精神病覚え書

坂口安吾




 一ヶ月余の睡眠治療が終って、どうやら食慾も出、歩行もいくらか可能になったころ、まだ戸外の散歩はムリであるから、医者のフリをして、ちょッと外来を見せて貰った。幸い僕の担当が外来長の千谷さんであったから、有無を言わさず、僕が勝手に乗りこんだようなものであった。
 ほかの精神病院のことは知らないが、東大に関する限り、ここが精神病院の何より良いところである。お医者さん、看護婦、附添い、すべて患者の神経を苛立たせないように、これつとめ、これを専一に注意を払ってくれる。神経科以外の病棟は決してこう行き届く筈はないだろうと思った。だから僕は、ほかの病気で入院する時でも、神経科へ入院して、その専門の病室へ通うのが何よりだと思ったほどである。
 僕が外来で新患の診察を見たとき、患者は二十人ぐらいであった。そのうち、七八人は学童であったが、これはちょうど、時期が休暇に当っていたせいだという話であった。学童の親たちは、言い合したように「ヒキツケ」という言葉を用い、テンカンという言葉を用いた者は完全に一人もいなかった。
 このヒキツケの学童たちは、いずれも智能劣等であった。ドストエフスキーの片鱗などは影もなく、殆ど大部分が智能劣等なのが普通だということであった。
 千谷さんや、若いお医者さんの話では、パウロがテンカンではないかということであり、バイブルに現れるパウロの表現に、テンカンの要素が見られるということであったが、マホメットがテンカンらしいということは普通言われていることであり、狂信的世界はたしかに幻想の実在的確信を伴い、宗教家にテンカン患者がかなりいるのではないかと思われる節はある。
 僕が退院する二日前、小林秀雄が見舞いに来てくれて、ゴッホは分裂病ではなく、テンカンじゃないのかと言いだした。
 一般に精神病のお医者さん方がゴッホを分裂病だと云うのは、ヤスパースなどを読んで、その通り思いこんでおられるだけで、小林秀雄のようにゴッホに関する殆どあらゆる文献を読んでいるわけではない。
 小林秀雄は十何年かの間ドストエフスキーについて殆どあらゆる文献をしらべ、今は又ゴッホ研究をやりだしているのであるが、はからずも、ドストエフスキーとゴッホの発病時の表現に、いちじるしい類似のあることを見出した由であった。
 この二人の芸術家は、いずれも自らの発作について手記を残しているのであるが、先ず発病の時期に宗教的な三昧境さんまいきょうを見る。小林はルリヂヤス何とかと云った。僕らは酒をのんで話を交していたので、こまかいことは忘れてしまったが、このルリヂヤス何とかという表現が、二人の手記に同じ言葉が用いられているので、小林はゴッホもテンカンじゃないかと疑りだしているのである。
 これだけの類似でゴッホもテンカンだと即断するのは、もとより不当であり、だいたい分裂病の症状は多種多様で、無限の型がありうるから、尚更、わからない。
 然し、分裂病の型が多種多様だということについては、つまり、精神病学がまだ幼稚であり、多くの型を一とまとめに分裂病とよんで済ましているだけのことではないかと思われる節が多い。
 事実、精神については、医者のみならず、文士も、哲学者も、その実体に確たるものを知り得ていないではないか。
 小林秀雄はフロイドの方法が東大に於て使用されているかどうかをきき、使用していないという僕の返事に、ちょッと意外な顔をした。
 僕自身発病して入院するまで、フロイドの方法をかなり高く評価していた。然し、入院して後は、突如として、フロイドの方法はダメだという唐突な確信をいだいた。
 大体、分裂病が潜在意識によるかどうかは疑わしいが、僕の場合は、鬱病であり、それにアドルム(催眠薬)中毒の加ったものである。分裂病に比べれば、鬱病には、まだしも、潜在意識の作用はたしかにある。何かゞ抑圧されていることが、病状を悪化させる一つの理由となっていることは確かである。
 東大で鬱病を治療するには、主として持続睡眠療法であり、ほかに電気療法なども用いるらしい。(分裂病にはエンシュリン、電気、或いは脳手術である)

 僕のうけた治療は持続睡眠療法であった。これはある種の催眠薬によって、人工的に一ヶ月ほど昏睡させるものである。この昏睡の期間に、患者は食事をとり、用便をし、時に医者と話を交し、僕の場合は本や新聞を片目をつぶりながら読んでいたりした由であるが、それらのことは全く覚醒後は記憶に残っていない。一ヶ月睡って目覚めた時、一晩睡ったとしか思わない。はじめは、一ヶ月の時日のすぎていることが、どうしても信じられないものである。この傾向は、治療としての持続睡眠にのみ有るものではなく、催眠薬の中毒病状がすべてそうで、入院直前、僕がアドルムを多量に用いて(四五十錠ずつ二十四五日間用いた)昏睡をもとめた時にも、ふと覚醒して、一夜ちょッと眠った自覚しかないのに、一週間がすぎており、どうしても信じられないことが三度ほどあった。
 持続睡眠療法も、アドルム中毒の場合もそうであるが、半覚醒時に、甚しくエロになった。全ての患者が、そうか、どうか、僕は知らない。然し、概してそうなるのが自然だろうと思われるのは、何人も性慾については抑圧しつゝあるものであり、又、催眠薬が、これらの抑圧を解放するというよりも、性慾の神経に何らかの刺戟を及ぼすものだと思われる。フロイド的な抑圧の解放を意味するものではなく、薬物に、それらの悪作用が附随しているだけのことで、なければ、ない方がよろしいであろう。この悪作用を伴わない催眠薬が発明出来れば、大変よろしいように僕は思った。
 東大で持続睡眠に用いるズルフォナールという催眠薬は半覚醒時にエロチックになるけれども粗暴にはならない。ところが、アドルムという催眠薬は、これを多量に連用した後の半覚醒時に、甚しく兇暴になるのである。アドルム中毒患者は、日本の学界にはまだ報告されておらず、僕が第一号であったと千谷さんの話であったが、僕が入院して一ヶ月半ほど後に、第二号が現れた。これは二十八の婦人で、おまけに、僕の倍量、百錠ずつ連用したというのだから、ムチャである。この患者も、甚しく兇暴性を現したということであった。
 僕自身の場合から推して、アドルムという催眠薬は、用法に良く注意しなければならない。定量の一錠、せいぜい二錠を限度にして、それ以上は決して用いない方がよろしい。
 アドルムは、何か地底へひきこむように睡眠へひきこむが、僕の場合は、一時間、長くて、一時間半で目が覚めた。又、服用する。又一時間で目覚める。又、服用する。こうして、次第に中毒してしまったのだが、何分、僕は、ムリに仕事をするために覚醒剤を多量に用いざるを得なかった。それだけ、又、ねむるためには多量の催眠薬を用いざるを得なかったことゝなり、要するに、生活が不自然でありすぎたのである。アドルム中毒は甚しい幻聴を伴い、歩行が不可能となり、極めて、不快であり、苦痛なものであるから、こういうことにならないように注意すべきだと思う。そんなことを云いながら、私は二ヶ月のうちに某雑誌社と手を切るために、五十六万円の借金を支払うため、書いて書きまくる必要にせまられており、どうも、二三ヶ月後に、又、精神病院へ逆戻りせざるを得ないのではないかという不安にも襲われている。僕は然し、それを克服するだけの意志力を持たなければならないということを信じており、必ず闘い勝つ、勝たねばならぬ、とも信じているのである。多分、僕は、勝つだろう。

 話がワキ道へそれてしまったが、僕が東大へ入院し、僕のうける療法が、持続睡眠と云って一ヶ月昏睡させるものだ、ときいた時に、僕が思いだしたのは、フロイドであった。つまり、昏睡させておいて、医者が暗示を与え、抑圧された意識を解放しよう、とするのではないかと疑ったのである。
 それは、ダメだ、ダメです、僕は幻聴だらけの眠れない夜、心に叫びつづけていた。僕は、精神の最も衰弱し、最も不安定の時期である故に、フロイドの方法が、療法として実は不可能だということを悟ったのである。
 つまり、最も精神の衰弱し不安定となっている僕は、何の暗示をうける必要もなく、あらゆる抑圧が、殆ど不可能になりつゝあり、そして、抑圧が不可能になりつゝあるということが、僕を最も苦しめ、病状を悪化させてもいるのであった。つまり患者としての僕がその時最も欲しているものは、たゞ一つ、抑圧、それに外ならなかったのだ。抑圧を解放してはならないのだ。あらゆる抑圧を解放すれば、人間がどうなるか、分りきっている。色と慾。たゞ動物。それだけにきまっているのだ。
 フロイドの方法は、理論的に、構成に巧みであるが、あそこから、決して実際の治療はでゝこない。
 僕個人の場合であるが、患者としての僕が痛切に欲しているものは、たゞ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった。
 大体、健全なる精神とは、何のことだろう。どこに目安があるのだろう。ある限度の問題かも知れないが、そんな限度は、患者としての僕にとって、問題ではなかった。
 僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。
 僕が、恢復後、精神病者を観察して得た結論も、概して、そうであった。
 僕が外来患者の診察を見学したとき、十人くらいは分裂病であったが、どうです、驚いたでしょう、という千谷さんに答える僕の言葉は、いゝえ、ということだけであった。
 一人の患者をのぞいて、あとは極めて有りふれた、僕の見馴れた人達であった。僕らのような文士稼業をしていると、殆ど毎日のように見知らぬ青年が訪ねてくる。それらの何分の一かは、明らかに現在分裂病と云われている者であり、東大神経科の外来室に居る患者と異るところがなかったのである。
 対坐したまま三十分も喋らずにいて、どうしても喋る言葉が浮かびません、と悄然と帰って行く青年。履歴書や身分証明書のような色々の物を取り揃えてやって来て就職を頼み、紹介状を書いてやり、宛先の雑誌社に電話をかけておいてやるのに、姿を見せず、一ヶ月ほどすぎて、又、悄然と現れて、どうしても行けなかった心境をのべて、重ねて同じ紹介を依頼し、そういうことが綿々と重複する青年。原稿を読んでくれと送ってよこし、その翌日には恥しいから焼却してくれと電報をよこし、又、その翌日には、あれはたしかに傑作だから読んでくれと電報をよこし、その翌日は、やっぱり焼いてくれと電報をよこし、こういうことが十日間もつゞく青年。手の指を五本斬るから一本について一万円ずつ金をくれ、などゝ、こういう文学青年の訪れは、大方、どの作家も経験があるに相違ない。

 僕が東大神経科の外来で見た十人ほどの患者は、僕の応接間へ現れても不思議ではない人たちが主であった。文士の応接間と精神病院の外来室とは似たようなところだと僕は思った。いっそ応接間の隣へ電気治療室でも造ったら、僕のためにも便利だろう、と苦笑したほどであった。
 そして、僕は思った。僕の応接間でもそうであるが、精神病院の外来室に於ても、患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、むしろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、ということを。
 彼らは、自分の悩んでいるものを知っているのである。たゞ人に言わないだけだ。そして、人に縋ったところで、どうにもならないということを悟り、そういうところから厭人的になり、やがて、神経が消耗してしまう。僕の応接間と、精神病院の外来室との違うところは、外来室に於ては、彼らは自らの意志ではなく、他の人々にすゝめられて来ており、従って、医者に対しては外部的なことだけしか語らないが、僕の応接間では、彼らは自らの意志によって来ており、主として内部的なことを語ろうと努力していることの相違である。
 だから彼らは徳義上の内省については普通人よりも考えあぐね、発作の時期でなければ、むしろ行い正しく、慎しんでいるのが普通であり、精神病院の看護婦などが、患者に親切で、その仕事に愛着をもつようになるのも、患者らの本性の正直さや慎ましさが自然にそうさせるのではないかと思った。
 一般に、犯罪者と精神鑑定とは離るべからざるように見られているが、テンカンの場合とか、異状発作の場合とかはとにかくとして、たとえば小平の場合などは、これを精神異状と云うのは奇妙であり、明らかに、「犯罪者」という別の定義があるべきではないかと思った。一般に、精神病の患者は、自らに科するに酷であり、むしろ過度に抑圧的であって、小平のような平凡さ、動物的な当然さはないものである。精神病者が最も多く闘っているものは、むしろ自らの動物性に対してであり、僕が小平を精神異状ではなく、むしろ平凡であり、単に犯罪者であると定義する所以はこゝにあるのである。精神病院の患者は自らに科するに酷であり、むしろ一般人よりも犯罪に縁が遠い、と僕は思った。
 精神病というものは、家庭とか、就職先とか、それらのマサツがなければ生じないもので、又、自らに課する戒律がなければ生じないものである。だから、責任ある地位につき、自らに課するに厳なる社会人は概ね精神病者と断定してよろしく、小平のようなのが、むしろ普通人の形態に近似しているのである。
 僕が見た外来患者のうちで、僕の応接間で見かけることのない唯一のタイプの患者は、四十七の女であった。服装から判断して、農家の主婦であったかも知れない。彼女は膝と足を紐と手拭てぬぐい様のもので二ヶ所縛られ、その夫と思われる者、又、も一人の肉親の一人と思われる青年の二人に抱かれて外来室へ運びこまれてきた。
 彼女は幻視を見ているのである。右に天皇が見え、左に観音が見え、彼女はたゞ拝みつゞけているだけで、医者の問いに返答せず、返答するのは夫と思われる男であり、その度に、彼女は怒って、夫を手で振りはらうようにした。
 こういう患者は僕の応接間へ現れたことはないが、世間にはかなり多いに相違なく、こういう患者をめぐって、ある種の宗教が発生しているに相違ない。それらの教祖は別として、その信徒は何者なのだろう。何者でもなく、人間なのだろうか。いったい、精神病者とは、何者であるか。

 僕のいた東大神経科は、重症者を置かない。置く設備がないからである。廊下の出入口の一ヶ所に鍵がかかるだけで、個々の病室には鍵がかかっていない。窓に鉄の格子がはまって、脱出は不可能であるが、窓は普通の洋室の位置にあり、兇暴な患者は他の室へ乱入することもできるし、窓ガラスを割ることもできる。
 僕のいた部屋は、A級戦犯のO氏が発病直後送られた部屋で、発病直後は兇暴でこのガラス部屋は不向きであったから、松沢へ送られたそうである。東大の外来室では、千谷さんの見わけによって、重症であり、兇暴であると判断せられたものは、松沢へ送られる習慣であり、従って、僕の病棟では、脳梅毒患者をのぞいて、ひどい患者はいなかった。
 分裂病は二十歳前後に発病し、周期的にくりかえして根治することが先ずないので、入院患者も、三度目の入院とか六度目とかという古強者ふるつわものが多い。然し、分裂病は智能を犯されることがないから、仕事に従事して才能ある限り、単に変り者と世間に目せられているだけで、終生精神病院のヤッカイになることなく、世をすごす人々が多くあるに相違ない。
 テンカンも、今では、それを一生欠かさず服用しつゞけていれば、発作を起さずにすむ薬があるそうである。ひどいのは脳梅毒だ。これは智能を犯される。つまり痴呆状態となる。肉体の条件がよければマラリヤ療法でくいとめることができるが、僕の居たとき病棟の廊下をうろついていた四十ぐらいの女の脳梅毒患者は、もう肉体力がなくて、マラリヤ療法を施し得ず、仕方なしに、ペニシリンを打ったり、人工栄養などで、ようやく生きて、痴呆状態で廊下をうろついている始末であった。こういう患者は結局狂死する以外に仕方がないということであった。
 問題は分裂病であり、又、鬱病、躁鬱病などの患者である。僕のいた病棟は重症者がいないのだから、病状について僕は良く知らないし、特に僕は一人だけの別室にいたから、廊下や便所ですれ違う以外に、他の患者とは特別の接触がなかった。
 僕の幻聴と絶望の苦痛にみちた発病当時、千谷さんが診察に来て下さって、すぐ入院させたいが、あいにく一人の部屋がふさがっており、今すぐ入院することの出来るのは五人の合部屋だという話であった。
 そのとき僕は精神病者というものを兇暴なものだと幻想しており、何よりも、僕自身、歩行も不可能で、防禦や抵抗の手段が失われているのだから、五人の合宿ということに、病的な恐怖をいだいた。
 そのとき石川淳が見舞いに駈けつけてくれて、合い部屋だっていゝじゃないか。たゞ眠るのだから、他人の存在は問題ではない。一時間、一分でも早く入院しろ。昔、吉原に割り部屋というものがあったし、汽車の寝台も割り部屋みたいなものであり、同じ部屋で寝ている奴が殺人犯だか強盗だか見当がつかなかった筈だが、それを怖れたこともなかったし、問題が起ったということもない。割り部屋だと思えば、なんでもないさ、と慰め、すすめてくれた。
 今は割り部屋がなくなったし、割り部屋があったら、いつ洋服など身ぐるみ盗んでドロンされるか見当もつかず、それだけ世間が平和じゃないんだ、と石川淳が、彼らしい述懐によって世相をガイタンしていたのを妙にハッキリ記憶している。
 ところが東大の神経科へ乗りつけたら、妙な偶然で、まだ退院には間があると思われていた患者が退院し、僕は一人だけの部屋へ入院することができた。衰えはてた僕は、その時ひどく安心したが、治療が終って、健康をとり戻して後は、むしろ五人の合部屋へ入院しなかったことを残念だと思った。僕は彼らの生態をこまかく観察する条件を失ってしまったのである。
 然し、廊下や洗面所や便所で、狂躁にみちており、無礼であり、センスを失い、ガサツな人々はむしろ概ね附き添いたちであり、患者は静かで、慎んでいるのが普通であった。

 僕の入院が知れ渡ると、新聞記者が写真班同伴で十何組も乗りつけて、千谷さんは、撃退するに手こずられた由であった。すると、僕が麻薬中毒だという説がとび、警視庁の三人の麻薬係が現れ、千谷さんはカルテを見せて説得するのに二時間もかかったとこぼしておられた。
 すると今度は、僕が精神病院の三階から飛び降り自殺をしたというデマで、又、十何組という写真班同伴の新聞記者に病院が大迷惑をかけられたが、その時、某新聞の記事に曰く、病院側が僕と記者との面接を拒否したことから次第にデマが生じた、と書いていた。
 こういう記事を書く社会部記者の教養を疑わざるを得ない。精神病患者の発病当時の苦痛というものは、他人と面会などのできる性質のものではないのである。数日間食事をとることもできず(肉体的にその機能を失うのである)歩行も不可能であり、第一、喋ることもできない。幻聴と絶望に苦しむばかりで、ともすれば、発作的に自殺するか、人を殺すか、まことに際どい神経の極度の不安定の状態である。この状態では、特に親密な人々によっては、ともかく慰められ、力づけられ、反対に、面識なく、好意を持たない人間に対しては、面会は不可能であり、会えば、何をやるか分らず、病状を悪化させるばかりである。医者がきびしく新聞記者の面会を拒否したのは当然であり、そのことについて認識のない新聞記者の教養は奇怪と云う以外に言葉がない。
 僕はこういう新聞記者の在り方、又、新聞の在り方の方が、常規を逸し、精神病的ではないが、犯罪的なのだ、と判断せざるを得ない。つまり、小平的なのである。そして、アゲクは、戦争的なのである。精神病者というものは、こんなに無礼であったり、動物的であったりはしないものなのである。そして、先程も云う通り、自らの動物性と最も闘い、あるいは闘い破れた者が精神病者であるかも知れないが、自らに課する戒律と他人に対する尊敬を持つものが、精神病者の一特質であることは忘るべきではない。
 昨年、帝銀容疑者の平沢氏が東京へ連行された時、新聞は、容疑者にすぎないものを、発表したのは不徳義である、と云って、当局を責めた。然し、もし、警視庁がこれを極秘裡に行い、ひそかに平沢氏を小樽から東京へ連行した場合、これを新聞記者が探知したならば、特ダネとして、全紙面をうめるぐらいに書き立てた筈である。現に、平沢氏の前に、水戸の某氏がひそかに取り調べをうけているとき、これを書き立てたのは新聞であり、当局は秘密にしていたのである。
 発表すれば、不徳義也と云い、しかも自らは、ひそかにスクープして発表し、それを得々としている。自ら背徳を行いつゝ、それを他人にのみ責めて、内省することを知らない。精神病者には、こういう内省のなさ、他人への無礼に対して自ら責めることを忘れている者は居ない。だから、もし、精神病患者が異常なものであるとすれば、精神病院の外の世界というものは奇怪なものであり、精神病的ではないが、犯罪的なものなのである。
 精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、てんとして内省なく、動物の上に安住している人々である。
 小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。
 人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるか、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。
(退院の翌日)





底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二七巻第六号」
   1949(昭和24)年6月1日発行
初出:「文藝春秋 第二七巻第六号」
   1949(昭和24)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について