ヤミ論語

坂口安吾




     世は道化芝居

 自宅へ強盗を手引きした青年があったと思うと、人数も同じ四人組で自宅で強盗した絹香さんという二十一の娘が現れた。
 トリスタン・ベルナールの作品だかに、知らないウチは勝手が分らぬ、それに見つかった時、変テコリンで困らア、というので知人のウチへ稼ぎにはいるマヌケな素人泥棒の道化芝居があった。
 これも一つの心理であろう。知らないウチは確かに勝手が悪い。知人のウチは勝手がわかるが、自分のウチなら、これは気心が知れ、これぐらい心易いところはない。
 元々不良少年少女の悪のはじまりは、自宅の物を盗んで小遣いにするのが型であるが、いよいよ本職にと発心して、しからば、気心知れたわが家へ、となるのは不自然ではない。
 道化芝居というものは、有り得べくして、有りうべからざる珍妙のために、人々が笑ってくれて成り立つものであるが、ちかごろは、道化の題材が普通の現実になった。
 エエイッ、死んでもいいや、というので、怪しきアルコールをガブリとやってオダブツとある。悲愴であるが、新派悲劇じゃなくて、道化芝居のネタである。
 国会で小便をおやりになる。元大臣が天プラ御殿の主人となり、かねて気心知ったる官僚高官がヤミ天をおあがりになる。世耕情報、尺祭り、節電盗電、日本は目下、あげて道化芝居である。
 帝銀事件で十二人死んだ。強盗が何人殺した。然しボロ電車が予定によってヒックリ返ったり火をだしたり、何人殺しても、こういう予定の殺人は何んでもないことになっている。愉快な殺人ルールである。
 説教強盗氏が世相をガイタンされて、昔の盗人は仁義があった、とおっしゃる。盗人の仁義というイロハガルタはなかったが、これをマジメに書く新聞記者の頭がおかしい。
 道化的なるものをマジメに扱い、世相に意味をもたせて強調するから煽るだけの話で、道化に仕立てる、悪事の荘厳や現実感がなくなるから、素人は魅力を失う。
 昔、キリシタン退治の頃、信徒をハリツケ、火アブリにかける。堂々と刑死するから、見物人や処刑の役人まで切支丹になる者が絶えなかったが、穴つるしという珍妙な処刑を発明したら、見物人、ウンザリして、それ以来、信徒になる者がなくなった。
 然し、道化的なるものを道化的に見出すためには、教養がいる。また、道化の反面にある正理を愛する信念と情熱もいる。
 道化日本の第一の欠点は、教養が足りない、ということだろう。論語めかしくいうなら、自分のウチへ盗人にはいる奴が悪いのではなくて、そういうことは落語の中の熊公だけしかやらないものだと認定することの出来ない、余裕とユーモアのない時代の心が悪いのである。

     帝銀事件余談

 帝銀事件犯人の似顔絵の発表は無理だろう。昔さる新聞社の入社試験に、講師が一席弁じ、ひきさがってのち、講師の人相服装を問うたら、正解がなかったそうだ。
 何十人に素顔をさらしたところで、何十人の印象を合計して正解のでる性質のものではなく、似て非なる架空の何者かを現実的にデッチ上げて、それに限定を加えるだけ、事態をアイマイにしているようなものだ。レッキとした犯人の写真があって、それを辻々の高札にするのとは根柢的に性質が違っているのである。
 警察が民主的になったので、昔のように容疑者を一々ブタ箱へ入れて取調べる便利がなくなったので、捜査がおくれて困るという。すると、輿論よろんの多くが、そうだ、そうだ、遠慮なく昔にかえれと言いかねない有様だから、ものすごい。
 帝銀事件の犯人が早くつかまるということよりも、人権を尊重するということの方が、どれだけ大切なことか分らない。この二者は比較を絶しているものなのである。帝銀事件の犯人のタイホがおくれてもよいから、人権を尊重するという国風は断じてこれを守り、確立しなければならない。
 かりそめにも警察当局たるものが、人権尊重のためにタイホがおくれるなどと口実をつくるのは奇怪であり、かゝる暴論に対して非難の輿論が起らぬという日本の現実は悲しむべき貧しさである。
 密告歓迎などというのも、またひどい。脱税の密告、イントク物資の密告、政府は密告の国風を熱情こめて作りつゝあるもののようだが、脱税やイントク物資よりも密告の国風の方が、どれだけ祖国をそこない、祖国の卑劣化をもたらすか分らない。
 密告歓迎だの似顔絵の高札などは江戸時代の岡ッ引の智慧でやったことで、近代に於ては警察の基礎も文化の在り方の一つでなければならぬもの。一人の犯人をつかまえるよりも、人民保護という原則の確立の方が大切であろう。
 昨年のことだが、強盗にやられた家へ警官がとびこんだ。犯人を追っかけ廻して時間がかゝったために、助かるべき被害者の手当がおくれて死んだことがあり、この警官が、被害者を殺したよりも犯人を逃したことを残念がっていたという記事があった。この警察の在り方についても輿論の反響はなかったようだ。
 帝銀事件の犯人のタイホがおくれてもかまわぬ。民主警察の確立、岡ッ引根性の絶滅の方がどれだけ重大だか計り知れない。

     ストその他

 私の四囲の小資本の出版業者などでは、編輯者の給料が千八百円を下まわるようなところまである。あんまり気の毒で、せめて三千円ぐらいなけや生活できないからと私が社長にかけあってやったこともあった。
 こんな小会社では争議を起せばクビになるばかりだから、争議も起されぬ。これは気の毒なことである。
 反対に、全逓ぜんていなどというところは、ストが有力な武器になる。そこでストをやる。問題は、この連中がもしストが武器にならずクビになるだけなら、ストはやらないということだ。当然の要求もできないというのも良くないことだし、ストを武器に便乗するというのもよろしくない。
 大切なことは、主観的ではいかぬ、自分の立場を客観的に考えて見なければならぬ、ということだ。
 問題は、要求と、労資双方の折合う場との客観的な妥当性にあるのだから、ストは絶体絶命の最後のもので、調停が中心問題だ。調停裁判というような国家的に構成された大組織も必要であるが、労資双方の立場に客観的な考察を払うことが必要で、現在のストに欠けるものはこれであり、主観一方に盲動しているとしか思われない。
 ストを武器にすることは、最後の最後のものである。小資本の会社では、ストをやるとクビになる。クビになってもやる。これは絶体絶命の時だ。ストを武器にする時も、それと同じ絶体絶命のものでなければならない。
 現実の世相に最も欠けているものは、自己を客観的に考察することの不足である。自己をも現実の種々相をも、またその関係をも、客観的に、また、唯物的に見ることの欠除である。みんなが、無自覚、無批判に我利々々でありすぎる。
 特に集団的にそうなり易いもので、ストの性格がそうである。反面には、官僚、為政者の在り方自体がそうで、買い手のないタバコを押しつけて、威張りかえって、イヤならよせという、まさしくファッショそのものの堕落タイハイの限りをさらしている。
 裁判でもそうだ。先日、大学助教授のマジメらしき医者が、死体の腹部に赤子死体をぬいこんだ事件など、起訴にならなかったが、私には、検事の主観的考察にかたよったもので、裁判本来の性格を外れたものに思われる。
 私は思う。現実に堕落タイハイとよぶべきものは、かゝる主観性の安易な流行である、と。パンパンなどは、まだしも、自ら正義化していないから罪が軽いのである。

     子供の智慧

 イノチ売りたし、という人が名古屋に現れて流行の兆あらわれ、銀座にも、イノチ売りたしのビラをはった、二十五の元少尉が現れたそうだ。
 イノチが本当に買えるわけはないのだけれども、買い手が何人も現れるというから、あさましい。子供たちはクビだのイノチを賭けたがるもので、やい約束だからクビをよこせなど、ケンカに及んでいるものであるが、ちかごろは大人が子供の智慧ぐらいのことを本気でやってる始末である。
 八十万円をサギでまきあげた女事務員があれば、十四で十万円をもって逃げた少年もある。
 帝銀事件の犯人などはゴマシオ頭のくせに、たった十六万ぬすむのに十二人も殺している。智慧のないこと甚しい。ちかごろ大流行のスリは、たいがい子供の仕業という話であるが、何ヶ月も練習して、十二人も殺してたった十六万ぬすむ、同じぐらいの練習でスリの方がもっと稼ぎがあろうし、後もつゞくというものであるが、子供に及ばぬ智慧のない先生である。
 インフレ時代というものは、怠け者とか子供とか、正常では生活能力のない人間が生活力がある仕組で、ちょッと右から左へ物をうごかすと、勤労者の一ヶ月の給料ぐらいが、すぐもうかる。正常時の正常人の智慧はもう散々の敗北で、子供の智慧におよばないという次第である。
 先日、帝人の江口榛一が酔っ払って帰れなくなり、新宿駅前の交番へ泊めてもらって、居合した浮浪児とだき合って一夜をあかしたそうであるが、翌朝帰るときに、浮浪児が、オジサン電車賃ないんだろう、これやるから持ってきな、といって十円くれたそうだ。
 江口君大感激して、お前はいゝ子だなア、どうだ、オジチャンの子供にならないか、ウチへこないか、というと、交番の巡査がふきだして「江口さん、浮浪児の五、六人養っておくと、あなたは寝ていて食べられますよ」と言ったそうだ。
 子供の方が、どうやら生活力のある御時世である。住むに家なく着る物もない人間が、はるかに余裕ある生活を営んでいる。九ツぐらいの子供が悠々とタバコをお吸いになって、十円めぐんで下さるのである。
 然し、これを要するに、ひとたび混乱期にぶつかるや、生活拠点も思想信念も見失い、礼儀も仁義も見失って、子供の原始そのままの生活力や仁愛にも敗北してしまう平常時の訓練や教養というものが、つまり何か大事な心棒が欠けていたのだということ、これを知って出直すことが目下我々への最大な教訓じゃないかと思う。

     大衆は正直

 街頭録音の農林大臣が、私もヤミ米を食べていますと言って群集の歓呼をうけた。大衆は理論はないが、正直なものだ。日本の政治家は自分はヤミをやらないような顔をして政治を押しつけていた。それで国民が納得できるものではない。
 然し、農林大臣の正直らしい告白も、大臣としてでなく私人としてヤミをやってる、とあっては怪しいものだ。私人の腹の裏側に大臣という霞を食う腹があるのかな。このアイマイな表現から察せられることは、窮余の告白であるにすぎず、ヤミをやらずに生きられぬ現実のマットウな認識には欠けており、つまりこの現実の矛盾を合理化する政策の成算はもたないことが察せられる。大衆の歓呼の悲痛に切実な現実を三思して、ハッタリから着実な政策へ、心魂を捧げてもらいたいものだ。
 職業野球が大衆の興味をあつめはじめている。大衆は正直である。時代の嗜好がスポーツへ動くわけではない。職業野球の内容が充実したから、大衆の興味があつまるのである。
 将棋がそうだ。
 木村が十年不敗のころは、老朽八段をズラリと並べて、一向に大衆の注意をひかなかった。升田が現れ、頻りに新人の擡頭があって、大衆は正直に惹かれるのである。
 将棋の不振のころは、碁の方がまだしも呉、木谷ら新人の活躍で大衆の注目をあつめていたが、目下はサンタンたるもの。それも当然のことで、本因坊戦などという一家名を争うなどとは滑稽奇怪というほかはない。家名が意味を失った時代ではないか。
 実力第一の呉清源をはぶいて、手合を争ったところで仕方がない。呉を加えて名人戦をやるべし。名人位を中国に持ってかれてもよいではないか。
 他の異国のスポーツにおいては、各々異国の名人位に挑戦しようとしているのである。碁の初代名人が中国にとられる。おのずから、碁の世界化ではないか。実力なければ仕方がない。ケチな根性をすて、むしろ碁の世界化をめざして呉を加え、坂田、梶原を加えて、名人戦を行うべき時代であろう。
 大衆は正直なものであるから真に興味を惹かれるものにだけ、惹かれるだけの話だ。エロにまさる他の充実した興味がなければ、エロの流行も仕方がない。エロのボクメツとはムリで、他の充実した何ものかが必要なだけだ。高級にして充実した興味の対象が現れゝば、エロは自然に場末へ追いやられる。エロの禁止は逆効果を現すばかり、自然に場末へ追いやられたとき、大衆の生活は健全となっているのである。

     チークダンス

 チークダンスの実況写真が某紙にスッパ抜かれて、ダンスのタイハイこゝに至る、ホール業者、ダンス教師、御愛好の男女代表、ダンサー、文部省、警視庁、御歴々が御参集あって協議あらせられたとある。
 この写真に見参するまで、私はもっぱらカストリなどにかゝりきっていて、チークダンスという言葉も知らなかった。一見したところ、ダンスじゃなく、やゝ交合に近接した領域のもので、女学生、女事務員とおぼしき方々がしかと男にしがみついて恍惚のていでいらせられる。さる夏の日、ウチの池で蛙のむれが交合し、恍惚と浮沈しつゝあったのを思いだしたが、あれよりも、ギゴチない。そこが人間のユエンかも知れん。
 この写真を見た同じ日、友人が北斎の猥画をもって見せにきた。一しょに歌麿を五冊見せてくれたが、歌麿があたりまえの猥画にすぎないのに比べると、北斎には絵の鬼の凄味がある。人体を描いたアゲクが、そこまで描かずにいられなかった鬼気をはらんだものである。猥画ではなく、人間を描いた絵画であり、絶望感に色どられていた。
 北斎は交合を描いて猥感を拒否しているが、これは作者の魂の深さと、趣味教養によるものであろう。チークダンスは、ダンスを踊って交合の低さとワイセツでしかない。蛙のそれよりも、スマートさに於てやゝ劣るところがあるだけである。
 密室でやることを、人前でやってるという性質のものだ。政府はさきごろ軽犯罪法なるものをつくって、こういうことを取締る量見であるが、密室でやってることなら、人前でやっても仕方がなかろう。密室の生活がワイセツの低さでしかないせいだ。
 つまり我々の多くが、男女関係というと、チークダンスのようなことにしか主点がない。夫婦関係の幅も高さもそれぐらいのものにすぎないのだ。表向きは亭主関白とオサンドンとの関係であり、裏面ではチークダンスの関係である。そして、子供ができる。それを育て愛するに動物本能の関係である。
 密室だろうと表向きだろうと、犯罪は犯罪、無罪は無罪であろう。北斎は密室を描いてもワイセツの低さはなかった。趣味教養の然らしめるところである。
 悪趣味や無教養というものはフンジバッて、牢屋へ投げこんでも、どうなるものでもない。チークダンス愛好家は悪趣味、無教養というだけのことであるから、その対策はフンジバルこととは別だろうと私は思う。
 密室を高めなければダメなのである。

     講談の世界

 賭場を襲った強盗がある。十五万円と腕時計を六ツぐらいはぎとって、金モウケはこういうグアイにやるものだ、バクチなんてケチな金モウケをするな、と一場の訓辞をたれて引上げた。賭場の胴元は口惜しくてたまらず、涙をのんで訴えでて、バクチの方の御常連十四方は仲よくジュズツナギにならせられたという。泣きッ面に蜂であるが、自分たちがジュズツナギになることよりも、復讐の一念がより大きな願望であったとすれば、このへんの幸と不幸、満足と不満足、損とモウケ、心理を加味した如上の計算はまことに複雑をきわめ、正解をひきだす算式はたぶん発見できないだろう。
 然し計算というものは精神の平衡状態において算出されるものであるが、賭場の一味には「口惜しまぎれに」という平衡を失した異常心理がはたらいており、だから益々計算の方途を失う。要するに、結果は、どんなにリュウインを下げてみても、後悔、つまり後悔ということは、計算法の出発点がまちがっていたという意味なのである。然し、それでも、訴えない方が利口であったという結論にはならない。心理の計算はむずかしい。
 近ごろの世相は兇悪犯罪が増加しているけれども、ともかく犯罪が悪事であること、犯人が己れの悪と戦っている苦痛の心理はあるはずだ。文学に於ても、罪人がその罪と戦うことは常識であるし、一般世間の常識に於ても、罪人がその罪と争うことは当然とされているものである。
 ところが江戸時代の一種の文学である筈の講談という世界には、正しい罪の解釈がない。罪の自覚に妥当な内省や計算が加えられていないのである。
 殿様のお手打であるとか、新刀をもとめての辻斬であるとか、賭場荒しであるとか、仇打ちであるとか、それらのことは正常の罪の自覚とは別の場に於て物語化され、人情化されて語り伝えられているのである。
 講談は今もなお語られ、そして語られるということは、大衆に支持されているということだ。支持するとは、その講談の場に於て尚大衆が生活しつゝあるということである。
 ヤクザの世界は今も講談そのまゝであるが、一般大衆にも、やっぱり講談の場と通ずる底辺があるはずだ。
 その歴然たるショウコには裁判がある。同じ人殺しでも、ヤクザの人殺しは、特別の観点、つまり講談の場から解釈せられて、特異なものに扱われ、多少は罪が軽いようだ。つまり裁判においてすら講談の場が、一応その正常性を認められているのである。講談の場は決して正常ではないはずである。
 今日の犯罪増加の一因には、我々の日常生活に残存する講談性にも原因があろうと思う。

     男女同権

 さる小学校に宴会があった。女の先生方がオサンドン代りに食卓の用意をさせられ、あまつさえ酔っ払った男の先生から侮辱的言辞をあびせられた。気を悪くした一人の女先生が山川菊枝部長にこの話をつたえたから、部長は男性の横暴増長に胸をいためられて、男女同権いまだしと怒りの一文を草せられた。くだんの小学校に於ては、酒席の内輪ごとをみだりにアバイタ曲者であると、全先生満場一致、くだんの女先生に退職勧告を決議あそばした。重ね重ねの増長傲慢に山川部長はゲキリンされて、小学校へのりこんで校長先生に厳談されたが、校長先生の答えられるには、満場一致という民主的解決であるからと仰せられ、女史のお叱りに服する気配だになかったという話である。
 私たち文士仲間にも女流作家という方々があって平等に手腕をふるっていられるが、小学校の先生方にくらべると、見識が低いようだ。
 なぜなら、宴会ともなれば女中代りに料理を運んで下さったり、取り分けて下さったり、オシャクして下さったり、すゝんでいろいろと下々の立居振舞をなされる。酔っ払った我々が無礼な言辞を申上げても、ゲキリンして一文を草されたという話もきかない。
 私は元来、中性という新動物の発生は極力これを阻止したいと念願するほど教養の低い男であるから、山川菊枝部長の識見には理解のとゞかぬウラミがある。だから私は、御婦人というものは、宴会ともなれば、オサンドンの代りをさせられるものではなくて、すゝんでして下さる性質のものであり、又、酔っ払いの男などより教養も高く、情意もひろく寛大であるから、暴言などは許して下さるものだろう、とアベコベな風に考えていたのである。
 私は帝銀事件の犯人が怖い。青酸カリをのんでバタバタ倒れる人々を冷然と見ている姿を考えると、いさゝかゾッとするのであるが、火事です、消防署へ、という電話をうけて、スト中だからダメです、とスイッチをきったという交換嬢の姿を考えると、帝銀の犯人よりも、もっと怖ろしくてもっとビリビリふるえあがってしまうのである。だから私は、満場一致女先生の退職勧告を決議したという先生方の怖れおのゝく気持にはいさゝか同情をもつのである。

     馬鹿殿様観念論

 京大生が共学の女学生に心中をせまって拒絶され、メッタギリに刺殺したという事件が起った。新聞紙は概ね共学による新問題として執りあげているが、所詮男女のあるところ恋愛は自然のことであり、恋愛をたゞちに不義とみる日本古来の思想が正理でない限りは、恋愛事件が共学に影響をもたらすことは有り得ない。問題は加害者の恋愛態度だ。
 朝日新聞の報ずるところによると、加害者はその動機を、唯物論と観念論にまよい、救いを八重子との恋愛にもとめたが、幻滅を感じ、八重子を殺すことによって完全な救いが得られると信じた、と語っている。
 これだけの報道で事件を批判するのは甚だしく不完全であるけれども、空転する観念から殺人という行動へ飛躍し、その飛躍をさらに理論づけようとする現代の観念論の不備については厳しく批判する必要があるだろうと思う。私がドストエフスキイやジイドに不満を感じる最大の点もそこであった。
 現代の観念論は観念にかたよりすぎているから、飛躍を合理化せざるを得ないのであるが、恋愛から殺人へ、社会への不満から殺人へ、武力革命へというような飛躍は、合理化し得ざるものである。なぜなら、事の四周には無数の関係があり、事の上下には無限の段階が有るはずであるからだ。
 現代哲学の観念論は、この無数の関係や段階を観念的に処理する原則的方法については考究するところがあるけれども、実人生においては個々の関係や段階に即物的に処理せざるを得ないもので、哲学の説くところはその原則的方法だけだ。個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ実人生の厳しさを忘却して平然たる馬鹿殿様ぶりであるから、恋愛から殺人へ、そしてそれを合理化しようとする無暴な空論を時に神聖視して怪しまない阿呆なことが横行する。古代人の奇蹟が現代の観念論の中にだけ実在しているのである。
 観念論の虚しさに共産党へ走った出隆教授の飛躍にも、私はその根柢に観念論だけで育った人のもつ思索の不備を見る。恋愛から殺人への飛躍の不備と同じ不備を見るのである。
 実人生への関聯、これを私流に云えば、文学との関聯、つまり個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ現実への厳しい目配りを没却して、無為に観念のみを弄ぶひとりよがりの学究態度というものの幼稚さをさとるべき時代であろうと私は思う。

     スリと浮浪児

 私の外套のポケットは内側から切られている。スリの仕業である。私はこの冬外套の内ポケットへ入れておいた金を二度スラれた。出版社から受取ったばかりの印税をみんな持って行かれ、坂口さんはマヌケだなア、わかりそうなものだがなア、などと笑ったその出版社の連中が、今では一人のこらずスリの被害をうけて、カバンをやられてフロシキ包みをブラさげて御出勤の者、腕時計をやられた者、蟇口がまぐち組、外套組というのもある。外套をスラれるというのは珍しい。
 この五日にも、さる出版社の連中六人がやられた。社の会の帰途十時ごろ、神田駅のプラットフォームで集団スリにとりかこまれて、集団タックルの波状攻撃をうけて全滅したのである。プラットフォームにはほかに乗客もたくさんいて、このギャングどもをどうすることもできないとは、悲しい。その翌日、偶然その社へ立寄ったら、我々もついにギャングに襲われる身分に立身しまして、などとシカメッ面で力んでいたが、おかげで私の原稿料は当分支払い延期ということになり、誰が被害者だかわからない。
 私の知人でスラれていない人間は先ず見当らないのであるから、東京都の住民はスラれない人の方が珍しいのかも知れない。
 集団スリの一味四十二名がつかまって、手先の大部分は浮浪児だ。
 そこで問題はスリという犯罪よりも浮浪児の救済処置が重大な課題となるのであるが、収容所へ送っては逃げられ、同じことを繰返しているのが現状のようである。
 浮浪児は一日千円のカセギがあって、サシミやスシを食い、ウナギや洋食や支那料理で満腹しているから、収容所で特別三合の配給を与え、オヤツをだしてやってもダメだという。
 今までサシミやウナギを食っていたから、特別三合配給してオヤツもやるということが変だ。そういう論拠では、結局スリをやらせて洋食で満腹させなければ救済できないということになるだけである。
 浮浪児とか集団ということから、彼らを無個性な一括的なものとしてうけとることがマチガイで、むしろ集団ということが彼らを最も害している。彼らをうけとる態度には、特に個性的な注意が必要である。
 長野県では、県の全寺院が二三名ずつの浮浪児を育てる里子運動が起っているというが、未開時代に僧侶が知識人の代表的なものであった時と異り、今日の僧侶は特に知識人でも教育者でもなく、むしろ時代の迂遠者であり、寄食的生活者にすぎない。浮浪児の養育を私人にまかせることも文化的なことではない。
 大予算をさいて強力な研究機関と教育施設をほどこすことが必要であろうと思う。

     家族共犯の流行

 親子強盗、一家ケンゾク集団空巣、農村はもっと派手で、近在の百姓さんで、本妻から妾にも動員を発し、さらに娘の情夫も動員して、仲良く荒し廻っていたのもあった。
 この風潮は今後もより多くあらわれることだろうと私は思う。昔は一家の中で悪意を起す誰かがあれば、誰かしら理性の抵抗を起すはずだ。今はそれがない。
 私は帝銀事件の犯人などにも、同様な家族的掩護えんごがあるのじゃないかと考える。たとえば五十年営々と零細な貯蓄をして老後の安穏を願っていた人とか、親ゆずりの多少の家産でともかく今日まで平和であった平凡な家庭などで、虎の子を戦火にやかれる、肉親の誰かを戦野で失う、政治を呪い世を呪う事々の呟きが次第に一家の雰囲気をつくり、性格をつくって行くのである。
 そのうちに、女学校を卒業した娘たちは、親の昔の夢想では平和な結婚生活に入るべきものを、それもかなわずダンサーなどにならざるを得なくなる。そして男と泊り歩くようになる。せっかく大学へあげ末を楽しみにしていた息子も学費がつづかずヤミ屋なぞをやって、遊興を覚える。お父さんもゴロゴロねてばっかりいて娘や息子を食い物にしないで、ゼイタクがしたかったら、自分も稼いだらどう。強盗でも人殺しでも、なんでも、いいじゃないの。どうせヤブレカブレの世の中じゃないか。
 こうして一家の雰囲気が犯罪に同化し、やがて、事もなく犯罪そのものとなって行く。戦争さえなかったなら平凡に終った筈の一家が思いもよらぬ犯罪へ傾いて行く。かかる事例は極めて自然に起りうるはずだ。
 軽率に道義のタイハイを難ずるなかれ。戦争といえばそれ一億一心、民主主義といえば、ただもう民主主義、時流のままに浮動して自ら省みる生活をもたない便乗専一の俗物に限って、道義タイハイなどと軽々しく人を難ずるのである。
 そのよって来たる惨状の根本を直視せよ。道義復興、社会復興の発想の根柢をそこに定めて、施策は誠実に厳粛でなければならぬ。
 毎日十時四十分かに品川駅へシベリヤからの引揚者がつく。マイクにニュースに、やたらとセンチな感動的情景を煽る。そして、ただ、それだけのことではないか。寛永寺の一時寮へあずける。そして、ただ、それだけではないか。やがてその誰かがパンパンとなり、親子強盗となって行く。
 引揚者や浮浪児の社会復帰に対しては、政府は大予算をさいて、正面から当らねばならぬ。ヤミ利得などを追う前に、戦争利得をトコトンまで追求して、復興に当るべきであった。これを要するに、道義のタイハイも、その発頭人は政治のむじゅん貧困と言わねばならぬ。

     青年は信頼すべし

 学生窃盗団、ダンスホール御乱行組、学生への非難の声もにぎやかである。
 この戦争の初期のころにも、兄弟たちが戦時に血を流し、工場に農村に同胞が全力をつくしているのに、学生は野球にふけり、映画見物に憂身をやつしている。学生といえば国賊のように罵られて、時局認識がないことを叩かれていたものであった。
 そのうちに学徒出陣というようなことになり、学徒挺身隊の出動となり、戦地に工場に学徒の戦果がつたえられ、昨日の国賊があべこべに救国戦士の第一線におかれて、新聞の記事は学徒の謳歌で賑うこととなった。
 あの年齢は、時代に敏感で、最も順応的なものであるから、学生の行状はこうだ。不勉強で遊んでばかりいてしからん。そういう非難が風潮をなすに至ると、学生自身がその風潮に自分を似せて、それを合理化しようとするものだ。悪い学生はいつの時代にもいるのであるが、一部のために全部が汚名を蒙って、そのために、他の学生まで、それに似せ、それを合理化しようとする。輿論は屡々しばしばかかる罪を犯しがちなものである。
 特に今日のような畸型な社会生活の上では、学生というものが、畸型になるのは当然で、父兄が俸給生活者である限り、学費は十分では有り得ない。学生は父兄のヤミに依存するか、自らのヤミで自立するか、畸型化せざるを得ない筈で、一般の給料が家族の食費にすら不足の今日、学生という自足できない一団が畸型児の第一線を占めるのは当然だ。
 いったいが、日本では、家庭にも学校にも娯楽というものが殆どない。娯楽というと、家庭や学校を放れて、野放しのものとならざるを得ぬ。今のように一般生活が貧困をきわめている時に、家庭の娯楽といってもムリのようであるが、娯楽というものを家庭の日常必需品と同様、主食同様、欠くべからざるものと見る生活態度の確立が必要である。
 学校もそうだ。設備が不完全なくせに、学生を入れすぎる。学問と共に娯楽を与え、よき娯楽設備をもたねばならぬ。スポーツを選手でなく学生一般のものとし、映画や劇場やダンスホールぐらい備えた学生ホールが常備されるべきであろう。
 男女共学からくる恋愛の如きものを怖れる必要はない。時に間違いは有りがちでも、恋愛そのものが間違いではないのであるから、青年特有の正義心を信頼し、夢多き年代の特質を生かしてやる思いやりが欲しいものだ。

     応援団とダラク書生

 一部の素行よからぬ学生のため、大学内に自治運動が起りつつある由であるが、自治がどのような方法で行われるのか、自治運動が学生の私設憲兵化をまねかなければ幸いである。
 先日散歩していたら、ラジオ屋の人だかりにぶつかって、私も五分ばかり慶明戦の応援団の熱狂ぶりをきいた。昔ながらのものである。こういう応援団が学生らしい学生で、応援団長とか幹事とかが特に健全なる学生なのかも知れないが、自治運動の親分がこの種の連中だとすると、私は素行よからぬ学生に同情したくなるのである。
 だいたい応援団の雰囲気というものは、教練よりも、もっと好戦的なものである。スポーツそれ自体の性格とは違っている。スポーツは喧嘩と違って、文化的なものであり、勝負はあっても、理知も節制もある娯楽であるが、応援団は喧嘩に属する性格である。ユーモアを解する精神もなければ、プレーをたのしむ精神もなく、好戦的な熱狂だけが全部である。この種の愛校心と、ファッショや右翼団体的な愛国心とは同じ偏したものだ。批判精神などミジンもない。
 私は強いて悪童に味方をしたくはないのであるが、こういう応援団の秩序の中へ参加して、キチガイめいて白雲なびくなどと声をからしている連中にくらべると、こんな仲間に加わらずに、ダンスホールへもぐりこんでいる悪童の方が、まだしも人間らしく見えるのである。
 悪童の性格には、ともかく個性とか個の自覚とか多少の自主性も見られるけれども、応援団の性格には、ファッショ時代には急進的ファッショとなって声をからし、民主時代には、とたんに民主人民となって片棒かつぐ時流のまにまに批判も反省もないデクノボーの性格しか感じられないのである。
 応援団的学生が、学生の輿論をつくって悪童を裁いたり怒鳴りつけたり学生の本分を説いたりするのが学内自治と称するものなら、私は悪童の堕落よりも、自治の堕落の方が悲しむべきことだろうと思う。
 過渡期に現れる一部分の悪現象から、徒らに旧秩序への復帰を急ぐのは危険であり、そこには進歩というものを期待することができない。
 私は、旧秩序への復帰を正理とする人々の方が不健全、畸型なファシストに見え、それにくらべれば、過渡期上の一部の悪現象は、まだしも、健全に見えるのである。そこを通して、新たなより高い生活がやがて結ばれるであろうからである。
 私は強盗学生や桃色大学生が好きではないけれども、応援団的学生の自治精神はそれ以上に嫌いである。

     慈善と献金

 元伯爵の子供が窃盗罪でつかまったら、引きとって更生させたいという志願者が殺到したそうだ。元華族らしき女人をはじめ裏長屋のオカミサンに至るまで、いずれも御婦人方であった。
 華族崇拝だの封建性だのと目クジラだてて民主ヅラをひけらかすのは当らない。英雄崇拝や美女美男崇拝はどこにもあることだ。阿部定さんの出所をまって結婚したいと申しこんだ勇士はたくさんあった筈であるし、伯爵令嬢でなくとも、美少女の万引犯に引取って更生させたいと申込みたい勇士は少くない筈である。内々はそう思っても、やらないだけのことで、今まで女はメッタにこんなことをやらなかったが、近ごろは、怖れげもなく、そういうことをやる。
 羞恥心の喪失ということではないようだ。元々羞恥してはおらぬのである。なぜなら、元伯爵の子供であり、美少年であるから、という秘密には当の本人が気付いていない。当人はただ可哀そうだと思っており、よいことをしている気持でいるらしい。
 つまり、無学無智なのである。そして、現在の日本は、かかる無智なるものに生活力があり、慈善を施す能力が具わったという証拠でもあり、家柄とか教養などというものが生活力を失いつつある証拠でもあるのである。深き教養とか高き家柄というものは、無智無学の生活選手の慈善の対象と化しつつあるのである。
 慈善の性格というものには、多かれ少かれ、かかる無智のバカラシサや、ギマン矛盾がふくまれているものだ。そのバカラシサが、このように明白なものはまだ罪がないので、そのバカラシサが如何に多く現実に横行し、自覚されずにいるか判らない。
 政治献金は利益の取引ではなくて、単なる献金だという。つまり慈善である。利益の取引は罪を構成するかも知れぬが、献金や慈善は罪を構成しない。その代り、人間の生活を、無学無智、白痴の世界へひきずりこんでいるものだ。神を怖れざる仕業である。
 私は阿部定さんに結婚を申込み、万引の美少女に結婚を申込む勇士の方に賞賛をおくる。それは慈善ではない。あきらかに、好色である。羞恥なき仕業であるかも知れないが世のツマハジキを怖れない勇気がいる。つまり自ら罪人たる勇気がいる。献金だの慈善などと言わずに、自ら利益の取引であることを明にしている態度なのである。
 近ごろの政治献金という慈善事業は、伯爵のせがれを引取りに行く裏長屋のオカミサンによく似ている。無学無智、白痴たることによって罪を救われているにすぎない。
 自らの罪を知り、罪に服する勇気なくして、知識も文化も向上もあるものではない。

     太宰の死

 太宰のことに就ては、僕はあまり語りたくない。僕自身の問題として、僕の死ということは大した問題だと思っていないから、太宰の場合にしても、とりわけ自殺に就て、考える必要もないと思っている。その自殺によって、彼の文学が解明されるという性質のものでもない。自殺などがどうあろうと、元々彼の文学は傑出したものであり、現実の自殺という問題は、あってもなくとも、かまいやしない。
 文学者の自殺ということは、社会問題としては珍聞であるかも知れぬが、文学者仲間の話題としては、そうかい、太宰は死んだかい、おやおや、女と一緒かい、というだけのことだ。
 人間の思想に、どうしても死ななければならぬなどという絶体絶命のものはありはせぬ。死ななければ、生きているだけのことである。同じことだ。文学者には、書いた作品が全部であり、その死は、もう作品を書かなくなったというだけのことである。
 太宰は、その近作の中で明かに自殺しているが、それだから、現実に自殺をしなければならぬという性質のものでもない。
 私は然し太宰が気の毒だと思うのは、彼が批評を気にしていたことである。性分だから、仕方がない。それだけ可哀そうである。
 批評家などというものは、その魂において、無智俗悪な処世家にすぎないのである。むかし杉山平助という猪のようなバカ者がいて、人の心血をそそいでいる作品を、夜店のバナナ売りのように雑言をあびせ、いい気になっていたものだ。然しその他の批評家といえども、内実は、同じものである。
 太宰はそんな批評に、一々正直に怒り苦しんでいた。もっとも、彼の文学の問題が、人間性のそういう面に定着していたせいでもある。だから、それに苦しめられても、それが新しい血になってもいた。だから又、死ななくとも、よかった。それを新しい血にすればよかったのである。
 自殺などは、そッと、そのままにしておいてやるがいい。作品が全てなのだから。まして、情死などと、そんなことは、どうだっていいことである。
 僕はまだ彼の遺作を読んでいないから分らないが、今まで発表された小説の中では、スタコラサッチャン(死んだ女に太宰がつけていたアダナ)を題材にしたものはないようだ。だから、未完了のうちに死んだか、書く意味がなかったか、どちらにしても、作家としての太宰にとって、その女が大きな問題でなかったことは明かである。
 昨日、某新聞が、太宰が生きていて僕がかくまっていると云って、僕を終日追跡。ソソッカシイ新聞があるものである。

     文学の社会的責任と抗議の在り方

 私が本欄に書いた「応援団とダラク書生」に明治大学の応援団長から六月二十日の世界日報紙上に抗議文が寄せられた。
 別段筆者に謝罪を要求するというような性質のものではなく、ただ応援団と明大学生自治運動の在り方について弁明し、あわせて筆者の文学を応援団的に批判したものであるから、私はそれに弁明も反駁も加えようとは思わない。
 然し、次のことだけは、明大応援団と私との問題としてでなく、文学の問題として、明確にしておきたい。
 文学上の問題は、たまたま実在の何ものかに表面の結びつきがあるにしても、その個を超えて、人間の本質的な問題として、全人間的に論じられているものである。
 もとより、作家は自らの文章に全ての責任を負うている。社会的責任のみならず、さらに厳正絶対な人間的責任を負うているものである。私は社会によって裁かれることは意としないが人間によって裁かれることを怖れる。私が不断に耳をすましているものは、内奥からの人間の声のみであり、この裁きは、私にとっては絶対である。
 文学は色々に読まれる。批評家は千差万別の批評を加え、読者は各人各様の読み方をする。その結果が、作家の思いよらざる社会的影響をひき起した場合にも、作家は尚、社会的責任を負うべきもの、と私は信ずる。社会的責任とはかくの如きものであり、いかなる無邪気な過失といえども、その結果によって裁かれる性質のものである。
 明大応援団の場合は、単に抗議というだけで、私に謝罪を要求しているようなものではない。私は言うべきことを書きつくしているのだから、明大応援団がそれをどう読みとったにしても、補足して言うべきことはない。ただ、明大応援団長の文章は、あれではいけない。私の文学の批判などせずに、明大応援団と、明大自治運動との在り方を具体的に詳説して、それが私設憲兵化をまねく性質のものでないことを具体的に証明して、真理の名に於て私の蒙をひらけばよかったのである。論争とか抗議というものは、そういう性質でなければならない。
 久板君の場合は、慶応大学生が謝罪を要求したという。これは筋が違っている。むしろ告訴すべきである。久板君自身が、謝罪要求は告訴に於てなすべきだ、と言明しているのは、これが文学者の当然な態度であり、覚悟であり、慶応大学生諸君も久板君の態度から学ぶところがなければならない。
 文学者は、その作品に対して常に全責任を負うているもので、人間の名に於て裁かれることを常に最も怖れつつしんでいるものである。社会的責任については、文学者個人として、文学の名に於て裁きに服し得ざるもので、社会人としての責任に於て裁かれ服罪すべきものだ。文学者は法律によって裁かれるよりも、自我自らに裁かれることがより怖しく、絶対のものであるから、文学者私人に謝罪を要求するなどとは筋違いで、そういう時には告訴すべきものである。今後もあることだから、この一事は明確にする必要があると私は思う。

     こりることの必要について

 福井の地震で、大被害を蒙った。地域は異っても、地震の被害は殆ど年々のことである。これを天災と称したのは昔はそれで当然であるが、その対策の分明している文化国で、これを天災とするのは分らない。
 黄河という河は、堤を築くだけでは必ず洪水の起る河である。流れが黄土を運んで年々一メートルぐらい堆積するから、早くて十年、おそくて二十年ぐらいで川底が堤より高くなって洪水となる。
 だから堤を築くだけではダメのことが分りきっていても、ほかに手段を施さず、これを天災とみる。人間がふえすぎるから、洪水のたびに五十万ぐらいずつ死んで、これが天意の人口調節だという名論が、千年も前からハバをきかしている有様である。
 必要は発明の母と云い、禍を転じて福となす、災害にこりる、こりるということは大切なことだ。こりないことは、罪悪だと私は思っている。
 日本人は地震にこりないのである。近頃の有様では、殆ど戦争にも、こりていないようである。
 禍いを利用する、なんでも利用して、より良くしようとする心構えは、文明の母胎であるが、それには、先ず、こりることが第一だ。
 戦争で、みんな家を失った。家財も失った。そういうことも、これを利用するならば、災害が生きてくるのである。
 焼跡のうちに、都市ケイカクをし、区カク整理を行えば、焼けたことも生きる。
 資材がないから今はバラックが当然であるが、後日のケイカクとして、木造の私宅を許さず、鉄筋コンクリのフラット式の集団高層住宅を原則とする。さすれば地震にもたえ、狭小な国土に利用地をふやすことにもなる。それぐらいのケイカクは当然立案されて然るべく思われるのに、そんな声もきかれない。
 身のまわり、私生活は、できるだけ簡便にすべきもので、せまい国土のくせに一人一軒の木造家屋に住んでいるなどとは、愚の骨頂である。
 新生活運動とでも申すべきが起るならば、日本の大半が焼け跡となり、これから建設、という今が何より適当で、これを利用して、文化国家建設のイトグチとすべきであろう。
 禍いは、これを利用せよ。そして、進歩せよ。天災という言葉はマッ殺するようにならなければならぬ。
 地震にこりることを知らない魂は、戦争にもこりることを知らないのである。

     総意的な流行

 東郷、乃木将軍らの軍国切手が追放されたに代って、文化人の肖像を入れた「文化」切手をつくろうと逓信省が案をねっているそうだ。
 このキッカケとなったのは、七月卅日の幸田露伴の一周忌を記念して、この文豪の肖像を切手にしては、と日本出版協会から申入れがあったせいの由である。
 以上は新聞の雑報であるから、真偽のほどは確かでないが、日本出版協会とか何とか文化団体とかのやりかねないことだ。
 いったい、幸田露伴とは、国民的文豪なりや。いったい、露伴の何という小説が日本人の歴史の中に血液の中に、生きているのか。
 少数の人々が「五重塔」ぐらいを読んでるかも知れないが、「五重塔」が歴史的な傑作の名に価いするか、ともかく、一般大衆の民族的な血液に露伴の文学が愛読されているとは思われず、むしろ一葉の「たけくらべ」が、はるかに国民に親しまれているであろう。
 一般大衆の流行の如き、とるに足らぬ、と仰有おっしゃるならば、笑うべき暴論と申さねばならぬ。死んで、歴史に残る、という。文学が歴史に残るとはいつの世にも愛読されるということで、これにまさる文学批評はないのである。一部に専門的に、どれだけヒネクッた批評があるにしても、いつの世にも愛読されるということより大いなる、又、真実の批評がある筈はない。
 たとえば、坂口安吾という三文ダラク論者が、汗水たらして、夏目漱石は低俗軽薄文学也とヤッツケてみても、その坊ちゃんとか猫とかは、すでに国民の血液の一部と化しつつあるではないか。これに比べれば、三文ダラク論者のヒネクレル説の如きは問題にあらず、と申すより仕方がない。
 露伴の作に、坊ちゃんや猫の如く、国民の血液化しつつある何作品がありますか。彼は我々の血液に、何物を残しましたか。
 三文ダラク論者が大衆の流行に反して、漱石をくさすのは勝手なことだが、国民総意のアカシたる切手の如きものに肖像を入れるに際して、個人的な文芸批評が許さるべきものではない。
 国民総意の流行が、いかに低俗でも、それが真に総意的な流行ならば、仕方がないものだ。





底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「世界日報 第五五二号〜第六九二号」
   1948(昭和23)年2月23日〜7月12日
初出:「世界日報 第五五二号〜第六九二号」
   1948(昭和23)年2月23日〜7月12日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について