私は若い頃から、衰頽の期間にいつも洟汁が流れて悩む習慣があった。青洟ではなく、透明な粘液的なものであった。だから蓄膿症だと思ったことはない。然し、ねていると胃に流れこみ、起きていると、むやみに洟をかみつゞけなければならない。胃へ流れこむまゝにすると、忽ち吐き気を催し、終日吐き気に苦しんで、思考する時間もなく、仕事に注意を集中し持続するということが全く不可能となるのであった。
私は元来、甚しく鼻カタルを起し易いタチで、鼻が乾いた時にはテキメンにやられるのが習慣であるから、年中、四半分ぐらいずつ風邪気味に、自然の天恵によって鼻がぬれているような体質なのではないかと思っていた。そのぬれ方のひどい時期に吐き気を催すのみで、それだけのことだろうと、長い年月一人ぎめにしていたのである。
去年の八月から、又、これがひどくなった。その時も、まだ、私は、これを蓄膿症だとすらも思わない。私は去年の夏は、すぐ近い矢口の渡しへボートをこぎ、泳ぎに行った。そのために、特別洟汁がでるのだろうと思い、まれに泳ぐからいけないので、泳ぎに馴れゝば却って良くなろうかと考え、体力が疲労していたにも拘らず、強いて水泳ぎにふけった。すると、洟汁はもう決定的なものとなり、八月以来、私は吐き気に苦しみ、思考に注意力を集中持続することが出来なくなった。つまり、仕事ができなくなったのである。
然し、これを明確に自覚したのは去年の八月であるが、やゝ軽度の症状としては、去年の一月頃から、すでにそうであったかも知れない。
去年の八月からの私は、吐き気と闘うためのひどい労苦がつゞいた。先ず思考力を集中し持続するために、多量に覚醒剤を服用する必要があり、しかも、その効果は少く、たゞ目が冴えて眠られないという結果をもたらすばかりである。たゞさえ吐き気に苦しみつゞけているのだから、眠るためにアルコールを用いることが難儀となり、いきおい催眠薬の使用が多くなった。その頃から、アドルムを十錠ずつ用いるようになったのである。
このような肉体的な条件で、各社から殺到する切り売り的な註文に応じることは不可能であり、馬鹿々々しいと思ったから、それらの全部を拒絶することにして、かねて腹案の長篇小説に没頭することにした。表面の状況はそうであるが、今にして思えば、精神病的徴候が、すでにハッキリ現れていたのである。つまり、厭人癖である。そして、一種の被害妄想である。ちょッとした思考力の集中持続にすら苦心サンタンしつゝある自分に対して、営利的なつまらぬ仕事を持ちかけてくる人間への反感、病的な反感であった。私はその時以来、注文を拒絶したのみでなく、一切の面会も拒絶した。そして、軽い幻聴が現れはじめたのは、その頃からであった。それは、極めて軽い幻聴で、あるリズミカルな音、単調な、たゞ、遠近のある音の反復、それだけであった。又、いちじるしく視力が衰えはじめたが、これは今もそうであり、多分病気に関係なく、これは老眼のせいだろうと思われる。それにしても、視力が日によって乱れ方が異り、ある時は眼鏡をはずすことによって、ある時は眼鏡をかけることによって、文字を読むことができるという乱脈さには、日々不快な思いを重ねた。
私は一切の面会を拒絶したが、居留守を使う不快に堪えがたくて、できるだけ、旅行にでた。旅にでれば、気分が変って、仕事ができるかも知れない、という希望の方が、より大きかったが、まもなく、その希望の虚しさは明白となり、旅にでる時、その虚しい希望をもつことの負担の方が大きくなった。
私は旅に仕事にでる便利のために、ノートブックを用いはじめた。原稿紙はかさばって重いからだが、ノートブックという新しい方法によって、思いがけなく仕事ができるかも知れないという淡い希望もあった。私は二十一の年にひどい神経衰弱になり、歩行もサンマンとし、耳がきこえなくなった。それは、私に常に妄想が起るために、耳がきこえなくなるのであったが、要するに妄想を抑えることに成功すれば、必ず病気を治すことができるという見込みによって、目覚めているあらゆる時間、語学に没頭することにした。つまり、辞書をひきつゞけるのだ。私は、フランス語、サンスクリット、パーリ語、ドイツ語を一時に習い、たゞ、むやみに、辞書をひく機械のように、根かぎり、休むことなく、辞書をひくことに没頭した。そのほかに、何を考えてもいけないのだ。考えてはならぬ。考えてはならぬ。然し、こうして明滅する妄想と闘いつゝ辞書をひいても、凡そ平時の十分の一と能率はあがらぬものだが、ともかく、この方法によって、妄想をくいとめ、一年半ほどの後には、以前の自分に戻ることができた。
そのころ、つまり、どうやら妄想を抑えつけることに成功して、もとの自分に戻ったころだが、私は、はじめて、小説を書いた。それは、まだ小説家になろうなどゝいう考えではなく、チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって、一夜のうちに書いたものだが、今、記憶しているのは、老人が主人公であったこと、出来栄えはとにかく、スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられたという快感だけである。
私が去年の夏、旅先で仕事をしようとして、ノートブックを用いることにした原因の一つは、この幼い記憶、幼い快感が、私を誘う力となっていたことも事実である。
然し、すべてそれらの希望が虚しいものであることが分って後は、それらのすべてが、たゞ負担となり、虚しい希望の故に、私は、更に、苦悶し、希望によって、地獄を見つめるようなものであった。
私はよく熱海へ行ったが、希望の虚しさに苦悶して、熱海まで行き得ず、小田原で下車して(私は十年ほど以前に小田原に一ヶ年ほど住んでいた)酔い痴れざるを得なかった。然し、熱海へついて後は、益々多量に覚醒剤をのみ、まったく必死の覚悟によって、仕事に没入することに悪戦苦闘しつゞけたのである。
私は、然し、熱海よりも、より多く、諏訪を好んだ。然し、マッチ箱のような混雑した中央線で、七時間半もゆられることには体力的に堪えがたくなっていたので、そう多く行くことはできなかった。
私が諏訪へ行くようになったのは、Wという若い友人が胸を病んで、富士見のサナトリウムに居り、彼をムリにそこへ行くようにさせたのも私であるから、彼を見舞う責任が私にあったせいである。
富士見のサナトリウムといえば、いかにも白樺にかこまれた高原の詩趣にみちているようだが、実状は、高原のコヤシ臭い畑の中のもう廃屋に近いようなうそ寒いところであった。
然し、汽車が、南アルプスから八ヶ岳、北アルプスへと、次第に山のふところへ深くはいって行く時、破れかぶれともいうような私の胸の思いが、いくらかでも、澄み、少年の日のような幼く淡い孤独に慰められる思いがしたのは事実であった。
然し、乱雑な車中に吐き気を催し、いく度下車を志し、吐き気の苦痛と闘いつゞけたか分らない。私の気のせいかも知れないが、
私たちは上諏訪の某ホテルへ行ったが、私たちの係りの女中が、目の覚めるような娘であった。女中の立ち去るや、彼は胆を失い、しまった、はやまった! と叫んだが、これはつまり、結婚をはやまった、という長大息であったらしい。彼の女房自慢も当にならないのである。翌朝、私たちは諏訪神社へ自動車を走らせた。神社を見終って、彼はいかにもなつかしげに、はア、こんな神社ですかネ、おかげ様で、はじめて、見ました、と云ったが、要するに生れ故郷の神社まで彼は知らなかったのである。ちなみに、彼は上諏訪の生れであり、現に両親もそこに住んでいるのである。こういう不思議な案内人に導かれて、私は富士見のサナトリウムへ行った。この案内人は、生れ故郷の四周にそそり立つあらゆる山々の名も知らなかった。こうして、私はそれ以来、時々富士見へ出かけたが、この案内人の水際立った不思議さが、結局、何よりの取柄であったようだ。ほかの思い出は、苦しいことばかりであった。
然し、富士見のサナトリウムの患者たちは、私の訪れをいつもあたゝかく迎えてくれた。疲れきった私は、病人に同情され、病人が看護婦をつれてきて、葡萄糖やビタミンの注射を打ってくれたりしたが、透きとおるような皮膚をした青年たちと食事をしたりしていると、一そうこの山々がなつかしく、都会がうとましく思われるのであったが、皮膚のすきとおる青年たちは一様に山々を呪い、都会にアコガレをよせていたが、その思いは、まことに激しく、目覚ましいものであった。
私は精神病院へ入院して、やがて病人たちを観察しはじめたとき、いつも比較的に富士見の皮膚のすきとおる患者たちを思いだしたが、精神病院にも同じ年ごろの分裂病の患者たちがいて、彼らも一様に病院を呪い、病気を呪い、鉄格子の外へ脱出したがっていたが、帰する思いは非常に違っていたようである。
皮膚のすきとおる青年たちは、いずれもインテリであり、絶望だの虚無だのと、それらの言葉について関心を持っていたが、然し、彼らは、健全な肉体と、健全な生活、美しい恋人や、家庭などを考え、そして山々を呪い、都会にあこがれていたようである。
分裂病の青年たちは、希望に対して不信であり、彼らの考えが、はるかに孤絶していることは分るが、彼らも一様に、美しい恋人を胸に描いていたことに変りはない。然し、人生に対する希望が、皮膚のすきとおる青年たちほど、熱烈で純情であるとは思われない。然し、あるいは、はかりがたいほど深く熱烈であるために、不信の度が激しいのかも知れなかった。彼らは孤絶していたが、その外面にも拘らず、人間に対する愛着は、まさに「きわまりない」もののようでもあった。もとより事情は不可能であろうが、私は、精神病院と結核療養所の位置を変えたらよかろう、と、鉄格子から、変哲もない都会の屋根や電線を眺め、電車の録音をきゝながら考えていた。
私は、然し、暗い旅から旅へ、まるで絶望の中を縫うようにして、まさしく、私自身としては勢一ぱいの、あらゆる努力によって仕事と闘い、今から思えば、あの状態で、あれだけの仕事をすることが出来たことが不思議であった。
然し、破局が来た。それは当然来るべきものであったろう。
私は秋の深まる頃から、アドルムの量が二十錠を必要として、ようやく三時間ほど眠り得る程度に衰えていたが、それらの薬品中毒の症状が、ぬきさしならぬものとなっていた。
洟汁の流れが間断なく、一分以上洟をかまずにいるということが出来ない。かみ残された何分の一かは常に間断なく胃に流れこみ、終日吐き気を忘れることが出来なくなっていた。
つゞいて皮膚が、たえがたく、かゆくなった。はじめは虱などのせいかと思い、夜毎にD・D・Tをまいたが反応がないので、常に家に硫黄風呂を絶やさず、朝から夜中まで四五回ずつ、風呂につかった、然し、全身の
気分転換が何より必要だから、キャッチボールをしたり、フリーバッチングをしたりしたが、やがて、その気力も失った。それと同時に、もはや一行も書き得なくなった。それは去年の十二月半頃からのことであった。もはや外出の気力も失ったのである。
私は、然し、さらに、勇気をふるい起した。
私の長篇小説の舞台の三分の一ほどが京都になっていた。私は以前、一年半ほど京都に住んでいたが、十何年も昔のことで、もう、京都の言葉が思いだせない。一度は京都へ行く必要があったので、その旅行に希望をかけた。私は大晦日の朝の急行で、東京を出発した。これが致命的な失敗となった。
東海道線も、その翌日、つまり一月からは汽車にスチームが通じたのだが、大晦日の朝の急行はスチームがなかった。寒気のために、全身の
その夕方の六時、京都へ辿りついた時、私はまったく病人であり、発熱して、旅館に病臥してしまった。京都へ着いたら、と、色々と思い描いていた希望は、すべて虚しく、約二時間、京都の街をうろついたほかは、旅館にとじこもって、
この旅行の取柄と云えば、私の泊った旅館が、終戦まで宮様の邸であったことで、その間どりは、私がはじめて見たものであった。つまり、廊下を通らずに、大きな座敷を通らなければ、奥へ行くことが出来ない仕掛けになっており、その座敷が「トノイ」の人のつめたもののようであり、この関所を通らなければ、夫人も石川五右衛門も奥へは行きがたい仕組みになっているのである。又、昔は、和風の本館があったと思われるところが、洋館に造り変えられ、そこには、まだ宮様用の、紋章づきの、玉座のような椅子があった。クッションのない板のように堅い椅子で、宮様はこれにかけて訪客に接したのであろうが、生活の堅苦しさが思いやられるような椅子であった。私はキャッチボールのできるような広い和室へ通され、その片隅に炬燵をつくってもらって寝倒れていた。
ただ失意のみをいだいて、京都から戻ってきた。それでも一月中は、まだ覚醒剤を用い、衰えはてた注意力をなんとかしてかきたて、仕事をしようと努力した。虚しかった。一行も、書けなかった。
闘い破れたと悟ったのは、一月の二十五日頃であったかも知れない。このまゝの肉体的な条件では、一行といえども書きがたいことを悟ったのである。洟汁は、もう、普通ではない。私は、ようやく、これは蓄膿症だと思った。私の全身は、象皮病のように荒れて、堪えられぬかゆさであった。
私は覚醒剤をやめた。書くことを、やめたのだ。書く意志をすてたのである。当分、朝も、昼も、夜も、たゞ、ねむろう。長いこと、あるいは三年間ぐらい、つゞいて睡眠が不充分であった。冬眠。左様、蛇の冬ごもりのように、しばらく冬眠しようと思った。
そして、それからのことは、もはや明滅的にしか、覚えていないのである。通算して、一日に、約五十錠ほどずつ、アドルムをのんだ。私は一日ねむったつもりでいたのに、一週間すぎていたりした。私はそれを殆ど信じることが出来なかった。
急速に、幻聴がはげしくなった。幻視は、まだ、現れなかった。私は昏酔しながら、昏酔を自覚することが出来なかった。いつも、夢を見ていたが、それを夢として自覚できずに、行為としてしか自覚することが出来なかった。私は、小説の用件で、雑誌社の人と用談したり、酒屋の借金を払いに行ったり、すべて、日常のことのみを夢に見、然し、それを、夢と自覚することが出来ず、実際自分が行った行為としてしか理解することができなかった。
それにも拘らず、私の知らないうちに、一週間がすぎている。たしかに、寝た日から、一週間目の日附の新聞が枕元にあるのである。私は夢の中の出来事を確実な行為として思いだす。そして、その出来事から、何分間ぐらいウタタネしたのだろうと考える。そして、誰々が来て、こう約束した筈だが、もう彼は帰ったかと、女房にきく。いゝえ、あなたは寝ていらしたゞけよ、どなたも来ないわ、と女房が云う。女中に、きゝたゞしてみる。女中も、そう答える。
私は、それらを、みんな、人々が心を合わして、私を惑わしている
富士見のサナトリウムにいたWは、東京へ戻って入院し、手術することになっていた。五ツある肺のうち、Wは三つの肺が空洞であり、むしろ、生きているのが不思議だとのことであったが、ともかく、奇妙に、営養がよく、その点だけで、あるいは手術に成功するかも知れないが、死ぬかも知れない。果して、手術をしてもよいか、主治医の藤森先生から、私へ、問い合せの手紙がきていた。どうしてよいか、私には、分らなかった。
入院中のWが金に困っている筈だ。手術の費用もいる筈だ。然し、雑誌社は、私が仕事と闘うことをやめたと知って、もはや一文も金を貸してくれなかった。私は昏酔中に、雑誌社のSと用談し、そして、Wと会った。まだ見たことのない藤森先生ともお会いした。
すべて、それらが、夢であることを、私はどうしても、信じられなかった。私は、私をたぶらかす女房や女中の奸計を怒り、木刀をふるって、追い廻した。然し、私の歩行は、もはや不自由で、便所へ行くにも、這うようにしか行動ができない。
気違いは、裸になるというが、妙なもので、私も、女房や女中の奸計を怒って狂いたつと、一糸まとわぬ裸体になっていた。いつ、なぜ、そうなったか、記憶がなく、それを羞しいとも思わなかった。
その他の狂態について書こうと思えば、まだ記憶している多くのことがあるし、まったく意識喪失の下に為された多くのこともあるに相違ない。なぜなら、二十五六日の時間のうち、私の自覚している時間は五六日にすぎなかったのだから。たゞ、甚しく特殊な現象について云えば、私が自覚した五六日が、ひどく好色的であったということである。これは、アドルムの過用によって、その方面の神経が刺戟されたせいだろうと思うが、もとより足腰も立たぬ状態のことで、実際の行為は、生理的に不可能であった。
然し、私には、厭世とか自殺という考えのみはなかったのである。私は催眠薬によって、自ら冬眠をもとめたが、それは病気を治すため、疲れを治すためであり、どうしても、仕事を書きあげてみせるという決意と覚悟のためであった。
私は一週間ほどの無自覚な睡眠から目覚めた一夜、二階から飛び降りようとしたが、それは自殺のためではなく、凡そあべこべの意志と決意によってゞあった。私は足が折れるだろうという覚悟はあった。然し、死ぬ筈はない。又、死んではならぬのである。この一月に、最後の希望を托して、仕事と闘うために、京都へ旅立ったように、私は最後の手段として、二階から飛び降り、足を折るかも知れぬという危険にかえて、立ち直り、仕事を為しうる自信をつかむためのキッカケを生みだそうとしたゞけだ。自分をトコトンまで追いつめ、ためしてみることによって、仕事への立直りを見出そうと祈念したゞけだ。
後日、千谷さん(東大神経科外来長)が私にきいた。京都から失意のみを負うて帰京された、それから次第に、もう生きていてもつまらないと思うようになったのですね、そして自殺しようとなさったのですね、と。
私は昂然とそれに答えた。
「全然、アベコベです。私は、死にたいと思ったことは一度もありません。みんな生きるため、最後の危険をかけて自分をためして、きっとそこから仕事への立直りを見出すためです。死のうなんて、そんな、バカな」
然し、私の
私の女房が長畑さん(東大柿沼内科医局長)をよんできた。長畑さんは、アドルムをとりあげ、私の許可がなければ、もう一切の薬を服用してはいけません、約束しますか、と云った。私は、約束します、と答えた。その代り、明日にでもすぐ入院したい。耳鼻科へ入院したい。蓄膿が、私の思考を奪い去ったのです。鼻を治せば、必ず、すべてが治りますから、と頼んだ。その晩、その翌晩も、長畑さんは私の家に泊ってくれた。幻聴と不眠に悩む私の不安をすこしでもまぎらしてくれるためであった。事実、私は一睡もできなかった。身体の位置を動かすたびに、岸辺をうつ波のように広い幻聴が一時にわき起こり、私の頭は分裂しそうになるのであった。その幻聴は、悪意のある幻聴ではなかった。隣室から誰かゞ起きて階下へ走り、同時に階下から誰かゞ起きて階上へ走り、それが階段で交錯し、井戸の水をくんでバケツへあける音や、掃除をする音や、同時に色々の音が起るだけであった。そして、その頃から、幻視も、やや明確に起りはじめた。それは、いつも、女房の顔であった。私の隣にねているのである。然し、よく見ると、そこには、誰も居なかった。
長畑さんが耳鼻科の医者をつれてきてくれて、翌日にも、耳鼻科へ入院するつもりでいたら、長畑さんのつれてきたのは精神科の千谷さんであった。私は耳鼻科へ入院したいのです、と、やゝ怒りを現して叫んだが、千谷さんはそれには答えず、私を診察した。
こうして私は精神科へ入院し、持続睡眠療法をうけ、一ヶ月間昏酔したが、目が覚めたとき、一夜ねたとしか思わなかった。科長の内村さんは、結局、東大の療法と同じことを、私が無意識に自宅に於て行っていたわけだろうと、笑った。
昏睡からさめて後、耳鼻科の医者がきて、ていねいに調べてくれたが、蓄膿らしい何物もなく、全然故障がなかった。それも一つの精神病のあらわれなんです、と千谷さんは笑った。千谷さんに向い、蓄膿症について、はじめて訴え叫んだ時から、全然とりあわなかった千谷さんの取り澄した顔を、時々癪にさわりつゝ、なつかしむ。
鉄格子のはまった病室で、昏酔からさめ、不自由な歩行も次第に治ると、全身のかゆみも荒れた皮膚も拭うように消え去っていた。まもなく、私は、急速に外界をなつかしみだした。私は千谷さんの許しを得て、後楽園へ野球見物を日課にしたが、私のなつかしんだ外界は、去年の秋に眺めくらしたアルプスであった。アルプスの麓で、あまり熱くない湯につかりたい、と思った。視覚の衰えが今も尚最も治らないようである。然し、それよりも、心の奥に、大いなる怒りが燃えつゞけて、治ることがないようである。ゲヘナの火だろう。私は放心からさめて、苦笑しながら、こう呟くのが、鉄格子の中の時から、癖になりだしていた。