安吾人生案内

その二 大岡越前守

坂口安吾




     男子は慰藉料をもらえないという話

 婚姻予約不履行による慰藉料損害賠償請求事件の訴状
 中央区京橋八丁堀、吉野広吉方でクリーニング業に従っていた原告、羽山留吉は、昭和二十三年六月八日新堀仲之助氏の口ききで被告中山しづと見合の上新堀、吉野両氏夫婦の媒酌で、同年八月十九日三越本店式場で結婚式をあげ事実上の婚姻予約をなした。
 しづの姉婿、加藤律治氏は杉並でクリーニング店を営み、しづは同所に居住している関係上、羽山はしばらく同所でしづと同棲、仕事を手伝ってもらいたいと懇請され、長年の得意をすてゝ、その言に従った。
 挙式後、同夜は一回、夫婦の行事があったが、その翌日よりは、いかなるわけか、しづは羽山とは言葉を交えず、三晩後、しづは板の間でジュウタンをしき別に床をとって独寝し、羽山は重大な侮辱をうけた。羽山はしづの真意を解するに苦しむも、誠心誠意をもって、時には媚態を呈し、種々話しかけたが、しづは口をとざし、頑として答えなかった。
 羽山は万策つき、加藤律治氏にその由を打明けるなど努力したが、そのうちしづは「最初から羽山は好きではない、側からよいよいといわれ結婚しただけで、寝床を別にするのは子供が出来ないようにするためだ」と公言し、羽山との婚姻を破棄し、婚姻予約を履行せざることを確認した。
 羽山はしづの許に寄寓し、多くの得意を失った損害は実に甚大である。さらに、しづのため男子一生の童貞を破壊されたことの精神的打撃は言語に絶する。
 よって、物質上の損害は、金十万円、精神上の損害は慰藉料金二十万円に値いするものである。

 中山しづの姉婿、クリーニング業加藤律治の証言
 しづは私の家内の妹です。新婚後の住居については現在住宅難の時代でもあり、しづは一人で店の留守番をしているのだから、世の中のおさまりがつくまで、しづの所で働いた方がよかろうと申しました。
 しかし、しづは結婚前の交際の頃、二人で東劇へ行った時、原告は帽子もかぶらず、アロハシャツをきてきたので、いやであったとかいっていました。
 八月の終頃、羽山が猛烈な下痢をおこし、しづは感染してはまずいと思い、ジュウタンをしいて別に床をとって、寝たようですが、しづに夫婦関係はどうかとたずねたところ、ふつうにつとめているといゝ、そんなことは聞くものではないといわれました。しづは神経質で気に入らない時は私の顔を見るのもいやだというほどでした。
 羽山が家を出て後、吉野氏と羽山が一しょに参り、吉野氏は私を馬鹿野郎よばわりし三十万円出せといゝました。

 羽山留吉(当時三十歳)の供述
 結婚の当日、夫婦の交りを一回だけ致しました。その時、しづは男女の交りの経験はないようでした。また交りを結ぶに当って不同意を示したことはありませんでした。私はいままでに異性と関係したことはございませんが、夫婦の交りはできました。
 二日目しづは身体がわるいといゝ、床は二枚しき、交りを要求すると被告はさけました。(中略)私は父は亡く、母はあります。
 財産はありません.中山の方には財産もあり、たしか、山林があると聞いていました。しづが私の方へ来ればいつでも引きとります。

 中山しづ(当時二十九歳)の供述
 見合いの時、同じ商売だったので、相手は何もないけれど、結婚しようと思いました。
 挙式当日、羽山の義兄の家へ行ったところ、先方は少し酔っていて、
「男のバカと女の利巧はちょうど同じだ、生活力では男にはかなわないのだから、夫を大事にしろ」「亭主の好きな赤烏帽子あかえぼしという意味を知っているか」などといわれ、あんな風に私が侮辱されても、羽山は何ともいってくれないのかとさびしく思いました。
 結婚の最初の日は夫婦の交りをしました。二日目は一緒にねましたが、体の具合が悪かったので夫婦の交りは断りました。出血がひどく、はじめは夫婦の交りのためであると思っていましたが、それが五日ばかりつゞきましたので、月のものだとわかりました。私はそれまで男の人と交りをしたことはありません。私が別室にねたのは五日目位かと思いますが、それは羽山が下痢をしていたからです。(中略)仲人の新堀の奥さんがきて「羽山を好きかどうかそれだけ聞かしてくれ」といわれた時、私はこんな状態では愛情がもてないといゝました。羽山と話をもどすことは全然、考えていません。

 判決
「主文」
 被告は原告に対し、金三万円を昭和二十三年十月二十日以降、年五分の利息と共に支払うことを要す。原告のその余の請求はこれを棄却する。訴訟費用はこれを十分し、その一を被告の負担とし、その他を原告の負担とする。
「理由」
(前略)原告は本件予約を解除する正当の権能を有し、しかして、さらに原告は被告に対し損害賠償を求めることができる。右損害は金三万円と認定すべきものである。
 けだし、原告本人の供述によれば、原告はクリーニング請負によって月約三万円の収入をあげており、純益はその五割で、原告は本件婚姻予約のため、ほゞ二ヶ月休んで原業に復したることを認めることができるからである。
 原告は慰藉料金二十万円を請求しているが、慰藉料を請求し得るのは女子のみで、男子はこれを請求し得ない。これ、女子の貞操喪失すなわちその純潔の喪失に対する社会的評価と男子の童貞の喪失に対するそれとの相違にもとづくもので、これを同一に評価することは法律上妥当でない。
 よって、当裁判所は原告の本訴請求中、金三万円の損害賠償の部分を理由あるものとして容認し、その余の部分、および慰藉料請求は失当として、これを排斥する。(東京地方裁判所民事第一部、裁判官、安武東一郎)

 この判決に対して二三反対の言葉を新聞紙上で見た記憶がある。誰か女の人の側で、男女同権にもとるという意味の反対があった。男の貞操も認め男の子にも慰藉料をやるのが同権にかなうという意味であった。女の子ばかり貞操を要求されちゃかなわんというフンマンでもあり、よって男の子にも貞操を要求し欲しけりゃお金ぐらいくれて追んだしてやらアというケナゲな精神であるが、自分でお金を稼いでシコタマ握っている女の子がタクサンいるとは思われないが、どこから慰藉料をひねりだすツモリやら、みすみす損をなさることはありませんな。
 この判決は妥当であろう。裁判というものは理想にてらして行うものではなく、現実に立脚してやるものだ。裁判を理想にてらし、たとえば男女同権の精神にもとづいて、現実を無視してやったら、いろんな痛快な判決はできるだろうけど、その後始末がつかないでしょう。男の子は喜び勇んで我も我もと慰藉料を請求したいにきまっているが、女の子は払ってくれないね。
 日本の現実で考えて、まア大体に於て男の貞操にはたしかに値段がありませんな。性病の有無というようなことは結婚の支障となるかも知れないが、童貞であるか、ないか、第一、鑑定の仕様がない。しかし、ここに、お金持の姫君の聟たらんことを一生の願いとして日夜イナリ様に願をかけ親も息子も茶だち酒だちして学を修め芸を習いひたすらに良縁を待ちこがれているケナゲな一族があったとします。念願かなってお金持の姫君へ聟入りできたが、哀れにもあんまり気がはりつめたか翌朝から下痢を起して、姫君にいやがられ、再び同衾どうきんを許されなくなってしまった。そこで離婚訴訟となったが、かく戸籍に傷がついては、男は再び金満家へ聟入りすることができない。そこで失われた童貞に対して慰藉料請求となった。なるほど。こういう時には問題だね。童貞の値段は大アリかも知れん。
 このバカモノめ! 男のくせに自分の腕で食べようとせずに、金持のムコを一生の念願とするとは何事か! と叱るわけにもいかないね。男子たる者は金持のムコを望むべからず、という規則があるわけではない。聖賢の戒めの中には多少似た意味のことがあるかも知れんが、聖賢の戒めが凡夫の生活を律しうるなら、天下に法律などの必要はありませんさ。
 原告のクリーニング屋さんも、余は金持のムコたらんことを一生の念願とす。かく童貞の純潔を汚されては再び良家のムコたるあたわず。よって、慰藉料をよこせ、と申したてると、判事も若干おこまりだったかも知れん。慰藉料を請求しうるは女子のみにして、男子はこれを請求するあたわずと、簡単に断定するわけにはいかなかったであろう。
 もっとも、六法全書かなんかに、そんな規則があるのか知らん。私の書棚にはかつて六法全書などというものが存在した例がないので何も心得がないが、そんなに憲法の如くにきめてかかった規則はないでしょうね。このクリーニング氏の場合には、請求できなくとも、男の子だって慰藉料を請求しうる場合がある筈である。つまりこの判事氏は表現をあやまっている。このクリーニング氏の場合に於ては、と云うべきであって、男の子は、と全般的に言うべからざることではないかと思われる。
 だいたい裁判というものは、個に即して判定すべきものだ。女の子は、とか、すべて男の子は、とか、全般的に言いきるのは哲学者かなんかのやることで、裁判官のやるべきことではなかろう。普遍的な公理のようなものを仮設して、そこから一クリーニング氏の場合の結論をだすというのは、論戦の要領を心得た人間のやることではないね。彼の仮設した公理に攻撃をくらい、こういう場合はどうだ、こういう場合はどうだ、とやられると、一ツくずれただけでも、すぐ足元がぐらつくね。そういう危険な方法を用いて論証するというのは、論戦の初心家のやることで、そんな余計なことを云わなくとも、ただ一クリーニング氏の場合についてのみ判断すればよかったのである。私自身の見解を云えば、私もこのクリーニング氏は童貞を失ったということで慰藉料をせしめる理由がなかろう、と考えている。しかし、ほかの日本の男の子の全部がどのような特殊事情があっても慰藉料を請求できない、ということを、そんなに易々と結論しうるものではなかろう。
 だいたい、そんなに易々と全般的な結論がだせて、それで通用しうるなら、裁判の必要はないじゃないか。万事につけてそういう公式をこしらえて、それに当てはめて、これはダメ、これはよし、交通整理のようにスラスラ裁くがよかろうさ。
 原告たるクリーニング氏の場合はシカジカの様式であるから慰藉料請求は当らないと判決すればなんでもないものを、慰藉料をもらえるのは女子だけで、男子はもらえない、と男の子全部のことまでズバリと云われると、世間の人はハッとするのが当然だね。クリーニング氏の判決のついでに、男の子全部に判決を下してはチト迷惑だなア。男の子だって色々とあらア。
 裁判官というものは、どんなに予測しない事情のゴタゴタが起るか知れん、という前提に立って、常に当面するその物だけを相手に判断さるべきでしょう。すべてのゴタゴタがユニックでさア。公式が先立つわけには行かないでしょう。
 クリーニング氏は夫人方の親戚へ住みこんでそッちの家業を手伝っておるから日常は孤立無援で、おまけに嫌っているのは確かに夫人の方だから、まア聟が追んだされると同じような心境を味い、慰藉料ということを思いつくに至ったのであろうが、そのへんの心境は同情はできるね。失われた童貞に対する慰藉料というと、彼氏の場合は妙であるが、その日常のサンタンたる心事に対する慰藉料といえば、それが金銭に換算できるかどうかはとにかくとして、彼氏の悲しかりし結婚生活の日々については同情がもてるのである。彼を嫌った夫人に比べれば、そして身辺に味方のいる夫人に比べれば、彼の心事に同情がもてるのは当然だろう。
 夫人はいささかヒステリー的でいらせられるらしいが、一人ぎめの人生観が硬化状態にあって、ユーモアを解し、市井の人情を解する柔軟性がない。自分の殻を破ろうとしたり、人を理解しようとするところが足りない。すでにコチコチにかたまって発育のとまったところがあるようだ。
 だいたい御婦人の多くは結婚すると婚家の風にコチコチにかたまり易いものだ。もうそうなると、婚家以外のところでは通用しないような発育の止った状態になるが、婚家に通用する限りは、婚家にとってはよろしいわけだ。
 ところがこの夫人は、結婚に先立ってすでにコチコチに殻ができて発育の止った硬化状態を呈している。こういう夫人と結婚し、そッちの家へ住みこんだクリーニング氏は、苦しかりし日々であったろう。
 クリーニング氏の義兄がすこし酔って夫人に向い「男のバカと女の利巧はちょうど同じだ、生活力は男にかなわないのだから良人を大事にしろ」「亭主の好きな赤烏帽子という意味を知ってるか」と、云ったそうだ。こんなに侮辱されてるのにクリーニング氏が何も云ってくれなかったからさびしく思った、という夫人の理解力の硬化状態の方がさびしいねえ。
 これは侮辱じゃありませんねえ。むしろ義弟の新夫人たる人への愛情が主たるものです。市井人のかなり多くは自分の弟だの義弟などの新夫人たる人にこれ式の愛情で新婚のハナムケの言葉としがちなものですね。それにとかく酔っていると、特に、こんな表現をしがちなものだ。つまり市井人というものは、酔いっぷりや、酔って言うことが概して似たりよったりのものですね。巷間いたるところにこれ式の酔漢の愛情を見かけることのできる性質のもので、当時二十九という小娘とちがって立派な成人でありながら、ありきたりの市井の人情風俗に知識も理解もないのが淋しいねえ。
 彼女の姉ムコ氏の証言によると、彼女は神経質で、気に入らない時には姉ムコ氏の顔を見るのもイヤだという程だったそうだ。ツキアイにくい女なんだね。
 結婚直後クリーニング氏が下痢したので、彼女は感染してはまずいと板の間にフトンしいてねたそうだねえ。衛生思想の行きとどいたところは実に見るべきであるけれども、亭主が伝染病になった時にも真にカイホウする者はその妻女である、という、これは規則や法律ではなく、単なる市井の通俗人情にすぎないけれども、かかる通俗人情が完璧にそなわらない純粋理性的細君というのに対しては、その亭主たる者は彼女をいかにモテナスべきであるか? かのイマヌエル・カント氏すら純粋理性を哲学的にはモテナスことができても、すでにその細君には散々だったんだからね。わが哀れなクリーニング氏がいかにモテナシに窮し、また、日夜モテナシに腐心するところがあったか。女とは何ぞや! 彼氏はついにかかる大いなる疑問についてすら数々の不可決の思索を重ねたかも知れん。
 哀れなクリーニング氏よ。御身も結婚前は敵がそれほど純粋理性的存在であるとは知らず、軽卒にも、また、楽天的にも、シャッポもかぶらず、アロハをきて、かの怖るべき理性的存在と一しょに東劇観劇とシャレたそうだね。時は昭和二十三年盛夏、アロハは流行の花形だものな。マーケットのアンチャンだけがアロハを着ていたわけではないさ。判事だの大臣だの文士だのはアロハを着なかったとはいえ、市井の若者にとっては流行は第一の美であるのさ。老人どもは常に彼らの若かりし日の流行を追想して現実に対しては悪罵とクリゴトをのべ、しかし、健康なる若者は常に彼らのみの美や流行を一身に負うべく、人間の歴史ある限り、市井の若者とは常にそういうもんじゃね。アロハそのものが美であるか、ないか、そういうことと問題は別個じゃよ。
 たしかに彼氏は軽卒であり、楽天的でありすぎた。しかし、アロハをきるとはいえ、マーケットのアンチャンとちがって、彼はそれまで女というものを知らず、金瓶梅もチャタレイ夫人すらも読破した形跡がないのだね。結婚初夜に新妻をモテナス何らの技術にも不案内であったそうだ。
 中山しづ女の答弁書に曰く、
「羽山はなぜか夫婦の行事をなさず特に新婚の楽しみなるものをなさしめなかった。しづは処女にして、夫婦の行事がいかなるものか、いかにして行うかを知らず、自ら要求する術も知らず、むしろこれらの事柄は男子たる羽山が積極的に指導し愛撫すべきことは争うべからざる公知の事実である。それにも拘らず原告は故意にそれらの指導をなさず、温く抱擁することもなく、いわば木石の如き態度で新妻に接しもって処女を犯した」(下略)
 名文だね。争うべからざる公知の事実だ。そうだ。争っちゃア、いけねえかな。パンパンを取りしまるとは何事だア! チャタレイ夫人を起訴するとは何事だア! だから一人前にアロハなんか着やがってるくせに新婚初夜に木石じゃないか。もって処女を犯す、か。どうも実に、カストリ雑誌の唄い文句じゃなくて、レッキとした訴訟の答弁書なんだからね。新婚初夜の行事に、処女を犯すという表現は、カストリ雑誌以外ではチト無理でしょう。もっとも、理窟で云えば、初夜は処女を犯すものには極っているが、そのために大目玉をくろうことは、きかなかったね。
 こういう世界的な大文章で答弁するというのは、要するに、相手を反撃する事実自体に反撃力がそなわっていないせいだろうね。要するにさ。原告たるかのアロハはあまりにも経験深く老練にして、初夜に処女たる被告を混乱懊悩せしめ、神経質にして潔癖なる被告の信頼を失うに至りたり、というような文章だったら、チットモ大文章というものじゃなくて、とにかく語られた事実の中に真実の力量がこもっているのさ。
 アロハ氏の曰く「時に媚態を呈して奥サンに懇願した」とね。アッハッハ。しかし、アロハ氏の苦心察するに余りあり。席を別にして板の間に寝られたり、彼氏の新婚生活は日夜に不可解の連続で、まったくどうも神経衰弱気味にもなろうというもの、彼氏が慰藉料を請求したい心境になったのは、同感せざるを得ないのである。
 しかしさ。判事氏の云う如く、たしかにアロハ氏の童貞には値段がないだろうね。失われた童貞にもしくは童貞を失ったことの精神的損害に慰藉料を請求したって、元々値段のないものにその失われた損害を払って貰えないね。しかし、童貞を失ったこととは別の精神的な損害に対しては、どうだろうね。以上私が大ザッパに述べたところからでも、アロハ氏の方が被害者の立場にありと私は見る。新婚に破綻した以上、夫婦どちらもその悩みの切なさは先ず同格であるにしても、被害者たるの立場はアロハ氏なるべしと私は見る。この精神的な損害が慰藉料になるか、どうか、これは問題のあるところだろうと思うが、私は現行法律の判例を知らないから、法的に何とも判断はできない。
 判決によると、訴訟費用はこれを十分して女がその一だけ負担し他の九は男が支払うとあるが、私は精神的に被害者たる原告に慰藉料をやることができなければ、訴訟費用はまるまる女に負担させてせめてツグナイとさせるね。アロハにその十分の九まで負担させるのは残酷ではないかねえ。私は被告たる純粋理性的存在よりも、原告たるアロハ氏の方に甚しく多くの同情すべきものを認めるのである。
 しかし市井に、また農村に、こういうチグハグな結婚の例は少からずあるだろうねえ。そして訴訟も起す分別なく涙をこらえている男女がタクサンいることだろう。そういうモロモロの場合のうちで、アロハ氏は別に女房をひッぱたいたわけでもなく、刃物をふりまわしたわけでもなく、さればとて独立の生活能力がないわけではなく、チャンと仕事は一人前で、女房の生計をも負担しているようであるから、哀れ悲しく無気力ではあるが、決して多くの落度する人間の部類にはいらないようだ。忍従したのは明らかに彼の方であった。
 もしも私が判決を下すとすれば、訴訟費用は被告たる純粋理性的存在に負担させ、二ヶ月間の損害三万円のほかに、その二ヶ月間女房がアロハ氏に扶養せられた食いブチなにがし、小額といえども返還させて、被害者たるアロハ氏の不運なりし新婚生活の労に報いる一端としたいね。
 さて、最後に残ったのが、結婚初夜に於ては男子は木石の如く処女を犯すべからず、これ争うべからざる衆知の事実なり云々という大文章の問題であるが、これは法律じゃア解けそうもないねえ。大岡越前かなんか粋な旦那がいて、原告のポケットの中へそッとチャタレイ夫人でも忍ばせてやるのがオチであろうが、すると忽ちどこからともなく検事が現れて、ワイセツ文書ハンプの罪というカドによって越前守がからめとられてしまう。クワバラ。クワバラ。

     一晩に七万四千円飲んだか飲まないかという話

 新興喫茶でボラれたという杉山博保(三十一歳)の話
 いや、おどろきましたね、七万四千七百円の請求をされた時には。七千四百七十円の間違いかと思って、何度も見なおしました。せいぜい二十本ものんだかなと思っていましたからね。酔うと、大体が気が大きくなる方で、威勢よく注文したことはしたんですが、酒が六十六本、ビール七十八本、お通し六十三人前、イセエビ五皿、タコ二十八人前、マグロサシミ二十五人前、果物五皿、シャンペン一本、スシ十人前、それにサービス料二割――
 仕方がない、はらいましたよ。なにしろ、現ナマはもっていたんですからね。だが、酔いも消しとんじまいました。自分の金じゃなし、しがない古衣商、それもお客からあずかった金でした、どうやって返そうかと思うと気が滅入るばかり、シャクにさわってならない。そこで、駅前の交番へ、かくかくと訴えたわけです。自分から入ったわけじゃなし――そうです、渋谷駅前で引っぱられたんです。

 渋谷宇田川町、サロン春のマネージャーは語る
 ボッたなんて、とんでもない。大体、あの人は風態がよくない。こんなところへ来るようなタイプではなかったようです。女給だって、引っぱっちゃ、いませんよ。あんな客は相手にしません、むこうから、「遊ばせてくれ」ともちかけてきたんです。だから、三十万もっているの何のと強がっていたんですが、どうも信用ができない。恐る恐る出してたほどです。それでもキャッチになるんですからね。街頭に立つのが、そも/\いけないというのです。
 勘定はきちんとしています。それは公安委員会でお客も認めています。帰ると、その足で、交番へ行ったんですからね。卑怯なお客です。後味が悪いですよ。
 近頃はタチの悪い客が多くなりましたよ。散々のんでから、「キャッチしたじゃないか、警察へ行こう」って調子、こっちは弱い立場ですからね。キャッチに出なければ、商売にならない状態なんです。しかし女給のすじはいゝんです。有夫が三割、未亡人が二割、あとは独身ですが親を養ったり、兄弟を学校へやったりする感心な人が多く、みんな生活のためですよ。悪どいことをするという話も聞かないではありませんが、よく/\のところです。
 しかし、大体、新興喫茶で、女の子にサービスさせておきながら、ノミ屋なみの勘定ですまそうとする客はヤボですよ。あんな客はもうごめん、こり/″\ですよ、こんなにいためつけられちゃ。

 この話は、私は新聞でよんだ。雑報欄のような小さな欄にでた記事であったが、こういうバカげた話になると、われに神仏の加護があるのか、見逃さないからフシギだね。オールの記者も御同様と見えて、チャンと手記を持ってきました。
 この話は身につまされるね。私に限ったことではないが、酔いどれどもは一読ゾッとわが身のごとく肝を冷やし、つづいてゲタゲタ笑いだすところであろう。オールの記者が身につまされて手記を持参した気持は大わかりというところである。
 私もずいぶんこんなことをやった。酔っぱらって気が大きくなって、酒場へのりこんであれを飲めこれを食えというバカ騒ぎをやらかす。しかし私一人ということはなく、身辺に必ず二三誰かが一しょにいて、だれかが前後不覚からまぬかれているせいかも知れん。こう目の玉のとびでる大勘定をつきつけられたことはない。
 しかし、一人で行くと、よくないね。私がこのような経験に会ったのは、待合だね。九段にひどい待合が一軒あった。客が風呂にはいってる時、ポケットやカバンの中を改めて所持金みんなしらべるらしく、いつも持ってる金額のうち自動車質が残る程度の大勘定をつきつけられた。私の友人達もみんなやられて、大勘定に悩まされたが、お客の方はほかへ行けば済むことだから、誰も行かなくなった。しかし我慢できないのは土地の同業者で、他の待合と芸者連が結束してダンガイし、この一軒の待合がぼるために九段全体が客を失い悪評を蒙るに至っていると満座で吊し上げを受けたそうだ。いかにぼッたか分るのである。
 三業組合というようなところでは、待合芸者結束してボリ屋の一軒を吊し上げるという壮挙を敢行して土地の自粛をはかることはありうる。なぜなら、待合も芸者もその土地についており、お客もその土地につくもので、土地の繁栄は業者全体の繁栄に関係するから、一軒のボリ屋によって土地についた客を失うことを怖れもする。
 しかし、カフェー、新興喫茶、それに女給というものは、こうではないね。女給はその土地にもその店にもついてやしない。転々とどこへでも身軽に行けるのだ。だから、その店がいくらボッたって、結束して店を吊し上げる必要はない。第一、土地についていないから、結束することも不可能である。
 銀座のバアは、お客も経営者も女給もあんまり変動がなく、まア無難だね。
 街頭へでてキャッチするというところは、そのこと自体が違法であるのに、罪を犯しても客をひッぱりこまなければ成り立たんというのだから、ひっぱりこまれた以上は、タダではすまないのは当然であろう。しかし酔っ払いはブレーキがきかなくなってるから、目玉のとびでる勘定をつきつけられた例は、大方の酔っ払いが経験ずみだろうと思う。
 今はどうか知らないが、去年あたりまでは、相当な身なりをしていれば、お金がなくともひっぱりこまれたものだ。外套でも上着でも腕時計でもカタにとって店から突きだす。
 むろんこういう山賊式の商法はほめるわけにはいかないが、この道に山賊ありと知って夜道にかかる方もたしかにいけなかろう。酔っ払いにも罪はあるのさ。つまり、自業自得という奴だね。
 しかし、この古衣屋氏の大勘定には、おどろいたねえ。私はバカげた飲んだくれぶりでは歴戦の勇士で、性こりもない点では人後に落ちない方である。酔っ払って、他の酔っ払いの為し得ない放れ業は数々これを行い、諸方に勇名をとどろかしたものであるが、こういうバカげた大勘定をつきつけられたことはない。
 浅草の浮草稼業の役者仲間に、ハライ魔という言葉がある。私などがその筆頭なのである。酔っ払うと者ども続けと居合す男女をひきつれて威勢よく飲みまわり、威勢よく勘定を払う。翌朝のことは云わぬが花で、とにかくその時は威勢がいいや。ジャンジャンのみ食らいジャン/\払う。人に払わせない。こういう熱狂的人物を払い魔というのである。浅草人種はうまいことを云うよ。ああいう落伍者地帯には、常にピイピイしながら人に勘定を払わせない怪人物が常にあちこちに棲息するのである。お金持ちの集りには、こういう怪人物は棲息していないものさ。
 しかし私のような性コリのないバカ者でも、十名ひきつれて飲みまわっても一晩に七万四千七百円なんてことは、とても、とても、有りうべからざることだったね。たった一軒それに近いのが九段の例の待合であった。
 しかし、この新興喫茶のマネジャー氏の言は痛快すぎるね。こう痛快に云えたらさぞ気持がよかろうさ。今どき客の方から「遊ばせてくれ」と頼む人物がいるようなら、無数の女給が街頭に林立してひしめくことはなかろうさ。だいたいあの客は風態がよくない、とくらア。実に痛快な言葉だね。はじめて現れた風態のよくない客に、注文に応じて、怖る怖る七万四千七百円の品物を出したというが、怖る怖る七万四千七百円だすという手品使いがいるんだねえ。こんなお人よしの手品使いに三日間でも飲食店のマネジャーが勤まったらフシギだね。このセチ辛い世の中に生きているのがフシギさ。
 マネジャー氏の痛快すぎる言い方に対しては私は甚だ反感を覚えるけれども、女給が街頭へ現れて客をひくような商法の店ではカモをオメ/\逃す筈はなかろう。彼氏の店だけのことではなく、客ひきをやる店はみんな同じ山賊商法と心得てマチガイはなかろう。ただ程度を心得てる店と、そうでない店があるだけのことであろう。
 ここに山賊ありと心得たら、近づいてはいけないね。山賊に近づく以上は、してやられても仕方がないという覚悟がいるのだ。
 昔から講談などにもよくあることだが、主家の集金の帰りなどに、バクチに手をだしたり女にひっかかったりして身を亡す。集金に旅立つに先立って、主人とか父母とかが、お前はふだんはマジメでマチガイがないが、酔っ払うと気が大きくなって、マチガイを仕でかす。主家の金を預ってるうちは一滴ものんではいけませんぞ、というような注意をうける。それでもダメなんだね。
 今も私の住む静岡県でミカンの集金人の行方が知れない。彼も出発に先立って、お前さんは酒が腹にはいるとガラリと変る人だから、人様の大金をあずかってるうちは一滴も飲まないように、というような注意をうけて出発している。彼がその夕刻横浜の集金先へ現れた時は、すでに相当の酒がはいってるらしく真ッ赤な顔をしていた。そしそカバンを叩いてここに百何十万円かはいってるんだと威勢のよい見得をきってみせた。そして汽車に乗りおくれちゃ大変だと急いで去ったがそれッきり行方が知れない。たぶん殺されたらしいと目下大々的に調査中だそうだ。
 結局酔って山賊に近づくことがマチガイなのだ。当人にも自業自得の責があることは確かであろう。しかし、当人の自業自得の責によって山賊の商法が合理化されることが有るべきではないね。しかし、現在の警察の取締りぶりには、酔っ払いの自業自得を認めるの余り、山賊の商法の方を合理的に考えすぎる傾きがあるようだ。飲んだくれの自業自得も仕方がないが、山賊の商法は酔っ払い以上に取締るべきではあるまいかね。
 日本の盛り場には山賊が多すぎるよ。愚連隊のアンチャン。そのまた上のボス。それから山寨さんさいをかまえて酒をうる商法。
 私のように自業自得を心得、承知で愚をくり返す人間はよろしいけれども、ふだんは善良な集金人的人物に限って酒が好きで、酒をのむと気が大きくなってガラリと一変するというような人は気の毒ですよ。自業自得には相違ないが、盛り場の粛清によって、自業自得の苦しみの何割かを減らすことができるであろう。平凡で善良な人々の一ヶ月に一度、否、一年、一生に一度というマチガイの何割かを減らすことができるのである。私のような常習的のんだくれはとにかくとして、まれに理性を失う人が哀れである。常習的のんだくれは山賊の世界に深入りしないが、たまに理性を失う善良な人に限って、山賊に大きくやられるものなんだね。

     安吾巷談を受売りして千円の罰金をとられた話

 謹啓、本当はこの手紙は坂口さんに読んで戴き度いと思って書いたのですが、生憎、坂口さんの住所を知りませんので、“安吾巷談”で、時々貴方様のお名前を拝見致して居りましたので、貴方様なら取ついで戴けそうに思い、不躾けと知りながら、厚かましくも、お願いする次第です。
“安吾巷談”を受売りした為に、罰金千円の刑に処せられる結果になったと言う私の、農村での笑えぬ喜劇をお知せします。
 それは昨年の今頃、当地に地方事務所の社会教育委員が来られて、青年団員と、村の有志を集めて座談会を持ったことが有ります。其の席で村の有志の一人が“村の発展は青年の犠牲的精神の発揮の外はない”と言う様なことを発言、皆がそれに賛成されたので私が、“今までは国の為、天皇の為の犠牲、今度は村の為の犠牲か、もう我々青年は犠牲なんていう事は真っ平だ”と発言した処がさあ大変、“今まで天皇様は国民に犠牲を求めたことはない、それは暴言だ、取り消せ”とか何んとか、幾人もの天皇護持者連中にまくしたてられたので、私は浜口さんの“野坂中尉と中西伍長”よりの天皇制問題の処をあの儘受売り、ついでにガンジー流の無抵抗主義より再軍備反対論にまで発展させて論争を終えて帰えったが、翌日になって見たらこのことが村中に尾ひれがついて広まり、“小山田は天皇様を馬鹿と言った、どうも前からおかしいと思っていたが、もう奴は共産党に間違いない、あんな奴は村から追出せ”と言う非難がごう/\、そして毎晩の様に遊びに来ていた青年や、中、高校生達を、“あんな奴の処へ遊びに行くと赤く染まるから行くな”と停め、会社にまで転勤を要請して来たから驚くじゃあ有りませんか、(申遅れましたが私は共産党は好きではなく、真の思想的の自由主義者であり度いと願っています。)こんな非難は私は馬鹿らしくて相手にできませんし、会社も労組も私と言う人間を知っているので、時がこんな下らんうわさは解決するだろうと、無視して呑気に構えていたのですが、田舎の人のしつこさは予想外でしてね、私を落し入れる好機をねらっていたのです、そして電産のレッド・パージの時にはこの時こそと策動したのですが、勿論これも駄目、そして私の多血症をねらってか、或る日、“明日県道修理の義務人夫に出ろ、出られなければ皆にお茶菓子代を買え”と言って来たのです。この様なことは私がこの土地に来るまでは毎月一回位あったのですが、私が青年団をバックとして、運動し昨年より廃止していましたので、村の大ボスと大口論になり、相手よりケられたのでカッとなり二つなぐり返した処が鼻血が出、そのことを種に待ってましたとばかり告訴され傷害罪として罰金千円取られたという訳です。
 駐在巡査が酔っぱらって盆踊りの中にピストル片手にゆかた掛けで暴れ込み、誰彼かまわずなぐり付けたり、中学校の教官が村の有力者の子供を除き全部なぐったり、私に鼻血を出されたボスが、ある矢張り義務人夫を使う工事で働きが悪いと一人の老人を腰の抜ける程の暴行を加えても平気な村民達が、私の場合だけ問題にしたのは私が他処者、その他何かあるかも知れませんが、坂口氏の、“天皇はお人好かも知れないが、聡明な人間ではない”との言を受売りしたのが最大の原因です。
 こんな田舎のチッポケな出来事貴方方には興味がないかも知れませんが、私は書く事に依っていい様のない憤りが静まる様な気がしたので書いて見ました。
 私はこの事に付いて坂口さんのご感想をうけたまわり度いとは思いますが、お多忙でしょうから遠慮致します。

 文士というものは未知の読者からいろいろの手紙をもらうものだが、この手紙にはおどろいた。巷談や日本文化私観、堕落論などの受売りして論敵をギャフンと云わせました、というような無邪気な手紙は三四もらったことがありましたね。その論敵というのは、たいがい共産党で、共産党員の論敵をバクゲキするには私の巷談ぐらいで結構役に立つものらしいや。したがって私のところへは田舎の共産党文学青年から相当数の脅迫状じみたものが舞いこんでくる。彼らは私の説を受売りした論敵にバクゲキされたせいかも知れない。
 この手紙は私に多くのことを教えてくれた。東京周辺の居住者には、本当の田舎の生活は分らないものだ。
 都会の青年たちにはかなり強い反戦的気風を見ることができる。しかし、日本人の本心をたちわった場合、好戦論、反戦論、どっちの気風が多いかというと、私はむしろ好戦的気風の人間が多いと判断している。
 好戦的気風のよってきたるところは、今戦争がきてみやがれ、一もうけしてみせるぞ。この前の時はずるい奴に先を越されてもうけ損ったが、今度は要領を覚えたから、畜生メ、今度こそ日本一の成金になってみせらア。サアこい来たれと手ぐすねひいて戦争を待っていらせられるのが主である。
 金へん糸へんの現役は云うまでもない。追放の前将軍が戦争を待機するのも理のあるところで、フシギはないが坊主だの女給だの小学校の先生だの妾だの百姓だのパンパンだの漁師だの商人だの飲食店のオヤジだの役人だのヤミ屋だの、みんな戦争を待機しているのである。今度は要領を覚えたから、戦争きたるやイの一番に大モウケしてみせるんだというみんなが同じコンタンで全面的に武者ぶるいしていらせられる。
 しかし、そう、うまくいきますかね。要領を覚えたのは、決して、あなたが一人じゃないや。みんな要領を覚えればみんな覚えないと同じことだし、すべて商法は、戦争のドサクサの泥棒的商法でも、新風を現す天才だけが大モウケするのさ。未来をのぞんで武者ぶるいするのは、すでに落第で、優等生はいつも現にモウケつつあるもんだね。
 しかし農村に戦争待望の黒雲がまき起っているのは、これも理のあるところだ。戦争がくる。食糧が不足する。さア、日本一の紳士淑女は百姓だね。東京も大阪も、あっちこっちの大小都会も、みんな燃えたね。アッハッハア。銀座が燃えたそうだが、ナニ、そうでもないなア。オレの村に銀座ができてらア。三井の娘が昨日米を買いにきたが、あいつも日増しに薄汚い女中みたいな女になりやがるねえ。品のねえ奴らだなア、都会の奴は。着る物がねえのかなア。イヤにペコペコしやがるけれども、ナイロンの靴下三足ぐらいじゃ五ン合のジャガイモは売れねえなア。オレンとこじゃア、今はピアノが三台だが、娘が二人だから、孫娘にも間に合うが、孫娘が二人できると足りないねえ。背広はもういらねえよ。モーニングもフロックも、もういらねえ、いらねえ。そうだなア、シルクハットがあったら持ってきなよ。この正月にチョックラかぶるべい。アッハッハア。
 戦争てえものは平和なものだ。米や野菜を大事にしなきゃアならねえてえことが人間にようやく呑みこめてくるなア。戦争がすんで、三年、四年ぐらいまでは、まだ平和だねえ。五年目から、いけないよ。都会の奴がアロハを着るうちはまだいいが、ギャバジンを着やがると、いけなくなるよ。都会の奴らがゼイタクになりやがると、日本はもういけねえ。世直しに戦争がはじまらなくちゃア、天下は平和にならねえな。
 糸へん金へんの現役紳士とても待望の論理は同じことである。あまねくドサクサの一旗をねらう市井の戦争待望組も論理に変りはない。
 しかし都会地の待望組は戦争の被害者で、焼けだされて産を失い、復讐戦の気構えであるから、境遇的に戦争を待望しても、たいがいは、本質的な好戦論者ではないのである。戦争のむごたらしさもだいぶ肌ざわりが遠のいたが身にしみてもいる。
 しかし、農村はそうではないね。彼らが身にしみて知っているのは戦争中の好景気だけで、戦争の酸鼻の相は彼らとは無関係なものだった。空襲警報もどこ吹く風、バクゲキなどはわが身の知ったことではない。
 したがって彼らが戦後の諸事諸相をのろい戦時の遺制に最大の愛着をもつのは当然の話であろう。特に天皇制こそは彼らにとって至上のものであろう。戦争がはじまるまでは、農村にも相当の天皇蔑視派がいたものだ。彼らには都会や都会に附属するらしく見える一切の権威に反抗し否定する気風があったからである。
 しかし、今はそうではない。彼らは戦争によって天皇を発見し、天皇制が都会のものではなく自分たちのものであることを発見したのである。天皇が彼らにとって至上のものになったのは、むしろ戦争以来のことだ。
 しかし農村にも世界観の片鱗ぐらいはあるだろうと私は一人ぎめにしていたものだ。しかし、この手紙によると、この農村に於てはそうではないし、また、こういう事実をきいてみれば、いかにも同じようなことが多くの農村にあるべきようだ、という思いにもさせられるのである。やりきれない暗愚、我利々々の世界である。この手紙の中でせめてもの救いは、農村からの中傷にも拘らず、この青年の勤める本社が彼をクビにしないということだけだ。
 人のフンドシを当てにする思想は、最大の実害をもっているね。汝の欲せざるところ、これを人に施すなかれ、ということが形式的にでも通俗なモラルになると、世界の様相は一変して、なごやかになるね。
 再軍備が必要だという。そういう必要論者だけが兵隊にまずなって、まっさきに第一戦へかけつけることさ。村の発展は青年のギセイ的精神にまつ必要はない。ギセイ的精神の必要論者がまずギセイとなって、われ一人せッせとやりなさい。二宮尊徳先生がそうだったでしょう。その奉仕が真に必要ならば、やがて人がついてきますね。来なくっても、仕方がないさ。真にギセイ的奉仕が必要だと信じた人が、まず自分のみ行うのさ。人に強制労働を強いるのはナホトカからあッちの方の捕虜だけの話さ。
 よく働くことによってその人を尊敬し、それによく報いるという習慣が確立すると、社会は健全になるね。
 日本には人の労に報いる言葉のみが発達し、多種多様、実に豊富でありすぎるよ。そういう言葉は一ツでよいのだ。ただ「アリガトウ」さ。そして常にそれに相当の報酬をすべきである。何も靴ミガキに百円やることはないですよ。宿屋の番頭に千円もにぎらせることはないですよ。バカバカしい報酬はやるもんじゃない。
 物事はその価値に応ずべきで、労力もむろんそうだ。物質を軽んじ、精神を重んじるという精神主義によって今日の社会の合理的な秩序をもとめることは不可能だ。労働に対する報酬が生活の基礎なのだから、労働に対して常に適当に報われるという秩序が確立しなければ、他の秩序も礼儀も行われやしない。仕事に手をぬくような不熱心な働きには、それ相応の安い報酬でタクサンだ。よく熟練し、さらにテイネイでコクメイで熱心な労働に対してはそれに相当する多くの報いをうけるのは当然だ。報酬は義理でも人情でもヒイキでもない。常に適正な評価に従うべきだ。それが今日の秩序の基本をなすべきものですよ。その秩序が確立すれば、仕事への責任もハッキリする。その責任に対して物質的な賞罰もハッキリすべきものである。
 拾得物への報酬、一割か二割か知らないが、こういうものはどこに規準を定めても合理的な算定などはできないのだから、一割なら一割という規則の確立が大切だ。その報酬を辞退するのは美談じゃない。アベコベだ。物資の秩序をハッキリさせることを知らない人は、所詮不明朗不健全で、本当の精神の価値を知らないのである。
 物質、金銭は下品なものだという考えがマチガイなのさ。物を拾って届けるのは当り前じゃねえか、オレが一割もお礼やること、なかっぺ。なんでも、当り前なのさ。働くことも当り前。人を助けるのも当り前。親切をつくすのも当り前。そして、当り前のことに報酬するのも当り前のことなのさ。
 勤労に対する報酬という秩序がハッキリ確立すれば、村の発展は若い者の犠牲的奉仕にかかっている、などという美しいようで甚だ汚らしい我利々々の詭弁は許されない。誰かの奉仕が必要だと認めた当人が先ず自ら奉仕し黙々とギセイ精神を発揮すべきだ、という当然の結論が分ってくる。
 豊富な謝辞で労に報いてそれで美しくすますような習慣の下では、自分が人のために喜んでギセイになろうという生き方の代りに人のギセイでうまいことをしようという詭弁や策や、それをうまく言いくるめた美名だけが発達する。そしてアゲクには再々大東亜聖戦などということを国民のギセイに於て行うような神がかりの気チガイ沙汰へと発展して行くにきまってるのである。
 村の発展は青年のギセイ精神にまたねばならん、などと云うのは、どうせ中年老年どものクリゴトにきまっているが、ギセイの必要あらば、そういう御身らが曲った腰にムチうって自ら進んでギセイたるべし。ギセイというものは自発的になすべき行為で、人にもとむべきものではない。人に強要されたギセイは、ギセイとは別個のもので、人を奴隷と見ることだ。人の労に言葉で報いて美しくすますようなことも、根は同じく、封建、奴隷時代の遺風だ。物質を卑しみ、精神的なものを美しとするのも、人間を奴隷的にタダでコキ使うに必要だった詭弁にすぎないものだ。
 実際は、物質で処理しうるもの全て物質で処理する秩序が確立すると、本当に内容充実した礼儀やモラルが実生活の表面へハッキリ押しだされてくるのである。即ち、人の勤労には必ずそれだけの報酬せよという習慣が確立しておれば、村の発展は道路工事にあり、されど金なし、義人現れて奉仕せざれば村の発展なし、と分って、自ら先じて黙々と道路工事の奉仕に当る。真に村を憂うる者が黙々と村に奉仕するのは自然であり、かくて村政にたずさわり村を憂うる村長や有力者は自然に自ら義人となり、義人政治行われ、これぞ村のあるべき当然の姿ではないか。勤労に対しては必ずそれだけの報酬せよ、という秩序が確立することによって、アベコベに、真の義人が現れる基盤ができるのである。
「道路工事に義務人夫で出ろ。さもなければ茶菓子をだせ」などという暴力政治が、田舎では今でも行われているのですね。この青年が反抗するのは当然だ。真に日本を愛し、日本のより良く暮しよい国たらんことを願う者が、再びこのような暗黒な暴力政治におちこみつつある村政に反抗しなくて、どうしようか。口に大きな理想を唱え、天下国家を論じる必要はない。自分の四周の無道に対して抗争し、わが村の民主政治が正しかれと努力すれば足りるであろう。
 可哀そうな青年よ。君の村は、そんな悲しい暗黒な、暗愚な村なのかねえ。そのような暗愚や暴力に負けたまうな。村のボスなどと妥協したもうな。君の味方が、君の友が、僕一人である筈はない。
 日本の農村はひどいねえ。百姓ぐらい我利我利亡者で狡猾な詭弁家はいないよ。農村は淳朴だの、その淳朴な百姓こそは真の愛国家で、それ故に天皇を愛しているなどというのを真にうけていると、再び軍国となり、発狂し、救いがたい愚昧の野蛮国になってしまうばかりだ。
 しかし、とにかく、君の会社が村の策謀を尻目に、君をクビにしないのは、爽やかな救いを感じるね。ねがわくは、悠々と、正しく信念を貫いて、そして会社の仕事をシッカリやってくれたまえ。困ったことが起きたら、また、手紙をくれたまえ。





底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第六巻第五号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
初出:「オール読物 第六巻第五号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について