竹藪の家

坂口安吾





 ――首縊つて死んぢまへ! お前が、さう言つたんぢやないか。早く首縊れつたら。莫迦莫迦莫迦ア! なぜ早く首縊らないのだ――

 家の裏手には一面に、はや年を経た孟宗もうそうのひつそりとした林が深い。朝朝の陽射しが水泡みなわのやうにキラキラと濡れて、深い奥にもまばらにこぼれ、葉が落ちて濡れてふやけたたけむらの土肌から、いきれた臭気がムウンと顔に噎せながら其処ら一面に澱んでゐる――そのたけむらが曲者であつた。
 郊外の(一足踏み出せば、もはや涯も無い武蔵野の田園が展けてゐる――)この傾いた破れ長屋に居候を始めてから丁度二週間にもなるのだが、硝子窓を炒るやうな鋭く冴えた朝朝の太陽に蹴散らかされて、樅原駄夫モミハラ・ダフが濁つた目覚めを迎へると、それが晴れた日の合唱ででもあるやうに、裏の篁から夫婦喧嘩のざわめきが、この上もなく朗らかに聴きとれてくる。駄夫はアアアンと変にショボショボ欠伸あくびをして、間の抜けた朝の陽気にてれ乍ら、まだ散漫な神経を搾る様に寄せ集めて、篁の高い物声を捉へるために二つの耳をジインと澄ませる。寝床から其れのみ擡げられた一つの首が、明るい朝の光線の中へ花瓶のやうにユラユラと浮び上つて揺らめいてゐる、其れが又晴れたる朝の序曲でもあつた。
 ――お前は首を縊つて自殺するのだと、いま断言したではないか! なぜ早く死なないのだ。早く首縊れつたら、首を縊つて足をバタバタ顫はせて、ギュッと※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)みたいに唸つてくたばれ! それがお前に一番よく似合ふ恰好だあ。気の強いおん坊なんざ惚れちまは。邪魔せずに眺めてゐるから、早く首縊つて牛肉屋の牛肉みたいに温和おとなしいブラブラになりやがれ! 早く牛肉にならないか、不潔な肉の魂めえ!
 ――お前こそ汚い性慾の塊ぢやないか! 人殺しの半鐘泥棒だ! お前こそブラブラぶら下つたら、裏なりの糸瓜へちまみたいに長く細くつて良く恰好が取れてらあ。栄養不良の糸瓜ぢやないか! ブラブラ竹藪にブラ下つて、日の暮れるまで風に吹かれて揺れてろ! ア、ア、ア、痛々々々……ア、痛い! 人殺し! ヒ、人殺し! 畜生! 弱い女を打つ奴があるものか! 食物たべものの中へ猫イラズを仕込んでやるから覚えてろ!
 ――チェッ、悪女め、ぬかしやがつた。てめえこそ妲妃だっきのお百だあ。出て行きやがれ! てめえなんざ不潔極まる肉魂だぞ。悪徳と性慾の掃溜みたいな奴だ。醜悪でえ!
 ――フ、フ、フン。お前が死ぬまで出て行かないからさう思へ! 紫色のぶちになつてお墓へ行け! 坊主に払ふお布施も無いや。死に損ひの肺病やみい! 札附きの気狂ひで出来損ひの落伍者ぢやないか! 共同墓地へ埋まつて、雨の降る晩にお化けになれ! アアいい気味だ。ざまみろ!…………
 このの主人野越与里のごし・より野越総江のごし・ふさえの両名は、篁の深い沈黙しじまに於てのみ夫婦喧嘩を試みる居常の習慣也と思はる。思ふにそれは、老いたる母への気兼ねから此の篁へ隠れ去るものとも推定されるが、又何等かの由来があつて、此の篁と其の争論と、彼等の心に密接な共鳴作用を起すものかも知れなかつた。まことに、野越与里、野越総江の口論は、あたかも村の往還を日日にちにち通ふ幌馬車のやうに、律儀頑固な鉄則を以て定められた晴れたる朝の合唱であつた。――昔は心に思ふこともろくろく口に出すすべを知らなかつた与里であるが、暫く会はずに経過した数年来の生活苦に変れば変るものでもある。思へば人の一生は(重荷を負うて坂道を登る如しか! 糞喰へ!)一番貴重な物までが(――それはあの悪の華の詩人に由つて――朦朧と浮く不思議なる雲のたぐいと歌はれてゐるが)得体の知れない宿命に残酷なまで飜弄されるもののやうにも思はれる。思へば何か感慨の心に騒ぐ気配もし、苦い胃液の鋭く喉に込みあげてくる思ひもする――そんな気持もするにはするが、それは又唯それだけの当然な話で――ウツラウツラと寝床に伏して流れ込む朝の光を舐めてゐると、何事もそれは結局それだけのことで、古今東西一として驚愕に価する物もない、さういふ虚しい肯定のみが別に確たる根拠もなく唯ひしひしと煙のやうに漂うてくる、しづ心なく花の散るらむ――なぞと言へば余り莫迦げた長閑のどかさすぎると思はれるかも知れないが、何んだかヂッと瞑目して明るい日向に項垂れてゐると、胃嚢いぶくろの中にヒソヒソと頻りに花の降る音が遠く遥かに続いてゐる。時として、何故なぜとも知らずホッと洩らした溜息の引き去るあとに耳を澄ますと、朝もけた篁の懶い沈黙しじまから、筍の幽かに幽かに太る気配が聴かれたやうに思はれてしまふ。気がつけば、あの癇高い争ひの声は益々劇しく響いてくるが、深く耳を澄してゐると、其れも撒かれた霧のやうに明るい空の百方へヂンヂンとして掠れてしまふ。言ひやうもない静けさ! 駄夫は煙草に火を点けて、白い日向へ押し込むやうに煙をふかした。煙はか細くユラユラと揺れ、幾すじの淡く柔らかなもつれとなつて暫く部屋に漂うてゐるが、やがて生き生きと動き出し、素早く長い糸となつて光の澱んだ窓の外へふいと流れて逸れてしまふ。明るい日向に泳ぎ出で、キララな光線の中へ顔を擡げてヂッとしてゐる。空洞うつろな眼蓋を大きく開いて涯しない蒼空の奥へまで長い視線を注いでゐるが、何一つ定まる物は見てゐないのだ。燦々と降る光の泡に胸は一杯に息を塞がれ、広い視界は唯ひとつの、白金の光芒を放つて、チリチリと旋回する一点の塵と化してゐる。――一匹の蜂がだんだら模様の腹をうねらせ硝子窓に跳ね反つたり……
 ……やがて階下にコトコトと無器用な足駄の音が鳴りはじめる。高歯の足駄を庭先へ持ち出して、さも大儀げにそれを引きずる跫音あしおとである。わづかに数歩行くうちに其の跫音は立ち止る。破れた石垣に手を掛けて危険な枝や横棒なぞを払ふために工夫を凝らしてゐるのであらう、間もなく、其処も通過して、朽葉をガサガサと踏み分けながら、室の静かな奥へ消え去つてしまふ――
「……もう止しませんか、これ……」
 ふと気がついて耳を澄ますと、ムウンと深い篁の奥の澱みが漂うてきた……
 篁へ消えた跫音は与里の老いたる母であつた。成程、暫く忘れてゐたが、その頃篁の喧噪はいよいよ癇高い叫喚となり、それの劇しい交換の合間々々に新手あらての喚きが――四五歳の幼年らしい狂つたやうな泣き声が、聴きとれてくる。総江の裾に縋りついてゐるのだらうか、或ひは一人遠く離れて置き棄てられてゐるのであらう、彼等の一子多次郎の張り裂けるやうな泣き声であつた。
「……もう止しませんか! これ! これ! これ……」
 一家四名の家族達は、一名の居候を二階へ置いて、総勢余すところなく深い篁へ集合したことになる。一段と空虚になつた家の気配が、なぜか懐しい旅愁のやうに、シインと広い耳鳴りとなり深く※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみみてくるのだ。ただ理由わけもなく広々と笑ひ出したい――あの懐しい静けさである。
 篁へ勢揃ひした野越家の一家族――彼等の顔に、彼等の肩に、彼等の裾に、まばらに落ちる水泡みなわのやうな光の玉が燦爛としたポツポツを矢張り一面に零してゐるに相違ない。大いなる口を開いて、かの悪魔をも辟易させる呪の言葉を吐く度に、彼等は舌に同じくまろいポツポツを受けて、太い癇癪の波と一緒にはらわた深く呑み込むであらう。
 ええん、うえん、うえん、うえん、うおん、うおん、うおんといふ号泣が益々高く鳴り出してゐた。
 ――畜生婆あ! 鬼婆あ! 人でなし! お前達母子おやこでグルになつて、一人の可哀さうな女を虐めようてんだろ! 血も涙もない母子おやこぢやないか! 多次郎、多次郎、多次郎! お前はお母ちやんの味方だねえ。あの鬼婆あの喉笛へ喰ひついておやりつ! 仇をとるから覚えてやがれ! ア、ア、ア、痛々痛い――
 ――いけませんよ! これ! これ! さうするんぢやないと言つたら――。お前はいいからもうおうちへお這入りつ!……お前さんも亦いけませんねえ。何ですか、こんな紐なぞ持ち出したりブラ下げたりなんぞして。
 ――それあね、このひとがそこへブラブラぶら――
 ――お黙りつ! お前はうちへお這入りなさい! これ、お前さんも良くないんだよ……
 ――莫迦莫迦莫迦! 婆あなんぞが知るものか! 死に損ひの老耄おいぼれめえ! 口惜しい口惜しい口惜しいッ! うえんうえんうえんうえん……
 ――泣くんぢやありませんよ。泣いても初まりやしないのに。誰もお前さんを虐めてやしないのに、ねえ――
 ――ほつときや止みますよ、お母さん。引きあげた方がいいんですよ……
 与里は引きあげて来るらしい、次第に近づく跫音のガサガサと朽葉を鳴らす音がしてゐる。暫くして破れた垣根を大きく跨いでゐるらしい音、狭い庭をブラブラと数歩のうちに歩き過ぎて、泳ぐやうな力の抜けた有様でボンヤリ縁側へ上つたらしい。突然クルリと振り向いたものか、深い篁の奥へ向つて声一杯にかう怒鳴つてゐる――
「やあい。仲通りの牛肉屋のペスとそつくりの鳴き声だぞ! えんえんえん、うおんうおんうおん……まるで区別がつかねえや……」
 言葉の途中から深い反省と無意味とを痛感したものらしい、言ひ終ると、恐らくは深い放心に襲はれて、真つ暗な家の奥へヒョコヒョコ身体を運ぶやうに歩かせる音がしてゐる。やがて崩れるやうに坐したのだらう、シインとして、其処からは物音一つ聴えなくなつた。
 篁では、総江と多次郎の号泣がいよいよ凄じい合唱となり、鋭く空を裂くやうに鳴り続いてくる。竹に雀といふ事があるが、成程流石に竹林には雀の遊ぶものである。時時一群の雀等が一つの大きなさんざめきとなつて、塊まりながら奥の繁みへ転がり落ち、高い羽搏きをあげながら孟宗の末枝うれを劇しく鳴らし騒いでゐる。又一杯に朝日を受けたトタン葺きの廂の上へ一羽の雀が歩きに来て、コツ、コツ、コツ、と、長い間隔を持つ跫音が、それのみ音であるやうに長く単調に続いてゐる。
 やがて低い跫音が、緩く階段を登つてくる、与里が上つて来るらしい。
「どつこい。俺も起きようか――」
 蓑虫よりもダラシ無い階上の居候は、やうやくモックリ起き上つた。


 青。
 青い色から、君は何物を一番早く聯想するだらうか?……「そ、さうさな、僕あ、海、空、夏なんて物だらうかな。尤も僕は、謙遜するわけでは毫もないんだけれどもさ、生来うまれつきのれつきとした迂闊者でね、青と言や青だけしか思ひ付かないたちなんだあ。青は断じて青なんだよ。由来俺そのものの脳味噌には、同一律の法則だけしか働かない何かゼンマイの弛んだところがあるんだよ。ヂッと斯う考へてね、ウウ、ところが第一考へてなんかゐないのさ、微塵も動かないタッタ一つの黒幕が眼玉の前で変に斯う、一杯詰つてゐるやうな。ドンヨリした感じかな。マ、言つてみれば、黄昏のがまみたいな心境ででもあらうかなア、さうだ、実にそつくり蟇だ蟇だ、断じて間違ひなく蟇なんだあ、ワアワア、そつくり俺はソノ黄昏の蟇なんだよ」……「僕はね、青い色を見てゐると、痛い鋭い神経を思ひ出すのだ。鋭くて薄くて冬のやうに冷たくてね、触れるとスウッと切れさうなのやうな神経をね。……」
 さう言ひ乍ら愕然と、薄い神経の影のやうにビリビリ顫へて俯向いて了ふ奴なのだ、与里といふ奴は。与里は全く神経の影みたいな奴だ。いつでも妙に寒寒さむざむとしてゐやがる。目を伏せてその伏せた目の薄いかさが、奴の痩せた膝小僧へ投輪みたいにヨボヨボと緩く幽かに落ちて行くのが見えるくらゐだ。窓から押し込む横殴りの強い陽射しといふ奴は実に又遠慮会釈もない奴である、影みたいな与里の身体に矢張り莫大な黒を落して、伏せた頬から頤の下へジットリ湧いた黒色は、何んだか変に与里の存在そのものをキナ臭く思はせてしまふのだ。
 ジッと暫くさうしてゐて、やがて与里は細々とした左手をすかすやうに眺め出したが、今度は又其の手を駄夫の鼻先へ何か硝子の棒切のやうに差し延して見せた。駄夫は(――実に此奴こいつは黄昏の蟇である!)突然ビックリ顔を上げて(思ふに多分又しても同一律の法則にしたがひ「手は手だ手だ、断じて手だ!」と尻切れトンボの脳味噌をめぐらし兼ねてゐるのであらう)パンとふやけた鳩のやうな眼の玉をクルンクルンと廻した。
「……神経を思ひ出すとね、それから僕は水膨れのやうな青い血管を思ひ出すのだ。固執しだすと斯奴こいつくらゐ薄気味の悪い奴も無いもんだね、不思議に斯う顔の中へ泌みついてビクリビクリと蚯蚓みみずみたいに曲りくねつて這ひ出すやうに思はれるのだ。じつさい、何んだか変に斯う…………」
 与里は自分の眼の下へ其の手の甲を引き寄せて、ヂッと其れを凝視めたり透したりしてゐたが――
「変に斯う……やに侘しいものだなあ――」
 そして含羞はにかみ乍ら笑ひ出した。すると又、駄夫は可笑しな奴である、咄嗟に劇しく感動して自分の右手を仔細に透して眺め廻してゐたが、間もなくハタト行詰り急に当惑しててれてしまつた。その感動の余り軽卒で空虚であり、慌て過ぎた事に気付いたのだ。そこで彼は自分の意見(順つて概ね出まかせである)を述べ初めた。
「お、俺なんざあね、青々とした血管を見るとさね、昨夜ゆうべ呑んだアブサンに再会したやうな……ウウ、金が無いからアブサンなんざ暫く呑まないけれどもさ――ム、まあさう言つた気持にならあ、ね、ね、ね。ア、さう空想して見つめると、ヘヘエ、俺の手は又何て綺麗な手だらうなあ、オ、驚いた! すつかり感 感 感心しちやつたわい。我が手には青きアブサンの毒這ひ満てり、青き毒はね、夜な夜な脈々と昇天して青白き空の星となるんだとさ。実に幸福ぢや!――」
 駄夫は首をいきなりガタガタ揺すぶつて、酔つたやうに踊り出した。
「ガクガクガクガク……酒はとにかく良きものだよ、此の所説には自信がある。ガクガクガクガク……うん、さうだつけ、俺は仕事を探しに行かなきや――」
 と彼は慌てふためいて立ち上つたが、竹竿に吊された干物みたいに寄辺よるべない有様をして、彼自らの魂魄を探しあぐねた魍魎のやうにウロウロ四辺あたりを眺め廻した。
「――ウヘッ、何んだか俺の存在は、我思ふ我在りみたいに頼りがねえよ……」
 酔ひ痴れたもののやうに物凄い響をたてて階段を馳せ降ると、階下したの婦人達へ挨拶なぞも先づ忘れたと想像して差支へない、転げるやうに往来へ飛び出してゐた。酒も呑まぬに酔つたやうに喚き立てる此の瞬間が駄夫の一番愉しい時で、無口な、まるで岩塊のやうな憂鬱を叩き潰して、此の話術を会得するまでには、長い修練の年月を経たのである。今でさへ、余程良好な咄嗟の調子に乗らなければ、おいそれと此の痴態には耽り切れるものでない。
 駄夫は往来へ突つ立つて、白い光の敷き詰めた路の最中さなかに踊るやうな様をしながら、二階の窓際に佇んで彼を見送る与里を見上げ、真上に拡がる莫大な渺茫びょうぼうとした蒼空を指し示してみせた。
「ドドドド、どーんなものだい! 青い青い青い空だぞ! 真青だなあ! 空空空! 空! 素敵だあ……」
 息込み過ぎて皮膚の何処かが破けたんぢやないか! 蒼空にほてり過ぎて喚き過ぎて目がショボショボに縮んでるぢやないか! 与里も思はずクツクツ笑ひながら、その莫大な蒼空に眼を呉れたが――
「…………」
 一言も物を言はずに、細い左手を頤の高さに擡げ乍ら、其の手の甲を駄夫の方へヂッと示した。それが精々与里なる男の洒落気であつた。
 ――チッ、チッ、チッ。淋しい奴……
「ぢや、さよなら。行つて来るぜ」
「行つといで、さよなら」
 街と畑への分岐路は与里の家から二丁程もあるであらうか。その十字路は高い欅に取り囲まれて、四つの角の一角に「氷、焼芋、煙草、雑貨」と標された唯一軒の店がある。其処を起点にポツポツと街へ向けて樹立の深い田舎家が散見し、ものの七八丁もするならば、兎も角一つの映画館さへ見出される街の賑はひへ続くのであつた。(其の場末の常設映画館に与里は映写技手を勤めてゐた――)。又その十字路を起点として街と反対の方角には、已に其処から広茫とした武蔵野が遮る物もなく展けて見えるのであつた。
 ――如何にして本日の日没を迎へるべきであらうか? 街にてか畑にてか? 駄夫は十字路の中央に立ち止り携へた杖を倒して方向を占つた。
 西――
 西は広漠たる麦畑を一文字に過ぎるなら、ささやかな部落に出でて川越街道へ続くのである。其処は絡繹らくえきと終日牛車の絶える事がない。
 そして仕事は?――仕事なんか、神に誓つて! 探さない事に決心したのだ。およそ積極的に生活せんとするあらゆる意志と気力とを駄夫は已に記憶の中にも失つてゐた。自分の生活を他人任せ成行任せに押し流して、玉楼の陰であれよし星空の下であれ許された限りの睡りを貪り、分ち与へられた食物に満足して――斯うして万端切羽詰まつた挙句の果に、幸ひにして死ぬことも無く思ひ掛けぬ生活力が浮かび出るなら、何といふ思ひまうけぬ悦びであらうか! 流されるだけ流されてやれ! 彼はさういふ懶惰らんだの底へ蟇のやうに腰を据ゑたわけであつた。
 広茫とした武蔵野は一見平坦な広野に見えて、実は一面になだらかな起伏を隠してゐる。見渡せば、見渡す限りのなだらかな起伏は、唯ひたすらに麦の青に掩はれて、風の吹き渡る度毎に、麦の靡きが銀色の波頭ナミガシラを振り立て乍ら緩慢な傾斜をひろびろと登つて行くのだ。そして又はるばると駈け下りてゆく。掠れて見えない空の奥に雲雀の音が停滞してゐた。
 一つの起伏の頂点に駄夫は思はず立ち止つた。まん丸い空の隅々を飽くこともなく眺め廻してみたかつたのだ。遠ければ秩父の山、近ければ空へ打ち込む欅の杜、それらの余白に低く幽かに一線を引く一流れの黒は、地平線ではあるまいけれど余程離れた森であらうか。……見廻して、偶然駄夫が一廻りして今来た道を振り向いた時、人気ひとけない今来た道を茫然と近づいてくる一つの人影を認めた。その人は悄然として俯向き乍らトボトボと歩いて来るが、その人のせなに展けた一線の野道は、遥遥と遂ひに小さな一点と化し凋んで果つる所まで何物の姿をもほかに印してゐなかつた。
 与里である、その人影は。――
 駄夫は幾分意外を感じ、路傍に寄り麦の畑に腰を下して与里の近づくのを待つてゐたが、項垂れてボンヤリ歩いてゐる与里は路傍の駄夫に心附かずに数歩向うへ過ぎて了つた。駄夫は畑から飛び下りて与里の肩先を叩いた。
「おいおい、君は何処へ行くんだい?――」
「…………」
「ど、ど、どうしたのさ、君は?――」
「ア、君と一緒に散歩したいと思つてね、追つかけて来たのだ。淋しくてね……」
「ウウ、さうか。でも良く分つたもんだね、僕の此方へ来たことが――」
「それあ遮る物も見えない畑だもの、四ツ角から君の姿は丸見えなんだよ」
 二人はなだらかな傾斜を降りはじめた。遠い果から広々と野面を渡る長閑な風が送られてきて、足もとの穂をそよがす毎に、ムウンと鈍い昆虫の羽音が一しきり透明な中空へ湧き起つた。与里は尚ほ、悄然として俯向いたまま歩いてゐたが、何んだか泣いてでもゐるやうな、グショグショ湿つぽい暗さを漂はしてゐた。
「厭んなつちまふ! 暗い暗い、真つ暗だ! みじめすぎる! ほつと息を吐いてみたい、生きてゐるうちに! 死んでからぢや、つまんない。僕は死にたくないからね、どんなに悲惨な生き方をしても、ね……」
「勤めに行かないの? 今日は――」
「十二時から――。君は? 仕事を探しに行かないの?……」
「ウン、仕事はね……」
 駄夫はてれて蒼空の中でニヤニヤ笑つた。
「畑へ仕事を探しに来る奴もないからね……」
「フフフフフフ」
「白状しちまふとね――」
 駄夫は改めて与里の顔色をぬすみ見た。考へてみると、駄夫が野越家に居候を初めてこのかた、与里に向つてさへ其の心境を打ち開けたことは一度もなかつた。打ち開けぬことが秘密臭いわけでもなく、又気詰りといふわけでもないが、ザックバランに打ち開けてみるのも又清々として宜しいであらう。もとより駄夫にしてみれば、それはどちらを選ぶにしても深く気に病む程の事ではなかつたから――そこで又、駄夫は酔ひ痴れたやうに喧しく、身体全体を踊るやうに動かせ乍ら、ガアガアと喚き立てて物語りはじめた――
「ハク、白状しちまふとね、君んへ居候を初めて以来、仕事を探しに行つて来ますつて言ひ乍ら飛び出すけどね、あれあ皆んな大嘘さ、仕事を探したことなんか一日だつて有りやしないんだよ。毎日毎日、どうしたら此の退屈な一日が暮れるだらうかと心配しながら歩いてゐるとね、兎に角どうやら日が暮れかかつて来るんだよ。僕はもう積極的にどうして生きようといふ根気を持つことが出来ないんだ。流される通りに流されて、生きてゐようと死なうと――(ウウ、死にたくはない! だらうがさ――)それあ兎に角さういふ将来さきざきの事は大したことぢや無いんだあ、ね、ね、何処へ行くんだか目当が無いといふ事はね、僕みたいに斯う度胸を据ゑて了ふとね、夢の中の見知らない街みたいに唯わけもなく酔つ払つて幸福しあわせなものだぜ! (――と言つたやうな物さ!)。……君んで、どれ程迷惑してゐるかと言ふことは良く分つてるんだけど、自分でアテがないから自発的に出て行くといふ気持は動かないんだ。ただ君が「出て行けッ」つて言ひさへすれや、僕は喜んで出て行く、それあ本当だ! 僕アさういふ工合に何時もパッシフに押し流されて動きの取れない所まで行く積りなんだ。だから君が僕に出て行けつ! て命令する事は不人情でも冷酷でもない、僕にとつても其の言葉は苛酷ではないのだ。僕はただ次なる生活へ――(虹の懸つた青い並木のある街だあ!)転がつて行くだけの話さあ。コロンコロンコロンとね! 僕はむしろ、君達の迷惑をおしてまで厄介を掛けるのが心苦しく困るんだから……」
「いいんだよ! いいんだよ! 何時まで君が居たつて、迷惑なんかしやしない!……」
 与里は突然激して、駄夫の手頸を浚ふやうに掴みかかり強く強く握りしめたが、ビクビクビクビクと痩せおとろへた肩の上を波のやうに顫へるものが走つて行つた。与里は顔を冷く伏せて、大粒な涙を頬一面に劇しく流した。
「――何時まで君が泊つてようと迷惑なんかしやしないよ。女達のケチな気持に気兼ねなんかいらないんだよ。僕達はみじめなんだね。救ひを求めるのがいけないんだ。お互に嘆き合ふよりほかに仕方が無いんだから……」
 駄夫は甚しく茫然として与里の劇しい慟哭にたじろいでゐたが、与里の涙を食べるためではあるまいけれど、大きな口をボンヤリ開けて了つたのだ。そしてそれでも自然の作用で次第に悲しげな顔貌かおつきだけは調和させる事が出来たのだが、それも亦、息込みすぎた反射のハズミで莫迦莫迦しい程途方もない、悲痛すぎて動きの取れない泣顔を拵へ上げてしまつたのだ。駄夫は息苦しげに胸を張つて、辛うじて唸り出した。
「オ、オ、俺達は余りにも悲惨だ……」
「ね、ね、だから君、何時まで君が泊つてゐても、迷惑なんかしやしないよ……」
 気が附くと、――駄夫にとつては余りにも気羞かしい話であつたが、二人は丁度恋人のやうに堅く彼等の手を執り乍ら、漂うやうに蒼空の下を歩き続けてゐたのであつた。斯うして、莫大な明るさのみの張り詰めてゐる広い武蔵野の麦畑を、二人は黙々として一周したわけであつた。


 柳の下に泥鰌どじょうがゐた! 麗かな晴れた日のことで、武蔵野を灌漑する小さな流れに沿ひ乍ら孤り目当なく歩いてゐた時の事だが、柳の下へ一匹の泥鰌がヒョイと顔を突き出したのである。程経て駄夫は、此れは実に可笑しな事柄だと考へた。言ひやうもなく可笑しくて笑ひたくて堪まらないではないか! と思つたのである。そこで彼はに出してハアハアハアと笑ひ崩れてしまつたのだ。ところが、一旦笑ひ出してみたところが案外自分は其の事柄を可笑しがつてゐもしない事に心附いたので、止むを得ず途中から笑ひ声をひつそりと改めて了つた、が、思ふに此れを可笑しがらなかつたなら世の中には一笑に価する何物も在る筈がないではないか! と又むらむらと可笑しくなりだした。かういふ事柄にでも笑ひ興じてゐなかつたなら此の退屈な一日が暮れさうも無いからさ――と自分乍らさもしい戒めを密かに諭してきかせたのでもあらうが、又愚かな意地からででもあらうか、さういふ妥協をしなくとも何んだか本気で可笑しくて笑ひたくて堪まらないやうに思はれてくるのだ。成程――斯んなに可笑しい話といふものは稀にしか無い! 斯んなにも笑ひたくて噴き出したくてヂリヂリ込み上げて来て一寸でも圧してみたなら一つぺんに爆発しさうな可笑しさつたら無い! 駄夫は又堪まりかねて唐突だしぬけに笑ひ転げて了つたのである。何て虚しい莫迦くさい笑ひ声であることか! 可笑しい事は何も無い! かと思ふと実に全く可笑しくて可笑しくて堪らない! 斯うして彼は尚も自棄やけくそとなつて同じ事を四五遍繰返してみたが、しまひには「笑ひ」といふ一種特別の形態を具へた生物が駄夫の胃嚢から分離して蒼空の下にフワフワ漂ひ乍ら、彼方へ飛び此方へ踊りベタベタと吸ひついたり、剥がれたり擦り抜けたりするやうな気がした。ガッカリして持余して了つたら、何が何んだか知らないが凡そ思ひ当る全ての物を一緒くたに籠めたところの実に莫大な何物かを対象にして、遣切れない程切迫した無性に変テコな可笑しさが込み上げてきて、息苦しくて、駄夫は皆目見当を見失つて分解しさうな思ひがした。その時、彼は烈日の下にあつてカンカン照りつけられてゐたのだが、恰も、自分はクタクタに使ひ古された布片であるかのやうな感を抱き、広茫たる田園の一隅へ忽ちヘタヘタと崩れ落ちて、凋むかの如き残酷な無我を覚えたのであつた。――
 駄夫にとつて最も切実な問題は、如何にして斯の退屈な毎日を浪費するか! といふことにあつた。何か珍奇な出来事に突き当れば良いが――さう思ひ乍ら朝朝出発するのだが、時時何か愉しげな街頭の人群ひとだかりに出会つたりすると、むしろ其れを憎むやうに慌ただしく行き過ぎてしまふ、どういふ理由かと言ふに、どういふ理由だか自分も知らないのである。彼は多忙な事務家のやうに急ぎ足で其処を通り過して、何でもない路傍の日蔭や日向で長いことボンヤリ休息してゐたり、或る時は又人群ひとだかりから程離れた塀や電柱に凭れて、ただ何といふこともなく黒い塊りの動きを眺めてゐたり、軒並の門札毎に小頸をかしげて「乃木太郎氏」を探し乍ら歩いたりザッとそんな風に歩いてゐた。多少とも彼の感慨を促す風景があるとすれば、それはあの小学校の授業時間である。――夢見心地で街を漂うてゐる時に、ふとあの合唱の音なぞが幾つかの屋根幾つかの樹樹の向うから湧くが如くに流れて来ると、その時だけは其の方向へ彼の足取が自然に曲げられて了つてゐる。樹立の並んだ静かな校庭に沿ひ乍ら無心に径を辿つてゐるとたんに読本の斉唱なぞがふと一斉に湧き起る時、不思議な色彩いろどりに粉飾された靄のやうな一つの心が、急に叩かれたやうに躍り出すのであつた。――(言葉で表はせば其のやうな物にもなるが実際は、其れに似通つた多少の感が僅かに漂ふ気配の如くに心に覚えられたと言ふだけである――)雨の日は又恰好な休息場所として停車場のベンチがあつた。其処では、慌ただしげに出入する老若の人人が、晴れたる日とは趣きの違ふ心構へで呟きを残ししみを落して変転し、空虚なる人の心を慰めもし紛らせもする。そのくせ、さういふ愉しさも予想でき、又其処へ行きさへすれば予想の通り実際愉しく此の一日が暮せるのだと分つてゐても、無理にも其処へ行きたいといふ頑固な意欲がうるさくて、ひドシャ降りではあるけれど足が他処ほかへ向いてしまふ。さういふ時はその時なりに、侘しさや苦しさや無意味さも亦それ相応の色彩いろどりを持ち、人の心に泌むものであつた。又ドシャ降りの泥濘を傘を忘れた人の様してフウフウと懸命に駈け抜けてみるのも咄嗟の遊戯としては面白いものだ。何処か商店の軒先なぞに雨宿りの人の姿を見掛けると、自分も其処へ割り込んで忙しげに濡れた着物を絞りなぞし、如何にも其の人と同じ難儀に悩むかの如き素振を示して、一種家庭的な同感をそれとない雰囲気にして味ふのが悦びであつた。
 全くそれ等は流れるままに漂うて、時に順ひ享楽する街の景物とも言ふべきもので、此れならば何を措いてもやり遂げたいと欲する事が何一つ有つたわけでは無かつたのだ。何一つとして積極的にしたい気持は動かなかつたが、それでも一つ、探してみれば斯様な意欲が有ることは有つた。ほかでもない、乞食をしたいことである。出来得る限り自分自身を辱しめて、動きのとれないみじめなものにしてみたかつた。街を軒並に遍歴して「哀れなる流浪の者で御座ります、一飯の御喜捨にあづかりたい――」と物乞ひし乍ら、いと悲しげに辞儀を重ねて歩きたかつたわけである。この衝動は時々余りにも強く切実に突発して、流石の駄夫をも困惑させ苦笑せしめたものであつた。案ずるに自分を最もみじめなものに、最も卑しげなものに貶しめて恥しさで消滅したげに狼狽うろたへ騒ぐ自分を眺め「ざまみろい! 万歳万歳!」と罵り乍ら自棄くそな有頂天で騒ぎたかつたものであらうか。
 あれは矢張り実に麗かな春の一日のことであつた――(その麗かな空模様を今もありありと覚えてゐるが――)とある寂しげな村落を街道伝ひに彷徨うてゐた駄夫は、道に一つの閑静な寺を見掛けて突然この気持に強く圧されたのであつた。その寺は丁度嶮しい坂路の途中に位し坂の下から坂の上へ、其処ら一帯の地域が欅や松や椎なぞの鬱蒼とした喬木林に圧し包まれて、しんかんと冴えた昼時のしづもりに人の心は医し難い一種の旅情を、恰も遍路の人のやうに甦らせる場所であつた、一つにはさういふ雰囲気の所為もあらう、又一つには其れが寺院であるために比較的恥を伴ふ率が少い、そんな理由もあつたのであらう、その日、この突然な衝動は極めて自然に駄夫の全部を占領して、彼ははや咄嗟に足を山門へ向けて静かな街道を逸れてゐた。「放浪の旅の者で御座います、一飯の喜捨と一夜の饗応もてなしにあづかりたい――」哀れげに声を落して斯う申し出るつもりであつた。彼は咄嗟に逆上して、自棄まじりに泣き出したい程もしやくしやし乍ら、捨身のやうな小走りとなり已に山門に片足を掛けた途端であつた。
 ――坊主々々山の芋、坊主々々山の芋!
 途方もない合唱が声高々と街道から湧き起つたものである。深く澱んだしづもりが一入ひとしおしんと冴え返る程、高く黄色い金切声の合唱で――それは、駄夫の直ぐうしろから同じ坂道を登つてきた数名の少年達の悪戯であつた。彼等は学校の帰路であらう、或者はだらしなく鞄なぞを振り廻して、隊伍堂堂と行進して来た。
 駄夫は丁度山門の下で、その時いきなり振り返つた。
「俺も坊主だぞ! やいコラ!……」
 少年達はギクンとして、其処は山門からかなり間隔も離れてゐたのだが、彼等の身体を擦り合はすやうに密集させ、ヂリヂリと後退あとじさりした。
「アハアハアハ、アハハハハハッハッ! 冗談だよ。驚かなくつてもいいんだよ。僕と一緒に遊ばないか……」
「チェッ!」
 少年達の或る一人が、矢張り尻込みを続け乍ら舌を鳴らして憎々しげに赤んべいを作つた。それから、一団の彼等が又、皆それぞれに憎悪を示し同じやうな軽蔑をあらはした様をして「チェッ!」――矢張りビッタリと密集を続け乍ら、街道の道幅を出来るだけ遠まはりして、山門の前を擦り抜けて行つた。

「坊主々々山の芋!
味噌すり坊主! 馬鹿坊主!
キチガヒ坊主! キチガヒ坊主!……」

 彼等が怒鳴つてゐるあたりは、山門からは無論見えない坂の上だが、彼等は其処に勢揃ひして、力の限り喚き続ける魂胆らしい。駄夫はてれてニヤニヤし乍ら、ついでのことに乞食の真似も止しちまはうかと考へたが、ええマヤよ、どうにでもなれ……廻れ右して寺の境内へ、風を喰つて飛び込んでしまつた。
 慌ててゐたので入口を探し出すのに骨が折れたが、植込の陰にそれらしい物を見掛けると、案外何の躊躇もなく臆面もなく重い格子戸をガタガタ開けて案内を乞うた。厭に胡散うさんな暗闇が奥の方から蠢いてきて耳の辺りへ絡まりつくが、駄夫はフウフウそれを吹いたり深く吸ひ込むやうにしたり、それからジンと耳を澄まして、奥の気配と自分の動悸と二つ一緒に感じ初めた。その時彼は「御免下さい」と言ふ代りに「お頼み申します、エエ、お頼み申します……」といふ言葉を用ひたのであつた。案内に応じて、取次の人が立ち現れた。極く静かに――(全く――)極く静かに、其処へ立ち現れて鄭重ていちょうに一礼した。それは、何処から見ても当り前な梵妻ぼんさいで、あまりにも当り前な当然でありすぎる為に、凝視めてゐると、危ふく変に懐しくて、フッとあの幼い「思ひ出」の中へ気を失つて迷ひ込みさうな……さう、年の頃は二十四五、柔和なひとで顔形は十人並、或ひはもつと其れよりも綺麗な人だと言つたところで見てゐた人は無いのだから……。駄夫も亦、改まつて、馬鹿丁寧にお辞儀をした。彼は妙に骨の髄まで安心しきつて阿呆のやうにグッタリし乍ら、底の知れない落着の上にグデグデ酔ひどれてゐた。
「御主人は御在宅ですか?」
「ただ今生憎用向きで、朝早く出ましたきり留守なんでございますけど――今日は夕方まで帰るまいと思はれますが、何か……」
「さうでしたか。では又、いづれ改めて参ることに致します」
「あの……どちら様でございませうか?」
「古い友達です。極く古い、昔の友達で、エエ、左様、名前は、モミハラ・ダフ、樅原駄夫といふ者です。丁度この近くまで用向きがあつて来たものですからお寄りしてみたのですが……いづれ又お目にかかる折もありませうから……」
 駄夫はボンヤリ彷徨ひ出でて重い格子戸を閉すと、山門からは立ち去らずに裏手の墓地へ廻つて行つた。――古い昔の友達であるとか、尤もらしく自分の姓名だとか、殆んど無意識に出まかせにかも極めて自然のうちに述べ立てて来たが、其処を出て墓地を彷徨う今も尚ほそれが極めて自然なものに思ひ浮んで来るばかりである、可笑しくもなく変でもなかつた。ただ妙に嫋嫋じょうじょうとして和やかな、まるで一色ひといろの闇のやうに潤んだものが彼をトップリ包んでゐた。
 墓地の中にも樹立が多く、爽やかな影と日向のだんだら模様が、欠け崩れて深く窪んだ古い石にも息づいてゐる。墓地の四辺を取り囲む深い木立は皆一様に蒼空高く梢を窄めた、欅、樅、樫、ポプラアのたぐいばかりで、又中に侘しげな柿があり無花果があつた。彼はただ足の行くままに目当もなく、墓地の片隅から発足して墓石の文字を一字づつ在るがままに読みつぶしては歩いてゐたが、時々気に入つた墓を見出す度毎に、自分の親しい知人達を一人づつ静かに其処へ埋葬して、それはそのまま忘れたやうに其処へ埋めて歩いて行つた。「刈田伝二・行年七十二」彼はさういふ墓の下へ、昔は一しきり足繁く往来し合つた一人の老人――今も尚矍鑠かくしゃくとして死ぬ色もない漁色家の老いたる友を埋めてしまつた。それから、彼の半生に最も心に残つてゐる(まるで沙漠の迷ひ子のやうに!)一人の女性は、何んだか昔肺病で長逝した人の墓のやうな、変に湿つて薄汚い石の下へ埋めてしまつた。それから、彼自らの塋墳えいふんは、彼の弛ゆみない探索によつて探し当てたものであつたが、墓地の全く片隅の湿りの深い垣根際に、無花果のバサバサとした葉の陰に、鈍くブスブス燻されてゐた。高さは一尺にも尚足るまい、棄て去られたもののやうに列の外へハミ出してゐる其の墓は、ひどく愉しげな地蔵尊者(?)の形式に刻まれてゐた。何かの折に虐待せられたものであらうか、頭の半ペタは欠け崩れ、又右膝から下の部分は欠け落ちてゐて最早ない。ビッコの彼は長々と大いなる空に向つて絶えざる欠伸を放つもののやうでもある。腹のあたりに刻まれてゐる汚れた文字は享和二年壬戌と読み分けることが出来た。駄夫は暫く睨んでゐて、欠けた頭を叩いたり鼻をつまんだりしてゐたが、やがて其れにも倦怠を覚え、ビッコなる地蔵尊者の型の如くに、彼も亦長長と欠伸を放つて立ち上りついでのことにポカリと頭を蹴飛ばしてみたが、見掛けによらぬ坐りは確かな石仏で彼の爪先へ痛々と思ひもよらぬ疼痛を復讐した。彼はまどかに息を吸ひ、晴々として澄み渡る葉越の空を眺め乍ら、無花果の根本へ小便を垂れた。時々間違へた振りをして地蔵尊者の欠けた頭へ浴せかけたが、濡れることには馴れてゐるのか、忽ち全身に泌みてしまつた。彼は朗らかに笑ふことが出来たのである。斯うして、彼は斯の日頃、永らく文学を忘れ芸術の雰囲気に遠ざかる者であつたが、この日ゆくりなく一片の即興詩を(――生れて初めての経験であつたが――)歌ひ出す悦びを持つたのである。彼は墓地を彷徨し木陰を縫うて、日没の迫まる頃まで魂を籠め(――まだ幸ひに落失おとさなかつた!)幾度か推敲に耽つたのであるが、技巧を弄ぶに順ひ其れは次第に真心を遠ざかる物となり、結局素朴な原型である即興詩のみ此の際最も適切な物であることを認めて満足した。

旅人は
野越え山越え村越えて
幾度しよんべんするものぞ!

 黄昏の迫まる頃、彼は俄かに我に帰り、墓地の裏門を廻らずに、倉皇として垣根を破り犬の如くに逃走した。彼は街道を慌ただしげに通り過して、専念に竹藪の家へ歩いた。


 或る朝ふと目を覚したら、その日は直ぐと階段の降り口に、それ故丁度沓脱くつぬぎのあたりであらうか、殆んど枕の横手あたりに聴きとれるほど程近い階下にあたつて、与里の一家は癇高い叫喚を張り上げ乍ら口論に耽つてゐた。それでは今朝は斯の争論の喧しさに起されたものかと思ひ、其の儘それに吸はれるままに何気なく耳を澄してゐたら、その時癇高い音声は殆んどぢかに駄夫の耳もとに鳴り響くにも関らず唯ガヤガヤ意味を持たない一聯の音響に聴きとれたばかりで、それの意味を打ち消してしまふほど戸外は更らに猛烈な風雨が荒れてゐた。繁吹しぶきをあげてザザザザーッ……と頭を揺すぶる竹藪の音が、激浪のやうに荒れ狂ふ裏手一帯の劇しい起伏うねりを未だ一杯に温気ぬくもりの籠めた朝の部屋に歴々と描き出して見せてしまふ、かと思ふと、突然硝子を射抜くやうな太く真つ直な雨脚がヂヂヂヂヂイーと一頻ひとしきり窓に噛みつくのであつた。すると又あたりは急にホッとして、ずうつと遠い向うの林や藁屋根の上を激しく叩いて渡つて行く遠い雨脚の音が聴えた。――さう言へば、今朝方も未明の事であつたらう、ふと目を覚した極めて僅かな瞬間のうちに激しい嵐の唸り声を――それは遥かに武蔵野を遠く縹渺ひょうびょうと吹きまくるもののやうに聴きとれたが――とりとめもない唯それだけの険しい唸りを、二重にも亦三重にもボンヤリとして殆んど夢心に近いであらう朧げな耳に残したやうな記憶があつた。それは夢であつたのかしら?……たとへば夢であつたにしても、それは遠い嵐の唸りに違ひはなかつた。――そして駄夫は、今朝も亦、(それは毎朝のことではあつたが)、誰よりも遅れて目を覚した気まづい不覚を、ボンヤリと頭を抱へて後悔した。
 ――お母さんはあんまり冷酷だよ。それぢやあ、まるで残酷と言つた方がいいくらゐだ! それあ意気地のない僕のことだもの、死にたくて「死にたい」なんて言ひ出す筈はないんだ。如何にも甘つたれた気紛れな気持の方がむしろ強いには違ひないけど、それでもそんな厭な言葉を言ひ出すには矢張り其れ相当の訳の分らない歎きといふものが有るからなんだ。それをいきなり「死ねもしないくせに」なんて、そんなに冷酷に嘲笑ふ奴があるもんですか! せめて親子の間ででも斯んな甘い歎きを認め合はなかつたなら、僕達の生活なんぞに一つだつて喜びや生甲斐の有りやう筈はないんだあ! それに、お母さんは頭ごなしに「死ねもしないくせに」と僕を冷笑するけれど、人間なんぞはそんなにハッキリ死にたくつて死ぬものぢやないんだ。厭々ながら死ぬ奴だつて、それああるんだぞ! お母さんなんぞは広く反省することが足りないから手近かに在るものを軽く見積る悪い癖があるんだが、それあ何だつてさういふ意識で観察すれば、手近かに在るものはみんな浅薄な多分に過失を含んだもので、よしんばどんなに張り切つた貧乏にだつて甘さや余裕が目につくものですよ。だけど、ハタから見れあ、僕の家なんぞ幾つ自殺が有つたつて母殺しだの一家心中だのと騒いだつて、誰も不思議と思はない程立派な根拠があるんだい。死ぬんだつて殺すんだつてみんな一寸したハズミなんだい。どんな気楽な奴だつて、生きてさへゐたら、死んだり殺したりやりかねない変テコなところが有るもんだぞ! やつてみなきや、誰だつてやれるとは思へないんだ。それが、僕に出来ないと思ふならそれあ笑つてゐる奴は一生怒れないとめてしまふ程軽率な間違ひだぞ。僕あねちねち死ぬことばつかし考へてゐる時は、どうせ死にたくても死にたくない程ビクビクして意気地がないんだけど、いきなりカアッと逆上のぼせたら僕にだつて僕のことが分りやしないんだから……
 そして与里の激しい悲嘆は、きあへず、高い鳴咽に噎びはじめて消え入るやうな愁訴に変つた。それはある時、込み上げる太い歎きに胸つぶれ、絶え絶えに辛くも噴き上げる脆い息吹にきこえたり、又ある時は鋭く細い一条ひとすじの歎きとなつて地を這ふやうに荒涼と引き流されてきこえたりした。時々、舞ひ狂ふ嵐の腹が絶叫に似た唸りをたてて棟を打ち飄と戸外とのもを噛み狂ふ度に、一頻り重苦しげに軋みたつ鈍い家鳴に打ちまじつて、絶え入るやうな与里の愁訴は忍び泣きの心細さに吹き千切られ、縷々と這ひ又やや高く蹌踉して遣瀬なく物凄いものに聴きとれてきた。――とは言ふものの、これは又何といふ鬱積した沈黙の階下に蟠ることであらうか? 何といふ無気味な沈黙へ向けて、与里はその激しい歎きを鏤め込めてゐるのであらうか? 殆んど幽かな溜息さへも最早其処から湧き起らうとは思ひも寄らない。いや、ホッとして一つ吐息を洩してさへ、人は大いなる悲嘆に沈む縁因よすがとなり、医し難い後悔に身悶えせねばならぬであらう、それゆゑに、鬱積した長い吐息を噛み殺して鈍く白々と顔を背ける沈黙である。恐らくは太い怒りを胸にカクして憎々しげに素知らぬ顔を作るところのかかる敵意の沈黙であつた。――痩せ衰へて思案深い与里の老母は、日頃物憂げに針を手にして部屋の片隅に凭れたまま、日を終るまで一手動かす気配もなく思案に耽る様子であつたが、この朝は如何ばかりせわしげに顫へる手先を爪繰らせて厳しく糸を噛んでゐようか! 又あのガサツな、ヒステリイの与里の妻は? 又泣き虫の多次郎は?……たとへば今日の口論が与里とその母の交渉であるにはしても今朝に限つて、ガサツな総江が喚かぬことも不可思議である。これ程の息苦しげな沈黙に、業腹ごうはら立てて一声ひとこえ搾らぬことがあらうか?……
 又、嵐の太い一うねりが、鋭い家鳴を響かせて押寄せて来た……
 そして、結局、与里の激しい愁嘆は、この日の長い争論の終幕エピロオグであつた。捨台詞とも言ふべきものを、与里は殊更に置き捨てようともしなかつた。そして高い一うねりが屋根に騒がしく巻き狂ふ時、家鳴に紛れて屋外へ去るぼやけた与里の影法師が、戸の開閉に暗示せられてフオッと目前を通り過した。……それでは矢張り起抜けに駄夫のそれとなく推定した通り与里は沓脱に居たのであらう。それも争論の始めから、已に外出の支度を終へて靴を穿いてゐたものかしら? それとも長い歎きの終りに、今の先刻さっきわづかに途切れた静寂のとき紐を結んだものであらうか?……
 駄夫は窓際へ這ひ寄つて、ソッと窓掛を掲げてみた。……果して今朝の口論は与里が全く出勤の支度を終へて沓脱へ立ち下りて後、勃発したものと推定せられる。与里は毎日の詰襟服を身に着けて、さらに又ドス黒い厚羅紗らしゃの、膝から下へだらしなく垂れ落ちた冬の外套を纏うてゐた。それは破れて、肱や衣嚢かくし綴布つぎだらけであつた。春の外套を持たぬのだ、勿論それが第一の理由であらう、しかし又、与里はここ数日以来激しい発熱を訴へて乾いた唇を噛んでゐたから、この種の重い冬の衣裳が、高い悪熱に要求せられた結果でないと言ひ切ることも出来はしない。――何といふ寒々とした薄い影! お前の草臥くたびれた神経は飽くまで簫条と色蒼ざめて襤褸ぼろ外套の背筋にまで、何とまあ鈍く光沢なく滲み出てゐることか!
 与里は辛くも半ば開いた重苦しげな番傘へ肩から上をスッポリもぐし込むやうにし、生気の失せた長身をだらしない「く」の字に曲げて、横殴りの繁吹しぶきのなかを、何か冷い決意を追ふかに息を詰めて歩いて行つた。しかしそれは、一見変に突き詰めてゐてせわしく大股に見られるものの、又なにがしの太い気落ちと、ガッカリした何か無限の弛緩が見えた。二階から秘かに窺ふ駄夫の気配に傷心の与里が気付かう筈もなかつたし、長い歎きを閉ぢ籠めて来た濡れた戸口へ首をめぐらす感慨に唆かされる甘さもあるまい、丁度嵐の遠のいて行く妙に四辺あたりのホッとした変に白々と味気ない広さの中を、与里はただ何のこともなくヂャブヂャブと――駄夫の覗く小さな視界を、或ひはまるで平べつたい舞台の中を、硝子戸越しに一人悄々と横切つて瞬くうちに見えなくなつてしまつた。
 遠い林に、遠い家並に、嵐の叩く深いうねりと梢の揺れる騒がしさとが聴えてゐる。――思ひ出の、遠い幽かな、物に怯えた夜更けのことや、炉辺夜話、夜鴉や梟の啼く悲しげな闇夜のことや、さては又古い数々の夢の奥には、少年の歎きに沁みた嵐の叫びが顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)の深い奥手にきこえはしないか?……見るともなしに眼を上げると、駄夫の無意味に撮んでゐた其の薄汚い窓掛は世の常のそれではなくて、メリケン粉の古い袋を切り開いて縦に数枚継ぎ合せた廃物利用の代物しろものらしい、如何にもだらしなくダラリと垂れて、丁度目の向いたあたりに訳の分らぬ商標を読みとることが出来た。変にいきれた黴臭い布の匂ひがまつはつてきた。鼻のあたりへヂッと擡げて嗅ぐともなく見るともなしに見たり嗅いだりしてゐたら、激しい嵐の一うねりが今しがた引いたばかりの空虚の中に、まだ引き残りのケチな小癪な突風が小雨を殴り小枝を叩いて間の抜けたフォッと明るい往来の上でシミッタレな小騒ぎをたててゐた。――ふと気が付いたら、階下したからは相も変らず物音一つ聴えてこない。駄夫はソッと窓掛を手離して再び寝床へ帰着すると、忽ちグッタリ仰向けに寝倒れたまま空洞うつろまなこを閉ぢもしないで、次から次、次から次へと取り止めもない物のすがたを額へ運んだ、全く何等の意識もなしに。……そして漸く我に返つて、埃つぽい白けた温気ぬくもりを蹴散らすやうに勇ましく、ところが矢張り悄々として兎も角然し間違ひもなく跳ね起きはして、ふやけた寝床を片附けてゐたら、又してもあの高いうねりがひどい凄さで縹渺と荒れつのりつつ一際鋭く押寄せて来た。そしていきなり次の瞬間ときには家の脾腹に打ち砕けて、駄夫諸共に揺すぶりながら裏手一帯の竹藪に舞ひ狂ふのがきこえてゐた。
 駄夫は変にモソモソして、何んだか妙にまじろぎばかり為たいやうな気になりながら、階段に浮かぶ朦朧とした薄暗うすくらがりを吸ひ又吐いて静かな階下したへ降りて来たら……
(果して!)――与里の老母は壁に凭れて右手を右脇に差し入れたまま唯グッタリと項垂れて、殆んど其処に一年間も動く機能を忘れ果てて坐したる人の面影をしてゐた。朝の挨拶を述べ乍ら駄夫がその前を通り過ぎる時、途端にチラリと一瞥を――それも漸く駄夫の胸のあたりへまで重苦しげに持ち上げはしたが、すぐと又下へ落して最早そのまま動かうとする気配もなかつた。ただ、首を擡げて直ぐさま落した物憂げな動きのなかにも、それを会釈に代へようとする幽かな素振りが見受けられた。その時、朝の挨拶も確かに答へたものらしい、だがそれも殆んど幽かな呟きで、音には聴えずに気配だけが感ぜられた。
 裏の戸口をガタガタ開けて嵐の吹きすさぶ井戸端へ出るまで――駄夫の通過ぎた部屋はと言へば、それが即ちこの家全体の間数を縦断したわけで、階段を降りた場所が不思議に明るい三畳の間、その隣りには与里の老母が有るか無きかに凭れてゐる朦朧とした六畳の部屋、そしてそれだけが全部であつた。さう言へば、二階では何のことも無かつたが、来てみれば階下はひどい雨漏りである。二階の窓の真下のあたりが漏るものらしい。其処にはバケツや鍋なぞを並べて、ポタポタ落ちる黒いしずくを受ける工合に計られてゐたが、しかし何分雨漏りの場所が多くて鍋やバケツが廻らぬらしく、雑巾や新聞紙を敷きなぞして、それが又濡れて崩れて、そこら一面に目も当てられぬ様子であつた。台所へ来てみたら、其処はもう雨漏りどころの段ではない――明取あかりとりや建付の悪い戸口から自由に吹き込む嵐のために、床板は無論のこと、壁も釜も庖丁も一様に濡れてギラギラしてゐた。
 成程、今朝に限つて、あの裂くやうな総江の喚きが聴き取れぬのも解し難いと思つてゐたが道理なことで、探ね見廻はす迄もなく家全体に彼女の姿は影も無い。――この嵐に用達しといふことがあらうか? 恐らくは腹立ち紛れに走り出て、多次郎を引摺りながら、街を(――畑か?)彷徨さまよい歩くものであらう。この一家には変哲もない、其れは行事にすぎないのだから……
 駄夫はモソモソと家を歩いた。そして此のジメジメとした台所で間に合はぬこともなかつたが、故意ことさらに井戸端へ出て顔を洗ふ気持になつた。立ち出づれば、吹き荒れる風の冷たさよ鋭さよ打ちひしがるる悦びよ! 何といふ溢れて尽きぬ快適の込み上げてくることであつたか! 湧くものの如く壮快のひたすら胸に顫へるを彼は感じた。駄夫は大きく胸を張り又深々と肩を引いてヂッと首を空の一方へめぐらしたら、静かに擡げた首の彼方に、倉皇として低く走る大いなる雲を見たのであつた。歌ふが如き心をもつて――彼は涯しない無気力をひろびろと目に得たのであつた。
 暗い室内へ戻つて来たら、それでも与里の老いたる母は何時の間にやら駄夫のために階下したの六畳へ食膳の支度を調へておいた。そして其の老婦人はと言へば、已に又一年間も動かぬ人の面影をして、もとの場所にヂッと俯向いて坐つてゐた。眺めたら、新聞紙は取り換へられ、雑巾も亦絞り直されて、変に慎しくシャッチョコ張つて並べられてゐた。
 老いたる与里の母親は、睡つたやうに何時もグッタリ黙りこくつてゐる人だつた。神経の影法師かと思はせる与里の母だけのことはある。彼女も亦、鋭く寒い神経の老さらぼうた成れの果かと思はれる有様であつた。日永一日を伏目勝ちに、与里と同じく眉を険しく寄せ乍ら顫へる手先に何かしら仕事をしたりいじつたりしてゐる――黄色い顔にはさらに光沢つやといふものがなく見るからに深い老を漂はしてゐるのに、その割に皺の少い頬のあたりは、鋭い智力を閃かしてゐる広い額と相俟つて、高い理智を暗示する気高いものに思はれたり、又或る時は病的な薄刃のやうな神経を痛々しげに印象したりするのであつた。昔は立派な家庭の主婦で、むしろ豪奢な半生を過して来たのに、(その当時から駄夫と与里とは已に友達であつた――)一種の利権政治家である連合つれあいは晩年種々の画策に齟齬を来して「生ける屍」の如き凋落に会ひ、与里の学資にも窮してゐたが、その人の死亡とともに一家は更に斯んな悲惨な生活へまで堕ちてしまつた。凋落の頃からかけて連合の死亡前後へ立ち至るまで、この理智的な老婦人は最も激しいヒステリイに悩まされてゐた。いや、悩まされたのはむしろ家族がひどかつた。――その主婦に劇薬を投入される愁があつて日毎の食事に猜疑や不安を感じ続けたものである。それでも連合が死んでしまふと――まるであらゆる精根が根こそぎ尽き果てたもののやうに! この人のヒステリイまで枯木のやうに鎮まつてきた。そしてそれからのことである――木偶でくのやうに動きを忘れた投影の深い静物と成り果てたのは! およそ人の生活苦を個人の上へ累積して、ここまで疲労困憊を人のすがたへ具像化するには仇おろそかな年月にては及ぶまい――骨董を玩味するほどの軽い気持で一寸皮肉を(――人間の生活苦へか? それともお前の人生へか? ヘン 人間様の生活苦へさ! あたりまへ!)吐きたくもなる姿である。日永一日グッタリとして殆んど口を利くこともない、それでゐて、ふと、時々一旦喋り出すとき、驚くばかり美麗な言葉が――(何といふ深く光沢つやある声であらうか!)潺湲せんかんとして湧き起り、今に終るかと思ふ度に次より次へ展開して、聴きの呆れた顔付が如何にも間抜けに見えるほど暫しのうちは杜絶えもしない。その瞬間に此の病み疲れた老婦人は、華麗な客室サロンに深く埋もれ多彩な思ひ出をあたり一面にぼかすところの、かかる老いたる貴婦人の一人の如く思ひ做された。ただ此の人の饒舌には、ただごとでない神経の穂がチクチク揺れて話のさきへ滑り出てゐた――聴き手の神経に絡みつくとき、それは堪へ難いものとなつた。
 駄夫が食事を終へるまでに、それでも矢張り老婦人は動かぬこともないのであつた。暫くヂッと黙つたまま項垂れがちに何かと指先をクネクネと爪繰らせてゐたが、まるでテリヤ種の犬かのやうに、急にピタリと張り切つた顔を擡げてゐた。なにか咄嗟な神経に弾かれでもしたやうに、そして又、長い夢からふと目を醒した人のやうにとぼけた顔にも見えたのである。すると坐つた形のまま緩やかに方向むきを変へ、腰を折り両手を下ろし、雨漏りのする敷居の方へ延びて行くやうにいざりはじめたが――其処まで行けばわけないものを、三尺も手前の場所に動きを止めて、ガナガナと顫へる腕をやうやくに畳とすれすれに延しきり、辛うじて新聞紙に届かせることが出来たら、少しづつ滑らすやうに動かして、兎に角に紙の位置を一尺あまり動かすことが出来た。成程そこは、つい先刻さっきから漏りはじめて、長い間延まのびた間隔を置き、忘れた頃に丸い大きなつぶらな玉が一つづつポタリと落ちて弾いてゐた。まだ真新しい至極小さな水溜りがいやにふつくら盛り上つてユラユラしながら、少しづつずらされて行く紙の陰に隠れてしまつた。さうしたら――(この痩せた、蟷螂かまきりのやうな老婦人はいつたい何を思ひつくのだ!)折らでもの骨折りをして兎も角も紙はうまく動いたのに、やうやく作業が終りをつげたと思つたら今度は急にヂリヂリとにじり寄つて一尺あまりの近さに寄り、妙に真面目な顔付をして紙の面を眺めてゐる。その紙は未だに滴を浴びないで、全面にいぶるやうな鈍い白さが耀いてゐた。何か目を引く記事や写真があつたのかしら? それとも果して、新聞なんか読んでゐるのか、ゐないのか?――長いことヂッと其処にさうしてゐて、そして駄夫が矢張りヂッと凝視めてゐたら、いつまでも結局それは唯だそれだけで終つてしまひ、それはそれだけのことであつた。さうしたら、何んだかサット鈍く光つた一つの玉がチラチラしながら落ちてきて、新らしい紙の上で平らたい音をたてながらパチンと散つて転げてゐた。老婦人はビクンとして――(今にもキャンと啼くのかと思つてゐたら)やがてモソモソ向きを変へて、後も見ずに元の壁際へ這つて行つた。
「御馳走様」と言つたら「いいえ」と言つて尚下を向き――駄夫が二階へ上つてきたら、いきなりガチャガチャと茶碗のぶつかる音がしだした。ずゐぶん手荒い音であつた。(冗談ぢやあない。それが割れたらあしたから御飯を食べる茶碗がねえや。困るんだよ、まさか俺だつて金盥かなだらいから飯も食へめえ。)――駄夫はゴロリと寝転げて欠伸をなぞし、勝手なねつに耽りながら満腹の懶さを堪能した。嵐の唸りが耳について、やがて次第に、額の中でそれが静かな波のやうに引いていつたら、背骨のへんからジインと澄んだ音がしだした。それで駄夫はシンとした身体を起して洋服を着けはじめたら、いろんな取止めのない昔のことがきのこのやうにノコノコ生えたりパッと消えたり又現れたりした。矢張り出掛けねばならぬのである。自然に身体が出掛けるやうに動くのか、出るよりほかに仕方がないのか、やはり外気はひろびろとして物憂い心にも宜いのであらうか――ま、どうでもいい。幸い雨は小降りになつて、雲の断れ目が薄く白く覗いてゐる。
 突然階段を登る跫音がきこえた。跫音であらうと思つてゐたら、やはり跫音に違ひはなかつた、実に幽かな音ではあつたが……。丁度ズボンをはき終つて、ボタンをはめてゐるところで、駄夫が斯ういふ姿勢のまま鋭く戸口を窺つてゐたら、痩せた頭が迫り出してきて次第に半身立ち現れたが、そのまま這ひ込むやうにして戸口の壁際に吸ひつき静かに坐つた。勿論与里の母である。登る時から畳ばかりを凝視めてゐて、険しく上から見守つてゐる駄夫の眼付は素知らぬ顔に、大変自由な物腰で静かに坐ると、膝の上なぞ直したりした。そして――
「ほんたうに困りましたよ……」
 と険しく眉を寄せながら呟いた。駄夫は直ぐと暗い愚痴話の気勢を察したので、又神経につかまつちやつた――と厭な顔をし、空々しく脇見をし、天井を仰いだり空の工合を窺つて舌打ちしたりしながら、ズボンのボタンをはめ終へると、わざと大袈裟にバタンと転げて安坐あぐらをかいた。
「――まあ、大変な嵐ですこと、ねえ……」
「ええ。それでも割りに漏らないぢやありませんか。ことに二階なんかはね。僕は昔、家の中で傘をさした覚えがある……」
「ほんたうにクサクサしますわね。ねえ、モミハラさん。いつそ死んだら、ずゐぶんせいせいするでせうねえ」
「そら、つまんないや。僕の友達でね、一人自殺しそこなつた奴があるんですけどね、そいつはね、死んだら何んにも分らなかつたんだつて。だから死ぬのはつまらないつて、さう言つてた。そら、さうだらうな……」
「あんな生意気な奴つたら、ありやしませんねえ、子の身分として親を打つたり蹴つたりしてねえ。今朝もいきなりあたしの此処を(顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)のあたりをおさへて)ピシリーッつてね。それあ幾度も――もう血相をすつかり変へて、おお! こはい。――ねえ、モミハラさん。あいつ又狂つたんぢやありませんかしら? 額のここがグッと吊つてたでしよ。近頃……眼の色が濁りを帯びて底光りがして、腰の付根が斯うフラフラとしてねえ、変ですわね……」
「そら違わア。気狂ひつて、もつと人相が鋭く変るものですよ。あれア風邪で熱の高いせゐなんですよ。だから気持だつて幾分並みぢやアないんですさ。――それに、貴方も矢張り悪いよ。あなたは与里の気持を察してやらないから悪い。たとへば与里が多次郎や総江さんを叱つてるでしよ。するとはたの貴女までいい気になつて総江さんや多次郎を遣込めようとしたりする。――いつたい家庭の喧嘩つてものは静かな平和が欲しいからやり出すことで、現にね、喧嘩をしてガンガン喚いてゐる奴が一番それを痛切に欲しがつてゐるんだ。だから貴女がとりなしてやれア与里だつて喜ぶものを、貴女ときたひには、憎しみ一方でいい気になつて人の喧嘩に輪をかけるんだ。そん時の貴女の態度といふものは、見てゐても、あんな憎々しいものつたらないよ!……」
「あいつはね――ほら、四五年前の春さきに狂つたでしよ。自動車タクシーに、毎日毎日乗り廻してあんなにすつかり重役のつもりになつたりなんかして……あの頃のことでしたよ。いきなりあたしを押し倒してねえ、馬乗りになつて、二度――さう、一度は昼、一度は夜中のことでしたけど、ねえ、モミハラさん、あいつッたら目の色を変へて、かう額をグッと吊りあげて、頬がすつかり斯う落ちてねえ、いきなりあたしをギュウッと絞め殺さうとしたんですわよ……」
「それア、いたづらですよ。人間てものは腹の中と表とはまるで違ふものだから。――」
「腹では愛して、表では殺して――へえ、殺されるのにいくらか違ひがあるんですかしら……?」
「ちげえねえ。全くだよ! お前さんはいい頭だよ! 何だい、あああ、俺も死にたくなつたよう!」
「おお、寒い。まあ、ここから冷い風がはいる……」
「チェッ!」
 成程寒いのもことわりである。老婆のもたれてゐた場所は、肩が丁度壁から半分はづれてをり、頸筋に窓の隙間が当つてゐた。そこで老婆はジリジリと横に動いて身体をすつかり壁の陰へ入れてしまひ、暫しの間苛立たしげに手を顫はせて、メリケン袋の窓掛を窓の隙間へ当てがふやうに引つ張つたり押し込んだりして工夫してゐた。駄夫はゴロリと寝転げて、知らん顔をした。
「あいつはねえ、気がれると腰から上を斯う、フラフラふらふらとさせてね、両手をダラリと斯んな風に持て扱ひに苦しみ乍ら、肩から下へダランダランと振り動かして――それはそれは莫迦らしいことばかり喋るんですよ。――」
「もういいぢやありませんか! 第一与里はもうこれからさき狂ふ心配はないやうだし、貴女さへ温い心を忘れなきや、この一家は何時に限らず幸福な団欒が営めるわけなんだのに」
「――そしてねえ、あいつときたら、俺は世界で一番偉い哲学者だとか、一番偉い予言者だとか大威張りでねえ。世界中の女はねえ、フフン、みんな俺の自由になるんだ――ですつてさ……」
「チェッ!」
 駄夫はあきらめてソッポを向いた。かうなると、手に負へないのだ。ありたけの厚意を寄せて観察しても、この人が斯んな工合に捩れてくると、憎々しげな憎悪ばかりがこまかい神経の隅々にまで滲み出てゐて、心の裏の温かさがこればかしも感じられない。あまり憎悪が激しいから大概はこちらの方も呑まれてしまひ、ただボンヤリと敵を罵る呪詛とのみ聞いてゐるうちは差支へもなかつたが、ふと気がついて、実子を呪ふ言葉也と反省する時には聞き苦しいものであつた。
 それに、この人は斯んなふうに物語る時、何だか不断に相手を冷笑するやうな――変な工合に唇を歪めて、実に冷酷な犀利な顔付をしてゐる。よく見ると、どうやら其れは悪い意識から出たものではなく、本来こんな顔付だけしか作れない人だとも思へるし、又ある時は案外てれ隠しのやうな気の毒な顔に(最もロマンチックに考察して!)見受けられないこともない。――それにしても其れが冷笑ではないと断定することは出来ないので、兎に角いい気持にはなれなかつた。そのくせ「ねえ、モミハラさん――」だとか「さうですわねえ、ダフさん――」だとか、厭に馴れ馴れしく押付けがましく切り込んできて、まるで駄夫を一味同腹の徒党なみに扱ひながら、憎々しげに、与里や総江の陰口ばかり叩くのである。駄夫も甚だうるさいから「うんうん」といい加減に頷いたり――頷いてばかりゐるうちには、何んだか自分まで莫迦にされてゐるやうで癪にさはつて堪まらなくなるから、そつぽを向いて欠伸をしたりするのだが――するうちに又、頸筋のあたりに絡んでくる老婦人の粘りつこい罵言が、ひどく冷笑的にネチネチときこえてくるので、根こそげ厭らしく思はれてしまふのだ。この人の神経にこちらの神経を絡ませたら、もう抜き差しの出来ないことを駄夫は百も承知してゐた。
「分つた分つた分つた! もう分つた! 貴女はもう、ぶたれた分だけ悪口を言ひ返したよ!」
「――今日といふ今日はほんたうに、それはそれは腹が立つて……」
「分つたつたら! 今日に限つたことぢやアないんだから!」
「こんな暮しをつづけてまで、生き永らへてもつまらない話ですもの、ねえ。あたしだつて自殺の出来ないことも……フフフフ、ねえ、モミハラさん。いい年寄りがあんまり恰好の宜いものぢやありませんけど、首縊りでもするぶんには――縁側へでも扱帯しごきおびを掛けてぶら下がるぶんには、ねえ……」
「なんでい。つまんねえや。そんな話はね。ちつとも面白かねえや。それに――」
「あいつの鼻先へぼんやりとね。ダランとブラ下がつてブラブラぶらぶらとネ――フフ」
「チェッ!」
 駄夫は腕組みをして汚ならしく横を向いた。彼は先刻さっきから又起き上り、坐り直して、雲の動きを眺めてゐたのだ。別に故意わざとするわけではなかつたが、自然にそらぞらしい素振りをつくり、老婆の言葉を莫迦らしいものに思ひ乍らも、内心厭な・陰惨なものを意識せずにはゐられなかつた。矢張り、多少おどかされたのである。それで、その時ふいに口を噤んで黙り込んだ老婆の奴は、又例の変な工合に唇を歪めて小憎らしい冷笑を浮べてゐるのではあるまいかと思はれたので、チラリと一瞥を呉れてみたら、思ひがけなく黄色い板のやうな顔付をして、まるで表情を失つたままヂッと一つところを凝視めてゐた。
 駄夫の下腹部に、厭な、重苦しい蟠りがひろがつて来た。
 するうちに――激しい物音を跳ね散らして、階下したへ総江が戻つてきた。戻つたかと思ふうちに――殆んど下駄も脱ぐか脱がぬに、いきなり多次郎を突き飛ばして打擲ちょうちゃくしてゐる。さういふ物音がきこえるのである。多次郎はベソをかいてゐるらしいが、高く泣くのが恐ろしくて、変な工合に吃逆しゃくつたり、ウォンウォンと鈍く喚いたりしてゐる。――その泣き工合をきいてゐると、これは随分長い長い泣き声の連続で、思ふに総江に曳摺られ乍ら道といふ道の長さを泣き通して来たのであらう。
 駄夫は立ち上つて窓際に寄り、硝子に頬を擦りつけ乍ら雲の有様を覗いてみた。雨は全くあがつてゐたが、残つた風は、まだ飄々と吹き荒れてゐる。その雨もまだ時々は降るかも知れない、断れ目は見えるが、空の灰色は尚ほ深いから。……知らぬまに手に触れてゐた窓掛がどうしたわけか、妙にジットリ湿つてゐた。調べたら、窓の隙間から吹き込んでくる繁吹しぶきのためにやられたらしい。さう言へば、その辺一帯の畳まで矢張りジットリ湿つぽいのだ。
「ゐないの?――二階にゐるんだらう? 駄夫もゐるんぢやないか!……」
 下では総江が喚きながら二階の気配を窺ふやうな様子であつたが、やがて直ぐ跫音荒く登つてきた。あれだけの嵐に吹かれて余程癇癪も醒めたらうに、薄暗い家へ着いたら尚ほ更激しくぶり返してきたものであらうか。二階へ現れた顔を見たら痩せてゲッソリ窶れた顔はいつもの通り黒光りで、頭は水でグショグショだつた。額から頬へかけては沢山に赤茶けた毛が垂れ下つて、それがさもさも不精たらしく見えるのに、其処を又、滴が垂れて鍵々に曲りくねつて這ひ落ちてくる――それでもこの人は気にも留めずに、三角眼玉を険しく尖らせ、ひどくふくれて突つ立つてゐた。総江は二人をかはるがはる睨みまはした。
「――またあたいの陰口を言つてたんだろ。もうろくたかりめ!」
「嘘だい! お前さんの美徳に就いて褒めてたんだよ。見上げた人だよ! お前さんは!」
「うるせえ! 黙つてろ! 居候め! こくつぶし! 出て失せろ!」
「あああ、また、ヒステリイ、ねえ――」
「何だと!……もうろくたかり! お前は気狂ひを生んだ親ぢやないか!――」
「よせよ――」
 駄夫はヒョイと立ちはだかり、老婆の方へつめて行く総江をおさへた。そして、否応なしにうしろを向かせ階段の方へ押しやつて、背を押し乍ら自分も一緒に降りてきた。総江はふくれて地蹈鞴じだんだふんだり首を張つたりしてゐたが、割りに素直に、それでも下へ辿りついた。
「お前さんはなかなか立派な奥さんぢやないか。昨日だつて、与里と君と話してたのを聞いちやつたよ。君達は昨日、励まし合つて感激してたんぢやないか。ちやんと知つてるんだよ。――ま、君は下にゐた方がいい。階段てものはね、つまりさういふ役目もするんだつてさ。一人が上にゐる時は一人が下にゐるために、で、そのための境界線も或時は之を階段と言ふんだつてね、西洋の偉い人がさう言つたんだ。知らねえだろ……」
 総江は降りると、多次郎の顔や手足を拭いてやつて、別な着物と着代へさせた。多次郎は全身グッショリ濡れてゐたのだ。
「お前さんは仕事を見付ける当があるの?」
「あるさ。今日なんざ、重役に会ふんだぜ。三井銀行のね」
「チェッ! 笑ひ事ぢやアないんだからね。ほんたうに早く仕事を見付けるといいね。そして此処を出て行つてくれると助かるんだよ。お前さんが一人ゐると、ずゐぶん暮しがかかるからネ……」
「ウン、さうだろ……」
「でもね、お前さんがウチにゐたつて邪魔ぢやアないんだよ。淋しくないし、みんなとても悦んでるんだから――ほんと。だからお前さんが仕事を見つけて、いくらでもいいから口前を出して、此処から通ふやうになつたら、それアいいね」
「さうださうだ、全くだア! 今にさうなるよ。なんでも月に五へんくらゐ、円タクに乗つて帰つて来ようか! さうなると、第一に、いくらヒステリイの時だつて、ダフダフなんて呼び捨てにする人はゐなくなるだろ」
 総江は部屋近くの縁側に屈んで、雨漏りに当てがはれた雑巾を絞り直し、濡れた畳や床板を拭いてゐた。多次郎は、雨滴れの溜つてゐるバケツのふちへ手をかけて、はじめは母親の機嫌のことを考へてゐたが、別に叱りさうな気勢はないのでヂャブヂャブと手を掻き廻しはじめた。総江はただ何も言はずに、多次郎の泥だらけな足を丁寧に拭いてやつた。
「お前さんは口が悪いね。女と口をきくときには、特別と、変な工合にぞんざいですれてゐるよ。悪い女と遊びすぎたせゐだろ……」
「さうさ。昔は不良少年だつたんだい」
「アハハハハハハ」
 総江は急に腹を抱へて笑ひ出した。胸を突き出したり、腹をよじつたり、仰反のけぞつたりしてゐたが、笑ひ疲れて眼をショボショボと凋ませ乍ら、漸く笑ひを収めたら「メエンメエン」と言つて口を尖らせ、多次郎の鼻先へヒョットコみたいな道化た顔を突き延した。多次郎がエヘンエヘンと笑ひながらガチャガチャにはしやぎ出したら、総江は大変機嫌の良い顔をして、多次郎の遊んでゐるバケツをガタガタ振つてみせたり、突然チュッ! と多次郎のおでこへ接吻したりした。
 駄夫は二階へ引返した。それでは出発しようと思ひ、上衣を取りに来たのであつた。
 何の気なしに登つてきたら、老婆はいまだに同じ場所にグッタリして、無表情な顔をしたまま俯向いてゐたが、駄夫の姿が近づいてくると顔をそむけ、肩のあたりへ垂れてゐる窓掛けをちよつと掲げて外を見てゐた。外はまだ、飄々と狂ふ風であつた。駄夫が上衣へ手を通してゐたら――
「フフフン。下のヒステリイは収まりましたわねえ……」と言つた。
「さう言ふもんぢやありませんよ。だから貴女はいけないつてんだ。貴女はさういふ風にして自分の不幸をまねくんだ。貴女の不幸ばつかりぢやない、他人の不幸もね!」
 老婆は例の冷笑らしい唇を歪めて、白々と窓から外を眺めてゐたが、別に何とも答へなかつた。「ぢや、行つて来ます」と言つて、駄夫は老婆の前を通り、さつさと階段を降りかけたが思ひ直して階段の途中に立ち止り首だけを延して
「仲良くする方がいいんだがなア――」
 と、苦々しげに非難するやうな口吻を洩らした。ほんたうは、斯んな老成振つた生意気な言葉でなしに、何かもつと力強い慰めや、又例へば景気のいい応援歌(?)でも一つ喚いて、ワッとばかりに風を喰つて戸外の嵐へ紛れてしまへ! といふ気持であつたのだが、其の小憎らしい・冷笑らしい顔付を見たら、つい、いまいましい気分になつて、別に言ひたいのでもないが自然に大人振つた呟きを浴せてしまつた。駄夫は厭な気持がして、フラフラフラッと降りてきた。重苦しくつて、莫迦莫迦しくつて憂鬱の寄せてくるのが感じられる。
 下へ降りたら、階段の横に総江が突つ立つてゐて、ソッと立ち聞きをして上の様子を窺つてゐた。
「何だい? 何の話をしてたんだい?――」
「いいんだよ! チェッ! うるさい女だ」
「何言つてやんだい! 又あたいの陰口だろ」
「お前さんは偉い女だよ――」
 そして駄夫は構はずにスタスタ沓脱へ下りて冷い靴を穿いてゐたら、今度は台所へ引返して其処を拭きはじめた総江が、首を突き延ばして――
「ほんたうに今日、重役に会ふのかい?――」
「バカ言つてら。玄関番にも会ひやしねえや」
「それでも――いい仕事を探しておいでよ。何処に口があることかも知れないから……」
「俺は遊びに出掛けるんだい! 俺はね、仕事を探すなんて、そんなシミッタレた事は大嫌ひなんだよ。此処へ来てから、まだ一つぺんだつて仕事なんか探したためしはないんだよ。仕事を探すくらゐなら遠慮なしに乞食にならい――」
「何んだと! もう一つぺん言つてみろ!」
「俺はね、此処へ居候を初めてから、まだ一つぺんだつて仕事を探すやうなアハレな行ひはいたしません、てんだ」
「……ぢやア、てめえは、これから先どうして暮さうてんだ――」
「ここの二階で往生するのさ。なんと哀れな身の上ぢやないか!」
「馬鹿野郎! 嘘つきの大かたり!」
「何だい、フォックスめ! アハハハハハ ハッハッハッ! フォックスつたつて分るめえ。お前さんの綽名だよ。俺がチャンとつけておいたんだ。上の婆さんは「カマキリ」さ。フォックスつてね――英語だよ。知つてるだろ。お前さんだつて昔は小学校の訓導だからね。ソックリどうも、良く似てゐるよ。黒光りのした焦茶色のフォックスなんて動物園にも見当ら無い代物だ――」
「出て行きやがれ! トンガラシめ! てめえなんぞ腐つたトンガラシだぞ。もう戻つてくると承知しねえから――馬鹿野郎め!」
 総江は激しく息を呑み、いきなり手にした濡れ雑巾を投げつけたが、それは途方もない方角へ飛んでいつた。駄夫は笑ひ乍らパチンと戸をしめて嵐の中へ飛び出した。まだ細い小雨が幾らか残つてゐて、物凄い風に殴られ乍らピュッと横ざまに吹きかかり、地べたと並んで何処までも真つ直たいらに走り去るやうに思はれてしまふ。繁吹しぶきを浴びて歩き出したら、突然鋭く二階の窓が開け放たれて――(もうあの女は二階へ駈け登つたのか!)眼玉を三角にした総江が食ひつきさうな顔を出した。
「DAFの馬鹿ア! DAFの馬鹿野郎! トンガラシ! 戻つてくると承知しねえぞ!」
「ワアイ、ふぉっくす!」
 駄夫はいきなり往来の真ん中で、まるで風に乗るやうにして、ステテコを踊つてみせた。
「DAFの馬鹿野郎! DAFの馬鹿野郎!」
「ふぉっくす――」
 そしてもはや振り返らずに、駄夫はサッサと歩き出した――うしろには総江の高い絶叫が彼に呼びかけてゐたけれど。
 ひどい空虚が身体一杯に詰まつてゐて――吃逆シャックリのやうに込み上げてきては、何んだか変に舌にざらつくやうである。白つぽい、厭に大きな舌ざはりだ。ついでの事にと言ひたいのだが――欠伸を放つ気持にもなれなかつた。言はうやうなく長い疲れの込上げてきた感じである。実にだらしない有様であり、又みじめなるものであつた。
 一・二町して、街と畑の分岐路へ出は出たが、この日は杖を倒すことをしなかつた。もし杖を倒したならば必定のこと泥まみれとなるであらうし、それに此の日は改めて方角を占ふ手数もいらなかつた。――この辺一帯の畑の径はまだ新しく切り開かれたばかりであるから、この嵐には一とたまりもなく柔い泥濘となり、とても歩ける筈はあるまい。……
 それでも駄夫は、一応分岐路に立ち止り、頭上に当り欅の荒れ狂ふ音をききながら、ただ飄飄と嵐のみ吹き渡る広い武蔵野を見るともなしに覗いてみた。――荒涼としたものである。近くに見える畑のものは一面に吹き倒されて伏してゐたが、また物凄い風のうねりが寄せるたびにだらしなく、もはや切なげにバサバサと重い葉なぞを揺さぶつてゐた。
 さて、街の方角へ振り返つて(その方向も亦暗澹として薄暗い――)径のまつすぐ向うの奥を遥かに望み、兎も角も歩き出したら――激しい風に送られて、まだあの癇高い絶叫が嵐の唸りに吹き千切られ、きれぎれに聴きとれてきた。
「DAF・DAF・DAFの馬鹿、DAFの馬鹿……」と。
 そしてどうやら、今度は五歳の多次郎までが、二階の窓から首を突き出し、総江の裾に絡まりながら、母を真似て一緒に怒鳴つてゐるやうである。その舌足らずの叫喚が矢張り幽かにきこえてゐる。
「DAF・DAF・DAF・バカ……」
 畑の方からまつしぐらに、激しい嵐の一とうねりが、この径を遠い向うの街へ目指して駈け抜けるとき、駄夫もそれに送られてピョコピョコと数歩急ぐのである。径にはほかに誰も見えない。尤も人家といふものが、ここ数町の間といふもの極くまばらにしか無いのである。――アア、厭な天気だ! それでも風は颯爽として――顔や手足にうるさいけれど――空気の澄んだすがすがしさは胸に泌みてくるやうである。


 一日吹き荒れた嵐は、それでもひる過ぎる時分から幾らか凪ぎはぢめて――
 やがて今にも暮れやうとする薄明の頃に、重苦しく垂れ籠めてゐた薄暗い空の、突然小さな一部分に雲の破れるのが見られた。それは全くわずかに小さな穴ではあつたが、其処を通して青々と光る深い空を――其処にもすでに深い暮色が流されてゐた――鬱いだ放心を押し展くやうにはるばると眺めることが出来た。すると忽ち、二ヶ所、三ヶ所――玲瓏とした天蓋を覗くことが出来たのである。そして、そのまま、荒れた一日は暮れてしまつた。明日はうらうらと晴れるであらう。
 夕暮れ、駄夫は、この稀有な美しきものに、静かなる驚きを感ずることができて、竹藪の家へ戻つてきた。今日も亦、かくて一日は終れり……あきらめと思へば、あきらめとも言へるところの、穏かなものではあるが心細い慰めを、一日に一度づつくる黄昏は、駄夫の心に植えてしまふ。
 入口に来てふと気がついたら、家の中は暗闇であつた。見上げたら、二階からも一条ひとすじの光さへ洩れやうとはしてゐない。そしてさういふ瞬間にも、すべて暗闇はひつそりとして、人の気配を暗示する何の物音もきこえなかつた。そつと戸を押してみたら、それでも戸は、ガタガタ揺れて、思ひもよらず開いてしまつた。と、ほんとうにだしぬけに、突然にぶい電燈が障子越しに点されて、総江の大きな影法師が湧き出るやうに被ぶさつてきたが、シンと一秒もしたかと思ふと、荒々しい語気で
「何だい、お前か。DAFだらう――?」
「俺だい――」
「チェッ! てめえ――DAFの馬鹿野郎! 平気なつらで帰られた義理か!」
 ア――今朝のことか、すつかり忘れ果ててゐた! 駄夫は歴々と――朝の思ひ出を浮べるよりも、極めて深い皺にして、むしろ微笑を刻まずにはゐられなかつた。途端に、荒く障子をグッと開けて全身を乗り出した総江が――
「ヤイッ――」
「ウ。参つた――参つたよ。御免々々。一日ブスブス怒つてゐたのかい」
「嘘つき! 恩知らず! 何だい、お前はニヤニヤ笑つてるんぢやないか!」
「ウ――。これはね、仕方がないんだよ――」
 とてれながら、尚おかしくて笑ほうとするのではあるが、矢張り自然に気持の改まるものがあつて、総江といふ人が、滑稽と言へば滑稽千万であるけれども其の無智な幼さは、笑つては済まないものに思ひつかれて、急に真面目な真剣な顔付をしたら――総江も急にグシャグシャと縮むやうに萎れたかと思ふうちに、見る見るなさけない顔に涙をいつぱい溜めてペタンと坐り
「ねえ、駄夫さん。お前さんは本当に頼みにならない人だよ。それア、何かのハヅミだつたりフザケた気持だつたりして、つい悪いことも言ひ過ぎたかも知れないけれど、まだ本気でお前さんを邪魔者扱ひにしたことなんか一度だつて有りアしないし……それどころか、心の中ではどうぞ駄夫さんにいいくちが見附かる様にと、どんなに毎日気を揉んでゐるか知れないんだよ。それだのに、お前さんといふ人は人を茶化してばかりゐて、人の心といふものがコレッパカシも分らない人なんだから……」
「分つてゐるよ。分つてるんだよ……」
「いいえ、分りやしないんだよ。まるであたいがお前さんを追ん出すことばかり考へてゐる悪魔のやうに思ひ込んでゐるんだから……」
「そんなことはないさ。僕の方こそ、大概のことはアベコベに顔に出さうとしてゐるから間違へられることはあつても、あんたを誤解したことなんか無い――それどころか、ずゐぶん感謝してゐるんだ……」
「どうだか分るもんか。心にあることは顔に表れるつて言ふんだもの。お前さんといふ人は、ほんとうに……」
「ああ悪るかつたよ。ほんとうに悪るかつたよ――」
 そして駄夫が靴をぬぎ、上へあがると、総江は六畳の真ん中の、ぼやけた電燈の真下へ今度はグッタリと坐つて、もう泣顔はしてゐないが変にシンミリした様をしながら
「ねえ、駄夫さん。もつとあたいを信頼しておくれな。お互にどん底暮しをしてゐる同志なんだもの、恥も外聞もいらないわけなんだし、物質でどうこうつてわけにはお互に何も出来ない貧乏者の集りだから、せめて気持は温くありたいもんだねえ。あたいがこんなに駄夫さんの将来さきざきのことを気に病んでゐるといふのに、ほんとうにお前さんは頼みにならない人……」
「参つたよ。もうスッカリ参つた」
「これからあたいを信頼するね」
「ああ、スッカリ信頼するよ――」
 と、明るい、道化た、しょげた様子をして言ひきると、総江は急に、張りつめた気が抜けたやうにアハハアハハと笑ひ出したが、流石にすぐと少してれて肩を落し、今度はシャンとして変にシンミリと、シミジミと前方を打ち眺めて、安らかに息をしてゐる。いい気なもので、駄夫を慈愛する母のやうな形でもあり、笑止千万なものではあるが――駄夫は別段笑ひたくもなかつたし――それに駄夫は、人間の斯る甘さに特別の好感を持つ男だから(――そしてそれ故人間が好きでもあるから)彼も亦いい気になつて、かかる機会に、かかる沈黙に迫まられたことをいいことにして、ヂッと瞑目を逞うした。斯る機会に、斯る雰囲気に包まれて、最も寛大なそして自由な放心に浸り得ることは、好ましい一種の道草ではないか! それ程のことでもない――無論、それ程のことでもない――ああ、夜は静かなものである。広い掌に顔を掩うて何も思はずに俯伏してゐたい。安らかな自分の呼吸が、夜の静けさと一緒になつて、遥かに遠く息づいてゐるやうである。ひろびろと、深い深いものである、夜は。――
 人は、ぼんやりしてゐると、さまざまな事を思ひ出してしまふ。うつかりしてゐると、その聯絡もなく忽然と浮かび出てきた事柄を、ひたすらに心を籠めて思ひ耽つてゐたりなぞ――静かな夜は、するものである。それは静かな航海に似てゐる。目の、耳の、身体の四囲に、青々と広い海原が、静かな水音を響かせてゐる。
「ああ、僕も、何んとか身のふりかたをつける必要を痛感したね。又、放浪に出ようかしら」
「アアア、それだから、アアア、ほんとうにお前さんは頼りにならないといふの。何も面当つらあてがましく出る出るつて言ふ必要もないだらうに。行先もない宿無しが、何で簡単に出られるものか」
「ああ、悪るかつたよ。――しかしね、それは、出て出られないこともないさ」
「フン。夢といふものはネ、野タレ死をすることだつて綺麗に見えるものさ」
「アハハハハ。やられたわい――」
 と――なほも図に乗つてカチンと身構え、おでこを光らせていい気持の総江の顔へ、降伏のしるしに笑ひを残し、わざと――這這ほうほうの体をしてバタバタと跫音高く、駄夫は二階へ駈け登つた。其処には夜が転がつてゐる。電燈の笠をとらへ、ボンヤリとスイッチをひねつたら、たわいもなく夜は窓外へ散つてしまつた。着物に着代へ、ソッと畳へ倒れてみたら、深い耳鳴りがジンジンと湧き出してゐた。
 心静かに、大いなる夜を迎へたい……
 それは、こころ貪婪な、むなしい希望ではなかつた。夜毎に、夜は、ひろく、大きく、静かであつた。――しかし又、それはこころ貪婪な、虚しい希望であつたとも言ふ事ができやう。夜毎に夜は広々と静かであるが(ああ、ほんとうに森閑としてゐる――)静かな夜といふものは、涯しない遠い未来を考へさせてしまふものだ。甘い追憶を繰り展ろげると同じやうに。――それは、痛い。それは――痛いものである。神に祈れ! ありとあらゆる神々を祈りつぶし奉れ! そして長々と欠伸をしたい欠伸をしたい。
 心静かに、大いなる夜を迎へたい……

睡れ睡れ
安らかに睡れ

(何だい! 子守唄かア!――)
 ブレケケケックス
「駄夫さん。御飯をおあがりよ。仕度ができたから……」
 下では機嫌のいい声で、総江が高らかに呼んでゐる。「うん――」と答へて階段を下りるのも思へば頼り無い話だ。「各々の家に各々の階段あり」といふ言葉を何処かで覚えてきたのだが、変な、しかし、いい言葉だ。
 下へ降りたら、総江はガチャガチャ音やかましくちやぶ台の上を工夫してゐた。さういへば――
「どうしたの? お母さんも坊やも見えないやうだね――?」
「ウン、一寸出掛けたの」
「へえ、珍らしいんだね。二人でかい」
「ウウン、四人でさ――」
「フウ。誰と誰?」
「それがねえ――」
「ウン――」
「――ねえ、駄夫さん……」
 総江は茶碗に御飯をよそひ、それを駄夫に手渡してから――突然ガクンとして、又オロオロと泣き出しさうな顔となり
「ねえ、駄夫さん。あたいどうしよう……」
 急に肩を窄めてホッと溜息をついたかと思ふうちに、忽ち凋むやうに崩れてしまひ、顔一面を皺だらけに泣きすすりはぢめた。
「どうしたの?」
「あいつが来たんだよウ……」
「アイツつて――ア、兄さんだね?」
「フンフン」と頷き乍ら、大粒の泪を頬にいつぱい這ひくねらせてシクシク鼻を鳴らし――
「あたいはほんとうに不幸者だよ。あたいはもう虐められ通しなんだヨウ駄夫さん、あたいの力になつて呉れるねえ――」
「ああ、ああ、それはなるとも。いつたい、どうしたといふんだい?――」
 総江は鼻面をいそいで擦つて、ホッと太息をついた。そして見るからに怯えたやうなギョッとした顔付をつくつて
「あいつはきつと何か悪いことをして逃げてきたんだよ。懲役ものかも知れやしない。あんな油断の出来ない奴つたらあるもんかね」
「ウン、それ程のこともあるまいよ」
「いえいえ、分るもんかね。やりかねない奴なんだよ。まるであたいのことなんかめきつてゐるんだから……」
「いつたい、何処へ出掛けたんだい、みんな?――」
「散歩だつてさ。チェッ! (と首を縮めて憎々しげに舌を鳴らし――)家庭円満なことさ。あたいは他人だと言ふんだらう。もうろくたかりめ! 憎らしいたらありやしないよ。デレデレしやがつて、あたい一人を継子いぢめにしようてんだもの……」
「そんなことはないさ。それは本当の母と子だから、たまに会つて仲の悪い筈はないよ」
「だつて、だつてさ。――現在自分を見棄てて逃げたやうな子供ぢやないか。さんざん苦労をかけて親不孝を重ねて家出をした子供に、たまに会ふからつて、目の色変えてチヤホヤする婆あがあるもんかい! 弟の与里へ対して、そんな事は出来ない義理だよ。こんな血の出るやうな暮しに婆あ一人を養ふつたつて容易なことぢやあ無いやね。それを当り前のやうにのさばり返つて、毎日々々イライラした面ばかりしやがつてさ。おまけに、畜生! そんな踏みつけた真似をされて、こちとらは黙つてゐられるかい!……」
「それは婆さんも良くないよ。しかし、お前さんも、まあ……」
「あああ、あたいはほんとうに虐げられた人だよ。駄夫さん。あたいはこれから先、どうなるんだらう。あいつ夫婦は此処へ居候しやうてんだつて。あたいの力で追ん出すわけにも行かないことだし、結局あたい一人が虐められる役割なんだよ。その又女が、生意気な気位の高い奴さ。あああ、あたいはみんなにお世辞を使つて、ペコペコ頭を下げて、女中みたいに扱はれる運命さ」
「俺の同僚が二人ふえたわけか――」
「夜逃げをしてきたんだつて。夜逃げもないものさ。荷物なんか、何一つ有らしないんだからね――」
 今宵は戸を開けるから、総江の態度がどうも変だと思つてはゐたが、かういふ出来事があつたのである。きいてみれば気の毒ではあり――それに又、いい加減で此のお喋りに蓋をしないことには、とてもやりきれた物ではないので「珍らしいうちは、親子だもの、仲のいいのは当り前さ。でも、兄さん夫婦が悪い人なら、どうせそれが長続きのする筈はないから、こんどは反動で、総江さんと婆さんととても仲が良くなるかも知れないよ。僕もせいぜいさうなるやうに努めるから、腹を立てずに辛抱した方がいいよ」
 と言ふと
「ありがとう。さう言つてくれるのは、駄夫さん、お前さんだけだよ――」
 なぞと飛んでもない詠歎を述べて、よよと泣き伏してしまふのである。莫迦々々しいやら情無いやら、駄夫もさんざんの体で、天井をヂッと仰いだり、汚い壁や破れた障子を見廻したり――虚しい視覚や聴覚なぞでわずかに心を作りながら、冷い手触りの茶碗を捉りあげるよりほかに仕方がなかつた。その放心の底を探ると、俺も、もう、この家を立ち去らねばなるまい――と、茫漠として雲のやうな一つの心を掬ひあげることが出来た。ゆらゆらと、靄のやうに揺らめいてゐる心の影に静かに顔を向け合はすとき、晴れた日の、すきとほつて縞のゆらめく大海へ浴するやうな安息を感じてしまふ。
「あんたは?……御飯を食べないのか。総江さんは?――」
「…………」
 総江は急いで坐勢いずまいを立て直すと、俯向いたまましきりにせつせと自分の御飯をよそひ、つきつめた顔を泪に醜く泣きよごして、ガツガツと飯を食べはぢめた。そしてもう、喋らうとしなかつた。
 与里の兄は(名を玄也げんやと言ひ)駄夫も昔から顔だけを見識つてゐた。まだ中学生の頃与里の家を訪れると、そのころ実業学校の生徒であつた玄也は、弟の友達風情と口をきくのも恥であるといふ気合で、ひどく気取つて腕を組み駄夫をジロリと睨んだりなぞしてゐたものだ。時々留置場へブチ込まれたりしてゐたが、その実業学校も満足には卒業しなかつたものらしい。本人は学問が嫌ひであるし、丁度その頃から家運も傾き出してゐたので、なんでも何か商店へ(百貨店であつたらうか?)暫く勤めてゐたやうである。さういへば、その頃のことを考へてみると、リュウとした玄也の洋服姿を、ひどくボンヤリとではあるが、記憶に残してゐるやうな気にもなるのだ。家出して、もう七年にもなるさうである。ところが、突然近頃になつて、玄也からの消息が竹藪の家へ配達されてきた。勿論駄夫はその事を知つてゐたが、それが如何様いかような手紙であり、又、その消息をとりまいて、この侘びしい竹藪の家ではどんな評定が開かれたかも彼は知らずに過してゐた。竹藪の家では、それが毎日の慣はしではあるが、喧嘩以外に殆んど言葉の交される模様が、窺はれないのであつた。
 食事の終る時分から、総江は再び気を取り直して、シャンとして手際よく跡片付けに精を出したり、全く機嫌のいい顔をして「駄夫さん、泣いたりして済まなかつたわね――」なぞ言ひ乍ら笑ひ出して、坐り直したりした。
 さうかうする中に、幾つも幾つも入り乱れた跫音が突然間近かに湧き起つたかと思ふと、忽ち低い話声もガヤガヤ聴きとれてきて、急に入口の戸が開け放たれたが――するともはや陽気なぞめきが戸の内側に舞ひ込んでゐた。
「ただいま――」といふのは聞き馴れない跳ねるやうな男の声で、続いて矢張り耳に馴れない若い女の声がした。履物を脱ぐ乱れた音がしたかと思ふと、先登せんとうに現れたのは小柄な男で、無論それは玄也であらう、現れるなりいきなり一座へ先づ一瞥を投げるといふ、斯る種類の人間とみえる――前こごみにヒョイと明るみへ出たと思ふと直ぐさま駄夫をみとめて――(駄夫の噂は已にきいてゐたのであらう)
「やあ、暫くだね……」
「やあ――」
「覚えてゐる……」
「ウン――」
「ずゐぶん変つたね」
「さうかい」
 そして素早く横手を指して、敷居のわきに項垂れて遠慮がちに控えてゐる若い婦人を、「これは俺のワイフだよ。どうぞ宜しく――」と紹介した。「至らない女だから……」と、駄夫に向つて言つてゐるかと思ふと、ツと腕を差し延して――明るい部屋へ戻つてきてボンヤリ坐つてゐる多次郎の頭から、まだ脱ぎ忘れてゐる帽子をヒョイと取り上げて、すぐ立ち上つて其れを柱へ掛けてやり、ついでにヒョコヒョコ歩いて行つて、少しばかり開いてゐる台所の障子をカチンと締めたかと思ふと、何食はぬ顔をして静かに元の坐へ戻り、懐中から手拭ひを取り出して厭に光沢のある額を丁寧にぬぐつてゐる。恐ろしくコセコセした、恐ろしくこまめな、どうもよく気のつく男である。
 玄也の妻君は――つまりワイフのことであるが、名を紅子べにこと言ひ(どうやら之は玄也の好みに順つた変名らしい臭みがするが……)二十二三と思はれる温和な婦人であつた。気がついたら、断髪にしてゐた。一見して、女給か、踊子ででもあつたのかと思はれるが、又妙に田舎臭くて、小料理屋の女中といつた感じでもある。大柄な(――玄也よりもむしろ大きい)五尺二三寸はあるらしい身体であるが、痩せてゐるのがかなり鋭く目にたつやうだ。目の窪みから頬骨のあたりへ深い陰が湧いてゐて、それが険しく見えるけれど、それもむしろ淋しげなものを強調して、いつたいに穏かな感じを与へてゐる。着物は――無論、駄夫の乏しい眼識の及ぶところではなかつたが、その柄の素敵に派手な事だけは軽い驚きをもつて認めることができた。
 成程、総江としては、かういふ女に一種の嫉妬を感ぜずにはゐられぬであらう。決して美人といふのではないが、そして決して花やかなものではないが――竹藪の家へ現れるには似合はしくないのだ。このくすぶつた竹藪の家では、その傾いた屋根の下の、あらゆる物、あらゆる空気、あらゆる心に、こんな豪華(!)な装飾よそおいを導き入れる何の用意も出来てゐない。それは確かに唐突であり、一種のいはば横紙破り――穏やかでない、さういふ思ひがするのである。この家にこの六畳に坐つてゐると、駄夫の目にもさう見えたのだ。人間といふものは可笑しなものだ、何を見るにも多少の贔屓がまつわるとみえて、決して紅子に悪意を懐いたわけではないが、駄夫はそぞろに総江といふ人が、気の毒な、いぢらしいものに思はれてしまつた。
 駄夫は紅子と丁重な挨拶を交し――さういふハヅミで、ゴソゴソと物音のする入口の方へ目を逸らしたら、老婆は暗い沓脱へ屈んでそれぞれの履物を始末してのち、やうやく畳へ這ひ上つて明るみの方へ泳いで出たが、一座の方は全く見ずに部屋の隅ばかり沿ふやうにして、ひとり静かに何時もの壁際へ寄りそひ影のやうに坐つた。
「ぢやあ、僕は少し仕事がありますから……」
 と言つて駄夫が立ち上ると、
「でも、まだ、いいぢやないか。久し振りで会へたんだから。お茶菓子があるんだよ。ア、奥さん、相済みませんけど、お茶を……」
「ウン。でもこれから、毎日会へるんだから。僕は夜分に勉強をしなければならないんだから」
「餅菓子を買つてきたんだよ。ほら……」
 と急いで包みを取り出してみせるのを、駄夫はそれでも至極機嫌のいい笑ひ顔を作つてみせて「とても忙しいんだぜ――」と言ひながら、大袈裟な様をして、踊るやうに構はず二階へ上つてしまつた。
 この町の、場末の映画常設館の映写技手を勤めてゐる与里は、小屋がはねるまで――かれこれ十時をまわらなければ帰宅しない習慣であつた。
 電燈を捻ると、又しても劇しい耳鳴りがジンジンと湧きはじめた。大の字に寝て眼を瞑れば全てはウネウネと転回する黒い煙であつた。まるで朦朧とした有様である。暫くして、ソッと起き上つて窓に寄りそひ、静かに窓掛を引いてみたら、ひそかに予想してゐた綺麗な星空はまだ見えないで、すぐ眼のさきへ圧しつまつてゐる一杯の闇ばかりであつた。気がつくと、矢張り多少の風の残りが、まだ颯颯と小枝を鳴らしてゐるやうである。雲の流れは、まだ低く、まだ倉皇と速いのであらう。
 すると玄也がお茶とお菓子を運んできて、机の上へ丁寧に並べ「おあがり――」と言つただけで忽ち下へスッと消えて無くなつた。どうも手際のいい男だ。
 と、下からは、しつきりなしに笑ひ声がたちはぢめた。総江の声が一番高い。玄也の声も同じ程度に時々鋭く跳ねてくるし、耳に馴れない紅子の声も決して低いものではなかつた。
 駄夫は静かに机に向つた。露店で買つた用箋をひろげて、文字といふこともなく、絵といふこともなく、ただ無駄書をしてゐると、自分といふものを全く忘れて、ふと書き棄てた絵や文字の中に、なんだかいきなり動きさうな不気味な生物を見出してしまふ。静かな部屋に点された燈火あかりは、時々地味な、不思議な魔法使ひである。夜といふものは、やりきれないほど懶いものだ。たとひ、鷄小屋のやうな笑ひ声が響いてきても、夜は、ああ、厭になるほどヒッソリとしてゐる。
 それから駄夫は、つれづれなるままに、丁寧に目盛を刻んで、ある空想都市の設計図を引きはぢめたりした。
 ずいぶんと長い間、そんな事をしてゐたやうだ。虚しくただ、身をゆだねてゐると、身体の中へトップリと夜が更けて、ただシンシンと押し流されて行くやうである。
 すると――もうすつかり忘れてゐた時分になつて、急に又玄也が懐手ふところでをしながらトントンと躍り込んできて
「下へ来ない?」
「ウン。でも今、書き物をしてゐるから――」
「小説?――」
「違ふよ。俺は本来絵描きだよ」
「アア、ピクチュアか。秋に滅法忙しい商売だね」
「ワア ワア ワアワアッハッハ。ピクチュアだ。ウン。秋に滅法忙しい商売だ」
「こんど、暇があつたら俺の肖像をかいとくれよ」
「ただぢやあいやだよ。十円出せ」
 玄也は多少ムッとしたものとみえて――しかし、それは色にも出さず生真面目な顔をしながら、絵描きといふものはどうも尊大で処世の術に疎いから商売になるまいとか、もともと美術といふものは贅沢物で不景気の当世には役に立たない代物だから、ヘッポコ画家はオマンマの食へないのが当然だとか、お前さんも一枚十銭の似顔絵でも描きやアいいのに、なぞと、実にさりげない当り前な顔をしてチクチク皮肉を言ふ奴である。かと思ふと、だしぬけに腕を差し延して、駄夫の着物からヒョイと糸屑を払つてやり、少うし別な顔をして、しかし、とにかく芸術家は神聖な、俗を超越したところの仕事である、と、頻りに今度は頷いてゐる。
 すると、ソッと総江が登つてきて、階段の上り口から、心配さうな、いぢけた顔を突き出したが――「駄夫さん。……何してんの?……下へ降りておいでよ……」
「下りないんだよ、この人は。モミハラ君、下へ行かうよ」
「ああ、ああ。今に行くから。一区切りつくと直ぐに行くから――」
「ぢやア、きつとね。待つてるから……」
 と、又ドカドカと、二人の男女は消えてしまつた。その途端に、からになつた菓子皿と茶碗を玄也はチャンと持つて降りたのであつた。どうも鮮やかな奴である。
 小男のくせに妙に身体のガッチリした、苦味走つた中々の美男子であるが、商人――といふと其れとも違ふ、出来損ひの渡世人といつた風な感じである。どう見ても、与里の兄弟と思へる節はないのだが、流石に遺伝は争へないものとみえる。さりげなく皮肉を吐いて時々チラリと伏目にするとき、額にクッキリと浮かび出る神経の波を、見逃すことはできなかつた。その神経は、与里にあつては物静かな彼の心を暗示するのに、この玄也では妙に図太い彼の度胸を見せてしまふ。ひどく冷い感じがした。
 彼等が消えて暫くすると、下ではひときわワアハハ ワアハハと湧き崩れる笑ひ声が騒しかつたが、突然突き抜けるやうな玄也の声が呼びかけて――
「おうい。樅原モミハラ一本やられたよ、全然すっかり絵描きだと思ひ込んだね。うまく担がれたよ。君もまるで変つたもんだね。すつかり肝胆相照したよ。降りておいで。よう。降りて来ないか――」
「駄夫さあん。降りておいで。ワアハハ ワアハハ―― ほんとうに、あの駄夫さんは、気さくい面白い人なんだよ。おいでよ。駄夫さんつたら――」
 総江もまた、けたたましい鳥のやうに喚いてゐる。それでも駄夫が降りやうとしなかつたらいきなり跫音高く、又もや玄也が駈け登つてきて
「よう、降りておいで。まだお茶菓子があるんだから――」
「残り物は食ひたくねえや」
「チェッ! 別の新しい包みだぞ」
「豆かなんかだらう」
「甘く見たね。おいしくはございませんが羊羹です、と――」
 すると其処へ、総江が又、今度は猛烈な勢で登つてきて――登る階段の途中にも、グッグッと笑ひを軋ませ乍ら、殆んど玄也をも跳ねのけるやうにしていきなり駄夫に飛びかかると、その片腕をグッと掴んで
「おいでよ、よう。グズグズしないで――」と力まかせに引つ張るのだ。
「いてえよ。行くから、止せ」
「ワアッハッハ ワアッハッハ おいでよ。おいでよ」
 と、二人は駄夫を先登に立てて、その肩を押すやうにしながら降りてきた。階段の闇をくだりながら見下すと、目の下に鈍く耀いてゐる矩形の中では、紅子が明るい笑顔をして三名の者を迎へてゐたが、その横に多次郎はもう寝ついてゐたし、老婆は壁に凭れたまま尚ほもグッタリ項垂れてゐた。
「駄夫さん。初対面の人と挨拶もろくすつぽしないうちに引つ込むなんて、ひどいね。ねえ玄也さん。駄夫さんと玄也さんはきつとつきあへるよ。とても良く性格が似てるんだから。今夜はうんとお喋りしようね」
「さうだよモミハラは子供の頃から面白い奴だつたよ」
「お前は面白くなかつたね」
「やられた!」
「この人は口が悪いんだよ。だけどシンはとてもいい人なんだから、玄也さんも誤解しては困るんだよ。それア腹は綺麗な人、なんだから――さうだらう、ねえ、駄夫さん……」
「それア一目でチャンと分るよ。誤解なんかするこたアないよ。これでも人間を見る目は肥えてゐるんだから……」
 と、てれもしないで、おでこを光らせながら、玄也はさう言つてゐるのである。その様子が、ほんとうにいい気になつて、幾分の気取りをさへ持ちながら言つてゐるやうにも見えるのだ。かと思ふと、ヂッとかう、人の気持を底の底まで見抜くやうな油断のならない目付をする。異体えたいの知れない奴である。いい加減にバツを合はしてゐたら、突然、「ア、さうさう」と言つて何処からともなくスラリと小さな包みを取り出し
「これは失礼だけど――」
 と言つて――おみやげのつもりであらう、安つぽいポマードを一個、駄夫に与へたのである。そしてその拍子に「お茶をおあがり」と言つて駄夫にすすめ、延した腕を決して無駄には使はなかつた。
 しかし――
 竹藪の家では、稀に訪れた不思議な賑ひを、思ひもうけぬ出来事によつて中絶しなければならなかつた。そのために、夜が一時にきたやうであつた。
 与里が帰つてきたのだ。
 上り框までやうやく這ひ込んだ与里は、もはや其処から動くことが出来なかつた。
 数日来風邪気かざけで悩んでゐた与里は、この朝も、春だといふのに重たい冬の外套をきて、嵐の繁吹しぶきを浴びながら出勤したのだが、無理が遂に祟つたらしい。
 人々は、明るい電燈の下へ、与里を抱き入れた。劇しい悪寒のために、身体が支へきれぬほど、ひどい顫えが来てゐるのだ。敢て、動けぬこともなかつたらうに――この聡明な、この寛大な、この気の毒な、そして、あらゆる甘さを打ち拉がれたこの冷静な若者は、どういふものか、家族に対して莫迦らしいほど駄々ッ子であつた。母や総江と争ひながら、与里が真つ先に大人げもなく泣き出す場合が多かつたし、その争ひが概ね与里の言ひ掛りで、実に下らないことばかりだ。少し加減の悪い日は「死にさうだ。ああ死にたくない、死にたくない――」と手足をバタバタ顫はせて泣き喚いたり「こんなに死にさうな身体なのに、お母さんは無理に僕を勤めに出さうといふのか――」と、無理な言ひ掛りをつけて、家族の者を困らしてしまふ。さういふ与里を、しかし駄夫は、最も浄らかな、淋しいものに感じてはゐたが――
 人々は布団を敷き、すぐと部屋の真ん中へ与里をねかせた。
 与里によつて開け放された戸口から、厖大な夜が沓脱へまで通じてきて、そこから更に、宵の談笑にふやけた空気を漂白するためのやうな、うそ寒い夜気を運んできた。玄也は素早く沓脱へ下りて、大きな夜を探るやうに一寸首を突き延したが、静かに戸を締めて戻つてきた。
「星があつたか?――」
「ウン……」
 苦しさうに呻きたつ与里に向つて「玄也さんがお見えだよ――」と総江は囁いたが、与里は頑固に目を瞑つたまま唇を結んで、「今日はソッとしておいて呉れ。明日だ、明日だ。苦しい、寒い――」とただ呻いてゐる。与里は道でアスピリンを買つてきたのだ。それを総江に取り出させて、貪るやうに呑み込んでゐた。玄也は総江をせきたてて、タオルを水に浸したり、布団を重ねたり、盛んに手際よくやつてゐた。どうやら、今宵が終つたやうだ。
 この日まで、駄夫と老婆は階上に睡つた。今宵から、三名の居候は二階へ上り、竹藪の一家族は下でねむる。
 二階では、各の寝床が敷かれ、一日のあらゆる音が済んでしまふと、ふと、忍び泣きが洩れてきた。窺ふと、女は寝床の上へ坐り、燈火あかりの方へうしろを向けて、袂に顔を掩ひながら泣いてゐたのだ。自分でも、とめどがなくて、持て余して、涙にまかせてゐるやうである。――しみじみと、駄夫はそれを聴くことができた。
 なぜ泣くのだか――自分でも、知らないのではないだらうか。ただ涙が溢れ出てくるのではないか。恐らくは、さうであらう。心静かな旅の宿りに於てさへ、心丈夫な旅人も、往々にしてさうなるものだ。まして、定まる家を持たない人は、まして、女は――別して与里の崩れ込んだ惨めな事件は刺戟が強い。わけの分らぬ寂寥は甚だ貴重なものである。
 玄也は――ツト立ち上つて一寸女の側へ寄つたが、あきらめたのか直ぐさま戻ると、苦り切つた顔をして、自分もフッと坐り込んだが、やがて甚だうとましげな、表情の死んだ顔をして布団を被るとねてしまつた。
 空はもう、まばゆい星空であらう――
 駄夫はわざと起き出でて、便所へ下りてきたら――下では総江が何かと未だに立ち働いてゐたが、駄夫の降りきるのを待ち構へてソッと近寄り
「あいつ達――ねむつた?――」
「ああ、ねたよ」
 そして、駄夫が便所から立ち出でたら、どうやら悪寒は引いたらしい与里が今度は劇しく水を求めてゐたが、駄夫をみとめて――
「まだ、夜は明けないか?――」
「もうぢき明ける。どうだ? いくらか気分はいいのか?――」
「ああ、ずつといい。だが、まだ、とても苦しいのだ。早く夜が明ければいいが……」
 やがて与里は、又ウトウトとしてゐるやうだ。暫く駄夫はその枕元に坐つてゐたが、そこに零れてゐた検温器を取り上げて、見るともなしに眺めると、それは九度八分を指してゐた。
 ――やがて、俺も、此処を立ち去ることにならう……
 二階へ戻つてきたら、女は已に伏してゐた。背延びをして静かに電燈を消してみると、しかし女は、まだ低く泣いてゐるのだ。
 さあ、心静かに、ねよう。
 明日は――南の風、うらうらと晴れたお天気になれ!


 朝未明あさまだき、竹藪の奥にひそかな物音が蠢いてゐる。足元に心を配り、忍び足して厚い朽葉を踏む音であるが、二足三足するたびに暫く杜絶えるところをきくと市へ出る農夫達の筍を掘る音であらうか。
「…………」
 暫くして、人の呟きも洩れ聞えた。間もなくそれに応ずる声もしたのである。同じ一つの竹藪の深い奥手の方であるが、二人の位置はかなり離れてゐるものと見える。意味は勿論聞き取れないし、低音の、抑揚のない唯一本の響きに聞え、其儘急にひつそりとしてその人声は途切れてしまひ、軈て跫音も消えて了つた。あさひは東天に未だ昇らず、部屋の中は深い暗闇であつた。
 その時から、又一睡して後であらうか、それとも、あの時の淡い目覚めの直ぐさま続きであつたものか――まだ明けやらぬ窓の下をゴトゴトと響きをたてて馬力の通る音を聴いた。すると、明近い空の遠くに冴え冴えと朝の電車の動きだす倉皇とした音も聞えた。――窓下の静かな道に馬力は暫く佇んでゐて(馬の奴黙々と催しおつたか?――)やがて間もなく馬が動いて、それから車のゆるぎ出す音――軋りつつ、車は牽かれ、車は急ぎ、それも聞えなくなつてしまつた。
 今日は晴れ。うらうらと晴れたる空を見るであらう。――ふと駄夫は、泌むが如くにその一事のみを心に思ひ、再び睡りに落ちてしまつた。
 翌れば(果して――)まぶしい朝の蒼空が隈なく天に耀いてゐた。静かな深い睡眠から駄夫は突然覚醒して、はぢめに運らした一つの思ひが、矢張り天候のことであつた。そつと布団を押し開いて覗くやうに窓を見たら、だしぬけに流れたものは爽やかな朝の光、つぶらな白い耀やきを空一面に張り詰めた噎ぶやうな透明であつた。満ちたる白く耀やくもの、それは、窓一杯の広さをもつて流れ込む遠い深さの波紋に見え、モヤモヤと薄いうねりが耀き乍ら漂ふてゐる。舞ひ揺らぐ無数の塵や、耀やく中にも更に耀やくものが見えた。
 一人のうのうたることの此の悦び――
 斯様かように静かな目覚めの後に、そして駄夫はやうやくにして自分はこの部屋に孤独ひとりなること、そして昨夜は不思議に花やかな訪れがあつて、二人の新らしい登場者達と枕を並べて寝た筈のこと、よる更けて病める与里の帰宅のことなぞ――そしてそのころ闇の奥にも綺麗な星が煌めきだした……失はれたこんな記憶の断片を一つづつ透明な空のさ中へ撒かれるやうに思ひ起した。それは不思議に柔らかな色と色との交錯した、アネモネの花のやうな一夜に見えた。
 思ひ出は朝の目覚めに夢かのやうに見えるけれども、あれは夢ではないのだつた。部屋の隅には畳まれた男羽織と、赤い裏の覗いて見える女の着物が置かれてゐて、無関心な一瞥にさへ暗澹とした現実を(――それは駄夫に目を背けたい意慾を与へた)なぜかしら身のひき締まる思ひと共にその人々の暗澹とした全貌を甦らせたやうであつた。音もなくシンシンと降る蒼空には溶け難いものが其処に見えた。
 駄夫は階下へ降りてきた。外の光も知らぬげに与里は六畳に伏せつており、台所には立ち働く総江の姿を見ることができたが、玄也夫妻は見当らぬし、老婆も多次郎も姿が無かつた。何か白らけた出来事があつて与里と総江は気重い無言を固執してゐたものとみえ、空々しい薄暗がりが其処ら一杯にはびこつてをり、与里の寝顔は激しい空虚に殆んど間抜けなものに見えた。駄夫の姿を認めると与里は忽ちホッとして救はれたやうに活気づいたが、力の無さは詮方もなく寝床の上へ首だけを擡げて「昨夜ゆうべは迷惑をかけて済まなかつたね」とか「今朝もまだ八度あまりの熱があつてフラフラして――」なぞと、痩せくたびれた頬から頤を吊しあげるやうにして無理に笑顔をつくらうとしてゐる。すると総江は台所から突慳貪つっけんどんな声を絞つて駄夫に呼びかけ
「憚り乍ら今朝はオマンマがおそいよ。なんしろ珍客が朝の御散歩におでましだからね。腹がへつても我慢しな。こちとらのせいぢやねえやな。面白くもねえ――」
「黙つて為るだけの仕事をしろよ……」
 と顔を背け、与里は呟くやうに言ふ。
「面白くもねえ……」
 与里の言葉に力がなく意外に弱々しかつたためか、気負つた総江は之も亦不思議なくらゐ弱々しく句尾ルフランのみを繰返して、突然寒い顔付をしながら、途切れるやうに言葉を呑んだ。それは恰も少年が巷に受けた重い侮辱に興奮して、唯一の慰撫を彼等の母に甘えるあまり、母に向つて怒りを放つ幼い感情に似て見えた。(そして瞿曇こどもは斯るとき怒りの底に宝石のごとく悔ひと悲しみを深め養ふものである――)総江は殆んど訝かしげに、凄まじい相貌をして我自らをも疑るやうにおし黙りながら、まるで意識こころの伴はぬ空虚うつろな動作で何かと辺りへ爪繰るやうな手を動かしたが、煮えたつ鍋にふと手を掛けてアッと叫びさま指を銜え、大袈裟に音けたたましく後退あとじさりした。そして暫くジッとして煤けた壁に凭れたまま指をしやぶり、ボンヤリ鍋を視凝めてゐたが――駄夫はその目に姿のみえぬ泪があると想像した。しかし駄夫はその感傷に格別心も動かさず、鍋と総江の間を抜けて麗かな戸外へ――井戸端へ立ち出でた。
 心静かに洗面して戻つてきたら、其の時も矢張り炊事に専念してゐた総江は忙しげに盤台の上へ跼んで――その実は何んでもない何物かをいぢくり廻してゐただけのことだが、恐らく駄夫の戻るのを待ち構へてゐたのであらう、しかし決して駄夫の方を見やうとはせず故意に空々しい様子をして「いいお天気ねえ――」と呟くやうに言ふのであつた。そのあまり心細げな侘びしさに吐胸とむねの突かれる思ひをした駄夫は、気の毒な総江の様を見るに忍びず、戸口の中へ片足を踏み入れたまま咄嗟に後を振向いてしまひ、ほれぼれと静かな空をふり仰ぐやうにして
「ああ、ほんとうに、素晴らしい好天気だね――」
 すると果して其の素晴らしさが目に泌むやうに思ひつかれて、暗い心も須臾のまに溶け散るほどの感激を覚え、コツコツと咲きいるやうに顔を顰めて爽やかな光を呑んだ。
 目のさきの竹の梢に雀が一羽遊びに来て、物案じげな様をしながらしばしのうちは動かなかつたり――見てゐたら、ときどき隣へ飛び移つて又暫くは動かなかつたり、暫くして又動いたり、やがて隣へ移らうとして、止まり損ねて向ふの奥へ逃げていつた。この物静かな朝のしじまに、それだけの動きが画面のやうに面白く又鮮やかに映つたのである。
 すると、気づかぬうちに総江も外へやつて来て、駄夫とボンヤリ肩を並べて首を突き延し、うつろな顔で矢張り何かに見入つてゐる。何を又どういふ気持で眺めてゐるのか?――総江に構はず駄夫が雀を視凝めてゐたら、やがて雀がつてしまふと、総江は駄夫に呼びかけるやうに、アハアハといふ笑ひを洩らし、ホッと両肩を落して空を仰いだ。矢張り同じ一群の雀を見てゐたらしい。駄夫は若干苦笑して、雀の行方を見送りはせず、沈黙を噛みしめ乍ら直ぐ振向いて家の奥へと這入つてきた。
 すると総江はその背後うしろから機嫌のいい声をかけて
「駄夫さん、おなかはどう? へつた? なんならさきに食べてもいいよ。もう仕度は出来てゐるんだから――」
「ああ、ありがとう。でも、みんなと一緒にすることにしやう」
「さう。――ほんとうに、今朝はいいお天気だね」
 与里はひらたい板のやうにグッタリ力なく伏せつてゐたが、寝床の中には身体があるとも思はれぬほど全てがたいらな布団に見え、ジメジメとした暗がりの中に其れは殆んど物凄い眺めであつた。駄夫がふつとわけもなく坐り込むのを待ち構えて、顔の場所から静かな声で
「とてもいいお天気らしいね」と言ひ、それから又人のいい笑顔をつくつて、今日は一日日当りのいい二階で寝そべつてゐたいものだと言ひ出した。
 駄夫もそれには賛成して、フラフラと泳ぐやうに立ち上る与里を助けて二階へ伴ひ、布団を二階へ運びあげた。それは汗で熱くさい臭ひがしてゐた。総江は二人の男達がヂタバタ無器用に立ち働く場所へ来てニヤニヤしながら眺めてゐたが、別に手伝ふこともせず面白さうに佇んでゐて、駄夫が布団を抱きかかえて階段を登りかけるとうしろから覗き上げるやうにして
「三人だけで先に御飯にしやうかね――」
「ま、みんな帰るのをまつて一緒にしようよ」
 総江はニヤニヤ笑ひ乍ら駄夫と布団ののぼりきるまで眺めてゐたが、それから黙つて振返り台所へと歩き去つた。
 二階へ来ると与里は暫く窓際に立つて、耀やきの中へ溺れるやうに茫然と外を眺めてゐたが、決して誇張した感慨は顔にも出さず、言葉にも表はさず、静かに寝床へあほむけにねて吸はれるやうに眼を閉ぢた。
 駄夫は与里と入れ換りに窓に凭れて、ムンムンと土のいきれの立ちのぼる朝のうららかな竹藪を目に入れた。光の裏には深い影が息づいてゐた。

 行春や鳥啼魚の目は泪

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ、馬口うまのくちとらへて老をむかふる物は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず……

 間もなく、四名の人々は喧ましい活気を運んで帰宅した。皿や茶碗を買ひ購めてきたものとみえ、包紙の破かれる音、かしがましい瀬戸物の触れあふ音なぞ一時に家中に響きはじめた。
 その日、与里は勤めを休む筈にしてゐた。
 いつたい与里の勤先(場末の映画常設館)はその伯父の経営にかかり、この伯父は与里の父には唯一人の兄弟であるが、かなり富裕な退職陸軍将校であつた。この人は、落魄した与里の一家を憐れむよりは荷厄介にしてゐたので、与里達は何事につけても遠慮深く、他人以上によそよそしい気兼を働かせて、大概の病気にも休むことを差控へてゐた。しかし此の日は流石に与里も休む心算つもりにしてゐたらしい。
 病める与里を二階へ残して、人々は階下で賑やかな食事を摂り、摂り了はつてから再び次ぎ次ぎに明るい二階へ集まると、やがて老婆が最後にひとり跫音もなく登つてきて、感動もない静かな顔で遥かな空に見入りながら「まあ結構なお天気……」と、言葉はさもさも恍惚うっとりとして述べたけれども、さういふ言葉がやりきれないほど石碑のやうな顔付で、つづいて玄也の方へ孔のやうな視線をきりかへ
「お仕度は出来たの? 伯父さんへ行くのですから。欠勤のお届けに、ね」
「ああ、このままでいいかしら?――」
 窓に凭れてゐた玄也はにわかに立上つて母と服装みなりを一気に見廻し、次に懐へ手を差入れて何かと衣服を調ととのへ直すやうにしたが――するとその一寸した沈黙の中へ、与里はものうげな顔を横にねかせたまま
「なにも二人で出掛けることはないのに――」
「この人のくちを頼むのですよ」
 老婆は少しも表情を動かすことなしに、頤の向きで玄也の方を指すやうにした。与里はそれを目に入れてのち又弱弱しく顔を横にねかせたが、全く間髪を入れぬその瞬間に著るしく急き込むやうな気配に見え、それを殺して破れるやうな掠れた声を圧し殺し圧し殺ししながら
「ぢや、行つていいけど。……しかし僕は、必ずしも欠勤するとは限りませんよ。気分さへ良ければ、夕方からでも僕は出勤する心算なんだから。僕のことならおせつかいは止して貰ひたいね……」
「今日は休んだ方がいいよ。先刻さっきはそう決めたんぢやないか。悪いことは言はないから――」
 と、玄也はこれも急き込んで、併しこれも語勢を圧し殺し乍らのぼせたやうなうわづつた顔付をして
「俺はいいよ。俺はなにも今日くちを頼まなくつてもいいんだよ。でも、僕としては挨拶にだけは行きたいけど――義理だからね」
「兄さんのことではないよ。僕は僕として欠勤したくないんだ。別に僕は兄さんに当てつけて言つてるわけぢやないんだから。僕は僕自身の立場として――」
 さう言ひかけて与里は次第に自制を失ひ、泣き出しさうに声もうるんで裂けるやうな響きとなり
「――僕は胆が小さいからね。いたつて気が弱くて意気地なしなんだからね。僕はクビにされるのが怖いんだ。僕は世間並の使用人より頼りのないお情けの雇人なんだからね。伯父さんから厭厭乍ら世話を見て貰つてゐる邪魔者なんだ。これが他人同志ならさう怖い筈もないだらうけど、なまじひに親戚だから――僕なんか、つまり人間以下の荷物だとか家畜みたいな生物なんだから。いつ何んどき追ん出されても文句の言へる義理はないんだ。伯父さんはいくらでも理窟のつけられる身分だし、僕ときたひには、どんな理窟をつけられても抗弁の余地はない癈物なんだもの。れつきとした気違ひだからね。クビにされたら他処ほかで使はれる当はなし、僕はまるで、まつくらな毎日なんだから……」
 と与里は激しい興奮のために胸の塞がる有様に見えたが、つとめて冷静に流れる声をおさへるやうにして、併し時時おさへ切れずに金属性の高音を噴き出し乍ら其処までを言ひ了ると、それなり死んだやうに途切れてしまつた。そしてそれは不思議なことに鳴咽に変ることもなくぐつたりと、布団の一部であるやうに眼蓋を閉ぢて動かなくなつた。丁度その毛髪のあたりへまで窓を流れる四角な光がとどいて、モヤモヤと屑のやうに鈍く冷たく耀やいてゐた。
「おれあ別に今日行かなくつてもいいんだといふのに、よう、行かなくつてもいいんだと言つてるのに、俺は……」
 玄也はふくれて、重苦しい無言の中へ、ムッとしながら懇願するやうな言葉を落したが、それからネチネチと横を向いて拗ねたやうに肩を張つた。さうして、
「別に君に悪いやうに計らう心算があるのぢやないし、さう悪人に考へなくてもいいんぢやないかと思ふね。それア僕は家を出奔したり長い間音信不通でゐたりした無頼漢ならずものでね、大した親不孝者には違ひないけれどね、ま、刑務所の御厄介にならなかつたやうなもんですとね、兄弟なんかは他人より信用の出来ないものかね。さうお互に憎んだり騙しあつたりするものかね。君の哲学はさうらしいけど、僕は別にさうひどいものだとは考へないがね」
「僕はね、兄弟なんて形式に何の値打もおかないよ。僕に必要なのは温い思ひ遣りだけなんだから。兄弟なんざ何のたしにもならないね」
「それあ君の苦労が足りないからだね。斯う言つちや悪いけど君は夢想家で世の中のことは知らないからね。世の中に温いものなんざ凡そありやしないよ。結局形式だけだけど、血族つてものは、そこの絆がいつと確実に信頼できるんだよ――」
「さういふ目論見で僕を頼つてきたのなら出て行つて貰いたいね。僕は港や掃溜ぢやねえや。兄さんの反吐を始末するのに僕が生きてる次第ぢやないんだから。僕の家庭は神聖なものなんだ。第一発狂した廃人なんだから人に頼られる柄ぢやあねえや」
 いつ泣き出すかと思ひ乍ら、その意味でハラハラしながら駄夫は黙つてきいてゐたが、与里は併し不思議なくらゐ冷静で――それでも身体は布団の中で幽かに顫えてゐるやうであつた。言葉をきると矢張りぐつたり瞑目して、生気の失せた無表情な顔をしてゐた。
「困つたね――」
 人々は各のうつろな視線を隠すやうに逸らしあつてゐたが、ひとり玄也は、余儀なく分別らしい舌打を鳴らし、冷静を取繕ふために様々な力を駆り立てるやうに見えたけれども、度を失つた狼狽は隠しきれず、血走つた蒼白な顔をして思はずオロオロと右往左往に視線を騒がせ乍ら、身体の重心をバラバラに崩してしまひ
「だつて俺は、だから僕は、今朝もくれぐれもお願ひしたやうに、決して君に御迷惑をかけるやうなことはしないと――これ迄のことだつてあんなに幾重にもお詫びしたんぢやないか。それあ僕の悪るかつたことだから、幾度だつてお詫びをしても構はないけど、それは済んでることぢやないか。ききわけがないぢやないか……」
「僕はなにも兄さんのお詫びがききたいわけぢやないんだ」
「困つたね。さう搦まれたつて――僕は全く困るよ。あんまりききわけが無さすぎるよ……」
 匙を投げたといふやうに玄也は諦めたやうな顔をしたが、――何んとなくムッとして、立ち上つて着物の前を合せてみたり布団の上の塵を払つたり、泣き出しさうな様子にも見えたり、また坐つてフッと空を仰いでみたり、混乱を紛らすために身体を動かさずにゐられぬといふ様子であつた。駄夫や老母へ走らすやうな視線を投げたが、みんなうつろな眼付をして取りあふやうには見えないので、玄也はそれにもムッと応へて顔を逸らし、今度はわざと平然として動かぬやうに努めてゐる。けれども動かぬことが一層の苦痛らしく時々ヒョイとバネ仕掛の人形のやうに動き出しさうに滑りかけて、白らけきつた表情をつくつた。
 すると重苦しい無言が暫く続いたのち、流石に老婆がまづ堪えかねたものとみえ、ふと立ち上つて、玄也に向ひ
「さあ、伯父さんへ行きませうよ。お仕度はいいね」
 さう言ひ終ると老いた顔に殆んどむごたらしいほどの冷めたい笑ひを刻ませたが、
「これが毎日のことなんだからね、ほんとうに、やりきれないわねえ。又午過ぎにはお偉い方のお天気も変はるでせうからね。アア、アア、いやらしいこと――」
 与里は併し目を閉ぢたまま生気のない寝顔をして、まるで何も聞えぬやうに其れには何も答へなかつた。すると玄也は、急にきつい、生真面目な、分別くさい怒つたやうな顔付をして
「お母さんは怪しからんよ。ヨッちやんがあんなふうに言つてゐるのに、わざわざ風波を立てるやうな、同情のない言ひ草をするこたあないぢやありませんか」
「まアいいぢやないか。君は兎に角行つておいでよ。お母さんに逆らうことも、ないぢや、アリマセンカ――」
「うるさいよ。なにも君が口を出すこたアないぢやないか」
 玄也は凄い意気込みで駄夫をたしなめたが、駄夫はニヤニヤ笑ふばかりだし、一方与里は矢張り無言で死んだやうに目を閉ぢたまま、玄也のために一言半句の暗示を含んだ言葉さへ与へやうとはしなかつたので、玄也は再び狼狽してソワソワと落付かない視線を騒がせはぢめた。
「だから行つといでと言ふんだよ。心配しなさんな――」
 と、又駄夫に弥次られて
「ああ、ぢや――」
 玄也はそれをキッカケに、見るからホッとして立ち上つた。そして
「ぢや、行つて参ります。義理だからね、挨拶にだけ出ておかないと困ることがあるからね。悪くとらないでおくれよ、ね……」
 玄也は与里の方へさう言つたが、与里は未だに死んだやうにグッタリ瞑目してゐるのみで手応へがないから、玄也は甚だ物足りない顔をして、ウロウロと辺りを見廻し立去りかねるやうであつたが、あきらめて歩き出したと思ふと今度は階段の所で振返つて、未練げな気まづい表情を駄夫にあびせ
「君もどうせ出掛けるんだらう。一緒にそのへんまで行かない?……」
「俺の出掛けるにはまだ早すぎるよ」
「さう……」
 玄也は弱く言ひ捨てて、あきらめたやうに静かに下へ降りていつた。紅子もやがて座を立つて、玄也のあとを追ふやうに黙つて下へ降りていつた。玄也夫妻が降りてしまつた後になつても、与里はなほも死人のやうに動かないので、二階に残つた駄夫と総江は窓からただわけもなく戸外の風景を眺めてゐたが、暫くすると総江は我に返つたやうに
「いいお天気ねえ!」と、駄夫に囁いた。
 竹の葉のキラキラとした薄い緑は透きとほるやうにも見られるし、それらの葉は無数の影を滲ませながらわずかに細く顫えるやうにも思はれるし、深い奥までひつそりとして、一揺れもせぬ静かな澱みに考へられる時もあつた。朝の光はうるみが深く、つやつやとして降りそそいでくる。
 すると、紅子がひとりソッと昇つてきて
「モミハラさん。ちよつと下へ来ていただけませんでせうか?――」
「あ――」
 階段を降りたところには玄也が心細さうに待ち構えてゐて、間の悪い顔をしながら
「済まないね。先刻さきほどは失礼。あのねえ、とにかく挨拶にだけ、行つてくるからね、すまないけど、君からヨッちやんに宜しく言つといてくれないか。義理が悪いんだよ。これから先は伯父さんに頼るより仕方のない立場なんだからね。顔を出しとかないと悪いもんだからね――」
「うん、行つてきたまへ」
「ああ、ありがと、君には済まないね。どうぞヨッちやんに宜しく執成とりなしておくれよ、ね。済まないね。……なんなら、君も来ないか? 一緒にくちを頼んであげるから……」
「なんだい。俺は二階の用を頼まれたんぢやないのか?」
「だけどさ。なんなら、おいでと言ふんだよ。案外世話をしてもらへるかも知れないから……」
「俺は、まともな働きは出来ないタチなんでね。ま、よさう」
「さう、ぢや――」
 彼はまだ未練ありげな様子であつたが、詮方なしの形で
「ぢや、行つてくるからね。ヨッちやんには何分宜しく言つといてね。君のくちもきいてきてあげるから」
「いいんだよ、俺は。さういふ所で働くのは嫌ひなんだよ。君と並んで働くなんざ、およそ面白くないからね」
「ぢや、宜しく頼むよ、ね」
 玄也は間の悪い顔の中にも苦笑ひを浮べるだけの余裕が出来て、少し軽快な足どりで沓脱の方へ歩いて行つた。そこには紅子が立つてゐたし、老婆は已に沓脱へ降りてもう先刻から佇んだまま、どうやら材木のやうに動きも生気も見受けられない様子であつた。
 駄夫は玄也が気の毒に思へたので、送り出してやるために彼の後からブラついて行くと、併し玄也は直ぐに沓脱へ降りやうとせず、そこにボンヤリ佇んで出口の方へ目をやつてゐる紅子の傍へ寄つて、思ひがけない気兼をした様をしながら――
「きつとうまくゆくと思ふからね。伯父さんに会へさへすれば何んとかなるにきまつてるんだよ。待つててね。すぐ戻つてくるから――」
 紅子は、併し(これも亦意外なことであつたが――)玄也の言葉が如何にもうるさいやうにまるで取り合はうともしない様子で、ふと下の下駄へその目を逸らした。それは又見様によれば、一刻も早く下駄を穿いて出て行つてくれといふ冷淡な暗示のやうに取ることが出来たし、何か一寸慌てたやうな、負けてはなるまいとしてドキンとしながら背水の陣をとるやうな、さういふ何か突きつめた態度にも見えた。
 たちどころに玄也は困惑して、寧ろ悲痛とも言ふべきものを表情の中に漂はしたが、すぐにそれを揉み消すやうな又諦らめるやうな白つぽい顔付をして、動作に変にリズムをつけ乍ら沓脱へ降りて下駄を穿いた。
「ぢや、行つてきます。ヨッちやんにくれぐれも宜しく執成とりなしてね。ぢや――」
 玄也は言つて、それから紅子に向ひ挨拶をうながすやうな――それは寧ろ懇願とさへ見られるやうな弱々しい態度で誘ひをかけたけれども、紅子は矢張り冷淡至極な、生真面目な、無表情な顔付をして、それとなくよそ見をするやうなふりをしてゐた。まともに眺めたわけではないが、ひどく突きつめて何か一つを思ひ込んだといふ、神経的な蒼白さをビリビリと漂はしてゐた。
 玄也は度胸をすえたらしく、今度はふてぶてしい無関心を装うて戸外へ立ち去らうとしたが、戸を締めやうとしかけてから矢張りまだ気掛りであるらしく、少しソワソワしたと思ふとその拍子にもはやこらへきれずに一時にドッと弱気になつてみぢめな相貌に凋み込んでしまひ、紅子を弱弱しく仰ぐやうにして、まるで拝むやうに
「……お前も一緒に来ないか。その方がきつと都合がいいよ。伯父さんと会つとけば、伯父さんもお前のことを心配してくれる手掛りを今日にももつわけだし、いろいろ心配してくれるに違ひないんだから……」
「あたしはいや――」
 紅子は益々うるさそうに横を向いて呟いた。しかし玄也はなほ下手したてから、殆んど泪つぽいやうな卑屈な声をして
「どうせ今後これから伯父さんの厄介にならなきやならないとすれば、一度は会はなきやならないんだからね、ね――」
「いいんですつたら。貴方は行つてらつしやいよ。お母さんがお待兼よ」
「だから一緒に行つた方がいいぢやないかと言ふんだよ、俺は――」
 紅子はすつかり厭らしい表情を露骨にみせて、苦々しげな苛立ちをビリビリと浮き立たせたが、
「いいのよ。早く行きなさいつてば。安心して。あたしは別に逃げ出さないから。但し今日だけは。気の毒だから」と軽蔑しきつた口調で叫んだ。
 玄也は見る見る名状の出来ない困惑を浮べて、どうすることも出来ない窮状に立ち至つたやうであるが、暫くは手の施しやうもないと見えてぼんやり俯向いてしまふほかに方法もないやうだつたが、ややあつて額をあげると、もはや駄夫のそこにゐることも忘れて、見栄も外聞もかまはずに
「だからよう。今迄のことは昔から詫び通しぢやないか。だから今後これからが大切なんぢやないかと言ふのに。これからなんだよう、大切なのは……」
 玄也は殆んど、再び沓脱の中へもぐり込んできたいやうなヂリヂリした様子をした。しかし此の場の形勢では最早とうてい見込のないことを見てとると
「――いづれあとでゆつくり話をしやうよね、ね、ね。すぐ帰つてくるからね。きつと伯父さんは心配してくれるに違ひないんだから、もうこれからは大丈夫なんだから――」
 そして玄也は尚幾度となく空しく念を押して、まるでフラフラに千切れるやうな有様で、遂に戸外へ去つていつた。――
 駄夫はつひなんとなく壁に凭れてこれだけの光景を見了つたのである。途中から立ち去らうかと思ひつくこともなく、別に感慨を伴ふこともなく、この奇妙な光景を実に冷酷に見了つてしまつたのだ。そしてさて二階へ立ち帰らうとすると――
 紅子は玄也の行つてしまふのを見ると、急に真うしろを振向いて、勿論そこに駄夫の居るのを充分に意識したうへ、併しそれを全然気にかけぬ大胆な物腰で、両手で頭をかかえるやうにして
「アアア、くさくさしちやつた!――」
 鋭く張つた、蒼白な、ヒステリックな顔をして、何もない前方を険しい併し空虚な視線でヂッと見てゐた。
 思ひがけない一聯のパノラマを見了つたものである。
 勿論駄夫は他人のことに身を入れて思ひ入る程殊勝な男ではなかつたが、味気無い一つの世相を見ることは、駄夫にとつて、それは、駄夫自身の生存をいささか悲しく思はせるに充分であつた。やはり朗らかな気持にはなれない。
 二階へ来ると、総江は窓際に多次郎と坐つて遊ぶふりをしてゐたが、その落付かない様子からして、総江は今迄階下の話を立聞きに出向いてゐたのだと推察された。総江は駄夫に二言三言白々しい言葉をかけて、それからは、益々甲高くさんざめき乍ら、多次郎を相手に遊び興じはぢめた。
 与里は――狸寝入りであるのかも知れぬが、やはりぐつたりと瞑目して睡つた様子をしてゐた。先刻さっきまでその髪の毛にたわむれてゐた強烈な光線は少うし動いて窓の方へ寄り、与里の全身は、今は全く影の中に息づいてゐるのだ。
 駄夫は暫くただ意味もなく窓外の景色を眺望してゐたが、やがて外出することにきめ、階下へ降りてきた。
 下では、六畳の片隅に紅子がゐて、たつた一人何やら思ひ耽つてゐたやうであつたが、駄夫の降りるのを見て「アアア――」何やらうるささうな様子でさう言つてふと立ち上り、さあらぬ態で、寧ろ人を食つたほど空々しい素振りをしながら、かなり荒々しい跫音で二階へ昇つて行つた。
 昨夜の甚だ慎しみ深い此の女は、今朝は大した変りやうであるけれども、さういふことは駄夫にとつても頷けぬことはなかつた。


 さういふ出来事があつてのち外出した駄夫は、この日道を行き乍ら若干の金が欲しいと考へられた。活動を覗くなり、立喰ひをしてみるなり、動物園をぶらついたり街頭の詰将棋を賭てみる等、何かしら無駄に金銭を遣ひたいと思つたのである。これ迄も同じ思ひに駆られることは屡々しばしばのことであつたが、この日は同時に実際の手段を思ひ運らしてゐるほど泌みつくやうな思ひであつた。泌むやうに思はれたのは、又、振り仰ぐ爽快な蒼空でもあつた。
 竹藪の家へ厄介になりはぢめたばかりの頃、まだ浅い春であつたが、一夜与里に伴はれて、此の街外れに屋台を出すおでん屋へ出掛けたことがあつた。その場所で彼等は中年の洋服男と一座した。
 その男は痩せて陰惨で蟷螂かまきりのやうに神経質で、そのために丁度日陰の杭のやうに黒ずんでゐたが、其の胴体の一部のやうに大きな折鞄を抱き込んでゐたので、これは保険の外交員と一見して見受けられた。訊いてみると、併し其ではないのだつた。数杯の酒に男は忽ち赤黒くほてつた顔をして、江戸前のいなせな言葉に関西訛りのアクセントが時々絡みつくせつかちな口調で、心安く二人へ話しかけるのを聞いてみると、男は系図屋といふ不思議な商売を営んでゐた。ケイズ……家代々の系図、万世一系の系、それあの系図さ、と男は怪訝な顔付をした駄夫に向つて細かく説明して、近頃自分は大変景気のいいことをムキになつて信じさせやうとした。その話はどこまで信用していいものか分らないが、世間には系図に悩む人々が沢山あつて、斯んな便利重宝な機関があつたのかと狂喜して意外な礼金を投げ出す成金もあつたほどだと男は得意げに語つてきかせた。
「名前は特に隠すがね、商売は信用だからよ、人の秘密は洩らせないからよ――」
 と男は気持良ささうにカラ/\哄笑して、さういふ訳だから自分の店には四五人の苦学生を使つてゐるが、それでも目の廻るほど忙しくて莫迦々々しいほど儲かるのだと熱心に説明した。そして、先夜も吉原へ豪遊に出掛けたとか、その日は丁度大金を所持してゐたので花魁おいらん吃驚びっくりして店の金庫へ蔵してくれたこと、娼妓も三十を過ぎると全てに親切である話、等々、大凡斯様な数々の豪奢を説いて寧ろ辺りに北風を漲らしたのであつた。
 去りぎわに男は大型の名刺を取出して駄夫にだけ与へ(――少くとも与里の方を勤め人と見たのであらう、この眼識には駄夫も幾分感心した。併し男は駄夫を貧困な画家と見た形跡があつた――)
「オレの自宅は裏長屋でムサ苦しいけどね、店は別に市内の方に相当なものがあるんだよ。いつも四五人の苦学生がゴロ/\してゐるのさ。結構煙草銭くらいにはなるからね、君も一度訪ねて来給へ」
 と言ひ、尚一度「待つてるぜ」と念を押して、そそくさと退散してしまつた。かと思ふと急に引返して暖簾に首を突き入れ、駄夫の肩を押しからがして、
「吉原の話はおつかあにナイショだよ」
 男はニヤ/\して、「オレのおつかあは力持ちだからね」と言つてゐたが、首を引つ込めると口笛を吹き流して向ふへ歩き去るのが分つた。
 駄夫はその男を思ひ浮べたのであつた。一つ煙草銭をせしめてやらうと考へたのだ。名刺は内衣嚢に蔵つておいたので、示された番地へ出向くことに決心した。成程店として市内の番地も示してあつたが、男の自宅は与里の家から遠くなかつた。
 奇妙な場所に不思議な煉瓦塀があるものであつた。塀本来の性質として一方には当然囲はるべき何物かがあるべき筈のものを、この豪勢な煉瓦塀は明らかに両側が道路であつた。道路――いや、道路と呼ぶにはいささか顔負けのする代物で、左右両側の道ともにせいぜい一間幅ほどの露路である――その又露路の左右が蜒々として連なり流れる長屋であつた。これらの長屋は所謂貧民窟なぞと呼びならわすあの種類で、見渡す限り蜒々として同じ方向へ流れて行く長い長い幾棟もの長屋であるが、みんなせいがチンチクリンで恐ろしく平らべつたいトタン葺きの平家であつた。それ故、この露路の入口に立ち止つて奥手の方を眺めると、結局高さの目立つものは何一つとして見当らず皆一様にブス/\と光を燻し返してゐる低い屋根ばかりで、殊のほか空が大きくマンまるく覗かれた。
 この露路は、塀の両側ともに凡そ乱雑そのものである。各々の軒からは殆んど例外なしに煉瓦塀へ竹竿が差し渡されて、洗ひたての干物が色とりどりにブラ下げてある。その奥手には、これも一種の屑のやうに、凡そ物憂げに蠢いてゐる女房達が隠見してゐた。
 て、この不可解な煉瓦塀であるが、これは結局何物であるかといふに、これはつまり何物でもないらしい。なぜかといふに、両側の露路は各三十間もして結局袋小路になるのであるが、その途端に、其処のドンヅマリに於て此の不可解な煉瓦塀も突然途切れてしまつてゐる。結局人々は一方の露路から這入り、ドン底で別の一方へ廻り別の入口へ舞ひ戻ることによつて、当然の結果として此の物々しい煉瓦塀を一週することになるのであつた。
 思ふにこの辺一帯は、昔広茫たる原つぱに建てられた工場の跡に相違ない。その工場が取り壊されて全部は片付かぬうちに安直な家が立込み、斯うして異様な煉瓦塀が取り残されたものであらう。煉瓦塀はところどころ窪んだり崩れたりしてゐた。
 系図屋の住居は此の露路の中程にあつた。何処の長屋にも見られるやうに、系図屋の軒下からも何やら青いものが一列に芽を出してゐた。所詮コスモスか朝顔の類ひであらう。
 入口の格子戸は開け放されてあつたが、目の前に破れ障子が鎖されてあり、傷口のやうな破れ目から奥の暗がりが覗けて見えた。案内を乞ふと暫く音がなかつたが、やがて喫驚するほど肥つた女がブッキラ棒に現れてきて、眉を寄せ乍ら駄夫の顔をジロ/\見下してゐる。成程、これは力持ちに相違ない、と駄夫は思はず可笑しくなつた。
 女は胡乱うろんな目付をして駄夫を見下してゐたが、何となく面白さうにニヤついたりしてゐる駄夫の様子に不愉快を感じたやうであつた。
「お前さんは誰? 何の用?――」
「名前は言つても初まらないんですが。御主人にお目に掛れば分るんですが――」
「とうさんは留守だよ」
 無愛想にさう言つて、女は併しまだ胡散臭さうに駄夫を眺め下してゐる。いつたいに身動きも面倒臭いといふやうな、物憂くてだらしない女の様子であつた。
「店へ行つたら会へますか? 僕は何か働かして貰ひたいんだが……」
「知りやしない、何処へ行つたか――」
 と女は五月蠅うるささうに横つチョを向いた。駄夫もつひクラ/\と同じ拍子に睡くなつてしまふほど五月蠅さうな調子で。で、駄夫は大きく胸を張つて、アンアンと背延びをした。恐らく背中には降りそそいでゐる筈のポロポロした好天気が、目前の陰気な暗さを厭ふやうに心持よく感ぜられてきた。ねむたいのだ。
 駄夫はふとある祭礼の風景を思ひ出してゐた。ポカ/\した日和の中に埃つぽい露店が道の両側に立ち並んでゐて、ユラユラ蠢いてゆく無限の雑沓を挟んでゐるが、兎に角この方は動きもせずに、睡たさうに流れる人波をやり過してゐる、といふやうな……
「ぢや、さよなら」
「…………」
 肥つた女は返事もしなかつた。その代り、駄夫が敷居を踏み出して恍惚と好天気を吸ひ込んでゐたら、
「おい、お前さん――」
 と言つて、系図屋が気の弱さうな声を駄夫の背中へかけた。なんだ、さうかと思つたが、同時に又、なんだ、分りきつたことぢやないかと言ふやうな気もし、ただ言ひやうもなく実に睡むたげで、即座に振り向く気持にはならなかつた。兎に角振り向いてみたら、肥つた女はもう其場所に居なくて、痩せた系図屋がチョロリと入れ換つてゐたのだつた。滑稽なことには、系図屋の身体の四辺まわりに、先刻さっきは無かつた暗い隙間がふんだんに散らかつてゐた。そして、肥つた女が振向きもせず物臭さうに薄暗い奥へ歩いて行く姿が見えた。
「先日おでん屋で逢つた者ですが――」
「あん」
 男は暫くポカンとして丁度駄夫の頤のあたりを凝視めてゐたが、長いことして、「まあ、おあがり――」と言つた。
 一足沓脱へ踏み入れたとたんから、駄夫はもう仕事を止して忽ち戸外へブラつき出たいと思ひはぢめてゐた。戸外へ置き残してきた好天気が莫迦に気がかりで、この屋内の薄暗さが寸秒も堪えられぬものに思はれた。
 仕事は果して駄夫の想像した通りだつた。男は矢張り駄夫を絵描きと見たのであつた。駄夫は道々これは枕絵ではあるまいかと考へてゐたが、事実も矢張りその通りであつた。しかし駄夫は、この時もはや全く何事もしたくない物臭にとりつかれてゐたので、変な風に白々しい気抜けを味はひ乍ら、先刻から立ち通しにポカンとして坐ることも忘れてゐた。駄夫は壁に凭れて、窓から見える明るさを飽かず眺めてゐたが、
「俺は絵が下手だからね。俺は絵描きではないから……」
 駄夫は鮒のやうな目の玉をして外の気配に気をとられ、今にもユラユラと蒼空の下へ泳ぎ出して行くやうに見えた。系図屋はすつかり呑まれたやうであつた。そして幾分狼狽して一寸抱き止める恰好をしながら、
「筆は立つだらう? え、お前さん?――」と早口に訊いた。
 駄夫は兎に角「うん」と答へたのである。そして兎も角も坐り――今日は兎も角も坐るよりほかに仕方がない、ここで働かないとしても、兎も角一応は坐つてみて考へてみて……と言ふ風にその時は思ひつかれたのである。併し結局は厭々ながら兎も角も仕事をしてみる心算つもりでもあつた。そして駄夫は兎も角も坐つたのである。
 男は駄夫の身の上なぞを様々なふうに訊いてみたが、気の抜けた生返事をするばかりでろくすつぽ言葉らしい口のきき方もしないので、あきらめて仕事の話を簡単に運んだ。駄夫は早速後悔したが、とにかく夕刻までに短い物語を一つ仕上げる約束をした。戸外へ置き残してきた麗かな日和が、もはや生涯取り返しのつかぬ損失のやうに悔まれてならなかつた。好日。この麗かな好日を。――駄夫の胸には忌々しい思ひがなかなかに収まらうとしなかつた。
 男は格子窓の下へ、この家にただ一ヶ所の日当りの良い場所へ、小さな机を持ち出して紙とペンを用意してくれた。其処からは例の露路が、順つて奇妙な塀が鼻先に見えるのである。空。言ほうやうもない麗かさである。莫迦々々しいほど当然に、足駄の歯入れ屋が鼓を鳴らして通りすぎた。もう仕方がないと駄夫は観念した。
「オレは仕事に出るからね、済んだらおかみさんからお宝を貰つてくんな。煙草銭くらいは出すだらうからね……」
 男は駄夫の耳もとへ斯う囁いて、茶ぶ台の方へとつて返した。彼等はこれから食事をしようといふのである。もうひるに近い。七ツくらい、三つくらい、二人の男の子供がゐて、大きい方は部屋の諸方でやけに喇叭らっぱを吹き鳴らして五月蠅いのである。
 三十分とたたぬうちに書き上げてやらうと駄夫は考へた。併し、やり出してみると思ふやうに捗らなかつた。矢張り凝るのである。平賀源内の源平褥合戦だとか種彦の作だとか、その方面の名作を何分にも耽読した覚えがあるので、矢張り一種の気品を与へたい欲望に支配されるのであつた。
 面倒臭くなつて、筆を投げ出して了つた。
 男は口をモガモガやり乍らやつてきて覗いてみたが白紙なので、かへつて自分の方で恐縮して悪いものを見たやうな様子であつたが、又戻つて行つて飯を食ひおはると、お茶と一皿のおしんこを持つて来てくれた。
 豆腐屋が喇叭を吹き乍ら歩いてきたが、丁度この辺が中程なので、すぐ鼻先の塀際へ荷を下し、右と左へ交互に向けて喇叭を吹きわけてゐる。なかなか買ひ手が出ないので退屈してしまひ、変な風に吹き延したりチョン切つたりして様々な風に吹き鳴らしてゐたが、今度はポカンとして塀に凭れ空へ向つて鼻唄のやうに吹き初めた。そして間もなく行つてしまつた。
 すぐ窓の左手には斜に立てかけられた張板が半分くらい見えるのである。時々その上を大きな手が走るのだが、手の持主は滅多に顔が見えなくて、やうやく見えたのは好人物らしい老婆であつた。その人は駄夫を見ないふりをして遠慮深く目を逸らしてしまつた。あちらに、こちらに、かしがましい女の話声が転つてゐる。
 男が仕事に立ち去つてから、机の上では鋭い陽射しがかなり左へ廻つていつた。そして、光沢のある朝の光が疲れたやうな鈍さにかわつて、午後になつてしまつた。露路の気配はめつきり淋れて活気に乏しくなつたが、その侘びしさへ照りつける嗄れた光が厭らしく堪え難いものに思はれた。
 肥つた女はブラリと出て行つたが、暫くしてから同年配の二人の女房を連れてきた。これがみんな大変なおしやべりであつた。新来の女房達はお互に特殊な訛があつて、散弾のやうな響のなかに楽器を引掻くやうな耳につく音がまぢるのである。
 女房達は時々わざと駄夫を気にした。話が途切れるとたんに、「おや」とか、「まあ」とか言ふふうに、それ相当な身振をして頸を縮めてみたりしながら、わざと大袈裟に駄夫を気にするフリをする。そのわざとらしさが無反省で、いつまでも性懲りもなく同じことを繰り返すので、阿呆らしく参るのである。ところが肥つた女は駄夫に優越を感じてめきつてゐるものだから、その都度「ふん」とか、なんだい青二才めといふやうに、何かしら駄夫へ対する軽蔑を仄めかしてみせるのである。
 昔、もう数年前のことであるが、駄夫は矢張り袋小路のとある長屋に住んでゐたことがあつた。その長屋では、ドンヅマリに住んでゐた矢張り肥つた婆さんが勧進元で、長屋一帯に笑ひ本の貸借が流行を極めたものであつた。長屋の人々はそれだけが一日の楽しみのやうに、ひところ此の流行で持ちきりであつた。流石に勧進元の婆さんは蔵書の数でも大関で数十冊とあり、運転する書籍の大部分は此処から出てゐたが、結局婆さんは借金で首の廻らないことになり、蔵書を売り払つてしまひ、界隈はとみに淋しい思ひをしたりした。「あたしやウメボシだからね、こんな本は惜しいとも何とも思やしないけど――」と婆さんは長屋中にふれ歩いて買ひ手を探したものであつたが、何分にも言ひ値が方途もなく高すぎて長屋うちには買ひ手がつかなかつた。「お隣りの娘なんざ顔を真赤にして喰ひつくやうに読んでたんぢやないか、へそくりで一冊でも買ふがいいや」と婆あは憎まれ口を叩いてゐたが、一番買ひたさうだつた一組の若夫婦、これが界隈で最もむさぼり読んだ口だが、やはり貧乏で買えなかつた。この亭主はその後自作の物語を書きあげて長屋一帯へ廻してゐたが、なかなか名作が多かつた。
 婆さんの蔵書は、結局駄夫の手でそつくり或る古本屋へ処分した。途方もない安値であつたので、自分勝手の高相場で近隣へ売り歩いてゐた婆さん故とても承知すまいと思つてゐたら、一も二もなく売つてしまひ、数日経て、なほ愚痴らしい愚痴さへ零さなかつた。よほど金に困つてゐたのか、人の悪い婆あのこと故、初めから相場を知りぬいてゐて、若者の好色を当込んで一儲けの魂胆であつたのかも知れない。
 駄夫が仕事を了へた時分、露路の中には子供の数がふへてきた。追つかけたり追はれたりして目の前をバラバラ走り過ぎて行くと、煉瓦塀の向ふ側でも同じやうな物音がしてゐる。塀の上へヒョイと猫が現れて莫迦に悠々と歩いて行つたが、向ふの方で今度は屋根へ飛び移つたのか、白つぽい奴が屋根を斜に通つて行つた。本通りの方で、砂利車から砂利を落す騒がしい響きもきこえてくる。
 物語は原稿紙にして七八枚のものであらう。書き出してみると別に凝ることもなく気軽に書き殴ることが出来た。駄夫はボンヤリ外を眺めて、おしやべり達の帰るまで待つてゐたのである。
 四時が鳴ると二人の女は立ち去つた。駄夫は早速立ち上り、肥つた女に原稿を渡した。女は口を「へ」の字に曲げ横柄な面魂をしてペラペラとめくつてゐたが、「ふうん」と言ひ乍ら愛嬌のない顔をあげ、駄夫を圧倒するためのやうな冷笑を浮べて、
「インチキな代物ぢやあるまいね――」
 と意地の悪い目付をして駄夫の顔を視凝めてゐる。さては先生字が読めないのだと駄夫は即坐に悟つたので可笑しくなり、横を向いたなり唯黙つてニヤニヤしてゐたら、果して駄夫の予想した通り、鼻つ柱を叩き折られる思ひのした女は、腹の立つのを無理に押へて誤魔化し乍ら威厳をつけた声を張つて、
「イカサマ物ぢやあるまいね」
「いつぺん読んでごらん」
 肥つた女は余儀なく一寸めくる真似ごとをしてゐたが、急にアッサリと投げ出して、帯の間から蟇口を取り出し、十銭玉を三つ畳の上へ転がした。
「とうさんが留守だから、あたしには分らないから。今日はこれだけ取つときな。あしたでも又来てみるさ――」
 露路へ出てみると、もうかなり横殴りの陽射しで、長屋一帯は腰から上にだけ鈍い光が耀いてゐた。干物はあらかた取り入れられてゐたので、妙に景色がうらぶれた変りやうをしてゐる。丁度露路を出はづれる所に紙芝居が来て、煉瓦塀の下には大勢の子供達がウロウロしてゐた。果して本通りには馬に牽かれた砂利車がつながれてあつた。
 どうにも仕様のない時に自分も何とか為なければなるまいと思ひつかれる時は惨めなものである。全くどうしやうも無いからである。そして結局どうする気持にもならないではないか! くだけが遣り切れないことだから急かないことが何よりだけれど、矢張りソワソワと急かされるのでホトホト困却してしまふのだ。
 深呼吸でもして黄昏の空の模様を眺めるか、疾走する何かの横腹でも見るよりほかに仕方があるまい。慌ててみても初まらないことだから、さういふ時はなるべくポカンとして、他人の身の上を相談されてゐるやうな他処々々よそよそしい間抜面をすることである。――
 駄夫は道々案じた挙句、金三十銭は遠大なはかりごとに用ひてやれと考えを変へた。今日はこのまま家へ帰り、明日はこの金を電車賃として古い友達を訪ねてみやうと考へたのだ。それらの一人へ又暫くの厄介を頼んでみやうと思つたのである。さういふ心当りが二三人はあるのであつた。
 これを一つ仕遂げてやらうと思ひ込んだものがないので、真面目に落胆する気持にはなれない。自分の境遇が惨めであるといふ実感は殆んどなくて、何も期待がないものだから、行き語つたといふ暗い気持につくづく脅やかされるといふ事も稀だ。行く手は寧ろモヤモヤして、他人事のやうに自分の明日を客観し、委せつぱなしにしたやうな気楽さもないことはない。乞食の心境であるかも知れない。まるで肉体の一部のやうに、空気のやうな気楽さが附纏ふてゐるのであつた。


 竹藪の家では、人々はおのがじし長い間忘れてゐた自分のことを考へてみやうと思ひ、俄かに様々なことを思ひ出さうとする様子に見えた。さういふ精神の状態にあつて、人々は決してしつかりした一つのものを探し当てることは出来ない。結局遠い思ひ出をほぢくるやうに取り止めもない前後左右を瞥見して、自分の居場所さへ分らなくなるやうな心細さに襲はれてしまふ。人々は全ての力を落したやうにボンヤリして、そわそわと苦い探索を持て余してゐるのであつた。
 この状態を竹藪の家へ寄らすためには、これまでの出来事が最も高潮した一夜――(それは駄夫が系図屋を訪れて帰宅した夜であつたが――)その一夜の終曲に似た騒がしさを必要とした。そして一つの出来事が幕を下したのであつた。人々は夢の向ふに自分の国があるやうな、そしてどうやら手の届かない遠い所で、錯雑した糸のやうにそわそわした自分の意志が当もなく駆けめぐつてゐるやうな、困つた焦燥を感じ、当惑してボンヤリしてしまふ。俄かに気がついて身の周囲まわりを見廻してみると、それがみんな手探りも出来ない無色無臭の中央であつたりする。そして人々は、こんぐらがつた無数の中に、何かこの一つの物だけが必要であるし、その一つだけを突き止めてみなければならないと焦るやうな苛立たしさに襲はれるのであつた。併し駄夫は、必ずしもそのために動揺を感ずることはなかつた。後刻の感慨は兎も角として、その時は睡ぶたい欠伸を噛み殺し乍ら、ただ冷酷に全ての出来事を見過しただけであつた。
 その一日、玄也は猫の顔付をしてゐた。怒つた猫の顔付であつた。
 駄夫が帰宅して二階へ登つた時に、与里の枕頭まくらべにゐた玄也は猫の顔付をツと持ち上げて、余り唐突な激しい意志のために、瞬間クラクラと仰反のけぞるやうなハヅミをつけたが、次の時には突然駄夫の胸に顔を押し当てて――彼はどういふ風変りなすばしこい動作をして駄夫の胸まで馳せ寄つたであらう?――迸ばしるやうな叫びをあげて玄也は泣き出してゐた。そして暫くの慟哭が続いたのち、辛くもシラブルをまとめることが出来るやうになると、自分はその朝の訪問にただ侮辱だけを伯父から報はれたこと、のみならず気を喪うほど打擲されたこと、自分の人生はもう暗闇で立直る見込さへ失はれてしまつたこと等を訴へたのであつた。
 はぢめに駄夫は之は芝居かと思ふたのである。さう思はれて仕方のないほど玄也の動作は誇張されて新派めくものがあつたし、その科白は大袈裟な抑揚をつけた下手な舞台にまぎれもなかつた。併し人は斯う莫迦々々しく偽りの泪も出まい。それ故駄夫は暫くして玄也は少し頭の具合がどうかしたのではないかと思ひ、足元にやすんでゐる与里の顔を窺ふと、彼は併し別の方の壁を眺め、それはただ激しい憔悴を浮べた普通の顔付でしかなかつた。駄夫もそこで落付を取り戻し、それでは之はどういふ意味になるのであらうと思ひ乍ら、結局ただそのままに玄也を泣かせておいた。間もなく玄也は駄夫の胸から急に泣顔を振離し、部屋の中を檻のやうに歩きはぢめたのであつた。その動きは全てにリヅムを踏んでゐて矢張り新派悲劇であつたが、彼は又「俺の人生はまつくらだ!」と、その意味の同じ文句を恰も虚空へ打ち込むやうに呟くのが、矢張り芝居の格法に適つてゐた。併しそれはワザとするのではないやうであつた。とかく誇張がワザとらしく鼻につくものの、の感情は贋物でなく、無意識に誇張した表現をとるよりほかに方法を知らないのかも知れなかつた。その昔、之に似た舞台を見たのかも知れない。
「俺の未来はくらやみだ――」
 彼は尚この同じ文句を一つ覚えにして、部屋中へ填込むやうに呟き呟き、そして又、「今度といふ今度こそは真人間になるつもりだつたのに、俺が今日にも殺人を犯したつて、どうにとなれ、俺の罪ぢやあないんだから――」壁の前で立ち止り壁を甜めるほどにして一くさり科白を述べると、又振り向いて熊のやうに歩きまわるのであつた。
「君の伯父さんが地球の元締ではあるまいし、さう暗がるには当らない。ま、静かに考へ直すことだね――」
 これは駄夫の悪癖で、故意にするわけではないが自然と冷かすやうな語調を帯びて斯うなだめると、併し玄也は大真面目で、
「イヤ、俺はほかに手段がないんだ。俺は伯父さんに助けてもらうほかにうすることも知らないやくざな、だらしない人間なんだ……」
 彼は又大きく演説するやうに斯う述べて、直ぐ振り向いて又歩きはぢめた。
「俺はもう生きてゐられない……」
「ぢやあ、オダブツか」
「モミハラ!」
 玄也は絶叫したかと思うと突然一跳びに、駄夫が転げてしまふほど其の胸に縋りついて、
「俺を助けてくれ! 俺はどうしやう。俺の力になつてくれ――」
 駄夫はだらしなくゴロゴロ転げて余儀なく天井を仰ぎ、「ウムウム」と唸つてゐたが、いつたい此奴はまるで子供なのだらうか、それとも、スレッカラシの遊び人にも斯うした幼稚さは失せないものであるのかと、甚だ判断に迷つたのである。
 暫くして、駄夫は兎に角起き上らうとして、玄也の手を静かに振り放さすやうにし、起き上る気勢を見せた。そこで玄也は自分から身を引くやうにして駄夫を起き上らせたが、自分は暫く心棒をなくしたやうな拠り所ない様子をしてゐた。と、今度は急に向きを変へて与里の寝床へ身を投げて、
「ヨッちやん!――」
 彼は又子供のやうに泣きはぢめた。
「俺を助けておくれ。お前の運命も悲惨だけど、俺も惨めなんだよ――」
「いいよ、いいよ、兄さん。力を出しなさい。お互に力を出して助け合ほうね」
 与里は静かな透きとほる声でさう言つた。その顔には何の感情も見出せず、朝のやうな穏やかさのみ浮んでゐたが、一片の冗談も挿めない真面目さが駄夫を打つた。玄也の奇矯な言動には何の煩はされるところなく、純真にその嘆きのみを聞いてゐる寛大な心が見えたのである。
 そして与里は、棒ほどもない痩腕を蒲団の中から抜き出して、まるで子供をあやすやうに、静かに玄也の頭をさすりはぢめたのであつた。それは初めギゴチなく、取つて附けたもののやうに奇妙なしぐさに見えた。見てゐると、併し与里は何時までもその手を止めやうとせず静かに玄也の髪の毛を摩つてゐるし、玄也は又顔を伏せて身動きもせず安らかに泣いてゐるので、そしてそれは、もはや全く奇妙なものには見えなくなつてゐた。さうしてゐて、軈て静かな、何か甚だ落付いたものが与里の眼蓋に浮き上り、細く流れて行くのが見えた。与里は併し夜のやうにひつそりとして、その時も矢張り静かな無表情のままであつた。
 駄夫は困つて気疎い面魂をして、詮方なしに夕映えのする竹藪の景色を眺めた。夕方、竹藪は雀の書入れ時である。何百といふ雀の群が塊まり乍ら竹藪の中へ転がり落ちる。その場所は一坪ばかり、波のやうに竹藪も亦騒いでゐる。静かな夜の前触れであつた。

 その日、寝やうとする時刻になつて、又斯ういふ出来事もあつた。もう、夜はよほど更けてゐた。
「海岸へ行つてみたいと、僕はよくシミジミ思ふんだが――」
 その頃、与里はもう階下にゐたし、玄也と紅子は入れ違ひに二階で睡むる仕度をしてゐた。かなり元気は恢復したものの、まだ時々目を閉ぢて、クラクラする眩暈めまいを抑へるやうな恰好をしなければならない与里は、壁に凭れて腕組みをしてゐる駄夫に温和な眼差を向けて、斯ういふ述懐を次々と述べた。
「――もう僕の一生に海を見る機会がないやうな思ひがして淋しい。さしあたつて死ぬことを考へてゐない時でも、時々さういふ淋びしい思ひに駆られるのだ。斯んなにガツ/\と働き、惨めな生き方をして、それが何で幸福なのだと思ふよりは、もう僕の生涯に海を見る機会はないだらうといふ風に、別な抒情的な匂ひを持たせて同じ侘びしさに溺れやうとするらしい。結局、何なりともして生きてゐたいから、斯んな風に色をつけて感傷的な侘びしさに溺れやうとするのだらうね。僕のやうに死にたくない奴は――これは、ずい分強い執着だね。妄執といふ奴だらうね……」
 そして与里は、チラチラと光る薄い蒼空を思はせるやうな、やはりチラチラとした爽やかな響きをたてて、わりに愉しげに笑ふのであつた。
 少年の頃、激しい熱に苦しめられた思ひ出の中に、駄夫は頻りに海の幻を見た一日があつたやうに思ひ出された。水は人の心を広く安らかにするものらしい。水は寛大で又豊かで、全ての憧れや全ての疲れや、果しない彷徨に蒼ざめて航路を見失ふた心の帰る処であるのだらうか。水は一つの故里であるかも知れない。水は悠々として永遠に流れ、永遠に帰り――その渺々びょうびょうたる水面に静かな陰を落すであらう漂泊の雲と共に、我々に永遠を感じさせる貴重な一つであるかも知れない。その果にもはや国は無いやうな心細さの湧いてくるとき、周囲には無限の無のみ感ぜられて身に触れる何の固体も想像を許さぬ絶望のとき、併し水はそれ本来の性質として常に温い愛情を人に与へ、他の何物に由つても医し難い冷酷な孤独を慰めて呉れるであらう。人はその苦しみの日に、洋々たる水を、又潺湲せんかんたる流れを眺めることに由つて和やかな休止にひたり得るであらう。
 与里は間もなく目を閉ぢた。そしてその目を開けやうとせずに、「よく晴れた日の海を見たいと思つてゐるが……」――彼はもう半ば睡つてゐるらしい、抑揚もないゴモゴモとした呟きを洩した。駄夫は壁に凭れて腕を組み、さて与里の顔や汚点しみの浮いた障子等を眺め廻して、遠い場所に騒いでゐる在るか無いかの物思ひに捲込まれたいと思つた。決して耳には聞えない夜のざわめきが聞えてゐる。
 斯うしてゐて、駄夫は併し幽かな呟きを聞いた。それはゴトゴトとして湯のたぎるに似た音であつたが、部屋の何処から、或ひは戸外の何処からか聞えてくるやうに考へることが出来た。併しそれは聞き馴れた物音でもあつたので、直ちに老婆の祈りであると思ひ当てることができた。老婆は已に臥所にゐて、俯伏した顔を枕に圧し当てたまま、その全身も丁度其儘すだく昆虫であるやうに低い呟きを洩してゐた。
 この老婦人は基督キリスト教の信者であつた。とは言へ、此頃は教会へ通ふことも絶えてなく、日常も神の名を会話にまじへることさへなかつた。まるで宗教を忘れたやうな晩年であるが、中年の頃は家族の誰にも秘密にして教会へ通ふやうになつたといふ、その一頃は熱烈な狂信者であつたらしい。近年はただ稀に、わけの分らぬ独り言を呟くやうに、それも甚だ時ならぬ時に、祈りを呟くことがあつた。熱もなく、まるで心もないやうな冷淡さで、併し祈りはかなり長く続くこともあるのであつた。ある時は又数秒にしてふと止むことも稀ではなかつた。
 結局は遠い車輪の音のやうで、言葉らしい文句は殆んど耳に這入りはしない。与里はもう本当に寝たのであらうか?
 総江は自分の寝床の上へ坐り、まだ縫物の手を動かしてゐたが、その時ふと手を休め、仕事のために幾らか上気して淡くほてつた額をあげて、次のやうに無意味な言葉を駄夫に洩した。
「――もう又梅雨だねえ。それから又暑い季節が来るし……」
「さうだね。もう軈て六月が来るね――」」
「このうちは、それでも夏はわりかた涼しくて凌ぎいいよ。畑の風が良く通るからね。あたいは梅雨が大嫌ひさ。いつまでも今の陽気だと、貧乏はしても本当に助かるんだけど……」
 総江は子供のやうな笑ひを耀やかせて暫くのうち一つ所を視凝めてゐたが、軈て再び目を下して仕事を続けはぢめた。そして又幾針もせぬうちにつと手を休めて、膝もとに寝んでゐる多次郎の蒲団を掛け直したりした。広い田園に夜が落ちると、ひつそりした沈黙の、音のない騒がしさがきこえるのであつた。それを我々は夜の何処から響く音とも答へられない。ただ我々は、苦痛も喜びも憎悪も、それらを決して区別することなしに、全てを願ひたい寛大な気持になるのであつた。
 此家ここは広い畑の中に孤立した二軒長屋で、壁一重向ふ側には隣家も続いてゐるのだが、長いこと借りがなくて畳には古い埃がつもつてゐる。長いこと隣家の物音はないのであつた。いつぞや、空家の孤独に浸り乍ら静かな昼寝を貪らうと思ひ、埃の中へ踏み込んでみたのであるが、空洞うつろな部屋々々に立ち籠めた重い澱みは人の生気とそぐはない廃墟のやうな過去の死臭に満ちてゐて、睡むる気持にはなれなかつた。もう二年越空家のままでゐるのだといふ。畳は何となく浮腫むくんでゐるやうな不気味さで、抜く足にべと/\と抜き残るやうであつた。駄夫は二階へ昇つてきて、媒けた壁へ貼り残された一枚の半紙を発見した。「風薫る春を名残の一夜かな。引越の前夜」と書きしるしてあつた。多感な学生でも此部屋にゐて、見も知らない次の住人を読者に予想し乍ら詩藻を傾けたものか。駄夫はそれを引剥がすには多少残酷な気持もしたが、傷めないやうに剥ぎ取つて持ち帰つた。与里は怪訝な顔をして紙を眺めてゐた。
「斯んなものを書きさうな人はたしか住んでゐなかつたと思ふが。……隣には鼻髯を蓄へた中年の人物が奥さんと二人で住んでゐてね、斯んなものを作りさうな人達ぢやなかつたね――」
「さうさう。あの人は大変お髯を大切にしてゐたよ。立派な体格で陸軍大将のやうだつたね。無口で挨拶もろくすつぽ出来ないほどはにかみやだつたけど……」
 併し又暫くしてから、ああした人柄は却つて案外斯ういふことを遂りがちなセンチメンタルなところを持つてゐるのかも知れないと一同は噂した。「さう言はれてみると思ひ当るところもあるやうだね。どうも滑稽で可笑しくなるが、成程、これは案外鼻髯の仕業に違ひない」と与里も可笑しがつた。その鼻髯は大きな建物に働くエレベエタアの運転手であつたさうだ。薄暗い四角な箱に乗つて昇降する其人物は、鼻髯そのもののやうに厳粛で滅多に笑ふこともなかつたであらう。それは明白な滑稽味を帯びて、駄夫の目に歴々と映るやうであつた。
「近頃はエレベエタアも大概女の運転手に代つたから、鼻髯は首を切られたに相違ない」
 と駄夫もふざけて、一同は大いに笑ひ出したりした。
 人は見知らない一人の人(それは肉体をさへ具へない数字のやうなものであるのに――)それも永遠に相知ることは不可能である一人の人を対象として、詩を残したり、その存在を記念したい欲望にかられたりする。愚かな儚ないことであるが、ひとときは、それはそれで心のなごむ時があらう。その鼻髯は、住みなれたエレベエタアに秀れた一句の貼り残せぬことを千歳の恨みとしたかも知れない。
 上の物音も絶えてしまつた。駄夫は音のしないやうに立ち上り、自分も寝るために二階へ昇つた。
 併し駄夫の予想に反して二人の男女はまだ寝まずにゐたばかりでなく、寝床の上へ向き合ひに坐り、頻りに何事か言ひ争つてゐた。
 彼等は出来るだけ声を殺してゐたので、しぜん顔の表情も圧し潰されてめんのやうに白々しく見えたが、それだけに凄味のある、ひきつつた顔を向け合せてゐた。彼等は駄夫の登場にも振向く余裕は持たなかつたし、駄夫の登場を意識して多少の居住ひを取繕ふほどわづかの羞恥も持つ気持にはならないやうであつた。
 駄夫はひたすら休息のみを欲してゐたので、わざと素知らぬふりをして直ぐさま蒲団を被つた。そして自分の出現によつて二人の争論も今宵はこれなり終るであらうと予想した。そして自分は睡むる瞬間のパノラマに静かな海に暮れかかる大きな黄昏を覗きたいと欲した。併し全ては誤算であつた。
 間もなく駄夫は、寧ろ次第に強められる叫喚をきかなければならなかつた。そして予想とは反対に、結局自分の登場によつてもはや何物をも隠す必要のない彼等は、あらゆる狂態をつくして争ふことになるであらうと理解しなければならなかつた。そして実際数分のうちに、直ぐ頭の近くにまで乱れた激しい跫音を聞くやうになつた。時々迸しるやうな泪声も聞えたが、概して彼等は息を殺して掴み合つてゐるやうであつた。
 駄夫は決して留めやうとする気持にはならなかつた。願ふところは、阿呆のやうにだらしなく睡りたい一念のみであつた。そして彼は紛れもなく、彼自身は遠い船路のマドロスのやうに、静かな海を眺めはぢめてゐた。そうして身の周囲まわりが急にひつそりと静まつたことを暫くそれとは訝ぶからなかつた。いや、無論気附いてはゐたであらうが、強ひて訝ぶかふ気持にはなれなかつた。甚だ物臭な睡魔がもう彼に襲ひかかつてゐたから。そして暫く快い静寂に浸つてのち、さつき階段を駈け降りた踏み抜くやうな跫音や、蹴仆けたおすやうに開けられた戸、下の夜道を走つてゆく羽搏きのやうな跫音等、一まとめに思ひ出してゐた。
 この荒々しい出来事が再び静かな夜に呑まれて、家にも道にも厳しい静寂が戻つてくると、やがて下では戸口へソッと立ち下りて戸外を窺ふ人の気配がした。それは勿論総江であらう。道の上まで下りたやうだが、其処には併し夜道のほかに何事もなかつたやうだ。総江は部屋へ戻つてきて、それから、下ではヒソヒソとざわめく物音が湧きはぢめた。与里も老婆も目を覚してゐるらしい。すると今度は階段を昇る跫音がして、二階の唐紙が静かに少し開けられたが、
「駄夫さん、どうしたの? いつたい?……」
「…………」
「もうねたの? 駄夫さん?……」
 総江は暫くその場所に佇んでゐた様子であるが、諦めて降りて行つた。
「あの人、もうねてしまつたよ」そして又、
「呑気だつたらありやしないよ、あの人は……」と笑ふ声がきこえた。
 すると又、ひそひそとざわめく音が下に起つた。それも又ふつつりと潰れてしまつて、本当に物憂い夜が戻つてきた。そして丁度その頃を境にして、駄夫は深い睡眠に落ちやうとしてゐた。

 翌日駄夫が目を覚した時分には(その日もポカ/\した好天気で――)玄也はとつくに外出したあとであつた。
 あの噂以来紅子は帰らなかつたといふ。玄也は一人で戻つてきて、それからの二三時間はねむられね様子であつたが、今朝は昨夜の睡眠不足も手伝つてよけい変な顔付をしてゐたさうである。ひどい不気嫌で「おい、おかみさん、朝飯を早くたのむよ」と横柄なことを言つて噛みつくやうな調子であつたが、至極苛々して出掛けたさうだ。紅子を探しに出掛けたらしい。
「ほんとうに変な具合で、なんだか皆んな莫迦々々しいやうだね……」
 玄也夫妻の噂をはぢめると、総江はどうしても包みきれずに空騒ぎのやうなハシャギやうをして、大変坐りの不確かな落付かない風をし乍ら、喋つたり笑つたり又間の抜けた顔をしたり、といふ有様であつた。
「勿論先方も大莫迦だらうけどさ、何んだか此方も莫迦にされてゐるやうだし、又ほんとに莫迦のやうな気持もして変だねえ。斯うピシャリと障子を閉めて向ふへ誰かに行つちまはれたやうな、なんだか変な具合さ」
 他人の不幸に斯う好気嫌では済まないといふ反省も見えたが、如何にも痛快で肩の下りた心持を隠しきれずにゐるやうであつた。妙にハシャぎすぎて、ふと気が附いて控えてみたりするものの、そのうちには控えることも臆劫になり、殊更てれかくしに空騒ぎの輪をかけたりした。そして、
「だいじな兄弟の不幸な出来事ですからね。お前さんは赤の他人だからそれは嬉しいことでせうけど、与里の手前少しは控えるものですよ」
 と老婆に鋭い皮肉を浴せられたりした。そのくせ老婆は又老婆で、例の表情の死んだ顔に神経質な眉だけを険しく寄せて、
「厭らしい女ねえ。あれは淫売よ。あんな女にひつかかる玄也も本当に見込のないやくざ者ねえ。あたしの子供つたら厭な奴ばかり。目も当てられやしない……」
 と憎たらしさうに呟いてゐたが、急に駄夫の方を向いて、「ねえモミハラさん、四年前に大変コレラが流行りましたわ。ねえあたしあの時お魚を食べればよかつた――」と奇妙なことを言つたりしてゐる。如何にも苛々して、何物にでも絡み付きさうな鋭い神経をむき出しにしてゐた。総江は気持がハシャいでゐるので却つて良く控え、それに絡まれることはなかつたが、与里はその朝不気嫌であつた。そして老婆と劇しく言ひ争ひ、この朝も泣きほろめいて仕事に出掛けて行つた。
 その夜も玄也は一人で帰つて来た。昨日来の血走つた目付が今日はふてぶてしく坐つて、殊に苛々した様子であつた。人にも余り話しかけず、昨日のやうに芝居もどきで歩き廻りもせず、下の六畳に腕を組んで坐つてゐたが、時々噛んで吐き棄てるやうに人々の会話へ皮肉な冗談をまぜつ返してみたり、冷やかすやうに「ふん」と言つて肩を聳やかし乍らソッポを向いたりして、自分は会話の中へ溶けやうとしなかつた。そして時々人々の話の腰を折るやうに、「おかみさん、お茶をくんな」と大きなことを言つたりして威張り返つてゐた。
「お前もいい加減下手な小説は見切をつけて腰弁にでもなんな。どうせ何をやつたつて、お前ぢやあ埒のあくことはあるまいけど……」
 と話の途中の駄夫に向つていきなり憎々しげな皮肉を浴せてゐるかと思ふと、急に又、
「おい、一杯呑みに行こうか。お前はいい奴だよ」
 とお世辞を使つて、「うるさい奴だ、勝手に一人で呑んでこい」と怒鳴られると、「ぢやあ行つてくる――」と一応は立ち上りかけたが、また何時の間にやら坐り込んで人の会話へ時たま皮肉を吐いてゐた。
 与里は夜更けて帰宅した。もとより本服はしてゐないが、人々が考へてゐたほど劇しい疲労もしてゐなかつた。勿論元気はなかつたので、与里はあまり口数をききたがらずに直ぐと寝床へもぐり込んだ。与里が帰ると玄也の様子は又変つた。
 人々は蒲団を敷いたりするために急に会話の口を噤んで立ち上らねばならなかつたので、ざわ/\した落付のない空気がだしぬけに流れ込んできた。すると玄也も立ち上つて、その時から急にそわ/\しはぢめたのであつた。
「俺のワイフは何処へ行つたか分らなくなつたよ――」
 与里が寝てしまふと、玄也はその枕もとにまだ坐り忘れて佇んだまま、急に力のない声で訴へるやうに呟いた。
「今日一日探したの?……」
「うん。心当りには何処にも手掛りがないんだ――」
 そして急にショボ/\したかと思ふと、又だしぬけに与里の蒲団へ走つて行つて、その胸に当る場所へ顔を伏せて大きな声で泣きはぢめた。全ては又芝居もどきであつた。
「俺は全く破滅だよ。ヨッちやん。俺はいよいよどうしていいか分らなくなつた。俺を助けておくれよ。俺はまつくらだ……」
 そしてヒイヒイといふ響をたてて泣き噎び乍ら身体をガク/\と波打たせた。
「俺は世界で一番愛してゐた女にも棄てられたんだ……」
「兄さん、これからだよ。元気を出しなさい……」
 与里は大分時が過ぎてから、又蒲団から片腕を差し抜いて玄也の背中をさすりはぢめた。そして、玄也の耳に口を当てるやうにして、静かな声で二言三言慰めの言葉を囁いた。それはまるで子守唄のやうであつた。
 駄夫はひとり二階へ昇つた。
 それから余程過ぎて後、玄也は泣き疲れたのか悄然として昇つてきたが、まだ目を開いてゐる駄夫を認めて、
「アアア、畜生! 俺はいよいよ参つた……」
 駄夫に向つて言ふともつかず、独り言ともつかず呟いてゐたが、急に気付いて畳の上へペッタリと坐つて、俯向き乍ら考へ込んでゐた。
「あん畜生め! 早く売り飛ばしでもして呉れりあ良かつた――」
 すると又
「俺ア今度こそ人間並みの生活がしたいと思つて意気込んでゐたんだのに。何から何までみんな当外れで滅茶々々になつてしまつた。もうみんなブッ壊されて、どうにもならねえ……」
 併し駄夫はもう先刻さっきから目を瞑り相手にならうとしないので、玄也は軈て立ち上つて自分の寝床を敷いた。そして、それからも時々、独り言を洩してゐた。


 それから数日して、駄夫は愈々竹藪の家を去ることになつた。横浜の、広々と港の見える山上に住む一人の友が、暫く彼を泊めるであらう約束をしたので。
 軈て午に近い頃、出勤の与里と二人、麗かな光を浴びて此の家に別れを告げた。竹藪はひつそりとして耀やきに満ち、その静寂の中に、軈て訪れやうとする夏の感覚が新鮮な息づきを忍ばせてゐた。家を出でて振り仰ぐと、この陰鬱な長屋自身も亦耀やきの中にあつた。
「本当に駄夫さんは行くのかねえ……」
 総江は一寸淋しさうな様子をしてみたが、すぐ気嫌の良い笑ひを湛え乍ら、道の上まで見送りに下りて来た。そして、麗かな光に目を眩ませて顔を顰め乍ら、このやうに晴れ渡る日、広々と海を見晴らす横浜はどんなに壮快であらうかと駄夫を羨しがつた。老婆も亦総江と同じ処まで見送りに下りてきて、
「本当に長い間行届きませんことで――」
 と丁重に挨拶を述べた。この人に再会の機会は最早あるまいと、その思ひつき自身が一つの爽やかな風景のやうに、駄夫の顔を静かに流れた。玄也はその朝も早くから外出して、この場所にはゐなかつた。
 丁度二ヶ月――かれこれと一と春に近い間、ここに過したわけであつた。
「見給へ。麦が、もうあんなに延びきつてゐる……」
 そして夥しい昆虫が、道の上にも、葉の表にも、耀やいてゐた。
 鬱蒼とした欅の下から街の方角へ曲つて間もない所では、そこら一面の藪が百坪ばかり拓かれて、ヨイトマケが働きに来てゐた。この辺では、不吉の樹と言はれる無花果が、何本となく此の藪に散在し、バサバサとした葉に大きな光線を向けて、深い陰を落してゐた。夏も間近い田園の風趣は、静かな感情に溢れて見えるのであつた。
「ヨイトマケは不思議に懐しい思ひをそそるものだね。あれは甚だ家庭的な勤労だよ。少うし此処で休んで眺めて行かないか?……」
 与里は駄夫を促して、路傍の雑草の上へ腰を下した。長々と折れ曲つた膝を抱くやうにし、背中をまるめ、首を突き延して爽やかな空を眺めてゐる。それは静かに笛を吹く人々の顔であつた。さうして、何もせず、長い沈黙のうちに緩やかな昼が動いて行つた。
 ヨイトマケの女達は皆それぞれに訛があつて、其唄は良く聞きとれない。時々二人を読み込むと見えて、唄の合ひ間に、円く囲んだ全ての顔が、笑ひ乍ら彼等の方を振向く。単調な唄が続いてゐる間は、全ての綱は物憂げにたるんで、蒼空の中で遊ぶやうに思はれた。そして短い一瞬間だけ、キリ/\と引き張られる全ての綱綱によつて、ギゴチない様をした心棒はわりに壮快に昇つて行く。白日の下に、全ては至極悠長であつた。
「この辺も、だん/\街になるね――」
 彼等は歩き出した。駄夫は手製の杖を打ち振つてゐた。それは、静かな道を通る時には、それ自身が彼の身体であるやうに、生々と思索してゐるやうであつた。
「兄さんも愈々発狂するんぢやないかね。野越家の最後の発狂だね。これで丁度、僕の家族は完全に気違ひ揃ひになるわけだよ。愛嬌のある一家族だね」
「あの人は大丈夫だと僕は思ふが――」
「危いね。人相もすつかり変つてゐるし、この四五日は動作も始終そわそわして、身体全体が落付かないやうだから。僕自身、又、いつ再発するか知れやしないし……」
 与里はクツ/\と軋む笑ひを鳴らした。それは辺りの静かな道と良く調和して、真昼の深い睡むたさを強めるやうに感じられた。
 道は次第に賑やかな街へ這入つて行つた。彼等は与里の勤めてゐる活動小屋の前で別れることに約束してゐた。其処にはまだ見世物の景色らしい特別な雑沓は見られなくて、ただ薄汚い数本ののぼりだけが立ち並んでゐた。
「又、訪ねてくれたまへ」
 別れる場所へ来て、与里は駄夫の手を握り、さう言つた。近頃よく泣ける与里は、もはや泪をためてゐた。併し言葉は蒼空のやうに爽やかで元気が良かつた。
「ああ。いづれ又、きつと訪ねるよ」
「しかしね――」
 与里は静かな笑顔を作つて、
「併しね。君にもう会へないやうな気がするよ。いや、君にもう再会の機会はあるまいと無理に思ひ込もうと僕はするやうだ。全く無意識のうちに、僕はさう信じやうとしてゐるのだね。僕はさういふ風に自分をわざと淋しがらせ乍ら、その寂しさによつて、さうして、その淋しさを慰めることによつて、生き甲斐を見付け出さうとするらしい。つまり自分を淋しがらせることに由つて、一層強く生きる執着を燃やさうとするらしいね。では――」
 与里は、もう一度駄夫の手を強く握つて、
「では、もう君に会へないね……」
「ああ、君の健康を祈る――」
 互に手を放し合ふと、与里は急にカラカラと爽やかな音を鳴らして哄笑し乍ら、
「君。きつと又訪ねて来て呉れ給へね」
「きつと!」
 与里は窶れた笑顔と共に簡単な一礼を残し、直ぐ振向いてスタスタと、看板や幟等のゴタゴタした小屋の方へ歩き去つた。
 駄夫も亦自分の道へ向き直り、杖を緩やかに振り廻し乍ら歩いて行つた。余程歩いてのち、もう一度念のために振向いてみたら、矢張り与里も、薄汚い幟のヒラヒラする下で、遠い雲でも眺めるやうに、駄夫の姿を見送つてゐた。
 駄夫が高々と杖を振り上げたら、その人像も痩せた腕を差し上げて、帽子を静かに、左右に打ち振つてゐた。





底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「黒谷村」
   1935(昭和10)年6月25日
初出:一〜三「文科 第一輯」春陽堂
   1931(昭和6)年10月1日発行
   四「文科 第二輯」春陽堂
   1931(昭和6)年11月1日発行
   五「文科 第三輯」春陽堂
   1931(昭和6)年12月25日発行
   六「文科 第四輯」春陽堂
   1932(昭和7)年3月3日発行
   七〜九「黒谷村」
   1935(昭和10)年6月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月27日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード