安吾の新日本地理

伊達政宗の城へ乗込む――仙台の巻――

坂口安吾




 仙台は伊達政宗のひらいた城下町。その時までは原野であったそうだ。
 この城は天嶮だね。しかし眼下に平野を見下し、水運には恵まれないが、陸路の要地ではある。政宗が仙台を開府したのは、大坂や江戸の開府よりも後のことだ。だが、大坂や江戸にくらべて、地点の選び方が田舎豪傑式であり、近代性が低いのである。
 秀吉は主として信長の独創を実践した人で、彼自身の、独創というものはあまりないが、大阪の地に立って四方を見ると、ここに居城を選んだ彼の識見の凡庸ならざることがハッキリするね。海陸ともに交通の要点で、これにまさるいかなる要点も有り得ない。ビワ湖に面した安土城(信長晩年の設計)と大阪の地とでは、雲泥の差があるね。安土の地はなお戦国的な要点であるが、大阪は近代の首府に通じる要点だ。
 江戸の選定も家康の智恵ではなくて秀吉のすすめであったと云われている。秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、石垣山の頂上へ家康を案内して眼下に霞む関東平野を指し、
「小田原平定後は関八州をあなたに進ぜるが、あなたは居城をどこに定めるお考えか」
「北条氏同様、まア、小田原を居城に致す考えです」
「イヤイヤ。背後に箱根の天嶮をひかえた小田原は戦争向きかも知れないが、すでに時世の城ではござらんな。二十里東方に江戸という太田道灌築城の地がござる。入海に面し、広大な沃野の中央に位しております。また沃野の奥深くから流れてくる河川の便にも恵まれております。四周に豊かな生産地をもち、水陸の交通輸送の便に恵まれている江戸の地ほど、新時代の城下に適したものはござらん。ぜひここを居城となさい」
 と、きわめて誠意ある忠告をしたという話が残っている。
 政宗も実は石巻の日和山に築城したかったのだという話がある。なるほど、ここは仙台よりも水陸輸送の便があり、みのり豊かな北上平野を背後にひかえて、当時に於ける物産と交通の中心地点たるに適したところである。政宗の考えでは、意地のわるい狸オヤジのことだから、たぶん第一候補地を否決するだろうと思い、第二候補の仙台青葉山を第一候補にあげて築城を願いでたら、意外にもアッサリと第一候補を許可されたので、志とちがって、仙台を城下にせざるを得なかったという説がある。真偽は当てにならないが、北上平野は政宗が家臣の領地にも与えなかった直轄の穀倉地帯であり、その産物を運ぶために大運河をほって北上川の河口を石巻にうつしたところを見ると、石巻を物産と運輸の要点と見ていたことは頷けるのである。政宗も中央の政治家や政策に接して次第に大人になった人だから、後年に至って大坂江戸に匹敵する東北の中心地が石巻だと思いついたかも知れないが、仙台築城当時(一六〇〇年)はまだ田舎豪傑の域をでず、精一パイ勘考して、仙台青葉山を選んだんじゃないかね。時まさに関ヶ原の年であり、ドサクサまぎれに火事場泥棒しようというコンタンでねりかたまっている政宗であった。実際、関ヶ原のとき、彼は上杉を牽制するため東北を動かなかったが、ドサクサまぎれに一もうけしようとしてそのコンタンを家康に憎まれ、戦功に二十万石もらう筈の約束をフイにしているのである。
 こういう田舎豪傑が選んだ城下としては、それ相応の条件がそろっているね。仙台は山と平野の接点だ。眼下に平野を見下して、青葉山は天嶮だが、天嶮すぎらア。前面には広瀬川が城の三方をまわって流れ、後は渓谷をへだてて嶮しい山つづきである。青葉山そのものは河床からまッすぐそびえたつ岩山で、石垣でくみたてる必要がない。テッペンまで登るのに私は大苦労させられましたよ。私の案内者は山登りの愛好者だが、彼らも息を切らしていたほどだから、私はムシブロの中にいるように流汗リンリ、フラフラである。築城まもなく大坂の陣も終って天下に平和到来し、政宗も本丸の所在地が高い山のテッペンすぎるのを新発見してウンザリしたらしいね。築城の第一候補地は石巻の日和山であったなどと云いだしたのは、それから後のことだろう。時世に合せて、気がつきもしたし、前から気がついていたように、言いふらしたくもなったような気がするね。いつも後手後手と気がついた男で、それで生涯冷汗をかいていたのが政宗さ。オレ一代限りでテッペンの本丸をやめて、フモトの低いところへうつせ、と云いのこして死んだそうだ。そこで二代目から本当にフモトへ本丸をうつしたよ。拙者だけが登り道に苦労したわけではなかったのさ。すでに城を造った当人が登り降りにウンザリしていたのだ。ところがこのテッペンの本丸跡に護国神社が出来ていたね。参拝の子供たちがさぞ悩まされたことだろうよ。軍人だの役人は罪なことをするものさ。三百五十年前の片目の田舎豪傑だけの智恵も分別もないのだね。
 彼が生れて育った少年時代は、信長が天下を席捲し威名カクカクたる時代であった。信長の威風や逸話は事ごとに馬よりも速く奥州の山奥まで届いていたのだろう。彼の戦争ぶりやコンタンを見ると、信長の逸話的な方法に甚大な影響をうけて育ったコンセキがあるね。二十四になってもザンギリ髪の異形をしていたところなど、少年時代の信長をホーフツさせる珍話だろう。二十四にもなったら、もうちょッと威儀を正して然るべきだが、そこが田舎豪傑たるところだ。もっとも幼児の時に天然痘で片目がつぶれたそうだ。ヘタに威儀をはって片目のニラミがヤブニラミに見えては困るだろうから、ザンギリの異形によって片目をひきたてるコンタンだったかも知れないな。そういう化粧法的な心得や戦略にはヌカリのない田舎豪傑であった。
 時代のせいではあるにしても、信長に似せようという心掛けは上出来であったが、同じように信長の方法をふんだ秀吉が、新時代に即応して変化すべきことを心得ていたに反して、政宗には、それがない。バカの一ツ覚えである。ここが田舎豪傑たる彼の宿命のところであった。信長に学ぶならばその精神、その思想の原則をなすものを見習うべきである。信長は彼の生きた時代に於てはあのように行った。しかし新しい時代に彼ありせば、それに即応して別のように行ったであろう。その理が田舎豪傑には分らない。それが分れば田舎豪傑ではないのである。
 田舎豪傑にもウヌボレや抱負はある。むしろ有りすぎて困るのが田舎豪傑のウヌボレと抱負なのかも知れない。彼はいつも時代におくれていた。彼の経綸けいりんは常に後手をふんだ。秀吉に小田原石垣山の陣屋へよびつけられて油をしぼられた二十四のザンギリ髪の異形児は、はじめて天下の大を身にしみて味い、とても関白だの将軍だのというものにはなれないと悟ったらしい。せめて平泉の藤原氏のように奥州だけでも征服してその親分に、ただし平泉のように身を亡さずに子孫代々そうありたい、というような心得になったようだ。彼が生前に松島に瑞巌寺をたて自分の廟所に予定したのも、平泉的でもあるし、信長の総見寺という御手本もある。しかし、瑞巌寺は二級品ですよ。方丈の屋根だけは美しいと思ったが、襖絵なんかは悲しいね。秀吉の遺した桃山芸術、智積院の襖絵だの三十三間堂の太閤塀などという豪放ケンランたるものの片鱗すらも見られない。今は失われた秀吉の多くの建造物は、残った部分品から推察しても壮大ケンランたるものであったことが推察できる。そのようなケンラン豪快なものは、ここには見られない。中尊寺や失われた毛越寺の一流品的な性格も意図も見ることができないのである。彼は関ヶ原の時に至っても、ドサクサまぎれの火事ドロ根性を忘れなかった。彼と好一対をなすのは九州福岡の黒田如水で、西と東でドサクサ狙いのいずれ劣らぬ田舎豪傑。つとに中央に接し、中央の軍略政略に参与したこともあるだけに、如水の方がアカ抜けているが、ドサクサの一旗組というものは所詮その根性の本質に於て泥くさく、そのドサクサを狙うや概ね見透しをあやまる宿命であるらしい。切支丹キリシタンを利用するコンタンに於ても、二人は同じように見透しをあやまった。如水は窮余の策として、切支丹信者であると同時に、禅宗に帰依し、禅寺をたてて高僧をむかえるという前代未聞のことをやって秀吉や家康をごまかし、その死するや、切支丹と禅寺と両方に葬式が行われて、墓も二ツできるという妙なことになった。昨年だったか、切支丹の墓の方が発掘されて、そこからは何も出なかったということである。さもあるべきことである。如水は宗門に殉ずるような殊勝な人物ではない。その子の長政も同様で、万全を期してはかっているのは保身だけだ。他日幕府によって取りこわされ発掘されるかも知れない切支丹の墓に遺骨や遺品の一部でも渡すようなことが万々あろうとは考えられないのである。
 政宗の支倉はせくら六右衛門の海外派遣も見透しの大失敗であった。だいたいに彼は海外事情について研究したことがないようだ。これがまた田舎豪傑たるところである。家康が切支丹を禁教するまでには、当時としては出来うる限りの手をつくして海外事情を研究しているのである。ウイリアム・アダムスについて幾何学の初歩の手ほどきを受けたというのは、どういうコンタンだか分らないが、海外研究の一助にはなったであろう。多くの面から海外事情をコクメイに調べて、切支丹を禁教しても新教国のオランダと宗教ぬきで貿易できる見究めがハッキリしてのち切支丹を国禁した。新教国と宗教ぬきで貿易できる見究めが立たなければ、にわかに切支丹を国禁しなかったであろう。政宗にはそのような用意や研究は何もなかったようだ。彼は当時のオランダと旧教国が国交断絶、敵対関係にある事情についても正しい認識がなかった。そしてその手落ちによって、つまり彼がエスパニヤ国王に提出した条件中にオランダとの断交を確約する文章がなかったために、彼の最も希望する新エスパニヤ(今のメキシコ)との通商は拒否せられてしまった。支倉がまた輪をかけた能なしで、アチラの事情に即応して主人の手落ちを自分の一存で修正し主人の熱望する通商条約をまとめるだけのユーズーがきかなかった。
 政宗の本心は宗教をダシに新エスパニヤと貿易したいことだった。一方、紹介役のソテロは、日本の布教がイエズス会に牛耳られているのが不満で、自己の所属するフランシスコ会にも司教をおかせ、自分が司教になりたい考えであった。両者の希望は食い違っているが、田舎策師の政宗も、日本渡来のバテレン中で最大の策師たるソテロも、それは充分心得ていたであろう。要するに両者の希望は別々でも、相助け合って両者の希望を実現すれば足るのである。幕府がソテロの口車にのって動く見込みがないからソテロとしては田舎豪傑の政宗でやってみる以外に手がなかったかも知れないが、そうカンタンに外国がだませるツモリの政宗が、つまり田舎豪傑であったのである。
 彼の本心は、支倉一行が出発しないうちから、すでにイエズス会に見破られていた。司教のセルケイラはイエズス会総長に宛てて、政宗の本心はヤソ教ではなくて、通商であり、彼の領地へフランシスコ会の僧が続々くるようになると、家康の怒りをかって政宗は滅亡するだろう、と手紙している。一行の出発前のことである。この予言はまさに図星であったろう。後手専門の田舎豪傑は二三年たってそれにようやく思い当ったのである。家康が長い年月苦心した日本統治対切支丹、日本統治対海外貿易という難問題は、その結論が家康の断となって表明されるまで、田舎豪傑には分らなかったのである。しかしバテレンたちには分っていた。家康のみならず、信長、秀吉、家康三代にわたる日本統治者に共通の悩みであったのだ。秀吉は切支丹の布教を外国の日本侵略の第一段階と速断したが、保守家の家康は自身に侵略精神が稀薄であるから布教を侵略と速断するような軽率なところはなかった。彼は実際よく外国事情を調べたのである。その結論として、徳川家の日本統治を万代不易たらしむるには、鎖国がなによりカンタンで、心配のタネがないにきまってるさ。万里の海をへだてた外国が、日本へ千人の兵隊を無事に辿りつかせるだけでも容易でないのに、侵略などということを当時としては当面の大事として考える必要はなかったろうね。鎖国したって外国の兵隊の侵略がありうることに変りはなかろう。むしろ当面の大事は諸侯の自由貿易で、強力な海外文明が諸侯に利用される方が保守家たる家康には頭痛のタネであったにきまっている。政宗は家康が内々何より頭痛のタネになやんでることを怖れげもなく大々的にやろうというのだから、この田舎豪傑の眼力のとどかぬことは論外なのである。いつもながら後で気がついて大狼狽、大冷汗をながすのである。
 政宗の計略は日本在住のバテレンたちに早くも見破られていた上に、支倉一行が向うへ到着してのちに、家康の宣教師追放、ヤソ教迫害がはじめられた。一行が政宗のいい加減な信書を国王や教皇に奉呈しても相手にされなくなったのは仕方がなかったのだ。
 ソテロと支倉はエスパニヤ国王に歎願書をだして「家康が迫害したって、政宗は保護する。家康に対立して、こういうことができるのは、政宗と秀頼がいるだけだ」大きなことを云ってごまかそうと大汗たらしたが、全然ダメだ。当時(一六一六年)はすでに大坂城落城、とっくに秀頼は死んでましたよ。それも支倉は知らなかったかも知れない。日本の事情はバテレンからの報告で、かえって外国側にはよく知れているのに、支倉には日本のことがてんで分らないのだから、外国側をだませる筈はなかったのである。
 政宗は外国の力をかりて日本征服の野心があったというような話は根のないことで、噂はこのへんから出ているのであろう。支倉もソテロも政宗が家康に対立し独自の政策を断行しうる唯一の人物だなどと毛頭考えていなかったであろうが、こう云わなければほかに相手を説得できそうな口実がないから仕方がない。彼に日本征服の野心などとはとんでもないことで、政宗は不意の禁教令に面食ったの面食わないの。支倉が日本へ帰りついたのは分っているが、彼のその後のことがてんで分らない事からも、田舎豪傑の狼狽ぶりが分るではありませんか。政宗がディオゴ・デ・ガルバリヨというバテレンはじめ九名の信徒を氷のはった広瀬川へ水漬けにして処刑したのは一風変った処刑として名高い話。政宗だけがそうではないのだ。もっとれっきとした本物の切支丹大名が家康の禁教令の断乎たるのに慌てふためき、にわかにそれぞれ迫害者になったのだから、田舎策師の政宗などは無邪気な方であった。
 せっかく青葉城の天嶮に城下を定めても、とたんに天下の形勢が変って、もはや天下に戦争なしという時世の到来である。青葉山のテッペンに天守閣を築かず、スキヤ造りの家を造って本丸にかえたり、石垣をきずかず自然にまかせて本格的な築城をしなかったのを、彼の本性豪放の性の然らしむるところであり、しかも彼の風流心の致すところであるとでも考えたら大マチガイであろう。要するに、みんな見透しが狂ったのだ。その滑稽きわまる産物である。
 考えてもごらんなさい。汗ッかきの拙者だけが音をあげたわけじゃアありませんや。築城した当の政宗先生が音をあげて、オレの次の代からは本丸をフモトへうつせよ、と遺言するような途方もない天嶮を選んだ以上は、大天守閣を造るのが当り前さ。そういう万全の戦備なければ選ぶべからざる天嶮じゃないか。スキヤ造りというものは、小イキな築山かなんかと相対してはいるにしても、まア平地的なところに在るべきもんだね。こんな断崖絶壁のテッペンへ造るべきものじゃアないね。
 政宗にしてみれば仕方がなかったのだ。彼は田舎策師だから、人の策謀を邪推する。平和な時代に築城して、それにインネンつけられて亡されては大変だと思うから、石垣もつくらず、天守閣もつくらず、天嶮のテッペンへスキヤ造りをチョコンとのっけた。時世が変ってみれば、城山のテッペンがバカ高いので迷惑したのは政宗当人さ。後手々々と、やること為すこと、まったく御苦労千万な豪傑なんだね。
 今でいうと何の病気だか知らないが「御腹ノ脹満囲三三尺八寸五分ナリ。御胸ヨリ上、御股ヨリ下ハ御羸疲るいひ甚シ」という容態で、それを我慢して将軍へ今生のイトマ乞いに上京した。将軍の使者が見舞いにくると衣服を正して出迎えてアリガタイ、アリガタイと感動するから容態がそのために悪化したという。そして江戸で死んだのである。日本征服どころの話ではないのだ。青葉山築城以来その死に至るまで、一貫して必死に計っているのは伊達家のささやかな安泰ということだ。彼が必死の全力をこめて舟を造り海外貿易を志したと見たら大マチガイ。彼が必死に全力をつくしたのは支倉渡航の方ではなくて、そのモミケシ、後始末の方なのさ。彼の生涯はいつも後の始末に必死なのだ。いつも気のつくのが手おくれだから、仕方がなかったという彼の悲しい運命なのである。
 支倉一行が舟出したという月の浦は牡鹿半島の西海岸にあるね。ちょうど自動車がその上の山道を走っているとき故障を起して四十分も動かなくなったので、自然に舟出の跡を見物しましたよ。ひどくヘンピなところだが、ここから舟出したということは、要するに、貿易をはじめたらここを長崎式の指定港にするツモリだったのだろうね。ヘンピな半島を選んだのは、やっぱり彼の本心が切支丹を好んでおらず、それが都に近づくことを敬遠したせいではないかね。

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 名物にうまい物なし、で、伊達家時代から名題のうまい物などを探す方がムリではあるが、まったく何もないね。
「さんさしぐれ」という唄が天正頃から仙台にはやって残った名物だそうだ。しかし、仙台生れの唄ではないようだ。まったく上方調である。上方の方へ出陣した兵隊が、当時の都の唄を自分流に覚えて帰って流行したのだろうという話である。歌詞は男色をよみこんだものだという説をきいたが、なるほど兵隊から流行したのだからそうかも知れんが、私は歌詞を多く知らないから、なんとも云えない。しかし「さんさしぐれか茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ショウガイナ」というのは男色的でもあるかも知れぬが、女色とみて不適当ではないし、その方に見るのがムリのない見方ではないかね。もっとも、ほかの歌詞については私には知識がない。
 三代目の綱宗が例の吉原の遊女高尾事件を起して隠居謹慎し、その時以来、仙台から遊女屋を追放して塩竈へうつしたのだそうだ。ムダなことをしたものさ。男の子は往復に十里歩くムダがふえただけである。藩政時代には料理屋も市内におかなかったそうだ。そこで料理屋は町境いの木戸から外にズラッと並んでいたそうだ。元が五軒だったので、五軒茶屋と云ったそうだが、その一軒が今も残って五軒茶屋を名のっている。私はそこへ案内された。なぜなら、そこに仙台一の「さんさしぐれ」の唄い手がいるからである。
 私が仙台で一番印象に残ったのは、この、「さんさしぐれ」の唄い手のミッちゃんという人である。もう四十いくつだそうだ。「さんさしぐれ」という唄は唄い方がむずかしいばかりで、どんな名人が唄ったって印象にのこるような唄ではない。私が感心したのは、このミッちゃんという人の唄い方だ。態度である。座敷で今までベチャクチャ喋っていた時とガラリと態度が変って、唄と戦争するような物凄い真剣な気魄がこもるのだ。これだけは見事でしたよ。イノチをこめて唄うのだ。ミジンも弛みがないね。全身に烈々気魄がはりわたっていますよ。唄には全然感動しなかったが、あの真剣な気魄には、私は思わず涙が溢れた。彼女の母も一生「さんさしぐれ」を唄って死んだんだそうだ。母ゆずりの「さんさしぐれ」を彼女も一生唄い通しているのである。仙台へ遊ぶ人は五軒茶屋でミッちゃんのすさまじい気魄のこもッた唄いッぷりだけ観賞するのを忘れなさるな。なおミッちゃんという人は芸者ではない。母の代からこの茶屋に住みついている唄い手だそうだ。座敷を一足でると、はりさけるような仙台弁で階下の帳場へ呼びかけて話をしている。これが仙台弁のききはじめだったが、全然わからないね。私も言葉が商売の文士であるし、生れは雪国の新潟で地域的には東北と通じないこともないから、仙台弁をきいても、だいたい判断できるだろうと思って旅立ったのである。とても、分らん。一言も分りません。
 青葉山を降りてくるとき、お喋りしながら登ってくる十名ばかりの女学生とすれちがった。完全に一語も分らん。叫ぶ声まで、異様で、判断がつかないのである。私も自信を失って悲しかったね。文士だからねえ。言葉が商売なんだ。言葉と表情と場合とを綜合すれば、なんとか判断できるはずだと思っていたんだよ。ハッと思ってミッちゃんの言葉を書きとめておいたのを御紹介に及ぶと、
「ンだまア。ビッチラ、ビッチラ……」
 あとは書きとめることもできない。意味は今もって分りません。全然一語も分らないのだから、一ツや二ツの言葉の意味をきいてみる気持にはなりませんよ。案内役の井上君は東北大学の出身、二年半仙台にいたのだから、なんとか判断はつくようだが、通訳がつとまるほどは分らないのである。ゴザリスデゴザリス、というのは分った。ゴザイマス、という意味のゴザリス、一ツだけでは敬意が足らないという気持で、もう一ツ足してゴザリスデゴザリス。敬語の発生は尊敬の念からだけではないね。もう一ツ、計略的な下心もありますね。言い訳。言葉だけで間に合そうという下心。とにかくゴザリスデゴザリス的な言葉は、時によって、きく人を悲しくさせるな。言葉は事実を正しく表現するために用いらるべきであろう。ゴザリスデゴザリス的な言葉から文化は育たない。ただ田舎風の策略が発達するだけである。伊達政宗的な言葉かも知れないね。
 仙台は奥の細道の地であるから、仙台の目貫めぬきの通りの芭蕉の辻というのはそのインネンの地かと思ったら、これが大マチガイなんだそうだね。あの芭蕉には全然関係ないのだそうだ。政宗は密偵を用いることを好み、常時諸方にスパイをさしむけていたそうだ。彼の用いたスパイは山伏もしくは虚無僧であったという。その数あるスパイの中で最も腕のあるのが芭蕉という山伏だか虚無僧だかであったそうな。文字までそッくり俳諧の親玉と同じなんだね。彼は正確な情報を提供して数々の功をたて、政宗に深く愛され、厚く遇せられたが、その功に報いるために、年老いて隠居した芭蕉に、十字路に立派な邸をつくッて与え、その辻を芭蕉の辻とよぶに至ったという。もっとも名スパイ芭蕉氏は松尾芭蕉氏と同じように、そんな賑やかなところはイヤだと山奥へひッこんで出てこなかったということだ。しかし仙台藩では長く芭蕉の功を忘れず、無人の芭蕉邸が火で焼けると藩の費用で再建し、それが明治に至るまでつづいていたそうだ。伝説としては甚だ面白いが、いつも見透しをあやまって後手ばかりふんでいた政宗だから、生涯まちがった情報ばかり受けとっていたようなものだが、名手芭蕉先生の大眼力がどういう情報を提供して功をたてたのかね。たぶん田舎の小大名相手の小競合こぜりあいや火事ドロ的合戦の時の話であろう。
 仙台市の物産は仙台ミソと仙台平であるが、現在の生産高は微々たるものらしい。三十五六万も人口があり、おまけに仙台市に住みきれない勤め人などが周辺の町村に七八万もいるという人口をもちながら、こんなに工場のない都市というのは珍しいのだろうね。ここへ来るまで、こんなに工場なしの大都市があることを私は考えていなかった。
 これを物資の集散地というのかね。また地方官庁所在地かね。むかしは二師団所在地、つい先ごろまでは警察予備隊所在地、東北大学と、宮城刑務所という刑務所中の大物がある。終戦まで共産党はここに入れられていたし、小平はここで死刑になったね。要するに物資だけではなく人間の集散地でもある。したがって土着の市民は集散する物や人のサヤをとって生活しているようなものだ。こういう都市は遊興の席が賑うのは当然で、遊女屋をしめだしたのは今の話ではないのである。生産するのも、学問するのも、自分ではない。自分はブローカーであり、素人下宿である。そういうような表情がありますね。なんしろ、これだけの都会で、東北の中心で、三百年も大藩の城下でありながら、市当局でヘンサンした市史というものを持たないのだ。パンフレットのような薄ッペラなものがあるだけさ。お膝元に東北大学という官立の総合大学があって、市史のヘンサンがないのだから、気風の一斑を知るべきだ。つまり学問は自分がやるものではなくて、自分は素人下宿をやろうというわけさ。市史? そんなものが、いるもんか。政宗公は日本一の人物だ。瑞巌寺は日本一の桃山建築だ。松島は昔からの日本三景の親玉だ。それでタクサンでゴザリスデゴザリスでござりすよ。
 戦火でやける前の仙台の街は知らないが、戦後の仙台は新しい大通りを新設し、現在は工事中で汚いけれども、相当な明るい街に復興しつつある。仙台には火事が多く、強風の吹く季節の風の方向も一定していて、防火のための大通りだということだ。
 私は東京都が、戦災直後、終戦直後になぜ年来の都市計画を実施しなかったか、理解に苦しんでいるのである。あれこそは絶好の機会だね。戦争だろうと地震だろうと、なんでも利用できるものは利用することさ。すべてその機を知らねばならぬ。その道の専門家は機を見て為すべき計画は常に胸中になければならないね。それが専門家というものさ。戦争の焼跡を利用して、都市計画を実施し、大道路を新設したり、工場地帯、緑地帯、住宅地帯を区劃する。焼けなければそう完全に急速に行うべからざる工事ができたではないか。戦争で焼かれたマイナスを、これで幾分のプラスにしうる。男にだまされて貞操を奪われても、その教訓を生かして同じマチガイをくり返さぬ用に立てれば、それもプラスさ。地震でつぶれたり焼かれたりしても、再び同じような焼けたり潰れたりする家を立てて平気な精神は賀すべきではないですよ。こりることを知らねばならぬ。それにこりて再び同じ愚をくり返さぬという役に立てることができれば、禍は変じて一つのプラスです。当り前のことじゃないかね。実に当り前すぎるじゃないか。一般庶民の生活や精神は惰性的でこりることを知らなくとも、政治家とかその道の専門家はこりることを知らねばならぬ。禍を利用してプラスにすることを知らねばならぬ。当り前じゃないか。
 とにかく仙台が強風季節の火事にこりて、大通りを新設したのは利巧なことさ。この町の気風にしては出来すぎたことだね。なんしろ政宗以来の水害地帯がいまだに年々変りなく水害の起るがままという県だからね。
 しかし、物と人の単なる集散地には独創だの計画だのというものは、あんまり現れることがないのだろう。この都市の業態生態がそれを必要としないのだもの。人の目の色を忖度そんたくして稼ぐような変な鋭さだけ発達し、その変な鋭さをこの町では利巧と云うような悲しい趣きがありはしないかね。田舎豪傑の政宗も根はそれだけの人であったのさ。そして変な鋭さがいつもヤブニラミで的を外れていたのさ。

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 この県には三陸の漁場をひかえて、塩竈、石巻という二ツの市、気仙沼ケセンヌマ女川オナガワ渡波ワタノハなどという漁港がある。ほかに、金華山にちかく、牡鹿半島の尖端に鮎川という鯨専門の漁港がある。
 石巻は北上川の河口が港だから、せいぜい五百トンぐらい。大きな船ははいれない。塩竈は天然の良港で、前面には一群の松島が天然の防波堤の役を果しているし、水深も深く、目下一万トンの船を横づけにする岸壁を工事中である。したがって、ここの港は魚を水揚げするよりも、一般の港の荷役に利用され、石炭が荷役の大半、魚の水揚げは全体の数パーセントという有様だ。けれども、水揚げする魚の量は、魚だけが専門の石巻よりも多いのである。つまり塩竈港はそれほど大きな港なのである。私は塩竈がそんな良港だとは知らなかったので、きて見ておどろきましたよ。
 それでいて魚だけで持っている石巻の方が人口が一万ほど多く五万五千ぐらい、塩竈が四万五千ぐらいだそうだ。この現象は二ツの漁港の扱う漁船の相違に、よるのだね。三陸は日本近海最大の漁場であるから、東海の漁船も、紀州の漁船も、四国の漁船も集ってくる。塩竈へ入港して魚を水揚げする漁船の七割はよそから来た船なのだ。したがって、この魚は塩竈を素通りして、すぐ汽車で東京へ大阪へと運び去られる。水揚げの量は多くても、この市で加工されないから、市民に労働を与えてうるおすことが少いのである。
 これに反して石巻へ入港するのは大部分が石巻の漁船だから、揚った魚はそッくりその市で加工する。そこで全市が殆ど魚の大漁不漁によって生活を左右されているのである。
 ここ二年ほどイワシがまるでとれなくなった。寒流異変によるのだそうだ。イワシがとれないと三陸の漁港はみんな参ってしまうらしいね。なぜなら上物の魚は加工に適しないが、イワシこそは加工の最大の原料だ。漁港都市の人口は加工業の労働で主として支えられているのだから、イワシがとれないと市全体が参るのだね。銚子もそうらしい。
 不漁だと云ったって、とにかく何万の人口を一手に支える魚なのだから、素人の目には大したものです。私は現在伊東市という温泉都市に住んでいるが、ここは同時に伊豆では屈指の漁港、焼津だの三崎についで相当の人口をもつ漁師街がある。私は去年は早朝に魚市場へ散歩に行くのが習慣だったから、伊東の水揚げはずいぶん見たが、とても三陸の漁港とでは問題にならない。伊東の何倍もある大きな市場に忽ち魚の山ができて、とても、このへんでは想像のできないものだ。
 塩竈では港の市場のほかに、市街地の中にある小売市場を見た。小売市場は二ツあって、一ツは加工品専門だ。これにはおどろいたね。多くの人口が加工業でうるおッているわけですよ。こんなにいろいろの加工品があるものだとは知らなかった。みんな東京へ送りだされているそうだが、私は百貨店の食料品部などを訪問することがないから、てんでお目にかかったことのない品物ばかりさ。なんというのか知らないが、たいがいはハンペンやチクワの一族らしく、ゴボー巻きもあるし、焼いたり揚げたりしたのもあるし、丸太ン棒のような魚の干物もいろいろあらア。ノリが多いし、いろんな海草の加工品もまた多いね。
 カツオとマグロはカンヅメになって米国へ輸出されるが、これが七面鳥の味に似ているので大モテだそうだ。そう云えば私も思い当るよ。私は今年の元旦にアメリカの飛行機にのったら、ボイルした七面鳥の肉を食わされたね。私はそれを食いながら、そのとき、すぐ思った。私がむかし京都伏見の天下に稀れな安食堂の二階に下宿してゴロゴロしていたころ、毎日のようにボイルしたカツオ、これをナマリと云うそうだが、毎日々々食わされたネ。つまり一番安いからだろうね。なんしろ一食が金十二銭だからね。
 なるほど、七面鳥とナマリはよく似ているよ。味が似ているだけではない。色も似ているし、薄くきった切り口までよく似ている。七面鳥なんてものは、ボイルしたのは、つまりナマリそのものだね。なんしろ天下に稀れな安食堂で毎日ムリヤリ食わされたナマリだもの、よッぽど安いものなんだ。以後われら貧乏なる日本人は、七面鳥と心得てナマリを食うにかぎる。拙者の舌に狂いはないです。七面鳥とナマリは同じものさ。アメリカ人がよろこぶわけだよ。拙者なぞは京都にゴロゴロしていた一年半というもの、ひでえ貧乏ぐらしだと思っていたが、実は毎日毎日毎日毎日クリスマスを祝っていたんだね。ブルジョアの生活とは何か。実に分らないもんだ。
 また、このへんの静かな湾内に(アンマリ静かでもないようだがね)タネガキというものを養殖してアメリカへ輸出しているね。塩竈、渡波、それから牡鹿半島のどこかの湾で、もう一ツこの養殖場を見かけたように記憶する。つまり三年もたつと食べられるカキに育つそうだが、送りだすタネガキというのは肉眼で見えないようなものだそうだね。このタネガキは、アメリカの海でも育つそうだが、あッちの海でタネガキ自体は目下のところ出来ないそうで、まア当分は輸出をつづける見込みがあるらしい。
 ノリのシビが盛大に突ッたッてるのは東京湾だけかと思ったら、塩竈から松島めぐりの観光船の道中がノリシビのなかを漕ぎわけて行くのさ。塩竈湾内はその港内まで、船の通る道をのぞいて、みんなノリシビだね。そして頭の上には海猫というのが啼き舞っているね。見たところはカモメのようだが「ニャーオ」といって猫と同じように啼くのさ。
 松島と牡鹿半島ひッくるめて国立公園に申請しているそうだが、どうも土地の人というものは他との比較を知らずに自分の故郷をほめるから困るね。牡鹿半島はとても国立公園というようなものではないね。伊豆半島でもそれにまさること数倍だね。ヘンテツもない半島さ。それよりも至るところにタネガキを養殖したりノリシビを突ッ立てる方が利巧ですよ。
 松島の方は、昔ながらの名所だから却って人は低く評価しがちだが、牡鹿半島の景観にまさること数倍さ。それにしても「ああ松島や松島や」というような観賞精神は現代に於ては稀薄だね。塩竈では松島の一ツの馬放まはなし島というところで海水浴場をひらいたら、大評判、大好評であったそうだ。なるほど、松の生えた岩山の間に白砂の海水浴に適したところが所々にあって、ここで泳いだらさぞ気持がよさそうだ。現代人の遊楽は、単に風景を眺めることではなくて、それをスポーツに利用することを喜ぶ傾向にあるんだから、美しい島々に海水浴場をひらけば好評をうけるのは当然だ。またこの美しい海でヨットだのボートだのをたのしむこと、そのようなことの方がむしろ真に愛されるものとなるだろうね。
 塩竈神社というのは、実に景気のよい神社であった。伊勢の神様をはじめとして、たいがいの神様が甚しく景気がわるいというのに、塩竈神社は景気がすごいや。まず驚くのは白衣に赤い袴の神様に奉仕の娘さんがタクサン雇われていることだね。まるで境内で鹿を放し飼いにしておくような要領で、この神社の山上高くて広々した境内のあッちこッちに、白衣赤袴の娘さんの幾群かが庭掃除をしていたり、サイセン箱をのぞいていたり、散歩していたり、放し飼いにしてあるね。たッた一人の神主すら満足に食えないような時世に、ここだけは実に盛大なものさ。
 なんしろ安産の神様だ。戦争に負けたってビクともしないや。人類ある限り人類とともに共存共栄しようという絶対的な神様なんだね。人類とともに、否、人類の苦痛とともに、かね。無痛分娩という調法な術が行われるに至ると、この神様もついに主たる御利益を失うに至るらしい。目下は安産にからまるモロモロ、たとえば結婚式にまでさかのぼッて取り扱い、さてこそ白衣赤袴の娘さんが続々と入用なのだそうだ。
 仙台藩の城下から追放した遊女屋はこの神様の真下、表参道の鳥居両側にズラリとあるのだが、高尾を斬った仙台の殿様の虚無的な皮肉なのだか、敬神の思想によるのか、全然判断がつかねえや。神詣でのフリして遊女屋へ行けという非常に至れり尽せりの思いやりかも知れないな。今なら、PTAが怒るだろう。
 安産からさかのぼッて結婚式に到るまで、神様自体が手びろく営業しているように、この神様の表参道入口には遊女屋が神恩を蒙って営業し、裏参道入口にはサフラン湯本舗というのが同じく神恩を蒙って営業しているよ。これ即ち何物かと云えば、中将湯と同じような血の道とやらの薬だとさ。サフラン湯主人は昔へルプという薬の広告にあった美髯びぜんの色男によく似ていたよ。安産のお詰りついでにみんな血の道とやらの薬を買うらしく、これも景気がいいらしいや。真ッ昼間、一時ごろというに、昼酒をきこしめして、良きゴキゲンだったね。案内の塩竈市役所の理事さんと友達で、私の名をきくと追ッかけてきたね。私は裏参道の入口でクルリとふりむいて戻りかけていたのさ。なぜなら、青葉城以来、高き山には登らぬという平和主義者に変っていたからである。彼は私の背中に手をかけてクルリと神様の方向にねじむけ、
「ダメ、ダメ。塩竈へきて塩竈神社にお詣りしないという手はないて」
 神様とともに共存共栄しているから、強硬に私の方向をネジ変えてしまったネ。私は無抵抗主義者でもあるから、テッペンの本殿へ参拝してきました。新婚の井上君はサフラン湯をもらって、実にこの上のよろこびはないというような顔であった。新婚というものは、こういう心境になるのかね。塩竈神社もはやるし、サフラン湯も昼酒に酔っぱらッていられるわけさ。サフラン湯よりもハンニャ湯が身体によくきくのは分りきった話だね。
 さて市役所の理事さんが私に語ってくれた話というのが、現代神話としては傑作の一ツだったね。
 私の行った十日ほど前に塩竈神社の祭礼があった。一足おくれて、実に残念千万な話さ。この祭礼にミコシがでる。百四十貫ぐらいのミコシで、十六人で担ぐのだそうだ。このミコシが天下無類の荒れミコシで、まず表参道を走り降りる。ところがこの表参道というのが目のくらむ急坂なのだ。私は六十五度ぐらいと云いたいが、まア、六十度にまけておこう。坂と絶壁のアイノコぐらいの急坂ですよ。だから参詣人は殆んど表参道を登りやしない。もっとも表参道は木戸番が遊女屋でもあるがね。この急坂が二百十何段の石段になっているのである。この急角度をミコシを担いで降りるということが大体に於て素人には信じられないことなのだが、ここを一気に駈け降りる。ところがだね。降りきってしまうと、降りた姿で、つまり後向きのまま、にわかにダダダダッとこの急坂を駈け登るというんですなア。これ即ち人間の力ではなく、神様の力であり、神意也というのだね。
 ここまでが前奏曲。かくてこの荒れミコシが市街へとびだすと、どこへどう走りこみ突き当るか、担いでいる十六人には分らない。人家へヒンパンにとびこんで戸障子を破壊し置物をひっくり返し人々を突き倒すが、ガラス戸を破ってくぐりぬけても担いでいる十六人だけは怪我をしたことがないそうだ。
 あんまり暴れ方が激しいので、大問題となった。検察陣が出張して取調べることになったのである。神社側やミコシの担ぎ手は、人間が企んでやることではなくて、ミコシが自然に走りだすことで、神意だという。検察陣はそんなバカな。人意だ。こう疑るのは尤も千万なことだろう。神意か人意かという水カケ論になって、論より証拠、自分で担いでみなさい、ということになった。きわめて然るべき結論だね。そこで検事と判事が十六人ハチマキをしめて現れて、これを担いだというのだね。
 するとネ。そのミコシが検事と判事に担がれてヒューと一気に表参道の急坂を駈け降りたとさ。アレヨと見るまに、後向きでヒューと上まで駈け登ったとさ。それから市街へとびこんでメッチャクチャ暴れたとさ。
 裁判所へ行って記録を調べたわけではないから、ホントかウソか請合いませんよ。しかし、むろん、伝説だろうねえ。伝説中の新型だね。判事と検事が登場してハチマキしめてミコシを担いで暴れるという創作はわれら文士以上の手腕ありと認定せざるを得ない。
 こういうたのしい話をきかせてくれる市役所だけあって、この市役所の建物が、オモチャのように滑稽古風で、シルクハットで中へはいって行きたいような気持にさせられる。横浜や神戸の洋物の骨董屋の店内へ、むろん店内へははいらないけど、並べておきたいような市役所でした。むかし、むかし、大昔、宮城県庁だった建物だとさ。その古物をタダで貰ってきたのだとさ。
 塩竈は松島遊覧の出発点だ。あいにく冬期は観光船が欠航中であったが、一艘だしてもらう。海上はひどい寒風で、泣かされたね。内海の遊覧コースを通らずに、馬放島の外側を通る。なるほど外海の松島は相当豪快だ。しかしいつまでたっても似たような島々を眺めて通るというだけでは一向になんのこともないものだ。
 私はむしろ松島湾内の海が、ノリやタネガキの養殖に利用されているのを見たのが嬉しかったのである。案内の人は、どうもノリシビが広くなりすぎて、と恐縮そうなことを云ったが、とんでもないことです。馬放島や桂島の海水浴の適地をのぞいて、至るところノリとタネガキの養殖に用いて可なりですよ。だいたい松島めぐりというのは、どんなに方々見て廻ってもみんな同じ風光だ。松島そのものの風光は代表的な一ツ二ツでタクサンだね。むしろ恵まれた湾内の大部分を資源に利用する方が、松島めぐりの観光にも変化がつこうというものだ。いつまでも「ああ松島や松島や」ではありませんや。東海道の海では大謀網というものを仕掛けて魚をとるが、松島の海では、それに似てはいるが、もっと手のこんだ八幡のヤブ知らずのようなものを海中に仕掛け、魚の周游性を利用してイケスの中へ誘いこむ方法を用いていた。大謀網にくらべると、外見では仕掛の手がこんでいるように見えたが、小魚専門の女性的なもののようだ。大謀網の方は一度に何万匹というブリを一とまとめに追いこんだり、大きなマグロ、マンボウ、なんでも、はいってくる奴をそッくりつかまえるという豪快なものだ。松島のは可愛いいイケスのようなところへ小魚を丁重に誘いこむという、策略的で芸がこまかい大奥の局が案出した漁法のようなものであった。所変れば品変るであるが、いかにも松島という大奥の局や女中のピクニックむきの風光に似合いの漁法であった。

          ★

 石巻、牡鹿半島、金華山。いかにも北の国に来たれりという思いですね。ところが、妙なものですね。北は北なりに、南国があるのですよ。石巻から出発して渡波ワタノハ港、ここが牡鹿半島の南側のノドクビに当るところだ。自動車は山径やまみちを湾にそうてグルグルと迂回しつつ半島を南下する。例の支倉出発の月の浦、荻の浜、大原、白浜と南下して、ついに南端の町、鮎川に至るまで、ちょうど伊豆半島を南下すると同じように、行くにしたがって明るく、ユーカリ、楠、蘇鉄、浜木綿、ビンロー樹などの南国的な植物地帯へ次第に踏みこんで行きつつあるような気持にさせられる。むろん南国的な植物はこの半島にはないけれども、南へ南へと南下しつつある明るさは同じものだし、北は北なりに、北の浜木綿や北のビンロー樹があるような気がするのであった。
 牡鹿半島というところは名の通り野性の鹿が今もすむところだが、山は高いところでも四百五十メートルぐらいの変テツもない山林つづき。ところが、半島全体が何という岩だか知らないがまるで一ツの石でできたようなところだそうだね。仙台から塩竈、石の巻、塩竈神社の例の石段でも、石の巻の民家の勝手口のドブ石でも、みんな牡鹿半島から切りだした石なんだね。そして全国的にザラに見かけることができるような石だね。というのは、墓の石だの、石碑の石の何分の一かがこの石ではないかといかにもそう思いつくような石なのだ。あるいはスズリの石にも似たのがあるような気がする。青みをおびたやわらかそうな石で、見るからに石碑にして字をほりこむに手ごろのような石なのである。この地方へくると、板の代りにも石を使い、建築にも道路にも石という石がみんな牡鹿半島の石さ。神戸のミカゲへ行くと、塀といわず道といわず石という石がミカゲ石だね。牡鹿半島の石は、非常に大きな、たとえば公園の記念碑のような一枚石をカンタンに道路用などに用いているのが特色さ。
 私が牡鹿半島を南下したのは、鮎川という南端の漁港へ行くためだ。鮎川といったって鮎がとれるわけではありません。ここは鯨とりが専門の港なのです。金華山といえば鯨と思いつくのは常識ですが、その金華山沖の鯨を一手に捕っているのが鮎川町です。皆さんは御存じかも知れませんが、私はこの地へくるまでこんなところに捕鯨専門の漁港があることを知らなかったのです。
 むかし、むかし、紀州に覚右衛門とかいう捕鯨の大親分の大金持がいた話は物の本でよんだことがあったが、今まで捕鯨といえば南氷洋、プロ野球でオナジミの大洋漁業とか日本水産というところが大いに活躍している程度のことしか知らなかった。
 第一、私は戦争中、イルカとクジラの肉には散々悩まされた記憶が忘れがたいのだ。銀座へんの食堂へ行列して洋食を食う。ビフテキだのコロッケだのと云うのが、みんなクジラだのイルカの肉だ。食ったが最後、二三日鼻のマワリに臭気が残って、思いだすと吐きそうになる。そのために私はコンリンザイ洋食屋へは行列せず、どんなに無味であるにしても雑炊食堂の方をむしろ選んだのである。
 鯨にはうまい鯨とまずい鯨と二種類あるのだそうだ。白ナガス鯨、イワシ鯨、小さなミンク鯨というあたりが美味の由。私が捕鯨の町、鮎川へ行ってきます、というと、仙台の人たちは、クジラのサシミはうまいですよ、という。バカにしなさんな。クジラの肉が手に負えない臭い物だということは骨身に徹して知ってるんだ。いくら東北にうまい物がないたってクジラのサシミをほめるとは、とバカバカしくて仕方がなかったのだが、さて鮎川でクジラの肉を食ってみると、決してクサイ物ではない。
 マッコー鯨の肉などはクサクて手に負えないそうだ。戦争中も近海捕鯨は大いにやってたそうだが、近海でとれるのはマッコー鯨とミンク鯨が主だ。ミンクはうまい鯨だそうだが、うまいのはカンヅメかなんかにして兵隊さんや、軍需工場やその他のお歴々の手に渡り、一般に流されて我らの口にはいるのは手に負えない奴であったのだろう。
 なるほど、クサクない鯨というものは、むしろ特有の味をもたないにちかいようだ。私が食ったのはスノコという部分のカンヅメと、ジャガイモと一しょに煮つけた肉だけであったが、煮つけの肉は牛肉のコマギレと云ったって気がつかずに食ってしまう人が主だろう。スノコのカンヅメも特にクジラと云われないと、牛と豚のアイノコ、ハムの大和煮(そんな変なのはないだろうけどね)みたいな、ちょッといける物じゃないかと思う程度に食える。一番うまいのはヒレに近い尾の方の肉、ここがサシミで食うところだそうだ。
 鮎川の町を案内してくれたのは、鮎川町の警察署長さん。ここまでくると、署長さんもノンキだね。バスが一日にたッた一ッぺん通るだけだもの、犯罪なんて有りやしない。実際バスが一日にたッた一ッペン通るだけですよ。だから牡鹿半島の子供は、自動車というものになれていませんね。私たちのタクシーが通ると、道の子供、七ツ八ツの女の子がベロをだしたり、何か汚らしく喚いたりする。その憎々しげな表情から、呪咀の言葉をわめきちらしているのだろうと想像できる。また、男の子は、石をぶつける者が多い。二十五六年前に中部山岳地帯へ行くとこんなことがあったりしたが、今は牡鹿半島ぐらいのものだろうね。
 私たちのタクシーは、故障を起してひどい目に合った。石巻にタクシーは二台しかない。クッションはボロボロで腰かけるのが気持がわるいような車だが、それでも二台のうちでは良い方の車なのである。往路では月の浦の上で四十分間故障。復路では山林中でシャフトが折れて三時間立往生。幸い代りのシャフトを用意していたから(チョイ/\故障やるから用意は万全だ)どうにかシャフトをつけ代えたが、新しいシャフトがちょッと長すぎるのである。そこでシッカリはまらないのだ。ようやく三時間目に動きだしたが、カーブにかかると、ギギギギーと音がして車輪が外れる。ちょッと動くと、また外れる。なんべん外れたッけねえ。泣きましたよ。夜になって救援の自動車がきてくれたが、この方はもっとボロボロの車で、窓のガラスに板をクギでうちつけてあるという古世代的な怪物。石巻のタクシーはこの二台しかないのである。往復に前後八時間ちかく自動車に乗っていたが、すれちがった自動車が一日中に三台しかないのだ。一台は赤いユービン車。次は材木をつんだトラック。次にバス。このバスの車掌に鮎川へつき次第石巻へレンラクして救援車をさしむける手配をたのんだのである。こう自動車が通らないのは、交通安全で結構だが、時に甚しく心細いね。自動車が珍しいのだから、また高いや。伊豆半島の半分のミチノリもないチッポケな半島だが、往復八千円だ。旅館から駅まで七百メートル、歩いて十分の距離、東京なら百円もしないね。二百五十円である。窓を板でクギづけにした自動車の値段なのさ。
 こういう半島のドン底に鎮座している鮎川だから、署長さんは人間相手の仕事が殆どないのである。
「クジラと鹿の番人みたいなものですよ」
 と呟きながら、私たちを案内するために肩から拳銃の吊り皮をブラ下げる。規則によって、やっぱり一人前のカッコウだけはしなければならないそうだ。
「先日、署長会議で上京しましたが、日比谷の交叉点で、ゴーストップの信号をまちがえて、こッぴどく叱られましたな」
 ゴモットモ。ゴモットモ。
 私たちは大洋漁業へ行った。仙台からここまで、行く先々、会社も人間も、東北の人々と、東北の人々によって作られた会社であった。大洋漁業だけは、東北の人によって作られた会社ではなかったのだ。フシギなものだね。たッたそれだけで、もう、違うのだ。都会と東北の違いというものが、どことなしに会社の隅々ににじみでている。会社に働く人の大半は、同じように東北の人だろうけれども、なんとなく違う。牡鹿半島のドン底まで来て、私たちはむしろ都会を見たのであった。
 私たちは、妙に幸運なめぐりあわせであった。今は鯨のとれるシーズンではない。捕鯨船は一年中でているけれども、最も盛んなシーズンは六月から十月ごろまでだそうだ。そして年間にとれる数はといえば、昨年は甚しい不漁で、鮎川全体の会社で四百余頭、平均して年々七八百頭だそうである。その大部分は六月から十月のシーズンにとれるのだそうだ。ところが我々は、そのシーズンでもないのに、たった二時間ほど鮎川の地にいただけで、一頭のクジラの水揚げにぶつかったのである。
 それはミンク鯨であった。小イワシ鯨ともいうそうだが、一般にミンクと云っている。クジラというものには国際協定があって、何クジラは何十何尺以下は捕ってはならぬ、捕る期間はいつからいつまで、と規定があるのだそうだ。ミンクだけは規定がなく、年中捕ってもよいし、どんなに小さくとも構わない。もっともミンクという奴は、せいぜい二三十尺の小鯨なのである。しかし、日本人向きで、なぜなら、肉が大そううまいのだそうだ。外国人は殆ど鯨肉は食べないそうだね。
 とれたミンクは十八尺五寸という小さいものだったが、さすがにフカやマグロとは胴体の太さがちがうね。これで二トン半ぐらいはあるそうだ。もっとも私はむかし甚兵衛ザメ(エビスザメとも云う)というのを見たことがあった。これは頭の先端がサイヅチ式になっていて胴体の太さが鯨にまけない怪物であった。
 普通のキャッチャーボートは三百六十トンから四百トン、十四マイルから十六哩の速力がでるそうだ。鯨の速力が十二哩から十六哩だそうだから、十六哩でるボートは大そう楽なゲームがたのしめるそうだね。ところがミンク相手の漁にはそんな本格的なボートはいらない。たった二十五トンか三十トンのボートでタクサンなのだ。ミンクという奴がいかに子供扱いされているかお分りであろう。その中でも特に小さい奴がとれたんだが、けっこう私はおどろいたね。とにかく胴廻りの太さが違うね。上へひきあげると大口あいてドロドロした舌をダラリとだしているが、タヌキのキンタマ八畳ジキというけれども、ミンクの舌でも私のネドコになるぐらい大きいや。それにドロドロの舌からもれる臭気かしら、ひどく鯨くさいな。私が戦争中閉口したのは、この臭気であった。ミンクの肉は美味だというし、サシミには特にうまいというが、この臭気がもれてくるからには、うまい肉のほかに、くさい部分もあるのであろう。署長さんの説によると、美味不味は肉の種類に存しているが、同時にクジラをさく時の処理の仕方にもよるそうだ。完全な設備をもった大工場で処理すれば臭気はないそうで、しかし、とにかく処理が終るまでには悪臭フンプンたる内臓の臭気がたちこめ、それを嗅いだが最後、別席で、いくら美味なサシミを出されても、素人は箸をださないそうだね。完全に処理を終った肉がまずくないことは私が証明しておこう。知らない人は牛肉だと思って食べてしまう。しかし私もミンクの口からもれてきた臭気をかいだあとでは、クジラの肉に箸をだす勇気はなかったろう。先に御馳走になって幸せだった。
 クジラといえば南氷洋と考え、近海捕鯨などはすでに絶滅に瀕しつつあるもののように考えていたが、必ずしも、そうではないのだね。亡びつつありと云えば、全世界のクジラが亡びつつあるのだろう。特に日本の近海捕鯨はその主たるクジラがマッコー鯨であるために、重大性をもつもののようだ。捕鯨業というものは往昔はセミクジラが主であったがマッコーの発見によって一大飛躍をとげたもののようだ。マッコーの油は良質であるばかりでなく、セミクジラの三倍もとれるし、何よりもマッコー鯨に限って群をなして泳いでいるので、大量捕獲に便利だそうだ。日本近海にはこのマッコー鯨が多いのである。
 リューゼン香というものも、このマッコー鯨の体内に限って存在するのだそうだが、この物自体が天下名題の名香かと思ったら、そうではないそうだね。それ自体は悪臭の強いものだそうだ。これに香料をしみこませると発散せずにいつまでも香気を保つ作用があるのだそうだ。それで外国の高級香料にはリューゼン香が使用せられるのだそうだ。
 私が鮎川の大洋漁業で仕込んだ智識の中でコレハ、コレハとおどろいたのを二三御紹介に及ぶと、ラケットのガットはクジラのスジで作るものの由。私が二年ほど前、双葉屋へガットを代えてもらいに行ったら、原料不足だから本物のガットがありませんぜとナイロンのガットで間に合わされたね。原料不足の段ではなく、日本はガットの原料国なのである。ただこれを製する設備がないので、原料をアメリカへ送ってガットにして逆輸入するのである。戦争前から、そうなんだとさ。バカバカしい。またクジラの血液から胃カイヨウの薬ができるし肝臓だかからヒッツジンという分裂病の薬ができるそうだ。どっちも近々御ヤッカイになりそうで恐縮しました。
 鯨にはイワシを吸って生きているヒゲクジラと深海へもぐって大きな魚を貪食している歯クジラと二種類あって、マッコー鯨という奴は歯クジラの中でも、特に悪食の奴だそうだ。マッコーを捕えると、たいがい目の周囲のあたりに大きな吸盤のあとがついてるそうで、つまり深海でイカやタコの大物と大格闘している跡を歴然と残しているのだそうだ。また、大洋漁業の標本室にはマッコーの腹から出たヤシの実があったが、戦争中、海兵の靴が片方だけ、腹から出たこともあったという。油断のできないクジラである。
 マッコーは群をなして泳いでいるが、時々一匹だけ泳いでいるのがある。これを「はなれマッコー」といって、マッコー鯨の大物はこれに限るそうだ。
 マッコーの群は常に強力な牡クジラに誘導されている。年老いて精力衰えると、若く血気な牡クジラが老いたるクジラを追放して王者となる。追放された老鯨が「はなれマッコー」となるわけで、最も年老いた鯨だから時に五十尺にも及び、マッコーの大物はこれに限るということだ。同じような習性は、猿にもあるようだ。あるいは群棲する哺乳類、否、動物の多くがそうなのかも知れない。人間だって、ツイ千年前ぐらいまではそうだったし、今でもそんな群棲状態をつづけているバカバカしいグループが日本のマーケットなどにいるのかも知れないね。
 同じ三陸の漁場でも、塩竈や石巻やその他の漁町村とちがって、鮎川は湾全体が整然として、湾をとりまく工場や民家も、けっして特別に新式でも大規模でもないが、小ヂンマリとそれぞれの設備をもって明るく整頓している。クジラというものが大物だから設備なしに処理できないし、たった年に七百頭ぐらいの鯨でも、一ツの鯨専門の港を裕福にうるおすだけの力があるのだね。それに昔ながらの漁港は因習的で暗い。大漁の時はサイフの底をはたいて豪遊し、不漁の時はフンドシまで質に入れても間に合わない救いのない暗さが、街のどこにもしみついているようだ。そういう漁師の因習的なデカダニズムには救いがないね。現実と対応して工夫された新しい生活の設計がどこにもないのだもの。それをロマンチシズムとでも称するのはウソの大ウソというものさ。そこにあるものは無設計、無智、原始、愚昧ということだけだ。
 クジラ専門の鮎川には、近代的な大会社の資本がはいって漁法にも運営にも計画された設計があるから、昔ながらの漁港に見られる因習的な暗さがないね。
 石巻ときたら、港から町の中心まで、船員相手のキャバレーだのパンパン屋だの、バアだのオデン屋だの待合だらけさ。中には、船員様のためのバア、などと書いたのもあるし、船員御用、船乗の皆さん、どうぞ、などというのもある。私の泊った宿屋では、しきりに石巻の芸者をよぶことをすすめたが、冗談じゃない。そんな芸者は見なくッても分ってらア。ムダに四十何年遊んで生きてきやしないよ。漁師町の芸者なんぞ、今さら見たいと思うもんかね。
 鮎川はこの暗い東北でも半島の先端にとりのこされた漁港でありながら、石巻のように悲しくみじめな暗さが少いのは、漁港全体の運営に近代性があるせいだろうね。鮎川の明るさは仙台に比較しても云えることだ。東北は精神的に一つの鎖国状態なんだね。鮎川へきてホッとするのは、その鎖国に、ここだけは通風孔があいてるからだろう。鮎川には素直に東京の風が、日本の風が吹いている。仙台や石巻には、東京の風も日本の風も仙台的にゆがんで黒ずんで吹いてるだけさ。政宗という田舎豪傑の目のとどかない悲しい風と同じ風が。古い昔ながらの漁港や農村も、思いきって運営の方法を根本的に変える時期に来ているのではないかね。別に変ったことではないのさ。つまり鯨の会社のように会社にして、月給制度にするだけのことさ。
 とにかく、この東北の旅行で、私の特に印象的だったのは、子供たちが自動車にすら敵意を見せるような半島のドンヅマリへきて、このへんで何処より明るい唯一の町を見たという意外さだった。東北の人々はあるいは云うかも知れない。それは鯨が金になるからだと。しかし去年は例年の半分という漁獲不足だったではないか。それでも結構明るいのは、やっぱり漁港全体の運営が近代的のせいだと見る私がまちがっているのであろうか。鮎川の明るさや町全体の整頓にはローカルなものはない。それで結構だ。明るく整頓して皆が楽しく暮せるようになるために、ローカルなものを失ったってちッとも損ではないのである。石巻音頭なんてものは亡びたって構うもんか。不漁のたびに漁師が苦しむようなことが次第になくなるような設計の方が大切なのさ。





底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第七号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第七号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について