明治開化 安吾捕物

その四 ああ無情

坂口安吾




 今日一日で月が変ると、明日からは十二月。一年に十二回ある晦日という奴も気に入らないが、十二月という最後の月は月全体が性にあわない。昨日今日からメッキリ寒気が身にしみやがると、モーロー車夫の捨吉は毛布をひっかぶって上野広小路にちかい小路の角で辻待ちをしていた。上野駅には車夫集会所というのがあって、駅の車夫はそこに詰めるのが普通であるが、捨吉はモーローだから、辻で客を拾う。客によっては酒手をたんまり強奪しようという雲助稼業である。
 商店の奥をのぞくと、時計は九時をまわったところだ。いいカモをつかんで一パイありつきたいものだと思っているところへ、進みよった一人の紳士、黒い外套の襟に顔をうずめ、ハットを眼深にかぶっているが、色白の秀麗な眉目は隠しきれない。美髯びぜんをピンと八の字にはねて、年のころは二十六七、三十がらみという青年紳士である。手にはかなりカサはあるが、そう重くもないらしい包みを持っている。
 捨吉は車を寄せて、
「へ。どうぞ。旦那、どちらまで」
「乗って参るのではない。本郷真砂まさご町に中橋という別荘がある」
「ヘイ。ヘイ。存じておりやす」
「その別荘に行李が一個あずけてあるから、それを受けとり、浜町河岸の中橋本邸へ届けてもらいたい。お前が行李をつむと、別荘番が二円の祝儀をくれるから、お前は一ッ走り、十時前に本邸へ届けなさい」
「ヘイ。それだけで?」
「それだけだ。急いで行け」
 と、青年紳士は上野駅の方へ去ってしまった。切り通しを登って三丁目をすぎれば、すぐ真砂町。中橋別荘の門前へ走りついた捨吉が、閉じた門を四五分もヤケに叩いて大声はりあげて案内を乞うと、ようやく門をあけて現れた別荘番の老人が、
「今、門をしめたばかりだというのに、お前はさっきの車夫か」
「さっきの車夫だか、いつの車夫だか知らないが、ごらんのような車夫でさア。本宅へ届ける行李を受けとりに来やしたから、二円の御祝儀をいただきやしょう」
 祝儀がよいから、捨吉はせいぜい愛想笑いのようなものをフンパツしてみせる。老人は行李をつませて、二円を与えたが、捨吉が礼を云うと、ブリブリして、
「オレに礼を云うことはない。人を馬鹿にしておる。さッさと行け」
「ヘイ」
 二円もらえば、文句はない。捨吉は老人の小言をきき流して門をでたが、切り通しを降りるころから考えた。浜町といえば、そう遠くはない。一ッ走り、届けるのは何でもないが、二円の祝儀がタダゴトではない。中橋英太郎といえば、今は時めく出世頭の一人。海外貿易商事や興行物ですごいモウケをあげているという評判の旦那だ。ズッシリ重い行李の中身は分らないが、虫蛇お化けでないことは確か。あるいは密貿易の秘密の財宝であるかも知れない。行李を預った車夫がモーローの捨吉だとはお釈迦様でも御存知ないから、次第によっては、そっくり頂戴に及んでもめったに発覚の怖れもなかろう。とにかくたって今夜の中に届けるにも及ぶまいから、まず一夜お預けをねがってゆっくり中身を拝ませていただこう、と、下谷万年町の貧民窟の自宅へ行李を持ちこんだ。
 誰も嫁になる者のないヤモメ暮し。こういう時にはグアイがよい。途中の酒屋で買ってきた貧乏徳利から茶碗酒をガブ飲みして、ホロ酔いキゲン。充分に雰囲気をつくって、宝物を拝もうという捨吉にしては上出来の分別であったが、ヤッコラ、ドッコイ、スットコ、ドッコイと縄をといてフタをあけると、捨吉の奴、尻餅をついて腰をぬかしてしまった。中から現れたのは、見るも無残な女の他殺死体である。
 捨吉はピックリ仰天、一夜マンジリともせず死体のかたわらで考えあかしたが、よい思案がうかばない。夜の明けきらぬうちにどこかへ捨ててしまおうと車にひいて街へでたが、悪事には馴れていても度を失うと日ごろのような気転がない。捨て場に窮しているうちに、お巡りさんにつかまってしまった。

          ★

 所轄の警察ではアッサリ捨吉の犯行ときめて、殺された女の身元さがしだけにかかっていた。美女ひとりとみて、手ごめにして殺したもの。モーロー車夫のよくやることだ。殺しッ放しに捨ててこず、行李詰めにしたのは、自宅へひきこんで手ごめにしたためだ。こう簡単にきめこんだ。
 たった一人、若い巡査が不審をいだいて、念のため、捨吉の申し立てる中橋別荘へ辿って行って、別荘番にきいてみると、意外、彼の申し立てが真実とわかった。しかし、別荘番の言うことも変っている。
「御訊ねの通り、まことに人を小馬鹿にした車夫のふるまいですが、いったい、奴めが何をやりましたか」
「小馬鹿にしたと申しますと、何か致したのですか」
「致すも、致さないも、夜分、当別荘の玄関へ車をつけて、一個の行李を下して、本宅へ届ける行李だが、あとで誰か本宅へ届ける者が受けとりにくるから、その者に行李と二円の祝儀を渡してくれと云って、二円おいて行きおったのです。それから三四十分もたつと戻ってきて、門を叩いて喚きたて、行李をつんで、二円とりもどして行きおったのです。まことに憎いふるまいではありませんか」
「なるほど。して、先に行李を置いて行ったのは何者ですか」
「なに、当人です。小一時間ほどたって、再び現れて、持って戻っただけのことです」
「二人は同一人物でしたか」
「それは同一人にきまっていますとも。二円の仕事を人手に渡す車夫がいますか。昔からゴマノハエと雲助は道中のダニと申す通り、今日、東京のダニはスリと人力車夫。あのダニどもが、二円という大枚の手間を人手に渡すものですか。居酒屋で一パイやる間、この玄関へ保管をたのむ狡猾な手段でしょう」
 若い巡査はこれを本署へ報告した。もう暮れ方であった。
 この奇妙な報告だけでは、署の意見を動かす力にならなかったかも知れない。折も折、同じ署の管轄内で起った奇妙な出来事の報告がきていた。事件の主は、所も同じ万年町の長屋にすむ人力車夫の音次という男である。しかし捨吉とちがって、モーローではなく、上野駅の人力集会所に席をおく車夫である。
 昨夕方六時ちかいころ。短い日がトップリくれた時刻であるが、彼が戻り車をひいて公園下、今なら西郷さんの銅像のある山下を通ってくると、二十二三ぐらいと思われる女によびとめられ、根津までと云うので、彼女を乗せて池の端から帝大の方、当時は狐狸の住み場のようなところを通りかかると、
「ちょッと気分がわるいから、車を止めて」
 と云う。そこで、車をとめる。女は車を降りて歩くこと五歩六歩、しばらく佇んでいたが、
「アラ、ハンカチを落したわ。香水が匂うから、すぐ分るはず。私の足もとを探して」
 というので、音次がチョウチンをかざして地面へかがみこむと、女の足もとに、すぐ見つかった。
「姐さん。いい匂いだねえ」
「そうよ。舶来の上等な香水だから。日本にはめったにない品だから、たんと嗅ぎためておきなさい」
 と、こう冗談を言われ、音次もちょッと妖しい気持になった。場所といい、女のなれなれしい態度といい、いかにも気のある風情。なやましい気持がグッとこみあげる。そこで先ずハンカチの香気を思いきり吸いこんだと思うと、そのまま何も分らなくなってしまった。音次は程へて気がついてみると、車夫の服装をはがれている。二三時間土の上にねていたらしいが、寒気に死ななかったのが、まだしも幸せ。車夫の服装一式と共に、人力も消えてなくなっている。狐狸のすむ場所だから、本当に化かされたのかも知れないと、音次は青くなって逃げて帰った。
 音次の車は翌日帝大の構内にすててあった。車の中に服装一式なげこまれていた。以上のような奇妙な報告がきていたのである。捨吉の話では眉目秀麗な青年紳士だが、音次の客は二十二三の女だという。話が合わない。そこで音次をよんで訊いてみた。
「ヘエ。チョウチンの明りでチョイと見ただけですが、ちょッとしたベッピンのようでした。なんしろ寒うござんすから、肩掛を鼻の上からスッポリ包みこんでいましたから、よくは分りません。頭はイギリス巻のようなハイカラでしたよ」
 肩掛はショールともよんだ。今の人には見当もつかないような無骨な流行で、いわば一枚の毛布をスッポリかぶったようなもの。足はひきずるばかり、長マントのように全身をつつむのである。人力にのれば膝かけとなり、百花園へ行けば座ブトンになり、馬車にのれば被り物にもなるなどと当時も言われた程のもの。しかし明治二十年前後には一世を風靡した婦人の流行服装なのである。
 こういうもので鼻から下をスッポリ包んでいては、人相はシカと分りッこない。
「行李のようなものを運ばせたのではないか」
「いえ。行李なんぞ持ってやしません。ちょッとした包みを持っていましたが、カサはあるようでしたが重い荷物ではございませんでしたね」
 まったく符合するところがない。
 しかし、署の老練家のうちにも、死体を点検して、捨吉の犯行を疑っている者もあった。殺し方がむごたらしい。ノドをしめて殺しているが、両の目に一寸釘をうちこんでいるのである。手ごめにして殺しただけの捨吉が、こんなむごいことをするであろうか。又、汚物をふき去って、シサイにしらべてみると、暴行されたような形跡がない。
 だが、又、他の老練家は説を立てて、
「ナニ、一寸釘を両の目に打ちこんだのも、二人の車夫に化けたのも、みんな捨吉のカラクリなのさ。暴行された跡がないのは、自宅で存分慰んだあげくだから、野原で手ごめにしたのとは違うのが当然だ。音次の奴は狐に化かされただけのこと、事件になんの関係もない」
 だが、それにしては、翌朝まで行李を持って廻って、捨て場に窮していたのが、おかしい。
 捨吉の犯行を疑って中橋別荘を訪ね、彼の申し立てが合っているのをたしかめた若い巡査は仲田と云って、メンミツな思考力をもつ優秀な探偵であった。彼はこの事件は捨吉の申し立てが全面的に正しくて、必ずや中橋家に深い関係があるに相違ないと狙いをつけた。
 そこで翌日足を棒にして中橋家の周囲を洗ったアゲク、中橋にはヒサという妾があって向島にかこわれていると知り、ここを訪ねてヒサが十一月の晦日以来行方不明であることを突きとめた。妾宅からヒサの母と女中を署へ連行して首実検させると、まごう方なくヒサであることが判明した。
 ここに至って、捨吉の罪ははれ、モーロー車夫の単純な殺しではなくて、中橋家をめぐって深い事情の伏在する計画的な大犯罪であることが見当がついた。事件は警視庁へレンラクされ、結城新十郎が登場を乞われて魔の犯人と腕くらべをするに至ったのであるが、犯人の世にも聡明な狡智によって幾重にも張りめぐらされた奇々怪々なカラクリ、実に明治最大の智能的殺人事件は、さすがの天才児新十郎もその謎をとくには血の汗のしたたる難儀を要したのである。彼は人に語って、かほど完璧な構成を示す犯罪は外国にも類例稀な、あたかも芸術的性格をおびだ天才的な作品だ、と賞讃したほどであった。

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 警視庁から出張した新十郎はじめ御歴々は探偵を諸方にだしてヒサの身元を洗わせると怪しい人物が多々浮んできた。
 ヒサの実家は菊坂の駄菓子屋、父はなく母親の女手一ツで細々と育てられたが、育つにつれてヒサの美貌は衣を通して光りかがやくばかり、菊坂小町、本郷小町、イヤ、東京小町だなどと評判をよんだ娘である。母親も人目にたつ後家であるから再縁をすすめる人も多かったが、菊坂随一の貧乏世帯を必死にがんばり通したシッカリ者、ヒサが光りかがやくように美しくなるから、ほくそえんで、これで苦労のしがいがあった、然るべき旦那をもたせて老後を安楽に暮しましょうと、せいぜい娘に虫気のつかないように油断なく気をくばっていた。けれども親が案ずるほど虫気がつくのは世のならい。
 ここに医学部の書生で、荒巻敏司という美男子があった。然るべき官員の息子で、赤坂に屋敷があり、本郷へ通学していたが、いつしかヒサと言い交す仲になった。
 ヒサの母は天下の学士といえども、成功が遠い将来にある若い者と結婚させようとは考えていない。大金持の旦那をもたせて手ッとり早く楽をしようと堅く思いこんでいたが、気がついたときには二人はとっくに切っても切れない仲である。敏司の家は裕福な官員ではあるが、当の男はまだ学士にもならぬ医者の卵、業をえて開業するのは先の遠い話である。おまけに調べてみると、この荒巻敏司は大学切っての堕落書生で、芸者は買う、娘義太夫や女芸人ともネンゴロとなる、特に女剣劇梅沢梅子一座の花形、梅沢夢之助という美貌の女芸人とは深い仲である。敏司が業を卒えたら、芸人の足を洗って丸マゲに、と、夢之助はたのしい夢を描いて男に金を貢いだりしているという評判である。
 折しも看護婦の常見キミエという十九の娘が、敏司の愛情が他へ移ったのを恨んで服毒し、自殺未遂に終ったが、調べてみると、看護婦の中にも彼と情を通じたものが数名いるらしい話である。娘の聟にはもっての外の道楽息子なのである。
 ところへ事件が起った。本郷の薬屋の息子で、河竹新七の弟子と称する狂言作者見習いの文学青年、小山田新作という者がヒサを見そめて言いよっていたが、ついに短剣をつきつけて自宅の土蔵へつれこんで手ごめにした。気違いめいた男で、手ごめにしたアゲク、裸体にして柱に縛りつけてお灸をすえたり色々と折檻したから、往来を通りかかった巡査が悲鳴をききつけて土蔵へ踏みこみ、ヒサを助けだした。示談でケリがついて新作は罪をまぬがれ、いっそ妻にと正式に申しでた。傷物になっては仕方がないから、母親もあきらめて、新作へ嫁にやろうとしたが、ヒサがウンと言わない。そのとき、ヒサの面倒を見てやろうと名乗りでたのが真砂町に別荘をもつ中橋英太郎であった。話はうまく進んで、ヒサとその母は向島の立派な妾宅に住むこととなった。それがこの五月、わずかに半年前のことであった。
 しかしヒサと敏司の仲は今もつづいていた。敏司は名題なだいの道楽書生であるが、ヒサに対する愛着の念はひたむきで、ヒサが中橋の妾になったのを一度ははげしく恨んだが、考えてみれば自分は親のスネをかじる書生の身であるから是非もない。卒業して一本立ちになったらきっと妻に迎えるからと、二人は逢う瀬をたのしんでいた。
 ところが、ここに皮肉な悪縁というべきは、女剣劇の梅沢夢之助である。彼女は道楽書生の敏司と深く言い交した仲であったが、又、彼女には数年前から旦那があり、これが中橋英太郎その人である。中橋にヒサができてからは、寵もうすらぎ、ただ仕送りをうけるだけで、めったに中橋の訪れを見なくなったというが、敏司と深く言い交した夢之助にはそれが苦にはならなくとも、恋人、旦那二ツながらヒサに奪われた怒り恨みは一方ならぬものがあったに相違ない。

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 ヒサが妾宅をでかけたのは、十一月三十日の午前十時半ごろ。三筋町の踊りの師匠のところへお稽古がてら月謝をおいてきて、ちょッと買物に廻ってくると云って、女中をつれて出かけた。
 ヒサは中橋にかこわれて後も敏司と逢う瀬をたのしんでいたが、これが中橋に知れていろいろゴタゴタのあったアゲク、中橋は敏司をよび、ヒサとその母親も立合いの上で、今後は一切ヒサに逢わないという一札を入れさせた。それが十一月五日のことである。中橋はそれだけではおさまらず、人を介して敏司の父にかけあい、息子の監督不行届きであると厳談に及んだという。又、ヒサの母にも厳重に指図して、今後はヒサを決して一人で外出させぬように命じたから、十一月五日以後というものは、どこへ出るにも母か女中がつきそい、ヒサは身の自由を失うに至ったのである。
 中橋は毎月の晦日には、一月の仕事を整理して、多忙な一日を終り、おそく妾宅を訪れて、一二日ノンビリして行くのが例であるから、ヒサの母は心配して、
「今日は晦日だから、旦那がお見えになるよ。二時か三時には間違いなく帰っておいで」
 と出がけに念を押すと、
「わかってますよ」
 とヒサは笑って出かけた。
 ところが夕方四時ごろになって、女中がボンヤリ一人で帰ってきたから、
「オヤ。あんた一人? ヒサはどうしたのさ」
「え? まだお帰りじゃアないんですか」
 女中は顔色を失ったが、
「そうそう。それじゃア、長唄のお師匠さんの方へお廻りだわ。そう仰有おっしゃってたの。ちょッと見てきます」
 と云って、すぐとびだした。そのまま二人は夜になっても帰ってこない。
 夜も更けて、十時ごろ、中橋は自家用の馬車で乗りつけたが、ヒサが見えないので烈火の如くに怒った。そうなるだろうと怖れなやみぬいていた母親は二三十分間というもの半日用意の文句でなだめつ、すかしつ、平あやまり、手を合さんばかりにたのんだが、中橋はたまりかねて、
「エイ。うるさい。あれほど堅い指図をうけていながら、主を主とも思わぬ奴。オレは今夜は夢之助のところへ泊るから、急いで車をよんでこい」
 馬車はかえしてしまったから、よその車をよんでこなければならない。
「もう夜もおそうございます。よその車では危うございますから」
 と、ヒサの母は必死にかい口説いたが、
「だまれ。こんな不浄の家にいられるか」
 と、やにわに足蹴にする。襟首をつかまえて、ソレ、車をよんでこい、と戸外へ突きだされたヒサの母は、詮方なく吾妻橋の方まで歩いて、車を一台ひろってきた。しかし、戻ってみると、中橋はすでに立ち去ったのか、姿がなかった。
「オヤ、どうしたんだろう。もう少し、待ってみてちょうだい」
 と、車を小一時間も待たせてみたが、十二時をまわっても、中橋は戻らない。そこへヘトヘトにやつれた女中がションボリ戻ってきて、ワッと泣きだした。彼女はヒサを探しあぐねて、心当りを歩きまわり、途方にくれて空しく戻ってきたのであった。
 新十郎はヒサの母から以上のことをたしかめた後に、
「それで中橋さんは、その後もお見えにならないのかね」
「ハイ。その後、お見えになりません」
 そこで新十郎はヒサの母を返らせて、女中をよんだ。
 この女中は長田ヤスと云って二十一。女中にしては、美しい顔立である。中橋には遠縁に当るとやら。両眼失明した母と二人、中橋のわずかの仕送りで小さな家に細々と暮していたが、昨年母が死んでからは中橋家の女中となり、ヒサが妾宅をもつについて、こッちの女中にまわされた。いわば中橋家子飼いの女中だ。
「お前がヒサの姿を見失ったテンマツを語ってごらん」
「ハイ。三筋町のお師匠さんの家へ参りまして、お稽古がはじまりましたから、散歩にでました。頃合いを見て戻ってみますと、奥さんはもうお帰りだとのことでした。買物に行くと仰有ってたから、いずれお見えになるだろうと、お師匠さんのお宅に三時すぎまで待っていましたが、お見えにならないので、いったん戻りました」
 新十郎はやさしく笑って、
「お前、それは違うだろう。本当のことを隠さず申し立てなくてはいけないよ。お師匠さんのもとで、最近ヒサはお稽古したことはなかったのだろう。お前をそこへ残していずれへか荒巻とアイビキにでかけたに相違あるまい。お前はその戻ってくるのを待っているのがいつもの例であったに相違あるまい」
 ヤスは涙ぐんで、うつむいた。
「もういっぺん、昨日のことを語ってごらん」
「仰有る通りでございます。お待ちしておりましたが、約束の時間がとっくに過ぎても戻って見えません。悪いとは存じながら、いつもタンマリお駄賃を下さるので、奥さんのイイツケに背くことができませんでした」
「二人はどこでアイビキしていたね」
「私はお師匠さんの家に置いて行かれて、どこへいらッしゃるのやら、存じません」
 これでヒサと敏司がアイビキをつづけていたことがハッキリした。
 そこで多くの探偵をだして、荒巻敏司、中橋英太郎、小山田新作、梅沢夢之助らの数日来の動静をさぐらせてみると、判明してくる事実は、実に意外、又意外の連続である。
 その一。中橋英太郎は十一月晦日以来行方不明。夢之助の妾宅に姿を現していないのみならず、本宅にも音沙汰がない。本宅ではヒサの妾宅にいるものとして意に介していなかった。
 その二。荒巻敏司は十一月二十九日午後四時四十五分新橋発神戸行の直通にのって故郷四国へ赴く筈であったが、その翌日も、翌々日も東京に居た。彼が東京を去ることになったのは、両親が彼の前途に見切りをつけ、退校させて、故郷で実務につかせるためであった。彼は旅装をととのえて家を出ている。家人は彼が東京を出発したものと信じている。
 その三。小山田新作は意外にも三ヶ月前から梅沢女剣劇一座の座附作者をしている。
 さて、その次にもたらされた報告が奇ッ怪をきわめているのである。これは梅沢女剣劇の小屋へ探偵にでむいた班からの報告である。
 女剣劇のかかっていたのは、浅草六区の飛龍座というバラック造りの劇場の番附には入れてもらえぬ悲しい小屋だ。浅草奥山が官命によって取払われたのは明治十七年、その代地として当時田ンボの六区が与えられたが、区劃整理して縦横に道を通じて後、ようやく五六軒の名もないような小屋と、十軒あまりの飲食店などができたばかり、当時は新開地とよんでいたが、今の六区には比すべくもない田ンボの中の小さな遊園地である。一二年後に常盤座ができて、やや劇場らしい劇場が存在することになったが、そうなると、それまでのバラック小屋は年々とりこわされて新しく装いをととのえ、草分け当時のバラックの名は知ることのできないのが多い。飛龍座はまアいくらかマシな小屋であった。
 ここで五ヶ月打ちつづけた女剣劇は、十一月二十九日に興行を打ちきり、三十日に荷造りして、十二月二日から横浜で興行することになっていた。中橋からの仕送りで生活に困らぬ夢之助は、こんな貧乏一座に悲しい舞台をつとめる必要はないのだが、座頭の梅子は夢之助の義理の母、育ててもらった義理があるから、一座からぬけられない。夢之助の美貌と芸達者は座頭以上に一座の評判を支えているから、自分だけ左ウチワというワケにいかないのである。もっとも、旦那に隠れて間夫まぶにあうには、この方が都合がよい便利もあった。
 さて、十一月晦日には、この小屋に、二ツの奇妙な事件が起った。十二月二日からの横浜興行のために、この日は一同荷造りに忙しく、翌一日には車で運ぶ手筈である。
 そこへ現れたのは、この辺では見かけたことのない目のさめるような若奥様風の女である。もっとも彼女が伴ってきた女中風の二十がらみの女は、この辺でよく見かける顔だ。日中殆ど毎日のように新開地をブラブラして、小屋の者ともナジミがあるが、どこの何者だか分らない。この二人づれが小屋の中へまぎれこむと、狂言作者の小山田新作が、どういうワケだか分らないが、美しい方の女に向って乱暴しようとした。人々に距てられ、女中風なのが彼女を抱くようにかばって、夢之助の楽屋部屋へつれこむ。この一座で自分の部屋を持っているのは座長と夢之助だけである。それから、どうなったか、みんな多忙をきわめているから注意している者もなかったが、二三時間後に、女中風の女の方が、奥さんはどこだろう、と方々ウロウロききまわっていたが、誰も女の行方を知っている者がなかったらしい。女中風の女はあきらめて帰ったようである。
 午後になって、いつごろからか、一人の若い女がブラついていた。この女は先程の二人づれとは関係がないらしいが、キリッと美しい女で、年の頃は二十前後である。午後二時ごろ、荒巻敏司が現れて、夢之助の部屋へ行った。まもなく悲鳴が起ったが、人々がかけつけると、すでに女の姿はなく、荒巻が慌てて外套をぬいだり洋服をもんだりしていた。女が荒巻に硫酸を投じて逃げたのであるが、荒巻は外套をボロボロにしただけで、怪我はなかった。夢之助はそのとき小屋に姿が見えなかったので、これも別条ない。
 以上のような二ツの怪事が飛龍座の留守番によって報ぜられた。梅沢女剣劇一座は昨二日来横浜に興行中で、この小屋は目下休業している。
 これを報告した探偵は言葉をつけ加えて、
「飛龍座で行方不明になった女中づれの美しい女が、着衣や人相などヒサによく似ておるようであります。劇場の番人を連れて来ておりますが」
 そこで番人に死体を見せ、ヤスを見せると、二人づれに相違ないことを確認した。ヤスが今まで申し立てていたことは、全部真ッ赤な偽りであったのである。新十郎はじめ探偵たちは俄然色めきたった。ヤスをよんで詰問すると、ヤスは涙の一升五合も流したアゲクにはなの三合もたらしたのを始末して、
「どうかカンベンして下さいまし。奥さんからいつも駄賃をいただいておりますし、こんなことが起りましたので、怖しくて、正直に申し立てることができませんでした。三筋町のお師匠さんへ行ったというのは真ッ赤な偽りで、いつも真ッ直ぐ浅草へ参っておりました」
「いつも二人で新開地へ行ったのかね」
「いいえ。吾妻橋を渡って仲見世の中程から馬道の方へまがってちょッと小路をはいりますと、露月というちょッと奥まった待合風の宿がございます。奥さんは真ッ直ぐここへお這入りになる。私は新開地へいっていつもブラブラしていました。荒巻さんはいつも飛龍座にいますから、奥さんと打合せのない日は、私が行って知らせますし、用がすんで奥さんが帰る時は荒巻さんが戻ってきて知らせてくれます」
「十一月三十日のことをできるだけ正確に述べてごらん」
「あの日だけは今までと違います。いつもですと吾妻橋から仲見世へ曲り、その中程から又曲って真ッ直ぐ露月へ這入るはずの奥さんが、この日に限って、新開地へ行こうと仰有るのです。なんでも、夢之助さんに厳談があるとかで、荒巻さんとのアイビキが旦那に知れたのは夢之助さんのせいだったと、そんなことを申しておられました。で、飛寵座へ御案内しますと、皆さん荷造りで忙しい中から、小山田さんがヌッと現れて、いきなり奥さんを抱きすくめて乱暴しようとしました。奥さんが悲鳴をあげて大騒ぎになり、私は奥さんをかばって夢之助さんの部屋へおつれしました。奥さんは驚いて気分を悪くなさったらしく、蒼ざめて苦痛の様子でしたが、夢之助さんが親切で、お水をのませるやら、介抱して下さいまして、しばらくそッとしてあげるがよかろうと仰有るので、私は外へでて、方々小屋をのぞいて遊んでいました。一時間半ぐらいして戻ってみると奥さんの姿がどこにも見当りません。方々探して、三時半ごろまでうろついていましたが、先にお帰りになったのかも知れないと、いったん戻って参りました」
「奥さんの姿が見えないと分ったのは何時ごろだね」
「何時ごろか正しいことは分りませんが、一時ぐらいかも知れません」
 どうやら殺人の現場に当りがついてきた。大行李に詰めてあったも道理、女剣劇の荷造りの中に、荷物の一ツのように見せかけて荷造りされたように思われるのである。
 そこへ横浜から夢之助はじめ、小山田新作、荒巻敏司らが連行されてきた。ここに至って、事件は直ちに解決するものと、新十郎はじめ、甚だ簡単に考えたのだが、あにはからんや、これより益々迷宮に入るのである。

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 先ず意外なのは荒巻の証言であった。彼はこの日、十一時ごろ、いつもの通り露月でヒサと会う約束であったから、十一時前から露月で待っていた。十二時、一時をすぎてもヒサが姿を見せない。二時ちかくまで待っても見えないので、諦めて飛龍座へ戻ってくると、そこに彼を待っていたのはヒサではなくて、看護婦の常見キミエである。
 キミエは荒巻が学校を中退して故郷へひッこむということを知り、学校を卒業したら結婚するという口約の実行をせまるために彼の姿を探していたのであるが、すでに男に裏切られたことは明かであるから、顔に硫酸をブッかけて恨みをはらすのが目的であった。不覚にも荒巻は夢之助の部屋へ逃げたが、そこに夢之助が居合したなら、悲劇はさらに大きくなったかも知れない。幸いキミエの手もとが狂って、荒巻は外套をボロボロにしただけで助かった。
 帰郷する筈の荒巻が尚東京にとどまっているのは、ヒサを郷里へ同行せしめるためであった。業半ばに中退とはいえ、帰郷後は就職して一家をなすのであるから、やがてはめとる妻であり、彼はヒサに駈落ちを申しこんでいた。当分華やかな暮しは出来ないかも知れないが、ヒサも切に荒巻との結婚を希望していた。とはいえヒサには母もあり、単に二人だけで手に手をとってとはいかないから、家をたたんで後を追うには用意がいる。それを充分に打ち合せるために東京にとどまってアイビキをつづけていたのである。
 彼は汽車にのるはずの十一月二十九日以来、夢之助の家に泊っていた。夢之助は荒巻がヒサを妻にめとることには同意しており、快く手をひくだけの温い心をもっていたのである。十一月三十日には、荒巻が外套をボロボロに焼かれて後、三時ごろ夢之助に会った。二人はすぐ夢之助の根岸の家へ行き、酒をのんで、五時ごろにはもう枕を並べて寝たのである。以上が荒巻の陳述であった。
 彼が十一時から二時ちかくまで露月にいたことは、その人々によって証明された。たしかに荒巻は一人であった。その日、ヒサが露月に姿を見せなかったことは事実であった。
 夢之助の陳述はこうである。
 彼女が楽屋で荷造りしていると、部屋の外に騒ぐ音がきこえて、二人の女が這入ってきた。一人はよく見かける顔であるが、一人ははじめての顔でヒサだとは知らない。ヤスがちょッとかくまって、というので、どうぞと中へみちびくと、ヒサは気分が悪いらしく蒼ざめて苦しそうだから、水をのませて、横にさせ、有り合せのものをかけてやったりした。
 その後、夢之助は養母の荷造りを手伝ってやったり、他の人々の世話をやいたり、部屋に病人を残したまま方々かけまわっていた。いつのまに病人が居なくなったか気がつかなかったし、気にかけもしなかった。すッかり忘れていたのである。一時ごろ、れの女が訊きにきたが、彼女は知らないと答えた。
 まもなく横浜の興行主が打ち合せにきたので、彼女と母と小山田の三人で料理屋へ興行主を誘い、用談を終えて三時ごろ小屋へ戻ってきた。留守中に荒巻が硫酸をぶッかけられる事件があったというが、彼女はその時居合せなかった。
 荒巻と彼女はさっそく根岸の自宅へ戻って、用が一先ず片づいたので、酒をのみ、五時ごろねむった。彼女はやがて荒巻と結婚するつもりである。荒巻がヒサという女と関係していることは知っているが、ヒサは彼に愛想づかしをしており、そのために彼の気持は一時すさんでいた。特に中橋に誓約書をとられて以来、ヒサの態度は次第に冷淡になり、そのために、彼の愛情は夢之助に傾いて、彼が帰郷するについて、正式に結婚したいということを持ちかけていた。養母への義理があるので、直ちにとはいかないが、なるべく早く結婚すべく、二人は手筈を相談していたのである。以上が夢之助の陳述であった。
 これによると、二人の告白は、男女間の愛情問題に於て甚しく見解が相違している。他の点に於ては、食い違いがない。捜査する身にとっては、この食い違いが玉手箱。開けないうちがお楽しみで、しばらくそッととっておいて、捜査を先へ進めてゆく。
 小山田新作の陳述はこうである。
 彼はたまたま六区へ遊びにきて、夢之助の美しさに見とれ、自ら買って女剣劇の作者に身を落したのである。しかし夢之助が中橋の二号と知ってからは横恋慕を思いとどまった。というのは、彼は中橋を崇拝していたからである。中橋は商品の貿易商であると同時に、興行物の貿易商でもあり、外国の見世物を日本へ、日本の物を外国へ紹介している。というのは、彼は元来が芸人で、明治初年に渡米し、彼の地で芸人から商人に転業した立志伝中の快男児である。夢之助は渡米をともにした芸人の娘であった。
 十一月三十日には、小山田は一同を指図して、荷造りに忙殺されていた。ふと顔をあげると、あたかも幻覚を見ているような妖しいことが起った。忘れられない女、ヒサがそこに立っているのである。彼は夢の中にいる時のように自然にヒサをだきしめて、熱く頬をよせたのである。夢はやぶれた。ヒサは悲鳴をあげ、彼は人々に距てられた。それからあとは心をとり直し、思いだすたびに幻を払いつつ、ただ懸命に荷造りにうちこみ、その時までは指図するだけで、めったに自分で手をださなかったが、それからは自ら先に立って荷造りし、人のぶんまで汗水たらして働きまくったのである。小屋の中を西にとび東に走り、荒々しい息づかいで、鬼の如くに力仕事に精神を使い果したほどである。
 一時ごろ、横浜の興行師が来たので、座長、夢之助、彼の三人で料理屋へ招いて、興行を打ち合せ、三時ごろ小屋へ戻ると、荷造りは全く終っていた。彼は一度ヒサを見て抱きついただけで、その後は全く見ていない。
 彼は荷造りの座員をねぎらうため、酒を買わせて楽屋で酒宴をひらき、明るいうちに大虎になって、みんなと寝こんでしまった。目がさめた時は夜の十時ごろで、彼だけそッとぬけだしてわが家へ戻ったのである。尚、彼は劇団からは一文も受けとらず、かえって金を持ちだしているほど劇団につくしているのである。以上が小山田の陳述であった。
 彼の陳述は座員によって証明された。彼はたしかに一同と酒宴をひらき酔いつぶれて楽屋にねこんでしまった。しかし、酒宴の一同も相前後して酔いつぶれ、後のことは分らない。尚、大部屋の連中は年中楽屋に寝泊りしていた。彼らには定まる家がないのである。
 新十郎は死体を入れた行李を示して、
「これは君の劇団の物と違いますか」
「これは古い行李ですなア。僕のところでは、はじめての旅興行で、大方新品、こんなのは無かったようです。しかし、この型の行李は芝居小屋ではよく使う物ですから、近所の小屋のものかも知れませんなア」
「中橋が芸人あがりであることや、夢之助が倶に渡米した芸人の娘だということは、本当ですか」
「結城新十郎ともあろう物識りが、それを御存知ないとは恐れ入りましたなア。芸人雑記という本の『川富三与吉』の項目を読んでごらんなさい。この警察署の前の貸本屋にもあるでしょうよ」
 そこで新十郎は貸本屋からその本をとりよせた。行方不明の中橋英太郎について知る必要があったからである。そこに誌された記事は又もや甚だ意外きわまるものであった。その記事は次の通りである。

 川富三与吉。軽跳。明治四年米人ハリマンに招かれて渡米す。一行次の如し。
 軽跳。三与吉。妻ハナ。
 コマ廻し。松井金次。妻小まん。娘フク八歳(コマの中に入る)ツネ五歳。せがれ良一当歳。
 軽跳。梅之介。手妻。同人妻柳川小蝶。連れ子ヤス五歳。
 綱渡。浜作。三味線。妹カツ。カツの娘スミ四歳。
 曲持足芸。慶吉。右上乗。三次。後見三太郎。妻ミツ。倅参次三歳。上乗又吉。笛吹。当松。妻ロク。娘アキ六歳。倅国太郎二歳。太鼓打。正一。妻ボン。倅馬吉当歳。
 手妻。柳川蝶八。手妻。同人妻金蝶。娘ラク三歳。
 四月十一日横浜出帆。追々各地を廻り、同年暮サンフランシスコ興行中、銀主三与吉の家族多勢なるを好まず、演芸に必要なる者を残し、他を船にのせて送り返さんとす。三与吉怒りて銀主を殺害せんとして大負傷を負わしめ彼の地の警官に捕縛せられたるに自殺して果てたり。一同途方にくれたるに、軽跳の梅之介は心ききたる者なれば、新に蝶八を長として一団をくましめ、己れは彼の地の商社に入りて実業を学ばんとす。時に妻柳川小蝶を離別し、かねて懸想せる三与吉の後家をめとりて一団を離る。浜作の妹カツも情を通ぜる仲なれば梅之介を恨み自殺して果てんとして遂げざりしという。梅之介、本名、英太郎、今日中橋商事の社長にして貿易界の一巨材たり。蝶八は一団を率いて南米北米を打ち廻りあまた艱難を重ねたるのちブラジルの地に客死せり。時に明治七年なり。取り残されたる一団は解散し、金次、慶吉らは本国に帰着せるも、彼の地に窮死せる者、行方知れざるもの多し。小蝶は黒人と結婚して曲馬団に加わり七八年がほど欧米を巡業せるも、のち失明して黒人にも捨てられ、娘ヤスにまもられて悄然帰国せりという。カツは梅之介の尽力により娘スミと共に他に先立ちてすみやかに帰国のかないたるは梅之介の罪ほろぼしにや。されど難路の疲れなるべし。帰国まもなく病を得て死せり。スミは叔母梅沢梅子に育てられ今日梅沢夢之助を名乗りて女剣劇の名花たり。

 まことに異常な記録である。夢之助の母カツは中橋の芸人時代に情婦の一人であり無情を恨んで自殺未遂の経歴があるわけだ。それにも増して意外なのは、黒人と結婚して曲馬団に入り失明して捨てられたという柳川小蝶である。これぞヒサの召使いヤスの実母であろう。中橋がわずかの仕送りを与えて細々と暮しをたててやったも道理、一度は彼の妻たりし小蝶、連れ子のヤスは中橋を父とよんだ幼い時期もあったわけだ。
 新十郎はしばし感慨に打ち沈んだが、ヤスをよんで、
「お前はいくつの年にアメリカから帰ってきたのかね」
 と、だしぬけに問うと、ヤスは吃驚びっくりしたが、
「十三の年でございます」
 蚊のなくような声で答えた。
「お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね」
「覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!」
「そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか」
 ヤスは呆然、目を皿にしたが、
「いいえ。気がつきませんでした。そういえば面差しが残っています。一しょに遊んだのは六ツ七ツの頃ですけど」
 夢之助をよんで、ヤスを記憶しているかと問うと、夢之助は首をふって否定した。彼女は当時、あまりに幼かったのであろう。

          ★

 常見キミエが連行されてきた。その陳述は次の通りである。
 彼女は中食後本郷の宿舎をでた。六区へ着いたのは一時ごろ。二時ごろ荒巻の姿を見かけて飛龍座へ追ってはいり、夢中で硫酸をなげつけて逃げた。探偵が自分の跡を追っているような気がして寸時も心の休まる時がなく、宿舎へ戻ればそこに探偵が待ちぶせているように思われ、彼方へ歩き此方へ曲りして、どこを歩き、どこをさまよったか、よくも記憶していないが、最後にどこかよく知らない寄席で時間をつぶして、深夜宿舎へ戻ってきた。キミエの陳述は以上の如く、てんで雲をつかむようであるが、罪を犯して逃げる者の心理としては、甚だ当然なことでもあった。
 新十郎は再び荒巻をよんで、
「君は先刻、ヒサと結婚することを夢之助が了解しているように言ったが、夢之助はそうではないと言っているよ。夢之助の語るところでは、結婚の相手は自分で、君はヒサに愛想づかしをされていると云うではないか」
「いえ。そんなことはありません。ヒサは私を追って四国へくることに話がきまっていました。ただ、時期と方法の問題をあれこれ相談していたのです」
「それはおかしいねえ。君は三十日の夕方にも夢之助と酒をくみ交しつつ結婚の時期と方法を相談したと夢之助は言っているが、同時に二人の女と同じことを相談していたのかね。ここへ夢之助をよんでくるが、君は今の言葉を復誦するだろうね」
「いえ。ちょッと待って下さい。たしかに二人じの女と同じことを相談していたのです。ですが、夢之助と語る場合は本気ではありません。一時のがれなのです。なんとかしてヒサが先に四国へ来るように、夢之助がおくれるようにと、そこに苦心していたのです。一足先にヒサと結婚してしまえば、キミエのような嫉妬深い女とちがって、夢之助は案外アッサリあきらめるような女なのです。ですが、これはナイショですから、夢之助の前で、こうは言いたくないのです」
「ヒサが死んだから、今度は夢之助にかかりきるというわけかね」
 と、新十郎は珍しく苦々しげに皮肉を云った。
 連行した容疑者一同は署に泊めおくことにして、新十郎がでかけたところは、根岸の夢之助の妾宅であった。召使いをよんで、
「十一月三十日に、夢之助と荒巻の両名が揃って戻ってきた筈だが、それは何時ごろだったね。らくの翌日の荷造りの日だよ」
「ハッキリとは覚えていませんが、夕方ちかいころでしたね。これで一段落、忙しい用がすんだ、と、すぐお酒盛でした。まだ日のあるうちに、疲れた、疲れた、とおやすみでしたよ」
「寝室は二階だね」
「旦那がお見えになると二階が寝室ですが、荒巻さんと御一緒の時は、そこの離れのような小部屋でございます。玄関からはどこよりも離れていますし、雨戸をあけると、誰にも見られず裏木戸へ抜けられます。荒巻さんは帽子も靴も荷物も一切合切この離れへ持ちこんで、イザと云えば逃げだす用意をととのえて、おやすみになるんですよ」
「二人はグッスリねていたかね」
「そんなことは知りやしません。ただ夜の十時ごろ水をと仰有ったので、お届けしましたが、荒巻さんの方は眠っていました」
「その晩、中橋さんはたしかに来なかったのだね」
「たしかにお見えになりません」
 最後に新十郎は浅草六区の地に立った。飛龍座をはじめ、小屋の一ツ一ツをメンミツに見て廻る。全部見て廻ってから、飛龍座の隣りの休業中の小屋へもう一度戻ってきた。飛龍座の楽屋口から、こっちの楽屋口へ細い路を距ててすぐ渡れるような構造であった。
 彼は番人をよんで、
「この小屋はズッと休んでいるのかね」
「ヘイ。とりこわして、新しい小屋をたてるとかでね。常盤座とかいう浅草一の立派な小屋をつくるとかいうことで」
「留守番はお前だけか」
「ヘイ。ほかに女が一人いますが、こんな何もない小屋のことですから、留守番なんぞいらないようなもので。お天気の日はあッしも女房も日中はたいがい働きにでて、帰ってくるのは夜の八時ごろでさア」
「小屋の戸は鍵をかけるのか」
「いえ、鍵なんざ、ありません。内側からカンヌキはかかりますが、それは夜だけのことで。自分の部屋の戸の鍵をしめるだけでタクサンさね。盗られるものは何もありやしませんや」
 新十郎は大道具の材木がつんであるところへきて、その片隅に五ツ六ツならんでいる古ぼけた大行李を指した。
「この行李の数が一ツ減ってやしないか」
「そうですねえ。そう云えば、なるほど、以前は七ツあったかね。するてえと、一ツ減ったかも知れないね。なに、空ッポで、中には何もはいってやしませんので」
 新十郎は下を見廻して、
「フム。一寸釘が至るところに散らばっているなア」
 独り言をもらしたが、彼の目は一点ももらさぬようなきびしさで、小屋の中を隅から隅まで見て廻った。
 彼は一点を指した。
「ここに何かをひきずッた跡がある。出口へ向って三間ほども。何がひきずられたか」
 彼は人々の顔を見廻して笑った。そして叫んだ。
「死体をつめた行李!」

          ★

 その晩、花廼屋はなのやと虎之介が新十郎の書斎へ遊びに行くと、彼は机上の白紙に図面をひいて、先客のお梨江と二人考えこんでいた。見ると、上野だの本郷だの浅草だのと書きこんだ図面であった。
 新十郎は図面を四人の真ン中へひろげて、説明をはじめた。
「ヒサが自宅を出たのが午前十時半。飛龍座へ到着したのは十一時ごろでしょう。飛龍座へ到着匆々そうそう小山田に抱きすくめられて夢之助の部屋へ逃げこみ、ちょッと伏せったのですが、ヤスが主人の姿が見えないと云って騒ぎだしたのが午後一時ごろ。してみると、十一時から一時までの二時間の間に、ヒサは殺されて行李詰めにされたようです。これは先ず確実と思われます」
 一同に異議がないらしいので、新十郎は語りつづけた。
「一人の女、もしくは女装した男のいずれかが、その日の夕方六時ごろ、とっぷり日のくれた上野の山下で音次という車夫をよびとめました。帝大裏と不忍池しのばずのいけの間の淋しい道で音次にクロロホルムをかがせて昏倒させ、女装をぬいで男の車夫に変装して車をひいて走りだすまでに、三十分はかかりますまい。犯人は車夫の姿で車をひいて一散に駈け戻ります。行く先は浅草。飛龍座の隣りの小屋です。一時間なら楽々到着できます。行李をつんで再び同じ道を戻ります。まだ七時半にはならなかったでしょう。かくて約一時間。八時半ごろ、本郷真砂町の中橋別邸へ到着しました。その玄関へ行李を下すと、帝大構内の淋しいところへ車をすてて、車夫の服装をぬぎ、持参の紳士服をきて外套をつけ、ハットをかぶり、忽ち青年紳士に変りました。さて、出発当時の女装一式を包みにしてたずさえた彼もしくは彼女は、急ぎ足に切り通しを降り、九時ちょッと廻ったころに上野広小路でモーロー車夫の捨吉によびかけました。捨吉は彼の奇妙な命令を体して真砂町の中橋別邸へと急ぎ去る。これで犯人のその日の行動は終りをつげたのです」
 虎之介はクビをふって、
「音次をよびとめた女と、捨音をよんだ男とは、別の人間さね。ただし一心同体ではあるが、な。失礼ながら、あなたはまだお若い。男女の道に心得がなくては正しい推理をあやまりますぞ。なア、お梨江嬢。結城さんを名探偵に仕込むためにヨメを探してあげたいと思うが、どうだろう」
 そこへ古田老巡査が慌ただしく駈けこんできた。
「只今警視庁から急報がありましてな。中橋英太郎が腐爛した死体となって隅田川の言問ことといのあたりへあがりましたぞ。水死ではなくて、クビをしめられて死んでおったそうです」
 新十郎はガク然色を失って立ち上った。
「シマッタ! 推理が狂ったか! イヤ。待て、しばし」
 彼は直ちに冷静をとりもどした。すばやく服装をととのえ、一同は馬を急がせて現場へ急行する。新十郎は火を吐くような目で、中橋の死体を睨みつづけていた。
 彼は怒り声で叫んだ。
「この犯人はヒサを殺した犯人と同一人です。ごらんなさい。二人は同じように死んでいます。そう苦しくもなかったように。殆ど抵抗した様子もなく。つまり、二人ともクロロホルムをかがされてから絞殺されているのです」
 彼はすぐふりむいた。
「さて一夜、ゆっくり考えてみましょう。明日の午後、犯人を捉まえようではありませんか」
 一同をうながして帰途についた。神楽坂へ戻りついて、門前で虎之介と別れるとき、ニッコリ笑って、ささやいた。
「音次がのせた女と、捨吉に用を云いつけた男は、たった一ツですが重要な点で類似しているのです。二人とも、カサばってはいるが、そう重くはないような包みを持っていたのです。では、おやすみ」

          ★

 氷川の勝邸で海舟の前にかしこまっているのは云うまでもなく虎之介。太陽もあがらぬころから、勝邸の門があくのを待っていたという慌ただしい駈け込み訴えである。
 日毎々々の報告を連日怠りなく講じておいたから、ちょうど読みきり講釈のデンで、ただ今最終回をつとめ終ったところ。まだ日はそう高くはない。奴め握り飯を腰にぶらさげてきて海舟の朝食に御相伴したらしく、彼のお膳の横には竹の皮がちらかっている。
 海舟は食後の茶を味わい、再び砥石に水をしめしてナイフをといだ。静かにとぎ終って、薄い刃に吸いこまれるように眺めふけっていたが、チョイと蚊でも払うような軽さで小手を後にまわしたと思うと、後頭をきり、懐紙で血をふいた。それを数回くりかえしたが、やがて、おもむろに謎をといてきかせた。
「新十郎の説の如くに、この犯人はただ一人、共犯はないぜ。上野山下と広小路に出没した男女二人いずれも同じような大きな荷物を持っていたのが同一人の証拠だよ。この犯人は、夢之助さ。女剣劇の立役者、車夫にも美男子にも化けるのは自由自在というものだ。かほどの苦心を重ね術をつくして死体詰めの行李を運びだしたのは、殺した場所と時間を狂わせるため。又、犯人を男と見せかけるため。本郷を中心に行李が往復している如くに見せかけたのは、大方小山田の犯行と思わしめるコンタンでやったのだろう。かくの如くに術を施しおかなくちゃア、ヒサは夢之助の楽屋部屋で行方知れずなったのだから、まず第一に疑られるにきまってらアな。そこを見てのカラクリだ。夢之助は幼少より芸人の中に育ち、軽業手妻を見つけて育っているから、指先の捌きはコツをわきまえ、クロロホルムをあやつるぐらいは器用にやってのけたろうさね。夢之助は午後の三時すぎに荒巻をともなってわが家へ帰り、時ならぬ昼酒を飲んだのは早寝と見せてぬけだすため。ねむると見せて荒巻にはクロロホルムをかがせたのち、裏木戸から忍びでたのさ。広小路で捨吉に命じて中橋別邸へ行李をとりに走らせ、予定の仕事を無事完了したのが九時ちょッとすぎたころ。再びわが家へ忍びもどって元のネマキ姿となり、女中に水を命じたのは芸の細いところで、ズッとねていたと見せるためだ。ここに哀れをとどめたのは、中橋英太郎さね。ヒサの妾宅を車のくるのを待ちきれずとびだしたのが十一時ちかいころ、根岸の夢之助の妾宅へたどりついたのが、かれこれ十二時ちかい刻限であったろう。中橋の不意の訪れに仰天したのは夢之助だ。荒巻にはクロロホルムをかがせてあるから、かねて用意の如くに裏から逃がす術がねえや。これは仰天するだろうさね。女中がグッスリ寝入りばなで目を覚さないのを幸いに、毒くらわば皿までと表へまわってクロロホルムでねむらせて絞殺したが、この死体は縁の下かなんぞへ一時隠しておいて、その翌る夜、ゆっくり処理したものだろう。憎いヒサを片づけ、あつらえむきに中橋の始末もつけて、これで天下晴れて荒巻と添いとげたい夢之助の方寸だろうが、中橋がヒサの母に夢之助の妾宅へ参るとハッキリ言明しているのは天の声、実に不正はおのずから破れるものだ。いかに万全を施しても、一人の智恵は所詮知れたものだよ」

          ★

 虎之介はわが家へ戻らずに花廼屋の玄関先に突ッ立ち、因果先生を玄関口へよびだして、なんにも云えずにニヤリニヤリ笑っている。その薄気味の悪いこと。さすがの花廼屋もあてられて、苦い顔。
「シナ産の黒豚が笑っていると思ったら、二軒隣りの豪傑じゃないか。男女の道で真犯人が解けたかい」
「ハッハッハ。犯人は女だ」
「ブッ。男女の道に見切りをつけたところはお見事」
「貴公の心眼はどうだ。誰知るまいと思いのほか、天の声。実に不正はおのずから破れるてえことを知るまいな」
「知らないねえ。失礼だが犯人は男でげす。クロロホルムと変装。急所はここにありますねえ。薬物に通じて、芝居道に通じたる者。しかも変態にして吸血鬼。ねえ。犯人はただ一人。小山田新作あるのみ」
「ゲゲッ」
 と虎之介は腹をシッカとかかえて、断末魔の如くに笑いだした。その日の午後、例の一行をひきつれ、所轄署へ出頭して係りの探偵一同に参集をもとめた新十郎は、犯人のカラクリを静かに説きあかしてきかせた。
「今まで接した犯罪のうちで、この事件ほど巧妙に組み立てられたものはありませんでした。カラクリは幾重にもはりめぐらされて重点を巧みにそらし、殆どつけいる隙がない如くに完璧な構成を示しております。メンミツに計画され、一ツ一ツが予定の如く確実に実行されたもので、一石が一石ごとに意味を果し、殆どムダ手というものを見出すことができません。しかし、かほど完璧に遂行された犯罪も、なお完璧の故に弱点はあるのです。つまり最も重点から外れて見えるところに、隠れた重点があるということであります」
 新十郎は例になく奇妙な前説をつけ加えた。彼がこれほど力むのは、よほど犯人の手際に感服したからだろう。
「この事件の結び目をとく手がかりは、二ヶ所にあるのですが、まず第一には、女から車夫になり美男子に変じ、甚しい苦労を重ねてまでも中橋家へ行李を送らねばならなかったのはなぜであるか、ということです。曰く、殺された女がヒサであるということを分らせるため。曰く、殺された日時や場所が直ちに分ってもらいたいため。以上の理由にもとづくのです。犯人はヒサの両眼に一寸釘をうち、いかにも怨みの兇行らしく見せかけていますが、真に怨む者の兇行ならば、殺すことによって目的を達するわけで、ヒサがいつどこで殺されたかということは分ってもらいたくないことに相違なく、又、兇行の発覚が一日でもおそく、できることなら発覚されずにすましたいに相違ありません。中橋家へ行李を届けるために払った大苦心を、行李を隠すために用いるのが自然にきまっています。したがってヒサの眼に釘をうって怨みの兇行の如くに見せかけているのは、実は最もそうでないということ、そして、ヒサが殺されたことが一日も早く知られることが犯人の利益になること、これが即ち完璧の故に生じた弱点の一ツであります」
 新十郎は一息ついて、又、語りつづけた。
「以上の結び目がとければ、おのずから次のことが解けてきます。単に中橋家へ届けるだけなら、真砂町の別荘だけでよかった筈です。なぜ、さらに本邸へ運ばせようとしたか? これ即ち、男に変じ、女に変ずる手段によって一人物の男女に化けての犯行であると見せるため、これによって同一人物が男女二様に変装する故に役者に関係ありという結論が生じてきます。それ故に、それらしく見えることの逆が真なりの理により、この犯人は役者に縁がないということが判るのであります」
 又、一息いれた。次により重大なことを語ろうとする気魄がこもった。
「も一つの結び目は、もっと現実的な解け方をしているのですが、犯人はこれをごまかすに、自らも甚しく現実的な苦肉策を弄しているのであります。即ち、ヒサと中橋を同一人が同日に殺す場合に、中橋をあの場所であの時間に殺しうる者はただ一人しか居ないのですが、犯人はそうでなく思わせるために、自分にかかるメンミツな計画犯罪を行う智力がないもののような愚か者のフリをしてみせたのであります。すでに御察しと思いますが、犯人は、中橋にすてられて、両眼失明して暗澹たる生涯を終った先妻柳川小蝶の娘ヤスであります。ヤス以外に、この二ツの殺人を同時に行いうる者はないのです。ヒサが飛龍座に現れたのはヤス以外の全部の人に唐突で、まったく偶然の機会であります。この偶然をとらえることができても、十一月三十日の夜おそく中橋がヒサの妾宅に現れることを知る者は又ヤスのみで、他の何人もさらにこの第二の偶然をもとらえることは殆ど不可能でありましょう。中橋を即夜殺そうと思う者は、当然本宅を襲うべき理でなければなりません。ヤスはヒサが飛龍座を訪れたのはヒサの思いつきの如くに証言しておりますが、これがそうでないことは、荒巻が十一時に露月で待っていたことで知ることができます。ヒサも露月へ行くつもりでした。これを飛龍座へ行かせたのは、ヤスがそうさせたのであります。ヤスはかねてヒサを露月へ送るたびに六区に遊んで、六区の小屋のあらゆる事情に通じていました。飛龍座の隣りの小屋が日中は無人で行李があること、そこが犯行の現場たるべきことは念入りに計算され予定されていたのです。のみならず、ヒサの行方を探すフリをして、男女両様に変装して行李を中橋家へ届けることも、中橋をおびきだして殺すことも。ヤスは九時ごろ行李を始末するについての予定の全部を無事完了すると、元の女の姿に戻り、もはや身を隠す必要もなく人力を利用したりして、十時ごろには妾宅へ戻っていたでしょう。しかし彼女は妾宅の中へはいりませんでした。なぜなら、彼女は機を見て中橋を殺し、その後に、ヒサの姿を探しあぐねてようやく戻ってきたと見せかける必要があったからです。又、ヒサの行方を探すためなら、どんなに遅く戻っても怪しまれる怖れは殆どないと申せましょう。もしもヒサの母が外出せず、中橋が就寝したとせば、外から忍び入って、物盗りの兇行の如くに中橋を殺し、自分は朝方に呆然と戻ってくることも可能なのです。ヒサの母が車を探しに外出したので、この機にヤスは室内に現れ、奥さんのいる場所へ御案内しますなどとおびきだして、クロロホルムでねむらせてから殺して水中へ落したものに相違ありません。中橋を殺すことこそは彼女の真の目的で、ヒサを殺したのは他の何人かに罪をきせるためであります。十三の年まで母と共に外国の曲馬団にいたヤスは、諸事に通じ、変装やクロロホルムの扱い方などもよく心得ていたものと察せられます」

          ★

 海舟は虎之介の語る真犯人をきき終り、沈黙しばし、自若たる面色で、静かに言った。
「ヤスが犯人とは意外な真相だよ。虎の話からじゃア、ヤスがハカリゴトを用いて暗愚を装っていたというカラクリは見破ることができない。すべて探偵ということは、実地にこの目で見なくちゃア真相を見破りがたいものだ。ヤスが愚を装っているというカラクリの如きものは、目のある者には見破りうるが、虎の如くにフシ穴の目には、所詮知りうべからざることだ。フシ穴を通して捉えたことを土台にして、この方に事の真相を見破れと云うのはムリなことさ。新十郎といえども、虎の目玉を土台にしては、真犯人を捉えることは不可能事だよ。彼の目によって見る故に、よく真相を見ることができるのさ。しかし、新十郎はよく出来た奴さ。完璧なるが故に弱点もあるとはよく言い得ている。虎の如きは不完全の故に弱点だらけだが、完璧なるものといえども敢て怖るるには当らないということは、兵法、経済等のことに於ても真相だよ」
 虎之介は己れのフシ穴の眼によって非凡なる英傑の目を狂わしめたことを甚しくじ嘆き、長く長くうちうなだれて、一言の言うべき言葉も失っているのみであった。





底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
   1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第一号」
   1951(昭和26)年1月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第一号」
   1951(昭和26)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「(明治開化)安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「(明治開化)安吾捕物 その四」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード