十何年前のことだが本因坊
将棋の人気はいうまでもなく実力第一人者を争う名人戦の人気である。昨日の名人もひとたび棋力衰えるや平八段となり時にBC級へ落ちることもなきにしもあらずである。実力だけで争う勝負というものは残酷きわまるものである。その激しさ、必死の力闘が人気を生むのである。
碁の本因坊戦ときてはたかが一家名をつぐだけのことにすぎない。今日の新時代では法律的にすら家名が失われているのに本因坊という一家名を争うことがすでにコッケイであり、事実においてその試合内容も棋院大手合を第一義に、ただ二義的な花相撲的な空虚な景気をあおっているにすぎない。生死を賭した力闘は見られないのである。
碁も名人戦をやらねばならぬ。実力第一人者を争うギリ/\の勝負でなければ決して天下の人気をわかすことはできない。伝えきくところによれば目下の棋士の力では名人戦を争うと結局名人位が呉八段に行く、つまり中国へ持って行かれてしまう、それを怖れているのだという巷説であるが、こんなバカな話はない。
今日の日本に於てはチェスに於て、またあらゆる外国種のスポーツに於て、各々の日本の選手たちは世界の選手権をめざして精進しているのである。碁の選手権が中国へ持って行かれるそのことだけでも、すでに碁の世界化、世界的進出を意味する慶賀すべきことではないか。誰が日本の国技ときめたわけでもないのに小さなカラにとじこもって日本人だけで一家ダンラン、あげくは一家名の争いという花相撲でお茶をにごして世間に通用させようという。ダメですよ、世間が通用させてくれません。
実質がなければ人気はでない。大衆は正直なものだ。プロ野球に人気がでたのも実力が向上し、監督がブン殴り合ったりするほど試合というものに精魂をこめ選手権をめざして必死の力闘をするからである。名人位がどこの国へ持って行かれようと真に実力ある者が名人になるのは当然で文句のあるべき筋はなく、かくの如きに真の実力を争うことによって大衆はその力闘にカッサイを惜しまないものである。
呉清源を加えて名人位を争うのでなければ碁は世間の片隅の