巻頭随筆
坂口安吾
山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげて国難に赴くときになつた。
飛行機が足りなければ、どんな犠牲を忍んでも飛行機をつくらねばならぬ。船が足りなければ船を、戦車が足りなければ戦車を、文句はぬきだ。国亡びれば我ら又亡びる時、すべてを戦ひにささげつくすがよい。学校はそのまま工場としてもよく、学生はそのまま職工となるも不可あらんや。僕もそのときはいさぎよく筆をすてハンマーを握るつもりである。
戦時体制の文学と云ふ人もあるが、人各説あり、僕の考へは又達つて、僕自身だけの考へで云へば、僕は戦時体制の文学といふものを考へられぬ。宣伝とか戦意振興といふことは小説家の筆をまつまでもなく、小説家必ずしも適任ではない。百万の空文ありとも何の役にか立たんや。ラヂオ・ニュースの始まる前の軍艦マーチや敵は幾万がはるかに強力なる国民総力振興の具であり、更に又、軍艦マーチ幾度鳴るとも実際の戦果なければ如何にせん。実際の戦果ほど偉大なる宣伝力はなく、又、これのみが決戦の鍵だ。飛行機があれば戦争に勝つ。それならば、ただガムシャラに飛行機をつくれ。全てを犠牲に飛行機をつくれ。さうして実際の戦果をあげる。万億の文章も何の力あらんや。ただ、戦果、それのみが勝つ道、全部である。
飛行機があれば勝つ、さうきまつたら、盲滅法、みんなで飛行機をつくらうぢやないか。そんなとき、僕は筆を執るよりもハンマーをふる方がいいと思ふ。その代り、僕が筆を握つてゐる限り、僕は悠々閑々たる余裕の文学を書いてゐたい。文学の戦時体制は無力、矛盾しやしないか。
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