空にある星を一つ欲しいと思ひませんか? 思はない? そんなら、君と話をしない。
屋根の上で、竹竿を振り廻す男がゐる。みんなゲラゲラ笑つてそれを眺めてゐる。子供達まで、あいつは気違ひだね、などと言ふ。僕も思ふ。これは笑はない奴の方が、よつぽどどうかしてゐる、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しやうではないか!
しかし君の心は言ひはしないか? 竹竿を振り廻しても所詮はとどかないのだから、だから僕は振り廻す愚をしないのだ、と。もしさうとすれば、それはあきらめてゐるだけの話だ。君は決して星が欲しくないわけではない。しかし僕は、さういふ反省を君に要求しやうと思はない。又、「大人」になつて、人に笑はれずに人を笑ふことが、君をそんなに偉くするだらうか? なぞとききはしない。その質問は君を不愉快にし、又もし君が、考へ深い感傷家なら、自分の身の上を思ひやつて悲しみを深めるに違ひないから。
僕は礼儀を守らう! 僕等の聖典に曰く、およそイエス・ノオをたづぬべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたづぬべからず。犬は吠ゆ、これ悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠へざるべきかに迷ひ、迷ひて吠へず、故に甚しく人なり、と。
竹竿を振り廻す男よ、君はただ常に笑はれてゐ給へ。決して見物に向つて、「君達の心にきいてみろ!」と叫んではならない。「笑ひ」のねうちを安く見積り給ふな。笑ひ声は、音響としては騒々しいものであるけれど、人生の流れの上では、ただ静粛な
日本のナンセンス文学は、行詰つてゐると人々はいふ。途方もない話だ。日本のナンセンス文学は、まだナンセンスにさへならない。井伏氏や中村氏の先駆者としての立派な足跡は認めなければならない。そして彼等はよき天分をもつ芸術家である。しかし正しい見方からすれば、あれはナンセンスではない。ことに中村氏は、笑ひの裏側に、常に心臓を感じさせやうとする。そして或時は奇術師のやぎに、笑ひと涙の混沌をこねださうとする。ナンセンスは「
いつであつたか、セルバンテスのドン・キホーテは最も悲しい文学であると、アメリカの誰かが賞讃してゐたのを記憶してゐる。アメリカらしい悪趣味な讃辞であると言はなければならない。成程、空想癖のある人間ならば、ドン・キホーテの乱痴気騒ぎを他人ごとでは読みすごせない。我々は、物静かな跫音に深く心を吸はれる。それでいい。なぜ「笑ひ」が「笑ひ」のまま芸術として通用できぬのであらうか? 笑ひはそんなにも騒々しいものであらうか? 涙はそんなにも物静なものであらうか?
すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌ふ」ものである。その人その人の容器に
日本では、本質的なファースとして、古来存在してゐたものは、寄席だけのやうである。勝れた心構えの人によつて用ひられたなら、落語も立派な芸術になる筈である。昔は知らない。少くとも今の寄席は、遺憾ながら話にもならない。僕の知る限りで、「莫迦莫迦しさ」を「歌」つた人は、数年前に死んだ林屋正蔵。今の人では、古今亭
日本のナンセンス文学は、涙を飛躍しなければならない。「莫迦々々しさ」を歌ひ初めてもいい時期だ。勇敢に屋根へ這ひ登れ! 竹竿を振り廻し給へ。観衆の涙に媚び給ふな。彼等から、それは芸術でない、ファースであると嘲笑されることを欣快とし給へ。しかしひねくれた道化者になり給ふな。寄席芸人の卑屈さを学び給ふな。わづかな衒学をふりかざして、「笑ふ君達を省みよ」と言ひ給ふな。見給へ。竹竿を振り廻す莫迦が、「汝等を見よ!」と叫んだとすれば、おかしいではないか。それは君自身をあさましくするだけである。すべからく「大人」にならうとする心を忘れ給へ。
忘れな草の花を御存じ? あれは心を持たない。しかし或日、恋になやむ一人の麗人を慰めたことを御存じ?
蛙飛び込む水の音を御存じ?