以前新井白石の「西洋紀聞」によつてシドチの潜入に就て小説を書いたとき、屋久島はどんな島かしらと考へた。
成程白石の記事によつてもシドチが最初に出会つた日本人は
歴史と現実といふものには、かういふ距りがあることを痛感した。「西洋紀聞」を読んだ
戦国時代の英雄に就ては之を記した史料があるが、大衆は何事を考へてゐたか、否、英雄達すら史料の記事を外れた場所で何事を考へ何事を為してゐたか、全てこれ屋久島の神代杉で、創作を是とする外に法はない。
現代も亦歴史の一つで、我々は現代に就て決して万能の鏡ではなく、我々の周辺には屋久島の神代杉が無数にあり、詮ずれば、一個のドグマを信ずる外に法がない。さりとて、屋久島へ旅行して神代杉の密林を突きとめることは、文学の仕事ではないのだ。戦争といふ現実が如何程強烈であつても、それを知ることが文学ではなく、文学は個性的なものであり、常に現実の創造であることに変りはないと思はれる。屋久島が神代杉の密林でなくても構はないことがありうるのである。