およそ芸ごとには、その芸に生きる以外に手のない人間というものがあるものだ。
文学の場合にも、時にこういう作家が現れる。一般世間では芸ごとの世界に迷信的な偏見があって、芸人芸術家はみんなそれぞれ一種の気違いだというように考えたがるものであるが、それは仕事の性質として時間正しく規則的という風には行かないけれども、仕事の性質が不規則だ、夜仕事して昼間ねている、それだから気違いだという
元々芸、芸術というものは日常茶飯の平常心ではできないもので、私は先日将棋の名人戦、その最終戦を見物したが、そのとき塚田八段が第一手に十四分考えた。それで観戦の土居八段に、第一手ぐらい前夜案をねってくるわけに行かないのかと尋ねたところが、前夜考えてきても盤面へ対坐すると又気持が変る、封じ手などというものは大概指手が限られていて想像がつくから、この手ならこう、あの手ならこう、とちゃんと案をねってきても、盤面へ向ってみると又考えが変って別の手をさす、そういうものだと言う。
これは僕らの仕事でも同じことだ。こういう筋を書こう、この人物にこういう行動をさせよう、そう考えていても、原稿紙に向うと気持が変る。
気持が変るというのは、つまり前夜考える、前夜の考えというのが実は我々の平常心によって考案されておるのだが、原稿に向うと、平常心の低さでは我慢ができない。全的に没入する、そういう境地が要求される、創作活動というものはそういうもので、予定のプラン通りに行くものなら、これは創作活動ではなくて細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術という創造は行われない。芸術の創造は常にプランをはみだすところから始まる。予定のプランというものはその作家の既成の個性に属し、既成の力量に属しているのだが、芸術は常に自我の創造発見で、既成のプランをはみだし予測し得ざりしものの創造発見に至らなければ自ら
だから事務家が規則的に事務をとる、そういうぐあいにはどうしても行かない。そこで仕事の性質として生活が不規則になるけれども、これは仕事の性質によるもので、その人間がそういう性質だというわけではない。豚は本来非常に清潔を好む動物だそうだ。日本人は豚を特別汚く飼い、なんでも汚い物をみんな豚小屋へ始末して豚小屋とハキダメは同じ物だと心得ているが、さにあらず豚は本来潔癖で、豚小屋を
文学は人間を書く仕事だから一応人間通でなければならぬ。碁将棋はその道の天分以外は白痴的という専門家が有り得るけれども、白痴的な人間通、そんな作家はいなかろう。然し
彼の小説はいわば一種の詩で、彼の作品活動をうごかす根は詩魂であるから、
だいたい我々貧乏な文士ぐらい、たまに懐にお金をもつと慌ててお金を払いたがるものはない。文士が三人も
庄吉は転々と引越した。長くて半年、時には
彼の女房は彼の貧乏にあつらえ向きであった。貧乏を友として遊ぶていで、決して本心貧乏を好むわけではないけれども、自然にそうなった。それは庄吉の小説のためだ。
彼の小説の主人公はいつも彼自身である。彼は自分の生活をかく。然し現実の彼の生活ではなくて、こうなって欲しい、こうなら良かろうという小説を書く。けれども、お金持になって欲しい、などと夢にも有り得ぬそらごとを書くわけには行くものではなく、作家はそれぞれ我が人生に対しては最も的確な予言者なのだから、彼が貧乏でなくなるなどとは自ら許しあたわぬ空想で、芸術はかかる空想を許さない。彼の作中に於て彼は常に貧乏だ。転々引越し、夜逃げに及び、居候に及び、鬼涙村(キナダムラ)だの風祭村などというところで、造り酒屋の酒倉へ忍びこんで夜陰の酒宴に成功したりしなかったり、借金とりと
そういう素質の
思うに彼の作品も限度に達した。こうなって欲しいという願望の作風が頂点に達し或いは底をつき、現実とのギャップを支えることができなくなったから、彼には芸術上の転機が必要となり、自らカラを突き破り、その作品の基底に於て現実と同じ地盤に立ち戻り立ち直ることが必要となった。然しそれが難なく行い得るものならば芸術家に悲劇というものはないのである。
★
庄吉の作品では一升ビンなど現れず
元々彼はヒヨワな体質だから豪快な酒量など有る
彼は貴公子であった。彼の魂は貧窮の中であくまで高雅であったからだ。
彼は近代作家の地べたに密着した鬼の目と、日本伝統の文人気質を同時にもち、小説なんかたかが商品だと知りながら、芸術を俗に超えた高雅異質のもの、特定人の特権的なものと思っており、
つまり彼自身が貧窮に生きつつ高雅なることを最も意識するから、彼は強いて不当に鬼の目を殺して文人趣味に堕し
鬼の目を殺すから不自然だ。彼の作品は幻想的であるが、鬼の目も
彼の下宿の借金のカタに彼の最も貴重な財産たる一つのミカン箱をおいてきた。このミカン箱には彼の一生の作品がつめこんである。彼は流行しない作家だから単行本は二冊ぐらいしか出しておらず、だから新聞雑誌の彼の作品をきりぬいてつめたミカン箱は彼の大切な
ところが宿六の近作はだんだん女房を納得させなくなってきた。つまり作家の根柢からして現実とはなれてきたのだ。
彼は女房を愛していたが、然し、浮気の虫はある。これもやっぱり女学生のころ彼を訪ねたことのあるファンの一人がバアの女給となった。新東京風景というのを何十人かの文士が書いてその日本橋を受けもった庄吉が偶然その探訪に於て彼女とめぐりあい、それより酔うとここへ通ってセッセと
そこまではまだ良かったが、近所にすむ同郷のお弟子にちょっと色ッぽい妹があって彼の世話で雑誌社の事務員になった。それ以来酔っ払うとこのお弟子の家をたたいて酒を所望し、泊りこみ、その横に母なる人がねていても委細かまわず妹のフトンへ
次にはさる新進の女流作家を訪問する。この女流作家の作品をほめて書いたことからの縁で、この人は流行作家のオメカケさんだが、酔っ払うと、ここへ押しかける。酔っ払うと必ず誰か女のもとへ通うのは彼の
遠征の夢遊歩行はまだよかったが、女房の妹に女学生、まだ四年生、然し大柄で大人になりかけた体格だが、女房とは比較にならぬ美少女で色ッぽい。この女学生が泊った晩、あいにく夏で、カヤが一つしかないからみんなで一つカヤにねたが、この晩庄吉は
浮気は本来万人のもの、酔ったからだと言ってはならぬ、浮気心のあるがままを冷然見つめる目があってその目が作品の根柢になければならぬものを、彼はその目を持ちながら、かかる目自体を俗なるものとする。自分と女房を主人公に夢物語をデッチあげるが、この目の裏づけがないから、夢物語に真実の生命、血も肉もない。もう女房は宿六の作品に納得されなくなっている。
浮気は万人の心であり、浮気心はあっても、そして酔って這いこんでも、彼はたしかにその魂の高雅な気品尋常ならぬ人であった。あるがままの本性は見ぬふりして、ことさらに綺麗ごとで夢物語を仕上げ、実人生を卑俗なるものとして作中人物にわがまことの人格を創りだすつもりなのだが、わが本性の着実な裏づけなしに血肉こもる人格の創作しうる由もない。彼は高風気品ある人だから、妹の寝床を襲撃に及んでも女房は宿六の犯しがたい品位になお評価を失ったわけではないのに、作中人物に納得させる現実の根柢裏づけが欠け、一人よがりいい気にオモチャ箱をひっくりかえしオモチャの人格をのさばらせるから、むしろそこからヒビがはいった。宿六の愛読者ではなくなったから、作中人物を
庄吉はもう四十になった。彼は女房を信じ愛しまかせきっていた。気の毒な彼はその作品の根柢が現実の根から遊離し冷厳なる鬼の目を封じ去り締めだすことに
彼は雑誌社で稿料を貰う。借金とりにせめられ、子供の月謝や弁当代に事欠き、女房は彼の帰宅を待ちわびている。その借金や子供の学費が気にかかることに於て彼は決して女房以下ではないのだけれども、友だちに会う、懐中の原稿料は無事女房に渡してやりたいけれども、先刻も話した通りこのお金には脚があって慌てて走って行きたがっているのだから、せつない。まア一杯だけと思う、よく酔える、二杯、三杯、十杯、さア、景気よく騒ごう、あれも呼べ、これも呼べ、八方に電話をかける、後輩どもをよびあつめ、大威張り、陸上競技の
この悲痛をもとより彼は
根柢に現実の根とまったく遊離した作品世界に遊びながら、その
同業者や批評家はいまだに孤高の文学、異色の文学、きまり文句でお座なりの五、六行文芸時評の片すみへこれも稼ぎのためだからと筆まめにいい加減あてずっぽうに書いてくれるのが時々いたりするけれども、もう女房だけは
そこへもう女房の我慢のならないことができた。
★
彼等は疑雨荘というちょっと小綺麗なアパートに住むことになった。このアパートのマダムはオメカケで、お小遣いかせぎに
旦那がきて晩酌がはじまると、今日はあの方をおよびしましょうというわけで、庄吉も招かれる。マダムは二十七、八の美人で芸者あがりだから
「アラ先生、奥様にきこえてよ」
などと言うが、これが又わざときこえよがしの声でナガシメを送るのだから、庄吉は益々有頂天で、
「僕は女房はきれえなんだ。年ガラ年中
これがきこえてくるからカンベンができない。日本の女房は概ね女中兼業で、兼業の方に主力が置かれている状況であるが、当人が好んで兼業に精をだしているわけではなくて、亭主が無力で女房と亭主友だちづきあいというわけに行かないシクミだから涙をのんで筍の皮をむいている。しかるに何ぞや。自分の無力無能をタナにあげて、女房は世帯じみて筍の妖術使いだと言う。どこの宿六でも自分の無力無能のせいで女房をヤリクリ妖術使いにしておきながら、ヤリクリなしの遊び女にひそかにアコガレをよせているいずれも不届きの
然し宿六の心事は複雑奇怪で、彼は決して女にもててはいなかった。彼はていよくマダムにあやつられ、それというのが、彼がその道にまったく稚拙で単なるダダッ子にすぎないのだから旦那の信用を博している、そこでマダムは彼をつれだし、ついでに男をつれだして、彼を気持よく酔わせておいて、アラ、チョット先生忘れた用があるからとか、買物をしてくるから、とか、人に会ってくるとか呼んでくるとかぬけだして、彼にはオデン屋の安酒をあてがって二時間ほど遊んでくる。しょっちゅう男が変っているが事情に全然変化のないのは庄吉で、ちかごろでは卑屈になって、アラ、そう、忘れた、先生、と二人の男女が立ち上ると、皆まできかずエヘヘ行ってらっしゃいなどと、あさましい。そのあさましさは骨身に徹して彼には分るが、浮気女の豊艶な魔力におさえられて
然し彼が柄にもなくマダムに熱をあげるのは恋路のせい浮気のせいでなく、むしろ文学に行きづまったためだ。なぜと云って、彼は全然女にもてておらず、女の浮気のダシに使われ、なめられ、ふみつけられ、そのあさましさを知りぬいて、見えすいた甘い言葉に相好くずして悦に入る、バカげたこと、悲しいばかり面白おかしくもないのだけれども、芸術に自信を失っては、芸術家はもう人生まっくらだ。面白おかしくもないこと、やりたくもないことに結構フラフラ打ちこむとはこれ
数日失踪したまま女房が帰らない。気もテンドウせんばかり苦痛だけれども、マダムが冷然と、アラ奥さん浮気? お見それしたわね、先生もだらしがない方ね、あんな奥さんにミレンがあるのかしら、と毒の針をふくんだような言葉を
「奥さん、泊りに行こうよ。ね、いいだろう、行こうよ」
マダムは苦笑して
「先生、泊りに行くお金あるの?」
グサリと
庄吉は一刀両断、水もたまらず、首はとび甚だ意地の悪いもので地べたへ落ちてもぐりこんでしまえばいいのにフワリフワリと宙に浮いて壁につき当り
「僕ァ貧乏なんだ。貧乏は天下に隠れもない三枝さんだからな。僕ァ芸術家なんだ。僕はエレエんだ。痩せても枯れても貧乏は仕方がねえ」
何のことだか、わけが分らない。けれども腰がぬけ、すくんだ感じで逃げるに逃げられず、やぶれかぶれ意外千万なことを
「そうね、死ななきゃ分らないわね」
マダムは入口の扉にもたれる。ちょうど廊下へ一人の男がタオルと
「え? 死ぬ?」
「死ななきゃ治らないと言うのよ」
「ああ、バの字ですか」
「そう」
マダムは
「死ななきゃ分らない、か。梶さん、今晩、のみに連れてってくれない?」
男と肩を並べて行ってしまった。
数日すぎて女房は戻った。
何よりも仕事をしていないのが、せつないのだ。それがもとで、こういうことにもなる。ただ仕事あるのみ。だが、どうして仕事ができないのか。女も酒も、夢の夢、幻の幻、何物でもない。
そこで彼は後輩の栗栖按吉に手紙を書いて、当分女房子供と別居して創作に没頭したいから君の下宿に
「オイ、部屋がないってさ。じゃア、仕方がねえや。ともかく、ここにア居たくないから、小田原へ行こうよ。これから新規まき直しだ」
「私は小田原はイヤよ。お母さんと一緒じゃ居られないわ」
「だって仕方がねえもの。原稿が書けなかったから
「どうして荷物を運ぶのよ」
「たのめば、ここで預ってくれるだろう」
「家賃は払ったの」
「原稿も書けなかったし、前借りがあるから、もう貸してくれねえだろう。小田原へ行きゃ、ともかく、この部屋でなきゃア、書けるんだ。書きさえすりゃア部屋代ぐらい」
「だって、今払わなきゃ、どうなるの。夜逃げなの。荷物があるわよ」
「だからよ。マダムのところへ頼みに行ってきてくれ。事情を言や分ってくれるんだ」
「あなた行ってらっしゃい」
「オレはいけねえや」
「だって親友じゃないの」
庄吉が暗然腕をくんで黙りこんでしまうと、さすがに自分も失踪から戻ったばかり、宿六の古傷もいたわってやりたい気持で、
「じゃア、行ってくるわ。部屋代ぐらい文句言われたって構やしないわよ。堂々と出て行きましょうよ」
「うん、荷物のことも、たのむ」
ところがマダムは話をきくと打って変って、好機嫌、二つ返事、折かえし
「おくにへ御かえりですってね。お名残おしいわ。御上京の折は忘れず寄ってちょうだい。銀座へんから電話で誘って下すっても、駈けつけるわ。真夜中に叩き起して下すってもよろしいわ。今日はお名残りの宴会やりましょう」
「でも、もう、汽車にのらなきゃいけないから」
「あら、小田原ぐらい、何時の汽車でもよろしいじゃないの。じゃア先生お料理はありませんけどお酒はありますから、ちょっと飲んでらして」
「暗くならないうちに着かなきゃいけないから」
「あら御自分のうちのくせに。ねえ奥様。そんなに邪険になさるなんて、ひどいわ。奥様、一時間ぐらい、よろしいでしょう。先生をおかりしてよ。奥様は荷物の整理やらなさるのでしょう。ほんとに先生たら、水くさい方ね」
庄吉はマダムの部屋へ招じられて、もてなしをうける。荷物の整理などもうできてるから残念無念の一時間、
「もう時間だわ、行きましょう」
「あら、今、料理がとどいたばかりよ、これからよ、ねえ、先生」
その言葉に目もくれず、もうマッカ、酔眼モーローたる宿六の腕をつかんで、
「さ、行きましょうよ」
「お前も一パイのめ」
「ほら、ごらんなさい。そんなになさると嫌われてよ。ヤボテンねえ、先生」
「ヤボテンだって、オセッカイよ。あなたは何よ、芸者あがりのオメカケじゃないの。私は女房よ」
変ったところで
「先生、御上京待っててよ。すぐ電話で知らせてね」
庄吉がふりむいて挨拶しようとすると、女房は首筋へ手をかけ
「チェッ、ざまみろ、いいきみだ」
女房はプンプン怒っているが、マダムはたぶん部屋の中で笑いころげているだろう。女房よりも、然し庄吉がもっとからかわれ
★
小田原の生家には亡夫のあとを守って彼の母が孤独な生活をつづけている。まことに気丈な孤独生活で、長年小学校の訓導、男まさりの生活、そのうえ亡夫と一緒のころから孤独には馴れていた。なぜなら亡夫は外国航路の船長で、大部分は海で暮して、たまに帰ると家よりも
亡夫の遺産は
然しそのとき庄吉には都落ちを慰めてくれる非常に大きな希望があった。それは東都の第一流の大新聞が連載小説を依頼してくれたからで、近頃では新聞の連載などではカストリもろくに飲めないけれども、そのころの新聞連載、それも彼の依頼を受けた第一流の新聞ともなれば、生活は一気に楽になる。
庄吉は孤高の文学だのストア派などと言われ当人もその気になっていたが、実際の心事はそうではなくて、何よりも金が欲しい。貧乏はつらいのだ。そのくせ武士は食わねど
彼は然し実際は最も冷酷な鬼の目をもち、文学などはタカの知れたもの、芸術などというと何か妖怪じみた純粋の神秘神品の如くに言われるけれども、ゲーテがたまたまシェクスピアを読み感動してオレも一つマネをしてと慌てて書きだしたのが彼の代表的な傑作であったというぐあいのもの、古来傑作の多くはお金が欲しくてお金のために書きなぐって出来あがったものだ、バルザックは遊興費のために書き、チェホフは劇場主の無理な日限に渋面つくって取りかかり、ドストエフスキーは読者の好みに応じて人物の性格まで変え、あらゆる俗悪な取引に応じて、その俗悪な取引を天来のインスピレーションと化し
事実に於て文学はそういうものだ。自由というものは重荷なもので、お前の自由に存分の力作をたのむ、と言われると却って困却することが多い。本当に書きたいもの、書かずにいられぬものはそう幾つもあるものではないからだ。だから、通俗雑誌などから注文をつけられたり、こんなことを書いてくれと言われると、却ってそれをキッカケに独自な作家活動が起り易いもの、なぜなら、作家は自分一人であれこれ考えている時は自分の既成の限界に縛られそこから出にくいものであり、他から思いも寄らない糸口を与えられると、自分の既成の限界をはみだして予測し得ざる活動を起し
同様に亦、名も金もいらない、ただ存分に、良心的な仕事を、などという精神主義も最も文学を誤るもので、作家が持てる才能を全的に発揮するには心の励みが必要で、名や金は要するに心の励みだ。心に励みがなければ、いかほど大才能に恵まれていても、それを全的に発揮することはできない。ドストエフスキーほどの大天才でも、いったん世間の黙殺にあうと二十年近く、まったく愚作の連続、いたずらに人を模倣し、右コ左ベン、全然自分の力量を現し得ない。
無名作家が未来の希望に燃えて
庄吉は近代作家の鬼の目、即物性、現実的な眼識があるから、もとより
だから金が欲しくてたまらなくとも、通俗雑誌には書かないとか、雑文を書いちゃいけないとか、注文をつけてきたからイヤだとか、まことの思いとウラハラなことを言って、徒らに空虚に純粋ぶる。
東都第一流の大新聞から連載小説の依頼を受けて、燃え上るごとくに心が励んだけれども、子供の学校のこと、女房のこと、オフクロの顔を見てたんじゃ心が落付かないんだ、下らぬ文人気風の幻影的習性に身を入れて下らなく消耗し、ともかく小田原の待合の一室を借りて日本流行大作家御執筆の体裁だけととのえたが、この小説が新聞にのり金がはいるのが四、五ヶ月さきのこと、出来が悪くて掲載できないなどと云ったらこの待合の支払いを
せっかく燃えひらめいた心の励みも何の役にも立たなくなり、いったん心が
元々彼の近作はその根柢に於て自我の本性、現実と遊離し苦吟の果の細工物となり、すでにリミットに達していた。このリミット、この殻を突き破り一挙にくずして自我本来の作品に立ち戻るにはキッカケが必要で、それには心の励みが何よりの条件になるものであるのに、天来の福音をむざむざ逃して、今では福音のために却って焦りを深め、落胆をひろげ、心を
待合の一室に無役に紙を睨んで、然しうわべは大新聞御連載の大作家、膝下に参ずる郷里の後輩共を引見して酒、酔っ払ってむやみに威張って、おい大金がはいるんだから心配するな、むかしの三枝さんと違うんだからな、酒はどうも胃にもたれていけねえ、ウイスキーはねえか、オールドパアがいいんだ、などと泥酔して家へ帰る。女房
「どこをノタクッて飲んでくるのよ。お米やお魚を買うお金をどうしてくれるの。それを一々おッ母さんに泣きついて貰ってこなきゃアいけないの。おッ母さんから貰ってくるなら、あなたが貰ってきてちょうだい。さもなきゃ、私はもう小田原にはいないから」
「何言ってやあんだ。行くところがあったらどこへでも行きやがれッてんだ」
然し胸の底では彼の心は一筋の糸の如くに痩せるばかり、小説を如何にせん、もはや書きつづける自信もない、待合の支払い、連日の酒代を如何にせん、この機会にして書き得なければもはや文学的生命の見込みもない、この切なさを
酔いからさめれば、女房のくりごとも胸にくいこむ。いくらでもないお魚の代金まで母に泣きつく女房のせつなさ、もとより彼自身のせつなさなのだ。心配するな、金策してくる。そこで雑文を書き上京して雑誌社をまわり、三拝九拝ねばりぬいて何がしの金を手に入れる、友だちとお茶をのんで、なんしろ一枚のヒモノを買う金もないてんで女房の奴怒り心頭に発して、などと白昼は大いにケンソンしてお茶をなめているけれども、夕頃に近づくと、どうも飲まずに汽車にのるのはテレちゃうな、ちょっとだけ飲もう、そこでちょっと飲む、まアいいや、今の汽車は通勤の帰りの人でこんでるからなどと、終列車で深夜に帰る。泥酔して、よろめき、ころがり、泥にまみれて、無一文、おまけに襟のあたりに口紅がついている。
「この口紅は何よ」
「アハハハ。バレたか。アハハハ。それは疑雨荘のマダムに可愛がられちゃったんだ。アハハ」
本当は新橋の片隅の横丁のインチキバアで
翌日早朝、手廻りのものを包みに
この大学生はこの前の失踪中もちょっと泣きに行って色々といたわられ、失踪からの帰りには一緒についてきてくれて宿六にあやまってくれたのである。ところがまだ大学生のことだから、一番ありふれた俗世の実相がわからない。夫婦喧嘩は犬も食わないと云って、昔から当事者以外は引込んでいるべき性質のものだが、彼はすっかり女房の言うことをマに受けて、失踪帰りの女房について送ってきたとき、先生、変な女にひっかかるの言語道断などと一人前に口上をのべて先生を怒らせてしまったものだ。
そこで
一週間すぎても帰らない。庄吉もまったく
★
庄吉は後輩の栗栖按吉に当てて手紙の筆を走らせた。こういう時に思いだすのは、この憎むべき奴一人なのである。疑雨荘で女房が失踪したあとでも、女房子供と別居して彼の下宿へ一室をかりて共に勉強しようかと思いつき、その一室がなくて小田原へ落ちのびたが、落ちのびる前日風の如くに訪ねてきて、荷物を片づけてくれたのもあの憎むべき奴であった。
そこで庄吉は按吉に当てて、この手紙見次第小田原へ駈けつけてくれ、君の顔を見ること以外に
然し彼はこの三年来、按吉ぐらい憎むべき奴はいないのだった。憎むべく、呪うべき奴なのである。もっとも、親切な奴ではあった。夜逃げの家も探してくれる、借金の算段もしてくれる、夜逃げごとに変る倅の小学校の不便を按じて私立の小学校へ入学させてくれる、そういう時は親身であった。然し彼は先輩に対する後輩の礼儀というものを知らないのである。
会えば必ず先輩庄吉の近作をヤッツケる。庄吉は酔っ払うと自分で自分にさんをつけて三枝さんと自称したり三枝先生と自称する。すると按吉は、うぬぼれるな、と言う。なんだい、近ごろ書くものは。先生ヅラが呆れらア、てんで小手先のコシラエ物じゃないか、殻を背負って身動きもできないじゃないか、第一なんだい、自分の小説を朝昼晩朗読するなんて、あさましいことはやめなさい。こういうことを言う。必ず言う。
三枝庄吉は怒り心頭に発し、彼を知る共同の知友に手紙を書いてアイツはウヌボレ増長慢の気違い、礼儀を知らず、文学者の
按吉は速達を見るとすぐ来たが、あんまり庄吉がやつれ果ててしまったので
「ああ、よく来てくれたな。会いたかったな。会えてよかった。あれから君はどんなに暮していた。君の部屋は静かなのか。勉強はできたか。ああ、今日はオレは幸せだ。ようやく君に会えたのか」
按吉は又呆気にとられた。酒に酔った場合の
庄吉は
それでも按吉は色々と言葉をつくして、たとえ女房が浮田と失踪しても必ずしも肉体の関係があるとは限らない。元々
按吉に慰められているうちは庄吉も力強いような気持で、すっかり相手にまかせきり安心しきってウンウンきいていたが、按吉がさっさと帰ってしまう、待ちかねたものを待つうちはまだよかったが、すでに
庄吉の消耗衰弱は更に又、急速度に悪化した。
庄吉の小学校時代からの後輩で文学青年の戸波五郎が、ちょうど彼の家と
心配ごとで消耗する、何よりも友達が恋しい。友達がきて一緒にいてくれると、時には
戸波は大飲み助で、
それから四、五日後のことだ。
庄吉が家の中からオーイ、オーイとよんだが返事がない。そこで庄吉が下駄を突ッかけて、戸波の家の戸の外へきて、
「居ねえの? 戸波」
戸波の妻君は女給あがり、至って不作法で亭主を尻にしいてフテ寝好きの女で、部屋の中からブツブツ怒り声で、
「居ないわよ」
「どこへ行った?」
「そんなこと、知らないわよ」
庄吉はそれきり黙って戻って行った。戸波がこのとき家にいれば、元より何ごともなかったのである。
庄吉は縁側へきて、坐っていたが、イライラ立って部屋の方へ、座敷からピンポン台のある部屋奥の部屋それを無意味に足早に歩いて又縁側へ戻ってきて、イライラ坐った。ちょッと坐っていたかと思うと、又ぷいと立ち上って子供部屋へはいった。
それから十分、戸波が帰ってきた。今三枝さんが呼びに来たわよときいて、玄関からはいらず庭先から縁側の方へ廻ってきた。戸波はいつも庭先から廻ってくる習慣なのである。
子供部屋は縁側の
何か人の気配がする。それで戸波が庭先からのぞきこんでみると、庄吉の母、訓導あがりのデップリ体格のよい堂々たるお
「御隠居さん、何ですか」
声をかけてはいって行くと、ふりむいて、光る目で、ギラリと睨んだ。
「馬鹿が死にました」
それから抑えていたものの手をはなして、出てきて、
「医者をよんできて下さい」
と言った。
戸波が中を見ると、梁にシゴキをかけて、庄吉がぶらさがっていた。高さが六尺ぐらいしかない梁だから、小男の庄吉はちょうど
★
私は電報がきて小田原へ行ったが、私がついてまもなく、その日の新聞で
「あいつ、私を苦しめるために自殺したのよ」
「そんなことはないさ。人を苦しめるために人間も色んなことをするだろうけど、自殺はしないね。ヒステリーの娘じゃあるまいし、四十歳の文士だから」
「うそよ。あいつ、私を苦しめるためなら、なんだってするわ。いやがらせの自殺よ」
「まア、気をしずめなさい」
私はふりむいて部屋を去った。私には彼女が喪服を持っていたのが不思議であった。どうして喪服だけ
私がそんなことを考えたのも、女の喪服というものが奇妙に色ッポイからで、特別それを着つつある最中は甚だもって悩ましい。そういう奇怪になまめかしく色っぽいのがポロポロ
私はその後いくばくもなく京都へ放浪の旅にでた。一年半、それから東京へ帰った一夜、庄吉夫人の訪問を受けた。彼女はすさみきっていた。彼女はオメカケになっていた。オメカケというよりも売娼婦、それも最もすさみはてた
庄吉は夢をつくっていた人だ。彼の文学が彼の夢であるばかりでなく、彼の実人生が又、彼の夢であった。
然し、夢が文学でありうるためには、その夢の根柢が実人生に根をはり、彼の立つ現実の地盤に根を
彼の人生も文学も、彼のこしらえたオモチャ箱のようなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与えた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ
私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひっくりかえり、こわれてしまったのだと思っている。彼の小説は彼の立つ現実の地盤から遊離して、架空の空間へ根を下すようになり、彼の女房も、オモチャ箱の中の女房がもう自分ではないことを見破るようになっていたのだ。
庄吉だって知っていた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与えた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだろうし、メカケにもなろう、淫売婦にもなるであろう、ということを。
彼の鬼の目はそれぐらいのことはチャンと見ぬいていた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、ただ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな
庄吉よ、現にあなたの女房はそうなっているのだ。
私はあなたを辱しめるのでもなく、あなたの女房を辱しめるのでもない。人間万事がそうしたものなのだ。
あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく
私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなったんじゃないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんということだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。
私は、あなたの実に下らぬ死を思い、やるせなくて、たまらなかったのだ。