日本史に女性時代ともいふべき一時期があつた。この物語は、その特別な時代の性格から説きだすことが必要である。
女性時代といへば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその絢爛たる才気によつて一世を風靡したあの時期だ。
けれども、これは特に女性時代といふものではない。なぜなら、彼女等の叡智や才気も、要するに男に愛せられるためのものであり、男に対して女の、本来差異のある感覚や叡智がその本来の姿に於て発揮せられたといふだけのことだ。
つまり愛慾の世界に於て、女性的心情が歪められるところなく語られ、歌はれ、行はれ、今日あるが如き歪められた風習が女性に対して加へられてゐなかつたといふだけのことだ。とはいへ、今日に於ては、歪められてゐるのは男とても同断であり、要するに男女の心情の本性が風習によつて歪められてゐる。
平安朝に於てはそれが歪められてゐなかつた。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛慾がその本能から情操へ高められて遊ばれ、生活されてゐた。かゝる愛慾の高まりに、女性の叡智や繊細な感覚が男性の趣味や感覚以上に働いたといふだけのことで、古今を問はず、洋の東西を問はず、武力なき平和時代の様相は概ね
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皇室といふものが実際に日本全土の支配者としてその実権を掌握するに至つたのは、大化改新に於てゞあつた。
蘇我氏あるを知つて天皇あるを知らずと云ひ、蘇我氏は住居を宮城、墓をミサヽギと称し、飛鳥なる帰化人の集団に支持せられて、その富も天皇家にまさるとも劣るものではなかつた。畿内に於けるこの対立ほど明確ではなかつたにしても、地方に於ける豪族は各々土地を私有して、独立した支配者として割拠してをり、天皇家の日本支配は必ずしも甘受せられてゐなかつた。
大化改新は、先づ蘇我一族を亡すことから始められたが、その主たる目的は、天皇家の日本支配の確立、君臣の分の確立といふことだ。口分田とか租庸調の制度は、土地私有の厳禁、つまり天皇家の日本支配の結果であつて、目的ではない。
蘇我氏を支持する帰化人の集団は飛鳥の人口の大半を占め、当時の文化の全て、手工業の技術と富力をもち、その勢力は強大であつた。真向からこれを亡す手段がないので、天智天皇は皇居を近江に移してこの勢力の自然の消滅を狙つたが、この勢力の援助なしには新都の経営も自由ではない。その弟の後の天武天皇が兄の天皇の憎しみを怖れて吉野に逃げたのも、この勢力の支持を当にしてのことであつた。
持統天皇は藤原遷都によつてこの勢力との絶縁を志して果し得ず、奈良の遷都によつて始めて絶縁に成功した。天皇家の日本支配がこのときに確立したので、古事記や書紀の編纂がこの時期に行はれたのも、天皇家の日本支配を正統づける文献が必要であつた為であり、その必然の修史事業の企てによつても、この時期に於ける天皇家の地盤の確立を推定し得るであらう。
爾来、天平の盛時、諸国に国分寺がたち、聖武天皇が大仏の鋳造に勅して、天下の富をたもつ者は
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天智天皇は当然継承すべき帝位に即かず、皇極、孝徳、斉明、三帝のもとに皇太子として暗躍した。斉明は皇極の
この時まで女帝といふことは推古の外には例がない。然し、この時には女帝に意味があるのではなく、中大兄皇子(天智天皇)が自らの意志によつて皇太子であつたところに意味があり、皇子は大改革、むしろ天下支配の野心のもとに、その活躍の便宜上、ロボットの天皇を立て、自らは皇太子でゐたものだ。その腹心は鎌足であり、全ては二人の合議の上で行はれたものであつた。
自分自ら号令を発しても威令は
従つて皇極(斉明)といふ女帝は中大兄皇子のロボットであり、女帝自体に意味はなかつた。女性時代ともいふべき女帝時代は持統天皇から始まる。
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天武天皇崩御のとき皇太子(草壁皇子)がまだ若かつたので(当時は幼帝を立てる例がなかつた)皇太后が摂政した。三年の後、皇太子も亦
持統天皇の在位は皇孫珂瑠の保育にあつたが、太政大臣に高市皇子を任じ、補佐するに
死後の世界は、今日科学によつて死後の無を証明せられてすら、尚我々の知性に於てもその空想と恐怖から解放されてはゐない、原形のまゝ地下に横はり他日の再生を希ふことは人間本来の意志であるが、その仏教に対する信仰の結果とは云へ、自ら意志して、肉体を焼き無に帰すことを求めるのは凡人の為し得るところではない。持統天皇は天智天皇の娘であるが、その夫大海人皇子(天武)が天智天皇に厭はれて吉野に流浪のときも従属してをり、その強烈沈静な性格は知り得るであらう。
皇孫珂瑠は譲を受けて即位し文武天皇となる。このときの
「
自らを現御神と名のり、大八島しらす天皇と名のる、この堂々の宣言を読者諸氏は何物と見られるであらうか。私はこれを女と見る。女の意志を見るのである。
私は一人の強烈沈静なる女の意志を考へる。その女は一人の孫の成人を待つてゐた。その孫が大八島しらす天皇、現御神たる成人の日を夢みてゐた。その家づきの宿命の虫の如き執拗さをもつて、夢み、祈り、そして、育てゝゐたのだ。人はすべて子孫の繁栄を祈るものであるかも知れぬが、別して女は、別して強烈沈静なる女は、現実的、肉体的な繁栄や威風をもとめてやまないものである。北条政子と同じ意志がこゝにある。そして、政子の如く苦難に面してゐなかつた。順風に追はれてゐた。
我々がこゝに見出すのは、政府ではなく、家であり、そして、家の意志である。
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文武天皇は二十五で夭折した。皇子
つゞいて元正天皇に譲位した。首皇子が尚成人に至らなかつたからである。元正天皇は元明天皇の長女であり、文武天皇の姉であり、首皇子の伯母であつた。
かうして祖母と伯母二代の女帝によつて
女帝達の意志のうちに、日本の政治、日本の支配、いはゞ天皇家の勢力は遅滞なく進行してゐた。大宝、養老の律令がでた。風土記も、古事記も、書紀もあまれた。奈良の遷都も行はれた。貨幣も鋳造された。
然し、女帝達の意志と気力と才気の裏に、更に一人の女性の力が最も強く働いてゐた。
男の天皇に愛せられた女傑の例は少くない。然し、男の天皇にも、別して女の天皇により深く親しまれ愛されたといふ女傑の例はめつたにない。
三千代は始め
史家は推測して、三千代は文武天皇のウバの如きものではなかつたか、又、首皇子に就ても同じやうな位置にあつたのではないか、といふ。とまれ六朝に歴侍して宮中第一の勢力を持ち、男帝女帝二つながら親愛せられて、終生その勢力に消長がなかつたといふ三千代の才気は、いさゝか我々の理解を絶するものがある。
然し、かういふことが云へる。六朝に歴侍して終生その宮中第一の勢力に消長がなかつたといふ三千代の当面の才気に就ては分らない。然し、三千代の地位と勢力に変りがなかつた
天武天皇までの歴朝はお家騒動の歴史であつた。天武天皇自体、兄天皇に憎まれ、逃走、流浪、戦乱の後に帝位に即いた人である。然し、つづいて持統よりも聖武に至るまで、持統の初期にお家騒動の多少のきざしが有つたゞけで未然に防がれ、それより後は「家」といふ足場自体に不安のきざしたことはない。たまたま男の継嗣は長寿にめぐまれず、幼児を擁して女帝の摂政がつゞいたとはいへ、その成人にあらゆる希願と夢を托して、一方に朝家の勢力、日本支配は着々と進み、すべては順調であつた。六朝の意志に変化はなく、六朝の性格は一貫してゐた。
夫(天武)より妻(持統)へ。
祖母(持統)より孫(文武)へ。(まんなかの父(草壁太子)は夭折したのだ。然し、母は残り、これ又、次に天皇となる)
子(文武)より母(元明)へ。(この母は同時に持統の妹でもあつた)
母(元明)より娘(元正)へ。(この娘は文武の姉に当つてゐた)
伯母(元正)より甥(聖武)へ。
文武を育てる持統の意志は、聖武を育てる元明、元正両帝の意志の原形であり、全く変りはなかつた筈だ。元明は持統の妹だ。そして、元正は元明の娘であつた。
二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承し、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承してゐた。時代と人は変つても、その各々の血と意志に殆ど差異はなかつたのだ。
家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固であつた。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるといふ事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがたゞ幼帝の成人に托されてゐたからである。女達がその自由意志、欲情を抑へ、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭するとき、如何なる男も彼女等以上に周到な才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
史家は三千代を女傑といふ。意味にもよるが三千代はたぶん策師ではなかつた筈だ。なぜなら私情を殺した女の支配者の沈静なる観察に堪へて最大の信任を博したのだから。彼女は貞淑であり、潔癖であり、忠実であつたに相違ない。もとより、すぐれた才気はあつたが、善良であつたに相違ない。温和であつたに相違ない。
沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかつた。大臣は温和であつた。藤原不比等は正しかつた。彼等は実直な番頭だつた。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途に目的を進んでゐた。
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これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であつた。
その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の
そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであつた。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を内裏に集めて、光明皇后
安宿は天下第一の女人の如くに教育された。それは三千代の悲願であつた。不比等の女(三千代の腹ではない)宮子は
安宿は天性の麗質であり怜悧であつた。年齢も亦首皇子に相応し、生れながらにして、天皇の夫人たるべき宿命をあらはしてゐたけれども三千代は更に一つの慾念があつた。それは彼女の一世一代の慾念だつた。三千代はすでに年老いてゐた。その一生は誠心誠意、たゞ忠誠を事として、不当の私慾をもとめたことはない。その長男、葛城王は臣籍に降下して橘諸兄となり、大臣となつたがそれは自然の成行で、そして諸兄は温良忠誠な大臣だつた。けれども三千代は年老いて、今、やみがたい一代の慾念をどうすることもできない。それは安宿を夫人でなしに、皇后にしたいといふことだつた。
そして安宿はその母なる一代の才女によつて、天下第一の女人の如くに教育された。当然首皇子の夫人であり、やがて、どうあらうとも皇后であらねばならぬ悲願をこめて育てられた。麗質は衣を通して光りかゞやき、広大な気質と才気は俗をぬき、三千代の期待の大半は裏切られる何物も見出すことができなかつた。
女支配者の沈静な心をこめ夢を托して育てあげられた首皇子は、その沈静な女たちの心情によつて厭はれるものを厭ひ、正しとするものを正しとする心情を与へられてゐた。その沈静な女たちの心情が厭ふものは淫乱であり、正しとするものは信仰であつた。
元明天皇が首皇子に安宿を与へるとき、特に言葉を添へて、これは朝家の柱石であり、無二の忠臣であり、主家のためには白髪となり、夜もねむらぬ人の娘なのだから、たゞの女と思はずに大切にするやうに、といふ言葉があつた。
然し、そのやうな言葉すらも不要であつた。皇子の心はすべてに於て安宿によつて満たされた。美貌と才気は言ふまでもなかつた。特にその魂の位に於て。天下第一の魂の位に於て。
まさしく二人は、そのやうに希はれ、祈られ、夢みられて、その如くに育てあげられた無二の二人であつた。首皇子を育てたものは、その祖母と伯母の外に、更により多く三千代であつた。そして三千代は首皇子を念頭に常に安宿を育てゝゐた。首皇子はその幼少に三千代にみたされて育つた翳を、より若く、より美しい安宿の現実の魅力の中で、思ひだし、みたされてゐた。
天平十八年、大仏の鋳造に当つて「天下の富をたもつ者は朕なり。天下の勢をたもつ者も朕なり」と勅した天皇は、その鋳造を終つて東大寺に行幸し、皇后と共に並んで北面の像に向ひ、凛々と大仏に相対し、橘諸兄に告げしめて「三宝の
それは二人の宿命の遊びであつた。五丈余の大仏と、それをつゝむ善美華麗、天下の富をつくした建築、諸国には国分寺が立ち、国分尼寺が立ち、それは、まさしく天下の富を傾けつくしてゐたのである。
然し、その巨大なる費用のために、諸国は疲弊のどん底に落ち、庶民は貧窮に苦しんでゐた。朝廷は怨嗟の的となり、重税をのがれるための浮浪逃亡が急速に各地に起り、おのづから荘園はふとり、国有地は衰へ、平安朝の貴族の専権、ひいては武家の勃興、朝家の没落の種はかうしてまかれてゐたのである。
然し、二人の宿命の子は、そのやうなことは振向きもしない。たゞ常に天下第一の壮大華麗な遊びだけがあるだけだつた。それは二人の意志のみではない。六朝をかけた家名の虫、女主人たちの意志だつた。沈静なる女支配人たちの綿密な心をこめた霊気の精でもあつたのである。
そして、宿命の二人に子供が生れた。娘であつた。持統天皇がその強烈沈静な思ひをこめてから六代、最後の精気が凝つてゐた。それが孝謙天皇であつた。
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三宝の奴と仕へまつると大仏に礼拝したその年の七月、聖武天皇は愛する娘に位を譲つて上皇となつた。新女帝はそのとき三十三だつた。
この女帝ほど壮大な不具者はゐなかつた。なぜなら、彼女は天下第一の人格として、世に最も尊貴な、そして特別な現人神として育てられ、女としての心情が当然もとむべき男に就ては教へられてゐなかつたからだ。結婚に就ては教へられもせず、予想もされてゐなかつた。父母の天皇皇后はそのやうに彼女を育て、そして甚だ軽率に彼女の高貴な娘気質を盲信した。我々の娘だ。特別な娘だ。男などの必要の筈はない、と。
首皇子を育てゝくれた祖母の元明天皇も、伯母の元正天皇も、未亡人で、独身だつた。彼女等の身持は堅かつた。そして聖武天皇は、当然孤独な性格をもつ女支配者の威厳に就て、見馴れるまゝに信じこみ、疑つてみたこともなかつた。彼は全然知らなかつた。祖母も伯母も、女としての自由意志が殺されてゐたことを。彼女等は自ら選んで犠牲者に甘んじてゐた。彼女等の慾情は首皇子を育てることの目的のために没入され、その目的の激しさに全てがみたされてゐた。彼女等は家名をまもる虫であり、真実自由な女主人ではなかつたのだといふことを。
この二つの女主人の、根柢的な性格の差異を、聖武天皇はさとらなかつた。
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新女帝の治世の始めは、まだ存命の父母に見まもられて、危なげはなかつた。政治はむつかしいものではなかつた。たゞ全国的な大きな田地を所有する地主であり、その毎年の費用のために税物を割当て、とりあげるのが政治であつた。
上皇は剃髪して
上皇が死んだ。つゞいて母太后も死んだ。女帝は遂に我身の自由を見出した。女帝は急速に女になつた。
孝謙天皇は即位の後に、皇后宮職を
天皇は、恋愛の様式に就て、男を選ぶ美の標準も、年齢の標準も、気質に就ての標準も、あらゆるモデルを持たなかつた。魂の気品の規格は最高であつたが、その肉体の思考は、肉体自体にこもる心情は、山だしの女中よりも素朴であつた。
天皇はその最も側近に侍る仲麿が、最も親しい男であるといふだけで、仲麿を見ると、それだけで、とろけるやうに愉しかつた。四十に近い初恋だつた。母太后の死ぬまでは、それでも自分を抑へてゐた。
彼女ほど独創的な美を見出した人はなかつたであらう。彼女には仲麿の全てのものが可愛いかつた。彼女はたゞ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかつた。たゞ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかつたゞけだつた。
天皇は仲麿を見るたびに
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孝謙天皇の皇太子は
恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だつたが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る
死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やつぱりたゞの肉体をもつ宿命の人の子であることに気付いてゐた。上皇はたゞ怖しかつた。全てを見ずに、全てを知らずに、ゐたい気持がするのであつた。然し、彼は、ともかく娘を信じたかつた。なぜ肉体があるのだらうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与へたことが、自分の罪であるとしか思はれない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの訓戒をもらすだけの残酷さにも堪へ得なかつた。
彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらゐ、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむやうに、一語づゝ、ゆつくり言つた。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになつてゐる。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことゝ存じてをります。さうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓ひをたてるがよい。押勝は神酒を飲んで、誓つた。上皇の目は光つた。よろしいか。もしもお前がこの言葉に違ふなら、天神
上皇は崩御した。
押勝は上皇の病床に誓つた言葉のことなぞは、気にかけてゐなかつた。それにしても、機会の訪れは早すぎた。
諸臣をあつめて太子の廃否を諮問する。天皇の旨ならばそむかれませぬ、大臣以下諸臣の答へは、さうだつた。即日太子を廃して、自宅へ帰してしまつたのである。
改めて太子をたてる段となり、右大臣豊成と藤原永手は塩飽王を推した。
★
左大臣は橘諸兄、右大臣は藤原豊成であつた。豊成は押勝の兄だつた。
聖武上皇が死床に臥してゐるとき、諸兄が酔つてふともらしたといふ言葉尻をとらへて、
けれども諸兄は押勝の野心と企みを怖れた。
彼が信任を得てゐるのは上皇と太后であり、その亡きあとは、押勝の企みが万能でありうることを見抜いてゐた。彼は争ひを好まなかつた。彼は三千代の長子であり、光明太后の異父兄であり、その柄になく左大臣になつたけれども、家族政府の実直な番頭といふ心あたゝかな責務以上に、政治に対する抱負もなく、又は特別の才腕もなかつた。人と争ひ、押しのけてまで、地位に執着しなければならないやうな、かたくなゝ思ひは微塵もなかつた。彼はあつさり辞任した。みれんなく都の風をすて、山吹の咲く井出の里に閑居して、そして、翌年、永眠した。
残る邪魔者は、彼の実兄、右大臣豊成が一人であつた。彼は兄の失脚の手掛りを探したが、温良大度、老成した長者の右大臣には直接難癖のつけやうがなかつた。
そのころ、押勝の専横を憎む若手の貴族に、暗殺の計画がすゝめられているといふ噂があつた。
あるとき、大伴古麿が小野
橘諸兄の子の
然し、光明太后はそれらの密告をとりあげなかつた。たゞ、噂にのぼる人々を召し寄せて、私はそのやうなことは信じたことはないけれども、然し、国法といふものは私と別にあるのだから、皆々も家門の名誉といふものを失はぬやう心掛けてくれるがよい。お前たちは私の親しい一族の者に外ならぬのだから、私の言葉は大切にきくがよい、と、さとされた。
けれども、やがて、
押勝は自邸に警備をつけ、召捕の使者は即刻四方に派せられた。その隊長の一人は藤原永手であつた。彼は押勝の命を受け、まるで腹心の手先のやうな赤誠を示して出掛けて行つた。主謀者達は、諸王も諸臣も召捕られた。然し白状したものは、小野東人だけだつた。そして、東人に白状せしめた者も永手であつた。
諸王達も諸臣達も、他の何人も白状しなかつた。彼等はたゞ東人が誘ひにきたので集つたので、集りの目的も知らないと言つた。東人が礼拝しようと言ひだしたので、何を礼拝するのかと訊くと、天地を拝すのだといふ、それで言はれるまゝに礼拝したが、陰謀の誓約のために礼拝したのと意味が違ふ、それが彼等の答へであつた。彼等の答へは全てがまつたく同一だつた。
そこで彼等は拷問せられて、廃太子道祖王、黄文王は杖に打たれて悶死をとげ、古麿と東人も拷問に死んだ。生き残つた人々は流刑に処された。東人が杖に打たれて死んだので、この真相はもはや誰にも分らなかつた。
そして、このとき、豊成の子の
あらゆる敵を一挙に亡したばかりでなく、目の上の瘤、兄大臣を退けることまでできた。押勝の満足は如何ばかり。
ところで、その同じ時刻に、顔を見合せてニヤリとしてゐた一味がゐた。藤原永手、藤原
然し、彼等は祝杯をあげてゐたのである。彼等は老いたる狐の如くに要心深い若者だつた。祝杯の陰の言葉から、我々は如何なる秘密もきゝだすことはできない。その場にたとへば押勝がひそかに忍んで立聞きしても、陰謀の破滅と、平和の到来を祝ふ言葉をきゝ得たゞけであつたらう。
★
藤原不比等に四人の男の子があつた。各々家をたて、
筑紫に起つた痘瘡が都まで流行してきた。天平九年のことであつた。加茂川のほとり、城門の外は言ふまでもなく、都大路も投げすてられた屍体によつて臭かつた。藤原の四兄弟も、一時に病没したのである。
藤原四家の子弟たちはまだ官暦が浅かつたから、亡父の枢機につき得なかつた。橘諸兄が大臣となり、
もとより朝廷と藤原氏は鎌足以来光明皇后に至るまで特別の関係をもち、その勢力の恢復も時間の問題ではあつた。
先づ豊成が右大臣となり、その弟の押勝が紫微中台の長官となつた。彼等は四家のうち、長男武智麻呂の南家の出であり、その年齢も特に長じて、五十をすぎてゐた。豊成の栄達は自然であつたが、押勝は破格であつた。その栄達にあきたらず、寵をたのんで、諸兄を退け、皇太子の廃立を行ひ、陰謀によつて敵を平げ、その兄すらも退けた。あとを襲つて右大臣となり、二年の後に、太政大臣に累進した。
藤原若手の貴族達は一門の昔の夢を描きつゝ、年毎にその当然の官位をすゝめてゐたが、今は、当面の敵を倒さなければならなくなつてゐた。当面の敵は、押勝であつた。なぜなら、押勝も同じ彼等の一族ではあつたが、まるで彼等の首長のやうに専横すぎるからであつた。
彼等のすべては個人主義者、利己主義者であつた。彼等は一族の名に於て団結したが、それはたゞ共同の敵を倒すための便宜以外に意味はなかつた。彼等はたゞ己れの利益と、己れの栄達を愛してゐた。そして、生れながらの陰謀癖と、我身の愛を知るのみの冷酷な血をもつてゐた。その
陰謀の主役は年長の永手よりも、むしろ若年の百川だつた。永手は彼らの最長者であり、官職も中納言にすゝんでゐたが、百川はまだ二十五をまはつたばかりで、取るにもたらぬ官職だつた。然し、その老獪な策略と執拗な実行力はぬきんでゝゐた。
彼等のすべてが押勝の腹心だつた。押勝に媚び、すゝんで忠勤をはげみ、その報酬に官位の昇進を受けてゐた。彼等は面従腹背を人の当然の行為であると信じてゐた。彼等はむしろ押勝よりも悪辣であり老獪であり露骨であつた。百川は道鏡をしりぞけてのち、自分の好む天皇をたてる陰謀に成功した。更にその後、皇太子の廃立に成功したが、彼のすゝめる親王を天皇は好まなかつた。その天皇を責めたてゝ、四十余日、夜もねむらず門前にがんばりつゞけ、喚きつゞけて、天皇を根負けさせてゐるのであつた。
彼等はむしろ押勝以上に策師であり、智者であり、陰謀家であり、利己主義者であり、かつ、礼節も慎みもなかつたから、押勝の専横に甘んじて、その下風に居すはる我慢がなかつたのである。
彼等の共同の目的は、押勝の失脚だつた。すると、そこへ、思ひもうけぬ好都合の人物が登場してきた。それが
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道鏡は天智天皇の子、
道鏡は幼時
彼の魂は高邁だつた。その学識は深遠であつた。そして彼は俗界の狡智に馴れなかつた。小児の如くに単純だつた。荒行にたへたその童貞の肉体は逞しく、彼の唄ふ梵唄はその深山の修法の日毎夜毎の切なさを彷彿せしめる哀切と荘厳にみちてゐた。彼はすでに押勝に劣らぬ老齢だつたが、その魂の、その識見の、その精進の厳しさによつて、年齢のない水々しさが漂つてゐた。
天皇はいつ頃からか、道鏡に心を惹かれてゐた。
天皇はすでに位を太子に譲り、上皇であつた。然し、新帝の即位は名ばかりで、政務は上皇の手にあつた。
六代の悲しい希ひによつて祈られてきた宿命の血、家の虫のあの精霊が、年老いた女帝の心に生れてゐた。その肉体は益々淫蕩であつたけれども、その心には、家の虫の盲目的な宿命の目があたりを見廻し、見つめてゐた。
色々のことが分つてきた。見えてきたのだ。家の虫の盲目的な宿命の目によつて。
新たな天皇と太政大臣押勝は一つのものであつた。新帝は、彼女のものでもなく、国のものでもなく、押勝の天皇だつた。さういふことが分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失つてゐた我身の拙さに気がついた。
上皇は家に就て考へる。いや、家の虫が、我身に就て考へるのだ。彼女は押勝を考へる。臣下と、つまり、たゞの男と、どうしてこんな悲しいことになつたのだらう。我身の拙さ、切なさに堪へがたかつたが、その肉体のいぢらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思ひがするのであつた。
彼女は押勝がいやらしかつた。一時に興ざめた思ひであつた。我身のすべての汚らはしさも、押勝一人にかゝつて見えた。押勝はたゞ汚さが全てのやうに思はれた。
上皇は道鏡に就て考へる。静かな夜も、ひつそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強ひて、その肉体は思ひだすまいとするのであつた。そして、実際、その肉体を思はずに、道鏡に就て考へてゐることがあつた。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。さういふ時には、時々、深く息を吸ひ、そして大きく吐きだすやうな静かな澄んだ心があつた。けれども思ひは、たゞそれだけでは終らなかつた。そして最後に、上皇は身ぶるひがする。すると、もはや、暫く何も分らなかつた。彼女は祈つてゐた。然し、より多く、決意してゐた。それは彼女の肉体の決意であつた。
あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれてゐた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れてゐた。
だが、何よりも、彼は天智の皇孫だつた。臣下ではなく、王だつた。それを思ふと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるひするのであつた。
★
宝字五年、光明太后の一周忌に当つてゐたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原
忌を終り、十月に、
すでに上皇の肉体は決意によつて、みたされてゐた。上皇の保良宮の滞在は、病気の臥床の滞在だつた。道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。そして上皇は全快した。彼女の心はみたされたから。長い決意がみたされてゐたから。
上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかつた。それは人の心であつた。そして、それが自分の心であるのに気付いて、上皇は驚くのだ。上皇は冬空を見、冬の冷めたい野山を見た。その気高さと、澄んだ気配に、みちたりてゐた。すでに彼女は道鏡に、身も心も、与へつくしてゐた。
天皇は上皇と道鏡の二人の仲を怖れた。押勝のために怖れたのだ。天皇は恋に就ては多くのことを知らなかつた。彼は道鏡を見くびつてゐた。否、それよりも、上皇と押勝の過去の親密を過信し、盲信しすぎてゐた。
天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々
上皇は出家して、法基と号し、もはや全く道鏡と一心同体であつた。道鏡を少僧都に任じ、常に侍らせ、押勝は遠ざけられた。彼はもはや上皇にとつて、全く意味のない存在だつた。
押勝は悶々の日を送り、道鏡に憤り、上皇を怨んだ。嫉妬に燃え、失脚に怖れ、彼の心は狂ほしかつた。自ら陰謀する者は、人の陰謀を更に怖れる。彼は失脚の恐怖に狂ひ、人の陰謀の影に狂つて、自ら謀反を企んだ。
彼は太政官の官印を盗んで符を下し、ひそかに兵数を増加した。
密告する者があつて、罪状あらはれ、押勝は逃げて近江に走つた。退路を断たれ、
塩焼王も殺され、押勝の妻子も斬られ、その姫は絶世の美貌をうたはれた少女であつたが、千人の兵士に犯され、千一人目の兵士の土足の陰に、むくろとなつて、冷えてゐた。
天皇の内裏も兵士によつて囲まれた。使者の読みあげる宣命に「天皇の器にあらず、仲麻呂と同心して我を傾ける計をこらし」と書かれてゐた。即坐に退位を命ぜられ、淡路の国へ流された。そして翌年、配所で死んだ。
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上皇は法体のまゝ重祚して称徳天皇と云つた。出家の天皇には出家の大臣がゐてもよからうと仰せがあつて、道鏡は大臣禅師といふ新発明の官職を与へられた。
翌年、太政大臣禅師となり、二年の後に、法王となつた。
それは女帝の意志だつた。
女帝は道鏡が皇孫であり、たゞの臣下ではないことを、そのしるしを、天下に明にしたかつた。そして二人の愛情の関係自体も。皇孫だから。そして、愛人なのだから。女帝は法王といふ極めて的確な言葉に気付いて喜んだ。
法王の月料は天子の
道鏡は堕落の悔いを抑へることができてゐた。女帝の女体は淫蕩だつた。そして始めて女体を知つた道鏡の肉慾も
彼は夜の淫蕩を、昼の心で悔いることができなかつた。なぜなら女帝の凛冽な魂の気魄が、夜の心を目の前ではつきりと断ち切つてしまふから。彼の魂は高められ、彼の畏敬はかきたてられた。それは女ではなかつた。偉大にして可憐にして絶対なる一つの気品であり、そして、一つの存在だつた。
そして夜の肉体は、又、あまりにも淫縦だつた。あらゆる慎しみ、あらゆる品格、あらゆる悔いがなかつた。すべては、たゞあるがまゝに投げだされ、惜しみなく発散し、浪費し、行はれ、つくされてゐた。それ自体として悔い得る何物もあり得なかつた。惜しまれ、不足し、自由ならざる何物もなかつた。涙もあつた。溜息もあつた。笑ひもあつた。歓声もあつた。力もあつた。放心もあつた。悲哀もあつた。虚脱もあつた。怒りもし、すねもし、そして、愛し、愛された。
道鏡の堕落の思ひは日毎にかすみ、失はれた。そして彼はもはや一人の物思ひに、夜の遊びを思ひだすことがあつても、大空の下、あの葛木の山野の光のかゞやきの下の、川のせゝらぎと同じやうな、最も自然な、最も無邪気な豊かな景観を思ふのだつた。
彼は女帝を愛してゐた。尊く、高く、感じてゐた。
彼は内道場の持仏堂の仏前に端座し、もはや仏罰を怖れなかつた。否、仏罰を思はなかつた。女帝と共に並んで坐り、敬々しく礼拝し、仏典を
彼は自分を思はなかつた。たゞ、女帝のみ考へた。彼は女帝を愛してゐた。彼の心も、彼のからだも、女帝のすべてに没入してゐた。女帝は彼のすべてゞあつた。彼の魂は幼児の如く、素直で、そして、純一だつた。
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藤原一門の陰謀児達は冷やかな目で全ての成行を見つめてゐた。
道鏡といふ思ひもうけぬ登場によつて、彼等自身細工を施すこともなく、恵美押勝は自滅した。道鏡は押勝よりも単純だつた。そして、彼等に仇をする憂ひはなかつた。彼等はたゞ機会を冷静に待てばよかつた。あせる必要はなかつたから。
彼等は法王道鏡を天子の如く礼拝し、ひれふし、敬ふた。陰口一つ叩かなかつた。法王たることが道鏡の当然な宿命であることを、彼等が知つてゐるやうだつた。
然し、法王といふ意外きはまる人爵の出現に、百川の策は天啓の暗示を受けた。それは道鏡に天皇をのぞむ野望を起させ、そのとき、それを叩きつぶすことによつて、一挙に彼を失脚せしめる芝居であつた。
折から彼等の腹心の中臣
百川は彼に旨をふくめた。
赴任した阿曾麻呂は一年の後、上京した。彼は宇佐八幡の神教なるものを捧持してゐた。それに曰く「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならん」と。
道鏡は半信半疑であつた。天皇を望む野心を、夢みたことすら、彼はなかつた。望む必要がなかつたのだ。天皇は、すでに、ゐた。彼の最も愛する人が。彼のすべてゞある人が。
然し、藤原一門の陰謀児たちは執拗だつた。彼等は先づ神教によつて祝福された道鏡の宿命と徳をたゝへた。そして道鏡は皇孫だから、当然天皇になりうる筈だと異口同音に断言した。甘言はいかなる心をもほころばし得るものである。それをたとへば道鏡がむしろ迷惑に思ふにしても、それを喜ばぬ筈もない。
然し、と彼等の一人が言つた。事は邦家の天皇といふ問題だから、阿曾麻呂の捧持した神教だけで事を決することはできぬ。然るべき勅使をつかはして、神教の真否をたゞさねばならぬ、と。
もとよりそれは何人をも首肯せしめる当然の結論だつた。もし道鏡がその神教を握りつぶして不問に附する場合をのぞけば。
道鏡は迷つた。然し、彼は単純だつた。まことにそれが神教ならば、と彼は思つた。
そして、彼が勅使の差遣に賛成の場合、彼は天皇になりたい意志だといふ結論になることを断定されても仕方がないといふことに、気付かなかつた。
勅使差遣の断案は道鏡自身が下さなければならないのだ。彼は諾した。
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道鏡をこの世の宝に熱愛し、その愛情を限りなく誇りに思ふ女帝であつたが、道鏡を天皇に、といふ一事ばかりは夢にも思つてゐなかつた。天皇は自分であつた。その事実は、疑られ、内省されたことがない。
女帝は彼に法王を与へた。天子と同じ月料と、天子と同じ食服と、鸞輿を与へ、法王宮職をつくつて与へた。すでに実質の天皇だつた。すくなくとも、彼女が男帝ならば、道鏡は皇后だつた。
女帝は気がついた。家をまもる陰鬱な虫の盲目の希ひが、天皇は自分であるといふことを、てんから不動盤石に、疑らせもしなかつたのだ、と。
女帝は道鏡が気の毒だつた。いたはしかつた。そして、いとしくて、切なかつた。どこの家でも、女は男につき従つてゐるではないか。なぜ、自分だけ。なぜ道鏡が天皇であつてはいけないのか。
女帝は決意した。宇佐八幡の神教が事実なら、そして、勅使がその神教を復奏したなら、甘んじて彼に天皇を譲らう、と。なぜなら、彼は皇孫だから。諸臣もそれを認めてゐる。のみならず、天智天皇の孫ではないか。
女帝はその決意によつて、幸福であつた。愛する男を正しい男の位置におき、そして自分も、始めて正しい女の姿になることができるのだ、と考へた。
まだ女帝には皇太子が定められてゐなかつた。可愛いゝ男は今は彼女の皇太子でもあつたのだ! 上皇といふ女房の亭主が天皇とは珍らしい。天皇から皇后になることはできないのかな、と、女帝の空想はたのしかつた。道鏡が天皇になつたら、うんと駄々をこねて、こまらしてやりたい。うんとすねたり、うんと甘えたり、手のつけられないお天気屋になつてやりたい。そして道鏡の勘の鈍い、取り澄した、困つた顔を考へて、ふきだしてしまふのだ。
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彼のもたらした神教は意外な人間の語気にあふれ、奇妙な結語で結ばれてゐた。無道の者は早くとりのぞくべし、といふのだ。
道鏡は激怒した。なぜなら、彼は、たゞ神教の真否をもとめたゞけだつた。天皇になりたいなどゝは言はない筈だ。むしろ、心の片隅ですら、それを望んだ覚えがなかつた。
清麻呂の復奏は、たゞ道鏡を刺殺する刃物の如く、彼のみに向け、冷やかに、又、高く、憎しみと怒りと正義をこめて、述べられてゐた。
その不思議さに、いち早く気付いた人は女帝であつた。道鏡の立場は何物であるか。彼はたゞ、贋神教に告げられた一人の作中人物にすぎない。咎めらるべき第一のものは、贋神教であらねばならぬ。神教はそれに就いてはふれてはをらぬ。清麻呂の語気も態度も、阿曾麻呂に向けた批難のきざしが微塵もなかつた。
清麻呂の態度は明らかに、阿曾麻呂は道鏡の旨をうけて贋神教をもたらした傀儡であると断じてゐる。清麻呂の神教自体の語るところが、さうでなければ意味をなさぬ。女帝は道鏡を知つてゐた。彼にはあらゆる策がなかつた。かりに己が主観はとりのぞき、真実阿曾麻呂が道鏡の傀儡だつたと仮定せよ。和気清麻呂とは何者か。彼はたゞ神教の真否をたゞす使者ではないか。ありのまゝの神の言葉を取次ぐだけの使者ではないか。私情のあるべきいはれはない。語気のあるべきいはれはない。言葉と意味があるだけでなければならぬ。
清麻呂の語気は刃物となつて道鏡を斬り、怒りと憎しみと正義によつて、高ぶり、狂つてゐるではないか。即ち、そこにあるものは、神教ではなく、彼自身の胸の言葉でなければならぬ。
すべてがすでに明白だつた。阿曾麻呂も清麻呂も、ぐるなのだ。道鏡をおとすワナだつた。
道鏡は激怒にふるへてゐた。面色は青ざめはてゝ、その息ごとに、その鼻から、その目から、忿怒の火焔の噴きでぬことが不思議であつた。
女帝はかゝる傷ましい道鏡の顔を見たことはなかつた。女帝の胸は苦痛にしびれた。一時に怒りがこみあげてきた。この単純な魂を、この高貴な魂を、なぜそなたらは、あざむき、辱しめ、苦しめるのか。女帝の顔はにはかに変つた。清麻呂をはつたと睨みすくめてゐた。
すでに清麻呂は面を伏せて控えてゐたので、女帝の怒りの眼差は気付かなかつた。然し、百川はそれを見た。彼の胸に顛倒した叫びが起つた。シマッタ! と。
然し、そのとき天皇はすつくと立つて、すでに姿が消えてゐた。
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清麻呂は芝居をやりすぎた。あまり正直に生の感情をむきだしたことによつて。あまりに嘘がなかつたゝめに。彼は正直でありすぎた。すでにカラクリの骨組は女帝に看破せられたことを百川は悟らずにゐられなかつた。
寸刻の猶予もできなかつた。たゞちに清麻呂に因果をふくめ、神教偽作のカラクリ全部を一身に負ふ手筈をきめる。直ちに百川は上奏して、清麻呂はすでに神教偽作の罪状を告白したと告げた。さもなければ、カラクリの全部がばれるから。
清麻呂は官をとかれ、
百川の秘策は完全な失敗だつた。この事件により、女帝の道鏡によせる寵愛と信任は至高のものに深まつた。道鏡は唯一無二のものだつた。それは、然し、すでに昔から、さうだつた。女帝は堅く決意した。道鏡はわが後継者、皇太子、次代の天子、といふことだ。世の思惑は物の数ではなかつた。祖宗の神霊も怖れなかつた。
のみならず、世上の風説も、この事件の結末から、道鏡は天皇でありうるといふ結論になり、やがて、次代の天皇は道鏡だといふ取沙汰があつた。未だに立太子の行はれぬことが、この風説を疑はれぬものに思はせた。そして、人々は確信した。やがて道鏡は天皇である、と。
百川は再び啓示をつかんでゐた。女帝のこの絶対の信任のある限り、女帝の存命中は道鏡を失脚せしめる見込みはなかつた。女帝の死後。それあるのみ。
百川は、道鏡天皇説の流行を逆用する手段を見出してゐた。道鏡は愚直であり、信じ易い性癖だつた。道鏡天皇説を益々流行せしめるのだ。庶民達がそれを真に受けて疑ることがないぐらゐ。そして、道鏡に思ひこませてしまふのだ。必ず天皇になりうる、と。
百川は道鏡にとりいつた。全ての藤原貴族達も、おもねつた。否、あらゆる人々がさうだつた。
道鏡の故郷は河内の弓削だつた。百川はことさら道鏡に懇願して、その栄誉ある法王の生国河内の国守に任命してもらつた。
道鏡は天皇にすゝめ、生地の弓削に
女帝も由義宮へ行幸した。歌垣が催された。するとこの地の長官たる百川は、それが彼の最大の義務であるやうに、自ら進んで、
道鏡は満足した。そして百川の赤心を信じこんで疑ることを知らなかつた。
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女帝は崩御した。宝算五十三。
道鏡の悲歎は無慙であつた。葛木山中の岩窟に苦業をむすんだ修練の翳もあらばこそ。外道の如き慟哭だつた。一生の希望が終つたやうだつた。何ものに取りすがつて彼は泣けばよいのだか、取りすがるべき何ものもなかつた。無とは何か。失ふことか。彼はすべてを失つた。
人々が彼の即位をもとめることを、彼は信じて疑はなかつた。この偉大なる人、高雅なる人、可憐なる人、凛冽たる魂の気品の人の姿がなしに、内裏の虚空に坐したところで、何ものであらうか。彼の心は天皇の虚器を微塵ももとめてゐなかつた。彼は内裏に戻らなかつた。政朝に坐らなかつた。人々の顔も見たくはなかつた。彼等の言葉のはしくれも、耳に入れるに堪へ得なかつた。
彼は女帝の陵下に庵をむすび、雨の日も、嵐の夜も、日夜坐して去らず、女帝の冥福を祈りつゞけた。
百川の待ちのぞんだ機会はきた。然し、はりあひ抜けがした。あまりだらしがなく、馬鹿げきつてゐるからだ。当の目当の人物は陵下に庵を結び、浮世を忘れて日ねもす夜もすがら読経に明け暮れてゐるからだ。
然し、百川は暗躍した。彼は暗躍することのみが生き甲斐だつた。
右大臣吉備真備は天武天皇の孫、大納言
然し、百川は動かなかつた。彼は自ら筋書を書くのでなければ承服し得ない人間だつた。彼は
そして白壁王が即位した。時に新帝の宝算六十二。百川は、時にやうやく、三十九。
浮世の風、すべてこれらのイキサツを、道鏡はわれ関せず、庵の中で日ねもす夜もすがら、彼はまつたく知らなかつた。
そして彼の耳もとに吹きつけてきた浮世の風の一の知らせは、彼が天皇に即くことではなく、死一等を減じ、
下野薬師寺は奈良の東大寺、筑紫の観音寺と共に天下の三戒壇、鑑真の開基で、日本有数の名刹だつた。この名刹の別当は、流刑といふには当らない。彼は多分、煙たがられてゐたにしても、さして憎まれてはゐなかつたのだ。たゞ枢機から遠ざけたいといふことだけが、人々の同じ思ひであつたのだらう。
陵下を離れる思ひのほかに、彼を苦しめる思ひはなかつた。すべては、すでに、終つてゐた。棄つべきものは何もなかつた。雲を見れば雲が、山を仰げば山が、胸にしみた。
然し、彼は、凛烈たる一つの気品を胸にいだいて放さなかつた。それは如何なる仏像よりも、何物よりも、尊かつた。それをいだいて、彼は命の終る日を、無為に待てば、それでよかつた。