安吾人生案内

その四 人形の家

坂口安吾




     人形をだく婦人の話  高木貴与子(卅四歳)

 女礼メレイチャン(六ツ)の事でございますか、動機と申しましても、さあ他人ひとはよく最愛の子供を亡くしたとか、失恋して愛情のりどころを人形に托したと御想像になりますが、これといって特別な訳があるのではございません。丁度終戦直後、人形界の権威といわれる有坂東太郎先生について人形つくりを始めてから半年程してお嬢さんを亡くした知り合の方が、廿年前からあったこの女礼を下さったのです。その頃から、此のお人形は私の処へ来る為にあったのだ、神様が授けて下さった、とまあ只のお人形という気がしなかったのです。源氏物語の中にも見えて居りますように、昔から災難を托して川に流したり、神社に祀ったり致しますが、そういう宗教的な意味からも、子供として単に愛するという丈でなく、半分は人形として尊ぶ気持です。
 私は幼い時に両親を亡くして後、弟と、祖父母に育てられましたが、そんな境遇からか人になじめない変った性格の子で、一人っきりで人形等いじって遊んではいました。特別に興味を持つという事もなく、文学少女で小説を書きたくて或先生についたり、終戦前雑誌社にお勤めしていた事もあります。
 お人形ですから、表情が動く訳ではありませんが、喜びや悲しみが見えるようで、寒くなると風邪をひいたんじゃないかしらと思い、お留守番をさせると、“連れてって”と泣き出す顔が浮んで来て、大粒の涙がポロ/\こぼれたりします。お八ツを買って慌てゝ帰って来ますが、三度々々の食事も、お風呂も、おシマツも人並ですの。勿論食物が喉へ通る訳ではありませんから香りを食べさせて、あと私がいたゞきます。夜やすむ時はガーゼを目にあてて、少しでも光線の当りを防ぎます。
 此の頃、ベニちゃんミツキちゃんエイコちゃんと七人の弟妹が出来まして慣れたので、留守番をさせる事が多いのですが、以前はよく連れ歩きました。最初矢張り恥しくて、買物籠の中へしのばせて出たりしましたが、ダッコしていると、殊に女学生等寄って来て、気違いじゃないかしらって笑うんですの。でも、こんなに大事にしているんじゃないかと思ったら、この真剣さを笑う方が却って可笑しい位で、人の嘲笑なぞ問題にならなくなりました。新聞に出ても、どうこういう事はありません。毎日の日記もこの子の事で一杯です。
 お人形に凝り出してから、みんな一様に苦しかった時代ですが、随分生活苦と闘いました。が、どうしても他の職につく気になれません。生計のお人形を造りながら、絵本や玩具で遊んでやるのに忙しい程です。お人形にも魂があると思いますので、、おろそかには造れません。お人形とこうしていると、辛い事もどこかへ消しとんで、一番幸福だという気がいたします。汚い人間の愛情より、私はこの子等への愛情で、私自身満たされて居ます。
 今迄、度々結婚も奨められましたが、所詮男なんて我儘なものですから、私のお人形に対する気持なんぞ解って貰える筈もございません。異性への愛情と人形に対する愛とは別のものですが……。この子等をも含めて総てを包んでくれる人があったら、喜んでその懐にとびこんで行くでしょう。

「サン」にこの婦人が人形に御飯をたべさせている写真を見たとき――もっとも、それは御飯でなくてウドンでしたがね、で、ハシにはさんで人形の口のところへ持ってかれたウドンが、むろん人形の口にはいる筈はないからアゴから胸の方へ垂れ下っているのですが、すぐ気にかかるのは、このウドンの始末はどうなるのだろう、ということであった。
 この手記を読むと、それをあとで自分が食べると書いてあるから、アア、なるほど、そうか。私はひどく感心したが、しかし、ちょッと、だまされたような気がして、なんとなく空虚を感じて苦しんだ。人形とともに生活するという夢幻世界の話にしては、ひどくリアルで、ガッカリするな。人形よりも全然人間の方に近すぎて、悲しいや。
 人形の口のところへ持ってったウドンを、次に自分の口へ持ってってたべて、また新しくウドンをハシにつまんで人形の口へ運んでやって、それをまた自分の口へ運ぶというヤリ方であろうか。それとも人形の口の前からいったん元のお茶碗へ返して、また新しくウドンをつまんで、というヤリ方だろうか。そのとき、新しくハシにはさんだウドンの中に実はいっぺん人形が食べたはずのウドンが一本はさまれたとしても、そういうことが気にかからないのだろうか。
 あるいは、別のドンブリ、たとえば自分の茶碗を別に用意しておいて、人形の口へあてがったウドンを自分の茶碗の方へうつして、また新しく人形の口へ人形のお茶碗からウドンをハシにはさんで、というヤリ方であるかも知れないな。相手が物を食べない人形だとなると、こういうことが、ひどく気にかかるな。
 とにかく、人形にウドンを食べさせる、そのウドンを人形がたべた、ということを、どこで納得するのだろう。
 日本では神様や祖先の霊に食べ物を供える習慣がありますね。これはまったく習慣でしょうね。私の女房も私の母の命日に母が好きだった肉マンジュウや郷土料理などを母の写真の前に供えたりする。お供えした方がいいかと私に相談したこともあって、アア、よかろう、私はそう答えたのだろう。ツマランことだと云ってしまえば、まったくその通りであろう。そして、ツマラナイことではない、という反証をあげる方がムリであろう。母の写真の前にはいつも何かしら花を花ビンにいれてある。その花ビンがあるために私のヒキダシをあけることができなくて、私は一々それを動かしてからヒキダシをあけたてしなければならない。まア、めったにそのヒキダシに用がないからいいが、しかしそれでも、そのたびに、どうもウルサイ花ビンだなと舌打ちする。
 しかし、私の女房がほんとうにその気持で母の写真に食べ物や花を供えることを喜んでいる心や習慣があるなら、私自身は自分でそんなことをする気持がなくとも、女房のヤリたいことをやらせて悪いことはなかろうさ。習慣をやめるのはむつかしいし、昔から人のしてきたことが迷信だと分っていても、それを怠ると不吉になるような、そういう迷いもあるだろうし、迷信だ、ツマラン形式だといっても、それをやる個人の気持はその人なりに複雑であるから、個人の特殊な生活には干渉する必要はないね。それが他に迷惑をかけるものでなければ。
 この人形と生活している婦人の場合なども、もとより人に迷惑をかけるようなところはないだろうから、そんなツマランこと、おやめなさいと言う理由は毛頭ないであろう。しかし他人もそれに対していろいろ興味をもったり批評したりキチガイじゃないかなどゝ言ったりするのも、これも仕方がないでしょう。そういう興味や噂の対象になるだけの常規を逸したものがたしかにあるのだから。人がとやかく云うもよし、御当人は御当人で、人のことは気にかけず、自分の生活に没入さるべき性質のもので、どっちにしても御愛嬌というもの、一向に害になるものではないでしょうね。
 しかし、不自然ではある。イワシの頭も信心、アバタもエクボ、なぞと云うように、本人の好き好きで、誰が何が好きになっても仕方のないことではあるが、まだしも蛇が好きで、蛇をたくさん飼って食べ物の世話をやいたり遊び相手になったりするというのはグロテスクではあるけれども分らないことはない。なぜなら、これをグロテスクと感じるのは私の方で、飼主にしてみれば可愛いばかりでおよそグロテスクだとは思わないにきまっている。そしてこのグロテスクという感情問題が解決すれば、蛇を飼うのも犬を飼うのも気持は同じだということが分るであろう。
 この人形の場合は、どうもこう素直に納得できないところがあるなア。なんとなく、自然の感情にひッかかるところがある。たとえば、さッきも云ったように、ウドンを食べさせるときに、どこのところで食べたという納得をうるのか。
 この婦人は人形は食べられないことを知っているね、しかし、食べさせたい気持は分りますよ。それは実によく分るし、特においしいものを食べさせたい、今夜はこれ、明日はあれといろいろ考えもするだろうなア。しかし、実際に食べないという事実にゴツンとぶつかったら、泣きたくなりやしないか。私はハラハラするなア。要するに、実際人形に物を食べさせる本当の所作をするから、そういうやりきれないことが気にかかるんだね。
 おいしい御馳走を作って、それをハシにはさんで人形の口まで持って行った場合に、その次に、それをどうするか、ということが実に実に気がかりだね。どこへどうしても始末がつかず、よくこの人は気ちがいにならないものだね。やりきれなくて、たまらなくなりやしないか。食べることができないのだもの。
 五ツ六ツの女の子が、よく、そんな人形あそびをしてますね。お客に行ったり招いたりして人形に御馳走たべさせたりお風呂へ入れたりしていますね。子供があれで満足なのは分るね。ママゴトにすぎないのだから。
 ところが、この婦人も、ママゴトにすぎないですね。それ以上のものは何もないです。人形とこの婦人の結びつきや生活ぶりは、ただ子供のママゴトと同じことで、それ以上に深いツナガリは何一ツ見られません。
 子供のママゴトは、まだ見ていても気楽で救いがあるなア。人形にたべさせる御馳走だって、ママゴト遊びのオモチャのマナイタの上でこしらえたもので人間の食べられない物か、食べることができるにしても好んで食べたいようなものではない。オフロに入れるにしても形ばかりで、本当に湯を入れてやるわけではない。だから人形が本当は食べることができなくとも、気にならないね。
 この婦人の場合はそうじゃないね。本当に食べることのできるもので、自分の食べ物と同じ御馳走なのだ。それを人形の口まで持って行っても、人形が食べることができないのだから、ハシにはさまれた食べ物が口のところで停止して、たとえばウドンがダラリとアゴから胸へぶらさがったときに、この人が泣かずにいられるのがフシギなのだ。人形の口の前で停止した食べ物の始末をいかにすべきや、そのいかんとしても意をみたすにスベもない悲しさに気がちがわずにいられるのがフシギなのさ。
 大人が何かを愛すということは、こんなものじゃありませんよ。愛す、ということには、その人のイノチがこもるものですよ。とても、とても、子供のママゴトのような、ウスペラなマネゴトですむものではございませぬ。
 人形の口の前まで持ってって、人形がたべたつもりで、それを自分が本当に食べてそれで安心できるのかねえ。人形の食べないことが悲しくならないのは分るが、しかし、その場合には、自分が物を食べるというウス汚い事実に、気がちがわないのかなア。食べるということはウス汚くはないのだけれども、自分の愛する者が実際には食べない場合には、自分が物を食べるということは、ずいぶんウス汚くって、やりきれないと私は思うな。たとえばマツムシだのスズムシなんてものでも、夫婦の一方が物を食べなくなった場合には、一方も物を食べずに餓死するような気がするなア。もっとも、気がするだけで、餓死自殺はやらないね。メスの方がオスの方を食ってしまうそうだね。これも大いに分りますよ。豊島与志雄先生は名題なだいの猫好きで、多くの猫と長年の共同生活であるが、何が一番食いたいかというと猫が食いたい、それも自分のウチで飼ってる愛猫が食いたいとさ。本当に愛すということは、その物を食いたくなることだという豊島さんの持論だが、この壮烈な食慾的愛情も分らんことはない。私は胃が悪くって、あんまり食慾がないから、特に美食がほしいという気持もなく、食慾の満足に多くの愉しい期待をかけていない。だから何かが特に食べたいとも思わないから、愛情を食慾的に感ずることもないのだが、美食家や旺盛な食慾を持った人たちが、自分の本当に愛するものを食べたくなる気持は分らんことはありませんな。本当の愛情にはそういう動物的なところもあるだろうと察せられますよ。
 食慾なんてものは、そういう実質的なものだなア。愛する人形が物を食べないのに、物を口まで運んでやって、食べないという事実にぶつかって、泣きもせずにそこから引き返して平気でいられるのも分らんし、人形が食べないのに、自分だけは実際に食うということに自己破壊を起さないのも分らん。要するに、全然バカバカしいママゴトだね。魂をかけた愛の生活はありませんや。
 この手記をよんでも、夜やすむ時光線が邪魔にならないようにガーゼを当てるとか、寒くなるとカゼをひかないかと心配で、なぞとありますが子供のママゴトも、実生活のマネということではまさしく完璧で、お医者にも見せるし、氷嚢も当てるし、注射もしますし、オシッコもさせるし、要するに、この婦人のママゴトは子供のママゴト以上に魂のこもったところはありません。子供のママゴトにはまだ救いがあるなア。この人のママゴトは本当の食べ物を人形の口まで持ってゆくようなリアルなことをやって、それでオシッコなんて、ちょッと、私は助からん気持でした。
 人形が好きで、人形と一しょに生きてるような人は、きっと、もっと外にホンモノが実在するだろうと思うね。こういうママゴトなどは全然やらずに、本当に人形の魂と自分の魂とで話し合っているような生活が。大人が本当に人形を愛したという場合はそういう魂の問題ですが、この人の場合は、完全に子供のママゴトで、それ以上の何物でもないでしょうな。
 まア、しかし、一生涯、ママゴトをして終るというのも結構でしょう。

     芸者になった人妻の話  河口耕三(卅八歳)

「妻が夫に無断で夫の許を離れ芸者になったのは、『自分の独立した意志』でなったのだから法律ではこれは取締れない」となれば、ただに芸者になった場合に限らず、妻のどんな行為も実は傍観する外はない結論となります。
 結局、妻が……現在の生活に一種の満足感から、夫の反省を求むる言葉など顧みず再考の色もないとしたら、夫は只泣き寝入りの外はなく、妻はしたい放題……と云わねばなりません。とすれば、自由民主主義下の現代道義はどうして維持するのでしょうか? それでは、自分勝手ばかりで他人の迷惑など吾れ関せずのアプレゲール流こそ処世の常道の世の中となるではありませんか。それで法的に打つ手がないということは、凡そ締め括りのつかぬ世の中になったものです。何とか制裁の途はありませんか。ついでながら、右の事態から云えば、夫が妻以外の婦人を愛し、別に生活を持つとしても『自分の独立した意志』なら御勝手次第「妻から離婚を求むるは兎も角として」と云う事になりますが、果して法的制約の途はありませんでしょうか。
 又、『自分の独立した意志』が尊重される結果なら、生活困難な親を顧みない子も制約出来ないのでしょうか。如何でしょう。

 さて、これはさる新聞の身の上相談欄にでたものだそうで、第一が投書、次が新聞の先生のお答、次がそのお答に不満の投書者の手記で、私はこの第三番目の手記について見解をのべることになっていますが、どういう見解をのべても彼が満足するとは思いません。
 私は田舎住いですが、東京の新聞は、まアだいたい読んでおります。しかし、新聞の身の上相談というところは、ここ二三年、読んだことがありません。新聞の紙面のうちで、この欄が私には一番ツマランところですが、自分で一番ツマランことだと思っているのと同じことを自分がやろうというのだから、私は実にツマラン人物の見本のようなものですな。
 しかし、身の上相談がどうしてツマランかということを、この投書がハッキリ証明していると思います。先生のお答は、別に上出来なところもありませんが、まアこんなことでも云う以外に仕方がないでしょうね。しかし、こういうお答によって、決して事件が解決して投書家の新生活のカギになるようなことはないでしょう。なぜなら、こういう実生活上の人間関係は論理的にはどうにもならんです。ごらんなさい。この男子は、男女同権、人権とか自由とか、そういう基本的なことを全然考えておりません。妻の不貞に制裁を加えることができず、妻の自由意志なら芸者になったのも仕方なしと泣寝入りせざるを得んのが民主時代なら一家心中かムリ心中したくなるのが当然だと彼は怒っております。
 要するにどんな大論理家が身の上相談に当っても、こういうことは論理的に当事者を納得させるような結論は決して出てこないものですよ。当事者二人ともその論理の出発点が全然個性的で、先生の論理と論理の性質を異にしているから、新聞の短い文章で答がでるのは百害あって一利なし。私は、身の上相談欄というものは、単なる読み物で、それも一番低俗な読み物。そういう風に解しております。そういう意味では実に存在の理由があります。
 こういう実生活上のゴタゴタは、公式の裁判に限るようですね。裁判というと大ゲサですが、公式で手軽な調停機関があって、手軽というのは手続きが手軽ということで、調停の仕方が手軽で安直であっては困りますが、両方の身になってよく考えてやって、こういうヒビができると、元の枝へ返すのはムリですから、両者に生活能力があるなら、円満に別れて別々に新しく出発するための良き機縁となり、良き案内者となってやる。そういう機関があって、やってくれると、それが何よりなのでしょうね。しかし各家庭のゴタゴタの世話をやくには大そうタクサンのそういう機関が必要で、日本中のゴタゴタの千分の一に手がまわるだけでも大変だろうなア。
 とにかくハッキリ云えることは、こういうゴタゴタに両者に納得できる論理は実在しないということです。しかし、正しい論理はあるのですよ。だが正しい論理があっても、両者をそれで納得させることは不可能だという意味です。その一ツの証明になるのが、この投書ですよ。
 しかし、非常に親切な調停機関があっても、この人の場合は、うまく両者が納得できて、各々幸福だというような解決をつけてあげられるか、どうか、疑問だと思います。
 まずこの事件の原因は夫が失職して妻が働いたのが失敗の元ですな。この夫は手記の中で(第一の投書)外地の生活は地位の低い方でもなかったというようなことを仰有おっしゃるが、その同じような地位で内地の就職ができない、そして失職してるというような気持があるのでしたら、それが根本的にマチガイでしたでしょう。夫が失職して妻が派出婦になる。派出婦というものは、もしもこの夫のように職業に地位の高低があるとすれば、まず最低の地位の職業ですね。奥さんをそんな最低な仕事にだして一家の生計をたてる必要があるなら、旦那さんたるもの失職してる筈はあり得ませんや。派出婦に匹敵する低い地位の男の職業なら必ずある筈のものです。
 夫が失職して生活できないから、妻がダンサーになった、女給になった、という。こういうことが原因で一家の平和がメチャクチャになるような話は昔から山ほどあったものですね。この夫が考えているような通念からみれば、接客業というものは最低以下の職業ですが女房をそういう最低以下の地位に落して稼がせるぐらいなら、男の職業がない筈はありませんよ。女房にそういう仕事をさせても、自分の方は多少とも社会的地位のある職業でなければならんという考えが、かかる悲劇や家庭破滅の最大の原因をなしております。女房に地位の低い仕事をさせて(奥さんの仕事の地位が低いというのは私の考えではなくて実はあなたの考えなのだが、そのこともあなたはお気づきになっておらんだろうなア)自分は多少でも地位や身分のある仕事をさがして、そのために自分の方には勤め口が見当らん。そして奥さんの稼ぎで自分の生活もおぎなってもらっておりながら、自分の方では相変らず地位だ身分だというようなコダワリがあるとすれば、そういう妙な気位や威張りが、奥さんの目には実にバカバカしく妙なイヤらしいものに見えるのは当然だろうと思いますよ。
 女房の奴メ、不貞だ、手討にいたす、というようなのは、あなたが殿様かなんかで、奥さんにゼイタクをさせて飼い犬のように不自由なく飼っておった場合に、わが意に反することをするといってブン殴ることはできるかも知れんが、男女同権というような新憲法の時代でなくとも、女房をそういう働きにだす以上は、もう女房はないものと思わねばなりません。男の地位や身分をまもるために妻女が最低の地位に落ちて稼ぐというのは、すでにその一家には通常の論理が失われているということを意味しておりますね。その一家が通常の論理の上に安定しているためには、まず男の方がどんな地位の低い仕事についてでも、真ッ黒になってボロを着て指は節くれて掌に血マメが絶えなくとも、男が一家の生計を支えねばなりません。夫に妻の不貞を咎め制裁する権力がないとは何事であるかというような論理を支えるには、さらにその上に、あなたが殿様で犬を飼うように何不自由なく女房を飼っていてのことだ。私は法律だの憲法を云っとるのじゃありません。そういうものではなくて、日本人の通常の家庭生活において、その旧来の習慣をひっくるめ、さらに社会環境をひっくるめ家庭の外部と内部を通観した上で、一家の支えとなる論理について云ってるのです。
 編輯部から持ってきた今月の出来事の中で、一ツ、こんなのがありました。結婚以来三十年という老夫婦、二人の息子が二十九、二十四という大人になってる家庭で、父に金ができたら女遊びをはじめて愛人ができた。母に同情した息子が父を責めてポカポカぶん殴ったので、父は家を出て愛人のところで生活するようになった。息子はそこへも押しかけて行って父を十五か十六ぐらいポカポカぶんなぐったそうだが、息子の後援で母の方から離婚訴訟を起したという事件です。この訴訟を起した直接の原因は家出した父が養子を探しているのを探知した母と息子方の方が、このまま放置しておくと財産を養子にとられる怖れがあって、こうなったものらしい。
 こういうように、実の息子が父の頭をポカポカ十五か十六もなぐるような暴力沙汰に及んで、もはや父と子の和解の道は得られない状態になっても、ここには財産というものがあるために、裁判によって解決の道が得られます。息子がオヤジを十五も十六もぶんなぐっても一家心中ムリ心中、オヤジ殺しなどに至らないのは、財産があって、それが愛憎を適当に解決してくれる見込みがあるからですね。
 ところが、この投書の場合には、物質的に解決する手段がないですよ。父と息子のケンカは財産があることによって起ったような一面もあるかも知れませんが、投書の場合はアベコベに無一物であることから事が発しておって無一物であるために、論理的にも物質的にも両者を納得させる解決ができそうもない。したがって、誰が調停したって、結論は二ツしかない。夫が妻をあきらめて別れるか、妻が夫のもとへ戻って夫が生計を支える働きにつくか。
 ところが、この夫の手記によると、妻の不貞を制裁できない民主国なら一家心中ムリ心中も辞せんと云うし、一方二人の仲にヒビができて不貞という観念が夫の念頭にからみついてしまったのに、芸者をやめて戻ってきた妻が夫に隷属する生活に堪えうるかどうか。この手記によって判断しても、まったくこの夫にかかっては妻は隷属ですからね。
 法律で妻の不貞が制裁できないから、一家心中ムリ心中を考えるという、こういう性質の男は、たいがいの女房に逃げられる性質の男だろうと思いますよ。彼の思想や感情の上で、女房は奴隷にすぎないもの。奴隷は飼われているのだから、飼う能力がなくなれば主人から離れたり逃げるのは仕方がない。逃げずに、むしろ忠義をつくし、恩を返すべきだ、というのは殿様の方の論理で、また殿様から考えての美談佳話で、正常の論理から判断すれば、奴隷は主人に飼う能力がなくなれば逃亡離散するのが当然であろう。
 両者が人格を認め合い、二ツの人格の相互の愛情というものが家庭の支えとなっていたようなところは、この夫の手記からは見ることができません。
 この夫の場合だけに限りませんな。日本の亭主は、大方その傾向があると思いますが、日本の憲法や法律がどうあろうとも、日本の亭主の習慣的に育成された思想や感情やそれにからまる論理の現状に於ては、生活に困った場合に女房を働きにだしてはダメにきまっています。必ず家庭の破滅がそこから起るものと覚悟すべきであろう。そしてその破滅のモトは亭主の思想や感情や論理に内在していると見ればよろしい。
 日本の亭主は女房に対して殿様の位置にある。ご亭主関白という通りです。何が殿様であり関白かというと習慣的に育成された思想や感情や論理がそうなのであって、衣食住の実生活はそれに全然ともなっておらんから、まことにこまる。それでも、とにかく自分が働いて女房子供を養っているうちは、曲りなりにも亭主関白の超論理で女房側の正論を屈服させ、封じこめておくことができる。自分に生活能力がなくなって女房を働きにだしてしまえば、女房は家庭の超論理から解放されて、自分の論理をうるのは当然ですよ。
 だから亭主関白の論理の現状に於て、生活に困って女房を働きにだすということは、家庭の破滅の決定的なモトをなすものですよ。おまけに亭主関白の側から云わせると、亭主が困った時には、女房が働いて亭主につくすのが当然だというような考えもあるから、尚いけない。のみならず、女房が世間へでて働いてみると、家庭生活がいかに暗くてツマラナイものか、それがハッキリ分るのが尚いけない。特に彼女の現下の家庭というものは彼女のヤセ腕にすがるような暗い惨めな生活であるから、世間にでて働くたのしさや面白さが身にしみるでしょうね。
 ちょッと考えてみれば、分りすぎるぐらいよく分ることですよ。日本の家庭感情の現状に於ては、生活に窮すれば窮するほど男はわが一人の腕で一家を支え、亭主関白たる貫禄を実力的に保持するために全心全霊をあげて悪戦苦闘すべきであって、コンリンザイ生活のために女房を働かせてはなりません。
 むしろ、生活苦のためではなく、お金に困らない場合に、女房を働かすべきです。自分の仕事の助手とか、共同の仕事とか、そういうことで奥さんに手腕をふるってもらうのは却って家庭平和のモトをなすかも知れません。女房が家庭生活一方というのは、そういう家庭的な性格の奥さんならよろしいが、社交家で家庭外の方向に手腕もあるし、家庭生活だけではなんとなく物足りないという性格の奥さんには、はじめからそういう手腕を外部的にふるってもらって、それで浮くお金で女房の家庭労働を省くようにするのですな。二人で外で食事するようにしてもよろしいし、手数の省ける家庭用の文明器具をとりそろえるように心がけてもよろしいでしょう。そのような明るく便利な家庭を建設するような考えがあって、奥さんもともに働くというようなことは、よろしいな。お金持であればあるほど、むしろ奥さんは働く方がよろしかろう。
 生活が苦しい時に奥さんを働かすことは絶対にやってはダメです。苦しい時に働いて助けてくれないようなそんな女房はひどく不自由で、実に女房なんて物の役に立たなくてバカバカしいものじゃないか。実際バカバカしいものなんですよ。つまり困った時に役に立つというような飼主的な亭主関白の独善的な論理や倫理が、結局、アベコベに、困ったときに役に立てようとすると破滅をもたらすことになる。その決定的な因子をなしているのですよ。困った時の役に立てようと思って女房を働かせると、女房が発見するのは亭主の独善的な論理の陰に隠されていた自分の論理と、それから世間の面白さ自分の家庭の暗さであります。
 働きにでた女房が彼女の論理を発見するような結果になったときには、日本の男の子は自分の腕で生活を支えられなかった責任を感じるのが第一に大切なことで、一家心中ムリ心中などと云うようでは、全然ダメだなア。女房を派出婦にする代りに自分の方がどんな賤業についても一家を支え亭主関白の貫禄を支えるべきであった。アア、我アヤマテリ、と思いなさい。日本の夫婦は男女同権ではありませんとも。憲法や法律はどうあろうとも、生活の実情に於て亭主関白、飼主の特殊な論理や倫理は亭主側にあって、それで威張っているのだから、飼い女房を働きにだして逃げられたら、それは自分の力で生計を維持して飼主の実力を維持できなかった自分の責任であるから、アア、我アヤマテリ、罪は男の子たる自分にのみありと認めなさい。こういう際には男女同権ではありません。亭主は関白であるから、女の子に罪をきせてはならん。必ず、アア、我アヤマテリ、と云わなければならんものです。





底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第六巻第八号」
   1951(昭和26)年8月1日発行
初出:「オール読物 第六巻第八号」
   1951(昭和26)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について