現代忍術伝

坂口安吾




   その一 正宗菊松先生就職発奮のこと

 戦乱破壊のあとゝいうものは、若い者の天下なのである。昔から変りがない。野武士といえば柄がよくきこえるが、手ッとり早く云えば、当今の集団強盗、やがて一家をなしてボスとなる。これが昔なら大名だ。集団強盗の手先をつとめる浮浪児の一人が、顔は猿に似ているが、智恵がある。しかるべく立身出世して天下をとったのが豊臣秀吉という先輩なのである。同じような浮浪児の一人が、小坊主に仕立てられたが、寺を逃げだして、油の行商をやって小金をもうけ、大名にとりいって武士となったが、主人を殺して城と国を盗んでしまった。そんな大名もあった。
 戦乱破壊のあとのドサクサには、いつの世も浮浪児や集団強盗がハバをきかせるもので、やがて一国一城のボスとなり、三十年もたって孫子の代になると、大名、貴族、名門などと云われて、人間の種が違うように思われてしまうが、根は浮浪児や集団強盗の出身なのである。
 こういうドサクサ時代というものには、没落階級はつきもので、変化に応じて身を変えられる、青年の天下であり、甲羅ができて身を変えられぬ老人共はクリゴトを述べるばかりで、ウダツがあがらぬ習いである。
 現代とても同じこと、法治国、文明開化のオカゲによって一応の秩序は保たれているように見えるが、裏へまわれば、裏口営業もあるし、巡査はボスの手先をつとめ、税吏は酒池肉林の楽しみをつくす。地頭や代官、岡ッ引と変らない。大名会議の席上、大名の一人が前をまくってジャア/\やったり、男大名が酔っ払って女大名を口説いた。これは表芸の方であり、裏芸の方ではワイロをせしめたカドによって小菅こすげの方へ引越したという。上は総理大臣より浮浪児パン助に至るまで、ドサクサまぎれに稼ぎのできる人材を新興階級といい、末は大名貴族となる名門の祖先なのである。
 ところが、ここに、物の本には現れてこない一群の人間層があるのである。十五六から二十七八に至る少青年層の半分ぐらいをしめて、野武士でもなければ、武士でもないし、坊主でもない。これを、学生、生徒とよぶのである。この新発生動物層は果して何物であるか、というのが、本篇の主人公、正宗菊松まさむねきくまつ氏の胸にいだいた恐怖の謎であった。実にむつかしい謎である。今までルルと述べてきた心境は、正宗菊松氏の偽らざる胸の思いで、作者の関知するところではない。
 正宗菊松氏の胸の思いがここまでくると、武者ぶるいだか、恐怖のふるいだか、わけの分らぬ胴ぶるいが起って、
「よし、畜生! オレだって、やってみせるぞ。ウヌ」
 蒼ざめて、卒倒しそうになる。戦闘意識なのであるが、どうも、然し、ミジメであった。勝つ人間の余裕がない。
 思えば彼も終戦の次の年まで中学校の歴史の先生であった。終戦までの学生、生徒は決して謎の動物ではなかったのである。正宗菊松先生は威勢よく号令をかけて、生徒をアゴで使うことができた。今は逆であった。
 彼はもう五十を越していたが、歴史の先生ではメシがくえない。学生はアルバイトなどということをやって、悠々とタバコをふかし、ダンスホールへ通っているが、先生は配給のタバコを買う金もないのである。ついに転業のやむなきに至った。そのとき、彼が見つけた広告は、
「実直なる五十年配の教養ある紳士を求む。高潔なる人格を要す。高給比類なし。天草あまくさ商事」
 というような文面であった。高給比類なし、と並んで高潔なる人格を要す、とあるところに目をつけたのは、やっぱり、それだけの能しかない証拠であった。
「天草商事」の玄関で、先生は先ず安心した。かなり大きな三階建のビルディングを全部使っている相当な大会社である。看板をみると大変だ。天草商事の下に「天草ペニシリン製薬」だの「天草書房」だの「天草石炭商事」だのと十幾つとなく分類がある。
 すでに五十年配の求職者が十人ほどつめかけていたが、みんな戦災者引揚者というウス汚れた風采で、一帳羅のモーニングをきこんできた正宗菊松先生ほど、高潔なる人格を風貌に現している者はなかったから、ウム、これはシメタ、とほくそえんだ。こゝまでは、よかった。
 いよいよ彼の番がきて、社長室へ通される。大きな社長室のまんなかのデスクに、二十三四のチョコ/\した小柄の青年が腰かけている。全然青二才であるが、その左右に腰かけているのが、まったく同類の青二才なのである。
 青二才の一人が履歴書をとりあげて目を通しながら、
「ハハアン。××学校の歴史の先生かア。じゃア、あなた、柴野ッてヨタモンみたいな奴、知ってるだろ? いま銀座でダンスの教師やってやがら」
 薄笑いをうかべて呟いたが、それから、眉をよせて、真剣らしい顔付になった。
「歴史の先生じゃア、あなた、ソロバンは、できないでしょう。うちじゃア、実直な会計係がいるんですけどね。歴史じゃアねえ。前職が先生ッてのは、まア、いゝんだけど」
 すると、まんなかの社長席の青二才が、上から下まで彼をジロ/\ながめていたが、
「なア、オイ、雑誌の編輯の方は、どうだい? 例のマニ教の訪問記だよ。この人なら、もぐりこめやしないか。おい、みろよ、モーニング、ヒゲもあら。使えるじゃないか」
「なーる」
 先刻の青年は合槌あいづちをうち、感にたえたかニヤリとした。三人の青年が、にわかに好奇の目をかゞやかして、彼の風采を上から下まで眺めはじめたのである。彼はまだ一言も喋らなかった。
 ぶるぶると恐怖の胴ぶるいが走ったのは、そもそも、この時がはじまりであった。彼の平凡な一生に於て、こんな謎深い恐怖にかられたことはこの時まではなかった。
「ウン、いゝね。これは、いゝや」
 青年はこう判定を下して、社長席の青年にニヤリと笑いかけた。
「じゃア、あなた雑誌の編輯の方、やって貰いましょう。雑誌の方は、ボクが編輯長なんです。それから、こちらが社長、そちらにいるのが業務部長、ボクら、みんな、まだ、大学生なんです」
 なれなれしいものである。女性的なやわらかさであったが、彼はそれをマトモにうけとめることが出来なかった。白刃はくじんをつきつけられたような、わけの分らぬ恐怖がいつまでも背筋を這って止まらなかった。それでも彼はこの質問をきき忘れるわけには行かない。胴ぶるいをグッと抑えて、必死の構え。彼が大学生というものに必死の闘争意識をいだいたのは、この日をもってハジマリとする。
「失礼ですが、社長さんは、天草商事の中の天草書房の社長ですか」
 彼が胴ぶるいをグッと抑えていることなどには、青年は問題を感じぬらしく、いつも涼しく、にこやかであった。
「いゝえ、天草商事全体の社長なんですよ。天草次郎とおっしゃいます。ですけど、編輯長のボクと、業務部長の織田光秀おだみつひでは書房の方の専属ですよ。もともと、今もとめている会計係も、書房の方でいるんですがね」
 と、彼はもう、正宗菊松の返答もきかないうちに、入社したものと決めたらしく、名刺を一枚わたした。高級美談雑誌「寝室」編輯長、白河半平しらかわはんぺい、と刷ってある。
「ボク、白河半平、かいてあるでしょう。ボクのオヤジ、面倒くさくなっちゃったんだね、子供の名前を考えるのがね。その気持は、わかるね。お酒に酔っ払った勢いで、シャレのめしたんですよ。知らぬ顔の半兵衛とね。だから、覚え易いでしょう。ほらね、知らぬ顔の半兵衛の白河半平、アッハッハ」
 ひとりで、喜んで、笑っている。薄馬鹿みたいなようであるが、どうも薄気味わるくて、うちとけられない。すると、半平は、又、ちょッと考え深そうな顔にかえって、
「あなた、雑誌の編輯できますか? できないでしょうね。いゝですよ。ボクが教えてあげますから、じき、なれますよ。プランの方はね、これは才能の問題だけど、割りつけや校正なんか、字さえ知ってりゃ、六十の人だって出来らア。さしあたって、ボクと一緒に探訪記事をとりにでかけるんですけどね。ほら、マニ教、知ってるでしょう。あそこへ信者に化けて乗りこむのです。天下の三大新聞だのって云ったって、新聞雑誌、みんな念入りに失敗してやがんのさ。場合によっては四五日泊りこむことになるでしょうから、明日はそのつもりで出社して下さい。九時の汽車にのるから、八時半までに出社して下さいね」
 正宗菊松は、なすところを失ってしまったのである。ボウゼンとしているうちに、彼の入社は確定的なものとなっていた。すると、それからの二時間あまり、彼は続々と更に甚しい屈辱を蒙らなければならなかった。
「オイ、そのドタ靴じゃア、天草商事の重役とふれこんだって、マにうけてくれないよ。ネクタイも色が変っているじゃないか。ちょッと、上衣をぬがせてごらん」
 天草次郎は残酷であった。正宗菊松の全身に鋭い目をくばって、情け容赦もなく、冷酷無慙に云い放った。半平がすぐ立上って、スルスルと駈けより、手をかして、彼のモーニングの上衣とチョッキをぬがせた。
「そんなヨレ/\のワイシャツじゃア、新円階級に見えるものか。オイ、シャツは。シャツだって、どういうハズミで人目にさらす場合がないとも限らないさ。なんだい、ツギハギだらけじゃないか。そんなんじゃア、サルマタだって、大方、きまってらアな。インチをはかって、一揃い、女の子に買ってこらせろ。オット、待て。帽子を見せろ。アレアレ、キミ、何十年かぶったの。帽子から、サルマタから、靴。何から何までじゃないか」
「アッハッハ。正宗クン。キミは幸運児だよ。入社みやげに、身の廻り一揃い、たゞで買ってもらえるなんてね。運がいゝや」
 と、半平は天草次郎から札束をうけとると、品物を買わせに、女の子を使いにだした。
 屈辱、忿怒ふんぬ。それは身もだえるばかりであったが、はねかえす力はなかった。天草次郎の視線がジッと自分にそそがれると、恐怖にかられて、背筋が水を浴びたようになる。彼は観念の目をとじた。かようなテンマツによって、天草書房編輯員という彼の新職業がはじまったのである。
 その日までは、大学生というものを、ナンキン豆のアルバイトをやり、タバコをくわえてダンスホールへ通い、太平楽な奴らだと思っていた。これも戦争のせい、同類が戦野に血を流し、未来ある生命を無為に祖国にさゝげた仕返しのようなものだ、と、むしろ同情をよせていた。彼も歴史の先生である。戦乱破壊のあとに何が起るかということを、過去にてらして正しく判断するに誤る筈はなかったのである。
 だが、大学生というものが、このような新動物であろうとは! 彼は天草商事へ就職するのが怖しかった。
 天草次郎の見るからにチャチなチンピラのくせに残忍無慙にくいこんでくる視線が怖い。白河半平の妙になれなれしく、女性のように柔和な笑顔も気にかゝる謎であった。これをマトモにうけとめるには必死の努力がいるのであった。
「ウヌ。畜生め! オレだって、やってみせるぞ」
 と、彼がこう呻いたのは、そもそも就職の当日からだ。怒りと恐怖のカクテルの胴ぶるいである。自分が悪魔になったような覚悟がこもっているのである。すくなくとも、魔力なくして為しとげられぬ仕事である。然し、その瞬間における仕事とは、編輯の仕事の意味ではなかったのである。
 過去の物みなが没落する。老人は枕を並べて没落する。然し、オレだけが、さからってみせる。負けてたまるか、という意味なのである。けだし悲愴とは、このことであろう。
 厳然たる歴史にさからってみせてやる、というのであるから、容易ならぬ話である。
 思うに、この就職の瞬間に於ける胴ぶるいと覚悟の中には、自らも野武士となって一戦又再戦を辞せず、悪鬼妖怪となっても勝たざるべからず、大学生とはともに天をいたゞかず、というほどの意味がこもっていたのかも知れなかった。然し、勝つべきようには思われない。胴ぶるいなどというものは、それが武者ぶるいであるにしても、ちょッと哀れなものである。彼の胸の思いは切なかった。

   その二 白河半平深謀遠慮のこと

 翌日新装に身をかためて出社すると、ほかの部屋にはまだ人影がなく、書房の編輯室にだけ、白河半平が二人の女の子を指揮して、お弁当や、オミヤゲの包みをつくらせている。よほど早くから来ていたらしい。勤勉なものである。
「コレ、正宗クンの名刺だよ。天草商事常務取締役とね。天草物産、天草石炭商事、天草製材、天草ペニシリン、とね。賑やかな名刺だね。アハハ。旅行中だけ通用の名刺だから、ちょッと悲しいね。でもさ、今に追い追い月給もあがるさ」
 と、半平は慰めて、それから、二人の女の子を紹介した。
「こちらは近藤ツル子さん、こちらが、平山ノブ子さん。ところで、この旅行中は、近藤クンは正宗クンの娘、正宗ツル子二十一歳だから、忘れちゃいけないよ。平山クンは女秘書二十四歳。それからボクが正宗クンの息子半平二十五だからね。この会社を一足でた時から、そうなんだよ。マニ教をあざむくには、遠大な構想が必要なんだ。正宗クン、見てらッしゃい。これがマニ教へ献納する品々で、いゝかい、天草物産バターと書いてあるけど、中味は大島バターをつめかえたのさ。ウチのバターはマーガリンだからね。醤油も中味はキッコーマン。ウチのはサナギをつぶしたゲテモノだからね」
 と、一々説明した。天草物産ハム、天草物産製菓部カステラ、天草物産ツクダニ等々とある。このほかに箱根から清酒一樽と米一俵を取り揃える手筈もできている由であった。
 近藤ツル子、イヤ、正宗ツル子二十一歳は器用な手附で、味の素を天草物産の袋につめかえて、それでツメカエの仕事が万事終了すると、アーすんだ、と背延びをしてから、正宗菊松をジッと見て、
「私、ツル子よ。どうぞ、よろしく」
 平山ノブ子はセッセと荷仕度にかゝっていて、紹介をうけても、ちょッと上眼をあげたゞけ、挨拶ぬきに多忙である。我々日本人は戦争このかた汽車の切符売場などで女の売子にケンツクをくわされるのは馴れているが、紹介されてもジロリと上眼をあげただけとは、人格を傷けること甚しい。
 けれども正宗菊松は、立腹を忘れて妙技に酔った。ツル子やノブ子の働きざまのカイガイシサに酔ったのである。ビジネス・オンリーとは、このことだろう。ビジネスに徹した哲人の構えがあるから、ほかのことにはアクセクしない様子である。だからパンパンが、自分のビジネスとなれば、チョイト、遊バナイ、抱きついたり、タックルしたり、そういうことも出来るのだろう。ビジネス以外のことにはアクセク気を廻さないようであった。
 白河半平も手をかして、セッセと荷造りに余念がない。三人ながら仕事に精をうちこんでいる。正宗菊松は戦争中は号令をかけ、生徒に仕事を督励したものだが、奴らは尻をたたかれても滑りだしよく動こうとはしなかったものだ。まるで別の人間が生れてきたのだろうか。
 そこへ三十二三の芸術家めいた人物が、蒼ざめた顔に毛髪をたらして、やってきた。
「フツカヨイでね」
 吐く息が苦しそうだ。フツカヨイで、目がすわっている。半平は男と握手をして、
「こちら正宗クン。こちらがカメラマンの間宮坊介まみやぼうすけクン。ライカを胸に忍ばせて、これが大事の役なんだ。だけど、旅行中は、正宗クンの秘書ですから、わかったね」
 半平は年長の坊介の背中をさするように叩いた。親父が子供をあやすようにアベコベであるが、板についている。フツカヨイの坊介が女の子から水をもらってガブ/\呑んでいるうちに、半平は朱筆を握り、原稿用紙に大きな字をかきなぐる。
「当商事常務取締役正宗菊松氏につき問い合せの電話ありたる時は、当人は目下秘書三名をつれて旅行中と答えて下さい」
 正宗菊松という名前のところへ二重マルをつけた。署名して印を捺し、交換台の上へはりつけた。
「会社を一足でたら、外は敵地だと思わなきゃいけないからね。いゝかい。間宮クンは秘書だから、醤油ダルとその包みを持ちたまえ」
「フツカヨイのオレにムリだよ。秘書は箱根へついてからでタクサンだ」
「いけないよ」
 半平は冷めたく云った。イタズラ小僧のように薄笑いをうかべていたが、その言葉は刃物のように冷めたかった。正宗菊松は自分が斬られたようにゾッとして、気の毒なフツカヨイの男を見やった。すると半平の冷たい声が、今度は彼に斬りつけてきた。
「正宗クンは天草商事の重役だからね。かりにもカシャクしちゃいけないよ。旅行中はそうなんだ。坊介クンは秘書、ボクは息子、近藤クンは娘、平山クンは女秘書、いゝかい。それが仕事なんだよ。社の命令によって、そうなんだから、だからね。いゝかい。一・二・三。今からボクは正宗半平さ。じゃア、お父さん、出かけましょうよ」
 半平は自分の荷物を持つと、サッと立って歩き出した。甚しいマジメさが、彼の全身から発射した。有無を云わさぬ冷めたさ、督戦の鬼将軍の無慙な力がこもっている。人々はにわかに各々の荷物をとって歩きだした。
 正宗菊松も二足三足歩きだして深呼吸をした。不思議な威圧である。年齢の差があるどころか、まるでアベコベの立場である。
「フン。なかなか、やるな。だが、畜生」
 正宗菊松は胴ぶるいをした。
「修業、修業。負けないぞ」
 彼は心に呟いた。
「事に際して、一々が、修業のタネ。チンピラ共がおごりたかぶっているうちに、修業を重ねて、乗りこしてみせる。今に、真価を見せてやるぞ」
 修業、修業か。五十の手習いとは悲しいが、当人必死に思いこんでいるのだから、悲愴をきわめている。けれども、重役然と落ちつき払って、自動車にのりこんだ。どうやら自分の力でなしに、半平の気合いによって、重役然と持ちこたえているところが、危ッかしい。
 こうして、一行は箱根底倉そこくらの明暗荘へ落ちつく。ここには昨日のうちに業務部の若い男が先着して、部屋も用意し、白米一俵と清酒一樽を取り揃えて待っていた。半平が正宗菊松にささやいた。
「あの男が雲隠才蔵くもがくれさいぞうさ。わが社名題なだいのヤミの天才なんだよ。アイツが一人居りゃ、米だって酒だって自由自在さ。ボクたち寝ころんでいるうちに、みんな手筈をとゝのえてくれるよ。然し、今日は、やっぱりキミの秘書の一人だからね」
 やっぱり二十四五のチンピラであった。見たところニコニコと、能なしの坊ッちゃんみたいな顔である。
 一風呂あびて、昼食。正宗菊松が七八年見たこともない珍味佳肴の数々。然し、ゆっくり味あうこともなく、自動車がきました、という。あわてゝモーニングに威儀を正して玄関へ降りる。半平、才蔵、坊介の面々、すでに米俵や酒樽などを車中に持ちこんで、待っていた。
 箱根底倉の藤原伯爵別邸がマニ教の仮本殿となっているのである。自動車がスルスルと動きだして、わずかに二分と走らぬうちに、とある門構えの前にとまる。才蔵が駈け降りて門番に交渉すると、大門がサッとひらいた。大新聞も、ニュース映画社も、大雑誌社も、かたく閉したこの門内へふみこむことができなかったという難攻不落のアカズの門。なんの面倒もなくサッとあいた。
 白河半平がニヤリと笑った。当りまえさ、という顔であった。そして彼は、痩せッぽちの胸をグッと張って、腕組みをした。戦意たかまり、自信満々の様子である。
 正宗菊松も戦闘にそなえて胴ぶるいをし、半平にまねて、胸をそらした。何か電気のようなもので、いつも半平に急所々々で気合いをかけられているようであった。自動車はスルスルと邸内へすべりこんだ。

   その三 魂をぬかれて信徒の列に加えられること

 献納の品々が仮本殿の内へ運びこまれる。ヨイショッと四斗俵を担いで運びこむのは才蔵と坊介、平山ノブ子は天草物産の製品を蟻のようにせわしなくセッセと持ちこむ。才蔵と坊介はとって返して酒ダルを。醤油ダルを。武芸者のようにいかめしく構えた教祖護衛の面々もポカンとしているテイタラクである。
 ミヤゲ物を運び終ると、才蔵と坊介が正宗菊松の左右から、
「さア、どうぞ、常務」
 とうやうやしく、うながす。もっぱら常務に敬意を払って、マニ教を自宅のように心得たなれなれしさ。するとノブ子がツと進みでて、常務の靴のヒモをときはじめる。
 正宗菊松は自然に内部へあがりこみ、尚も才蔵、坊介にみちびかれて奥へ進もうとすると、ポカンと見とれている四五名の護衛の中から、威儀をとゝのえた中年の男がすゝみでて、
「コレ、コレ、不敬であるぞ、待たッしゃい。ここへ坐りなさい」
 才蔵が小腰をかゞめて、
「ちょッと、教祖にお目通りを願いたいと思いまして」
「不敬であるぞウ」
 中年の男は、われ鐘のような大音声で叱りつけた。それはまったく部屋の空気がはりさけるような全力的な一喝だった。才蔵、坊介の心臓男も、調子が狂って、びっくり顔。すると中年の男は、護衛の者に命じて、菊松の一行を二列に並んで坐らせた。
「神のイブキをかけてくれるぞウ。コウーラ。不敬者ウ」
 中年の男の顔がマッカにそまった。まるで格闘するように、全力をこめて、ジダンダふんだ。ダダダッと二列に坐った一行の前まで走ると、グッと立ちどまって、のけぞるように胸をそらした。
 正宗菊松はそのすさまじさにドギモをぬかれたが、それ以上の奇怪なことが起った。中年の男がダダダッと走り、グッと立ちどまって、のけぞると、護衛の若い男たちがアーッという悲鳴をあげて、ガバと倒れて、畳に伏し、手を合せて、恐怖のために身もだえて、祈りはじめた。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 頭の上に手をすり合わせる。怖れおののいて、声がワナワナふるえる。すり合わせる手もワナワナふるえて、そこから声がでるような秋の虫のようであった。
 のけぞった中年の男が、おもむろに身を起して、前へかゞみ、
「ガアーッ」
 突如として、イブキをかけた。爆心点はまさしく正宗菊松の頭上である。彼は呆気にとられて頭をちゞめたが、
「コウーラ、キサマ、不敬者ウ。魂をぬいてくれるぞう」
 怒り狂った大音声がきこえ、しまッた、と思った時には、彼は力いっぱい肩を蹴られて、後列の人々の間にころがっていた。
 正宗菊松は大失敗を犯したのである。彼はそれを蹴とばされる一瞬前に気がついた。自分の右に坐っている半平も、左側のツル子も、護衛の人々と同じように、畳に伏して、手をすり合わせていることを発見したからである。彼が蹴とばされて倒れたのは、坊介とノブ子の間であった。この二人も、その隣の才蔵も、例外なく、畳にふして、頭上に両手をすり合わせていた。
 神の使者は容赦がなかった。
「コウーラ、不敬者ウ。コウーラ、コウーラッ」
 一叫びごとに足をあげて、正宗菊松を蹴りつけ、踏みつけた。
 先程まで、あれほど敬意を払ってくれた才蔵も坊介もノブ子も、彼を助けてくれようとはしなかった。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 彼らは一心不乱に手をすり合わせてワナワナと拝みつゞけているのみである。自分たちの間へ彼が倒れて、踏みつけられているというのに。
「お助け下され。相すみません」
 正宗菊松は必死に叫んだ。
「私が悪うございました。お助け下され」
 菊松は、踏みつける足をすりぬけて、身をねじり、ガバと畳に伏して、頭上に両手をすり合わせた。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
「コウーラッ」
 神の怒りは、まだ、とけなかった。神の使いは、菊松の両手をつかんで、ズルズルとひきだした。
「コウーラッ」
 神の使いは片足で菊松の頭をふみつけ、額をしこたま畳にこすらせた。
「悪うございました。相すみませぬ」
 菊松は、とうとう泣きだした。どうして、自分一人が、いじめられなければならないのだろう。彼はこの時ほど痛烈に少年のころを思いだしたことはない。彼は弱虫で、馬鹿正直で、そのくせ、すこし、ずるかった。彼は悪太郎にそゝのかされて、手先に使われるたびに、いつも捕えられて、叱りとばされるのは自分だけであった。自分の子供のようなチンピラ共と同行して、この年になっても、やられるのは自分一人であるとは。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 洟水はなみずがあふれてシャクリあげた。シャクリあげる声というものは、この年になっても、ガキのころと同じであった。なんたる宿命であるか。恐怖にふるえた。
 神の使者は恭順を見とゞけて、ようやく踏みつけた足を放した。
「神様がお立ちになるぞウ」
 ダダダ、ダダダ、という激しい跫音あしおとが部屋の八方に荒れくるったが、それは、一人の男が八方に走り狂って足を踏む音である。それに合わせて、
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 という祈りの声がひときわ高くなる。才蔵や半平たちも、それに合わせて、祈り声を高くする。
 ピュッと何かを切った音がした。
「お立ちッ」
 神の使者がバッタリ坐った様子である。祈り声もハタと杜絶えた。正宗菊松は、怖しさに、頭をあげることができなかった。
「お父さん、お父さん」
 半平のさゝやきがきこえる。
「もう、いゝよ。こっちへ来て、お坐り」
 菊松は怖る怖る頭をあげた。一同は顔をあげて坐っている。衆人環視の中で夢からさめたようである。彼は神の使者に両手をつかんでひきずり出されたので、列をはなれて、部屋の中ほどに妙な方角を向いていた。
「お父さん」
 ツル子がツと立って、チリ紙をだして洟をかませた。彼はそれを羞しがる余裕もなかった。ツル子に手をひかれて、自分の席へもどり、敬しく神の使者に一礼した。
 廊下をふむ音が鈴の音にまじって湧き起った。ピタリと戸口でとまると、
「ミソギイ」
 という女の声がきこえた。護衛の若者がハッと立ち、杉戸の左右に立って、同時にサッと戸をひらく。とたんにパッと白衣に朱の袴のミコが三名、神楽かぐらのリズムに合わせるような足どりで、踊りこんだ。先頭の一人は御幣をかついでいる。あとの二人は鈴を頭上に打ちふっている。踊る足どりで正宗菊松の前に立ったと思うと、サッと御幣を打ちふった。なぐりつけるような激しさだ。すると左右に立ったミコが、鈴を頭上にリンリンとふる。ヒュッと廻して、又、ひとなぐり。サッと身をひいたと思うと、ツツと急ぎ足、御幣のミコを先頭に、鈴音の余韻のみを残して、今きた戸口へ踊りこみ、忽ち姿が消えてしまった。杉の戸が、左右から、しめられる。
「正宗は何歳になるか」
 神の使者は、しばらく名刺を一枚一枚ながめたのちに、こうきいた。
「ハイ、五十二歳でございます」
「商売は繁昌しているか」
「ハイ。おかげさまで、どうやら繁昌いたしております」
「お父さんは慾が深すぎるんですよ」
 と、半平が横から口をいれた。彼はもう、ふだんのようにニコニコして、一向に神の使者を怖れている風がない。長年交際した人に話しかけるような馴れ馴れしさであった。
「信心深いというよりも、慾のあげくの凝り性なんですよ。ボクら、ずいぶん、いじめられましたよ。ねえ、ツルちゃん、戦争中は、皇大神宮に指圧療法、終戦後は、寝釈迦ねしゃか、お助けじいさん、一家ケン族みんな信仰しなきゃア、カンベンしてくんないんですからね。子供のボクらや、秘書のこの三人の人たち、迷惑しますよ。でもねえ、云うことをきかなきゃカンベンしないんだから仕方がないですよ。今度、マニ教の噂をきいて、神示をうかがってくるんだって、どうしても、きかないのです。ボクら、もう、オヤジが言いだしたら仕方がないと諦めていますから、オヤジの信心するものは、なんでも信心するんです。さもなきゃ、お小遣いもくれないもの是非ないですよ」
 落ちつき払ったものである。育ちのよい坊ッちゃんが腹に思っていることをみんなヌケヌケ喋っている気安さであった。彼は悠然と、まだ喋りつゞけた。
「ボクら、若い者でしょう。遊ぶことは考えるけど、信心なんか、ほんとはないのが本当でしょう。でもね、オヤジがこんな風だから、つきあわなきゃ勘当されますよ。ですからね、ボクらは神様にお目にかかって、どんな人だろうなんて、そんなことしか、考えられないですよ。ねえ」
「軽々しく神の御名をよんでは不敬である。凡人が神にお会いできるなぞと考えては不敬千万である」
 神の使者は静かにさとした。眼光は鋭かったが、先刻の凄さはもはや見られない。今度は説教師の様子であった。
「信徒が神様にお目通りできるまでには、何段となく魂の苦行がいるぞ。御直身ごじきしんと申して、神様につぐすぐの身変りの御方。この御方にお目通りするまでにも、何段となく苦行がいる。お前らはイブキをうけ、ミソギをうけたから、信徒として、許してつかわす。毎日通ううちに、身の清浄が神意にとゞいたら、御直身がお目通りを許して下さるだろう。神様のお目通りなぞは二年三年かなわぬものと思うがよい。今日は立ち帰って、明日出直して参れ。ミソいでつかわすぞ」
「それじゃア、神示は却々なかなかいただけないのですか」
 と、半平がきいた。
「ボクのオヤジは商売の神示をうけたいのですよ。いえ、それが本性なんです。神様にお目にかかれなくっても、神示はいたゞけますかしら」
 半平はくすぐったそうに、ニヤ/\した。
「オヤジはね、ガンコだから、信心となると、何月何年でも箱根に泊りこむ意気込みなんですからね。ボクら、それが困るよ、なア。第一、会社だって、困らア。なア、雲隠君。もっとも、キミたちが会社と箱根を往復してりゃ、すむかも知れないけど、ボクはこんな山奥に何ヵ月もいたくないですよ」
「会社の方は、なんとかするよ」
 と、雲隠才蔵がなだめた。
「常務のガンコ信心ときちゃ、会社だって、諦めてるんだからな。箱根なら箱根、一ツ処に長持ちしてくれりゃ、ボクら、かえって仕事がしいいや。間宮さんにノブちゃんにボクと秘書が三人も居るんだもの、会社のレンラクは、わけないよ」
「アア、ほんと、その通り」
 と、間宮坊介が才蔵に相槌を打った。フツカヨイもどうやらさめたらしいが、今度は、ねむたそうであった。
「常務の身の廻りはボクがいるから大丈夫だ。ボクは常務と一緒にノンビリ温泉につかっているから、レンラクはもっぱら若い者がやってくれよ。そのたんびにウイスキーを忘れず運んでくることだよ」
「チェッ。のんびりしてやがら」
 神を怖れざる若者どもである。正宗菊松はハラハラした。今のさッき自分が蹴倒され、踏んづけられて魂をひきぬかれたばかりだというのに、なんたる奴らであろうか。コウーラッ、魂をぬいてくれるぞウッという怒号が尚耳に鳴り、ハラワタにしみているではないか。けれども彼らは平然たるものであった。正宗菊松が蹴倒される寸前に彼らはいち早く伏して拝むことを忘れなかったが、ある危機の時間がすぎると、かくも平然たるものである。神の使者は、もはや彼らを怒らない。いかなる嗅覚によって危機をかぎ当てるのであろうか。正宗菊松は身の至らなさを嗟嘆した。
「正宗はどこの宿に泊っているか」
「ハイ。明暗荘でございます」
 神の使者の声がかゝると、若者たちの分も自分が叱られるように思われて、身の竦む思いがするのであった。彼は一々両手をつき、平伏して返答した。
「正宗の子息と娘は何歳であるか」
「ハイ。エエと、知らぬ顔の、左様でござります、半平は二十五、ツル子は二十一に相成りまする」
「当分、毎日くるがよい。魂をみそいでつかわすぞ」
「ハハッ」
 菊松は平伏した。神のお怒りは解けたらしい。すると半平が、又、口をいれた。
「ほらね。あれだからね。オヤジは信心とくると、理性を忘れて、からだらしがないからねえ。平伏するばッかりなんだよ。毎日おいで、と云われたら、何時ごろ来たらよろしいですか、と訊くのが自然の理知というものだね。オヤジは神様の前へでると、てんで、なってやしないねえ。これで、よく、会社の重役がつとまるもんだよ」
「だからさ。キミがそんなに云っちゃアいけないよ。そこは、ちゃんと秘書というものがついてるのだからさ」
 と、才蔵が、又、なだめておいて、神様の使者に向って尻を立てゝ腰をかゞめた。
「あの、明日からは何時ごろに参りましたら宜しゅうございますか」
 商家の丁稚でっちが番頭に伺いを立てるような心易さだが、神様の使者は怒らない。
「朝夕のオツトメには、まだ加わることはできない。朝の十一時ごろ来てみるがよい。場合によっては神膳のお下りをいたゞくことができるから、人数だけの昼食の米をお返しに捧げなければならないぞ」
「ハイ」
 雲隠才蔵はニコニコと手帳をだして書きこむ。エエと、朝の十一時、米持参。まことに心易い様子であるから、神様も拍子ぬけがするのかも知れない。
 こうして、第一日目は成功に終った。したたかに蹴られ踏んづけられた正宗菊松が哀れな思いをしたゞけであった。
 その夜、彼は妻子のことを思いだして、ねむられなかった。彼の妻子は実家へ疎開のまゝ、いまだに転入ができないのである。転入ができたところで、彼の今の給料では生活ができない。彼は晩婚であったから、長男はまだ十九だが、上の学校へもあげられず、女房の実家で畑を耕しているのである。
 行末のことを考えると、心細さが身にしみる。それというのも昨日まではとんと夢にも思い至らなかったことで、大学生という新動物の発見以来のことなのである。まったく謎の動物であった。
 彼らは神様の使者の前でも、心おきなく勝手放題なことを喋りまくっていた。神様をなめているのかと思うと、そうではない。みんな計算の上なのである。一足神前をさがると、彼らはむしろピリリと緊張したようである。神様の前では、オヤジだの常務だのと、まるで彼一人なぶられ者にされているような有様だった。
 そのくせ、神前をさがると、彼らの態度は一変して、お父さん、常務と、宿の玄関で靴のヒモをといてくれ、部屋へはいると服をぬがせ靴下までぬがせてくれる。常務に対する敬意至らざるなく、温泉につかれば、半平まで、お父さん、背中流しましょうか、などと云う。みじんも彼らの使命を裏切るような隙を見せることがない。そして彼らは、正宗菊松が蹴倒され、踏んづけられて、神様に魂をぬかれた珍劇などには、見たこともないように、一言もふれなかった。たゞ、あたりに人影のなかったとき、半平がふとすり寄ってギュッと菊松の手を握って、
「今日の成功は、キミが蹴られたオカゲだよ。殊勲甲だよ」
 と云った。そして口笛をふきながら、夜の温泉場をひやかしに、姿を消してしまったのである。
 唐突に感謝をこめてギュッと手をにぎり、女性のようにやわらかく笑いかける半平が、又しても、彼は怖しかった。今日はこれでよかったが、ひとたび失敗すれば、容赦なく彼をクビ切り、叩きだしてしまうに相違ない残忍無慚な魂が裏にひそめられているようである。得体の知れぬ青二才に一身をまかして道化の主役を演じさせられている身のつたなさが、やりきれない。然し、嬉々として仕事に没入する彼らの溢るゝ生活力は驚異であった。
「畜生め。どうしてくれたら腹の虫がおさまるのか」
 やにわに飛び起きて、ねているチンピラ共を蹴倒し、踏みつぶして、魂をぬいてやりたいと思った。この世には悲しい思いがあるものである。

   その四 寝小便の巻

 正宗菊松はふと目がさめた。ふすまを距てた隣室へ誰かゞ戻ってきたのである。酔っ払って、ドタバタと重い跫音がもつれている。
「半平の奴、ひどすぎるじゃないか。なにも女の子を隠しだてすることはないよ。なア、坊介、そうだろう。ツルちゃんが好きなら好きでいゝけどよ、ノブちゃんまで一緒につれだして隠すことはないよ。なア」
「うるせえな。なん百ぺん言ってやがんだい。やくんじゃないよ」
 こう雲隠才蔵をたしなめたのは坊介である。
「チェッ。女房ぐらい、もったって、威張るんじゃねえや。落着いたって、偉いことにならねえや。半平の奴、ツルちゃんと仮の兄妹だなんて、鼻の下をのばしていやがら」
「よさねえかよ。やきもちやきめ」
「チェッ。お前も三十づらさげて、あさましい野郎じゃないかよ。秘書なんかにされて腹が立たないかッてんだ。どこの国に三人も秘書をつれてブラブラしている重役がいるかッてんだ。秘書だったら秘書同志じゃないか。婦人秘書をこッちへ渡しゃいゝじゃないか。独占てえ法はねえや。アン畜生、ヤキモチやいてやがんだ、なア」
「うるせえな。ヤキモチやいてんの、お前じゃないか」
「チェッ。お前は目があっても節孔ふしあな同然だよ。半平の奴、ふてえ野郎じゃないか。明日東京へ戻って指令を待て、なんて、尤もらしいことオレに言ってやがるよ。なんとかして、オレをツルちゃんから遠ざけようてえコンタンなんだ。働かすだけ働かしやがって、なめてやがるよ、なア」
「うるせえなア。お前はヤミ屋の仕事に打ちこんで月給もらッてりゃいいんだよ。オレは写真を撮りゃいゝんだ。女の子の一人二人よろしくやるだけの腕がなくッて、ヤミ屋がきいて呆れらア」
「チェッ。見ていやがれ。東京へ帰れッたッて帰るもんかよ。半平の野郎め、ギョッと言わせてくれるから」
「アッハッハ。勝手にしやがれ。しかし、仕事を忘れるな」
 年のせいか、坊介は落着いていた。しかし簡単に年のせいでは済まないことを、正宗菊松は肝に銘じてもいたのである。半平や天草次郎の落ちつきは、どうだ。事に当って身命を投げうっている精励ぶりは、どうだ。そのうえ、二人の女を両手に花と、シャク/\たる余裕をも示しているとすれば、一流の奥儀をきわめた達人と云わねばならないのである。隣室でねむる筈の半平は、まだ戻っていないらしい。
 半平と才蔵と、女のことでもめるとは見物じゃないか、と正宗菊松はほくそえんだ。決闘でもやらかして、奴ら、自滅するがいゝや。彼は明日の悲しさに胸がつぶれそうだったが、こう思うと、いくらか光明がさしたせいか、熟睡することができたのである。
 正宗菊松は十六の年まで寝小便をたれる癖があった。色々の薬をのんだがキキメが見えず、修学旅行などはズッと欠席していたが、いッそ人中へだしたら意地ずくで何とかなるかも知れないと、両親のさとしを受けて、十六の年に悲愴な覚悟をかためて修学旅行にでた。覚悟のほどが効を奏して、それ以来寝小便がとまったのである。
 もともと彼は苦労性で、つまらぬことにクヨクヨ悩む反面には、だらしなく安心するというウスバカじみた性分があった。ここ二日間のつもりつもった心労のせいで、彼はダラシなく睡りこけてしまったのである。
 言うに言われぬ快感のさなかに、ふと目が覚めて、彼はクラヤミへ突き落された。十六の年から忘れていた寝小便をたれてしまったのである。
 なんたる大量であろうか。フトンいっぱいの洪水だ。そして、なんたる悪臭だろうか。それは何年ぶりかで存分に晩酌をとったせいで、尿に臭気がこもっているのである。彼は神様の使者にふんづけられて魂をぬかれたとき、いつも自分一人だけが悲しい思いをしなければならなかった少年の頃を痛切に思いだしていたのである。少年時代への切実な回想とともに、寝小便も十六歳へもどったのかも知れなかった。
 起き上ると、サルマタや腹のまわりに溜っていた小便がドッと流れて、フトンの下へあふれ出ようとした。彼はあわてゝシキフをもたげたが、それから先はすべを失い、途方にくれて、クッという声をたてると、手ばなしで泣きだしてしまったのである。
「どうしたの? お父さん」
 物音をきゝつけて、半平が襖をあけて顔をだした。事情をさとると、物に動ぜぬ半平も、しばしは茫然たるものであった。
「ふーん」
 半平は感心して一唸りしたが、もう気をとり直してニコニコしていた。
「そうかい。お父さん、オネショの癖があったの、言っといてくれりゃ、夜中に起してあげたのに」
 彼はちッとも騒がなかった。
「オイ、起きろよ。坊介クンも、才蔵クンも、もう起きる時間だよ。お父さん、お風呂へはいッてらッしゃい。その間に片づけておくからね。ハイ、歯ブラシ。ハイ、タオル。それから、ハイ、石ケンとカミソリと。オフトンの上へユカタもサルマタも脱いどいて行くんだよ。とりかえといてあげるからね」
 正宗菊松は一々品物をうけとり、言われた通りハダカになって、ただ、うなだれて、部屋づきの浴室へはいった。
「ワア、臭い。馬みたいに、たれ流したもんじゃないか」
 と雲隠才蔵の叫び声がきこえたが、
「よけいなことを言うんじゃないよ。ボクが女中に云ってくるから、キミはサルマタを買ってきなさい」
「よせやい。朝ッパラからサルマタ売ってる店があるもんじゃねえや」
「いけないよ。秘書ともあろうものが、ワガママは許されないよ。ヤミの天才で名をうった雲隠才蔵ともあろうものが、朝の八時にサルマタが買えなくってどうするのさ。宮ノ下でも、小田原でも、どこまででも行って、買って戻ってきたまえ。我々は職務を果しましょうよ。ねえ、そうでしょう」
 そこはヌカリのない面々のこと、そうか、仕方がねえ、とつぶやいて、サルマタ買いにでた様子。半平の報せで、女中たちが跡始末にきたが、ブツクサ云わず、笑いもせず、処置をつけているらしく、その裏には半平の手際の妙があるのであろう。
「お父さん、こゝへユカタ置いときますよ。サルマタも、新しいの買ってきました。さすがに、わが社の至宝、才蔵クンは神速なるもんですよ。今度、月給あげてやって下さいな」
 食事となっても、正宗菊松はひたすら黙然、顔もあげられない。
「お父さん。元気をだして下さい。ツルちゃん。キミ、お父さんの肩をもんであげなさい」
 ツル子がハイと立ち上って、せッせと肩をもんでやる。ツボも心得て、ミゴトなお手並である。快感。思わず夢心地になりかけると、フッと溜息がでて、涙がにじんでしまうのである。
「ボクも、ノブちゃん、肩をもんでもらいたいね」
 ハイと云って、ノブ子も半平の肩をもむ。
「アア、いけねえ。フツカヨイだ」
 坊介は頭をガクガクふって、
「オイ、才蔵。オレの肩をもめよ。ボンヤリしてたって面白くもなかろう。お前の手でも我慢してやるから、若いうちはコマメにやりなよ」
「よせやい」
「ボンヤリ睨めっこしてるよりも、一方が後へ廻って肩をもむのが時にかなっているッてことが分らないかな。だから、淑女にもてない」
「うるせえな」
 午前十一時。時間がきて、一同は自動車にのりこんで、スルスルとマニ教の神殿へ。
 白衣の人たちに迎えられて、玄関を上ったところへ、昨日と同じように二列に並んで坐らされる。
 やがて、彼方からの鈴の音が近づくと、
「ミソギイ」
 と、若い女の一声。白衣の男がサッと二人立って、板戸を両側にひらくと、御幣を捧げた女と、その左右に鈴を頭上に打ちふる二人の女。いずれも白衣に緋の袴である。
 サッと御幣を一となぐり、又、一となぐり。身をひるがえしてパッと去る。彼女らの去るを送って板戸の閉じた音に頭をあげると、昨日の神の使いが正面にチャンと坐っているのである。
 いきなり、スックと立った。朱をそそいだ鬼の顔、ワナワナと怒り立つ肩。ダダダダと前へ踏みすゝむ気勢に、ガバと伏して、頭上に両手をすり合わせ、
「マニ妙光。マニ妙光」
 正宗菊松、寝小便で魂をぬかれたとはいえ、昨日の怖しさ、これを忘れる筈はない。神の使者はダッと踏みとどまると、大きくのけぞって一呼吸、ハッシとかゞむ。
「ガアーッ」
 と、神様のイブキをかけた。それから、ダダダ、ダダダ、とひとり八方に荒れ狂う跫音。やがてピュッと何物か切る音とともに神の使者がちゃくしたらしい。
「お立ちイ」
 という声がかゝって、みんなが頭をあげた。正宗菊松だけは、そう心易く頭があげられない。
「もう、いゝんだよ、お父さん」
 と、今日も半平にさゝやかれて、ようやく頭を上げた。
「正宗は、今日は敬神の念を起しておるな」
 と、神の使いが鋭く見すくめて云った。
「ハイ」
 正宗菊松は万感胸元につまって、たゞ、たゞ、平伏するのみ。
「実はです。お父さん、非常に感動したもんで、今朝はオネショやっちゃッたんですよ。これがお父さんの悪い病気でしてね。会社の重役やりながら、寝小便をたれているんですよ。子供のオネショと違って、お酒をのむから臭いッたらないでしょう。おまけにバケツ一杯ぶちまけたぐらい垂れ流すでしょう。秘書たちがね、こればッかりはツライッてね。旅先じゃア、お父さんの恥だから、気をつけているんですけど、ゆうべ、ボク、疲れちゃって、夜中に起すのを忘れちゃッたんですよ。だもんで、今朝、やっちゃったんです。神様の御力で、これを治していたゞけると、ボクたち救われるんですけどね。治していたゞけますかしら」
 神の使者も眉をよせたようである。けれども、正宗菊松の顔、形を見れば分ることだが、泣かんばかりに悄然とうなだれて、慙愧ざんきの念、身も細るほど全身に現れている。半平の奇怪な言葉に、ひとすじの偽りもないことは、明々白々ありありあらわれている。すべてを観察して、神の使者は、うちうなずき、
「長年邪神について、邪念が髄に及んでいるから、正宗のカラダに様々の障碍が宿っているのに不思議はない。マニ妙光様は宇宙の全てゞあるから、この教えにもとづいて魂をミソイだならば、寝小便などは苦もなく治ってしまう。まだマニ妙光様直々のオサトシをうけるわけにはいかぬが、別室で浄めてつかわすから、正宗だけ、ついて参るがよい」
「ボクたちも浄めて下さいな。お父さんと同じようにしてもらわなくッちゃア、あとあと親孝行にサシツカエがあるんですよ。なんてッたって、たゞもう、モーローと平伏ばかりしているでしょう。別室で一人になったりなんかすると、益々あがッちゃって、目も見えず、耳もきこえなくなるんですよ。とても心配で、ほッとかれやしないよ、ねえ」
「アア、ホント。常務が浄まる時にボクたちも浄まッとかないと、なんだ、不敬者だの、汚らわしいのと、うるさいからな」
 とフツカヨイの坊介が頭髪を前へたらして、蒼ざめた顔をしかめた。
「ウチの常務は、寝小便をたれた後と、神様の前へでた時だけは、平伏悄然モーローとしているけれども、その他の時はガミガミ口うるさいッたら。ボクたちも一しょに浄まらなくッちゃア、身がもたないよ」
 坊介、フツカヨイとはいえ、さすがに芸術家である。胸に秘めたライカに物を云わせたい一念、必死であった。
 しかし、神様の使者は厳格であった。
「お前たちは、まだ別室で神事をうけるに至っておらぬ。お前たちが、秘書の役に立たぬにせよ、俗界と神界のことは別の儀である。それすらも、わきまえておらぬ。不敬であるぞ」
 ハッタと睨んだ。
「正宗菊松、立て」
 声に応じて、立ち上ろうとした。しかし、魂をぬかれたせいか、腰も、足も、フヤラフヤラと力がこもらない。彼は立とうとして、両手をつき、気があせって、ハッ、ハッと病犬のように舌をたらして息をついた。
 彼は本当に神様にすがりたかったのである。寝小便も治したかったし、チンピラ大学生どもをギョッと云わせる智恵と勇気をほしかった。ありていに云えば、マニ教を蹴とばし、神様を踏んづける力が欲しかったのである。つまり、万感胸につまって、たゞ、切なく、あせるばかりであった。
 彼はようやく立ち上って、よろめいた。オットット。半平、坊介、才蔵、ぬかりなくサッと立って、支えてやる。
「だから、言わないことじゃない。目もくらみ、耳もきこえやしないんだからね。心臓マヒでも起されちゃア、第一、失業問題だからね。ごらんの通りですから、ボクたちも一しょに、至らない者ですが、ついでに浄まらせて下さいな」
「まったくだね。お父さん、会社じゃア相当パリパリしてるんだけど、神様の前じゃア、カラだらしがないねえ。このたよりない様子じゃア、子供として、見棄てちゃ、いられないね。一しょに浄まらしていたゞきたいですねえ。いゝでしょう。たのみます」
 神様の使者はつぶさに観察して、正宗菊松のダラシなさ、いさゝか呆れもしたが、けっして狂言のたぐいではないと見た。けれども、神界は厳格なものである。彼は白衣の若者たちを目でさしまねいて、正宗菊松を支え、半平たちから距てさせた。
「たとえ俗界にいかようなツナガリがあっても、霊界は別儀であるぞ。不敬者め。静坐して、正宗の戻るまで、霊界に思いを致しておるがよい」
 こう云って、白衣の若者に正宗菊松をひきずらせて、奥へ消えてしまった。あとには、監視役の白衣の若者が、まだ二人、目玉を光らせているのである。

   その五 坊介はガイセンし雲隠才蔵は深く恨を結ぶこと

 正宗菊松がつれて行かれたところは神殿であった。マン幕をはりめぐらし、正面に三柱の神が祭られている。神前に供えられた何十俵の米、何タルの清酒の山。天草物産が一山つみこんできた献上品など、どの片隅へかくれたか見当もつかぬ豪勢さである。
 先客が五人、左右に並んでいる。いずれもたゞの信徒らしく、モーニングや紋服をきこんでいる。中には品の良い老婆も、爺さんもいた。いずれも然るべき社会的地位のある人品で、ニセモノ重役の正宗菊松は一目見て、すくんでしまった。
 カイゼルヒゲをピンとはねて、大納言のようにふとった老紳士が真正面に坐っている。どんな偉い人物か見当もつかない悠々たる奥深さがある。目をつぶって、いかにも平和に正坐している。ほかの人々も目をつぶって坐っていた。
 まもなくドッと音が起って、にわかに大部隊がのりこんで、神殿にあふれた。たゞ一瞬のことである。突如として、すでに奏楽が起った。白衣に緋の袴の鈴ふり女もいるが、横笛を吹いているのもいるし、琴をかきならすのもいる。チャルメラみたいな国籍不明の笛をふく白衣の男もいる。太鼓をうつのもいる。キキキッと悲鳴のような泣声をだす楽器もあるが、どれとも見当がつかないのである。
 音楽がピタリと終って、白衣の男女は神殿の要所々々へ退いて、ジッと狙うように立っている。スワといえば躍りかかってノド笛へ食いつくような殺気立った鋭さで、マムシが鎌首を立てゝ隙をうかがっているとしか思われない。
 祭壇の下に立っているのは、何者だか分らないが、正宗菊松はトンチャクしなかった。そんなものを見ようなどと不敬な心を起しては後々が大変である。平伏して、額をタタミにすりつけて、頭上には両手をすり合わせて、
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 一心不乱である。
「コウーラッ。よさんか」
 白衣の男が彼の襟クビをつかんで荒々しく引き起した。情け容赦もない。フヤラ/\と腰がくだけて、
「ハハハッ」
 泣きベソをかきだしていた。どうしてよいやら分らないからである。彼はウロウロした。半平や坊介たちに救いをもとめたかったのだ。それも、かなわぬ、と知ると、覚悟をきめた。というのは、つまり諦めたということである。真正面の大納言の平和な坐り方をまねて目をとじたのである。どっちの方角からも、白衣のマムシの鋭い目が自分を狙っていると思ったからである。
「キサマの霊はくもっているぞウ」
 祭壇の下の人物が怖しい叫びを発した。
「アッ」
 正宗菊松は、ヤラレタカとすくんだが、ドサリと蹴られる音がしたのは、だいぶ離れたところである。
「コウーラッ」
 誰かゞ引きずりだされている。薄目をあけてみると、大納言である。大納言は河馬かばのようにふとっているから、白衣の男が二人がかりで襟クビをつかんでひきずっても、思うように動かない。チャンと坐って、キチンと膝の上に両手をおいて、平和な顔をちょッとシカメて、仏像が引越すようにユラリ/\とひきずりだされていた。
 祭壇の下の神様の代理が、たまりかねたか、躍りかかって、白衣の男の手をわけて、
「キサマの霊は地獄へおちているぞウ」
 なんたる乱暴だ。いきなり大納言のふとったクビを両手でしめあげて、アウ、アウ、アウ、さすがの大納言もこの時ばかりは目玉を白黒、腰をうかすところを、いきなり横にねじ倒して、
「コウーラッ。コウーラッ」
 ドシン/\とふんづける。すさまじいの、なんの。ム、ム、ム。さすがの大納言も、魚のようにアップ/\している。
 大納言がふんづけられると、合唱が起った。そして、白衣の人達は、手を高々とすり合わせて、マニ妙光を唱えながら、ふんづけられる大納言の廻りをグルグルと廻って歩きはじめた。白衣の女のある者は、鈴をふり、横笛をふいて、その外廻りを歩いた。合唱に合わせて太鼓がなった。
「ウウム」
 大納言は唸っているようである。地獄から脱出しかけているのかも知れない。あれほど平和な大納言でもダメなのである。
「不浄であるぞウ。不浄であるぞウ」
 神の怒りの叫びが雷のように鳴りとゞろく。そして、踏みにじる音がする。大納言は浄められているのであろう。
「オレもダメか」
 と正宗菊松はゾク/\と寒気が走った。大納言の霊だけが地獄へおちていたのかと安心したのは早計であった。彼がこゝへ連れこまれたのは、浄められるためであったのである。してみれば、順番にやられるのであろう。
「アア、マニ妙光。マニ妙光」
 雑念が起ると、泣きべそをかく。たゞもう夢中に祈るほかには手がなかった。
 一方、こちらは取り残された半平一行。
「えゝ、白衣の御方」
 ペコンと頭を下げたのは坊介である。
「すみませんが、便所へひとつ、行かして下さいな。俗界の人間は、これだから、いけねえや」
 坊介は便所の中から、つぶさに建物を観察する。大きすぎて、とても全貌はわからないが、台所では神様の昼食で人々が立ち働いている様子だから、裏を廻ると見つかってしまう。木立の繁みに隠れて、庭を廻る一手あるのみである。
 坊介は戻ってきて、
「どうも、いけねえ。フツカヨイに、下痢をやッちゃったい。腹がキリキリ痛んで、いけねえ」
「薬、あるかい」
「ま、待ってくれ。ちょッと、寝かしてくれよ。ムム、痛え。ウーム。盲腸じゃねえかな。ムムム」
「こりゃ大変なことになりやがったね。あんまり、のむから、いけないよ。アレ、エビみたいに曲っちゃッてピクピクやってるよ。才蔵クン。キミ、抑えてやんないか。ノブちゃん、さすッておやり」
「やい、しッかりしろい。コン畜生」
 才蔵が後へまわって、武者ぶりつく。ムムムとひッくりかえる。ひッくりかえす。ドタンバタンとレスリングの試合のようなことをやっている。
「ムム、いけねえ。こゝで息をひきとるかも知れねえや。ウーム。痛い。あとあとは、よろしくたのむ。ムムム」
「キミだけ帰って、医者へ行ったら」
「とても、歩けやしないよ。ムム」
 二人の白衣の人物も、これには手がつけられないと観念して、奏楽が起ると、我関せず、目をつぶり、手を高々と頭上に合わせ、
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 一心に祈っている。
「いゝかい。思いきって、やッちゃうからね」
 坊介は奏楽の騒音にまぎれて、そッと半平にさゝやく。半平はうなずいた。
「やるからにゃ、フン捕まる手前のところまで踏みこんで、ねばるから、キミたち、騒ぎがきこえたら、門をあけて逃げるんだよ。するとボクも飛鳥の如く、門をくゞって逃げる」
 半平は、又、うなずいた。
「ムム、痛え。どうにも、我慢ができねえや、ウーム。ちょッと、便所へ、やらしてくれ。腹を押えて、ジッと、しばらく、シャガンでくるから。ムムム。ムム」
 坊介は這うようにして、便所へ行った。廊下から、そッと庭へとび降りた。
 庭の奥の繁みまで一応退避して、建物の全貌をメンミツに頭へ入れる。奏楽はマン幕をはりめぐらした中央の座敷から起っているが、ズッと奥に離れがある。こゝぞ、神様の寝所であろうと狙いをつけた。
 忍びよると、居る、居る。神様は寝床に腹ばいになって、ゴハンをたべているのである。行儀のわるい神様だ。四十ぐらいの女神である。神様の手が、ひどく小さく、まッしろだった。
「落着け。落着け」
 彼はジッと時を忍んだ。また、奏楽が起った。その音にまぎらして、二枚、三枚。樹の上へ登って、三枚。窓まで近づいて、また、パチリ。神様は全然知らなかった。
 次に、奏楽中の神殿へ忍びよる。マン幕のスキ間から、うつしたが、どうも思うように行かない。
「エヽ、面倒な。やッちまえ」
 マン幕をすこしもたげて、首を突ッこんで、ジーとやる。
「ヤッ」
 白衣の一人が、気がついた。その時はもう後の祭。坊介は、白衣の男を見つめて、大胆不敵にニヤリと笑った。芸術家の満足感であった。彼はライカをポケットへ収めた。
「アバヨ」
 サッと身をひるがえす。写真屋ともなれば、逃げの一手は場数をふんでいるのである。ドッと追う人々は、マン幕にさえぎられて、手間どった。音をきゝつけて、飛鳥の如く身をひるがえし、靴をつかんで逃げだしたのが、ツル子にノブ子。その速いこと。ちかごろは、もっぱら男女同権。その喧嘩ッ早いこと。嘘だと思ったら、やってごらんなさい。ハイヒールをぬいで右手でつかんでサッとかまえる。ポカンと殴ってサッサと逃げる。もはや男は勝てません。
 半平と才蔵も女の子の次ぐらいはスバシコイ人物だから、白衣の人物などにオサオサつかまる筈はない。白衣の人物には何が何やら分らぬうちにサッと立って靴をつかんで一目散。
 門をあけると一番先に風の如くスットンで出て行ったのは誰あろうライカの坊介であった。つゞいて半平の一行もドヤドヤと門を出てしまえば、もう大丈夫。
「ヤーイ。アバヨ」
 半平はふりむいて、白衣の面々に手をふって挨拶する。
 そのとき白衣の人々をかきわけて逃げでようとしたのが、正宗菊松であった。魂はぬかれていても、必死である。人々がワッとマン幕かきわけて坊介を追うと、サテハと合点し、こゝぞイノチの瀬戸際、逃げおくれてなるものか。泣きほろめいて必死に走った。然し、逃げる人間が、追っかける人間の後を走るというのはグアイがわるい。どうしても、こっちが敵を追いこさなければならないからである。おまけに、自分の後から走ってくる奴もある。ハサミウチではゼヒもない。門に立ちはだかる白衣の人垣を泣きほろめいて掻きわけるところを、ムンズと襟クビつかまえられ、腕をとられ、イケドリになってしまった。
「助けてくれーエ、オーイ。ヒッヒッヒ」
 泣いたって仕様がない。敵は総大将をイケドリにしたと思っているからひとまず安心して、正宗菊松を手とり足とり引きずりこんで、門を閉してしまった。白河半平はエヘラ/\とそれを見送っている。まさしく知らぬ顔の半兵衛であった。
「わるく思うなよ。あとで月給あげてやらア」
 半平は閉じられた門に向って、チュッとキッスをなげてやった。
 一同は任務を果して大満足。明暗荘でひと風呂あびて、昼酒の乾杯である。
「正宗の奴、ないていたぜ。オケラみたいな手つきで、人垣をわけて出ようたって、ムリだよ、なア。頭で突きとばして出りゃ良かったのさ。なんべん泣いたか知れないねえ。ヒイヒイヒイなんて、むせび泣いていやがんだもの。泣いたり、オネショもたれたり、ずいぶん水気の多いジイサンなんだね」
「アア、まずまず、オレの仕事はすみました。これから東京へ帰って、現像がオタノシミだよ。ツルちゃん。ビールビンに二本ばかり酒をつめてもらってきておくれ。汽車の中で飲みながら帰るからね。それから、ツルちゃんは護身用に一しょにきておくれ。オレのカラダはかまわないけど、ライカが紛失しちゃ、それまでだからな」
 ライカが今回の主役だから、坊介は気が大きい。このときでなければ威張られないのである。半平もゼヒなくニヤリとうなずいて、
「ウン。じゃア、まア、ボクたち、一しょに帰ろうよ。ボクたちも、さっそく記事をつくらなきゃア、いけないからね。才蔵クンだけ残って、正宗クンを連れて帰っておくれよ、ね」
「おい、よせよ。オレひとり残るなんて、そんなの、ないよ」
「だって、ボクたち、記事をかいて雑誌をつくらなきゃ、いけないからさ。一足先にきて仕度してくれたキミだから、あとの始末もつけてくれるのがキミのツトメなんだよ。悪く思うなよ」
「よせやい。一人ションボリ居残って、あんなネションベンジジイを待ってる手があるもんか。そうじゃないか。ねえ、ノブちゃん」
「だって、可哀そうよ。魂をぬかれちゃって。戻ってきて、誰かいてやんなきゃ」
「だからさ。オレひとりッてのが、おかしいじゃないか」
「よせやい。テメエひとりでタクサンだい。二人ッて柄じゃねえや。あのジイサン、神殿でネションベンたれて、魂をぬきあげられて帰ってくるに相違ないから、いたわってやんなよ」
 誰ひとり才蔵の味方になってくれる者がない。才蔵をのこして、一同は意気たからかにガイセンした。
 才蔵は無念でたまらない。深く恨みを結んだ。よろしい、畜生め、どいつも、こいつも、今にギョッと云わせてくれるから、と、湯につかって策戦をねった。何がさて子供の時から目から鼻へぬける男、三国志の地へ出征して、つぶさに実力をみがいてきました。魂をぬきあげられた正宗菊松をあやつって、天草商事をテンヤワンヤにしてくれようと怖しいことを考えた。

   その六 怪社長の出現と天草次郎出陣のこと

 正宗菊松はマニ教神殿に監禁されて、二日二晩すぎても戻って来ない。三日目に妙な使者が現れた。
「えゝ、始めてでござんす。天草商事の秘書のお方でござんすか」
 見たところ二十四五、雲隠才蔵と同じ年恰好であるが、白衣の使者とちがうようだ。最新型の背広に赤ネクタイ、眉目秀麗の青年であるが、なんとなくフテブテしく尋常ならぬ凄みがある。此奴こいつめタダ者にはあらずと、才蔵はヌカリなく見てとった。
「ボク雲隠才蔵ですが、で、あなたは?」
「ほかのお方は、どうなさいましたか」
「報告のため東京へ戻りまして、今はボク一人ですが、何か御用ですか」
「アタシはこういう者ですが」
 と差出した名刺を見ると、石川組渉外部長、サルトル・サスケ、とある。
「石川組と仰有おっしゃいますと」
「実は社長からの使いの者でざんすが、こゝに社長の名刺を持参してざんす」
 これを見ると、国際愛国土木建築、石川組社長、石川長範ちょうはん。ズッシリと百円札ほど重みのこもった名刺であった。こういう名刺をいたゞくと、いくらか涼味がさすけれども、心ウキウキとするものではない。
「で、御用件は?」
「そこのタチバナ屋が社長の常宿なんですが、ちょっと御足労ねがいたいので。話は社長から直々あるだろうと存じやす」
 薄気味のわるい相手だが、何とかなろうという才覚には自信があるから、腹をきめると、わるびれない。サスケの後について、でかけた。とは云うものゝ、マニ教の霊力よりも石川組のメリケンの方が魂を手ッとり早く抜きとる実力があるだろうから、才蔵も内心はなはだしく安らかではなかった。
 案内された部屋は、渓谷に面した特別の上等室。石川長範は秘書の江戸川熊蔵と将棋をさしていた。長範社長、四十がらみの苦味走った好男子。ところが熊蔵秘書が怖しい。これも四十がらみであるが、何百人叩き斬ったか分らないという面魂つらだましいである。戦争で何万人殺したって凄みはでないが、この先生は天下泰平の時代に人殺しを稼業にしたという凄みがそなわっているから怖しい。ゴリラの体格。この先生がグッと盤上へかがみこむと、将棋盤が灰皿ぐらいに小さくなってしまう。
「御足労、御苦労御苦労」
 長範社長はウイスキーをグッとあけて才蔵にさし、
「実はな。オレもマニ教の信者でな。社用で箱根へくる。社用の方はサルトルや熊蔵がやってくれるから、オレはヒマを見てマニ教の神殿へとまる。魂が浄まって、しごく、よきものだぞ。今朝まで泊っておった。オレは進駐軍関係の土建業務もやっとるから、キリスト教のよいところも充分に知っとるが、やっぱし宗教はカシワデ、指圧。日本人の霊はこの手だなア。手に関係が深いぞ。だから日本人の体質には、アンマ、指圧が病気にきくのだなア。精神的にも肉体的にも、日本の伝統は手の伝統である。神道は手の霊である。日本人に適する職業は手の職である。どうだ。わかるか。これが分れば日本が分る。オレは進駐軍に神道を普及したいと思うとるが、手の霊であるということが分らんのだなア」
 さすが物には驚かぬ才蔵も、この新学説にはおどろいた。バカかと思うと、そうでもない。将棋をさしながら喋っている。時々、ギロリ、ギロリ、と才蔵を見つめる。その眼光の鋭いこと。一見小柄の好男子だが、ゴリラの熊蔵と盤に対して、堂々と威勢を放っているから、さすがに土建の親分である。
 ところがゴリラの熊蔵の対局態度が珍しい。彼は盤をかくすように覆いかぶさって、五分、十分、十五分、沈々として微動もせず考えこんでいるのである。
「話というのは、ほかでもないが、お前のとこの正宗常務だなア。オレが助けてやろうと思うとるが、あのままでは、一週間で狂い死んでしまうぞ。支離メツレツじゃ。今朝などは、もう、ひどい。寝小便はたれる。着物にクソをつけて歩いておる。やつれ果てゝ、二目と見られたものではないぞ。秘書たる者が温泉につかって酒をのんでる時ではないぞ」
「ヘエ。アイスミマセン」
「今朝オレが帰る時にマニ教の内務大臣から話があって、明暗荘に秘書の者がおるから伝言せよと言うのだな。百万円耳をそろえて献上すると正宗の身柄を引渡してつかわすと言うとる」
「ハ、百万円」
「ウム」
 親分は言葉をきって、ウイスキーを一あおり、ついでに、盤面に目をくばる。
「天草鉱業はどこに鉱山をもっとるか」
「エエ。常磐に炭坑三ツ。常磐では指折の優秀炭質を誇っております。七千五百から八千カロリー。八千五百ぐらいまでありますんで、一トンいくらだったかな。一貨車いくらでもとめるのが御徳用で」
「天草製材はどこに工場を持っとるか」
「エエ。秋田でござんす。そもそもこれが、わが社社長の実家でして、社長は当年二十五歳、ボクと同年の大学生で、天草次郎とおっしゃるニューフェースで」
「オヤジが追放くったのか」
「とんでもない。当商事に於きましては、社長のほかに業務部長の織田光秀、編輯長の白河半平、重役陣の三羽ガラスがいずれも大学生でござんす。エエ。ボクも近々重役になります。戦前派は無能でいけません」
「製材所が秋田じゃア都合が悪いな。しかし新興商事会社はヤミ屋にきまっとるから、扱えないという品物があっちゃア名折れだ。実はな、オレが商用で箱根へくるのは建築用材の買いつけだ。すでに一年半にわたって用材を伐りだしとる。進駐軍関係の用材であるから、輸送も優先的、伐採が輸送に追われるほどスピーディに動いておる。運賃も人件費も格安であるから、オレの材木は安いぞ。三千万円ほど譲ってやるから、手金を持ってくるがよい。社長をつれてくるのがよいな」
 親分は才蔵の返答などはトンチャクなく、
「サルトル。自動車をよべ」
「ヘエ。用意してござんす」
 電光石火。四名は車中の人となって、仙石原を突ッ走り、峠を越えて、箱根の山裏の丘陵地帯へでる。杉山である。丘陵にかこまれた小さな平地へ乗りつける。ここが伐採本部で、石川組作業場という白ペンキ塗りの木杭ぼっくいが立っている。トラックの来往はげしく、活気が溢れている。
 石川親分、現業員に敬々うやうやしく迎えられて、ちょっと視察していたが、作業場の主任をつれて戻ってきて、また自動車を走らせる。
「これから一周するところを天草商事へ売ってやる。よく見ておけ。目通り八九寸から一尺が多いが、尺上しゃくかみ、尺五上もかなりまじっておる。全部で何石なんごくぐらいかな、六万か七万石、そんなところだろう。望みの期日までに、東京の指定の場所へ送りとゞけてやるぞ。どうだ。男児の生きがいを覚えるだろう。これだけの木材を扱って、バッタバッタと売りさばく快感を考えてみい。天草商事も男になるぞ」
 作業場へ戻ってくると、今しも材木をつんで出ようとするトラックがある。長範社長は大手をふって呼びとめた。
「オイ、待った。二人のせてやってくれ。雲隠はこれに乗って東京へ戻れ。今明日中に社長をつれてくる。手金は二割五分の七百五十万でよろしい。商談成立のあかつきは、オレが正宗を助けてやる。タダでサービスしてやる。社長が製材所のせがれなら木材のことは知っとるだろうが、これほど格安な取引きはないぞ。社長が来たら、山をこまかに案内してやる」
 否応なし。助手台へ押しこまれてしまった。サルトルも助手台へのりこんで、
「じゃア行って来やす」
 と、走りだした。
「人をよびつけて頼みもしない材木を売りつけようッてのは、邪推するねえ。サルトルさん。そうじゃないか」
 才蔵は中ッ腹であるが、サルトルは常にニコヤカに笑って、悠々、まことに無口。才蔵が話しかけなければ、全然喋らない。
「商売はそんなものさ。売りがあせる時は買い手のチャンスだよ。こういう時に買い手の目が利くと大モウケができるのさ」
「だって雲をつかむような取引きじゃアないか。バカにされたとしか思われねえや」
「キミの社長が製材所の倅なら雲をつかむような取引きはしないさ。見ていたまえ。目の利く買い手にはチャンスだよ。アタシに金があればこのチャンスは逃さない」
「ひとりぎめにチャンスたって、なんにもならねえや。露天商人はみんなそんなこと言ってらア」
 サルトルはニコヤカに笑みを含んでいるばかり、弁解もしない。
「キミは何の御用で東京へ行くんだい。オレを送りとゞける役目かい」
「マア、それもあるが、アタシは社長夫人を箱根へ案内する役目さ」
 クソ面白くもない。悪日の連続である。正宗菊松は寝小便をたれ流し、着物にクソをつけてうろつきまわっているという。そんなものの世話まで焼かされては堪らない。これを機会に箱根と縁を切るに越したことはないから、社長室へ挨拶に行って、
「ボクは東京へ帰ろうなんて思ってやしなかったんですが、これこれしかじかの次第で、長範の命令一下サルトルとゴリラの馬鹿力にトラックへ押し上げられちゃって、おまけにサルトルが東京までニコヤカに護衛してやんだから処置ねえや。凄味のアンチャンがニコヤカに全然喋らねえんだから、薄気味悪いったら、ねえんだもの。寝ションベンじいさんだの材木なんか元々ボクに関係のないことだから、箱根へ戻るのは、もうイヤですよ。行くもんじゃねえや」
 天草次郎は両の手に頭をのせ、イスにもたれて考えていたが、織田光秀に向って、
「キミは材木、いくらで買う」
「マア、三十万ですね」
 天草次郎は大儀そうに苦笑して、
「オレは、タダだ。サルトル氏をつれてこい」
 と雲隠才蔵に命じた。
 サルトルが現れる。天草次郎、織田光秀、白河半平の三羽ガラスを才蔵が紹介する。
「ボクたちは毎月一回東京をはなれて食焔会しょくえんかいというものをやってるが、大いに食い、気焔をあげる会だね。疲れが直るな、明日の晩、小田原でやろうじゃないか。明日の夕方、底倉へ電話でお伝えするが、石川さんに差しつかえなかったら、遊びにでむいていたゞきたい」
「ヘエ」
 サルトルは無口であるからニコヤカに笑みを浮べて、あとは相手の言葉を待っている。天草次郎ときては、必要以上は喋ったことがないし、つくり笑いもしたことがない。クルリとデスクに向って、書類をとりあげて仕事をはじめる。呼吸のそろっている三羽ガラス、調子のよい白河半平が、
「では明晩、小田原の食焔会へいらして下さい。お待ちしていますよ」
 と、いとニコヤカにサルトルを送りだす。毎月一回の食焔会など、そんなものは有りゃしないが、彼らにとって、言葉というものは無を実在せしめるところにのみ真価があるのである。
「サルトルさんて、ニコヤカなアンチャンだね。ゼンゼン喋らねえなア。あれで渉外部長かねえ。ハハア、英語で喋りまくろうてんで、日本語を控えているのだねえ」
「小田原の奇流閣きりゅうかくへ電話をかけておけ。この四人に、婦人社員五六人。明日一時ごろ出発だ。団子山だんごやまに今夜のうちに料理の支度をさせておけよ」
 と天草次郎が才蔵に命じる。
「いけねえ。オレも行くのかな」
「あたりまえだ」
「寝ションベンジジイは半平の係りだから、オレはもう知らねえや」
「ハッハッハ」
 半平は不得要領に、しかしニコヤカに笑っただけであった。

   その七 箱根に於て戦端開始のこと

 石川長範はサルトルとゴリラの熊蔵、それに二号をつれて小田原の奇流閣へやってきた。こゝは由緒ある邸宅を買って旅館営業をはじめたところ、まだ世間には名が知れないから、ほかにお客もいないようだ。
「ここは天草商事の経営かい」
 と、サービス係りの婦人社員にきいてみると、いゝえ、という返事。ことごとに得体が知れないので、長範社長、内々大いに不キゲンである。
 奇流閣の女中などは手の出しようがない。ゼンゼン、センスが違っている。二十から二十四五ぐらいの婦人社員が、いらッしゃいまし、どうぞお風呂へ、ハイ、タオル、ハイお浴衣と、トントン拍子のよろしいこと。別に愛嬌は見せないけれども、テキパキとその新鮮さ、まかせておけばなんの不安もない。
 ところが一方、四人のチンピラの傍若無人なこと、ゼンゼン礼儀をわきまえない。各人アグラをかいて、ペコンと頭を下げて、ヤア、いらッしゃい、と言っただけ、初対面のアイサツもヌキである。
 仕方がないから、長範親分、自分で見当をつけて、
「こちらが天草社長。こちらが? 織田光秀さん。そちらは? 白河半平さんだね」
「ザックバランにやりましょうよ。ハハハ。礼儀はダメなんだ。ボクらアプレゲールは祖国なみに廃墟に生れた人間ですからね。石川さん、お料理ができるまで、将棋やろうか」
「それは、いゝ」
 半平はなれなれしい。将棋盤をもってくる。ところが、飛車と角の位置をアベコベに並べている。
「ハハハ。アベコベか。むつかしいもんだね」
 コマを並べるのをむつかしがっている。たちまちバタバタ負けて、
「ハハ。石川さんは強いねえ」
 長範親分、小学生を相手に遊んでいるのか、遊ばれているのか分らない気持で、手のつけようがない。
 そこへ料理が現れる。第一がシャモの丸焼き。腹の中へシイタケ、ミツバ、ギンナンその他サザエのツボヤキのようにねじこんであぶったもの。
 その次が子豚の丸焼き。これには長範親分も驚きました。その次が尚いけない。ブリの丸アゲ。どんな大きなフライパンで揚げたのか知れないが、三尺ちかい大ブリを、支那料理の鯉のようにまるまる揚げ物にして、女の子が二人がかりで皿をはこんできた。
「ここの料理はマル焼き専門かね」
 と長範がひやかすと、
「ハハハ。料理人がコマ切りにして配給するんじゃ食べるのが面白くないねえ。本来の姿を目で見てさ。その雄大なところを楽しんで、自分の手で切りとって食べなきゃ、つまんないよ。頭と骨とシッポが残ってくるでしょう。ここが、いゝところだね。はじめから小皿に小さく配給されたんじゃア、孤立して貧寒だねえ。丸ごと銘々で切りくずして行くところに、銘々が同じ血をわけ合っているというアタタカサが生れて盟友のチギリを感じるのだね。蒙古のジンギスカン料理は羊を丸ごと焼いちまわア。ジンギスカンはさすがに料理の精神を知っとるね。石川さんは、なんですか、小皿に配給された料理がおいしいですか」
 長範親分、言葉に窮してしまう。
「サア、のみねえ」
 と、仕方がないから、グイとあけて、しきりに杯をさす。
「ハイ」
 と言ってカンタンにうける。うけるけれども返さない。のまないのである。飲むのは雲隠才蔵だけだ。
 サービス嬢は心得たもの。杯を一山つんで待機している。返盃の代りに新しいのでお酌する。三羽ガラスの前には、のまない杯がズラリとならんでいる。
「返盃したまえ」
 と長範親分がサイソクすると、無造作にお皿へ酒をぶちまけて、
「ハイ」
 と返す。酒をのむとか、のめないとか、杯をさすとか、返すとか、酒席の下らぬナラワシにはゼンゼンこだわるところがない。自分の食慾のおもむくまゝに楽しめば、つきる、という悠々天地の自然さであった。
 三羽ガラスは、よく食う。実に食慾をたのしんでいる。もっぱら食慾にかゝりきって、骨をシャブッて玩味し、汁をすくって舌の上をころがし、両手から肩、胸の筋肉を総動員して没入しきっている。そして、ほとんど口数がない。
 最後に特大の重箱にウナギの蒲焼がワンサとつみ並べて現れる。酒のみがウンザリするような大串。これがゴハンのオカズであった。
「アア、これだ。待っていたよ」
 と、半平は大よろこび。三羽ガラスは蒲焼にとびかゝるようにして、飯を食うこと。
 長範親分、ことごとく勝手が違って、酒がまずいが、そこは大親分のことで、今日は商用、これが第一の眼目だ。ツキアイに軽く食事をしたためて、
「明朝八時半にここへ迎えの車をよこすから、山を見廻って、箱根で中食としようじゃないか」
「八時半じゃ、おそいな」
 天草次郎はこう呟いて腕時計を見ながら、
「ボクらはたいがい七時ごろには仕事にかかる習慣で、朝ボンヤリしているほど一日が面白くなくなることはないな。旅先では、ことにそうだね。早く目がさめるからな。六時には起きて顔を洗うから、七時半前に底倉へつくだろう。自動車はボクらのがありますよ」
「それは好都合だ。オレも朝は早い。五時には起きて、冷水をあびて、それから三十分静坐して精神を統一する。これによって、一日が充実し、平静なんだな。朝寝はいかん。早朝より充実して仕事にかゝるのはビジネスの正道だ。さすがに天草君は理を心得ておる。アッパレなものだ。どんなに早くともいゝから来たまえ」
 長範は内心浮かない気持である。チンピラどもに捩じふせられて一向に本領を発揮できなかった不快さが喉元につまっているが、敵の本営だから今日のところは仕方がない。明日は自分の本営だから、存分にひきずり廻してやろうと考えている。
「正宗君のことは心得とるから、諸君らの望む時に助けだしてあげる」
「あの人は好きでやってるのですから、当分ほッといた方がいゝのですよ」
 と半平が答えた。
「そんなことがあるものか。半死半生だぞ。寝小便をたれ、クソもたれながして、ウワゴトをわめいて泣いとるぞ。まさしく狂死の寸前だぞ」
「いえ、あれでいゝんですよ。あれが趣味にかなっているんだなア。ほら、首ククリは小便やクソをたれて、ずいぶんムゴタラシク苦悶するけど、本当は生涯のたのしいことを一時にドッとパノラマに見て、あの時ほど幸福な瞬間はないんだってね。正宗君も今が一番幸福な時なんだねえ」
 長範は呆れた。帰るみちみち、
「なア、オイ。ありゃアいったい、どういう奴らだい。今の若い者には、あんな奴らがタクサンいるのかい。イケシャア/\と、世間なみの仁義も知らない奴らじゃないか」
 ゴリラもサルトルも返事がない。
「お前らも、何か、アプレゲールか。笑わせるな。アプレゲールは喉がつぶれているワケじゃアねえだろう。サルトル。なんとか返事をしたら、どうだ」
「ヘエ」
「ヘエだけか」
「マ、なんですな。一口にアプレゲールと申しましても、人間は色々でざんすな」
「当りまえだ」
「まったく、そうでざんす」
 翌朝七時半、タチバナ屋の玄関先へピタリと乗りつけた自動車一台。云わずと知れた天草商事の三人組に才蔵である。才蔵が降りてタチバナ屋の玄関へ駈けこもうとすると、
「オットット。雲さん、こっち」
 うしろから大きな声で呼ぶのがある。ふりむくと、路上にサルトルが手招きしている。路のかたえに車が一台、長範とゴリラもちゃんと乗りこんでいる。敵もさるもの。
 長範も車を降りて現れて、
「さて、配置をどうしたらよろしいか。天草社長と織田君はオレの車へ。オレが説明の労をとる。サルトルはそっちの車へ。白河君に説明してあげる。熊蔵はそっちの助手台へ小さくちぢんどれ。キサマが前にふさがると何も見えん」配置を換えて出発する。
「目の下に見える丘陵地帯、あの全体の杉とヒノキはオレが買いつけとる。君らに売りつけてやろうというのは杉材だが、これはオレの今やっとる仕事にむかん。商業は有無相通ずるところに妙味があるから、諸君に一カク千金のチャンスを与えてやる。作業場に現場の技術家がおるから、こまかく説明してくれるが、だいたいオレが諸君に放出してやろうと思う杉材は、さっきも示したあの一帯、あれで六万から七万ちかい石数があるそうな。自動車で一周しても相当の時間を食うミチノリじゃ。あれを放出してやる」
 放出とは、うまい新語があるもの。平和の時代の言葉ではない。配給という特殊時代の言葉と共棲する単語で、ヤミという言葉と同じように、いずれは平和な人々には理解できなくなる言葉である。長範のような人物に限って、こういう時代にしか生きていない言葉を用いる。
「天草クンは製材所の倅だそうだな。天草商事は製材もやっとるから知っとるだろうが、今の相場で製材所の買い値が、杉ヒノキ五六寸の小丸太が六百円というところだな。七八寸が八百、尺上で千円。いゝところだ。尺五上が秋田営林署で千五百円で出しとる。キミは秋田に製材所をもっとるから知らんことはあるまい。マル公は千円だが、誰もマル公では相手にせんよ。しかし、オレの売り値はマル公よりも、もっと、はるかに安うなっとる」
 長範はいゝ気持だ。グッとそり身になって葉巻をくゆらす。
「オレが放出してやるのは目通り六七寸から一尺が主だが、尺上、尺五ぐらいまで相当数まじっとる。尺五上、二尺上となると、この山には生えとらんな。それで大体六万から七万石と見つもっとる。これに運賃をかけて、東京都内ならば指定の場所へちゃんと届けてやる。一山いくらで立木を売るわけにはいかんのだな。なぜならばじゃ。オレだから安く買いつけて、安く輸送ができる。ほかの誰がやっても、こう安くはできんが、第一、進駐軍用材の名で買いつけてガソリンを貰って、原木を他人にりださせたとあっては、オレのコレが危いわい」
 とクビをたゝいた。
「六万五千石とみて、尺以下一石八百円、これはマル公と同値じゃ。五千二百万円だろう。これを三千万円で売ってやる。その代り、これ以下にはビタ一文まけやらん。オレのやり方は万事そうだ。一言ピタリ。それだけだぞ。オレがかほどの安値で売りを急ぐのは、ワケがあるからじゃ、そこを見て、これをチャンスと知るのは利巧者。オヌシらが材木を知り、正しい商道を知っとるなら、この驚くべきチャンスがわかるはずだぞ」
 作業場へつく。そこから現場の技術家が同乗して、山々を一周し、時々車を降りてこまかく説明する。作業場から下の鉄道駅まで立派な道路をきりひらいて、砂利もしき、ヌカルミにならないように充分手も加えてあるが、今やトロッコも敷設中で、八割まで出来あがっている。
「どうだ。オレの材木が安値のわけが分ったろう。このトロッコが出来あがると、今までの苦労が報われるのだ。これまでの苦闘はなみたいていではなかったぞ。男はそれを言わんものだ。ハッハ。石川組のあるところ、作業は常に活気横溢しとる」
 この親分、アストラカンをかぶっている。胸をそらしてキゲンよく葉巻をくゆらす。金の握りのステッキで地面をコツコツつく。
 天草次郎は時々時計を見ている。それにつりこまれるように織田光秀も腕時計をのぞく。どうやら半平まで腕の時計を気にしているようだ。
「オヌシの返事をきこうじゃないか。驚異的な安値が納得できないかな」
「マア、損はないかも知れないね」
 と、天草次郎は気のない返事をした。
「オレは商売になると思うが、光秀の考えはどうだい」
「そうだなア。金庫をあずかるボクとしちゃア、どう返事をしていゝか分らないが、マア、山師とか水商売じみた取引きはやって貰わない方が安心ですね。もっともボクは材木のことは知らないから、この取引きの実際の評価はできませんがね」
「ボクも材木のことは知らないけど、相場よりも安ければ買っていゝわけだね。今後の値下りがなければね。何商品でも、そうだろうねえ。そうじゃないの」
 と半平は言葉をついで、
「徳川産業だの豊臣製薬だの藤原工業なんかじゃア工場をたてたがっているんだし、ボクンちも三四ヵ所工場がほしいところだもの、さしあたり、材木のハケ口は足りないぐらいじゃないかしら。製材会社をつくってもいゝや。今のところ石川組程度の輸送能力じゃア、ボクの目の黒いうちは、滞貨はないと思いますねえ。ハッハッハ」
 半平の大言壮語は真偽のほどが不得要領そのものである。
「じゃア、当分は芝浦の敷地へ材木をつんでもらうか。才蔵。芝浦の敷地の所番地と地図を書いておけ」
「ヘエ」
 才蔵は手帳をさいて地図をかいた。。
「よかろう。話がきまって、結構だ。熊蔵、契約書の用意をしろ。それから手金のことは、昨日才蔵に伝えた通りだが、残金は毎月四百五十万円ずつ、四ヵ月間で支払ってもらう」
「それはムリですよ。ねえ」
 と、半平が口をひらいた。
「契約書なんて、いけませんよ。ボクらレッキとした商事会社ですけど、仕事の性質上、ボクらの商法は結局ヤミ取引きでしょう。ボクらはヤミを一つの信用として扱っていますよ。ボクらにとっては合法的なことは罪悪なんです。合法的なことは、我々の世代に於ては、卑屈で、又、卑怯者のやることですね。ボクらは合法的な卑屈さを排して、相互の人格を尊重し合うところから出発しているのです。アプレゲールなんですよ。わかるでしょう」
「止せよ。お前の屁理窟はキリがなくッて、やりきれねえ」
 と、天草次郎はイラ/\と制した。
「契約書や手金なんか、止そう。最も明確簡単に商売をやろうよ。オレたち、それ以外の取引はしたことがないのだから現物が届いたら、その分だけの支払いをするのだね」
 長範は、はやる胸をグッと抑えて、
「ナニ、現物引換えだと。それぐらいなら、一区劃いくらで売るものか。相場なみだが、それでいゝのか」
「相場なみなら、わざ/\ここで買うまでもないことだね。六万五千石、三千万円という話だったが、六万石三千万円の割合なら、何万石一時に着いても現金で買いとるね」
「バカな。まとめて買い、手金を打つと仮定して、格安に割引してあるのが分らんか。六万石三千万円の割合なら、日本国中の製材所が買いに殺到してくるぞ」
「どうせ、こんなことだろうと思ったな。まア、食焔会の消化薬だと思えばよかろう。オレたちは約束の時間があるから、アレレ、急がないと遅れてしまう。才蔵。お前は明暗荘へ戻って正宗の出るのを待っとれ、近日中に出るように、はからってやる」
「アレッ。社長。いけねえ。いけませんよ」
 才蔵を残して三羽ガラスが自動車の方に走り去ろうとする。
「エエ。ちょッと」
 と、ニコヤカに制したのが、サルトル。
「エエ、つかぬことを伺いますが、いくらの値段で買いますか。四万石三千万円の割合はいかゞで。いけません。ハア。四万五千石三千万円。いゝ値ですな。ハア。いけませんか。五万石三千万円。これじゃア、元も子もない。ハア、これならよろしい?」
「よろしい」
 天草次郎は車中から怒り声をたゝきつけた。
「ヘエ。まいど、アリ」
 サルトルはニコヤカに見送った。

   その八 サルトルと才蔵同盟のこと

「青二才に値切り倒されて、ふざけるな。貴様ア、それでいいつもりなら、オレに顔の立つようにやってみろ。顔をつぶしやがったら、そのまゝじゃアおかねえぞ」
「ヘエ。顔でざんすか。これは、どうも、いけねえな。顔はつぶれるかも知れませんねえ」
 サルトルはクスリと大胆不敵な笑みをうかべて、まぶしそうに長範社長を見つめた。
「ショウバイはすべからく金銭の問題で、顔なんざ二ツ三ツつぶしておいた方が気楽なんだがなア。もうけりゃ、いゝじゃありませんか」
「よろし。その言葉を忘れるな。顔の立つだけ、もうけてこい」
「ヘエ。もうけてきやす」
 サルトルはニコヤカに一礼する。自信満々たる様子。不可測の才略は長範もよく心得ているから、奴めがあゝ言うからは委せておいて不安はなかろう。内々ホッと一息。
 その場には敵方の雲隠才蔵も居合わすことだから、余計なことは云わない方がよい。一同は底倉へ帰る。ひとり敵の手中に取りのこされた才蔵は、味方の奴らが恨めしく、くやしくて堪らない。
「なア、おい。ウチの社長もアンマリじゃないか。オレだけ、ひとりぽっち箱根へおいてかれちゃ、骨ばなれンなっちまわア」
 いっしょに箱根東京間トラックにゆられた仲だから、こうサルトルに訴えたが、ニコヤカに笑みをふくむだけで、とりあわない。
「チェッ。いゝ若いものが、御忠勤づらしてやがら」
 才蔵めヤキモチをやいて、ふてくされ、仕方なしに、ひとり明暗荘へ。石川組はタチバナ屋へとひきとった。
 カンシャクもちの長範は才蔵の姿の消えるまでがもどかしく、しかし親分の貫禄で、はやる胸をグッとおさえて一風呂あびてくる心労のほどは小人物にはわからない。
「サルトル。キサマ、さっき大きなことを云ったが、オレの欲しいのは材木の売ったり買ったりじゃアないぞ。売ったり買ったりぐらいなら、マーケットのアロハでもできるんだ。手金だけ、もらってこい。それがオレのビジネスだ」
「へえ。アタシはハナから材木なんぞ扱いませんので。材木の話をいたしましたのは、あの場の顔つなぎだけのことで」
 サルトルは涼しいものである。ツと立って、長範の耳に口をよせて、何事かボシャ/\/\とさゝやく。
「ふうむ。ふてえ奴だ」
「いえ」
 サルトルはニコヤカに笑みをたたえているだけである。いかなる秘計をうちあけたか、わからない。
 日の暮方、サルトルは雲隠才蔵をよびだして、
「雲さんや。主人持ちは、つらいねえ。どうだい。一旗あげたいと思わないか」
「チェッ。おだてるない。お前みたいな忠勤ヅラはアイソがつきてるんだ。今さら、つきあえるかい」
「そこが主人持ちのあさましいところだよ。オヌシもポツネンと山奥の宿へおいてけぼりで、なんとなくパッとしないな」
「胸に一物あってのことよ。忠勤ヅラは見ていられねえや」
「さあ。そこだよ。どうだい、兄弟。ここんところで、石川組と天草商事を手玉にとってみようじゃないか」
「兄弟だって云やがらア。薄気味のわるい野郎じゃないか」
「アッハッハ。ノガミの浮浪者が、こんな出会いで集団強盗をくみやがるのさ。しかし、河内山こうちやまもこんなものだろうよ。ところが、アタシの考えは、もっと大きい」
 サルトルは才蔵の耳に口をあてゝ、ボシャ/\/\とさゝやいた。
「どうだい。ちょッとシャレていると思わないかい。雲さんや」
「よせやい。箱根で雲さんなんて、雲助みたいで、よくねえや」
「このあとには、オマケの余興があるのだよ。正宗菊松をオトリに、マニ教をたぶらかす手がある。お金をほしがる亡者ほど、お金をせしめ易いものだな。これが金の報いだな」
「石川長範はウスノロかも知れないが、天草次郎は一筋縄じゃいかねえや」
「ハハハア」
 サルトルはアゴをなでて笑っている。
 雲隠才蔵も考えた。たしかにサルトルはたゞ者ではない。天草次郎は冷血ムザン、腹にすえかねた仕打ちをうけたのは今度に限ったことではない。ムホン気は充分そだっているけれども、敵は名だたる今様妖術使いで、残念ながら歯が立たない。つらつら打ち見たところ、サルトルは胆略そなわり、慈愛もあり、底の知れないところがある。おまけにウスノロのところもあるから、利用するだけ利用して、まんまとせしめてやるのも面白かろう。だましてやるには手ごろの勇み肌のニューフェースなのである。才蔵はこう肚をきめて、
「じゃア、それで、いってみようじゃないか。オレは退屈しているんだ」
「明日、むかえにくるぜ」
 サルトルは一万円の札束を無造作につかみだして握らせて、
「悪い病気をもらうなよ」
 と、ニコヤカに行ってしまった。
 翌朝、才蔵をむかえにきて長範の前へつれて行った。
「エ、才蔵をつれて参りやした。見かけはチンピラでざんすが、ちょッとまア愛嬌もあって、小才もきくようでござんす。目をかけていたゞきとうざんす」
 長範はゴリラの熊蔵と将棋をさしていた。
「才蔵いくつになる」
「へえ。サルトルと同じ二十五で」
「キサマ、戦争に行ってきたか」
「エ、北支に一年おりました。鉄砲は一発もうちませんが、豚のマルヤキを三度手がけましたんで」
「キサマ、コックか」
「いえ。なんでもやりますんで。主計をやっておりましたが、クツ下、カンヅメ、石ケン、タオル、これを中国人にワタシが売ります。密売じゃないんでして、ええ、軍の代表なんで。中国人相手のセリ売りにかけてはワタシの右にでる日本人はございません。へえ」
「ペラペラと喋る奴だ。キサマ、ヘソに風がぬけてるのと違うか。石川組は男の働くところだぞ。力をためしてやる。腕相撲をやるから、かかってこい」
「それはいけません。ワタシは頭で働きますんで」
「生意気云うな。人間は智勇兼備でなければならんぞ。キサマらは民主主義をはきちがえとる。平和こそ力の時代である。法隆寺を見よ。奈良の大仏を見よ。あれぞ平和の産物である。雄大にして百万の労力がこもっとる。石川組は平和のシンボルをつくることを使命とするぞ。心身ともに筋金の通らん奴は平和日本の害虫であるぞ」
「エエ、適材適所と申しまして、害虫も使いようでざんす」
 とサルトルがとりなした。
「アタシが使いこなしまして、石川組の人間に仕立てやすから、今後よろしゅうおたのみします。雲さんや。社長があゝ云って下さるのも、オヌシに目をかけて下さるからだよ。お礼を申しあげて、仕事に精をだしな」
 そこで才蔵は長範から盃をいたゞいて石川組の人間ということになった。
「ではアタシは才蔵をつれて天草商事へ行ってきやす。ちょッと自動車をお借り致しやす」
 と、二人は社長の車で東京をさして出発した。

   その九 サルトル雄弁をふるうこと

 天草商事の社長室へ通される。チンピラ重役三人組の前へすゝみでたサルトルは、まずニコヤカにモミ手をしながら、
「エエ、昨日はたいへん失礼。本日はまた、うるわしいゴキゲンで何よりでざんす。つきましては、一言お詫びを申上げなければなりませんが、実は、雲さんを無断でお借り致しました一件で。これにつきましては深い事情もありますが、おいおいと話のうちに説明を加えることに致しまして、お許しも得ず東京へ連れだしましたことを幾重にもお詫び申上げやす」
 相手がいかほど仏頂ヅラをしかめていても、常にサルトルは余念もなくニコヤカなものである。
「材木の話でざんすが、社長から話のありましたように、進駐軍向けとか、河川風水害防止愛国工事とか唄いやしてタダのようにまきあげて運びだしてやすから、昨日のお値段の半分に値切られましてもアタクシ共は結構もうかっておりやす。そちら様も大もうけは疑いなしでざんすな。しかし本日アタシが伺いました用件は材木ではございません。雲さんや。ちょッと、こっちへ出なさい」
 サルトルははにかむ花聟をおしだすように才蔵の手をとって前の方へひいてくる。
「アタシもかねて感ずるところがありまして、男子二十五歳は坂本龍馬晩年の年齢でござんす。天草さんの御先祖は十六歳の御活躍でござんす。アア一本立ちがしてみたい、とアタシも人並みに風雲録を夢みておりましたが、昨夜はからずも雲さんとジッコンに願いまして、さとるところがありましたな」
 悠々ニコヤカなものである。雲さんの肩をいたわるようにさすりながら、落ちつきはらった物腰、ほれぼれするほど人ざわりがよい。
「御案内の通り社長はマニ教に凝っとりやすので、箱根に出むいた折はアタシが代理で現場を見廻っとります。風流気はありませんが、根が酔狂の生れつきで、アタシはヒッソリカンとした森林をぶらつくのがホカホカと好ろしき心持でざんすな。とある一日、木の根ッ子をえぐった穴がくずれて何やらチラと見えるものがござんす。なんとなく掘ってみると、石油カンに黒色の泥がつめこんであるのでざんすな。六ツずつ二段重ねに、十二個のカンがござんす。アタシが華中の特務機関におりましたので、ジッと見つめるうちに正体を突きとめやしたが、ちょッと失礼さん」
 サルトルはいともインギンにモミ手をして、秘書嬢の退席をもとめた。それからツと三人の方に進みでて口に屏風をたて、
「オ・ピ・オ・ム。ア・ヘ・ン」
 片目をつぶってニッコリ笑った。
「おどろきましたな。あの時はね。アタシはていねいに土をかぶせて、木の根を掘った穴ボコもあらかたうずめて口をぬぐって来ましたが、実はな、念のため、後日他の場所に埋めかえて、この秘密はアタシひとりの胸にたゝんでござんす。調査して分りやしたが、戦時中、富士山麓にアヘン密造工場があって、新兵器第何号とやら称して中国へ積みだしていたのですな」
 織田光秀と白河半平がクスリと苦笑をうかべたようだが、サルトルはひるむどころか、明るい笑みにうちかがやくばかりであった。
「この胸に開運のお守りがあるんですな。春きたらば、花さかん。ジッとだきしめている気持。一カン十五キロほどと見ましたが、〆めて二百キロ足らず捨て値で売りとばしてもザッと二千万。税金がかゝらないから悪くない商売。昨夜雲さんとジッコンに願いまして、天草商事さんは聞きしにまさるヤミ商事。このへんに春のキザシが忍んでいると見ましたな。北方に高気圧がある。天気予報でござんす。雲さんを男と見こんで胸の秘密をうちあけました。石川組の材木は世を忍ぶ仮の用件、裏を申せばザッとこんなところでざんすな」
 悠々一席弁じおわって笑みは輝きを増し、あたりを払う。
 雲さんはションボリと浮かぬ顔。
「雲さん、雲さんて、心やすく云うない。実物を見てるワケじゃアねえんだから、サルトルを信用してるワケじゃアないけれど、富士山麓にアヘンの秘密工場があったこと、終戦のドサクサに多量のアヘンが姿を消して勝手に処分されたこと、一部分があの山林に埋められたという噂があるのはホントでさア。終戦後一年二年のあいだ、むかし工場にいたらしい人物が時々人目を忍んで捜査にきて、みんな手ブラで帰ったと女中なんかも噂しているからさ。噂だけはあるんだよ。だから実物を見せてもらえば分るだろう」
「なぜキミ見せてもらわなかったの」
「人が見たら蛙になれ。タダで見るわけには参りません」
 サルトルは落ちつきはらって半平を制した。
「取りひきのギリギリ最後の時まで秘密の場所はあかされません。おわかりでしょうな。取引高が拝観料というワケですよ。ほかに論議の余地はない」
 ニコヤカにして決然。リンリンと威力がこもっている。言われてみればその通り。ウカツに見せられぬ道理である。
「フウム、事実としてみれば、これはいさゝかスリルある取引きではあるね」
 と半平は腕をくんで、ニヤニヤとサルトルを見つめた。常にニコヤカであること、サルトルに劣る半平ではなかった。
「これは、いさゝか、犯罪的、ギャング的ですね。リンドバーグの子供をさらって、ひきかえにお金をもってらッしゃいと言うでしょう。それと似ていますね」
「そうなりますかなア」
「そうなるんですよ。アハハ。あなたはギャングじゃないけれど、お金と物品とひきかえる手段において、同一の手口以外の方法がないワケでしょう」
「なるほど」
「いわばボクたちはサルトルさんの強迫状をうけとって、アハハ、いわばですよ。悪くとらないで下さいね。指定の日時に指定の場所へお金を持ってくワケでしょう」
「これは恐れいりましたな。では、こう致しましょう。指定の日時は天草商事さんに一任いたしやすから、お好きの時日に突如としてお越しになっては。アタシの方はアタシひとりの都合ですから、いつでも都合がつけられます。これならば御満足と存じますが」
「ハハア。なるほど。ボクの方から突如として押しかけるか」
「さよう。何百人でいらしてもよろしい。アタシは常に一人でざんす。一人でなくてはアタシの方は不都合ですからな。アタシは天草商事さんを信用致すワケではございませんが、運命を信じております。アヘンのカンとひきかえにアタシのナキガラが穴ボコへ埋められても仕方がない。かくなる上は運命でござんす。アタシひとりの生涯に春はとざされているか、風雲録は一か八かでござんすな。アタシは誰もうらみません。また必要以上の要心もいたしません」
「えらい!」
 半平はパチパチ拍手を送った。
「実にえらいね。サルトルさんは。大丈夫はそれでなくてはいけませんねえ。ボクにはとても出来ないね。人を見たら泥棒と思うからね」
 こう半平にひやかされてもサルトルは感じがない。あべこべに満足してニコヤカにうちうなずき、得々とモミ手をしている。
「なんでしたら、アタシの身辺に雲さんでも、ほかの方でもかまいませんが、目附の方をつけておけば御安心ですな。お好きの時日に急襲あそばす。アタシの素振りにヘンテコなところがあれば、ハハア奴め何か企んでるな、とわかる」
「益々えらい! アッパレなスポーツマンシップだなア。握手しましょう」
 半平にさそわれてサルトルはいそいそと握手に応じる。
「交換の場所はどこさ」
 光秀がきいた。
「現場ですな」
 ニッコリうなずいてサルトルは答えた。
「うちあけて申せば、天草商事さんに買っていたゞきたいという山林の中の一地点です。これだけは教えてあげても大丈夫。ザッと六七百万坪のうちの半坪の地点にありますな。そこで問題は人目をさける方法ですが、アタシ個人の取引ですから、石川組の目をだます必要があります。しかし、石川組にさとられずに現場へ行きつくことはできません。後日に至ってアタシが皆さんを案内したということは必ず知れるに相違ない」
 サルトルは難解の謎々を出題したように楽しがって一同の顔を見廻した。
「いえ、タネも仕掛も至ってカンタンでざんす。材木を買うにつき再調査に見えたとふれこめばよろしい。あの現場ではアタシが社長代理で見廻る例でざんすから、お客さんを案内するのもアタシの役目のうちでござんす。皆さんはトラックをのりつける。アヘンのカンをトラックにつんで、その上に材木を乗っけて戻れば東海道はOKですな」
「いくらなの」
 光秀の声はつめたい。
「二千万」
「お前さん、正気かい。二千万の現金といえばダットサン一山だぜ。こっちから持ってくぐらいのことはオレたちワケなくやってみせるが、お前さんがそれを一人で受け取って処分がつくかい」
「それは、もう、実に、いとも、カンタンに」
 と、サルトルは我が意を得たりとうれしがってモミ手をした。
「御配慮かたじけないところですが、御心配無用。ぜひとも早くそれを持たせてみてごらん下さい。ものの小一時間とたたないうちに、ちゃアんと姿が消えてしまいます。すなわち、これを他のカンにつめて地中の一点に埋めてもよろしい。秘中の秘。アッハッハア」
 サルトルの哄笑は満堂を圧するものがあった。光秀も半平もさすがに声をのんでいる。すると天草次郎が小さな身体をグイとねじって、カミソリのような声をあびせた。
「箱根くんだりへ一山の金をつんで御足労な。アヘンがあるなら、持ってこい。買ってやるから。一山でも、一包みでも、持ってきたら、買ってやらア。才蔵め、ドジな取引に首を突っこみやがる。もう一っぺん、箱根へ戻れ」
「まアさ。そう云うもんじゃないですよ。じゃア、ちょッと、サルトルさん。あなた別室で待ってらッしゃい。社長は短気だからね。気持をなだめて、あなたの顔も立つように話してあげるからね」
 と、半平がとりなして、サルトルを別室へひきとらせた。

   その十 美女のスパイが恋の虜となること

「ともかく雲さんの話をきこうじゃありませんか。アハハ。雲さんときやがら。箱根の雲さん」
「やい。よせやい」
「怒るなよ。酒手をだすから。ともかく、雲さんの話をきいて、考えてみましょうよ。敵の話がホントなら耳よりの取引だからね。雲さんは彼氏が信用できるかい」
「そんなこと知らねえや。ホントなら耳よりの話だから持ってきたゞけじゃないか」
「しかし、ホントらしいヨリドコロがなくて持ってきたら、無思慮じゃないかい」
「ヨリドコロはさッき言ったじゃないか。アヘンがうめられていることはホントらしい噂があるのさ。サルトルは曲者だけど、とにかく、一人でやってる仕事だからな。嘘なら一人じゃやれねえや。この取引にしくじると、石川組もしくじるし、石川組のことだからアヘンもまきあげられて、イノチだって危いかも知れねえや。それを覚悟で、たった一人でやってやがる仕事だから、嘘じゃアなかろうと思われるフシがあるじゃないか」
「なるほどね」
 半平は腕をくんだ。
 天草商事は第三国人と大がかりな密貿易をやっていた。その本拠は小田原界隈のさる由緒ある邸宅内にあったから、地理的には甚だ便利な取引なのである。
「ホントなら話が大きいぜ。それに相手が一人だから、秘密保持の上にも、取引としてはこの上もなく安全だね。ボクが思うには、ここは、ひとつ、スパイを使ってみようよ」
「スパイたって、スパイの使いようがないじゃないか。相手が一人で、おまけにノコノコこっちへ出むいているんじゃないか」
「だからさ。だからだよ」
 半平は痩せっぽちの肩をいからせて、うれしそうに笑った。
「今夜、社の寮で、サルトル氏の歓迎会をひらくんだよ。酔わせておいて泊らせて、よりぬきの美女を介抱役につけるんだよ。惚れたと見せて安心させて、秘密をさぐるんだね」
「酔わなかったら、こまるじゃないか」
「催眠薬かなんかブッこんで痺れさしちゃえばワケないよ」
「誰をスパイにつけるんだい」
「近藤ツル子」
 半平は腕をくみ、グイと胸をそらして、ニコヤカに叫んだ。アッと声はださないけれども、一同の顔付が改まったが、わけても雲隠才蔵が目玉を光らせた。
 近藤ツル子、マニ教の巻では正宗ツル子、半平の妹役をつとめた娘。
 この社きっての楚々たる美女で、心は気高く、頭もよい。社員ひとしく心をうごかしているうちに、わけても半平と才蔵が御執心なのである。
 戦後派の面々は思い患うような手間のかかったことはしない。友達の思惑に気兼ねをするようなヒネクレたところも持合わせがない。
 手ッとり早く談じこんで、結婚しましょうよとか、旅行しましょうよと持ちかけたが、二人ながら落第。しかし二度三度の落第で屈するようでは戦後派の名折れなのである。不撓不屈、ヒマあるごとに口説くことを忘れたことがない。
 ひとたび近藤ツル子の名がでると、半平と才蔵はにわかに不倶戴天の恨みを結ぶ間柄であった。半平がスパイの名に近藤ツル子をあげたから、驚いたのは一同、わけても才蔵である。半平の腹がよめない。奴め何事をたくらんでいるか。まさかツル子と言い交したわけではないだろう。だが待てよ。しばし箱根くんだりに島流しになっているうちに、などと黒雲のように疑念がわきたつ始末。
 しかし半平はニヤリ/\と涼しい顔。
「元来スパイというものは、美しいこと、顔のよいことが条件だからね。もっともツルちゃんは楚々たる美少女だから、肉感的なマタ・ハリ的エロチシズムには欠けるけれども、優秀なる頭脳と高邁な気品でおぎなうから効果は百パーセントだね。ボクがムネを含めてスパイの心得を与えるから間違いはないよ。彼女はあれで旺盛な冒険心があるから、飛燕の如く巧妙に身をかわしながら要処々々をつかんでくれるね」
 と目尻をさげて悦に入っている。
「一夜に探れなかったら、どうなるんだ」
「場合によっては、三日でも一週間でも、サルトル氏とともに箱根へやってもいいと思うよ」
「フン、そうかい。サルトル氏の毒牙にかかってもいゝわけか」
 こう光秀にチクリとやられて、半平もちょッと苦しげに唇をかんだが、思い直して平然たる笑顔にかえった。
「ビジネスだよ。ボクにとっても、また、彼女にとっても。彼女がビジネスをいかに解するかの問題によって解決するね。彼女はたぶん身をまもることを知っているし、同時にビジネスをまっとうすることも知っているね。なぜなら彼女はボクと同じぐらい頭脳優秀だからさ」
「チェッ。よしやがれ。オレは反対だい」
 と才蔵が叫んだ。
「スパイなんてのはスレッカラシのやることだい。ツルちゃんが頭脳優秀だって、惚れたフリだの、そんなことができるもんか。商売女と違うんだ」
「できますとも。雲さんよ」
 と、半平は平然たるもの。
「由来女というものは魔物なんだよ。いかに楚々たる処女といえども、生れながらにして性愛の技術を心得ているものさ。嘘と思ったら八ツぐらいの小学一年生を一週間観察してごらんなさい。男の子はてんでギゴチないけど、女は天性の社交術と自然の媚態を与えられていることが分るからさ。雲さんも恋に盲いてビジネスを忘れてはいけないね。また、恋人をいたわることは、恋人を信頼することよりも劣っているのだよ」
「チェッ。半可通をふりまわして、あとで目の玉をまわしたって追っつかねえや」
 しかし才蔵はまだ一方の心にシメシメ、ツルちゃんがサルトルと箱根へ行くことになったら、その時こそオレがうまくモノにしてやろうとほくそえんでいる。
 そこで半平はツル子をよんで、事情をよく説明してきかせた。
「いゝかい。ツルちゃん。わかったね。恋人のように、また妹のように、つまり一言にして云えば親友のように、だね。心から打ちとけて、やさしく、あたたかくサルトル氏をもてなしてあげるのだね。功を急いではいけないよ。なるべく自然に話が急所にふれるのを待つのがいゝが、あるいはその時の状況によって、キミがきりだしてもいゝね。アヘンを山奥に隠して取引するなんて冒険でいゝわね、なんてね。映画のようね、などと言うのも自然かも知れないよ」
 と、半平のコーチは懇切をきわめている。半平の話をきくだけきゝ終ると、ツル子は首をふって、
「ダメよ。とても一人じゃできないわ。じゃア、ノブちゃんと二人で」
「いけないよ。二人組のスパイなんて、おかしくって。スパイは一人に限るものさ。女が二人で組んでごらん。たちまち見破られるにきまってらア。第一、友達が居てくれると思う安心が、すでに心のユルミで、スパイとしては失格なんだよ。人の秘密をきゝだすことは遊びじゃないよ。ねえ、わかるでしょう。二人で組むのは遊びですよ。いまツルちゃんに頼んでいるのは、もっと厳粛な人生ですよ。ビジネスだよ。処女の羞いやタシナミをある点まで犠牲にすることを要求された社命の仕事なんだよ。ツルちゃん以外にはやれない難物の仕事なんだよ。だから、覚悟をきめて、やってくれたまえね」
 水際立った説得ぶり。恋の口説に限って、こういかないのが残念である。
 虫も殺さぬ顔立だが、根は冒険心旺盛なるツル子、こう言われて、それではということになった。
 サルトルを寮へ招待する。寮といっても、誰が住むわけでもない。富豪の邸宅を買いとって、秘密の接待に使用するだけの隠れ家である。
 主人側は重役三羽烏に才蔵とツル子。
 その他選りぬきの婦人社員大勢。団子山という相撲上りの大男がネジ鉢巻で料理をつくっている。
 ムリにもサルトルを酔いつぶそうというのだから、ジンだ、アブサンだ、沖縄産アワモリだと強烈なアルコールを用意する。接待係りの婦人社員連、本当の目当は知らないが、サルトルを酔いつぶす目標だけは教えられて知っている。
 団子山がダイコンおろしで白い物をすっていたが、なめてみて、
「アッ、いけねえ。ベッ、ベッ、ベッ」
「アラ、どうしたの」
「どうもこうもあるもんか。こんな小便くさい催眠薬があるもんか」
「これ、催眠薬なの」
「アドルムてんだよ。ちかごろ文士が中毒を起していやがる奴よ。よッぽどヒデエ薬らしいが、こんなクサイ薬をのむとは文士てえ奴は物の味のわからねえ野郎どもだ。これじゃアカクテルへ入れて飲ませたって、わかっちまわア。ほかの催眠薬を買ってきなよ」
 と、薬屋へ駈けつけるやら、楽屋裏では上を下への騒ぎをしている。
 ところがサルトル氏、ジン、よしきた。アブサン、OK。左右からひきもきらず差しつけるグラスを一つあまさずニコヤカにひきうける。乾杯。ハイ、よろし。渋滞したことがない。それでいて、いさゝかも酔わない。
 悠々山の如く、川の如く、ひしめく敵方の男女十余名にとりまかれ攻めたてられて、ニコヤカにして礼を失せず、冷静にして爽やかな応答、ウィット、たくまず、また程のよさ。
 天草商事名うての智将連も、彼の前では格の違った小才子にしか見えない。
 しかし団子山苦心のカクテル功を奏して、さすがのサルトルも酩酊し、目をシバタタイているうちに、ゴロリと酒席にひっくりかえって寝てしまった。一同シッと目と目に合図、足音をころしてひきあげる。ひとり残されたツル子、ああ何たる立派な殿方であろうと熱い思いが胸に宿ってしまったが、天草商事の智将連、そんなことゝは露知りません。

   その十一 敵か味方かゴチャ/\のこと

 あけがたブルブルッと寒気にふるえて、ふと目をさましたサルトル、じかにタタミへ寝ているので、全身石のように冷く、しびれている。しかし胸にはやわらかな羽根ブトンがかかっているから、
「ハテナ」
 おどろいて身を起すと、落花狼藉、酸鼻の極、目も当てられない光景である。接待係がにわか仕立ての婦人社員であるから、後をも見ずに引きあげてしまう。食べちらした皿小鉢、林立する徳利、枕を並べて討死しているビールビン、酒もこぼれているし、魚がタタミの上に溺死している。
 万物死滅して泣く虫すらもない戦いの跡、ところが斜陽をうけてスックと化石している娘の姿があるから、サルトルがおどろいた。言わずと知れた近藤ツル子。
 ビジネスとあればスパイを辞さぬツル子であったが、あいにくのことに翼の生えたイタズラッ子が胸に弓の矢を射こんでしまったから仕方がない。挙止まことに不自由をきわめてサルトルが目覚めた気配にサッと緊張する。スパイともなれば、こゝでニッコリ笑みをうかべて、おめざめですか、と紅唇をひらくところであるが、全身コチコチに石と化して呼吸困難、言葉の通路はとッくに立ちふさがれている。
 視線を動かすこともできない。正面を睨みつけて息をのんでいるから、サルトルは恐縮した。なにか御無礼をはたらいて、可憐な麗人を怒らせてしまったらしいナ、と冷汗をかいた。
「ヤ。どうも、これは相すみません」
 とび起きて、タタミに両手をついて、平あやまりにあやまる。これだから、酔っ払いは都合がわるい。何をしたか覚えがないから、ヤミクモにあやまる一手。
「昨夜は意外のオモテナシにあずかり、例になくメイテイいたしまして、まことに不覚のいたり。はからずも粗相をはたらきましてザンキにたえません。ひらにゴカンベンねがいます」
 額をタタミにすりつけて、平伏する。米つきバッタと思えば先様もカンベンしてくれるだろうという料簡である。
 サルトルがここをセンドとあやまるから、ツル子も化石状態がほぐれて、
「アラ、そんな。おあやまりになること、ないんですわ」
「ハ。イヤ。まことにザンキにたえません」
「なにをザンキしていらっしゃるんですか」
「まことに、どうも、シンラツなお言葉で。実は、なんにも記憶がありませんので、ザンキいたしております。以後心掛けを改めますから、なにとぞゴカンベン下さい」
「じゃア記憶のないときザンキにたえないことを時々なさるのね」
「まことに面目ありません。今後厳重に心を改めます」
「えゝ、改心なさらなければいけませんわ」
「ハア、御訓戒身にしみて忘れません」
 女というものはズウズウしいもので。化石したり、呼吸困難におちいっても、舌がまわりだしさえすればシャア/\と、ひやかしたり、だましたり、訓戒をたれたり、ユメ油断ができません。
「でも、あやまること、ありませんわ。私、接待の当番にあたって、これが社用ですから、あれぐらいのこと、我慢しなければいけませんのよ」
「あれぐらいッて、どんなことですか」
「昨夜のようなことですわ」
 と、はずかしがって、ボッと顔をあからめる。嘘をついたカドにより良心が咎めて顔をあからめるワケではない。
「失礼ですが、あなたは酒席のサービスが御専門で」
「マア、失礼な。婦人社員が順番に当るのよ。こうしなければクビですから、余儀なくやってることですわ」
「これはお見それ致しました。田舎者がとつぜん竜宮へまよいこんだようなもので、タエにして奇なる光景に目をうばわれて驚きのあまり申上げたゞけのことで、けっしてあなたの人格を傷けようとの下心ではございません」
「田舎者だなんて、ウソおっしゃい。諸所方々でザンキしていらっしゃるじゃありませんか。大方コルサコフ病でしょう」
「これは恐れいりました。しかしアタクシもまことに幸運にめぐまれました。選りに選って、あなたのように麗しく気高いお方の順番に当るなどとは身にあまる光栄で、一生の語り草であります」
「お上手、おっしゃるわね。でも、私だって、あなたの順番にまわって、うれしいわ。なぜって、ウチのお客様、たいがいイヤらしいヤミ屋ですもの」
 ここがビジネス。心にユトリをとりもどすと、フンゼン突撃を開始する。
「あなたのような方、ウチのお客様にはじめてですわ」
 フンゼン突撃はよかったが、真に迫るを通りこして、ビジネスだか本音だか国境不明で、突撃戦はたちまち混乱状態。ボッとあからみ、全身がほてるから、必死にこらえて、窮余の策。
「お酒、ちょうだい。あなたも、いかゞ。サカモリしましょうよ」
「あなた、お酒のむんですか」
「えゝ、のむわよ。一升ぐらい。でも、洋酒の方がいゝわね。ジンがいいわ」
 めたこともないくせに、大きなことを言いだした。
「そうですか。それほどの酒豪とあれば敢ておひきとめは致しませんが、人は見かけによらないものだ」
 そこでサカモリがはじまったが、ジンという酒はアブサンや火酒ウォツカにつぐ強い酒だが、アッサリした甘味があって、女の好きそうな香気がある。舌ざわりが悪くないから、つい油断して飲みやすい。
 ツル子はその時アルコールが唯一にして絶対の必需品であるから、味の悪くないのにまかせて、怖れるところなく、のみほす。怖れをなしたのはサルトルの方で、
「あなた、そんなに召しあがっていいのですか」
「ヘイチャラよ。こんなもの、一瓶や二瓶ぐらい。さア、飲みっこしましょうよ。私が一パイのんだら、あなた三バイ召しあがれ」
「ハア。アタクシは三バイでも五ハイでも飲みますが」
 サルトルはハラハラしているが、ツル子はそれが面白くて仕方がない。というのは、もうメイテイの証拠である。
「サルトルさん、箱根の裏山に阿片を埋めてらっしゃるって、ほんと?」
「これは驚きましたな。どうして、そんなことを御存知ですか」
「みなさん知ってますわよ。そんな話に驚いてたら、この会社に勤まらないわ。ウチじゃア、帝銀事件ぐらいじゃ、驚く人はあんまりいないわね。マル公で売ったり買ったりする話だと、おどろくわ」
「なるほど。聞きしにまさる新興財閥ですな」
「男の方って、羨しいわね。密林へ阿片を埋めたりなんかして、ギャング映画ね。サルトルさん、ギャングでしょう」
「これは恐れいりました。アタクシはシガないヤミ屋で、ギャングなどというレッキとしたものではございません」
「ウソついちゃ、いや。白状なさいな。私、そんな人、好きなのよ」
「これは、どうも、お目鏡にはずれまして、恐縮の至りです」
「そんなんじゃ、ダメよ。ウチの社長や専務たち、機関銃ぐらい忍ばせてくわよ。いゝんですか。サルトルさん」
「それは困りましたな。アタクシはもう根ッからの平和主義者で」
「ウソおっしゃい!」
「なぜでしょう」
「顔色ひとつ変らないじゃありませんか。雲隠さんぐらいのチンピラなら、機関銃ときいて、血相変えて跳び上るにきまってるわ。あなたは相当の曲者よ」
「それはまア機関銃にもいろいろとありまして、あなたのお言葉に現れた機関銃でしたら、雀も落ちませんし、アタクシも顔色を変えません」
「あなたは分って下さらないのね。ウチの社長や重役は、それはとても悪者なのよ。密林で取引してごらんなさい。殺されるのはサルトルさん、あなたよ」
「殺されるのは、いけませんな。これはどうも、こまったな」
「それごらんなさい。怖しいでしょう。ですから、本当のことを、おっしゃいな。サルトルさんも、大方、だますツモリでいらしたんでしょう。阿片なんか埋めてないんでしょう。おねがいですから、白状してよ。私が力になってあげますから」
「あなたのお力添えをいたゞくなどとは身にあまる果報ですが、残念ながらアタクシはシガないヤミ屋で、物を売ってお金をもうけるだけのヤボな男にすぎません。とても映画なみには出来ませんので」
「じゃア、阿片を売ったら、ずいぶん、もうかるでしょう」
「それはまア私の見込み通りの取引ができますなら、相当のモウケがあるはずですが、新興財閥はどちら様もガッチリ無類で、思うようにモウケさせてはいたゞけません」
「私がお役に立ってあげたら、あなたのところで私を使って下さる?」
「アタクシのところと申しましても、アタクシはシガないヤミ屋で」
「阿片を売って二千万もうかれば立派な会社がつくれるではありませんか」
「まさにその時こそはアタクシも一国一城のアルジですな。おっしゃるまでもなく、その時こそはサルトル商会の一つや二つひらきたいものです」
「すごいわね。私がお手伝いしてさしあげれば成功するかも知れないのよ。いゝえ、きっと成功するわ。ですから、サルトルさん、私を重役にしてちょうだいな。資本金二千万円か。財閥というワケにはいかないわね。でも重役なら悪くないな。平社員じゃイヤよ。私の力でかならず成功させてあげますから」
「これは有りがたきシアワセです。それはもう一国一城のアルジとなりました上は、重役はおろか、わが社の女神としておむかえし、犬馬の労をつくさせていたゞきます」
「あなたは冗談なのね。笑ってらっしゃるわね。どうしてマジメにきいて下さらないのよ。私、シンケンなんです。天草商事なんて、大キライ。こんなところに働くのはイヤなんです。私の言うことマジメにきいてちょうだい。そのかわり、私も本当のことを言いますわ」
 ツル子の顔から血の気がひいてしまった。まんざらジンのせいだけではないらしい。小娘にはスパイはつとまらない。
 ツル子の気魄はリンリンとたかまり、するどくサルトルを見つめて、
「私をたゞの接待係と思ったら、大マチガイよ。こんな広い邸内に、ただ一人、酔っ払いのソバに坐ってる接待係なんて、いやしないわ。わかったでしょう、サルトルさん。私、スパイなんです。本当にあなたが阿片もってらっしゃるかどうか、それを突きとめる使命をおびたスパイです」
 一気に告白してしまった。タヨリないスパイがあったもの。
 サルトルもこれにはドギモをぬかれた。アプレゲールの病状の一つに、自虐趣味、露悪症、告白狂等々、一連の中毒症状があるのである。
 サルトルに限って自虐趣味もないし、カストリ趣味もない。職業野球やタカラクジに亢奮する趣味もない。まことに無趣味な男で、アプレゲールの右翼である。
 特攻隊的暴露症には縁がないから、その凄みにはタジタジ。
「スパイとおっしゃると、つまり、間者かんじゃですな」
 などと、てれかくしに古風な言葉に英文和訳したが、このへんが渉外部長のあさましいところ。しかし怨みをふくんでランランたるツル子の瞳を見ると、ノンキに英文和訳などしている時ではないことが分った。
 ジンの魔力によるせいでもあるが、一気にすべてを押しきった告白。清浄な処女性が透明な水滴となって怨みの上に怒りの涙をむすんでいる。アプレゲールの中毒的告白慢性症とちがって、品格がこもり、情熱と香気がみなぎっている。無趣味のサルトルも、気品に打たれてブルブルッとふるえた。
 その一瞬にツル子の美しさ気高さが骨身にしみこんだというから、見かけによらぬオメデタイ男で、実にもうダラシなく感動してしまった。
「そうですか。あなたがそこまで打ちあけて下さる上は、アタクシも何を隠しましょう。御明察の通り、阿片などは富士山から箱根山をみんなヒックリかえしても、一グラムも出てきません」
「アラ、そんなこと、なんでもないわ。天草商事なんて悪徳会社はウンとだましてお金をまきあげてやるがいゝわ。とても悪漢よ、この会社は。私がお手伝いして二千万円まきあげてやるわ」
 どっちが悪漢だか分らない。ひどいことになるもので、恋人のなすことは万事に超えて崇高無比に見えるのだから始末がわるい。
 サルトルは感謝感激、夢心持ごこち、ここで二人の心は寄りそったが、ちょうど夜が白々とあけたから、ツル子は別荘番のオバサンの部屋へ寝床をしいてもらって、ねむる。サルトルも改めて一とねむり。
 目をさまして、ツル子は出社し、重役三羽烏に報告する。
「フウン、そうかい。じゃア、やっぱり、本当の話かな。だけど、どうして本当らしいと分ったの。サルトルの奴、ツルちゃんに惚れちゃったんだね。手を握ったの?」
 半平は内心おだやかでないから、根ぼり葉ぼりききたゞす。
「アラ、そんなこと、なさらないわ」
「じゃア、どうしたのさ。どうかしなければ、判断のしようがないもの、そこをハッキリ云って下さいよ。ねえ、ツルちゃん」
「どんなことって、言葉だけではハッキリわかるはずありませんわ。でも、私には埋めた阿片見せて下さるって仰有ったわ。私、箱根へ行って、見てきます」
「なるほど。しかしツルちゃん、あなた阿片見たことあるの」
「いゝえ」
「それじゃア、なんにもならないや。誰か阿片の識別できる人を連れてくように頼んでくれなくちゃア」
「あからさまに、そうは言えないわ。サルトルさんは、私が好奇心で見たがってると思ってらっしゃるでしょう。識別なんてことを云えば、見破られてしまうわ」
「なるほど。そうだな」
「雲隠さんでしたら、今までの行きがかりで、変じゃないから、一しょに見せて下さるように頼んであげていゝと思うわ」
「それだ。それに限るが、雲さんや。キミ、阿片見たことある?」
「見たことあるかッて、バカにするない。雲隠大人エンインダーレンといえば、中国じゃア鳴らした顔だい。阿片ぐらい知らなくって、どうするものか。黒砂糖みたいなもんだよ」
「フン、そうかい。こいつは都合がいゝや。じゃア、ツルちゃん、サルトルをうまくまるめて、二人で見とどけて下さいね」
 ツル子の思う通りになった。
 才蔵はツル子の本心を知らないから、シメシメ、万事思う通りになった、箱根でツル子をわがモノにしようと、これも内々ほくそえんでいる。
 ツル子はサルトルに逐一報告して、計画をねった。
「雲隠さんを信用しちゃ、いけなくってよ。とても腹黒い人だから。才気にうぬぼれているから、だまして使えば、調法かも知れないわ」
 ずいぶん人の悪い観察をする。これでは雲さんもやりきれない。
「私、おねがいがあるのよ。箱根へ行ったら助けていたゞきたい人があるの。今マニ教にカンキンされているんですけど」
「ハヽア。なるほど。寝小便の重役ですな」
「えゝ、そうよ。でも重役というのは、ウソなのよ」
 ツル子は正宗菊松を重役に仕立てゝ、マニ妙光様の生態を撮影したカラクリを説明した。たとえ三日の間でも、お父さんとよんだ寝小便じいさんを、魂をぬかれッ放しにカンキンしておく無慙さには堪えられない。
「天草商事のチンピラときたら、それはとても残酷な悪漢なのよ。あれほど利用しておきながら、助けてあげる計画などは相談したこともないのよ」
「なるほど。きけばきくほど、骨の髄からの新興財閥ですな」
「あんな悪者たち、いけないわ。私たちは善人だけの会社をつくりましょうよ。そして、正宗さんを本当の重役にしてあげましょうよ。心の正しい、お人好しなのよ」
「しかし我々の計画は善良なものではありませんな」
「そんなことなくってよ。はじめてお金をもうける時は、どんなことをしてもいゝのよ。お金ができてから、紳士になるのよ。それが当然なのよ」
 ひどい当然があったもの。しかし、これが、案外、当今の真理かも知れない。

   その十二 正宗菊松神様となること

 サルトル、才蔵、ツル子の三名は箱根へついた。
 サルトルは石川長範に報告して、
「イヤ、どうも。敵もさるもの。一筋縄では手に負えぬ曲者です。アタクシも社長に広言をはいた手前がありますから、かくなる上は討死の覚悟で一戦を交えることに致します。いさゝか戦闘は長びきますが、当分の間、アタクシをこの仕事に専念させていたゞきたいので、一向に華々しい戦果もあげえず、ムダに時間のみ費して恐縮ですが、アタクシも後へひくわけには参りません。戦果なき時は、いさぎよく責任をとりますから、ここはアタクシに一任していたゞきたく存じます」
「よろしい。キサマを見込んで一任するが、立派にやってみい。オレは東京へひきあげるから、後はまかせる。しかしキサマ、すごい美形をつれてきたそうだな」
「ハア。あれなる美形は敵の間者で」
「間者?」
「シッ。声が高い。アタクシの眼力に狂いはありません。敵の策にのると見せて、当地へつれて参りましたが、間者というものは、これを見破っている限り、これぐらい調法な通信機関はありませんな。こちらで、こう敵方へ知らせたいと思うことを、ちゃんと敵方へ報告してくれます」
「ミイラとりがミイラになるなよ。キサマの相には、女に甘いところがある。見るに堪えないところがあるぞ」
「ハハッ。相すみません。充分自戒しておりますから、御安心のほどを」
 そこで石川長範は愛妾とゴリラをつれて帰京してしまった。
 サルトルはツル子への約束、正宗菊松を助けてやりたいと思うから、マニ教の神殿へ偵察におもむいた。
 石川組の社長の片腕であるから、神様も粗略には扱わない。内務大臣が自室へ招じ入れて、
「ナニ、正宗のことについて、話があるとな」
「ハッ。実は社長に後事を託されまして、命によって伺いましたが、天草商事も左前の様子で、身代金がととのわず、社長も間に立って困却しております」
「イヤ、それはイカン。身代金というものは神示によって告げられたもので、神の御心である。神の御心であるから、俗界と違って、ビタ一文、まけるわけには参らぬ。左様な不敬は相成らぬぞ」
「それはもう重々心得ておりますが、俗に無い袖はふれぬ、と申しまして、神界と俗界の結びつきは、まことに、むつかしゅうございますな」
「しかし正宗には当方も困却しているぞ。匆々に身代金をたずさえて引きとってくれなければ、当方も迷惑である」
「ハハア。例の寝小便ですな」
「イヤ、そのような生易しいものではない。正宗が神の術を使いよるので、こまる」
「神の術と申しますと?」
「魂を抜きよるので困っておる」
「なるほど。魂がモヌケのカラというわけですな。抜いてやりたくても、アトがないというわけで。なるほど、神様もお困りでしょう」
「そうではないぞ。正宗が人の魂をぬきよるのじゃ。若い者も、ミコも、みんな抜かれよる。よう抜かれるので、気味がわるい。参籠の信徒も抜かれる。神様の魂もぬいてくれるぞと喚きおってダダをこねよるから、これには閉口いたしておる」
 サルトルがおどろいたのはムリがない。
 内務大臣は眉間に憂いをたたえて、心の晴れない様子である。
「奇妙なことがあるものですな。神様の術を盗みましたかな」
「あるいは神様の分身であるかも知れぬが、荒ぶる神で、和魂ニギミタマというものが生じていないから、扱いに困却いたしておる」
「和魂を生じますと、ノレンをわけるというわけで」
「それはその時のことであるが、信徒の病気もよう治しよるので、ウチのミコも若い者も信徒も、一様に正宗を信仰しよるので困っておる」
「病気も治しますか」
「人の病気はよう治しよる。自分の寝小便は治しよらんから不思議であるな。あんまり術がよう利きよるので、薄気味わるうて、かなわんわ。お前の方で尽力して、匆々正宗をひきとるようにしてくれぬと、マニ教の統率が乱れて、まことに迷惑千万である」
「それはお困りのことゝ拝察いたしますが、それでは匆々に追放あそばしてはいかゞで」
「神慮によって定められた身代金であるから、そうは参らぬ。正宗を放逐したいのは山々であるが、彼によって幾重にも迷惑いたしておるから、益々取り立ては厳重であるぞ」
「正宗さんのお部屋はどちらで?」
「一室にカンキン致してある。奴メがオツトメの座へ現れよると、一同の魂をぬきよるので、こまる。守衛をつけてカンキンしても、守衛の魂をぬいて出て来よるので都合が悪いな。やむえず大工をよんで座敷牢をこしらえたが、このために五万円かかっているから、これも天草商事から取り立ててもらわねばならぬぞ。しかし奴メは座敷牢の格子越しに術を施しよるので、まことにどうも扱いに困却しているな」
「それはお困りのことですな。相済みませんが、アタクシに対面させていたゞけませんか」
「さしひかえた方がよいぞ」
「一目見せていたゞかなければ、社長に報告ができません。又、天草商事から身代金をととのえて迎えに来ました折に、みんな魂をぬかれたとなっては由々しい大事で、箱根の山が降りられません。ぜひとも対面を許していただきたく存じます」
 そこで対面を許され、白衣の若者に案内されて、でかける。
 女中部屋の突き当りにある物置のようなところを改造して、入口に厳重な格子が組まれている。窓にも格子が組まれて、どこからも出入ができない。食器や便器の出し入れができる程度の隙間があるだけである。案内の白衣の男を認めると、格子際へ走り寄った正宗菊松。
「コウーラッ!」
 格子から片腕をニュウとだして、虚空をつかんで、ひきよせる様子をする。
 すると白衣の男がタハハとその場へ腰をぬかして、平伏、頭上で手をすり合せて、
「マニ妙光、マニ妙光」
 おそれおののいて、祈りはじめた。
「コウーラッ!」
 正宗菊松の眼はランランとかゞやき、髪はみだれ、神の怒りが乗りうつったように、はげしくジダンダふむ。
 すると白衣の男が、
「ヒッ、ヒッ、ヒッ」
 と呻きをたてゝ、足をバタバタふり、七転八倒、廊下をころがって、泣きだしたからサルトルもおどろいた。
「コウーラッ! キサマの魂をぬいたぞウ」
 どうやら、たしかに魂をぬきあげたらしい。そういう手ぶりである。そして、ぬきあげた魂を、ためつすかしつ、見きわめている様子である。
「ベエーッ」
 正宗菊松はとびのいて、ツバをはいた。そして魂をほうりだしてしまった。
「キサマの魂は腐っとる。ウジムシがたかっとるぞ。ベッ、ベッ。臭いのなんの」
 よほど悪臭の強い魂らしい。正宗神様、イマイマしがって、鼻口をゆがめて、目をつぶっている。
 魂を投げすてられたから、白衣の男の苦しむのなんの。
「アッ、アッ、アッ」
 焦熱地獄の苦しみ。エビのようにヒン曲ったり、逆立ちして宙返りをうったり、脇腹をかきむしる。魂というものは脇腹にあるのかも知れない。
 ずいぶん意地の悪い神様で、のたうち廻って苦悶しているのに、鼻をまげて臭がっているばかり、一向に魂を返してくれないのである。
 ようやく気がついた様子で、
「もうよい。かえれ。また、ぬいてやる」
 うるさそうに、こう言って、追い返してしまった。絶対の王者とはこのことであろう。白衣の男は這いながら、呻きつゞけて、消え去った。
 菊松の手ぶりのどこに魔力がこもっているのか、サルトルには見当がつかない。菊松もサルトルの存在などは問題にしていない様子である。サルトルは霊界に無縁の俗物というわけかも知れない。
「エエ、失礼でざんすが、天草商事の正宗菊松常務でざんすか」
 サルトルは小腰をかゞめて挨拶した。神様の両眼がギロリと青い炎をふいて光った。
「天草商事だと?」
「ハッ。イヤ。アタクシは天草商事の者ではございません。石川組のサルトル・サスケと申します青二才で。お見知りおきの程、ねがいあげます」
「キサマ、なんの用できたか」
「ハッ。社長の命によりましてな。実は、御存知かと思いますが、石川組の社長はマニ教の大の信者でありまして、当神殿に参籠のみぎりコチラサンをお見かけ致したと申しております。それでまア、正宗常務ともあろう御方がカンキンのウキメを見ておられるのはお気の毒であるから、アタクシに命じまして、アタクシは目下、天草商事と掛け合いまして、コチラサンの救出運動につとめております。なにがさて、マニ教から百万円の身代金を要求いたしておりますので、思うようにはかどりませず、長らく御不自由をおかけ致しまして、まことに申訳ございません」
 神様は案外素直に俗界の話がわかったと見える。両手で格子をつかんで、
「オイ。オレを天草商事へつれて行け。早くせえ」
「ハッ。たゞ今すぐにはできませんが、追々、そのように、とりはからいます」
「早く、せえ! コラ!」
「ハ」
 コワかなわじ、と、サルトルは匆々にひきさがった。長くぶらついていて魂をぬかれては大変である。
 しかしサルトルはほくそえんだ。
 正宗菊松が神通力を得たとは面白い。催眠術というものは、かかる人と、かからない人とあるそうだが、石川長範もマニ教の信者であるから、これも魂をぬかれる口かも知れない。さすれば悪玉かならずしも神通力に防禦力があるわけではない。別して天草商事には恨みをむすんでいる様子であるから、その一念、天草の三羽烏を金縛りにするかも知れない。
 敵に機関銃あれば、我に正宗菊松を用いて魂をぬく手あり。サルトルはニヤリとした。

   その十三 サルトルやや成功のこと

 翌朝三名は密林の奥の阿片をうめた現場を実地検分にでかけた。
 雲隠才蔵はサルトルとツル子が盟約を結んだ同志とは知らない。ツル子は天草商事のスパイだと思いこんでいるから、実地検分はツル子をあざむいて阿片の実存を信じさせるのが目的だと思っている。
 サルトルはそッと才蔵にささやいて、
「雲さんや。たのむぜ。石油カンに黒いものをつめて埋めておいたから、いかにも阿片だというオドロキを表情たっぷり演技してもらいたいネ。ツル子さんは、なかなか観察が鋭くていらッしゃるから、油断はくれぐれも禁物」
 あくまで、こう、だましておく。一方、ツル子にも注意を与えて、
「雲さんの眼力は油断ができませんから、あくまでスパイになりすまして、見破られないように、たのみますよ」
 手筈をととのえておいて、三人は密林の奥へふみこむ。
「ここ、ほれ。ワン、ワン」
 こう呟きながらサルトルが地を掘ると、石油カンが現れた。
「さて、雲さんや。雲隠大人エンインダーレンの眼力をもって、よッく、ごらん。これなる物質は何物なりや。そのものズバリ。いかが」
「ウーム」
 才蔵はビックリ仰天。一と唸り。
 少量をつまんで匂いをかいでみる。カンの中を掘ってみて、その内容の底までギンミして、
「ヤヤ。実に」
 フウと大息。呆れはててサルトルの顔を見つめて、
「みんなホンモノの阿片じゃないか。エ、オイ、おどかしやがる」
「ハッハッハ。嘘だと思っていらっしゃるから、いけません。サルトルの一言、常に天地神明にちかって偽りなし」
「雲隠さん!」
 ツル子はキッと彼をみつめて、
「ほかのカンも調べてみなければ、ダメよ」
「ウン。しかし、この一カンだけでも莫大な財宝だ。なんだか、夢みたいな話だよ。薄気味がわるくて仕様がねえや」
 一つ一つカンを掘り出して、つぶさに調べて、才蔵は首をふりふり、
「どうも、いけねえ。ワシア、負けた。よう、言わんわ。大泥棒め。凄い物を掘りあてやがったな。証拠物件。見せなきゃいけないから、一とつまみ、もらってくぜ」
「オットット。そうは、あげられない。これだけで、タクサン」
 ホンの二グラムほどつまんで、紙につつんでやる。
 サルトルは元の通りカンをうめて、地をならし、
「人が見たら蛙となれ」
 こうマジナイをかけて、帰途につく。
 サルトルはニヤリと笑って、
「今晩のうちに、場所を変えておかなきゃいけない。天草商事さんは紳士でいらッしゃるから」
「バカ言え。キミみたいな大泥棒とは素性がちがってらア」
「大泥棒はないでしょう。イントク物資をテキハツしたにすぎんですな」
「うまいことを、やりやがったな。イマイマしい野郎じゃないか」
「ハッハッハ。やくべからず。駅まで自動車で送ってあげるから、早いとこ、東京へ帰っておくれ。どうも箱根においとくと、あぶない」
 二人を汽車へ乗っけてしまった。
 才蔵は車中でしばらく黙々、考えこんでいたが、
「ツルちゃん」
 ツとよりそって、
「一しょに箱根へ戻らないか。一カン盗んで帰ろうよ。これから自動車で急行するんだ」
「いけないわ。そんなこと」
「バカだなア。キミは。土の中に埋められている阿片は誰にも所有権がないのさ。それを持って帰って所持している者に所有権が生じるだけさ」
「あなた一人で掘りだしてらッしゃい」
「それは掘りだすのはボク一人だけでやるさ。ツルちゃんは旅館で待っといで。ね。ボクはたちまち大ブルジョアだぜ。だから、ツルちゃん。ボクと結婚してくれよ」
 ツル子は呆れた。そうだろう。阿片がニセモノであることを心得ているからである。
 だまして結婚を申しこむ才蔵の心根がにくらしい。かと云って、嘘つきなさい、ニセの阿片と承知の上で、とキメつけると失敗だから、セイカタンデンに力をこめて、にらみつけて、
「泥棒してお金持になりさえすれば、私が結婚するものと仰有るのね。ずいぶん侮辱なさるわね」
「チェッ。ダイヤモンドに目がくらむのは貫一お宮の昔からの話だぜ。美人にはブルジョアを選ぶ力があるのさ。お金と結婚することは女の名誉だい。頭が古いぜ」
「お金と結婚なんかするものですか」
「チェッ。キゲンなおしてくれよ。とにかく降りて、ゆっくり話し合おうじゃないか」
「社用はどうするのよ。義務を果すことを知らない人はキライ」
「バカだなア。社へ帰って報告してみろよ。天草商事ともあるものが、金を払って土の中の阿片を買うものか。土の中のものは掘りだして持って来たものに所有権があることを、たちまち実行してみせてくれるだけの話さ。どうせ人がやるものなら、こッちが先にやるのが利巧さ。社の方へは、ニセモノの阿片だったと報告しておきゃ、いいんだよ」
 ツル子は才蔵が悪者なので、呆れてしまった。こういう悪者たちは、是が非でも、こらしめてやる必要がある。ツル子はサルトルと二人で、悪者たちを退治ることを夢みて亢奮を覚えたが、サルトルがもう一とまわり大きな悪事の立役者であるのに気付くと、ちょッと暗い気持になった。
 けれども勇気をふるい起すと、あとは爽快になるのである。
 ツル子はひとつの計画をもち、大きな期待をかけていた。それはサルトルを悪道から救いだすことであった。ツル子の本心はサルトルに二千万円の荒稼ぎをさせたり、商事会社を起させたりすることではなかった。正道につかせたいのだ。
 才蔵のようなチンピラ悪者とちがって、サルトルはマトモな才腕もあるし、厚い人間味もあるのである。本来は正義を愛する人間であり、正道についても、成功しうる人物なのだ。
 天草商事の悪者どもをこらしめるハカリゴトは、同時にサルトルを正道に立ちかえらせるハカリゴトにも利用したい。ツル子はこう考えて、期待にもえ、計略の工夫に熱中したが、それが彼女を爽快な亢奮にかりたててくれるのである。
 憎さも憎し、チンピラ悪漢。ツル子は才蔵をにらみつけて、
「人を悪事に誘うのは、よしてよ。一人で、はやく引返して、ブルジョアになりなさいな。私、社へありのまま報告します」
「チェッ。つまらねえの。そんなのないや」
「ないこと、ないでしょう。一足先に、ブルジョアになれてよ。早く、ひっかえしたがいいわ。さア、はやく」
「ツルちゃんが不賛成なら、ボクも、よすよ」
「私のせいにすることないでしょう」
 才蔵はくさりきって、シカメッツラをしている。
 目的はツル子を誘って旅館へ泊るところにある。ニセモノを掘っても仕様がない。
 しかしツル子と共に箱根を往復する機会は今後もありうる見込みがあるから、はやる胸をおし殺して、我慢している。
 二人は天草商事へ帰って報告した。
「全然ホンモノだもの。おどろいたッたら、ありゃしねえや。一カン、七八貫、十二カン、全然純粋ときやがら。宝の山を持ちながら、奴め、処分に困っていやがるのさ」
 才蔵はポケットから阿片の紙包みをだしてみせた。中味はホンモノに包みかえてきたのである。
「フウン。ホンモノか」
 半平はこう唸ったが、一座はシンとしてしまった。ひらかれた紙包みの中の二グラムほどの阿片をにらんで、一同、しばし、声をのんでいる。
 天草次郎はちょッと時計をのぞいたが、
「近藤ツル子、すぐ、箱根へ戻れよ。五時には、着ける。サルトルの宿へ泊って、彼を宿から動かすな。さて、それから、と」
 彼は考えて、
「明日の午ごろ、小田原の例のところへサルトルを案内しろよ。そこで商談するからと云って。二時ごろまで、ひきとめといたら、いいだろう。それまでには、阿片を掘って、帰れるだろう」
「そんなの、ないや」
 才蔵が、むくれて、叫んだ。
「ボクが一しょなら、とにかく、女性ひとり、ザンコクだい。じゃア、ボクが箱根へ行って、サルトルをひきとめとくから、ツルちゃんが案内役で、阿片を掘ったら、いいじゃないか」
 次郎は冷酷な目でジロリと才蔵を睨みすくめて、
「ダラシねえ奴。しッかりしろ」
 物凄い一睨み。冷酷ムザン。思わずブルブルふるえるぐらい、つめたい。
 次郎はアゴでツル子によびかけて、
「すぐ、でかけろ。サルトルをお前のそばから一歩も放すな。明日、二時ごろ、半平か誰かを小田原へやるから、それまで、放すな」
 ツル子は、返事をしない。すこし、青ざめている。
 決心がついたらしく、ちょッと、会釈して、ふりむいた。
「ちょッと、おまち。ツルちゃん。心配するんじゃないよ。ボクが要領を教えてあげらア」
 と、半平が追っかけてきて、一室へつれこみ、
「一歩も放すな、と云ったって、深夜、山林の奥へ埋めた物を掘りかえしに行けるものじゃないから、十一時ぐらいまで、ムダ話して、ひきとめとけば、充分ですよ。むしろ、問題は朝なんだ。夜明けと共に、サルトルの部屋へ起しに行って、朝の散歩に誘うんだね。一時間ほど、ブラついて、ゴハンをたべて、それからズッと、つききっていることが大切なんだ。わかったね」
 才蔵も二人のあとを追ってきて、きいていたが、
「八時か九時まで、ひきとめとくだけでタクサンだよ。あんな遠い山林の奥まで、夜中に行く奴、居やしねえや。埋めかえるなら、今日の昼のうちに、早いとこ、やってらア。ツルちゃん、タチバナ屋へ泊らずに、ほかへ宿をとりな。明暗荘がいゝや」
「サルトルさんは、紳士よ」
 ムカムカして、冷めたく、あびせる。
 半平は高笑い。
「アッハッハ。さては、雲さんや。ツルちゃんを口説いたね。いけないよ。ねえ。重大なる社用に際して、軽挙盲動は、つつしまなきゃアね。サルトル氏を見習えよ」
「バカ云うんじゃないや。ツルちゃんは、知らないのさ。サルトルは、ただの鼠じゃないぜ。阿片はホンモノだったけど、信用できる男じゃないんだ」
 阿片はマッカなニセモノ。サルトルの悪略、荒仕事、教えてやりたいのは山々だが、それが言えない、つらさ。才蔵、切歯ヤクワン。
「まア、まア、雲さんや。よしたまえ。キミの卑しき心情をもって、人をはかるべからずさ。ツルちゃんの高潔なる人格と聡明なる才腕を信用してあげることが必要ですよ。では、ツルちゃん、良き旅行を祈ります。明日、午後二時には、ボクが小田原へ迎えに行きますからね」
 こう、はげまされ、握手を交して送りだされる。
 ツル子はバカバカしいばかりである。なんの不安もないからだ。箱根へ行って、サルトルに会えるほど安心なことはなかった。

   その十四 サルトル改心のこと

 ツル子の報告をきいて、サルトルは大笑い。
「アッハッハ。そんなことだろうと思って、もう、イタズラしておきました」
「なにを、なさったの」
「明日、お歴々、あそこを掘ると、アッと驚きます。慾深い人が穴を掘って、よかったタメシはありません。どうしても、私のところへ、智恵を借用に来なければならなくなります」
 ツル子はジッと考えた。もう、これ以上、我慢ができない。変に策を弄するよりも、体当り、サルトルのマゴコロに訴えるにかぎるのだ。さもなければ、悲しい思いの絶え間がない。
「サルトルさん。もう、悪事は、よして」
「エッ。悪事?」
「ええ、悪事よ。今、なさっていること、悪事よ。人をだまして、お金をもうけては、いけないわ。そんな二千万円よりも、二千円のサラリーがどれくらい尊いか知れないわ」
「それは、仰有る通りです」
「天草商事の悪者たち、二千万どころか、二千円だって、支払うものですか。泥棒ですもの」
「まさに御説の通りですとも。それゆえ、雄心ボツボツ。支払う筈のない旦那方に、必ずや支払わせてみせるというタノシミが生れてくるのですな」
「そんなの、ヤセ我慢の屁理窟よ。悪者をこらしめるのは結構ですけど、こらしめるだけでタクサンだわ。お金もうけをそれに結びつけるなんて、卑怯な考え方よ。たぶん、高利貸の思想よ」
「なるほど」
「あなたは、もっと、立派な方です。正しい方法で、成功できるお方なのよ。同じ努力ではありませんか。ギャングのスリルを愛すなんて、よこしまな人生よ」
 リンリンとせまるツル子の気魄。その瞳にするどく光り閃くものは、怒りでも、恨みでもない。乙女の祈りが切々として燃え閃いているのだ。
 ツル子の高貴な魂がサルトルの胸にくいこんでくる。彼女の四辺あたりには冷めたく冴えた香気があふれているようだ。このサルトルは虚無党でもなく、木石でもない。一目見たときから心を惹かれ、知れば知るほど香気あふるる品位の高さに、目をみはり、心をうたれているサルトル、さすがにツル子の眼力たがわず、ホンゼンとして正道に立ちかえる大勇猛心は多分にもっている。
「よく分りました。つまらぬ気取りの人生でした。本日、ただ今から、正道に立ちかえりましょう」
 バカに手ッ取り早い。
「御訓戒、身にしみて忘れません。サラリーマンでも土方でも、御指図通り、なんでも、やります」
「うれしいわ」
 感無量。ただ感謝の一言。サルトルの発奮感動、いかばかり。
「でも、サルトルさん。天草商事の悪者たち、こらしめてあげてちょうだい。私もお手伝いするわ」
 キラリと閃く目。
「ハ。こらしめるというと?」
「悪漢はとッちめてやる必要があるのよ。つけ上らせちゃいけないわ。名案、考えてちょうだい。あなたには、あの悪者たちをこらしめる力が具ってるのよ」
「そうですかな。お金をまきあげちゃアいけないルールですな」
「そうよ。腕力も、いけなくってよ」
「新ルールは、むつかしい。エエと。御期待に添わずんば、あるべからず」
 サルトル、必死に考えて、ポンと膝をうち、
「ありました。ありました」
 ボシャ、ボシャ、ボシャ、と密談。
 ツル子はおなかを抑えて、ふきだしてしまった。
「では、手筈をととのえてきましょう」
 と、サルトルは意気ヨウヨウと、いずれへか姿を消した。

   その十五 計略大成功のこと

 翌日。
 二人は正午かっきり、小田原の天草商事の別荘へつく。
 こちらは、天草商事の面々。
 才蔵にみちびかれて、三羽烏が山林の奥へと、さまよっている。
「オイ。シッカリしろ。まだ見当がつかないのか」
「よせやい。いつもと別の方向から忍びこんできたんだもの、カンタンに見当がつかねえや。第一、サルトルを甘く見ちゃ、いけないよ。ツルちゃんを張りこませたって、どうなるものか。埋めかえなら、早いとこ、昨日の昼うちに、やらかしてるよ。アイツのすばやいッたら、ありゃしねえや」
「アッハッハ。ツルちゃんが心配で、目がくらんでやがら。仁丹でも、やろうか」
「よけいなお世話だ」
 しかし、さすがに才蔵、目から鼻へぬける才覚、たとえ密林の中でも、一度覚えた目ジルシは忘れない。
「わかったよ。ここだ」
 掘ったあとがハッキリして、すぐ分った。
「雲さんよ。ほってくれよ」
「バカにするない。オレは案内人だい。半平、自分で、ほりやがれ」
「ハッハッハ。雲さんゴキゲンナナメだね」
 半平、かがみこんで、ほる。
 すぐ一枚の板がでた。何か、書いてある。
「アレ。なんだい。これは。ヤヤ!」
 半平はガクゼンとして、一同に板を示した。文字に曰く、
「もっと掘れ。ワンワン」
「ウーム」
 一同、声をそろえて、一唸り。
「チキショウメ。してやられたか。しかし、そうだろうな。これぐらいのサテツは覚悟してなきゃアいけないよ。品物が品物だもの。サルトルさんもムザとは渡すまいさ。戦意ボツボツ。戦いは、これからさ」
「もっと掘れ、とあるから、まア、掘ってみろ。敵の策は見とどけておけ」
「ウン、そうだ」
 半平は、すぐ、ほりつづけた。戦意とみに湧き立ったせいらしい。
 ついに一つのカンがでた。中をあけると、ガマが一匹はいっている。
「アッハッハ。人が見たら蛙になれ、というシャレだね。たいしたシャレじゃアないな。サルトル氏の風流精神は、かなり月並らしいや」
 半平は、ちッとも腹を立てない。面白がっている。
「しかし、重い品物をそう遠方へ運ぶ筈はないから、手分けして、探してみようよ」
 そこで手分けして歩いてみたが、それらしい土のあとは見当らない。
「よろしい。しからば、いよいよ、小田原合戦だよ。ツルちゃんが待ってるだろう。雲さんや、ツルちゃんに、じき、あえるぜ」
「よしやがれ。あいたいのは、テメエじゃないか」
 車をいそがせて、小田原の別荘へついた。
 二人の姿は見えない。
「二人は、どうしたの」
 と留守番にきくと、
「ハイ、映画見物におでかけです」
「なるほど。ボンヤリ待ってもいられないだろうな」
 待たせる身が、待つ身になった。散々待たせて、現れた二人。
 サルトルは、いともインギンに挨拶して、
「ヤ。まことに本日は遠路のところ御足労で。社長はじめ重役陣、直々の御来臨、光栄この上もありません。わりに、早いお着きで、恐れいりました」
「アッハッハ。サルトル君は月並なシャレが好きですね。しかし、あなた、動物学上、ガマはガマ、カエルはカエルでしょう」
「イヤ、恐れいりました。無学者で、いつも恥をかいております」
「しかし風流を好む精神は見上げたものですよ。バクダンを仕掛けておくとか、人糞を埋めておくとか、えてしてやりがちなものだけど、あなたは風流ですねえ。しかしボクでしたら、一もとの山吹をいれてね。花はさけども、実の一つだになし。山吹の里の故事かなんか、もじりたいところですね。ガマはちょッと、グロテスクではないでしょうか」
「ヤ。まったく赤面の至りです。以後は深く気をつけることに致します」
「ここ掘れワンワンだから、灰を入れておくのも面白かったかも知れませんね。しかし、蛇や毒虫のはいったツヅラを埋めておかれなくて、助かりましたね」
「とても、そこまでは手が廻りません。蛇も毒虫もキライでして、とてもツヅラにつめる勇気がありません。ガマ一匹が精一パイのところで」
「では、サルトル君。一場の茶番を終りましたから、改めて商談にはいりましょうよ」
 半平はニヤリニヤリと、相変らず、たのしそうである。
 不撓不屈。飛んでは落ち、落ちては飛ぶ。小野道風の蛙。これが半平の信条である。蛙であるから、顔に小便かけられても、いつも涼しい顔なのかも知れない。
 半平は戦意にもえると、益々ニヤリニヤリと、そして、下っ腹にグッと力をいれる。そして戦闘佳境にいるや、ヤセッポチの肩をいからせて、グッとそりかえって、腕をくむクセがあった。
 彼は今や、腕をくみ、ヤセッポチの肩をいからせて胸をはって、ニヤリと笑ったが、サルトルときては常にニコニコしているだけで、一向に戦備をととのえた風がない。
「ボクの方は第一回目の宝探しに負けましたから、今度はサルトル君の提案に応じましょう。阿片と金を交換する場所と時日について、あなたの条件をきかせて下さい」
「そう仰有っていただきますと、恐縮いたすばかりです。先日も申上げました通り、私は宿命論者でありまして、この仕事は私ひとり、相棒がおりません。多勢に無勢ということがありますから、どんな条件をだしましたところで、してやられる時は、してやられます。まア、人が見たらガマにするぐらいのことはできますが、皆さんがこうと覚悟をきめられた上は、私がガマにされるだけの話でざんすな。これを宿命と申しまして、この危険を承知の上で、相棒なしに乗りかけた仕事ですから、余儀ない宿命であるならば、ガマになって果てましょう。二千万円か、ガマか、私のようなガサツ者には手頃な宿命でざんすな。もう、もう、決して、どなたも恨みはいたしません」
 ニコニコと、いたって愛嬌がよいばかり、一向に力んでみせないから、腕をくんで胸をグッとはった半平も、ノレンに腕押し。しかし、決してひるむことのない半平の身上であった。
「ハハア。なるほど。あなたはイサギヨイ方ですねえ。しかし、ボクらも宝探しはやりましたけど、風流のタシナミもありますから、さっきもお話しましたように古歌の志を忘れませんよ。もっとも和歌に秀でた武人もいますが、ボクらは戦争はもうタクサンですから、憲法の定むる通り、戦争ホウキですよ。あなたの方で交換の場所と時日を示して下さい。若干の平和攻勢はいたしますが」
「平和攻勢と仰有いますと」
「つまりですね。ネギルとか、分割払いとか、そういう商取引上の慣例による攻勢ですね。これは仕方がありませんね」
「なるほど、よく分りました。私は宿命論者ですから、一度きまった宿命を変える意志を所持しておりません。それで、先日お約束申し上げました通り、皆様方のお好きな時日に、ホンモノの阿片を埋めた地点に於きまして、取引する気持に変りはございません。皆様方の平和攻勢の方をうかがわせていただきましょう」
「千万で、いかが」
 サルトルはニコニコと、
「宿命は、変えられません。二千万か、ガマか」
「なるほど、宿命論をお見それして、すみませんでしたね。それでは、二千万として、分割払い」
「分割払いと申さずに、分割売りと申すことに致しましょう。正確に金額の分量ずつ販売いたしますのが当店の方針でざんす」
「お堅い商法で、結構です。それでは、さっそく、本日、十万円だけ、いただきましょう。あんまり少額で失礼ですが、よろしいですね」
「それは、もう、いったんお約束の上は、万事宿命でざんして、十万円でも、本日さッそくでも、イヤとは申しません。これから出かけますと、いくらか暗くなりますが、これも宿命、ツユいといは致しません。では、さッそく出発いたすことにしましょう」
 サルトルは全然ニコヤカで、百貨店の販売員のように愛想がよいばかり。
 さッそく一同は立ち上る。ツル子は半平に向って、
「私は?」
「そうだなあ。紅一点まじる方が風流で、サルトル君も安心なさるでしょうね」
 サルトルは半平を制して、
「イヤ、イヤ。夕闇の山林中の秘密の取引に、可憐なお嬢さんをおつれ致すのは、かえって風流ではありません。お嬢さんは箱根の旅館で待っていただくことに致しましょう」
「じゃア、ツルちゃんは、ここで待ってるのがいゝや。箱根まで行くこと、あるもんか」
 才蔵が、むくれて、口を入れる。
 半平は高笑い。
「雲さんはツルちゃんのこととなるとムキになるねえ。ムリな取引をお願いしているのだから、サルトル君の言葉には従わなければならないよ」
 外へでると、サルトルは一同に向い、
「では、皆さんは私の車で、御案内します。お嬢さんは、皆さん方のお車で、タチバナ屋へ」
 サルトルの言葉通りに、別れて車にのる。半平はツル子を車中へ送りこんで、
「心配することはないよ。君は又、ソッとここへ戻っていたまえ。分ったね」
 こう言いふくめて、安心してサルトルの車にのる。
 さすがの半平も、ツル子がサルトルと盟約をむすんだ同志とは気がつかない。
 自動車は早川の渓流に沿って、箱根の山をのぼる。
 いよいよ、底倉。当然の順路。べつに怪しむ者もない。
 自動車は道を走ると思いのほか、ギイと曲って、立派な門内へはいってしまった。
 門の左右にたくさんの人物が隠れていて、自動車が門内へはいると、サッと門を閉じてしまう。ツル子の車は、閉めだしをくって、中へは、はいることができない。
 自動車は玄関前へスルスルととまった。
 玄関かちサッと現れた一群の人物、門をしめて駈けつけた一群の人物、十重二十重に車をとりかこむ。みんな白衣をきている。
 これぞ、マニ教神殿!
 サルトルは自動車を降りて、白衣の隊長、内務大臣に挨拶。
「どうも、お手数をおかけ致しまして、ありがたきシアワセに存じます。天草商事のお客様方をお連れ致してございます」
「まことに御苦労であった」
 サルトルは、車中の一同に、
「皆さん。目的地へ到着いたしましたから、なにとぞ、下車ねがいあげます」
 天草次郎は目を怒らせて、
「ここは、どこだい」
 半平と才蔵だけは知っている。ここぞかねての古戦場、マニ教神殿ではないか。
「ウーム」
 思わず半平の腹の底からほとばしる一声。
「やられたか!」
 彼は腕をくみ、グイと胸をはって、天草次郎にささやいた。
「マニ教神殿! 仕方がない。降りて、運命と戦わん!」

   その十六 才蔵ついに雲隠れのこと

 ツル子が翌日帰京して報告したから、天草商事では幹部がマニ教神殿に監禁されたことが分ったが、ほどこす手段がない。
 使者を差向けたが、監禁の幹部には会わせてくれず、内務大臣が現れて、身代金三百万円持ってこい、と神示をたれて追い返されてしまった。
 残された幹部が額をあつめて凝議したが埒があかない。
「どうです。なんとか苦面して、三百万円、届けては。わが社も左り前だが、マニ教探訪記で大いに雑誌をうり、つづいて、社長一行監禁ルポルタージュを連載する。半年もつから、三百万円もうけるのはワケがないでしょう」
「それはワケなくもうけますな。ころんだ以上、タダは起きない社長ですからな。しかしですな。人のフトコロからもうけてくれる分には差支えがないのですが、三百万円損したから社員の給料一年間半額などとね。やりかねませんな」
「なるほど」
 一同ギョッと顔色を変えて、口をつぐんでしまう。
 ほかに策がないから、お体裁に毎日使者を差向けて、毎日むなしく追い返されてくる。
 一週間目に、雲隠才蔵がゲッソリやつれて、蒼ざめて現れた。
 さッそく幹部にとりかこまれて、
「オイ、どうした。君、ひとりか」
「どうした、なんて、落付いてちゃ、いけませんよ。みんな取り殺されてしまうじゃないか。いくらハゲ頭ばッかり残ったって、智恵がないッたら、ありゃしない」
「とんでもないことを言うな。毎日使者を差向けているぞ。今日も一人行ってるはずだ」
「チェッ。毎日使者を差向けて、毎日追い返されてりゃ、世話はねえや。一時間のうちに百万円つくってくれよ。すぐ届けなきゃ、三人命の瀬戸際だから」
「百万円でいいのか」
「チェッ。大きなこと、言ってやがら。いくら命の瀬戸際だって、商魂を忘れちゃ実業家じゃないよ。息をひきとる瞬間まで値切ることを忘れないのが商人魂というものだよ。ダテにハゲ頭光らせて、みッともないッたら、ありゃしねえ。大至急、百万円、つくってくれよ」
 才蔵に叱りとばされて、ハゲ頭の連中、返す言葉もない。才蔵ごときチンピラでも、かくの如し。社長の見幕や、いかに、と思えば、生きた心持もない。
 一同ソレと手分けして金策に走る。左り前の天草商事に、オイソレと百万の都合はつかない。自分の貯金から融通したのも何人かいる。社長の見幕が目に見えるから、忠勤、必死である。
「アア。できたか。ヤレ、ヤレ。ありがたい」
 一同ハゲ頭の汗をふいて、ホッと一安心。
「百万円といえば一荷物だが、これをリュックにつめて行くかね」
「バカ云っちゃ、いけないよ。かつぎ屋じゃあるまいし。紳士の体面にかかわらア。トランクにつめてくれよ。一個じゃ重いから、二個にしてくれ」
 才蔵の鼻息の荒いこと。ハゲ頭の連中をふるえあがらせ、二個のトランクをぶらさげて、やつれながらも、鼻息荒く姿を消した。
 これぞ才蔵、極意の奥の手。雲隠れの術とは、ハゲ頭の連中、気がつかなかった。
 マニ教の拷問折檻、話の外である。神殿に端坐させ、白衣の勇士が十重二十重にとりかこんで、連日連夜、ねむらせてくれないのである。疲れ果て、コックリやりだすと、頭上から冷水をあびせる。つづいて前後左右から蹴とばされる。
 睡魔というものはシブトイもので、こんなにやられても、やられながらウトウトしている。すると大きな洗面器に水をみたして、クビに手をかけ、エイと顔を水中にもぐしこまれてしまう。
 たかが洗面器でも、こうやられては、溺れる。アップ、アップ、半死半生、睡魔の段ではない。魂魄半減し、ゲッソリやつれて、骨と皮になり、目の玉だけ、ウツロに光っている。
 マニ教のお歴々は長年の経験によって術を会得しているのである。一定のモーロー状態におちいるのを待ち、それまでは、もっぱら睡らせないことにつとめている。一言も話しかけない。お歴々は顔を見せず、白衣の勇士がとりかこんでいるだけだ。
 こうなっては、三羽烏もダラシがない。しかし、さすがに、しぶとい。半平もさすがに日頃の微笑を失って、黙然とうなだれているが、内々期するところがあるらしく、敵の出方を待っているふてぶてしさがほの見える。
 凄味のあるのは、さすがに大将の天草次郎で、クワッと目を見開いて、時々あたりをヘイゲイする。子供にとりかこまれたマムシのような凄味がある。
 けれども、それを見ているうちに、才蔵はもうダメだと思った。今さら鎌首をもたげたって、今となっては、かえって哀れでしかない。ミジメな虚勢だ。
 マムシやカマキリは鎌首をもたげて、かみついたり、ひッかいたりするしか知らないが、マムシやカマキリがホーホケキョとないたり、猫のようにペロペロなめたりしたら、相手も応接に困るだろう。そういう変化や術策の妙がないから、なんだ、天草次郎なんて、これだけの奴か、と、才蔵は見切りをつけた。
「すみません。カンベンして下さい。トホホ」
 と、才蔵は泣きだした。
「ボクを東京へやって下さい。こちらの条件をきかせて下さい。かならず御満足のいくようにはからいます」
「よせ!」
 次郎がクワッと目を見ひらいて、叱りつけた。
「泣き声をだすな。なんだ、これぐらい。死ぬ気になれ。だまって死ぬか、先様がをあげるか、どっちかだ。こッちで音をあげるバカがあるか」
 なるほど、その魂胆か、と才蔵は呆れたが、そんな荒行にマキゾエくっては、たまらない。チェッ、部隊長みたいなことを言ってやがる。オレは戦地へ行っても、戦争しないで、満腹している性分なんだ、と才蔵は内々セセラ笑ったが、それは色にもださず、泣き出すフリをして横目でウインク。
「ボクは死ぬ気にゃ、なれないよ。そうじゃないか。ボクにまかしてくれよ。キミがまかせなくったって、ボクは一存でやりぬくよ。こんな苦しみをするぐらいなら、何百万円だって高くはないよ。ヤセ我慢したって、はじまらないや。マニ教の皆さん。たのみます。上の方にとりついで下さい。ボクを東京へやって下されば、御満足のいくようにはからいます」
 才蔵め、自分だけ脱けだす気だな、と天草次郎は察したが、音をあげる奴をムリにひきとめても、敵に見すかされるばかり、かえって足手まといであるから、ジロリと睨みつけただけで、あとは口をきかない。
 才蔵は、しすましたり、と、ここをセンドと、泣きつ、もだえつ、懇願、又、懇願。
 願いかなって、大臣のもとにひきたてられた。
「不敬者め。神の怒りの程が肝に銘じおったか」
「ハイ。深く肝に銘じました。あとの三人はまだ肝に銘じないようですが、あんな不逞のヤカラと同列にされては困ります。こんな苦しみをするぐらいなら、財産半分なくした方がマシです。どんな条件でも果しますから、東京へやって下さいな」
「本日中に五百万円もってくるか」
「五百万円ぐらい、わが社の一日の利益にすぎません。こちらの取引銀行は?」
「コラ! キサマ、デタラメ云うな。毎日のように社員が日参しおって、同じ返事をきいて帰りながら、すでに一週間もすぎるのに、一文の金を持参したこともないではないか」
「それは当り前です。なぜって、わが社の幹部全員がここに監禁されていますから、あとに残された連中は金を動かすことができません。ボクが帰れば五百万でも一億でも平チャラです。使者の社員も、かならず、そう申し上げていることと思いますが」
「キサマ一人で、マチガイなく、できるか」
「できますとも。二人三人の人手のかかる仕事ではありません。第一、ほかの三人が不逞の心を改めるまで待っていたら、皆さんもシビレがきれてしまいます。あの三人のガンコなことときたら、話になりません」
「今日中に戻ってくるな」
「戻ってきますとも。五百万円ぐらいには代えられません。あの三人が居ないと、社の仕事にさしつかえます。仕事にさしつかえると、一日五百万円ぐらいずつ、穴をあけますから」
 サシで話し合えば、もう、しめたもの。神様や化け物を煙にまくのはワケがない。
「よろし。今日中に、きっと、マチガイないな」
「そんなの、云うまでもないです。しかし、五百万円もってきたら、きっと、あとの三人を釈放してくれますね。嘘つかれたんじゃ、ボクは世間の信用を失って、失脚しなきゃなりません」
「だまれ! 神の使者が嘘をついてたまるか。即刻立ち帰って、五百万円持参せえ」
「ハイ」
 久々に仰ぐ空。曇っていても、青空のように胸にしみる。戸外は空気まで舌ざわりがちがう。開かずの門がギイとあいて、マンマと外へ出ることができた。
 こうして帰京すると、才蔵はハゲ頭を叱りちらして、百万円つくらせて、雲隠れの奥の手、姿をくらましてしまった。
 天草商事とマニ教がいくら待っても、待ち人現れず。
 三羽烏は才蔵が脱出だけの目的と察しているから、彼の救援を当にしていないが、まさかに百万円のドロンまでは察しがつかなかった。

   その十七 マニ教天草商事遷座のこと

 怒り心頭に発したのはマニ教のお歴々である。
 待てど暮せど才蔵来らず、又、あれ以来、連日日参の社員も姿を見せない。
 にッくき奴め。神をたばかる不敬者。もはや八ツ裂きにしても我慢がならない。
 それまでは折檻の席に姿を見せなかったお歴々も、怒りに逆上して、時期をまつユトリを失ってしまった。
 一日に何回となく、嵐の如くに駈けこんできて、三名をバッタ、バッタと蹴倒す。ブン殴る。鼻をねじあげる。耳や髪の毛をつかんでネジふせる。胸倉とって振りまわす。目よりも高く差しあげて、投げ落す。池へ突き落したり、背中へ氷を入れたり、ひどいことをする。
 浮世では残酷千万なことも神境ではさしたることではないらしく、白衣の連中も当り前の顔をして眺めたり、手伝ったりしている。
 天草次郎が睾丸を蹴られて七転八倒した時だけは、さすがに一同、いささか緊張して凝視した。
 しかし三人の辛抱のよいこと。ウムムと歯をくいしばり、脂汗をしたたらせても、けっして音をあげない。根負けしなければ自然に勝つと信じているのである。
 天草次郎は闘志益々さかん、肉体の衰えるにしたがって、目は凄味をまして妖光を放つが、さすがに光秀と半平は心身まったく衰えて、気息エンエン、冬眠状態、ウワゴトも言いかねない有様となった。放置すれば、神の術にかかってしまう状態に近づいている。
 そこで天草次郎は考えた。
 すると、天啓が浮んできた。
 天草商事も急変する世の移り変りには勝てず、商運まったく行きつまり、借金で首がまわらない。なんとか起死回生の手を打たなければならないところへ追いこまれている。
 これあるかな。マニ教をそっくり利用してやれ、と、ふと気がついた。
 それはお歴々が嵐の如く駈けこんできて、蹴とばし、ブン殴り、突き倒した時であった。
 天草次郎は、ふと夢からさめたように首をあげた。そしてスックと立ち上った。彼は一歩前へ出た。
「オオウ!」
 ジャングルの猛獣のような唸り声を発した。
「オオウ!」
 もう一声。
「ありがたし。ありがたし」
 彼はガバとひれふした。
「尊し。尊し」
 彼の全身ふるえている。
「マニ妙光。マニ妙光」
 頭上に手をすり合わせる。狂おしい有様である。ふと頭をあげて、光秀と半平を見すくめて、
「コラ! お前ら、ボンヤリするな。あれが見えぬか。あれが聴えぬか。尊いお声がきこえているぞ。なぜ拝まぬか」
 必死の形相に打たれて、光秀と半平もハッとひれふすと、
「マニ妙光。マニ妙光」
 頭上に手をすり合せはじめる。
 ひとしきり拝し終って、次郎はキッと端坐して、お歴々に一礼し、
「長らくの不敬、まことに申しわけありません。ただ今、神様の出御を拝し、さいわいに、不敬の段、お詫び申しあげましたところ、お許しをうけ、おききの如くに尊い神示を拝しました。これもひとえに皆様の慈愛によるところ、厚く感謝いたします」
 神様の使者たちも、こう先を越されては勝手がちがう。しかし、さすがに落付いたもの、スキは見せない。
「ウム」
 神の使様は大きくうなずいて、
「御神示を復唱してみい」
「ハッ。天草商事の全社屋、全事業、全財産を差しあげてお許しを乞いましたところ、おききゆるし下され、東京へ遷座し、かしこくも天草商事本社を神殿として御使用下さる由申渡されました。社の事業、全財産のみならず、私物一切奉納して、奉公いたします。皆様の宿舎には、社の寮、私の私宅、全部提供いたします」
「コウーラッ!」
 よろこぶかと思いのほか、神の使者はにわかに鬼の相となって、一喝のもとに天草次郎を蹴倒してしまった。それと同時に、他の二名も、それぞれの使者に蹴倒される。
「キサマらの魂には、まだ曇りがあるぞ」
 蹴倒しておいて、踏みつける。
 と、白衣の連中、それをかこんで円をつくり、
「マニ妙光。マニ妙光」
 高々と手をすり合わせて、合唱し、グルグル廻りをはじめる。ミコが鈴をふって駈けこんできて、列に加わる。太鼓や琴の奏楽が起る。
 三十分ほど踏みつけて、失心状態になったころ、奏楽が終った。
 魂に曇りがあるワケではない。これはマニ教の常套手段である。
 神の術を施す先に、先方が術にかかってきたから、内々ほくそえんだが、さすがに神様は慎重である。オイソレと、とびつきはしない。
 それから一週間にわたって、念入りに三人の魂をぬきあげる。しかし、円陣の合唱行列や奏楽が加わったのは、信徒の列に許されたシルシ。
 魂のぬかれた状態には一定の目安があるから、経験深い神の使者が度をはかっているのである。
 天草次郎の発狂ぶりにホッと気のゆるんだ光秀と半平は、もう自律性を失い、次郎次第、暗示の通りにうごく。
 次郎も長々の拷問折檻に衰え果てゝいるから、自分を半狂乱状態にみちびくことはなんでもない。自己催眠自在の境地である。
 神様の使者の慎重な試験を滞りなく通過することができた。
 大喜びなのは、神様の一族郎党で、大半の信徒を失い、箱根山中にとじこもって、ほかに住むべき屋根の下もないところへ、東京のマンナカへ進出できることにあった。三階建の社屋から、大庭園をそなえた寮から、社長の私宅まで意のままに使用できるし、天草商事の全事業を手に入れて、自由に運営できる。
 この建物が全部抵当にはいっており、つめかけてくるのは借金とりばかりとは気がつかない。
 三人の魂をぬきあげたりと見すまして、東京遷座の用意にかかる。
 サルトル・サスケがやってきて、
「東京へ御遷座の由、おめでたき儀で、慶賀の至りに存じあげます」
「イヤ、これもお前の働きによるところであるから、過分に思うぞ。石川長範は健在であるか」
「ハ。実はワタクシ石川組を円満退社いたしまして、その後は石川社長にも御無沙汰いたしております。本日参上いたしましたのは余の儀ではありませんが、御遷座に当って、かの正宗菊松をお下げ渡し願いたいと存じますが」
「ヤ。あの男ならば、もはや用はない。当方も処置に困っていたところであるから、遠慮なく連れて行くがよい」
「これは有りがたきシアワセに存じあげます。御遷座の上は、ワタクシも東京におりまするから、御用の折は遠慮なく申しつけて下さいますよう。フツツカながら、犬馬の労をいといません」
「ウム。信徒に非ずとはいえ、お前の志のよいところは神意にかのうている。時々遊びにくるがよい」
「ハハッ。ありがたきシアワセに存じ上げ奉ります」
 と、サルトルは目的を達し、正宗菊松をつれだして、東京へ帰ることができた。
 一方、天草次郎によびよせられた在京の幹部連中、痩せさらばえて額面蒼白、目玉に妖光を放つ社長から神示をうけ、東京へとって返して、数台のトラックを苦面する。
 このトラックに幔幕をはり、神具はじめ家財一切つめこみ、信徒が分乗し、合唱奏楽高らかに東海道を走って、東京へのりこむ。
 天草商事へ横づけにすると、直ちに社長室を神殿にかざりなして、奏楽合唱礼拝をはじめる。
 社員一同を廊下にひれ伏させて、事業一切神の手にうつった旨を申しきかせ、社員は同時に信徒たり、下僕たる旨をも申し渡す。
 ズラリとひれ伏した社員の頭上を幣束へいそくが風を切って走り、ミコの鈴が駈け去り駈け寄り、合唱がねり歩く。
 三羽烏、いずれも蒼ざめはてて、目のみ光り、狂人以上にただならぬ様子だから、社員もゾッとした。
「なア、オイ。ウチの社長のような、ガッチリズムの冷血動物がマニ教になったかねえ。わが社をそッくり奉納したには困ったな。我々は神の下僕だとよ」
「笑ってちゃ、いけないよ。神の下僕、信徒ときたからには、月給は払わないぜ」
「なるほど」
「雲隠の奴に百万円だまされて、キミもたしか、貯金をおろしたようだが」
「ワッ。いけねえ。オイ、ふざけるな。かえせ」
「オレに返せたって、ムリだよ」
「ウーム」
 一同、目を白黒させている。
 とっぷり日の暮れるまで、社員はマニ妙光の合唱をやらされる。夜になると、一族郎党、神様をまもって、再びトラックに分乗し、神殿に定められた寮へ落ちつく。三羽烏もここへ泊められて、自宅へ帰してもらえない。
 その翌日から、各新聞の賑やかなこと。妙光様と天草商事で持ちきりだ。そのくせ、マニ教の神殿は、信徒以外に侵入を許さないから、借金とりの苦心も実を結ばない。
 こうして神様の陰にかくれて、天草次郎はユックリと起死回生の策をあみだすツモリであったが、碁や相撲のように個人の天分だけで復活できる世界とちがって、実業界はセチ辛く、天分通りにいかないものだ。
 第一、マニ教の一日のカカリだけでも大変だった。彼らは時を得たりと存分にハデにやりだしたからである。

   その十八 巷談社創立メデタシ/\のこと

 それから三週間とたたない時だった。妙光様の謎が世人の心に益々深まっている時期である。
「巷談」という雑誌が創刊され、再版三版と重ね、五十万、イヤ、七八十万、なんの、百万は売り切ったろうという大変な評判であった。エロ雑誌ではないのである。
 もっとも、清楚な美をしたたるばかりにたたえたお嬢さんの写真がのッかっている。この美人が大の曲者で、百枚にわたってマニ教潜入記を執筆している。
 これを読むと、マニ教と天草商事のツナガリの第一歩がわかる。この記事には、神殿の行事から、神様の写真まで入れてあるから疑う余地がない。
 美女は云うまでもなくツル子で、間宮坊介執筆のマニ教撮影苦心談ものっている。
 マニ教東京遷座由来記を心ゆくまで記述している匿名人は、巷談社々長、サルトル・サスケであった。平山ノブ子の潜入記も面白い。彼女もすでに巷談社員であった。
 正宗菊松の潜入監禁手記に至っては、涙なくして読み得ないものだ。薄給の教師が妻子すらも養い得ず、意を決して天草商事の入社試験をうけ、その翌日には、モーニングをきせられ、有無を云わさず箱根へ連れだされて、監禁をうけ、一時は狂気に至るテンマツ、天人ともに泣かしむる、とは、この如き悲惨、誇りなき人生でなくて何であろう。
 この手記こそは、単なる実話の埒を越え、百万人の心をとらえた読物であったが、実は正宗菊松の本当の手記ではない。サルトルとツル子の合作なのである。なぜなら、菊松は、病院に伏して、昏々と眠っていたからである。
 それから、又、一と月ほどすぎた。
 正宗菊松はふと目を覚した。
 目にうつるものが、まったく記憶にないのだ。ヤヤ、第一、寝台の上にねている。
「ハテナ?」
 おどろいて、身を起しかけると、
「危い!」
 声がして、とんできて、支えた人々。彼はそれを見て、驚いて、声をのみ、やがて、ブルブルふるえだした。
 かけよって支えたのは、彼の妻子ではないか。田舎へ疎開したまま、まだ東京へ呼び迎えることもできなかった妻子たち。
「いったい、どうして?」
「あら、おめざめ」
「イヤ、ここは、どこだ?」
 彼の妻は笑いだした。目に涙があふれている。しかし、笑っているだけだ。
「わからないなア。ここはどこだ? お前は、いつ、来たのだ?」
「アラ、前に話してあげたじゃありませんか。それに、おめざめのたびに、毎日、たのしく話し合っていたじゃありませんか。覚えてらッしゃらないのですか」
「全然、覚えがないね。ええと、そうだ。わかった!」
 菊松は膝をたたいて叫んだ。
「ここは箱根だ! 箱根の底倉だ! しかし、まてよ。あの旅館は、たしか、明暗荘と云ったな。あそこには、ベッドはなかったぞ。ああ、分った。ボクは病気をしたのだね。ここは箱根の病院だ。昨日まで、箱根にいたのだから。しかしもっと眠ったかな。二日ぐらい眠ったのかね」
「まア本当におめざめね、そして、昨日までのことは、御存知ないのね」
 彼の妻は彼の膝に泣きふしたが、顔をあげて涙を拭うと、喜悦にかがやいていた。
「あなたは本当に全快なさったわ。先生の仰有った通りだわ。本当に眠りからさめた時はキレイに全快していますッて。あなたは一ヵ月の余も眠りつゞけていらしたのよ」
「そんな、バカな」
「イイエ、本当です。病院の先生が、薬で眠らせて下さったのです。持続睡眠療法と云いましてね。ズルフォナールという強い催眠薬を毎日ドッサリのませて、昏々とねむらせて下さったのです。その期間に、食事もとるし、便もとり、時には話も交すことがあっても、夢うつつで記憶にないということを先生も仰有ってましたが、時々あたりまえに話をなさるので、マサカと思っていました。しばらく前に服薬を中止して、葡萄糖の注射で眠りをさましていましたから、今日、明日ごろ、正気にかえると先生のお話でしたが、本当に全快なさったのよ」
「信じられん。ここは箱根だろう」
「イイエ。東京です」
「嘘だろう。ちょッと、今日の新聞を見せたまえ」
 妻の手から新聞をうけとると、彼はほかを見ずに、日附を見た。
 ああ、たしかに一ヵ月半もすぎている!
「どうも、わからん。一ヵ月半。いや、二ヵ月ちかくも」
「そうですよ。その間中、ねてらしたのよ。そして全快なさったのよ」
「全快って、いったい、何が?」
「今はおききにならないで。そんなこと、なんでもありませんのよ」
「しかし、お前たちは、どうして、ここに来たのだ。そして、どこに泊っているのだ。お金は、どうしている?」
 彼の妻は、又、泣いた。
「親切に、報らせて、呼びよせて下さった方は、この部屋にいらっしゃいます。あなたは、もう、貧乏ではありません。巷談社の重役です。莫大な月給をいただいています。私がいただいて貯金してある賞与だけでも、三十何万円とあります」
「巷談社?」
「ええ」
「重役だって? ボクが? あれは一時のカラクリだ。そして、あれは、天草商事だ。アア、みんな思いだしたぞ。ボクはマニ教の神殿へ監禁された……」
「そうですよ。天草商事はつぶれました。そして、マニ教から、あなたを救いだして下さった方が、新しい会社を起して、それが巷談社です。ツル子さん、いらして」
 すすみでたのはツル子である。ちょうど見舞いに来ていたのだ。ツル子はニッコリ笑ったが、顔がほてって、あかかった。
「お父さん! ごめんなさい。そうお呼びしましたわね。三日間箱根で」
 菊松は目をみはった。ああ、覚えている。はじめて見た時は、箱根へでかける朝だ。物も云わず、チョコレートをつめかえていた。宿屋では、彼にモーニングをきせてくれた。モーニングをぬぐ時はドテラをきせてくれるために、うしろに立っていた。そして、お父さんとよんだ。
 だが、憎むべき天草商事の一味であることに変りはない。脱出に失敗して、ただ一人、とり押えられた悲しさを思いだす。忘れられない悲しさだった。そのとき、あの連中は、この娘も、後をも見ずに、彼を捨て、逃げてしまった。恨みの後姿が、目にしみているのだ。
 ツル子は見つめられて、泣きそうになってしまった。
「すみませんでした。お恨みをうけるのが、当然ですわ。私たち、自分の功名にあせって、一人のお方に悲しい思いをかけることを忘れていました。それが地獄の責苦よりも悲しい苦痛だということを……」
「ツル子さん。よして! あなたは天使です。どうして、あなたが、悪いものですか。逃げおくれた正宗の運が悪るかったのです。もう、こんな話は、よしましょうね。お父さんが退院して、元気が恢復してから、笑い話に思い出を語り合う時がきますわ。それまでは、何を思いだしても、いけませんのよ。あなた、ツル子さんに、お礼、仰有ってちょうだい。私たちの一家を助けて下さったのです。あなたを救いだして、重役にして下さったのも、このお嬢さんですよ」
 菊松には何が何やらワケが分らなかった。しかし、現実を素直に受けいれるだけの、妙にスガスガしい落付きがあった。戦争以来、見失っていたスガスガしい気持だ。たしかに、なにかが、全快したに相違ない。
「そうですか。どうも、ボクには、よく分らないが、巷談社の社長の方は、天草商事の方ですかな」
「イイエ。サルトル・サスケさん」
「サルトル・サスケ? 雲隠才蔵とちがいますか」
「イイエ。天草商事に関係のない方です」
 菊松の記憶にはないワケだ。サルトルに会った時は、もう狂って、マニ教の座敷牢にいたのだから。
「その方が、どうしてボクを重役にして下さったのでしょう?」
 ツル子は真ッ赤になってうつむいたが、ようやく、気をとり直した。
「サルトルさんは、私のフィアンセです」
「ツル子さんも、巷談社の重役ですのよ。あなたが専務。こちらが常務。ワケは、いずれ、ゆっくり話しますから、一度アリガトウ、と仰有い。今日があなたの新しい人生よ。そして、すこし、休みましょう。全快はしても、催眠薬の影響で、身体が衰弱しているから、それが恢復するまでに、あと一ヵ月ぐらい静養しなければならないのよ」
「そうか。そうか。心配をかけて、すまなかった。そう云えばわかったような気がする。ボクが愚かで、意気地なしだから、いろいろ御迷惑をかけお世話になったに、きまっている。たしかに、そうにちがいない」
「いいえ、そんな」
「イヤ、ツル子さん。わかっています。あなたは、たしかに、心の正しいお方だ。お世話になって、すみませんでした」
 厚く礼をのべると、菊松は、又、昏々としばらく眠った。
 それから、一ヵ月、菊松は退院した。
 又、一ヵ月。菊松は転地静養から、まったく元気をとりもどして、はれて出社した。
 社長のサルトルは時々病院へ見舞ってくれたから、とっくに顔ナジミだ。ところが意外な人物が、ニヤニヤしながら、近づいてきた。
「正宗さん、ボク、覚えてますか」
 どうして、その顔を忘れよう。白河半平であった。
 半平は人の思いは気にかけない。いつもただ、ニコニコ主義である。
「アッハッハ。ボク、白河半平。ね。ホラ、知らぬ頼の半兵衛ですよ。天草商事がつぶれちゃったんで、サルトルさんに拾ってもらいましたよ。とにかく、腕に覚えがありますからね。相変らず、編輯長ですよ。今度は重役じゃ、ありませんけどね。アハハハ。しかし、ボクの行く道たるや、恨みなく、怒りなし。常に、ただ、ニコヤカ、和合をモットーとしています。もっとも、ボクが人に恨まれ、人に怒られる不行跡は数々犯していますがね。アハハ。しかし、我、関せず。故に、わが天地、恨みなく、怒りなし。よろしく、たのみます。ねえ、専務さん。アハハ。今度は本当に専務とよばなきゃ、いけなくなっちゃったね。かつては、妹とよびたりし乙女は、社長の愛妻であり、又、重役であり、しかれども、恨みも怒りも一片だにありませんです。すべて、これ、知らぬ顔の半兵衛ですよ。アッハッハ」
 彼は手をさしだして、菊松の握手をもとめた。まことに他意なく、ニコヤカ、アッパレな武者ぶりであった。
 菊松も、こだわらず、半平の手を握りかえした。スガスガしい愛情だ。彼も亦、恨みは忘れていた。ただ、新しい人生、そしてわが社、わが社員を愛する思いでイッパイだった。
 この風景を眺め、仕事の手を休め、ニコヤカにモミ手して、慶祝の意を表して悦に入っているのがサルトル社長だ。それを見て、口を抑えて、ふきだすのをこらえているのが、愛妻重役であった。まずはメデタシ。





底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第一巻第八号〜第二巻第三号」
   1949(昭和24)年8月1日発行〜1950(昭和25)年3月1日発行
初出:「講談倶楽部 第一巻第八号〜第二巻第三号」
   1949(昭和24)年8月1日発行〜1950(昭和25)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:狩野宏樹
2009年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について