哀れなトンマ先生

坂口安吾




「漫画」という変な雑誌へオツキアイするせいではありませんが、私は、どうも、ブンナグラレルかも知れませんが、帝銀事件というものを、事の始めから、それほど凄味のある出来事だと思っていませんでした。
 私が、ヒドイ奴だと思ったのは小平という先生で、この先生はイヤだった。どうにも、むごたらしくて、救いがない。まるで、それがオキマリのように、必ず女の子をヒネリ殺して、この先生は人間らしい苦しみは殆どもたなかったに違いない。これは、やりきれないことです。
 そこへ行くと、帝銀先生は、てんで、トンマな、オロカ者なんでしょう。事件の性格がそうなんですね。荏原えばらの銀行では、マンマと薬品をのまされたけれども、薬のキキメが現れない。そこで支店長と三十分ほど世間話をしていたそうですね。中井の銀行では、疑って薬をのんでくれないから、これも三十分ほど、支店長と世間話をして、マア、チョット、消毒だけしときましょうと、小切手だかに、チョイ/\/\とフンム器みたいなもので消毒したんだそうですね。
 ツラツラ失敗のあとを尋ぬるに敵を信用せしめるレッキとしたマーク入りの腕章がなかった。又、附近にホンモノの病人がいて、その病人の住所姓名を心得ていないとダメなんだ。これを先生、さとったんですね。そこで、ついに椎名町しいなまちで、成功致された。成功致されたけれど、まったく、偶然の成功ですよ。
 つまり、荏原と中井の失敗によって、たまたま発見した術を用いて不思議に成功しただけのことで、この時は、こう、あの時は、こうと、他のあらゆる危険を考慮して成功致されたわけではないのであります。
 一人のまない人間がいても、すぐ失敗する。
 たまたま一人便所にいても失敗する。外から誰かが這入ってきても失敗する。オレは、もう、昨日チブスの注射をしたんだい、という給仕が現れてもダメなのであります。
 すると帝銀先生は、又、三十分椎名町支店長とムダ話をして、新知識を会得して、むなしく引きあげたかも知れません。そして、その新知識の対策を用意して、たとえば、誰か、便所にいる奴はないか、と注意する術を新たに会得して、四軒目に現れたでしょうね。フトウフクツですよ。然し、おかしくなるほど、トンマだとは思いませんか。
 もしも椎名町で、殆ど有りうべからざる偶然の成功がなければ、恐らく、この先生はむなしく数十軒の銀行を遍歴し、その度毎に新手の術を会得しつゝ永遠に遍歴しつゞけたかも知れません。その程度にトンマな先生のように私は思いました。
 然し、椎名町で、イザ、成功してみると、あまりにも、現実に、かの先生の目の前に展開した出来事は凄すぎました。
 この凄味を正確に、予想してはいなかったほど、この先生はトンマなように思われます。イザ、目の前に展開した出来事はあまりにも凄すぎたですから、先生は、慌てた。手近かにあった小金だけしか持ち帰る算段がつかなかったほど、彼は、つまり、事件そのものゝ兇悪な結果を、事前に認識していなかったのでしょう。
 翌日小切手を受取りに行くのもズブトイというより、トンマ、マヌケ、なのです。バカモノなのです。小切手の署名が殆ど真実の筆蹟らしいのも、マヌケの証拠以外の何物でもないでしょう。
 私は、この犯人は、マヌケからマグレ当りに成功し、マグレ当りだから、警察が、なかなか、つかまえられないのだと思っていました。今でも、そう思っています。
「オール、キャッシュ」
「オール、メンバー、あつまれ」
 などゝ叫んでいるところ、まったくトンマな愛敬であって、私は呆れて、腹も立たないのでした。こういうトンマな先生に、マンマとマグレ当りに、してやられた十二名の被害者は気の毒です。犯人先生も、わが犯罪の余りの凄味に驚き呆れたと思います。
 にも拘らず、たった一万七千円かの小切手を翌日ノコノコと、筆蹟を隠さぬらしい署名をして受けとりに出かけるとはよっぽど金がほしかったのでしょう。この小さな金額を得ることゝ、この大罪人として捕われることとの計算すらも立たないほど、彼はトンマで、たゞ、もう、金に目がくらんでいたのでしょう。
 この一事だけでも、私は犯人のノンキさ、トンマさ、バカさに、確信をもっていました。
 だから、私は、この事件の結果の凄味にも拘らず、犯人がトンマのせいで、事件の本質的な兇悪さを感じていなかったのです。
 私は小平先生は、イヤらしく、汚らしく、にくらしくて、たまりませんが、帝銀先生は、今でも、そう、悪者だと思っていません。たぶん、このトンマ先生は、非常に知性が低いのだと思います。もし、知性が高ければ、こんなことはやらなかった。知性はある種のことには実行力を、ある種のことには抑制力を与えてくれるものです。彼はトンマですから、こんなことをやりました。
 無性に金の欲しいこのトンマも哀れな先生、悲しい先生ではないでしょうか。先生は、金に、目がくらんでいて、あとは、何も見えなかったのではないでしょうか。哀れなトンマ先生。





底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「漫画 創刊号」
   1948(昭和23)年11月1日発行
初出:「漫画 創刊号」
   1948(昭和23)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年4月15日作成
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