁をたれて、なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って、辞書を抱えて激しい運動をなさる。やっぱり単語が現れない。
そのうち按吉はチベット語の辞典といえば学者の健康のために作られたものではないかという風に考えていて、一分や二分で単語を探しだしてしまうのはチベット語本来の性質にそむくものだという風に思っていたから、先生の激しい運動に対しても決して先生がお出来にならないせいだなどと思うことはなかったが、然し先生が失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って戻っていらっしゃる。その先生の礼節がしみじみといたわしく、大変
「先生、放屁は僕に遠慮なさることは御無用に願います。
すると先生はその次放屁にお立ちのとき障子を開けようとして手をかけてから按吉の言葉を思い出されたのであろう、それではと仰有って振向いて、障子に尻を向けておいていつもの通り七ツ八ツお洩らしになった。そうして、その後はこの方法が習慣になったのである。ところがここに意外なことに、按吉は従来の定説を一気にくつがえす発見をした。これに就いては物識りの風来山人まで知ったか振りの断定を下しているほどであるが、大きな円々と響く屁は臭くないという古来の定説があるのである。ところが先生の屁ときたら、音は朗々たるものではあるが、スカンクも悶絶するほど臭いのである。即ち先生がなんとなく廊下を往復なすっていらっしゃったのは、
外は晴れたる日なりき
今日も亦 チベット語を吸いて帰れり
この二行詩はいくらか厭世的である。先生の放屁にあてられて、彼は今日も
この伝授がもう一年間もつづいたら按吉は厭世自殺をしなければならないような結果になったかも知れなかった。ところが、ここに
天祐神助は先生が童貞を失ったことに始まる。先生は花の
その結果、次のような理由によって、先生はまったく厭世的になったのである。即ち先生は按吉に言った。
「なんだ君。交接というものは実にあっけないものじゃないか。快感なんか、どこにあるのだ。君、そうじゃないか。馬鹿にしてやがる。僕は君、あの時だけは、世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚があるのだと思いこんでいたんだぜ。僕は君、一生だまされていたようなものだ。僕はもう、つくづく都会の生活がいやになったな。くにへ帰って、
先生自体が神秘すぎて、按吉には、先生の厭世の筋道や内容がどうもはっきり呑みこめなかった。世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚というものをどうして三十何年も我慢していらっしゃったのか分らないし、その予想が外れたからといってどうして故郷へ帰らなければならないのかてんでわけが分らない。一生だまされていたなどと大変なことを言って嘆いていらっしゃるが、誰がどういう風に
とにかく分らないことばかりだが、按吉の身にしてみると、これでとにかく、こっちの方は自殺がひとつ助かったという甚だ明朗な事柄だけが
尤も先生が童貞を失ってくれたおかげで、名誉あるわが帝国にはひとりの奇怪なチベット博士が生れずに済んだという国民ひとしく祝盃を挙げなければならないような隠れた功績もあるのであった。
その昔、泉州堺の町に、表徳号を社楽斎という俳人があった。仙人になる秘薬の伝授を受け、半年もかかって丸薬をねりあげて、朝晩これを飲んだあげく、もうそろそろ飛行の術ができるだろうというので、屋根の上から飛び降りて、腰骨を折ってしまった。
この時以来、できないことをすることを「シャラクサイ」ことをする、というようになったという話である。
按吉は、時々深夜の物思いに、ふと、俺はどうも社楽斎の
第一、印度の哲人達を見るがいい。若い身そらで、悟りをひらこうなどと一念発起した青道心はひとりもいない。どれもこれも、手のつけられない大悪党ばかりである。言語道断な助平ばかりで、まず
ところで、話は別であるが、印度の哲人とは違った意味で、日本の坊主が、実に又、徹頭徹尾あくどいのである。
仏教の講座に出席する。先生方はみんな頭の涼しい方で、なかには管長
按吉は、時々、お天気のいい日、
こういう立派な高僧方にお会いすると、どういうわけだか、人間とか、心とか、そういうものを感じる前に、いきなり肉体を感じてしまう。この世には温顔という言葉があるが、その実際が知りたかったら、高僧にお会いするのが第一である。即ち、肉体は常に温顔をたたえ、さながら春の風、梅花咲くあのやわらかな春風をたたえていらっしゃる。そうして、お別れしてしまうまで、肉体の温顔が、ただ、目の前いっぱいに立ちふさがっているのである。そうして、肉体の温顔が、ニコニコと、きさくに語って下さるのである。ナニ、美女もただの白骨でな、と、肉体の温顔がニコニコと仰有る。又、あるときは、これを逆に、イヤ、ナニ、美女のやわらかい肉感というものは、あれも亦よろしいものじゃヨ、と、こう仰有って大変無邪気にたのしそうにニコニコとお笑いになり、あれにふれるとホンマに長生きするのでのう、と仰有るのである。
これと同じ意味のことは長屋の八さんが年中喋っているのであった。けれども、長屋の八さんはてんで悟りをひらかないから、八さんがこんなことを喋る時のだらしない目尻といったら
ところが高僧のお言葉ときては、そういう具合にいかないのである。こっちも忽ちニヤニヤして、てもなく同感してしまうという具合にいかない。お言葉と同時に、先ず何よりも高僧の肉体が、肉体の温顔が、のっしのっしと按吉の頭の中へのりこんできて、脳味噌を掻きわけてあぐらをかいてしまうのだ。按吉は、思わず目を
そのころ栗栖按吉に、ひとりの親友ができていた。龍海さんと云って、素性の正しい坊主であったが、まだ高僧ではなかったから、痩せ衰えた肉体をもち、高僧なみに至ってよく女に就て論じたけれども、てんで悟りに縁がないから、肉体の温顔などは
龍海さんは坊主の学校で坊主の勉強しなければならない筈であったけれども、坊主の足を洗いたいということばかり考えていて、金輪際坊主の講座へでてこなかった。そうして、絵描きになりたいのだと言っていた。生憎、龍海さんは貧乏な山寺の子供で学資が甚だ乏しいから、生きて食うのもようやくで、とても油絵の道具が買えない。水彩やパステルなどでトランク一杯絵を書いていたが、呆れたことには、女の姿の絵ばかりである。按吉は龍海さんを見くびっていたわけではないが、坊主の絵だから南画のような山水ばかり想像して、とにかく風景が多いだろうと思っていた。そこで、按吉は驚いた。むしろ唸った。絵が名作のわけではない。何百枚の絵を見終って、女以外の風景画が、花一輪すら、なかったからに外ならなかった。
「僕は、女のことしか、考えることができませんので……」
びっくりした按吉をみて、龍海さんは突然まっかな顔をして、うつむいて言った。龍海さんは素性の正しい坊主だから、どんな打ちとけた仲になっても、あなた、とか、あります、という丁寧な言葉を使った。
龍海さんは痩せ衰えて、風に吹かれて飛びそうな姿であったが、
龍海さんは意気悄沈、まったく前途をはかなんでいたが、或る日、再び元気になった。というのは、フランス帰りの放浪画家とふと知りあいになったからで、この画家の話によると、巴里まで辿りつきさえすれば、あとは一文の金がなくとも、なんとか内職で生きのびながら絵の勉強ができるという耳よりな話なのである。これは実際の経験談で、龍海さんを納得させる力があった。
その日、ただちにその場から、
「今日、五十銭、拾いました。すぐ、貯金して参りました」
龍海さんは必ず按吉に白状した。まっかになって、うつむいて、白状した。龍海さんの気持としては、誰かに白状しなければならなかったに相違ない。巡査に白状するよりも、按吉に白状するのが便利であったのであろう。拾ったとき早速郵便局へ駆けつける用意ではあるまいけれども、懐中に、年中貯金通帳を入れていた。
こうして不退転の決意をもって巴里密航の旅費を累積しはじめたのだが、同時に、忽ち、栄養不良の極に達して、亡者にちかい姿になった。按吉は不安であった。今度は盲腸どころじゃない。念願の金がたまった瞬間に、幽明境を異にして、
丁度そのころの話である。
龍海さんの先輩に当る一人の坊主――年の頃は四十二三、すでに所属の宗派では著名な人で、管長の
坊主が
ここでも言いもらしてはならないことは、先ず、第一に、温顔であった。この世に顔の数ある中で、温顔の中の温顔である。常に適度の微笑をふくみ、陽春の軟風をみなぎらし、悠々として、自在である。声はあくまでやわらかく、酔にまぎれて多少の高声を発するようなことすらもない。
さて、ここをでて、何代目かの管長候補は二人の青道心をひきつれて、待合という門をくぐった。
思うに何代目かの管長候補は、二人の青道心が、酔わないうちから女を論じ、酔えば益々女を論じ、徹頭徹尾女を論じて悟らざること
芸者が来た。みんな何代目かの管長候補の長年の馴染で、芝居の話や、旅の話や、恋人の話や、凡そお経の話以外はみんなした。
深夜になって、一同、待合の一室で
龍海さんも按吉も、何代目かの管長候補の厚意に対して感謝しないわけではなかった。それはたしかに純粋な厚意であったに相違ない。
「なにかしら、割りきれないと思いませんか」按吉は龍海さんに訊いた。
「割りきれません! いい加減です! 鼻持ちならない!」
そう答えて、龍海さんは、怒りのためにぶるぶるふるえた。二人はすっかり沈みこんで、がっかりしながら暫くめあてなく歩いていた。
あれぐらいのことをするなら、なぜ堂々と女と一緒にねないのだ。そういうことが先ず第一に考えられる。問題は、然し、決して、それではなかった。
たとい堂々と女とねても決して坊主は明朗にならない。按吉は思った。なにか割りきれない不思議な毒気は、単に女とねるねないの問題だけのせいではない。もっと、根本的なものである。坊主たちは、女を性慾の対象としか考えない。彼等が女から身をまもるのは、ただ、性慾をまもるだけの話である。
然し、俗人は女に惚れる。命をかけて、女に惚れる。どんな愚かなこともやり、名誉もすて、義理もすて、迷いに迷う。そのような激しい対象としての女性は、高僧の女性の中にはないのである。按吉は痛感した。どちらが正しいか、それはすでに問題外だ。迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。そうして、こう気がついてのち、肉体の温顔だとか、むらだつ毒気だとか、そういうものを持たない人を見直すと、みんな今にも女のために迷いそうで、義理も命もすてそうな
そんな一日。按吉は学校の門前で、一枚のビラをもらった。
トルコ語とアラビヤ語を一ヶ年半にわたって覚える。授業は毎日夜間二時間。そうして、一年半の後、メッカ、メジナへ巡礼にでかける。回教徒の志望者をつのるビラであった。
その日から、締切の最後の日まで、按吉は真剣に考えた。メッカ、メジナへ行きたくなってきたのである。
そのころ彼は、ちょうどある回教徒の聖地巡礼の記録を読んだ直後であった。巡礼者の大群はアラビヤの沙漠を横断して、聖地へ向って、
思いきって、沙漠横断の群の一人に加わろうかと考えた。そこに、命があるような思いがした。なにかノスタルジイにちかい激烈な気持であったのである。
締切の日、彼は思いきって、丸ビルへでかけて行った。そうして、講習会場の入口へ来て、再び決心がつきかねて、三度その前を往復した。トルコ人が、彼を見つめて、講習会場の扉をあけて、消えてしまった。
だが、彼はとうとう這入らなかった。トルコ人の姿が消えると、ふりむいて階段を降りた。その理由は――彼は丸ビルへくる電車の中で、すぐれて美しい女学生を見たのである。目のさめる美しさだった。彼の心は激しく動いた。
これでアラビヤへ行こうなどとは、大嘘だと思ったのである。そうして丸ビルの階段を降りながら、生れてはじめて本当のことをした感動で
その日から、彼は悟りをあきらめてしまった。龍海さんは巴里密航の直前に、女に迷って、行方不明になってしまった。そうして、生死が、わからない。