安吾史譚

道鏡童子

坂口安吾




 国史上「威風高き女性」をもとめると数は多いが、私は高野天皇の威風が好きである。高野天皇は孝謙天皇のこと。孝謙天皇は重祚ちょうそして称徳天皇とも申し、道鏡との関係は称徳天皇と称して後のことであるが、一人の天皇を孝謙とよび称徳とよぶのはわずらわしいからオクリ名の高野天皇を用いることに致します。
 男装して朝鮮へ攻めこんだという神功皇后は威風リンリンの最たるものかも知れないが、この御方の威風は女教祖的で、私は親しみがもてない。
 高野天皇の威風はあくまで女性そのもので、人間そのものである。しかも彼女の置かれた位置や四囲の事情というものは、女関白淀君と比べても、格調の高さがケタがちごう。歴代の天皇中でも、自然に占めた位置が「生きた神様」であった点、その父の聖武天皇とともに屈指の神格的存在であった。しかも、おのずから神格の位置におかれながら、人間そのものの足跡のみとどめているので、その威風には実にしたわしい可憐さがこもっているのである。
 天智天皇の歿後、皇太子と皇弟が戦って、皇弟が勝った。天武天皇である。天武帝の歿後、皇孫カル太子が幼少だったので、皇后が即位した。持統天皇である。次にカル太子の生母が即位して元明天皇。持統元明は姉妹で、天智天皇の娘である。
 相反する勢力を後楯うしろだてにして兄系と弟が争い、弟が勝ったが、勝てる弟側が兄の娘を二代にわたって皇后にしたのは、背後の相反する勢力を統一するに役立ったようである。もっともうちつづいた三名の女帝が卓抜な才女であったせいもあろう。
 日本に中央政府と称するに足るものがつくられたのは、姉、妹、娘、とつづく三代の女帝のリレーによってであった。こうして、奈良の都ができたのである。今に伝わる皇室の国史もこのときできた。系図が作られたということはそのとき自家のいしずえが定まったことを意味するものであろう。
 姉、妹、その娘と三名も女だけでリレーしなければならなかったのは、皇孫カル太子が幼少だったのと、ようやく生長して即位したカル太子が若くしてたちまち死に、したがって、その皇子はまたしても幼少であった。再び幼少から皇太子を育てあげなければならないので、ここに姉妹娘という三代の女帝のリレーが必要であった。
 女は「家」をまもる動物的な本能をもつものであるが、また家名とか、家にそなわる威風とかをはなはだしく希求する動物でもある。
 三代の才女のリレーによって、多くの男の土豪政治家、豪傑策師の果し得なかった中央政府が次第にハッキリと形づくられ定まってきた。
 こうして家も国もほぼ定まったとき、三代の才女のリレーの果に育てあげられたのが聖武天皇であった。三代の女帝がこの幼太子に何をのぞみ何を祈って育てあげたか、それはすでに云うまでもない。いわく、天下唯一の別格の子、太陽の子、そして地上のすべての主人、生きた神様、である。三代の女帝の必死の作業は、中央政府の確立とともに、生きた太陽の子をつくることにもそそがれた。そして作りなされた太陽の子が聖武天皇であった。
 三代の女帝にこの上もなく信任された一人の才女があった。女同志は同類に気を許さぬものであるが、三代の才女に絶大の信任を博したのだから、これもよほどの才女であろう。たちばなの三千代夫人という。死後に正一位大夫人をもらった。この才女が藤原不比等ふひとに再嫁して生んだのが安宿媛アスカヒメ。衣の外に光が発するほど美しい娘であった。
 三代の才女が太陽の子を育てているとき、正一位三千代大夫人はこれもせッせと太陽の娘を育てていた。彼女が娘に祈ったことは天下第一の女、太陽の御子と並ぶに足る唯一の女であったろう。
 そして三千代のねがいのように、安宿アスカは太陽の子にお嫁入りした。これが光明皇后である。元正女帝は育てあげた太陽の子、聖武天皇に安宿媛を与えるに当って、これは当家の柱石、無二の忠臣、当家のために白髪となり夜もねむらなかった人の娘だから、ただの女と思わずに大切にするようにという特別な言葉を添えた。
 太陽の子は即位して、大仏を造った。そして大仏をつくるとき、天下の富と勢いを保つのはちんだ、と叫んだ。まさに女帝三代の合言葉はそれであったし、その合言葉を生れながらの精気としてはらんで育ったのが、彼でもあった。
 その大仏は完成した。日本古今随一の、また類を絶し、国の富を傾けた善美結構であった。太陽の子と太陽の娘は、もう老人になっていた。先代の女帝から志し、何十年もかかった大仏だ。年老いた太陽の子と太陽の娘は仲よく並んで大仏に向い立ち、相ともにたずさえ、
「三宝のやっこと仕えまつる」
 と感きわまって礼拝した。自惚うぬぼれがきわまるとき、人は礼拝の中に優越を見出すものである。
 太陽の子たる夫妻は国の富を傾けて大仏を造りあげたが、まったくそれと同じように、全能の光と勢いをつぐ一人の生きた女神を育てあげていた。それが高野天皇です。
 太陽の子でしかないように、そして、その太陽の子のお嫁でしかないようにと育てられた二人の仲に長女と生れ、二人の全能の光と勢いの全てを継ぐ唯一の神の子として育てられた宿命の女神が、この女帝である。
 大仏も完成した。老いたる太陽夫婦は三宝の奴となって礼拝し、満足して顔を見合わせる。彼らと同じように、いま大仏と向い合って、二人のすぐ横に、二人の全能と光と勢いの全てをついだ天下唯一の神の子たる娘が生きて立っている。二人の精気はそこに一ツに合して高まっているのだ。老いたる太陽の夫婦は、自分たちよりも、また大仏よりも気高くひいでた女神の光と勢いの張りの鋭さを見出して満足する。二人の仕事は完成したのだ。三代の女帝の必死の祈りはつつがなく果された。
 大仏完成の大式典を終ると、老いたる太陽夫妻は全能の娘に皇位を授けた。父母の光と勢いの全てを名実ともに彼女はついだのである。生れながらに、そう定められ、そう育てられていただけのことだから。
 道鏡と恋をした女帝は、歴代の天皇中でも、こういう特別な人であった。即位したとき三十三。地上唯一の太陽たる女神に、人間の良人はあるべきではない。女神は当然の如くに独身であったが、老いたる太陽夫妻にとっては、自分らが特別な二人であることも、娘が特別な一人であることも同じように当然で、それ以外は考える必要がなかったのかも知れない。神の国の心理や算術では、二と一が同一であってもフシギではないのだ。人間の心理や算術でも、そうなり易いものである。

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 この女帝は日本の古今に随一の人造乙女じんぞうおとめと称すべき女帝で、祖先の三代の女帝の才気も父母の光と勢いもまさしく身にこもっていたような、決して出来の悪くはない作品だったと私は思う。
 彼女は太陽父母の遺産をそっくり身につけたが、この遺産の半分はマイナスであった。父母たる太陽夫妻はあまりにも全能でありすぎたのだ。その全能を現実に行い、大仏をつくったために、国の富を傾けてしまった。彼の叫んだ如くに、国の富を保つ者はまさしく彼であったが、その富の傾きを保つのも彼、もしくは彼の子孫の宿命であることを、幸福な太陽の子は全然さとらぬうちに成仏した。
 マイナスの遺産までうけついだ女帝の生涯には容易ならぬ困難が横たわり待ち設けていたが、父母たる幸福な太陽夫妻はそんなことは夢にすら思わなかったし、そのツモリで育てられた女帝にそれに対する訓練用意がある筈はない。
 先帝が国の富を傾けた結果がどうなったかと云うと、三人の女帝の必死の努力と作業によってほぼ成功しかけていた中央政府の地盤がぐらつきだしたのである。
 背後に控える相反する二大勢力を、女帝三代の才気と、婚姻の手段によって一つにひきつけ、どうやら中央政府として安定しかけていた。それも女帝三代の要心深くて細く気のついた善政のタマモノであったろう。全国に散在する部落勢力もだんだん音を鎮めて帰一の方向にむきはじめていたが、国の富を傾けて現実的に全能ぶりを実行されては、蜂の巣をつついたようになっているのは当然だった。
 国史以前に、コクリ、クダラ、シラギ等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるに至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ、クダラ、シラギ等の母国と結んだり、または母国の政争の影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう。
 結局、個々に海外の母国と結ぶ限りは、日本という新天地の統一は考えられない。海外の各自の母国以上に有力な、すべての系統の氏族たちに母胎的な大国から直接に文物をとりいれ、それによって個々の母国の誇りやツナガリを失わないと日本という統一は不可能だ。
 こう考えて実行した最初の大政治家は聖徳太子であった。太子はコクリ系の人であったらしく、コクリと交通して文物をとりいれてはいるが、更により多く支那に使者を送って、支那の法律や諸般の文化を直接とりいれることに目標をおいた。日本統一の第一の気運はこれであったと思う。太子は死に、子孫も亡び、そしてたぶん太子の王朝もそのとき亡びたであろうが、太子の志は生きていた。この設計図をついで中央政府をほぼ完成したのは三人の女帝と彼女らの育てた太陽の子たちであったが、聖徳太子の設計図は正しかったし、図面通りの作業を行う三人の女帝の細心な手腕も狂いが少なかった。こうして大陸の文化の香り高い奈良の都ができて、三女帝リレーの合作によって彼女らの家系の中央政権が確立しつつあったと云える。
 聖武天皇が全能を行うために国の富を傾けてしまったので、諸国に不平不信が起り、その娘たる女帝の身辺に於ても反乱のキザシは一時にひろがり、奈良の都は陰謀によってとざされるかに至ったのである。
 だが、それらの陰謀の多くは失敗に終った。一ツを残して全ては失敗に終り、女帝の威風は終生くずれなかったのだから、私はこの女帝には代々の才気と威風がたしかに不足なく備わっていたと信じてよいと思うのである。陰謀というものは王様がやろうと大臣がやろうと最も俗で下根なものに極っている。ところが、およそ俗と下根なところのない現実の幸福と満足でいっぱいだった父母の太陽夫妻によって、全然生きた神様の教育だけ受けたこの女帝が、身辺をめぐる多くの陰謀のザワメキを処理してほとんど誤っていないのだから、その生得の叡智えいちと威風は然るべきものであったに相違ないと信じうるのである。
 たった一ツ道鏡の件で失敗した如くに見える。けだし、道鏡の件でのみは失敗した如くだが、道鏡にだまされたのではなく、威風を落しもしなかった。この女帝の生きているうちは、誰の陰謀も一応成功しなかったと云える。
 道鏡の件といえども、要するに失敗ではなかったのだ。彼女がこの件に至った原因の最も大きく主要なものは「この女神に子供が生れなかった」という自然現象の類いによるのである。彼女に自分自身の太陽の子が生れていたなら、彼女は傾いた国の富を再興して、太陽の子に伝えたであろう。多くの陰謀の寄りつくスキもなかったろうと思う。

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 この女帝の家系は、父系に天武天皇を、母系に天智天皇をもってはじまり、女帝三代のリレーのうちに、天武でも天智でもない独自な一ツに発展し、そのように父系母系を超えてしまったところにも、中央政府として安定しうる性格を具えていたようである。女帝たちの巧みなリードであったと云える。
 ところが、この女帝に至って子供がなく、せっかく旧来のツナガリを超え中央の安定勢力むきに出来かかった有力な新家系に正系がなくなってしまった。
 女帝は即位したときに三十三。やがて子供の生れない老年になったが、後嗣あとつぎをめぐる陰謀はその年齢に至らぬうちから起ってもいる。むろん、先帝が国の富を傾けた反映でもあるが、それがこの以前の政変のようにいきなり武力闘争となって現れずに、あくまで後嗣問題をめぐってネチネチと終始一貫しているところを見ると、ここにも謎の一ツがあると云える。
 だから、こう思うことができるのである。この女帝には子供の生れないことが初めから定まり分っていたのだ、と。
 この女帝は後世の俗史に至ってミダラ千万に描かれているが、正史はそれに関して極めてかすかに暗示的なものがあるにすぎない。ところが、この正史は押勝おしかつや道鏡を倒して天下をとった反対派の筆になるもので、自分たちの陰謀はタナに上げているし、道鏡の出生その他についても多くの筆を偽っている。その筆法で、全てを道鏡自身の陰謀の如くに作為するとすれば、女帝と道鏡を結ぶヒモがない。そのヒモは正史を作為した自分たちの仕業しわざによるのだ。そこで女帝と道鏡にヒモをつけるとすれば男女の道、恋愛というのが誰しも思いつき易くて自然なのは当然だが、事実に反してあからさまにそうも書けないので、極めてかすかに暗示的に、そのように解釈すればそうもあろうという程度に筆を弄したのではなかろうか。
 後世の俗書にあるように、恵美えみの押勝とどうしたとか、道鏡とどうだとか、そのようにミダラ千万な女帝なら、いくらでも乗ずべきスキがあったろう。第一、民意に捨てられて、多くの陰謀が数々重なり現れているのだから、一ツぐらい成就しない筈はなかろう。
 しかるに陰謀は常に部分的で、一部分の暗躍にとどまり、決して民衆を動かしていない。さすれば、先帝が国の富を傾けた不平不満があってすらも、民意は女帝を捨てていないのである。
 実に女帝はその生ある限りというもの、彼女の威風を落したことがない。同様に、ミダラの相手たる道鏡も、殆ど死に至るまで威風を落しておらず、民意に於ては同情されている傾きを見ることができるのである。
 私は俗書と全くアベコベに、この女帝は終生童貞ではなかったかと近ごろ思うようになった。
 それは私の単なる推測で根のないことではあるが、私がこの時代と時代の人々とをどのように解しているか、他の人や事についての理解を知っていただけば、史料上に的確な実はなくとも、そのために全然根がないことにもならない、という文学的な真実を認めていただけるかも知れない。

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 父帝の死んだときから、すでに後嗣のゴタゴタが起った。父帝は女帝に位をゆずったとき、皇太子を選んで定めておいた。それは天武の皇孫、道祖王どうそおうである。
 父帝が皇太子を定めてやった、ということも、女帝が彼に教育され規定された一生の定めを語っているように思うのである。これが他の女帝の場合なら、某先帝の顔を立てるというような立太子のやり方は不自然ではないが、太陽の子たる聖武天皇と、そのまた太陽の娘たる女帝の場合、太陽は常に自らの血の中から唯一の子孫を定めもし育てもするのが当然であろう。自らを唯一の太陽と信じ、すべての富と勢いはちんにありと信じる人が、太陽の孫を他から借りて定めるとはナゼであろう。理由は恐らくただ一ツではなかろうか。太陽たる女帝は地上に唯一絶対で、同列の男があるべきでないことを彼は知っていた。否、それをテンから信じており、法規に定めるまでもなく思いこんでいた父母たちではなかったろうか。
 父帝が死ぬと、女帝はたちまち皇太子を廃してしまった。その理由は、先帝の諒闇中りょうあんちゅうにもかかわらずミダラな振舞いがあった、という甚だ女主人の潔癖を表すようなものであった。
 そのミダラな事実についてセンサクすることは重要でないように思う。それは単に一ツのキッカケたるものにすぎず、この太陽女神は自分だけのカンで真実を見分ける特別なものがあったようだ。私はそれを叡智と見、また、童貞の身に具わり易いものと解するのである。
 この時以来、皇位を狙うゴタゴタがみだれ起った。塩焼王しおやきおうやその子をかつぐ者、大市おおいちをかつぐ者、三原王をいただいてムホンをはかる者等々、陰謀はしきりであるが、すべては事前に発覚して事もない。
 やがて他の候補者を排して、女帝は天武の皇孫大炊おおい王を皇太子に選んだ。この方を皇太子に押したのが恵美の押勝で、新太子の夫人は彼の娘であった。
 恵美の押勝は藤原南家の生れだが、他の藤原一門をおとしいれて己れのみ特に信任を博し、女帝の威をかりて専横をほしいままにしたのである。特に彼が敵にまわして専横をほしいままにしたのは、己れの同族たる藤原一族に対してであった。なぜなら、自分の一族ほど天皇の信任を博し易いものはなかったからである。
 そこで彼は同族の藤原貴族を一丸として敵に廻すに至ったが、彼が己れの実兄や一族をおとしいれた陰謀といっても、決して手のこんだものではなく、むしろ無策でガムシャラで、ただもう威張りたい一方の頭の良くないお人よしの田舎育ちの大臣の策という泥くさ手段が多いのである。
 しかるに彼が敵に廻した藤原貴族は如何? その陰謀は細心周到をきわめてよほどでないと一滴の水もこぼさぬという怖るべき策師たちであった。
 私はここにも女帝の叡智を見るのである。童貞童女の鋭いカンを見るのである。
 恵美の押勝は女帝のちょうに威をかりる威張り屋で、自分の安泰のために兄や一族をおとしいれても、とにかく他の藤原一族にくらべると、お人よしで、どこか間がぬけたところがあった。策師ぞろいの一門中では、一番人のよい存在であったかも知れない。
 彼はどのようにして他の藤原貴族に復讐されたか。その藤原貴族はどのように道鏡を利用したか。その陰険にして細心きわまりない陰謀の手段を見ると、人生について無智な女帝が、まず相談相手に押勝を選んだことは、彼女の身辺に一番近い臣下たちが主としてこれらの藤原一族であり、そこから選ぶとすれば押勝。より大なる過ちをおのずから避けている童女の無難なカンであったと云えよう。
 藤原一族は押勝や他の共同の敵を倒すためには一丸となったが、その一人が押勝に代る立場に立つと地位を利用して何を策謀するか見当がつかない怖しさがあったようである。
 さて押勝専横の極に至ったとき、押勝の敵手として登場したのが道鏡であった。意外や、藤原一門に非ず、道鏡であった。
 ところで、道鏡の登場には、彼自身に何ら陰謀的なものが見られない。彼はマジメな禅行で世にきこえ、その高徳と学識で世間の信頼を博していた行い正しい僧で、それまでの修業の歴史にインチキな足跡はなく、たしかに世の信仰をうけるにたる高僧であった。
 道鏡は高徳と学識の故に女帝に召されて内道場の禅師となった。もとより召されてなったことで、有徳によって召されるほどの者が自己スイセンすることはない。また太陽の御子たる女帝が見も知らぬ僧を自発的に選んだり召したりする筈はなかろう。そこには深いタクラミをもって彼をスイセンした策師があった筈である。それが藤原一門であった。彼らは押勝を倒すために、計画的に道鏡をスイセンしたものと思われるのである。
 なぜ道鏡が押勝を倒しうる唯一の人だということを、策略的な貴族たちが見ぬいたのであろうか。
 童貞童女、生れながらの女神たる帝は、行い正しい高徳者がお好きだ。たまたま身辺にその人がないので押勝などが寵を得ているが、道鏡は禅行の深く正しい学識深遠な有徳者で、おまけに世捨人のお人好しときている。しかも、たちまち押勝以上に信任をうけるであろうと信じうる大きな理由があった。道鏡と押勝は身分が違うのだ。道鏡は天智天皇の孫であった。
 彼の敵手の手になった正史には道鏡を天智の孫と書いてないのは当然だが、他の史料によると天智の孫たることは疑えないようである。しかし正史には大臣おおおみの子孫とある。
 彼の生地、河内の弓削ゆげはたしかに物部もののべ氏の領地であった。物部氏は正史には大連おおむらじとあり、大臣は蘇我そが氏に限るが、この蘇我氏の中には、物部氏滅亡後その遺産をそっくりもらって物部大臣と称した蘇我氏の一人が実在しているのである。つまり蘇我と物部という最高の二氏族のアイノコの物部大臣である。
 物部大連の遺産はそっくり物部大臣の物となった筈だから、物部の子孫が大臣の子孫でもフシギはない。この物部大臣の娘の一人が、天智天皇の御子施基皇子しきおうじに嫁して、道鏡が生れたのだろうというのは喜田博士の説であるが、私もそのへんが手ごろの説だろうと思う。父系から云うと天智の孫だが、母系で云うと大臣の子孫で、どっちの史料も正しいという都合のよい結果になる。千何年昔の謎のことだ。どうせトコトンの真実など分りやしない。道鏡は岡寺の義淵ぎえんについて修業したが、義淵は天智天皇の信仰厚い高僧で、岡寺は義淵のため天智帝が造営されたものであった。
 藤原一族の予想した通り、道鏡という人格の現れは女帝の眼界を一挙にぬりかえ、女帝の生き方を変えてしまった。かかる高い人格と深い学識が神ならぬ「人間ども」にもそなわっているということは、生きている唯一の神として育てられた女帝には考えられなかったことで、身辺の「人間ども」からはそのカゲだにも知りがたかった驚くべき事実であった。女帝の人生観は一大衝撃をうけ、やがて生き方が一変するに至った。
 即ち女帝は位を皇太子にゆずり、自分は仏門にはいった。それは仏法の修業によって到り得た道鏡の人格に驚き、また、敬服したからであったろう。
 こうなれば、身辺の臣下の中ではとにかくお人好しが取柄という恵美の押勝の存在などは全く問題ではなくなったであろう。人生万般のこと、政治も臣下との接触も、学識深い高徳の人格に相談すれば足りるのだ。真に信頼しうる師友は、道鏡の人格一ツで足りる。
 女帝の態度が一変して寵が失せたから、お人好しで頭のわるい威張り屋の押勝は人生の大事と慌てた。女帝の寵あるによって彼の人生の栄光が存在し得たのだから、それが失せたとなれば、彼が逆上して無謀をなすのはフシギではない。
 押勝は天武天皇の子孫を擁してムホンを起した。てんで計画性のすくない、一場の思いつきのような心乱れたムホンであるから、皇居に向って前進するどころか、逃げまわるばかりで、殺されてしまった。こういうところにも、他の一門とちがって無策きわまる彼の性格が現れている。絶世の美少女ときこえた彼の娘は、千人の兵隊に強姦されて息絶えた。
 こうして深謀遠慮の藤原一族の筋書通りに、彼らは一度も表に立たずに、道鏡を女帝に近づけただけで第一の陰謀を成就した。
 次には、彼らの道具としての役割をすました道鏡を片づけなければならない。

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 しかし藤原氏の策師たちの全部が同じ心ではない。彼等にとっては、まだ道鏡が必要な者もあった。なぜなら、押勝が立てた淳仁天皇をしりぞけて、自分に都合のよい後嗣を持ってこなければならないからで、またある人々にとっては、もしも道鏡が自分に都合のよい天皇になる見込みがあるなら、道鏡でもよい意味もあった。
 なぜなら、道鏡はたしかに天皇となる資格があったのである。押勝が亡びるまでに陰謀のタネにかつがれたのは全部天武の子孫で、すでに次々と陰謀ムホンに使いきってほとんど全滅という状態であったし、天智は女帝にとって母系の祖に当り、天武は父系の祖とはいえ、天智は天武の兄で嫡流ちゃくりゅうであった。天智の孫が皇統をつぐ資格に於て天武の孫に劣るところはない。
 ただ問題は、ようやく統一しかけた背後の勢力が、これによって再び二分することで、そのとき、どっちの勢力につく方が有利となるかという判断であろう。そして藤原氏一族の陰謀がついに道鏡をしりぞけた後に、彼らがかついで帝位につけたのは、道鏡と同じく施基皇子の長子で、道鏡とは兄弟に当るすでに年老いて白髪の老王子であった。
 老王子は人皇四十九代光仁天皇。その御子が桓武かんむ天皇である。背後の勢力は天智天武の昔にもどって二分したから、藤原一門は桓武帝を擁し、己れ方の勢力を背景にした地に新しい都を定めるために、奈良の都をすてなければならなかった。
 以上は後々の話であるが、道鏡をしりぞけるには次に説くような精巧な手段を用いた。

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 道鏡をしりぞける陰謀以前に、淳仁帝が廃せられて淡路へ流され、法体ほったいの女帝が重祚した。
 淳仁帝が廃されたのは、女帝に向って道鏡を信任なきような言葉をもらしたので、不和になったのだという。俗書では、天皇が女帝と道鏡の肉体的な関係をいさめて女帝の怒りをかったとあるが、そんなことが考えられるであろうか。女帝は自分を選んで帝位にけてくれた生れながらの現人神あらひとがみである。落語の中の八さん熊さんにしても、なア、おッかア、あのナマグサ坊主とイチャつくのは、やめてくれねえかなア、と諫めた話はあんまり聞かないが、特に長幼の序が人生の万事を律している特殊な社会で、しかも生れながらに唯一絶対の現人神たる上皇に向って、礼なき言葉が発せられるとは思われない。全ての勢いは女神のものなのである。
 ここではただ天皇が道鏡を怖れた事実を知れば足りよう。つまり、この事実の裏側に知りうることは、藤原氏一族が道鏡を女帝に近づけたとき、有徳の高僧としてだけではなく、天智天皇の皇孫たる特別の人としてでもあったに相違ないからであろう。押勝と道鏡とは比較すべからざる別個のものだ。道鏡はその現れた時から、天皇にとっての最大の強敵であった。
 そしてそれ以上廃帝の原因を探す必要はない。ただ天皇の怖れが事実となって現れただけのことである。果して上皇の意志であろうか。藤原氏一門の手になった正史の語るところでは、女帝が道鏡を法王とするために天皇をしりぞける必要はありうるであろう。しかし、藤原氏一門が自分に都合のよい天皇をたてるとすれば、己れの仇敵だった押勝のたてた天皇をしりぞけるのは道鏡排斥以前の作業でなければならない。
 現天皇をしりぞける工夫はいかに? といえば、確実な方法は一ツあるのみである。つまり、女帝に対して、次のように進言し、女帝の心をうごかし、定めることである。即ち、
「道鏡禅師は天智天皇の御孫で、その皇胤こういんたる資格に於ては、天武天皇の御孫たる現天皇と同格以下のものではございません。のみならず、その高徳と学識は万民の師表と仰がるべき尊い御方で、生れながらに女神たる唯一絶対の上皇につづいては、禅師が人臣最高の御方、この御方ほど女神の皇太子にふさわしく、次の天皇に適格な御方はありますまい」
 これに類するササヤキは折にふれて女神の耳に達し、女神の心をうごかすようにはかられ計算されていた筈であろう。
 そのササヤキをきく前に、事実に於て、それが女帝の偽らぬ心でもあった。道鏡こそは、唯一絶対の現人神たる己れにつづいて、人臣最高の徳と学をそなえ、神と人との中間にも位置すべき天地第二の格あるものだ。自分がともに天地のマツリゴトをはかるべき者は、彼のみで足り、彼こそは己れについで皇位につくべき生れながらの定めを具えた人であろう。
 次第に女帝の心は定まり、心定まれば生れながらに全ての勢いを保つ唯一の女神であるし、道鏡の高徳と学識に傾倒して驚きと敬にうたれた女神の心は顧みてケガレなく雑念のないものであったろう。淳仁帝を廃して淡路一国の王様にしてしまったのは、女帝の信念の業であったろうと思う。
 そこで藤原氏一族の陰謀はその仕上げにかかるのである。藤原氏の密令をうけた九州の神司の習宣のアソマロという者が、宇佐八幡の神託と称し、道鏡を天皇の位に即けたなら天下平らならん、と奏上した。
 こうして女帝や道鏡の心を誘っておいて、次に和気清麻呂と法均の姉弟を宇佐八幡へ伺いにたてて日本は昔から君神の位が定まっている。道鏡のような無道な者は亡すべし、という予定の神託を復奏ふくそうした。
 実に精妙な、手のこんだ筋書であったにも拘らず、童貞童心の女帝の叡智のひらめきは正しい実相を感じ当て、この陰謀はまったく成功しなかった。
 女帝は法均と清麻呂姉弟を妄語もうごの罪によって神流かみながしにされた。正史はそのみことのりを記載しているが、実に痛烈無類、骨をさすようだ。
「臣下は天皇に仕えるに清らかな心でなければならないのに、清麻呂と法均は偽りの神託を復奏した。そのときの顔の色と表情と発す音声とを見聞すれば、一目で偽りは明かだ。(中略)清麻呂らと事を謀っている同類の存在も分っているが、天皇のマツリゴトはいつくしみをもって行うべきものだから、あわれみを加えて差許さしゆるしてやる」
 こういう意味の、実に鋭い語気を張りみなぎらせて、正義を愛する一個の人間の魂が、感情が、全的に躍動している明快きわまる断罪のミコトノリを発した。実に、一個の正しい人間の魂の全的な躍動が全文章を貫いている。実に人間の至高な魂そのものであり、感情であって、まったく神のものではない。
「その顔の色と表情を見て発する音声をきけば一目で偽りは明かだ」
 とは、童貞童心の魂の底から一途いちずに発したなんという清らかなまた確信にみちた断言ではないか。その確信の清らかさは女神の物というよりも、むしろ「本当に正しいものを愛することのみしか知らなかった珍しい人間の魂の物」と云うべきではなかろうか。
 このミコトノリのどこかに一片でも暗いカゲがあるでしょうか。否、否、否。なんとまア正しい位置におかれた心の発した確信にみちた断言であろうか。その断言はさらに堂々と確信にみちて進みます。そして、
「清麻呂と事を謀っている同類も分っているが、天皇のマツリゴトは慈をもって行うものであるから、愍れみによって差許す」
 とは、何たる豪快、凄絶なほど美しいゴータではないか。
 心の正しい位置から発する女帝の童心の叡智は、その同類すらも見抜いていたが、天皇のマツリゴトは慈をもって行うものである故、というすさまじい確信によって差許した。
 そしてその正しい位置をしめている魂は、己れの位置の正しさを明確に知る故に、強いて臣下の策謀に対抗して事を構える必要を認めなかったのであろう。
 女帝は道鏡に帝位を与えなかったが、彼の生地にユゲの宮をつくって太夫たゆう職をおき、実質的にはまったく天皇と変りのない扱いであったのである。
 藤原一門中の最大の策師と見られる百川ももかわは道鏡の生地の太夫職をつとめ、女帝と道鏡のために舞いをまい、心からの番頭のようであった。史家はそれをも道鏡をあざむく百川の策と見る人があるが、私はそれを信じない。
 百川はすぐれた策師の故に、物の実体を見ぬく力も人一番であったろう。彼は道鏡の高い為人ひととなりを見ぬいたので、自分が彼を利用しうるなら、自分が道鏡をかつぐ先鋒せんぽうとなろうと考えていたように私は解する。自分がかつぐに足る人格を見たのかも知れぬ。
 しかし、道鏡の心の位置も女帝のそれの如くにあまりに正しく純心で、とうてい百川の俗心と交って共にはかる余地がなかった。恐らく百川はそう見たろうと思う。しかし百川が、まったく道鏡を断念したのは、女帝の死後、道鏡に代るにその兄で己れの利用しうべき白髪の老王子を見出してからであったろうと思われる。
 しかも道鏡は女帝の死後に至っても、甚しく純心無垢で、まさに死せる女帝の正しい心とことごとく相和すべき童心の主であったことを一貫して示している如くである。即ち藤原氏の策師たちが己れに有利な天皇たるべき皇胤を血眼で探しまわっているとき、彼のみはただ死せる女帝の生々しい墓前に庵をむすんで坐りつづけ、夜も昼もかわりなく、女帝の霊を見まもっていた。正しい位置にある心から一途に発する敬愛のマゴコロのみが全てであったと私は信ずる。
 百川は自分の天皇を探し当てた。そして道鏡は不用になり、下野しもつけの国、薬師寺の別当として都を追われた。
 俗書や俗説は道鏡の心理を作為して皇位をねらったと云うが、史料の語る事実に於て彼が自発的に皇位を狙ったと目すべきものは一ツもない。藤原氏の手先たる習宣のアソマロが、道鏡を天皇にたてると天下が平らになろうと計画的な神託を奏上し、同じ一味の清麻呂がそれをくつがえして、すみやかに道鏡をのぞくべし、という筋書通りの芝居を運んだだけである。道鏡はそれを見ていただけのことだ。
 史料の語る正しい言葉からは、女帝と道鏡の恋愛の事実すらも出てこないように私は思う。

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 最後に蛇足だそくながら、秘められた国史のカギの一ツが、この複雑な陰謀の中に現れて何かを暗示しているようだ。
 それは百川らの陰謀が、道鏡を皇位につけると天下が平になろう、とニセの神託を奏上させたが、その神託を発した神が、国撰史では皇室の祖神であり、かかる神託を発する唯一の神と見て然るべき伊勢大神宮が発せられずに、九州の宇佐八幡から発せられ、それが何の疑いもなく、女帝にもその時代にも当然の権威ある神託として通用していることである。これはナゼであろうか? 女帝や道鏡のいずれかにとって、そのように権威ある神託を発するに足る祖神が宇佐八幡であろうか?
 また、道鏡を天皇にすると、天下が平になろう、と云う。天下は「まだ」平ではなかった意味を現しているかも知れん。遠い時間の彼方かなたにある謎である。





底本:「坂口安吾全集17」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「安吾史譚」春歩堂
   1955(昭和30)年7月
初出:「オール読物 第七巻第二号」
   1952(昭和27)年2月1日発行
※初出時の表題は「安吾史譚(その二)」です。
入力:辻賢晃
校正:shiro
2018年9月28日作成
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