道鏡

坂口安吾




 日本史に女性時代ともいうべき一時期があった。この物語は、その特別な時代の性格から説きだすことが必要である。
 女性時代といえば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその絢爛けんらんたる才気によって一世いっせい風靡ふうびしたあの時期だ。
 けれども、これは特に女性時代というものではない。なぜなら、彼女等の叡智えいちや才気も、要するに男に愛せられるためのものであり、男に対して女の、本来差異のある感覚や叡智がその本来の姿に於て発揮せられたというだけのことだ。
 つまり愛慾の世界に於て、女性的心情がゆがめられるところなく語られ、歌われ、行われ、今日あるが如き歪められた風習が女性に対して加えられていなかったというだけのことだ。とはいえ、今日に於ては、歪められているのは男とても同断であり、要するに男女の心情の本性が風習によって歪められている。
 平安朝に於てはそれが歪められていなかった。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛慾がその本能から情操じょうそうへ高められて遊ばれ、生活されていた。かかる愛慾の高まりに、女性の叡智や繊細せんさいな感覚が男性の趣味や感覚以上に働いたというだけのことで、古今を問わず、洋の東西を問わず、武力なき平和時代の様相はおおむね此の如きものであり、強者、保護者としての男性の立場や作法まで女性の感覚や叡智によって要求せられるに至る。要求せられることが強者たる男性の特権でもあるのであって、要求する女性に支配的権力があるわけではない。いわば、男女※(二の字点、1-2-22)おのおのその処を得て、自由な心情を述べ歌い得た時代であり、歪められるところなく、人間の本然の姿がもとめられ、開発せられ、生活せられていただけのことなのである。特に女性時代ということはできない。

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 皇室というものが実際に日本全土の支配者としてその実権を掌握しょうあくするに至ったのは、大化改新に於てであった。
 蘇我氏あるを知って天皇あるを知らずと云い、蘇我氏は住居を宮城、墓をミササギと称し、飛鳥なる帰化人の集団に支持せられて、その富も天皇家にまさるとも劣るものではなかった。畿内きだいに於けるこの対立ほど明確ではなかったにしても、地方に於ける豪族は各※(二の字点、1-2-22)土地を私有して、独立した支配者として割拠かっきょしており、天皇家の日本支配は必ずしも甘受かんじゅせられていなかった。
 大化改新は、先ず蘇我一族をほろぼすことから始められたが、その主たる目的は、天皇家の日本支配の確立、君臣の分の確立ということだ。口分田くぶんでんとか租庸調そようちょうの制度は、土地私有の厳禁、つまり天皇家の日本支配の結果であって、目的ではない。
 蘇我氏を支持する帰化人の集団は飛鳥の人口の大半を占め、当時の文化の全て、手工業の技術と富力をもち、その勢力は強大であった。真向からこれを亡す手段がないので、天智天皇は皇居を近江に移してこの勢力の自然の消滅をねらったが、この勢力の援助なしには新都の経営も自由ではない。その弟の後の天武天皇が兄の天皇の憎しみを怖れて吉野に逃げたのも、この勢力の支持を当にしてのことであった。
 持統天皇は藤原遷都せんとによってこの勢力との絶縁を志して果し得ず、奈良の遷都によって始めて絶縁に成功した。天皇家の日本支配がこのときに確立したので、古事記や書紀の編纂へんさんがこの時期に行われたのも、天皇家の日本支配を正統づける文献が必要であった為であり、その必然の修史事業のくわだてによっても、この時期に於ける天皇家の地盤の確立を推定し得るであろう。
 爾来じらい、天平の盛時、諸国に国分寺がたち、聖武天皇が大仏の鋳造ちゅうぞうちょくして、天下の富をたもつ者はちんなり、天下の勢力をたもつ者も朕なり、堂々宣言のある日まで、日本は主として女帝によって孜々ししとして経営がつづけられていた。天皇家の日本支配は女帝によってその意志が持続せられた。聖武天皇はかかる女帝の経営の結実であり精霊であり、そして更にその結実は孝謙天皇の血液へ流れる。史家は当時をさして、仏教政治という。いな、表に於ては、そうである。内実に於て、その支配者の血液の息吹に於て、まさしく、女性政治であった。

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 天智天皇は当然継承けいしょうすべき帝位に即かず、皇極、孝徳、斉明、三帝のもとに皇太子として暗躍した。斉明は皇極の重祚じゅうそであり、天智の生母、舒明の皇后であり、孝徳はその弟、天智の叔父に当る。
 この時まで女帝ということは推古の外には例がない。然し、この時には女帝に意味があるのではなく、中大兄皇子(天智天皇)が自らの意志によって皇太子であったところに意味があり、皇子は大改革、むしろ天下支配の野心のもとに、その活躍の便宜上、ロボットの天皇を立て、自らは皇太子でいたものだ。その腹心は鎌足であり、全ては二人の合議ごうぎの上で行われたものであった。
 自分自ら号令を発しても威令は却々なかなか行われるものではない。一つの神格的な天皇というものを自分の一段上に設定する。そして自分の号令を天皇の名に於て発令し、自分自身がその号令にふくして見せる。そして、自分が服したことによって、同じ服従を庶民に強制するのである。この方法は平安朝の藤原氏が、武家時代の鎌倉政府が足利氏が、そして昭和の今日には軍閥ぐんばつ政府が、行ったところである。天皇はロボットであった。その号令は天皇の意志ではなしに、藤原氏の、鎌倉幕府の、軍閥政府の意志であった。然し、彼等は天皇の名に於て自らの意志を行う。そして自ら真ッ先にそれに服従することによって、同じ服従を万民に強要するのである。これは利巧りこうな方法であった。そして、この原形を発案したのは中大兄皇子であった。皇子は、皇極、孝徳、斉明三天皇を立て、自らは皇太子として、大改革に着手した。
 従って皇極(斉明)という女帝は中大兄皇子のロボットであり、女帝自体に意味はなかった。女性時代ともいうべき女帝時代は持統天皇から始まる。

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 天武天皇崩御ほうぎょのとき皇太子(草壁皇子)がまだ若かったので(当時は幼帝を立てる例がなかった)皇太后が摂政せっしょうした。三年の後、皇太子も亦こうじ、その子珂瑠皇子は極めて幼少であったから、皇太后が即位した。持統天皇であった。
 持統天皇の在位は皇孫珂瑠の保育にあったが、太政大臣に高市皇子を任じ、補佐するに葛野王あり、家族政府として極めて鞏固きょうこな団結であった。持統天皇が強烈沈静の性格の持ち主であったことは、彼女が自らの遺言によって、天皇の火葬の始めであることによっても考えられる。
 死後の世界は、今日科学によって死後の無を証明せられてすら、なお我々の知性に於てもその空想と恐怖から解放されてはいない。原形のまま地下に横たわり他日の再生を希うことは人間本来の意志であるが、その仏教に対する信仰の結果とは云え、自ら意志して、肉体を焼き無に帰すことを求めるのは凡人の為し得るところではない。持統天皇は天智天皇の娘であるが、その夫大海人皇子(天武)が天智天皇に厭われて吉野に流浪のときも従属しており、その強烈沈静な性格は知り得るであろう。
 皇孫珂瑠は譲を受けて即位し文武天皇となる。このときの詔に、
現御神あきつみかみと大八島国所知しらす天皇が大命らまと詔りたまふ大命を集待れる皇子等王臣百官人等天下公民諸聞食さへと詔る」(下略)と。
 自らを現御神と名のり、大八島しらす天皇と名のる、この堂々の宣言を読者諸氏は何物と見られるであろうか。私はこれを女と見る。女の意志を見るのである。
 私は一人の強烈沈静なる女の意志を考える。その女は一人の孫の成人を待っていた。その孫が大八島しらす天皇、現御神たる成人の日を夢みていた。その家づきの宿命の虫の如き執拗しつようさをもって、夢み、祈り、そして、育てていたのだ。人はすべて子孫の繁栄を祈るものであるかも知れぬが、別して女は、別して強烈沈静なる女は、現実的、肉体的な繁栄や威風いふうをもとめてやまないものである。北条政子と同じ意志がここにある。そして、政子の如く苦難に面していなかった。順風に追われていた。
 我々がここに見出すのは、政府ではなく、家であり、そして、家の意志である。

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 文武天皇は二十五で夭折ようせつした。皇子おびとは幼少であったから、その生長をまつまで、文武天皇の母(草壁皇子の妃)が帝位についた。元明天皇である。天智天皇の娘であり、持統天皇の妹であった。
 つづいて元正天皇に譲位した。首皇子が尚成人に至らなかったからである。元正天皇は元明天皇の長女であり、文武天皇の姉であり、首皇子の伯母であった。
 こうして、祖母と伯母二代の女帝によって現人神あらひとがみとしての成人を希われ祈られ待たれた首皇子は、後の聖武天皇であった。
 女帝達の意志のうちに、日本の政治、日本の支配、いわば天皇家の勢力は遅滞なく進行していた。大宝、養老の律令りつりょうがでた。風土記も、古事記も、書紀もあまれた。奈良の遷都も行われた。貨幣も鋳造ちゅうぞうされた。
 然し、女帝達の意志と気力と才気の裏に、更に一人の女性の力が最も強く働いていた。橘三千代であった。天武以来、持統、文武、元明、元正、聖武、六代にわたって宮中に手腕をふるった女傑じょけつであった。
 男の天皇に愛せられた女傑の例は少くない。然し、男の天皇にも、別して女の天皇により深く親しまれ愛されたという女傑の例はめったにない。
 三千代は始め美努王にして葛城王(後の橘諸兄)を生み、後に、藤原不比等に再嫁して光明皇后を生んだ。元明女帝の和銅元年、御宴にした三千代のさかずきに橘が落ちたのにちなんで橘宿禰の姓をたまわったのである。
 史家は推測して、三千代は文武天皇のウバの如きものではなかったか、又、首皇子に就ても同じような位置にあったのではないか、という。とまれ六朝に歴侍して宮中第一の勢力を持ち、男帝女帝二つながら親愛せられて、終生しゅうせいその勢力に消長がなかったという三千代の才気は、いささか我々の理解を絶するものがある。
 然し、こういうことが云える。六朝に歴侍して終生その宮中第一の勢力に消長がなかったという三千代の当面の才気に就ては分らない。然し、三千代の地位と勢力に変りがなかったなかばの理由は宮中自体の性格の中にも在るのだ、と。
 天武天皇までの歴朝はお家騒動の歴史であった。天武天皇自体、兄天皇に憎まれ、逃走、流浪るろう、戦乱の後に帝位に即いた人である。然し、つづいて持統より聖武に至るまで、持統の初期にお家騒動の多少のきざしが有っただけで未然みぜんに防がれ、それより後は「家」という足場自体に不安のきざしたことはない。たまたま男の継嗣は長寿にめぐまれず、幼児をようして女帝の摂政せっしょうがつづいたとはいえ、その成人にあらゆる希願と夢を托して、一方に朝家の勢力、日本支配は着々と進み、すべては順潮であった。六朝の意志に変化はなく、六朝の性格は一貫していた。
 夫(天武)より妻(持統)へ。
 祖母(持統)より孫(文武)へ。(まんなかの父※(始め二重括弧、1-2-54)草壁太子※(終わり二重括弧、1-2-55)夭折ようせつしたのだ。然し、母は残り、これ又、次に天皇となる)
 子(文武)より母(元明)へ。(この母は同時に持統の妹でもあった)
 母(元明)より娘(元正)へ。(この娘は文武の姉に当っていた)
 伯母(元正)より甥(聖武)へ。
 文武を育てる持統の意志は、聖武を育てる元明、元正両帝の意志の原形であり、全く変りはなかった筈だ。元明は持統の妹だ。そして、元正は元明の娘であった。
 二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承でんしょうし、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承していた。時代と人は変っても、その各※(二の字点、1-2-22)の血と意志に殆ど差異はなかったのだ。
 家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固きょうこであった。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるという事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがただ幼帝の成人にたくされていたからである。女達がその自由意志、欲情を抑え、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭ぼっとうするとき、如何なる男も彼女等以上に周到しゅうとうな才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
 史家は三千代を女傑という。女傑という意味にもよるが、三千代はたぶん策師ではなかった筈だ。なぜなら私情を殺した女支配者の沈静な観察にえて最大の信任をはくしたのだから。彼女は貞淑ていしゅくであり、潔癖けっぺきであり、忠誠であったに相違ない。もとより、すぐれた才気はあったが、善良であったに相違ない。温和おんわであったに相違ない。
 沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかった。大臣は温和であった。藤原不比等は正しかった。彼等は実直な番頭だった。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途いちずに目的を進んでいた。

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 これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であった。
 その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の安宿あすかであった。全身は光りかがやく如くであったから、光明子とよばれ、又、光明皇后とよばれた。天皇と同じ年齢だった。まだ皇太子のころ、元明天皇が選んで与えたものだった。
 そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであった。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を内裏だいりに集めて、光明皇后冊立をちょくせられたが、他に何人かの意志があったにしても、最も多く聖武天皇の意志であったに相違ない。なぜなら、光明皇后を何物にもまして熱愛していたからであった。
 安宿あすかは天下第一の女人の如くに教育された。それは三千代の悲願であった。不比等の女(三千代の腹ではない)宮子は入内して文武天皇の夫人となった。文武天皇は妃も皇后もめとらず、宮子は実質上の皇后だったが、天皇は二十五で夭折した。首皇子即ち聖武天皇はその一粒種ひとつぶだねであった。
 安宿は天性の麗質れいしつであり怜悧れいりであった。年齢も亦首皇子に相応し、生れながらにして、天皇の夫人たるべき宿命をあらわしていた。けれども三千代は更に一つの慾念があった。それは彼女の一世一代の慾念だった。三千代はすでに年老いていた。その一生は誠心誠意、ただ忠誠を事として、不当の私慾をもとめたことはない。その長男、葛城王は臣籍しんせきに降下して橘の諸兄となり、大臣となったが、それは自然の成行で、そして諸兄は温良忠誠な大臣だった。けれども三千代は年老いて、今、やみがたい一代の慾念をどうすることもできない。それは安宿を夫人でなしに、皇后にしたいということだった。
 そして安宿はその母なる一代の才女によって、天下第一の女人の如くに教育された。当然首皇子の夫人であり、やがて、どうあろうとも皇后であらねばならぬ悲願をこめて育てられた。麗質は衣を通して光りかがやき、広大な気質と才気は俗をぬき、三千代の期待の大半は裏切られる何物も見出すことはできなかった。
 女支配者の沈静な心をこめ夢を托して育てあげられた首皇子は、その沈静な女たちの心情によっていとわれるものを厭い、正しとするものを正しとする心情を与えられていた。その沈静な女たちの心情が厭うものは淫乱であり、正しとするものは信仰であった。
 元明天皇が首皇子に安宿を与えるとき、特に言葉を添えて、これは朝家の柱石であり、無二の忠臣であり、主家のためには白髪となり、夜もねむらぬ人の娘なのだから、ただの女と思わずに大切にするように、という言葉があった。
 然し、そのような言葉すらも不要であった。皇子の心はすべてに於て安宿によって満たされた。美貌と才気は言うまでもなかった。特にその魂のくらいに於て。天下第一の魂の位に於て。
 まさしく二人は、そのように希われ、祈られ、夢みられて、その如くに育てあげられた無二の二人であった。首皇子を育てたものは、その祖母と伯母の外に、更により多く三千代であった。そして三千代は首皇子を念頭ねんとうに常に安宿を育てていた。首皇子はその幼少に三千代にみたされて育ったかげを、より若く、より美しい安宿の現実の魅力の中で、思いだし、みたされていた。曾て周囲の女人達に吹きこまれていた天下第一の身の貫禄を、安宿の自然の態度の中に見出して、その※(二の字点、1-2-22)おのおのが、より高く、みたされることが出来るのであった。
 天平十八年、大仏の鋳造に当って「天下の富をたもつ者はちんなり。天下の勢をもつ者も朕なり」と勅した天皇は、その鋳造を終って東大寺に行幸し、皇后と共に並んで北面の像に向い、凜々りんりんと大仏に相対し、橘諸兄に告げしめて「三宝の奴と仕え奉る」と、そして敬々しく礼拝らいはいした。人は実に自愛の果には、礼拝の中に身の優越を見出すものだ。
 それは二人の宿命の遊びであった。五丈余の大仏と、それをつつむ善美華麗、天下の富をつくした建築、諸国には国分寺が立ち、国分尼寺が立ち、それは、まさしく天下の富を傾けつくしていたのである。
 おくり号して聖武天皇という。武は内乱の鎮定ちんていであるが、聖は神武の聖徳をつぎ、それにも劣らぬ天下興隆の英主としての聖の字であった。その聖の字はただ宮中の内外の仏徒の口によるものであり、その聖徳も仏徒によってたたえられているものだった。宮中にすら国民の窮乏に思いをよせる人はいた。果して天下は興隆したか。然り、仏教は興隆した。奈良の都は栄えた。諸国に国分寺がたち、大仏がつくられ、東大寺は都の空に照り映えた。天皇は三宝の奴となった。
 然し、その巨大なる費用のために、諸国は疲弊ひへいのどん底に落ち、庶民は貧窮に苦しんでいた。朝廷は怨嗟えんさまととなり、重税をのがれるための浮浪逃亡が急速に各地に起り、おのずから荘園はふとり、国有地は衰え、平安朝の貴族の専権、ひいては武家の勃興ぼっこう、朝家の没落の種はこうしてまかれていたのである。
 然し、二人の宿命の子は、そのようなことは振向きもしない。ただ常に天下第一の壮大華麗な遊びだけがあるだけだった。それは二人の意志のみではない。六朝をかけた家名の虫、女主人たちの意志だった。沈静なる女支配人たちの綿密な心をこめた霊気の精でもあったのである。
 そして、宿命の二人に子供が生れた。娘であった。持統天皇がその強烈沈静な思いをこめてから六代、最後の精気が凝っていた。それが孝謙天皇であった。

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 三宝の奴と仕えまつると大仏に礼拝したその年の七月、聖武天皇は愛する娘に位を譲って上皇となった。新女帝はそのとき三十三だった。
 この女帝ほど壮大な不具者はいなかった。なぜなら、彼女は天下第一の人格として、世に最も尊貴な、そして特別な現人神として育てられ、女としての心情が当然もとむべき男に就ては教えられていなかったからだ。結婚に就ては教えられもせず、予想もされていなかった。父母の天皇皇后はそのように彼女を育て、そしてはなはだ軽率に彼女の高貴な娘気質を盲信もうしんした。我々の娘だ。特別な娘だ。男などの必要の筈はない、と。
 首皇子を育ててくれた祖母の元明天皇も、伯母の元正天皇も、未亡人で、独身だった。彼女等の身持は堅かった。そして聖武天皇は、当然孤独な性格をもつ女支配者の威厳に就て、見馴れるままに信じこみ疑ってみたこともなかった。彼は全然知らなかった。祖母も伯母も、女としての自由意志が殺されていたことを。彼女等は自ら選んで犠牲者に甘んじていた。彼女等の慾情は首皇子を育てることの目的のために没入され、その目的の激しさに全てがみたされていた。彼女等は家名をまもる虫であり、真実自由な女主人ではなかったのだということを。
 この二つの女主人の、根柢的な性格の差異を、聖武天皇はさとらなかった。

        *

 新女帝の治世ちせいの始めは、まだ存命の父母に見まもられて、危なげはなかった。政治はむつかしいものではなかった。ただ全国的な大きな田地を所有する地主であり、その毎年の費用のために税物を割当て、とりあげるのが政治であった。
 上皇は剃髪ていはつして法体となり、ひたすら信仰に凝っており、女帝は更に有閑婦人ゆうかんふじんの本能によって、その与えられた大きな趣味、信仰という遊びの中で、伽藍がらんに金を投じ、儀式を愛し、梵唄を愛し、荘厳を愛していた。
 上皇が死んだ。つづいて母太后も死んだ。女帝は遂に我身の自由を見出した。女帝は急速に女になった。
 孝謙天皇は即位の後に、皇后宮職を紫微中台と改め、その長官に大納言藤原仲麿を登用していた。仲麿はもう五十をすぎていた。右大臣豊成の弟であった。兄は温厚な長者であったが、仲麿は自身の栄達の外には義理人情を考えられない男であった。
 天皇は、恋愛の様式に就て、男を選ぶ美の標準も、年齢の標準も、気質に就ての標準も、あらゆるモデルを持たなかった。魂の気品の規格は最高であったが、その肉体の思考は、肉体自体にこもる心情は、山だしの女中よりも素朴であった。
 天皇はその最も側近に侍る仲麿が、最も親しい男であるというだけで、仲麿を見ると、それだけで、とろけるように愉しかった。四十に近い初恋だった。母太后の死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。
 彼女ほど独創的な美を見出した人はなかったであろう。彼女には仲麿の全てのものが可愛いかった。彼女はただ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかった。ただ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかっただけだった。
 天皇は仲麿を見るたびにましくなるので、改名して、恵美押勝と名のらせた。押勝とは、暴を禁じ、強に勝ち、戈を止め、乱を静めたという勲の、雄々しい風格の表現だった。そして大保に任じ、あまつさえ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいという政治も恋も区別のない出鱈目でたらめな許可を与えたのである。

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 孝謙天皇の皇太子は道祖ふなど王で、天武天皇の孫に当り、他に子供のない聖武天皇は特にこの人を愛して、皇太子に選んだ。それは聖武の意志であり、政治に就て親まかせの孝謙天皇は、まだその頃は皇太子などはどうでもよくて、自身の選り好み、差出口はしなかった。
 恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だったが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る大炊王を自邸に招じ、この寡婦と結婚させて養っていた。彼は女帝が皇太子に親しみを持たないことを知っていたので、それを廃して、大炊王を皇太子につけたいものだと考えていた。
 死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やっぱりただの肉体をもつ宿命の人の子であることに気附いていた。上皇はただ怖しかった。全てを見ずに、全てを知らずに、いたい気持がするのであった。然し、彼は、ともかく娘を信じたかった。なぜ肉体があるのだろうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与えたことが、自分の罪であるとしか思われない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの訓戒くんかいをもたらすだけの残酷さにも堪え得なかった。
 彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらい、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむように、一語ずつ、ゆっくり言った。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになっている。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことと存じております。そうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓をたてるがよい。押勝は神酒を飲んで、誓った。上皇の目は光った。よろしいか。もしもお前がこの言葉に違うなら、天神地祇の憎しみと怒りはお前の五体にかかるぞよ。たちどころに、お前の五体はさけてしまうぞ。上皇は押勝をはったとにらんで、叫んでいた。
 上皇は崩御した。
 押勝は上皇の病床に誓った言葉のことなぞは、気にかけていなかった。それにしても、機会の訪れは早すぎた。諒闇りょうあん中に、皇太子が侍女と私通した。女帝から訓戒を加えたけれども、その後も素行そこうが修まらない。春宮をぬけだして夜遊びして、一人で戻ってきたり、婦女子の言葉をまに受けて粗暴な行いが多く、機密が外へもれてしまう、それが罪状の全てであった。
 諸臣をあつめて太子の廃否を諮問しもんする。天皇のむねならばそむかれませぬ、大臣以下諸臣の答えは、そうだった。即日太子を廃して、自宅へ帰してしまったのである。
 改めて太子をたてる段となり、右大臣豊成と藤原永手は塩飽王をした。文室珍努と大伴古麿は池田王を推した。押勝のみは敢てその人を名指さず、臣を知る者は君に如かず、子を知る者は親に如かず、天皇の選ぶところを奉ずるのがよかろう、と言う。口惜しいけれども、正論であった。そこで聖断をもとめると、もとより天皇の言うところはきかぬ先から分っている。船王は閨房けいぼう修まらず、池田王は孝養にけるところがあり、塩飽王は上皇がその無礼を憎まれており、ただ、大炊王だけは若年じゃくねんながら過失をきいたことがないから、と、押勝の筋書通り、すでに押勝の意志するところが、女帝の意志に外ならなかった。聖旨せいしならば、と云って、もとより諸臣はこれに反対を説えることはできなかった。

        *

 左大臣は橘諸兄、右大臣は藤原豊成であった。豊成は押勝の兄だった。
 聖武上皇が死床に臥しているとき、諸兄が酔ってふともらしたという言葉尻をとらえて、佐味宮守という者が密告して、左大臣は然々の無礼な言があったから謀反むほんの異心があるかも知れぬ、と上申した。上皇は事の次第を糾問きゅうもんしようとしたが、太后が口をそえて、あの実直な諸兄にそのようなことがあり得る筈はありませぬ、といさめたので、上皇も追求しなかった。
 けれども諸兄は押勝の野心とたくらみを怖れた。
 彼が信任を得ているのは上皇と太后であり、その亡きあとは、押勝の企みが万能でありうることを見抜いていた。彼は争いを好まなかった。彼は三千代の長子であり、光明太后の異父兄であり、その柄になく左大臣になったけれども、家族政府の実直な番頭という心あたたかな責務以上に、政治に対する抱負ほうふもなく、又、特別の才腕もなかった。人と争い、押しのけてまで、地位に執着しなければならないような、かたくなな思いは微塵みじんもなかった。彼はあっさり辞任した。みれんなく都の風をすて、山吹の咲く井出の里に閑居して、そして、翌年、永眠した。
 残る邪魔者は、彼の実兄、右大臣豊成が一人であった。彼は兄の失脚の手掛りを探したが、温良大度、老成した長者の右大臣には直接難癖のつけようがなかった。
 そのころ、押勝の専横せんおうを憎む若手の貴族に、暗殺の計画がすすめられているという噂があった。
 あるとき、大伴古麿が小野東人に向って、押勝を殺す企みの者があるときはお前は味方につくか、ときくので、東人は、つきますとも、と答えたという。するとこの話を伝えきいた右大臣の豊成が、弟は世間知らずなのだから、私からよく訓戒を与えておこう、早まってお前たちが殺したりはしてならぬ、と言ったという。
 橘諸兄の子の奈良麿は父に加えた押勝の讒言ざんげんを憎んでいた。そのうえ彼は当時の政治に反感と義憤をいだいていた。即ち彼は東大寺や国分寺の建立こんりゅうのために、全ての犠牲と苦しみが人民たちにかかっているのに堪えがたい不満をいだいていたのであった。彼は押勝と大炊王を暗殺して、正しい政治を欲している皇太子を立て、日本の政治を改革したいと考えていた。その相棒は大伴古麿で、クー・デタを計画し、兵器を備えているという噂があった。密告は重ねて光明太后の耳にとどいた。
 然し、光明太后はそれらの密告をとりあげなかった。ただ、噂にのぼる人々を召し寄せて、私はそのようなことは信じたことはないけれども、然し、国法というものは私と別にあるのだから、皆々も家門の名誉というものを失わぬよう心掛けてくれるがよい。お前たちは私の親しい一族の者に外ならぬのだから、私の言葉は大切にきくがよい、と、さとされた。
 けれども、やがて、山背王の密告は打消すことができなかった。廃太子道祖王、黄文王、安宿王、橘奈良麿、大伴古麿、小野東人らが皇太子と押勝暗殺のクー・デタを企んでいるというのであった。
 押勝は自邸に警備をつけ、召捕の使者は即刻四方に派せられた。その隊長の一人は藤原永手であった。彼は押勝の命を受け、まるで腹心の手先のような赤誠せきせいを示して出掛けて行った。主謀者達は、諸王も諸臣も召捕られた。然し白状したものは、小野東人だけだった。そして、東人に白状せしめた者も永手であった。
 諸王達も諸臣達も、他の何人も白状しなかった。彼等はただ東人が誘いにきたので集ったので、集りの目的も知らないと言った。東人が礼拝しようと言いだしたので、何を礼拝するのかと訊くと、天地を拝すのだという、それで言われるままに礼拝したが、陰謀の誓約せいやくのために礼拝したのと意味が違う、それが彼等の答えであった。彼等の答えは全てがまったく同一だった。
 そこで彼等は拷問せられて、廃太子道祖王、黄文王は杖に打たれて悶死もんしをとげ、古麿と東人も拷問ごうもんに死んだ。生き残った人々は流刑に処された。東人が杖に打たれて死んだので、この真相はもはや誰にも分らなかった。
 そして、このとき、豊成の子の乙縄も陰謀に加担していた。そこで父の右大臣は陰謀を知って奏することを怠ったという罪に問われて、太宰員外師に左遷させんされ、遠く九州へ追い落されてしまったのである。
 あらゆる敵を一挙に亡したばかりでなく、目の上の瘤、兄大臣を退けることまでできた。押勝の満足は如何ばかり。
 ところで、その同じ時刻に、顔を見合せてニヤリとしていた一味がいた。藤原永手、藤原百川、その他藤原一門の若い貴族の面々だった。彼等こそ押勝の腹心だった。赤心せきしんを示し、忠誠を誓い、召捕に、又、拷問に、糾明きゅうめいに、率先当った人であった。
 然し、彼等は祝杯をあげていたのである。彼等は老いたる狐の如くに用心深い若者だった。祝杯の陰の言葉から、我々は如何なる秘密もききだすことはできない。その場にたとえば押勝がひそかに忍んで立聞きしても、陰謀の破滅と、平和の到来を祝う言葉をきき得ただけであったろう。

        *

 藤原不比等に四人の男の子があった。各※(二の字点、1-2-22)家をたて、武智麻呂を南家、房前を北家、宇合を式家、麻呂を京家と称し、各※(二の字点、1-2-22)枢機すうきに参じていた。安宿夫人は光明皇后となり、三千代の勢威は後宮に並ぶものなく、藤原氏にあらざれば人にあらざる有様だった。
 筑紫に起った痘瘡とうそうが都まで流行してきた。天平九年のことであった。加茂川のほとり、城門の外は言うまでもなく、都大路も投げすてられた死体によって臭かった。藤原の四兄弟も、一時に病没したのである。
 藤原四家の子弟たちはまだ官歴が浅かったから、亡父の枢機につき得なかった。橘諸兄が大臣となり、吉備真備が重用せられたのも、そのためであった。安倍、石川、大伴、巨勢ら往昔名門の子弟たちも然るべき地位にすすみ、さしもの藤原一門も一時朝政の枢機から離れざるを得なかった。のみならず、式家の長子広嗣はその妻を元※(「日+方」、第3水準1-85-13)に犯され、激怒のあまり反乱を起してちゅうせられ、その一族に朝敵の汚名すらもこうむっていた。
 もとより朝廷と藤原氏は鎌足以来光明皇后に至るまで特別の関係をもち、その勢力の恢復も時間の問題ではあった。
 先ず豊成が右大臣となり、その弟の押勝が紫微中台の長官となった。彼等は四家のうち、長男武智麻呂の南家の出であり、その年齢も特に長じて、五十をすぎていた。豊成の栄達は自然であったが、押勝は破格であった。その栄達えいたつにあきたらず、ちょうをたのんで、諸兄を退け、皇太子の廃立を行い、陰謀によって敵を平げ、その兄すらも退けた。あとを襲って右大臣となり、二年の後に、太政大臣に累進るいしんした。
 藤原若手の貴族達は一門の昔の夢を描きつつ、年毎にその当然の官位をすすめていたが、今は、当面の敵を倒さなければならなくなっていた。当面の敵は、押勝であった。なぜなら、押勝も同じ彼等の一族ではあったが、まるで彼等の首長のように専横せんおうすぎるからであった。
 彼等のすべては個人主義者、利己主義者であった。彼等は一族の名に於て団結したが、それはただ共同の敵を倒すための便宜以外に意味はなかった。彼等はただ己れの利益と、己れの栄達を愛していた。そして、生れながらの陰謀癖と、我身の愛を知るのみの冷酷な血をもっていた。その老獪ろうかいな陰謀癖とつめたさは鎌足以来の血液だった。
 陰謀の主役は年長の永手よりも、むしろ若年の百川だった。永手は彼らの最長者であり、官職も中納言にすすんでいたが、百川はまだ二十五をまわったばかりで、取るにもたらぬ官職だった。然し、その老獪な策略と執拗な実行力はぬきんでていた。
 彼等のすべてが押勝の腹心だった。押勝にび、すすんで忠勤をはげみ、その報酬に官位の昇進を受けていた。彼等は面従腹背めんじゅうふくはいを人の当然の行為であると信じていた。彼等はむしろ押勝よりも悪辣あくらつであり老獪であり露骨であった。百川は道鏡をしりぞけてのち、自分の好む天皇をたてる陰謀に成功した。更にその後、皇太子の廃立に成功したが、彼のすすめる親王を天皇は好まなかった。その天皇を責めたてて、四十余日、夜もねむらず門前にがんばりつづけ、わめきつづけて、天皇を根負けさせているのであった。
 彼等はむしろ押勝以上に策師であり、智者であり、陰謀家であり、利己主義者であり、かつ礼節も慎みもなかったから、押勝の専横に甘んじて、その下風に居すわる我慢がなかったのである。
 彼等の共同の目的は、押勝の失脚だった。するとそこへ、思いもうけぬ好都合の人物が登場してきた。それが弓削道鏡であった。

        *

 道鏡は天智天皇の子、施基皇子の子供であり、天智天皇の皇孫だった。
 道鏡は幼時義淵に就て仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛木山にこもって修法錬行れんぎょうし、如意輪にょいりん法、宿曜秘法等に達し、看病薬湯の霊効に名声があった。その法力と、仏道堅固な人格と、二つながら世評が高く、内裏の内道場に召されたのだ。
 彼の魂は高邁こうまいだった。その学識は深遠であった。そして彼は俗界の狡智こうちに馴れなかった。小児の如くに単純だった。荒行にたえたその童貞の身体はたくましく、彼の唄う梵唄はその深山の修法の日毎夜毎の切なさを彷彿ほうふつせしめる哀切と荘厳にみちていた。彼はすでに押勝に劣らぬ年齢だったが、その魂の、その識見の、その精進の厳しさによって、年齢のない水々しさがただよっていた。
 天皇はいつ頃からか、道鏡に心をかれていた。
 天皇はすでに位を太子に譲り、上皇であった。然し、新帝の即位は名ばかりで、政務は上皇の手にあった。
 六代の悲しい希いによって祈られてきた宿命の血、家の虫のあの精霊が、年老いた女帝の心に生れていた。その肉体は益※(二の字点、1-2-22)淫蕩いんとうであったけれども、その心には、家の虫の盲目的な宿命の目があたりを見廻し、見つめていた。
 色々のことが分ってきた。見えてきたのだ。家の虫の盲目的な宿命の目によって。
 新たな天皇と太政大臣押勝は一つのものであった。新帝は、彼女のものでもなく、国のものでもなく、押勝の天皇だった。そういうことが、分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失っていた我身のつたなさに気がついた。
 上皇は家に就て考える。いや、家の虫が、我身に就て考えるのだ。彼女は押勝を考える。臣下と、つまり、ただの男と、どうしてこんな悲しいことになったのだろう。我身の拙さ、切なさに堪えがたかったが、その肉体のいじらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思いがするのであった。
 彼女は押勝がいやらしかった。一時に興ざめた思いであった。我身のすべての汚らわしさも、押勝一人にかかって見えた。押勝はただ汚さが全てのように思われた。
 上皇は道鏡に就て考える。静かな夜も、ひっそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強いて、その肉体は思いだすまいとするのであった。そして、実際、その肉体を思わずに、道鏡に就て考えていることがあった。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。そういう時には、時々、深く息を吸い、そして大きく吐きだすような静かな澄んだ心があった。けれども思いは、ただそれだけでは終らなかった。そして最後に、上皇は身ぶるいがする。すると、もはや、暫く何も分らなかった。彼女は祈っていた。然し、より多く、決意していた。それは彼女の肉体の決意であった。
 あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれていた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れていた。
 だが、何よりも、彼は天智の皇孫だった。臣下ではなく、王だった。それを思うと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるいするのであった。

        *

 宝字五年、光明太后の五周忌に当っていたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原御楯のやしきに廻って、酒宴があった。
 を終り、十月に、保良宮に行幸した。天皇も同行し、道鏡も随行ずいこうした。押勝は都に残った。
 すでに上皇の肉体は決意によって、みたされていた。上皇の保良宮の滞在は、病気の臥床がしょうの滞在だった。道鏡のみが枕頭ちんとうにあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。そして上皇は全快した。彼女の心はみたされたから。長い決意がみたされていたから。
 上皇はわずかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかった。それは人の心であった。そして、それが自分の心であるのに気附いて、上皇は驚くのだ。上皇は冬空を見、冬のつめたい野山を見た。その気高さと、澄んだ気配に、みちたりていた。すでに彼女は道鏡に、身も心も、与えつくしていた。
 天皇は上皇と道鏡の二人の仲を怖れた。押勝のために怖れたのだ。天皇は恋に就ては多くのことを知らなかった。彼は道鏡を見くびっていた。否、それよりも、上皇と押勝の過去の親密を過信し、盲信しすぎていた。
 天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々諷諫ふうかんをこころみた。上皇の忿怒ふんぬいかばかり。その日を期して、二人はまったく不和だった。

        *

 上皇は出家して、法基と号し、もはや全く道鏡と一心同体であった。道鏡を少僧都に任じ、常に側近にはべらせ、押勝は遠ざけられた。彼はもはや上皇にとって、全く意味のない存在だった。
 押勝は悶々の日を送り、道鏡にいきどおり、上皇を怨んだ。嫉妬に燃え、失脚に怖れ、彼の心は狂おしかった。自ら陰謀する者は、人の陰謀を更に怖れる。彼は失脚の恐怖に狂い、人の陰謀の影に狂って、自ら謀反を企んだ。
 彼は太政官の官印を盗んでを下し、ひそかに兵数を増加した。
 密告する者があって、罪状あらわれ、押勝は逃げて近江に走った。退路を断たれ、追捕ついほの軍は迫ってきた。押勝はやむなく我が子、辛加知からかちの任地越前に逃げ、塩焼王をたてて天皇と称し、党類に叙位して士気をあおり、そのはかなさに哀れを覚えるいとまもなかった。追捕の軍は攻めこんできた。味方の勢は戦う先に逃げだしていた。秋だった。時雨が走り、山に枯葉がしきつめていた。彼は刀も手に持たず、敵に向ってフラフラうごいた。まるでわけが分らぬように相手の顔を見つめていた。刀は肩へ斬りこまれた。まるでびっくり飛び上るような為体えたいの知れない短い喚きが虚空こくうへ消えた。斬られた肩を片手でおさえた。すると指をはねるように血のかたまりが吹きあげた。そして彼はごろりと転んで死んでいた。
 塩焼王も殺され、押勝の妻子も斬られ、その姫は絶世の美貌をうたわれた少女であったが、千人の兵士におかされ、千一人目の兵士の土足の陰に、むくろとなって、冷えていた。
 天皇の内裏も兵士によって囲まれた。使者の読みあげる宣命に「天皇の器にあらず、仲麻呂と同心して我を傾ける計をこらし」と書かれていた。即座に退位を命ぜられ、淡路の国へ流された。そして翌年、配所はいしょで死んだ。

        *

 上皇は法体のまま重祚じゅうそして称徳天皇と云った。出家の天皇には出家の大臣がいてもよかろうと仰せがあって、道鏡は大臣禅師という新発明の官職を与えられた。
 翌年、太政大臣禅師となり、二年の後に、法王となった。
 それは女帝の意志だった。
 女帝は道鏡が皇孫であり、ただの臣下ではないことを、そのしるしを、天下に明かにしたかった。そして二人の愛情の関係自体も。皇孫だから。そして、愛人なのだから。女帝は法王という極めて的確な言葉に気附いて喜んだ。
 法王の月料は天子の供御くぎょに準じ、服食も天子と同じものだった。宮門の出入には鸞輿らんよに乗り、法王宮職が設けられ、政は自ら決した。それはすべて女帝が与えた愛情のあかしであった。名にとらわれる女は、然し、更に、実質の信者であった。名は、そして、人の口は、女帝はすでに意としなかった。事実はただ一つ、道鏡は良人であった。
 道鏡は堕落の悔いを抑えることができていた。女帝の女体は淫蕩だった。そして始めて女体を知った道鏡の肉慾も淫縦いんじゅうだった。二人は遊びに飽きなかった。けれども凜冽りんれつな魂の気魄きはくと気品の高雅が、いつも道鏡をびっくりさせた。それは夜の閨房の女帝と、昼の女帝の、まったく二つのつながりのない別な姿が、彼の目を打つ幻覚だった。夜の女帝は肉体だったが、昼の女帝は香気を放つ魂だった。
 彼は夜の淫蕩を、昼の心で悔いることができなかった。なぜなら女帝の凜冽な魂の気魄が、夜の心を目の前ではっきりと断ち切ってしまうから。彼の魂は高められ、彼の畏敬はかきたてられた。それは女ではなかった。偉大にして高雅にして可憐にして絶対なる一つの気品であり、そして、一つの存在だった。
 そして夜の肉体は、又、あまりにも淫縦だった。あらゆるつつしみ、あらゆる品格、あらゆる悔いがなかった。すべては、ただ、あるがままに投げだされ、惜しみなく発散し、浪費し、行われ、つくされていた。それ自体として悔い得る何物もあり得なかった。惜しまれ、不足し、自由ならざる何物もなかった。涙もあった。溜息もあった。笑いもあった。歓声もあった。力もあった。放心もあった。悲哀もあった。虚脱もあった。怒りもし、すねもし、そして、愛し、愛された。
 道鏡の堕落の思いは日毎にかすみ、失われた。そして彼はもはや一人の物思いに、夜の遊びを思いだすことがあっても、大空の下、あの葛木の山野の光のかがやきの下の、川のせせらぎと同じような、最も自然な、最も無邪気な豊かな景観を思うのだった。
 彼は女帝を愛していた。尊く、高く、感じていた。
 彼は内道場の持仏堂の仏前に端坐し、もはや仏罰を怖れなかった。否、仏罰を思わなかった。女帝と共に並んで坐り、敬々しく礼拝し、仏典をし、彼の心は卑下ひげするところなく高められ、遍在へんざいし、その心は香気の如く無にも帰し、岩の如くにそびえもし、滝の如くに一途に祈りもするのであった。女帝の貴き冥福めいふくのために。
 彼は自分を思わなかった。ただ、女帝のみ考えた。彼は女帝を愛していた。彼の心も、彼のからだも、女帝のすべてに没入していた。女帝は彼のすべてであった。彼の魂は幼児の如く、素直で、そして、純一だった。

        *

 藤原一門の陰謀児達は冷やかな目で全ての成行を見つめていた。
 道鏡という思いもうけぬ登場によって、彼等自身細工を施すこともなく、恵美押勝は自滅した。道鏡は押勝よりも単純だった。そして、彼等にあだをする憂いはなかった。彼等はただ機会を冷静に待てばよかった。あせる必要はなかったから。
 彼等は法王道鏡を天子の如く礼拝し、ひれふし、敬うた。陰口一つ叩かなかった。法王たることが道鏡の当然な宿命であることを、彼等が知っているようだった。
 然し、法王という意外きわまる人爵の出現に、百川の策は天啓てんけいの暗示を受けた。それは道鏡に天皇をのぞむ野望を起させ、そのとき、それを叩きつぶすことによって、一挙に彼を失脚せしめる芝居であった。
 折から彼等の腹心の中臣習宣阿曾麻呂すげのあそまろが太宰府の主神かんづかさとなって九州へ赴任ふにんすることになった。主神は太宰府管内の諸祭祀をつかさどる長官で、宇佐八幡一社のカンヌシの如き小役ではなかった。
 百川は彼に旨をふくめた。
 赴任した阿曾麻呂は一年の後、上京した。彼は宇佐八幡の神教なるものを捧持ほうじしていた。それに曰く「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならん」と。
 道鏡は半信半疑であった。天皇を望む野心を、夢みたことすら、彼はなかった。望む必要がなかったのだ。天皇は、すでに、いた。彼の最も愛する人が。彼のすべてである人が。
 然し、藤原一門の陰謀児たちは執拗だった。彼等は先ず神教によって祝福された道鏡の宿命と徳をたたえた。そして道鏡は皇孫だから、当然天皇になりうる筈だと異口同音に断言した。甘言はいかなる心をもほころばし得るものである。それをたとえば道鏡がむしろ迷惑に思うにしても、それを喜ばぬ筈もない。
 然し、と彼等の一人が言った。事は邦家の天皇という問題だから、阿曾麻呂の捧持した神教だけで事を決することはできぬ。然るべき勅使をつかわして、神教の真否をたださねばならぬ、と。
 もとよりそれは何人をも首肯しゅこうせしめる当然の結論だった。もし道鏡がその神教を握りつぶして不問ふもんに附する場合をのぞけば。
 道鏡は迷った。然し、彼は単純だった。まことにそれが神教ならば、と彼は思った。
 そして、彼が勅使の差遣に賛成の場合、彼は天皇になりたい意志だという結論になることを断定されても仕方がないということに、気附かなかった。
 勅使差遣の断案は道鏡自身が下さなければならないのだ。彼はだくした。

        *

 道鏡をこの世の宝に熱愛し、その愛情を限りなく誇りに思う女帝であったが、道鏡を天皇に、という一事ばかりは夢にも思っていなかった。天皇は自分であった。その事実は、疑られ、内省されたことがない。
 女帝は彼に法王を与えた。天子と同じ月料と、天子と同じ食服と、鸞輿を与え、法王宮職をつくって与えた。すでに実質の天皇だった。すくなくとも、彼女が男帝ならば、道鏡は皇后だった。
 女帝は気がついた。家をまもる陰鬱な虫の盲目もうもくの希いが、天皇は自分であるということを、てんから不動盤石ばんじゃくに、疑らせもしなかったのだ、と。
 女帝は道鏡が気の毒だった。いたわしかった。そして、いとしくて、切なかった。どこの家でも、女は男につき従っているではないか。なぜ、自分だけ。なぜ道鏡が天皇であってはいけないのか。
 女帝は決意した。宇佐八幡の神教が事実なら、そして、勅使がその神教を復奏したなら、甘んじて彼に天皇を譲ろう、と。なぜなら、彼は皇孫だから。諸臣もそれを認めている。のみならず、天智天皇の孫ではないか。
 女帝はその決意によって、幸福であった。愛する男を正しい男の位置におき、そして自分も、始めて正しい女の姿になることができるのだ、と考えた。
 まだ女帝には皇太子が定められていなかった。可愛い男は今は彼女の皇太子でもあったのだ! 上皇という女房の亭主が天皇とは珍らしい。天皇から皇后になることはできないのかな、と、女帝の空想はたのしかった。道鏡が天皇になったら、うんと駄々をこねて、こまらしてやりたい。うんとすねたり、うんと甘えたり、手のつけられないお天気屋になってやりたい。そして道鏡の勘の鈍い、取り澄した、困った顔を考えて、ふきだしてしまうのだ。

        *

 和気清麻呂は戻ってきた。
 彼のもたらした神教は意外な人間の語気にあふれ、奇妙な結語けつごで結ばれていた。無道の者は早くとりのぞくべし、というのだ。
 道鏡は激怒した。なぜなら、彼は、ただ神教の真否をもとめただけだった。天皇になりたいなどとは言わない筈だ。むしろ、心の片隅ですら、それを望んだ覚えがなかった。
 清麻呂の復奏は、ただ道鏡を刺殺する刃物の如く、彼のみに向け、冷やかに、又、高く、憎しみと怒りと正義をこめて、述べられていた。
 その不思議さに、いち早く気附いた人は女帝であった。道鏡の立場は何物であるか。彼はただ、贋神教に告げられた一人の作中人物にすぎない。とがめらるべき第一のものは、贋神教であらねばならぬ。神教はそれに就てはふれてはおらぬ。清麻呂の語気も態度も、阿曾麻呂に向けた批難のきざしが微塵もなかった。
 清麻呂の態度は明らかに、阿曾麻呂は道鏡の旨をうけて贋神教をもたらした傀儡かいらいであると断じている。清麻呂の神教自体の語るところが、そうでなければ意味をなさぬ。女帝は道鏡を知っていた。彼にはあらゆる策がなかった。かりに己が主観はとりのぞき、真実阿曾麻呂が道鏡の傀儡だったと仮定せよ。和気清麻呂とは何者か。彼はただ神教の真否をただす使者ではないか。ありのままの神の言葉を取次ぐだけの使者ではないか。私情のあるべきいわれはない。語気のあるべきいわれはない。言葉と意味があるだけでなければならぬ。
 清麻呂の語気は刃物となって道鏡を斬り、怒りと憎しみと正義によって、高ぶり、狂っているではないか。即ち、そこにあるものは、神教ではなく、彼自身の胸の言葉でなければならぬ。
 すべてがすでに明白だった。阿曾麻呂も清麻呂も、ぐるなのだ。道鏡をおとすワナだった。
 道鏡は激怒にふるえていた。面色は青ざめはてて、その息ごとに、その鼻から、その目から、忿怒ふんぬ火焔かえんきでぬことが不思議であった。
 女帝はかかるいたましい道鏡の顔を見たことはなかった。女帝の胸は苦痛にしびれた。一時に怒りがこみあげてきた。この単純な魂を、この高貴な魂を、なぜそなたらは、あざむき、はずかしめ、苦しめるのか。女帝の顔はにわかに変った。清麻呂をはったと睨みすくめていた。
 すでに清麻呂は面を伏せて控えていたので、女帝の怒りの眼差は気附かなかった。然し、百川はそれを見た。彼の胸に顛倒てんとうした叫びが起った。シマッタ! と。
 然し、そのとき天皇はすっと立って、すでに姿が消えていた。

        *

 清麻呂は芝居をやりすぎた。あまり正直に生の感情をむきだしたことによって。あまりに嘘がなかったために。彼は正直でありすぎた。すでにカラクリの骨組は女帝に看破せられたことを百川は悟らずにいられなかった。
 寸刻すんこく猶予ゆうよもできなかった。ただちに清麻呂に因果をふくめ、神教偽作のカラクリ全部を一身に負う手筈をきめる。直ちに百川は上奏して、清麻呂はすでに神教偽作の罪状を告白したと告げた。さもなければ、カラクリの全部がばれるから。
 清麻呂は官をとかれ、別部穢麻呂と改められて、大隅国へ流された。
 百川の秘策は完全な失敗だった。この事件により、女帝の道鏡によせる寵愛ちょうあいと信任は至高のものに深まった。道鏡は唯一無二のものだった。それは、然し、すでに昔から、そうだった。女帝は堅く決意した。道鏡はわが後継者、皇太子、次代の天子、ということだ。世の思惑は物の数ではなかった。祖宗の神霊も怖れなかった。
 のみならず、世上の風説も、この事件の結末から、道鏡は天皇でありうるという結論になり、やがて、次代の天皇は道鏡だという取沙汰があった。未だに立太子の行われぬことが、この風説を疑われぬものに思わせた。そして、人々は確信した。やがて、道鏡は天皇である、と。
 百川は再び啓示をつかんでいた。女帝のこの絶対の信任のある限り、女帝の存命中は道鏡を失脚せしめる見込みはなかった。女帝の死後。それあるのみ。
 百川は、道鏡天皇説の流行を逆用する手段を見出していた。道鏡は愚直であり、信じ易い性癖だった。道鏡天皇説を益※(二の字点、1-2-22)流行せしめるのだ。庶民達がそれを真に受けて疑ることがないぐらい。そして、道鏡に思いこませてしまうのだ。必ず天皇になりうる、と。殿上人でんじょうびと地下じげも庶民も、全てがそれを希んでいる、と。そして彼は安心しきっている。信じきっている。人々の総意により自然に天皇になってしまう、されてしまう、と。その安心の油断のみが、百川の最後に乗じうる隙だった。
 百川は道鏡にとりいった。全ての藤原貴族達も、おもねった。否、あらゆる人々がそうだった。
 道鏡の故郷は河内の弓削だった。百川はことさら道鏡に懇願こんがんして、その栄誉ある法王の生国河内の国守に任命してもらった。
 道鏡は天皇にすすめ、生地の弓削に由義宮ゆげのみやを起し、西京とした。河内国は昇格し、河内職をおかれた。百川もこれに伴うて昇格し、河内職の太夫になった。
 女帝も由義宮へ行幸した。歌垣が催された。するとこの地の長官たる百川は、それが彼の最大の義務であるように、自ら進んで倭舞を披露ひろうした。舞の手はさして巧くはなかったが、その神妙さ。一手ごとに真心をこめ、全心の注意をあつめ、せめてはその至情によって高貴なる人々の興趣にいくらかでも添いたいという赤心が溢れて見えるのであった。
 道鏡は満足した。そして百川の赤心を信じこんで疑ることを知らなかった。

        *

 女帝は崩御した。宝算五十三。
 道鏡の悲歎は無慙むざんであった。葛木山中の岩窟に苦業をむすんだ修錬のかげもあらばこそ。外道の如き慟哭どうこくだった。一生の希望が終ったようだった。何ものに取りすがって彼は泣けばよいのだか、取りすがるべき何ものもなかった。無とは何か。失うことか。彼はすべてを失った。
 人々が彼の即位をもとめることを、彼は信じて疑わなかった。この偉大なる人、高雅なる人、可憐なる人、凜冽たる魂の気品の人の姿がなしに、内裏だいりの虚空に坐したところで、何ものであろうか。彼の心は天皇の虚器を微塵ももとめていなかった。彼は内裏に戻らなかった。政朝に坐らなかった。人々の顔も見たくはなかった。彼等の言葉のはしくれも、耳に入れるに堪え得なかった。
 彼は女帝の陵下に庵をむすび、雨の日も、嵐の夜も、日夜坐して去らず、女帝の冥福を祈りつづけた。
 百川の待ちのぞんだ機会はきた。然し、はりあい抜けがした。あまりだらしなく、馬鹿げきっているからだ。当の目当の人物は陵下に庵を結び、浮世を忘れて日ねもす夜もすがら読経に明け暮れているからだ。
 然し、百川は暗躍した。彼は暗躍することのみが生き甲斐だった。
 右大臣吉備真備は天武天皇の孫、大納言文屋浄三を立てようとした。然し浄三はすでに臣籍しんせきに下った故にと固辞するので、その弟の大市をたて、宣命も作られ、輿論よろんおおむね決していた。
 然し、百川は動かなかった。彼は自ら筋書を書くのでなければ承服し得ない人間だった。彼は白壁王を立て、左大臣永手、兄の参議良継と謀議して、宣命使をかたらい、大市を立てる宣命に代えて、白壁王を立てる旨を宣らせ、先帝の御遺詔であると勝手な文句をつけたさせた。
 そして白壁王が即位した。時に新帝の宝算六十二。百川は、時にようやく、三十九。
 浮世の風、すべてこれらのイキサツを、道鏡はわれ関せず、庵の中で日ねもす夜もすがら、彼はまったく知らなかった。
 そして彼の耳もとに吹きつけてきた浮世の風の一の知らせは、彼が天皇に即くことではなく、死一等を減じ、造下野薬師寺別当に貶せられ、即日発遣せしめる、という通告だった。
 下野薬師寺は奈良の東大寺、筑紫の観音寺と共に天下の三戒壇、鑑真の開基かいきで、日本有数の名刹めいさつだった。この名刹の別当は、流刑というには当らない。彼は多分、煙たがられていたにしても、さして憎まれてはいなかったのだ。ただ枢機から遠ざけたいということだけが、人々の同じ思いであったのだろう。
 陵下を離れる思いのほかに、彼を苦しめる思いはなかった。すべては、すでに、終っていた。棄つべきものは何もなかった。雲を見れば雲が、山を仰げば山が、胸にしみた。
 然し、彼は、凜冽たる一つの気品を胸にいだいて放さなかった。それは如何なる仏像よりも、何物よりも、尊かった。それをいだいて、彼は命の終る日を、無為に待てば、それでよかった。
(昭和22年「改造」1号)





底本:「桜の森の満開の下」講談社文芸文庫、講談社
   1989(平成元)年4月10日第1刷発行
   2015(平成27)年4月15日第47刷発行
底本の親本:「坂口安吾選集第六巻」講談社
   1982(昭和57)年5月
初出:「改造 第二八巻第一号」
   1947(昭和22)年1月1日発行
入力:日根敏晶
校正:村並秀昭
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード