安吾人生案内

その六 暗い哉 東洋よ

坂口安吾




     奈汝何  節山居士

 抑々そもそも男女室に居るは人の大倫であり、鰥寡かんか孤独は四海の窮民である。天下に窮民なく、人々家庭の楽あるは太平の恵沢である。家に良妻ある程幸福はない。私の前妻節子は佐原伊能氏の娘で、実に貞淑であり、私の成功は一にその内助に依り、その上二男三女を設けて立派に嫁婚を了えた。うらむらくは金婚式を拳ぐるに至らず、私の為に末期の水を取ると臨終の際まで言いつゞけて遂に亡くなった。晩香はこの節子の果たし得なかった役割を演じて呉れるべく、突如として現われたので、私の晩年は御蔭で幸福であった。私は継配として迎える以上、正式に結婚するつもりであったが、入籍のことは晩香が固辞したのでそれに従った。晩香は己れをいつわらず、極めて恭順な態度であったから、私の近親もよくその人となりを諒解し、一年の間には相親しむ様になり、私も大に安心した。然るに入籍させなかったから今回の不幸を見るに至ったというものあらば、晩香の真情を知らざるものである。
 要之これをようするに私と節子との夫婦生活は愛と敬とに終始したが、晩香とは愛の一筋であった。晩香は長岡での全盛時代、偶々たまたま軍需景気の倖運児の妾となったが、元来妾という裏切り行為をいさぎよしとせず、断然之を精算して、自ら進んで名家の正妻となったけれども、散々苦労の末、遂に破鏡の憂目に遭った。世の荒波にもまれながらも、よくその心の純真さを失わなかった。泥沼の蓮とは晩香のことである。(廿五年三月号の主婦と生活につまびらかである。)私は晩香の純情を愛した。晩香もまた私に由り、私を通して、始めて真の愛情を知った。私から受ける直接の愛ばかりでなく、私を取りまく人々の意気に感激した結果である。尾崎士郎君は「夢よりも淡く」と評し去ったが、夢ではなく、現実であった。即ち晩香は小田原に於ける漢文素読会を生んだ。もとより私を中心としての学生会であるから、私は生みの親であるが、晩香は育ての親であった。学生の晩香を追慕する情は誠に涙ぐましいものがある。晩香亡き後、私はむしろ二三子の手に死なんと願うものである。(と言っても決して長男夫婦の孝志を辞する訳ではない。)
 私の心境は伊東火葬場の棺前で述べた通りである。神仏の前には身分の相違はない。新憲法も人権の自由平等を認めて居る。棺前に立った時は塩谷温対長谷川菊乃であった。之が人間の真の姿である。穂積博士の脳髄は医学の好資料となった。私は俎上の魚となった以上敢て逃げかくれはしない。内外の学者文士、評論家に由って私の人間味を忌憚なく縦横に評論して戴きたい。戦後派諸人の反省する所となり、人道の扶植ふしょくに寄与するあらば幸甚である。或人は「恋は内証にすべきもので公然なすべきものでない」といい、又或人は「先生の愛は僅に一年有半に過ぎなかったが、それは圧縮した一篇の詩である。長くなれば散文になってしまう」といった。夫れ然りあに夫れ然らんや。嗚呼私は是にして公は非なるか、美人は薄命か、薄命なるが故に美人か。仰いで天に問えば天は黙々。俯して地に質せば地は答えず、菊乃々々奈汝何。(七月三日於小俵晩香庵記)

 私の姪が自殺したことがあった。年は廿。自宅の前の堀へ身を投げて死んだ。自家用の堀だから、深くない、底に小石を敷き、山の清水をとりいれてめぐらしたものだから、キレイに澄んでいて深さよりも浅く見えるかも知れないが、雨後の満水時でも腰よりも深いとは思われない。姪は一滴も水をのんでいなかった。飛びこむ前に覚悟の激しさに仮死状態だったかも知れない。しかし、自殺には相違ない。深夜、一時と二時の間ぐらいに寝室をでて身を投げた。神経衰弱気味で、小さな弟に、
「一しょに死なない?」
 と誘ったこともあったそうだ。
 姪の方が菊乃さんよりも原因不明の状態である。婚約がきまって本人も満足していた時であったが、胸を病んでいた。しかし一応全快後で、病後には私のところから東京の女学校へ通っていた。明るくて、表面は甚だしくノンキな娘であった。あんまり宝塚へ通いすぎるというので私の母に叱られたことがあったが、この娘はいささかもヘキエキせず、巧みな方法で母を再々宝塚見物にひっぱりだして、いつか年寄りをヅカファンにしてしまった。ヅカ見物が公認を得たのは云うまでもない。生きていると、いくつかな。菊乃さんよりは若い。姪の故郷は長岡藩の隣りの藩に所属している。そしてサムライではないようだ。
 誰が自殺するか、見当がつかないものだ。私が矢口の渡しにいたころ、近所の老夫婦が静かに自殺していた。小金があって、仲がよくて、物静かで、平穏というものの見本のような生活をしていた人である。子供がなかった。世間的に死なねばならぬような理由は一ツもなかったらしいが、すべてを整理し、香をたいて、枕をならべて静かに死んでいたそうだ。
 塩谷先生は菊乃さんが自殺したと説をなす者を故人をいるものだとお考えのようであるが(同氏手記「宿命」――晩香の死について――週刊朝日八月十二日号)誰が自殺しても別にフシギはないし、自殺ということが、その人の、またはその良人の不名誉になることだとも思われない。
 浜辺に下駄がぬいであったということは、偶然死よりも自殺を考えさせるものであるし、殆ど水をのんでいなかったということは、思いつめた切なく激しいものによって、目当ての死に先立って死んでいた、そういう一途な思いつめたものを考えさせます。先生がたまたま通りがかりの仏寺の読経をきいて黙祷した。と、仏寺の主婦が現れて茶に誘ったという。それを菊乃さんの死の時刻と見、霊のみちびきと見るのは、あるいは然らん。死しても魂の通うお二人であったでしょう。しかしながら、菊乃さんに自殺の理由は甚だ多くあってもフシギではありますまい。平穏円満な生活の裏にも破綻は宿っているものです。彼女は神経衰弱気味であった由、これほど彼女の自殺を雄弁に語るものはない。
 アコガレというものは、一生夢の中にすみ、現実からとざされているから、そのイノチもあるし、人生の支えとなる役割も果す。アコガレが現実のものになるのは危険千万で、誰かがアコガレの対象とあった場合に、他人のアコガレを現実的に支える力はまず万人にありますまい。もっとも、教祖というものがある。これはその道のプロだ。そしてキチガイの関係に属するものだが、一般の夫婦円満の根柢にも教祖と信者的な持ちつ持たれつの信仰の一変形はあるかも知れない。
 大詩人だの大音楽家だのと云ったって、その他人にすぐれているのは詩と音楽についてのことで、ナマの現身うつしみはそうは参らん。現身はみんな同じこと。否、現身に属する美点欠点にも差はあるだろうが、それは詩や音楽の才能と相応ずるものではありません。
 菊乃さんは越後長岡の半玉時代に先生の酒席に侍って一筆書いてもらった。それを十七年間肌身はなさず持っていたが、近年宴席で先生に再会し、結ばれるに至ったという。まことに結構な話で、そのまま先生の晩年が死に至るまでそうであるのも結構であるが、その平穏円満な生活のうちにも菊乃さんが、なんとなく自殺してしまったとしても、別にお二人のどちらが悪人小人だということにもならない。人生はそういうものだ。二人の人間が互に善意のみを支えとして助け合うつもりでも、破綻はさけがたい。人間は悲しいものです。
 半玉時代にいただいた一筆を十七年間も肌身はなさず持っている。十七年目の再会に、それが二人を結ぶ縁となった、ということは不自然ではない。何の縁がないよりも、何かの縁があった方が結ばれ易いのは自然であるが、それは二人を結ぶために縁となる力はあっても、結ばれて後にはもはや何物でもない。あとは二人の現身があって、よりゆたかなたのしい生活のために協力しあう現実があるだけのことだ。
 半玉時代の宴席でもらった一筆を肌身はなさず持っている、ということは、それを縁とするには結構だが、その後の二人の結婚生活を根柢的に支えているのがそれだという考えが当事者にあれば、はなはだ危険なことでもあろう。
 こういう縁はノロケや冗談としては結構である。そんなノロケをきいても、別に誰も怒りやしない。先生も甘いなア、とか、しかし円満で結構だ、とか、その程度であれば、それは人間一般のことだ。
 しかし、それが絶対の宿命というように考えられ、まるで日本の神話のように、伝説ではなくて事実よりももっと厳粛な天理であるというように考えられると、その天理をいただく軍人指導者とただの庶民との距りと同じものが必ず生れてくるものです。神がかりの軍人指導者は一億一心ときめこんでいますから、弱い庶民は表面はそれに逆らえず、彼我の距りを隠してついて行く以外に仕方がないようなものだ。菊乃さんの場合は、自分の方から十七年間云々の伝説をきりだした以上、戦争時代の庶民以上に間の悪いハメで、かかる菊乃にめぐりあうのも先妻節子のみちびきであろう、なぞと先生の説が飛躍しても、一言もない。
 だいたい一人の半玉が、宴席に侍って書いてもらった漢詩かなんかを肌身はなさず持っていた、というのは、美談とは申されないな。肌身はなさず、ということがすでに異様で、詩や詩人を愛すことはお守りとは違うのだから、肌身はなさず持つということが決して正しい尊敬の仕方だとは思われないが、事実肌身はなさず持っていても異様だし、事実はそうでなくとも、肌身はなさずと云わねばならぬ雰囲気がすでに異様なのであろう。
 菊乃さんがどれだけの漢学の素養があるのか知らないが、よほどの素養があったとしても、要するに先生のファンだということであろう。私のような三文文士でも宴席で先生のファンですというような芸者に会うことは稀れではない。肌身はなさずなどとゾッとするようなことを言われたことはないが、枕頭の書、誰より愛読しています、というようなことを言われることも無くはなかった。私はヒネクレているから、そういうことから、どうなったこともないが、太宰治の心中の場合はそういうことから始まったようだし、その他、師弟が恋仲になって心中したり、古い女房と別れて同棲したり、それが更に破れたり、大変なケンカになったり、また終生円満平穏の家庭がつづいた場合もむろんある。いろいろ場合があった。菊乃さんの場合はその一ツの変形であろう。
 私は事実を知らないから想像にもとづいて云うのであるが、先生から書いてもらったものを十七年間肌身はなさず持っていたというところを見ると、これが小説の場合だと先生のファンだとハッキリ云うところだが、漢詩だと読めないのだからファンだとも云えない、そこで十七年間肌身はなさずというような表現になったのではないかと思うが、十七年間肌身はなさず持っているということよりも、その作品をよんで、十七年間、他のどの作家よりも愛読している、という方が、はるかに作者に身ぢかいものだろうと思う。
 読者にもいろいろある。しかし、他の誰にも増して一作者に近親を感じ、その全作品を暗記するまでに愛読している。それにちかいような読者がかなり居るものである。しかし我々がそういう読者に会っても別に宿命とも感じない。そういう読者に比べれば、酒席で書いてもらった一筆を十七年間肌身はなさず持っていたということは決して宿命的なものでもないし、本当に心が近寄っているアカシでもなかろう。むしろ異様で、妖しいよ。本当の愛読者も、もしも愛読する作家の筆跡を手に入れれば、肌身はなさずは持たないだろうが、大切に保存することは言うまでもなかろう。そういう例は少くはないが、現代作家の多くは作家対愛読者のありふれた現象とみて、それを宿命的なものだという風には解さないのである。
 時には愛読のあまり作家を師とも神とも恋人とも思いこむような婦人愛読者が、作家の作風によってはあると思うが、その結果、恋となり、結婚となっても、うまく行くとは限らない。大そう憎みあってケンカ別れとなった例もあったようだ。そしてそれもフシギではない。
 菊乃さんがそれほどの愛読者だとは思われないが、愛読者であってもなくても、要するに十七年間肌身はなさず、というようなことは酒間のノロケには適当かも知れんが、それ以上に考うべきことではなかろう。それを機縁として結びついたにしてもそれは機縁となったことで役割を果し了り、後日まで残すべきことではないのである。恋愛や結婚生活にとってノロケのほかには伝説や神話は介在すべきものではない。伝説や神話はノロケでしかないということはそれほど実人生は厳しく、厳粛なものだということだ。配給された花聟花嫁を絶対とみる以外に自由意志のなかった昔の人々とちがって、恋の一ツもしてみようというコンタンを蔵している人間というものは人形とはちがう。心の裏もあれば、そのまた裏もあるし、その裏もある。悪意によって裏の裏まで見ぬくのは夫婦生活としては好ましくないが、相手のために献身的であろうとして裏の裏まで見てやる、相手を知りつくす、ということは何よりのことだ。塩谷先生は悪意はなかった。むしろ善意と、献身的な気持で溢れていたようだ。けれども、自分の美化した想念に彼女を当てはめて陶酔し、彼女のきわめて卑近な現実から自分の知らない女を発見したり、彼女の心の裏の裏まで見てやりはしなかったようだ。先生は彼女を詩中の美女善女のように賞揚して味っていたが、詩中の美女善女のような女は現実的には存在しないものである。
 現実的な人間は、もっともっと小さくて汚く、卑しいところもあるものである。それは肉慾の問題、チャタレイ的なことのみを指すものではありません。肉慾などよりも、精神的に甚しい負担が彼女にかかっていて、彼女はジリジリ息づまるように追いつめられていたのではありますまいか。それは詩の中の最上級の美女善女に仕立てられた負担であった。もっと卑しくて、汚らしくて、小さくて、みじめなところ、欠点も弱点も知りつくした上で愛されなくては、息苦しくて、やりきれまい。

          ★

 塩谷先生は菊乃の欠点もよく知っていた、全てを知った上で、彼女を美しきもの良きもの正しきものと観じて愛したのだ。と仰有おっしゃるかも知れないが、私はそうではないと思う。
 先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ。たとえば軍人が、軍人精神によって、一人の兵隊をよき兵隊として愛す。ところがこの兵隊はよき軍人的であるために己れを偽って隊長の好みに合せている。その好みに合せることは良き軍人ということにはかのうが、決してよき人間ということにはかなわない。彼自身が欲することは良き人間でありたいということで、良き軍人ということではなかったのだが、この社会では軍人絶対であるから、どうにもならない。独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられないのである。
 それと同じようなものが、先生の場合である。週刊朝日の「宿命」という先生の手記には、人形でない人間には堪らないと思われることが書いてあります。
 先生は菊乃さんが芸者であったということに大そうイタワリをよせていますが。
「私が現職(註、大学教授のこと)であり晩香(註、菊乃さんのこと)が花柳界に籍を置くならば、名教の罪人でもあろうが、私は既に教壇を退き晩香も一旦人の正妻となり離婚後であった」
 とある。すぐその後につづけて「いつまでも元芸者が附きまとうのは気の毒でまったく旧来の陋習である」と先生はいたわって仰有るが、前文はそのイタワリが形骸にすぎないことを悲しいほどハッキリ表しているではありませんか。同一人物の結びつきが、数年前の自分には罪悪であるが今はそうでないという。身分ちがいであるが有難く思え、ということゝ端的に同一で、先生が某大名の子孫の謡曲の相手に招かれ、菊乃さんがそれに同行したことを記して、
「越後長岡出身のしずが、旧藩主の御同族なる旧田辺藩主より私と同行する様に求められるに至っては、晩香の名誉この上もなく、死して瞑すべきである」
 とある。ここまで読み至って、私はまったく暗然、救われないほど、やりきれなくなってしまった。菊乃さんがこの生活に満足し、なんの不足もある筈がないと先生が仰有ったって、そんなことをマトモにきけるものではありません。この一文をよめば彼女が自殺したことには何のフシギもない。それが先生にお分りでないようだから、救いがないのである。
 現職の教授が芸妓を女房にするのは名教の罪人だと仰有るけれども、こういう考えの人が芸者を女房にすることが罪人なのだ。
 二人の結びつきは「恋愛の遊戯ではなくて、切実なる老後の生活問題である」と仰有る。切実な老後の生活問題とは、
「結髪の妻節子を喪ってから、長男夫婦の世話になって居たが、偶々たまたま病に臥してからつくづく、世話人なしでは老境を過せないと感じた。いかに舅思いの嫁でも、主人に仕え、幼児が二人もあっては、下婢を使うことのできない今日では、私の世話まですることは到底やりきれない。困って居る処へ、二三の人より熱心にすすめられ、終に晩香と結婚するに至った」(週刊朝日の手記より)
 切実な老後の生活問題という意味は、たしかに、そうであったろう。行く先不安な老人にとって一人ということは堪えがたい怖れであるに相違ない。切実な生活問題というその切実さは、老境に至らぬ私にも容易に想像し同感しうるのである。
 先生は籍を入れようとしたが、菊乃さんが辞退したそうである。先生の気持は明かに正妻であって、菊乃さんをそのように遇した。そして、菊乃さんが末期の水をとってくれるというので先生は安心し、生活は安定をうるに至ったという。
 それらは全て結構である。私とても、身寄りにそのような老人がおれば、再婚をすすめるかも知れない。
 先生の老境にある者の切実な生活問題という言葉からは、正妻とか、伴侶というものよりも、侍女、忠実な侍女、という意味が感じられるが、それであっても別に不都合ではなかろう。忠実な侍女が切実に欲しいという老境の切実さは同感せられるのである。むしろ、今さら正妻というよりも、侍女。実質的にそういう気持が起り易かろうと想像される。
 永井荷風先生も似たような立場であるが、もしも荷風先生が伴侶を定める場合にも、たぶん正妻とか女房なぞと大ダンビラをふりかざすような言い方よりも、侍女を求めるというような心境であろうと思う。
 しかし、塩谷先生は、その心境の実質は侍女をもとめる、というようなものであったが、菊乃さんを得て後は、侍女どころか、正妻も正妻、まさに意中の恋人を得たかのようだ。これ、また、結構であろう。先生の知己ならずとも、これを祝福するが自然であろう。先生が菊乃さんに甘いのも、大いに結構。門下を前に大いにのろけ、それを門下ならざる私が見ても不都合どころか、むしろ大いに祝福の念をいだいたであろう。
 先生は晩酌をやるにも、まず菊乃さんに盃を献じ、彼女に酒をすすめることを楽しむようであったという。まことに美しい心境である。そういう先生の心境は、菊乃さんに対するこまやかな愛情にあふれ、いかにも老いたる童子の感あり、虚心タンカイ、ミジンも汚れがない。見る者の心をあたためる風景であろう。
 先生の菊乃さんへの溺愛ぶりは、いかにも手ばなしの感で、大らかでもあるし、マジメでもある。思うに先生は生涯順境にあって、邪心を知ること少く、いかにも無邪気な人であるようだ。ハタから見れば、親しみ深く、愛すべき人であろうと思う。
 しかし、他人同志の関係ではなく、先生と切実な関係に立った者には、どうであったか。先生の老後の生活問題が切実であった如くに、菊乃さんの生活問題も切実であったにきまっています。
 老後といえば、芸者というものは、若い時から甚だ切実に老後を考えているものです。それは花聟や花嫁を配給される家風になれた人々が、若い時に老後を考える必要がなく、目先の甘い新婚生活の夢でいっぱいで、事実に於て概ねそれで一生が間に合うのに比べて、大そうちがう。彼女らには老後について一ツも約束されたものがない。
 塩谷先生は死水をとってもらえば、それで足り、それ故に菊乃さんを得ることによってすでに安定を得た老後であった。しかし、先生なきあとにも、菊乃さんの老後は残っているのである。
 戦争前の財産が殆どゼロとなった今日、先生なきあと、菊乃さんの老後のタヨリとなる多くの物があろうとは思われない。
 先生は敗戦後の今日往時のように華やかな時代はすぎ去っても、尚多くの門下生にとりまかれ、そういう雰囲気というものは、どこの学者や芸術家にもあることで、諸先生の客間や書斎はどこでも王城のようなもの。その書斎の主が王様で、そこの雰囲気しか知らなければ、学問や芸術の王様は天下にこの先生たった一人のように見える。ナニそんな王様は天下に三千人も五万人もいるのだ。
 先生とそれをとりまく門下生は、わが王城の雰囲気に盲いてわが天下国家を手だまにとって談論風発して、それで安心し、安定していられるけれども、天下の大を知るハタの者から見れば、まるで違う。菊乃さんは芸者だから、永年客席に侍ってきた。芸者の侍る宴席というものは、これがまた各々一国一城の雰囲気をもっているもので、村会議員やヤミ屋の相談会でも、やっぱり王様や王国の雰囲気、王様と王様の御取引なのである。
 そういう数々の王様や数々の王国の雰囲気を、表からも裏からも見てきた菊乃さんは、その雰囲気になんの実力もなく、頼りないことを身にしみて知っていたであろう。
 この王国は王様が死ねばもはやどこにも存在しなくなるものである。文士や編輯者の間には文士の女房について「亭主に先立つ果報者」という金言がある由である。つまり、亭主たる文士が生きていて盛業中に死んだ女房は、恐らく亭主たる文士の死よりも盛大な参会者弔問客にみたされ、キモの小さい人間どもをちぢみあがらせるぐらい大葬儀の栄をうけるであろう、という意の由である。果して然りや、真偽の程はうけあわないが、それほどではないにしてもとにかく王様が生きてるうちはそんなものだ。しかしこの金言の真意はむしろそのアベコベを云うのであろう。王様が死んだあとの女房は全然誰も寄りつかず、寄りつくとすれば何か目的のためであり、むろん葬式なんぞに誰も来てくれやしない。そういう意味を云っているのであろう。
 塩谷先生がこういう金言を身にしみて考えられるようだと菊乃さんも死ぬ必要はなかったであろう。
 ところが、先生はあまりにも無邪気すぎますよ。門下生たちの集りの、自分が生みの親であるが、菊乃さんが育ての親で、一同にしたわれていたなぞと、タワイもないことを仰有っておられるが、そのような王国の雰囲気のたよりなさを身にしみ知る者にとって、このような先生の無邪気さは、たよりなくもあるし、時に甚だ憎らしいものであったと思われます。
 しかも先生は、越後長岡の賤の女がその旧藩主の同族たる殿様に招かれるに至るとは名誉この上もなく、死して瞑すべきである、というタテマエであるから、賤の女の心事が分らぬにしても、論外である。
 先生自身は菊乃さんを得て老後の切実な生活問題も解決して、解決以上に大満足を得て、安定し、たのしかったであろう。門下生にとりまかれて一国一城の主を自覚し愛人に美酒を献じ、愛人の三味の音をたのしみ愛人の手拍子に興を深めつつ詩を吟ずる。また殿サマに招かれて恋人を同伴、謡曲のお相手となる。それで満足、先生自身はどこにも不足はなかったであろう。
 先生の満足が深く無邪気であるほど、菊乃さんには堪らなかった筈である。菊乃さんにだって、切実な老後というものがある。その切実さは恐らく先生以上であったにきまっている。なぜなら先生は菊乃さんが居なくとも門下生にかこまれてともかく王様でありうるが、そういう約束は菊乃さんの老後には皆目保証されていない。
 しかも、先生の論理によれば、芸者という賤の女が自分のような学者の妻となり、古の殿サマの一族の前へでられるのだから幸せも極まれり、というのであるから、彼女の老後の如きは全然問題ではないらしい。
「実に菊乃は唐人伝奇中の人物である」
 と仰有る。
 つまり芸者ともあろう下賤の者が自分のような大学者の妻となり、古の殿様の謡曲の席に同席するに至ったのが、唐人伝奇中の人物に当るという意味であるらしい。ウヌボレの無邪気なのも結構であるが、当の菊乃さんにとって、このウヌボレの無邪気きわまるものが、どう響いたであろうか。暗澹たる心中、察するに余りあるではないか。
 先生の菊乃さんへの愛情は一途なものであったろうが、芸者たりし故に賤の女と見、自分の妻となったのは名誉この上もなく、死すとも瞑すべきであるとなすような考えも、これまた牢固たる先生の本音であり、しかも、それすらも愛情のアカシであり、ノロケのタネであった。
 自分の愛がいかに高く深いか。それを証するものが、この賤の女をわが女房としてやったことである。この一事こそ至高の愛の証拠であり、お前は唐人伝奇中の人物、死しても瞑すべきではないかという。
 愛されることが、口惜しく、癪にさわり、腹が立ち、我慢ができなくなるのが当然ではありませんか。憎悪にかられるのが当然でしょう。しかも当の本人は、自分が恋人をこの上もなく傷つけているのが分らないぐらい無邪気なのだ。実に人々はそれを彼の無邪気さと云い、彼の底なしのウヌボレ。額面通り大先生が賤の女を愛すとはエライことだ、汝幸せな女よ、と言うであろう。そして、彼の一人ぎめの大そうな名誉が自分に配給されてるそうだが、切実な老後に対する保証は一ツもない。
 それというのも、自分が彼の一筆を十七年間も肌身はなさず持っていたなどゝ云いだしたのが事の起りであると思えば、要するに彼によって救われ、安定を与えられ、死しても瞑すべき名誉を与えられ、いわば、先生の無邪気というもののイケニエにあげられた観あるのも、身からでたサビである。誰を恨む由もない。
 切実な生活問題が解決し、生活の安定を得たのは先生だけで、菊乃さんは救われもしないし、安定してもいないのだ。
 集まる門下生は先生同様無邪気で、単に快く王様をかこむ雰囲気にとけこむだけであったろう。先生の一人ぎめの晩香になりきって見せ、先生が思いこんでいるように、先生によって救われ安定を得た賤の女として、しかも古の殿様との同席にも堪えうるような利巧者になりきって見せ、満足の様子もして見せなければならぬ。こういう生活の負担がどんなにやりきれないものか、先生には全然お分りにならないのだから、助からない。
 むろん菊乃さんには先生の愛情の一途なのはよく分っていたし、その限りに於て、実に甚しく感謝もし、先生に対する並ならぬ敬愛もいだいていたろうと思いますよ。その敬愛が死に至るまで一貫していたことは、第一に、その自殺自体が証明しています。音もなく、声もなく、まるで影が死ぬように、菊乃さんはさりげなく死んだではありませんか。
 そのさりげなさは一に先生に対する敬愛の深さ高さの然らしむるところであったでしょう。しかし、死なねばならぬようにさせたのも、やはり先生でしたね。菊乃さんに対する先生の愛情の一途さや無邪気さは万人に認められるものであるが、その無邪気さに傷けられてイケニエとなっている菊乃さんの切なさは誰にも分ってもらえない。王様をめぐる雰囲気の無邪気さは、その蔭にかくされた誰にも知られぬイケニエが自分ひとりだということを圧倒的に菊乃さんに感じさせたと思いますよ。人々自体が菊乃さんをも雰囲気の中のたのしい一員と認めているのですから、彼女にとっては、それを裏切るのは容易ではありません。離婚することもできないし、自分の本当の胸の中を誰に言うこともできない。彼女以外の人々はすべて王様とそれをかこむ神がかりの徒で、そこでは王様の言葉や論理が絶対だ。その神がかり的な雰囲気を破る力は、いかにその悩みが切実で、彼女の生活問題が切実であっても、その切実という力によって神がかりを破ることは不可能でしたろう。まるで質が違って、チグハグで、先方は全然我ひとり神がかり的に無邪気だから通じようもなかった。すくなくとも、菊乃さんの目には周囲の全てが取りつく島もなく絶望的に見えたろうと思われます。
 菊乃さんが離婚もできず、切実な胸の思いも云えないとすれば、とるべき手段は死あるのみ。仕方がない結果でしたろう。
 しかも、彼女は実に謙虚でした。すべてはわが身の拙さ、至らなさと観じたかの如くに、実に音もなく、影の如くに、帰するが如くに死んだ。しかも海中に身を投じながら、水をのんでいないというのは、彼女の思いつめた切実な思いのきびしさが、水中に身を投じて死する前にすでに彼女を殺していたのでも分るではありませんか。可憐な、いじらしい死ですよ。しかし、明るいね。菊乃さんは誰も恨んではいないだろう。そして、先生、さよなら、と一言、言いたかったろう。
 先生は自分の後からついてくる筈の菊乃さんがそッとおくれて海中へはいって死んだのを知らずに歩いていた。お寺の前を通ると読経の声がきこえたので、先生もふと黙祷した。するとお寺の内儀がでてきて茶にさそったそうですね。
 先生はそれを菊乃さんの死の時刻と判じ、霊の知らせと云っていますが、私もあるいは然らんと思います。そう思ってよいほど、死する菊乃さんの心事は澄んでいて、ただ親しい思い、なつかしい思いをよみがえらせ、心からの別離の言葉を先生におくりたかったろうな、と想像するのです。死に至る原因は、一に先生の無邪気な愛情やウヌボレに対する反感や憎悪であったにしても、すべての悲しさを死にかえて、われ一人去れば足ると見た人が死ぬときに、誰を恨む筈もない。むしろ一途の愛情となつかしさと感謝にあふれる一瞬があった筈だ。まさに死せんとする一瞬に。
 先生は自分の善意だけで、また己がいたわりと愛情を知るだけでしたが、まったく悪意がなくとも、人を殺すことはあるものですよ。そして善意からも破綻は生れる。人間と人間のツナガリは、実に複雑で、ややこしいものだ。誰かが楽しい時にはきっと誰かが悲しんでると見てもよろしいぐらいですよ。たとえ夫婦の間でも。人間二人一しょに本当に幸福だなんてことは、なかなかないものですよ。特に老後を考えるような、人生の晩年にさしかかった以後の人々に於ては。
 しかし、菊乃さんのような悲劇は方々にありそうだなア。当人は至極無邪気に、下賤の者、無学の者に、死しても瞑すべき名誉ある愛情や地位を与えてやったと思いこんでいる善人が少くないようですね。どんな人間にも、自分と同じく切実な人生があることをてんで知らずに、ただもう賤の女を助けてやったと陶酔している。助けられ、安定したのは自分だけじゃないか。第一、下賤な人間という考え方が、菊乃さんの悲劇の真相をあますなく語っているが、当人ならびに同類だけには分らない。漢学という学問が、だいたいに、真理を究める学問ではなくて、王サマの御用を論理の本筋としているもののようだから、そういう論理を体した人には人間は分らない。人間の本当の心と喰いちごうのは仕方がない宿命、まさに宿命のようです。
 菊乃さんは音もなく影のように静かに自ら永遠に去ったけれども、ガラッ八の私は喚きちらすように、叫びたいよ。菊乃は満足していた、死ぬ理由は一ツもないとは何事ですか。賤の女に死すとも瞑すべき名誉を与えたという一言が菊乃さんの悲劇の真相をすべて語っているのが分らんのですか。分らんのか。「賤の女」を女房にした「不遜」な罪が分らんのですか。分らなくて、すむことですか。
 人間の倫理は「己が罪」というところから始まったし、そうでなければならんもんだが、東洋の学問は王サマの弁護のために論理が始まったようなもんだから、分らんのは仕方がないが。
 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜、いずこへ行くか。
 オレは同行したくないよ。
(この一文はもっぱら週刊朝日八月十二日号の塩谷氏の手記「宿命」をもとに書きました。その手記にははるかに多くの本心が語られていると見たからです)





底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第六巻第一〇号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
初出:「オール読物 第六巻第一〇号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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