木枯の荒れ狂ふ一日、僕は今度武蔵野に居を卜さうと、ただ一人村から村を歩いてゐたのです。物覚えの悪い僕は物の二時間とたたぬうちに其の朝発足した、とある停車場への戻り道を混がらがせてしまつたのですが、根が無神経な男ですから、ままよ、いい処が見つかつたらその瞬間から其処へ住んぢまへばいいんだ、住むのは身体だけで事足りる筈なんだからとさう決心をつけて、それからはもう滅茶苦茶に歩き出したんです。ところが案外なもので(えてして僕のやることは失敗に
――結局君はこの村に貸間亦は貸家が存在するであらうかといふことを僕にききたかつたんだね。
と、話してみれば物分りのいい男で、心臓の動悸がやうやくに止つたらしく、こう(顔の半ぺたを土にして)反問するのです。
――さうです、何か御心当りがありますかしら。
と、僕はもうひどくこの周章て者に好意を感じ出してゐたのですが、物のはづみで拾ひあげた大根をなで廻しながらこんな風にきいたのです。するとこの男は僕の言ふことが呑み込めないのでせうか(えて哲人は食物を食べるその理窟さへ分らないものだと言ひますから)怪訝な顔をして、
――無いこともないが、かりにあつたとして、君はそれをどうする
といふのです。
――無論僕が住むんですがね。
――う、ぶるぶる、止した方がよろしいよ。
――何故ですか?
――う、ぶるぶるぢやよ。
と彼は一きは顔色を蒼く鋭くするのです。しかし彼は見かけによらぬ親切な男で、改めて僕を自分の宿(さつき雨戸を蹴倒して出てきたところです)へ案内すると、どうしても君はこの寒い村に居を構えるつもりであるかと尋ね、頑としてさうであると答へると、「尊公も亦呪はれたる灰色ぢやよ」と目を伏せながら、次のやうな笑ふべき物語を語つてきかせたのです。木枯が窓を叩くたびに、う、ぶるぶると震へながら――
俺の行く道はいつも茨だ。茨だけれど愉快なんだ。茨よりほかの物を、俺には想像ができなかつたから。
俺は禁酒を声明した。肉体的、経済的、ならびに味覚的に於てすら、酒そのものが俺にはけして愉快なる存在ではなかつたからだ。無論禁酒を声明した程だから昔は酒を呑んだんだ。あべべい、酒は茨だねえ、不快極る存在ぢやよ、と言ひながら。
酒は君、偉大なる人間の理性を痺らせるものぢやよ。酒はあぱぱいぢや。汝の明朗なる人間的活動は忽ちにして神の如く曇るぞよ。おそれよ、おそれよ、といふ注告は遺憾ながら俺の為にはペチシオ・プリンシピイの誤謬を犯してゐる。
俺の理性が頼れうるものならば――余は酒樽の冠を被り樫の大いなる
――愛する友よ。君は人間として甚だいたらん男ぢや。酒呑めば酒と化すことを、人間はその誇りとするものぢやよ。まま、ええさ。唄ひかつ踊り、寂しげなる村々を巡礼して悩みを悦びの如く詩にあらはし、一文の喜捨にも往昔の騎士に似て丁重なる礼を返し、落日と共に
とわが友は暗澹たる顔をさらに深く曇らせてゲヂゲヂを払ふもののやうに觴を振り廻すのだ。わが友は日本にたつた一人の
――余は断じて酒をやめるぞよ。と俺はその場で声明した。ひたすらに理性をみがき常に煩悶を反芻して、見よ煩悶の塊と化するぞよ。右も煩悶左も煩悶、前も後も煩悶ぢやよ。目を開けば煩悶を見、物を思へば煩悶を思ひ、煩悶を忘れんとして煩悶に助けをかり、せつぱつまれば常に英雄の如くニタニタと笑ひつつ、余は理性を鉾とし城として奮然死守攻撃し、やがて冷然として余の頸をも理性もてくびくくるであらう。見よ、
――余は断じて酒を止めるぞよ。
と俺は断乎として声明したのだが――まあ待ち給へ。聖なる俺の決心を永遠ならしむるために、も一度立ち戻つて事のいきさつに詩的情緒の環をかけさせて呉れ給へ。
毎年のことだが、夏近くなると俺は酒倉へサヨナラをする。それといふのが、夏は君、ペンペン草を我無者羅に俺達の酒倉へはやすからなんぢやよ。見給へ。夏が来ると俺達の酒倉はペンペン草で背の半分を埋めてしまふのだ。酒倉の壁の
一体俺達の酒倉はこれでもれつきとした造り酒屋なんだけど、何分ここの亭主は自分の酒を自分一人であらかた呑みほしてしまふものだから、長い年月には母屋を呑み庭の立木を呑み(客ではない、無論亭主自身が呑んだんだ)、今では彼の寝室でありやがては棺桶であるところの破れほうけた酒倉がただ一つ残つてゐるばかりだ。だから君、夏がきてペンペン草が酒倉の白壁の半分を包み隠してしまふとき、俺は呆然として無から有の出た奇蹟をば信ずるに至るのだけれど――君が見かけ程詩人なら、疑ふべき筋合ではないのぢやよ。といつたわけで、ペンペン草は生え放第に庭も道も一様に塗りつぶすものだから、俺は酒倉への出入にペンペン草に捲き込まれてとんだ苦労をしてしまふのだ。足をからむとか蛇をふみつけるとかしてわあつ! と
――酒は頑としてサヨナラぢやよ。
と、そこで俺は憤然として酒倉を脱走するのだ。「ああ太陽よ」とか「おお生命よ」とか、まあそいつたことを喚きながら、俺は何分あまりにも興奮して酒倉を走り出るものだから、つい亦ペンペン草に足をとられて大概は四ん這ひになり畢り、酒は実に灰色ぢやよ、俺は頑としてそれを好まんよなどと叫びながら這ひ出してゆくのだつた。
すると酒倉の亭主は――先刻御承知の瑜伽行者だが――ペンペン草の間から垣間見える俺の尻を見送りながら「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ニタニタと笑ふのだ、「木枯が吹いたら又おいでよ」と、ね。
まことに木枯と酒と俺は因果な三角関係を持つものである――木枯は、恰も俺の活力を刺し殺すやうに酒倉のペンペン草を枯してしまふのだ。すると俺は――
ああ! 俺は冬が大嫌ひだあ!
冬は――俺の心をさむざむと白く冷くするのぢやよ。寒気は俺の脳味噌をも氷らせるのだ。俺の一切の運転はハタと休止して――俺はペンペン草と一緒に、ここに
……こうして、木枯のうねりが亦一とうねり強くなると、俺はつい堪りかねて、ふつとあの酒倉を、思ひ出してしまふのだ。憎むべき酒よ、呪ふべき酒樽よ、怖るべき冬よ、う、ぶるぶるよ。俺の恋心は果もなくつのつて、俺の魂はいつの間にやら木枯の武蔵野を一ととびに、酒倉の戸の隙間から悪魔風な法式でふいとあの酒倉へもぐり込んでしまふのだ。すると酒倉の亭主は――
(ああ、彼の不愉快な幻術は、如何に俺を悩ますことか!)
――おもむろに觴をひねくりながら、まぎれ込んだ俺の魂をてもなく見破つてしまふのだ。彼は脂ぎつた太くまん丸い顔をニタニタと笑はせる、そしてグイと一杯呑みほすと、いやに取り澄まして、やをら得意なる
――愛する友よ、寒さは人間の敵だねえ。彼等はかつてナポレオンをオロシヤに破り、転じては若きエルテルの詩人を伊太利に送り、
と言ふのだ。
俺は憤然として何事かを絶叫しやうと思ふのだが、うかつに絶叫しては頤のゼンマイから必然的に頭のゼンマイへかけて狂ひ出す怖れを感じるものだから、絶望的なニヤニヤを笑つて行者のニタニタを眺めてゐるのだ。すると俺の心臓はひどく憶病になつて次の一秒がばかに恐ろしく不気味に思はれ、沈黙に
一つぺんに階段を跳び降りて雨戸を蹴破ると、もう武蔵野の木枯を弾になつて一条にころがつてゐるのだ。
わあ!
助けて呉れえ、冬籠りだあ!
と、かやうに声高く武蔵野を喚きながら、俺は酒倉の戸を踏み破つて――
(俺達の酒倉では二十石の酒樽から酒をのむのぢやよ)
――二十石の酒樽を抱きかかへるやうにしてグイグイ、ぐいぐいと酒の灰色を一息に(茨ぢやよ)あほるのだ。木枯がペンペン草を吹き倒すとき、俺は毎年もとの酔つ払ひに還元してしまふのだつた。
こうして俺、聖なる呑んだくれは、武蔵野の木枯が真紅に焼ける夕まぐれ足を速めて酒倉へ急ぐのだが――すると酒倉の横つちよには素つ裸の柿の木が一本だけ立つてゐるのだ(君は勿論知るまいが――)。この柿は葉が落ちても柿の実の三つ四つをブラ下げて、泌むやうな影を酒倉の白壁へ落してゐるのだが――俺は毎日このまつかな柿の実へ俺の魂を忘れて、ふいと酒倉へもぐるのだ――と、こう思ふのがせめてもの俺の口実なんだ。だから俺は安心して、あれとこれとは別物だけれど、まるで魂を注ぐやうに、酒樽にとびかかると、ぐいぐいぐいぐいと酒を魂を呑んぢまふんだあ! 概して俺はこの酒倉で最もへべれけに酔つ払ふ男の唯一人で、酒倉の階段を踏みはずすと
酒は憎むべき茨ぢやよ、全く俺は毎夜ダブダブ酔つ払つて呪ひをあげるのだけれど――冒頭にお話しした聖なる禁酒の物語はペンペン草の夏ではない、頑として木枯の真つただ中に(うう、ぶるぶる)行はれたのぢやよ。それはそれは悲痛なものであつたのだが、まあきき給へ。
――愛する行者よ。と、俺は一夜鬱積した酒の
――愛する行者よ、
――かるが故に尊公は又人間能力の驚嘆すべき実際を悟らずして徒らに幻術をもてあそび、実は人間能力の限界内に於て極めて易々と実現しうべき事柄を恰も神通力によつてのみ可能であるなぞと、笑ふべき苦行をするのぢや。見よ。余の如きは理性の掟に厳として従ふが故に、ここに酒は茨となり木枯はまた頭のゼンマイをピチリといはせるのだけれども、余は亦理性と共に人間の偉大なる想像能力を信ずるが故に、尊公の幻術をもつてしては及びもつかぬ摩訶不思議を行ひ古今東西一つとして欲して能はぬものはないのぢやよ。世に想像の力ほど幻々奇怪を極め神出鬼没なるものは見当らぬのぢや。さればこそ
と、酒樽にもたれて酔眼を見開き、勢あまつて尚も口だけをパクパクと動かしてゐたのだが、行者はニタニタと笑ひつつ面白さうに俺のパクパクを眺めながら
――尊公は見下げ果てたる愚人ぢやよ。(とおもむろに暗涙を流した)。かつて人間が神を創造して以来ここに人間の生活に於ては詩と現実との差別を生じ、現実は常に地を這ふ人間の姿を飛躍する能はず、詩はまた常に天を走れども地上の現実とは何等の聯絡を持つことを得なかつたから、人間は徒に天と地の宙を漂ひ、せつぱつまつて不幸なる尊公らは虚無と幸福とを混同するの錯覚におちいり、ヂオゲネスは樽へ走り、アキレスは亀を追ひかけ、小春治兵衛は天の網島、荘周は蝶となり、尊公のゼンマイははづれさうになるんぢやよ。ひとり淫乱の国
(と、行者は奇蹟的な丸顔をニタニタと笑はせながら立ちあがつたんだ)
――いで空々しく天駈ける尊公の想像力を打ちひしぎ、地を這ふ人間そのものを即坐に詩と化す幻術の妙を事実に当つてお目にかけるよ。
と、フウフウと酒気を吐きながら、しばらくは酒樽にもたれてフラフラと足下も定まらなかつたが、おもむろに重心を失ふと横にころげて鯉のやうにビクビクと動くのだ。
俺はもう行者の長談議の中途から全く退屈してゐたので、どうにと勝手になるやうになれと、酒倉の壁にもたれて天井の蜘蛛の巣を見てゐたが、酔つたせえでもあるのだらうか、ぼやけた蝋燭は数限りない陰陰を投げて狂ほしく八方へ舞ひめぐり、さらでも朦朧とした俺の視界を漠然の中へ引きづりこんでしまふのだ。俺は木枯の響がヒュウとなつて酒倉をくるくると駈けめぐるのをきいてゐたが――そのうちにみんな忘れて何もきこえなくなつてしまつた。
それからものの五分もぢつとそんな風にしてゐたのだらうか、ふと引くやうな物音に我にかへると、それは嘗て耳に馴れない笛の音で唄ふやうに鳴りひびいてくるものだから何事であらうかと目で探ると――俺は危くうわあつ! と呻えて酒樽に縋りつくところだつた。一匹のコブラが頸のところをまんまるく膨ませ、立つやうに泳ぐやうに屈伸しながら、ぼやけた蝋燭にいやらしいその影を騒がせてゐるのだ。これは音にきく熱国の蛇使ひであらうか、白い
わあわあ、余は酔つたんだあ。断じて俺は酔つちまつたぞ。と、俺は絶望して俺の頭を横抱きにかかへながら、せめて親友瑜珈行者は何処へ行つたんだ、助けて呉れえと眺めまはすと――亦しても俺はわあつ! と今度は笑ひが爆発して今にも粉微塵と千切れ去るところだつた。何といふ笑ふべき格巧であらうか! 魁偉なる尻を天高く差しあげ、太い頸をその股にさし込むばかりにして匍匐するあの様は、あれが行者の得意なる
蛇の踊りがこうして、何の変哲もなくものの五分も続いてゐたらうか。すると俺は、ひどく酔つたせえで目のまはりに白い靄がかかつたんだと、さう思つたのだ――周章てて目の
ああ! 酒は憎むべき灰色だ! 呪ふべき酒の毒よ!
と、俺は怒り心頭に発して跳ね起きると(起きあがる急速なる一瞬間に、娘の腕のふうわりとした中で行者のニタニタがなほニタニタと深く笑ふのを眺めたのだが――)、ああ! 呪ふべき酒よ! 呪ふべき幻術よ! と俺は狂気の如く行者の丸顔(そのときも股のとなりにあつた)にとびかかると娘の腕を跳ねのけて太くたくましいその頸筋をむんずと掴んでぐいぐいと絞めつけたのだ――恐らくその瞬間には娘も蛇も蛇使ひも消えて其処には居なかつたのであらうが――けれども行者は、なほも娘に頸をまかれてゐるかのやうに快くニタニタと脂の玉を浮べるのだ。
――わあつ! 余は断じて酒を止めたぞよ! 余は断乎として……わあつ!
と叫ぶと俺は行者の頸を離れ、自分の頭を発止とかかへてガンガンとぢだんだ踏んだが、あらゆる見当を見失つてわあつ! と一声うめえたまま――二十石の酒樽の周囲を木枯よりも尚速くくるくるくるくるとめぐり初めたのであつた。余は煩悶の塊ぢやよ、余の行く道は茨ぢやよ、前も後も煩悶ぢやよ、煩悶を忘れんとして煩悶――
わあつ!
と俺は跳ねあがつて(ああ何十辺酒樽の周りをまはつたか)バッタリと立ち竦んだまましばらくは外を吹く木枯の呻きに耳傾けてゐたのだが、猛然と心を決め、グワンと扉を蹴倒すと荒れ狂ふ木枯の闇へ舞ふやうに踊りこんでしまつたのだ。俺がただ一条に転げてゆく闇のうしろでは、今蹴倒した扉から酒倉へかけて津波のやうに木枯の吹き込んだ音をききながら、
――俺は断じて酒を止めたんだあ!
――もう一滴も呑まないんだあ!
――助けてくれえ!
と武蔵野を越え木枯をつんざいて叫びながら――辛うじて下宿の二階へ辿りつくと空しい机の木肌に縋りついて。
――く、苦しい! 助けてくれえ、喉がかわいた! 酒を呉れえ! 酒だ酒だ!
とかやうにもがきながら、反吐を吐きくだしてしまつたのだ。
俺の禁酒は、結局悲劇にもならずに笑ふべき幕をおろした。悶々の情に胸つぶし狂ほしく掻い口説くのは一人恋人だけであるといふことを、呪はれたる君よ、知らなければならぬのぢや。冬はあまりにも冷たすぎるものぢやよ。
だから(聖なる決心よ!)俺はうなだれて武蔵野の夕焼を――ういうい、酒倉へ、酒倉へ行つたんだ! 断乎として禁酒を声明したあの一夜から、数へてみて丁度三日目の夕暮れだつた。俺の目は落ち窪み、額はげつそりと痩せ衰へて、喉はブルブルと震へてゐたが。ややともすれば俺は木枯に吹き倒されて、その場でそのまま髑髏にもなりさうに思ひながら、やうやくに酒倉へ辿りついてその白壁をポクポクと叩いたんだ。
俺の悄然たるその時の姿は、「帰れる子」の抱腹すべき戯画であり、換言すれば下手糞な、鼻もちならぬ交響楽を彷彿させるそれら「さ迷へる魂」の一つであつたと、行者は後日批評してゐる。とにかく俺はやうやくにして二十石の酒樽に取り縋ると物も言ひ得ず灰色の液体を幾度も幾度も口へ運んだ。ああ幾度も幾度も……そんな風にして俺の神経の細い線が、一本づつ浮き出てくるのを感ずる程呑みほしたのだが――酒は本来俺にとつて何等味覚上の快感をもたらさないのだ。むしろ概して苦痛を与へる場合が多いのだし、それに酒はむしろ俺を冷静に返し、とぎ澄まされた自分の神経を一本づつハッキリと意識させるのだけれど――それでゐて漠然と俺の外皮をなで廻る温覚は俺をへべれけに酔つ払はしてゐるのだつた。だから俺は酒に酔ふのは自分ではなく何か自分をとりまく空気みたいなものが酔つちまふんだと思つてゐるのだが――そんなことを思ひ当てるときは、きまつて足腰もたたない程酔ひしれてゐるのだ。
俺はぐいぐいと、どれ程の酒を呑みほしたものであらうか。益々冴える神経の線が例の模糊とした靄につつまれてゆくのを感じながらふと我にかへると、思はず俺はわあつ! と――いや、もはや俺は物に驚く力をも忘れた木念人であつたから、朦朧たる目を見開いて、見開いても暫くはさだかに見定まらないので、わしあ驚かんよ。勝手にしろよ。とフラフラと動いたのだ。
俺達の酒倉はいつの間にか緑したたる熱国の杜に変つてゐた。
もしや婆羅門の「いらつめ」「いらつこ」が古い日本の
――わしは幻術を好まぬよ。(と俺はフラフラと立ち上つた)。木枯の如く酒の如く呪ふべきものは幻術ぢやよ。線なす菩提樹よ、椰子よ、沙羅樹よ、アンモラ樹よ、これらも亦甚しくわしの気に入らんよ。俺の行く道は常に愉快なる茨ぢやよ。(ああ、俺は何と欺くべき小人であらうか!)、ああ愛すべき茨よ!
と、尚も俺はフラフラと、ひどく陽気に歩き出し、クサを踏みわけて幾度も転げながらあのパゴダ――行者の御尻です――に辿りつくと、呪はれたる尻よ、とこれを平手でピシャピシャと叩いたのだ。すると行者は尚も幻術に無念無想で、股にもぐした丸顔には例の脂汗とニタニタが命懸けにフウフウと調息してゐるのだつた。
――余は断じて尊公の尻を好まんよ。
と、俺も詮方なくニヤニヤと空しい尻に笑ひかけながら尚ほ暫く叩いてゐたが、やがて退屈して酒樽へ戻らうと足のフラフラを踏みしめて
この小説は筋もなく人物も所も模糊として、ただ永遠に続くべきものの一節であります。僕の身体が悲鳴をあげて酒樽にしがみつくやうに、僕の手が悲鳴をあげて原稿紙を鷲づかみとする折に、僕の生涯のところどころに於てこの小説は続けらるべきものと御承知下さい。僕は悲鳴をあげたくはないのです。しかし精根ここにつきて余儀なければしやあしやあとして悲鳴を唄ふ曲芸も演じます。(作者白)