世に出るまで

坂口安吾




 私は少年期にはスポーツに熱中していたので、小説なぞには興味がなく、立川文庫のほかにはスポーツ関係の読書が主であった。野球界という雑誌は当時からあったし、ファンという野球雑誌、それに陸上競技の雑誌もあった。しかし技術面の指針となるような記事が少いので、私が外国の本をはじめて買ったのもスポーツ関係のものであった。豊山ぶざん中学の同級生にボクシングに凝ったのがいて、この男がアメリカのボクシングの雑誌や本をしこたま持っており、それを見せてもらっているうちに、おのずと陸上競技や野球の原書を自分で買って読むようになったのである。少年期の読書は妙に習癖になるものらしく、後年フランス語を覚えたとき、もうスポーツはやめていたけれども、フランスのスポーツの雑誌や新聞や本などが店頭にあると、つい買ってしまったものである。自転車のロードレースの本まで買った。だからスポーツに関してはサトーハチローさんの次ぐらいに物知りかも知れない。
 だから小説を読むようになったのは非常におそい。中学の同級生の中には小説を大そう読むのがたくさんいて、その一人がぜひ読めといって私に無理に読ませたのが広津和郎さんの「二人の不幸者」という本だ。これが私の小説を読んだ最初の本だ。次に芥川、次に谷崎諸氏の本を無理に読まされ、谷崎さんの「ある少年の怯れ」というのを雑誌でよんで(雑誌だったと思う)大そう感心したように覚えている。
 少年時代の私は、学校というところはスポーツを習うところで、学問の勉強なぞは自分の縄張りではないときめこんでいた。そこで授業時間は全部といっていいほど休んで、天気のよい日は海辺で、雨の日は学校の隣りのパン屋でねころんでいた。授業時間が終ると学校へ行って柔道や陸上競技を習う。柔道場には柔道の先生以外は来ないから安心だが、陸上競技の方は校庭のことでいつ諸先生とぶつかるか分らないので気がとがめたが、ランニングシャツにスパイクはいて、逃げるには完備した姿であるから心配はなかった。
 全然学校を休んでいたのだから小説なぞ読みそうなものだが、およそ読んだ記憶がない。ただボンヤリして、いくらかセンチのような気持をもてあましていた。われ泣きぬれてカニとたわむる、というような日常であったわけだが、その啄木を読んだのすら中学五年ぐらいになってからだ。
 全然ボンヤリ学校を休んでいたわけでもなく、勉強のキライなのが六人あつまってクラブをつくり、六花会と命名して小倉百人一首の練習をやった。これもちょッとしたスポーツだ。凝ってみると大そう面白くなって、夏でも冬でも季節を問わずパン屋の二階で百人一首にいりあげたものだ。「あさぼらけ」というようなのを「け」までジッと待っていて次の一語でパッとやる緊張や速度。勉強するよりは当然魅力があった。
 このバカバカしい六人で雑誌をだしたことがある。私が雑誌をだした最初のものだが、雑誌といったってガリ版ずりですらなく、銘々の原稿を綴じ合せ、しかるべきバライティをつけて雑誌らしくしただけのものだ。私はまだ小説も読んでいないころであるから、漫画をかいた。それから、何か論文を書いたように覚えているが、百人一首のゲームに関する論文であったかも知れない。しかし内心では、こういうバカバカしい生活が非常にせつなかったのである。
 東京の中学へ来てからは、小説も読むようになったが、宗教の本をよけい読んだ。自然哲学の本なぞも読みふけったが、当時最も愛読したのはチエホフで、英訳本を買ってきて、自分で日本語に訳すのがうれしかった。チエホフの英訳本は非常にやさしいから、私でも読めたのである。しかし相変らずスポーツの方にはそれ以上にいりあげていた。どんなスポーツであれ、自分のやったことのないスポーツですら、およそ大試合はたいがい見物に行った。チルデンも見た。ワイズ・ミュラーも見た。全然見物の機会がなかったのはゴルフぐらいのものだ。当時の日本のスポーツマンでは谷口五郎が一番好きで、彼のでる試合はたいがい見に行った。後年には盗塁の田部が好きであった。今ではもう入りあげるほど好きなスポーツマンなぞというのはなく、そういう気持が失われてしまったのだが、要するに私には小学生のような気質が三十ぐらいまでは続いていたようだ。
 中学校をでると、小学校の代用教員を一年やってみて、それから坊主になるつもりで、坊主の学校へはいった。一年半というものはまったく坊主の勉強に入りあげたのである。夜の二時にねて、朝の六時に起きる。完全にスポーツとは手をきった。ただもう坊主の勉強に入りあげたのである。確実に日課をまもり、睡眠四時間を厳格に実行し、ねむくなると真冬でも水を頭からあびて、そのとき髪の毛とタオルがすぐジャリ/\と凍りついたのであわてたこともあったが、徹底的にがんばった。そして神経衰弱になってしまったのである。
 教室へでても先生の声がきこえない。妄想が明滅して、歩くことができない。非常にこまった。もう癈人になるのかと思った。六メートルも飛んでいた私が、一尺五寸ぐらいのドブをとびそこなって墜落したり、キャッチャーがうけとれなかったぐらいスピードのあった私が、スポンジボールを十メートルも投げることができなくなった。精神ばかりでなく肉体にまで障碍が及んだので、私もつくづく閉口してしまったのである。
 とにかく妄想をくいとめるには年中何か読んだりしていることが必要で、そのためには外国語を習って眠くなるまで辞書をひいているのが何よりだと悟った。意味のある読書はダメなのだ。初歩の外国語をやってまる暗記のような幼稚なことにかかりきるのでないと効果がないと分ったのである。それでアテネ・フランセなぞへも通うようになったが、通いはじめた当座は先生の声がきこえなかった。こうしてただガムシャラに辞書をひきつめて神経衰弱を治すことができた。
 私が小説家になりたいと考えたのはそれからのことである。改造の懸賞へ応募したことがあった。何を書いたか覚えがないが、非常に稚拙なものであったことは確かだ。とても物になる見込みがないと考えていたが、当時宗教への情熱が全然失われてしまったので、文学ばかりでなく、芸術全般に興味を見出そうと努力するような傾きがあった。歌舞伎なぞもずいぶん立見に通ったし、能も、人形も、寄席も(これは子供の時から通っていたが)、新劇も、美術の展覧会も、音楽会も――少女歌劇以外はなんでも見てまわった。本場の芸術を見ると、もっと切実に感銘することができるかも知れないとフランスの本なぞ読んで考えてみたりして、私の家は貧乏であったが、私の母の生家がお金持ちであったから彼女は私をフランスへやることを真剣に考えはじめていたのであったが、私自身はどうも本場へ行ったところでとても見込みがなさそうだと自分に見切りをつける気持が強く、外国へ行く気持にもならなかったのである。佐藤次郎じゃないが、私も外国へ行く途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて、不安でもあった。

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 アテネフランセの学友十何人かで同人雑誌をだすことになった。私は同人雑誌なぞというものがあって、そこに無名の人間が作品を発表して世に問う方法があるなぞということを、その時まで知らなかった。最初に「言葉」という雑誌をだした。ほとんど九割までが飜訳をのせた。なまじ小説を書きいそぐより、その方が勉強になって、よかったようだ。二号だして、次に「青い馬」と改題し、同人の葛巻義敏が芥川龍之介の甥で、芥川の著作の世話全部をやっていたものだから、岩波書店へ睨みをきかせて、そこから発行したのである。バカな話で、岩波も迷惑であったと思うし、我々にしたって無名の者の同人雑誌を岩波あたりから出してもらって、かえって阿呆らしいような気持が強かったのであるが、葛巻が岩波から出させることに執着して、とうとう、芥川全集はもう岩波からだしませんなぞと怒りだすようなことがあって、岩波も泣く泣く承知したわけだ。葛巻にとっては同人雑誌が自作の発表のためよりもアクセサリーであったようで、文学の名門の家で人となったのだから、発行所なぞにも凝りたかったのであろう。
 最近飜訳の方で活躍している関義、江口清、愛馬行進曲というのを作った本多信という詩人、当時アテネフランセの先生だったいまの「きだみのる」さんも客員のような存在であった。高橋幸一君なぞも一作も発表しない同人で、なにぶんフランス語の学校のサロンのようなところから生れた同人雑誌だから、一作も発表しない、飜訳すらもしない、という同人が多かった。アクセサリーであれば足りるというオシャレ同人が多かったわけだ。
 私はこの同人雑誌に多くの飜訳と、三ツの小説と、一ツのエッセイを書いた。飜訳はずいぶんいい加減なものだ。なにぶん葛巻がめんどうな人で、ろくな原稿がないから、これを一晩で訳してくれとせがむ。みんな一晩だ。コクトオの音楽論だけはていねいにやった。あとは四五十枚のものも、みんな一晩である。だから辞書をひくヒマがない。知らない字はとばしてしまう。プルウストがシロという料理屋で食べる献立なぞ、肉や野菜や魚の名の知らないのばかりで、大半とばしたから、ずいぶん貧弱な食卓になってしまって、まことにどうもプルウストにも読者にもひどいことをしてしまったが、一晩でやってくれと云って、それも夜中ごろになってせがまれたりするのだから仕方がなかった。
 私が発表した三作は「木枯の酒倉から」「風博士」「黒谷村」。エッセイは「ファルスについて」というのである。「風博士」を書いたら、牧野信一が激賞してくれて、すぐ文藝春秋から小説をたのみにきた。文士になぞなれるはずはないと見切りをつけていたのに、二ツ小説を書いただけで新進作家ということになってしまって、当人自身が呆気にとられる始末であった。そのとき私は数え年で二十六であった。
 その翌年であったか、井上友一郎、田村泰次郎、矢田津世子、真杉静枝等の諸氏と「桜」という同人雑誌をやった。ちょッとおくれて北原武夫なぞも参加した。私がこの同人になったのは矢田津世子に惚れていたからだ。ぞっこん、という言葉はこういう時に用いるのであろう。矢田津世子以外の女は目につかぬぐらい惚れてしまった。ダラシのない惚れ方である。しかもそれを打ちあけることができないという気の弱さであった。若くして死んでしまったが、同人の河田誠一という詩人がたまりかねて、私の心を伝えに矢田津世子を訪ねて談じこんでくれたことがあったそうだ。
 私はこの愛情に疲れきってしまった。そして、全然愛していないあるバーの女と同棲したのは、矢田津世子を忘れたい一念であった。自分をバカにしたい一念からであった。私は私自身をバカにし突き放してしまいたい一念であったに拘わらず、矢田津世子は私に裏切られたような怒りをいだいたようであった。思いもよらないことであった。
 そのころ尾崎士郎と知りあった。そもそもの動機は、尾崎士郎が私に決闘を申しこんできたのである。私が「枯淡の風格を排す」という一文をかいて徳田秋声を徹底的に悪くかいた。そこで徳田一門の尾崎士郎が大立腹して、私の本を出版していた竹村書房を介して、決闘を申しこんできたわけだ。立会人は竹村書房、場所は帝大の御殿山、という申し入れであった。大そう風景のいい場所を指定してきた次第で、私は自分が泉鏡花の作中人物になったような気がしたほどだ。
 そこで約束の時刻にでかけて行くと、「ヤア、ヤア」というわけで、いきなり先方から握手をもとめられ、もうすんだ、というわけで、それから二人で浅草方面を夜明しで飲みあるき、翌日はさらに大森の尾崎さんの家でのんだ。私はその日、大森のアパートへ帰って、多量の血をはいた。胃からドス黒い血をはいて寝こんでしまったのである。それは私が胃から血をはいた始まりで、その後五六回はいているが、長くて一ヶ月、短いときは二三日も絶食すると、もうまた酒をのむようになってしまう。あまり良いことではないらしいが、私のは酔う必要があって飲む酒だから、これで死んでも仕方がない。
 とにかく、しかし、尾崎さんという人も、決闘を申しこむなぞというところは、バカバカしいが、おもしろい人だ。芸術家はこれぐらいのバカバカしいところは持っていなければいかぬように思う。だいたい私という人間について竹村から話をきかぬはずはなく、五尺七寸もあって、昔は大そうなスポーツマンで、決闘すれば尾崎さんの勝つはずがないぐらいのことは分っていたはずだ。それでも決闘を申しこんでくるところが、また大そうよいところではないか。
 芸術家は奔放に生きないと、よい芸術はつくれない。変に処世の術なぞを身につけ、当りさわりのないような言動をするようになると、立派な才能も死んでしまう。戦後の若い作家にはそういう人が多い。たとえば島尾敏雄君という人なぞは非常に才能ある人のようであるが、ちかごろは如才ない生き方をしようとしてせっかくの才能が全然光りを失っている。
 また一般にジャーナリズムが、作家に如才ない生き方をさせてしまうのかも知れない。ジャジャ馬のように強い個性を露骨に生活全般にだす作家はきらわれがちのような、まことにどうも通俗な文壇だ。文壇に生きようとすると、作家はダメになってしまうというのが私の信条で、私が桐生くんだりに孤独な生活を送っているのも一ツには文壇から離れていたいからだ。
 私は同棲の女と別れ、長篇小説を書いて古い私を棄てて新しく生れ変ってきたいために、孤独をもとめて京都へ行った。そこに隠岐和一がいたからだ。私が京都へたつとき、尾崎士郎が両国のモモンジ屋でイノシシを御馳走してくれて送別の宴をはってくれたが、その日は宇垣内閣流産のさなかで、東京駅附近はまるで戒厳令下のように物々しい風景であった。
 京都の伏見に一室をかりて私は長篇小説を書きはじめたが、七百枚ぐらいは二ヶ月ほどで書いてしまったが、最後の章をどうしても書く気にならなくなったのである。それから約一年、京都で碁と酒にふけって暮した。気持にハリが全然なくなり、まるでもう、埃をかぶった骨董屋のデク人形のような毎日毎日であった。碁だけはかなり上達した。ようやく「吹雪物語」を書きあげて、翌年初夏に帰京して出版し、次の作品を書くために利根川べりの取手とりでというところに部屋をかりて移り住んだが、心にもなく、短篇小説をかいたり、東京新聞の匿名批評をかいたりして小遣いをかせいでは飲んだくれているような有様で、狙っていた長篇は一字も書くことができないダラシなさであった。
 そのとき小田原の三好達治から便りがあって、小田原へ来て一しょに住まないかといってきたので、それは大そう好都合と、さっそく三好達治のところへ居候をきめこんだ。取手に一年、小田原にも一年ちかくいたろう。そのころ支那との戦争が長びいて暮しが窮屈になり、独り者は非常に暮しにくい状態になりつつあったのである。しかし私はガランドーというペンキ屋の友達があって、主人の三好達治が酒に不自由しても、居候の私の方はあんまり酒に不自由しないような変な生活をたのしむことができた。小田原は牧野信一の郷里であるから、ガランドーらはその一味で、酒に対してだけは大そう思いやりのある男だから、助かった次第であった。その代り私はバカになった。もっとも、バカになるより仕方がないような時世に移りつつあった次第だ。
 大井広介が「現代文学」の同人に私を誘ったのはそのころだ。戦争中はずッとその同人で、大井広介の家へ行って、月のうち十日ぐらいはブラブラしていたが、彼の家は食糧が豊かで、非常に助かったものだった。
 私は空襲のころ「二流の人」を書いた。もう原稿用紙もなかったので、いろんな寄せ集めの紙に書いた。また切支丹キリシタンの歴史を調べ、島原の乱を書きはじめていた。このために、大観堂から借金して、島原と天草に旅行し、書き終ると直ちに出版の予定であったが、書き終らぬうち戦争が終ったので、この小説は書かないことにした。なぜなら、日本が外国と戦争中なら意味があるが、負けて外国に占領されている時に島原の乱をかくのは、いかにも外国に媚びるようでイヤだったからだ。
 しかし戦争中に「二流の人」を書いておいたのは好都合で、戦争が終るとこれを九州から出版して一息つくことができたのである。九州から出版というわけは、火野葦平や矢野朗ら九州文学の人々が当時出版屋をやっていたからだ。
 空襲のさなかのころ私は徴用のがれに日映につとめていた。めったに出社もしなかったが、たまに出社してその帰りに銀座の国民酒場に行列すると、必ずといってよいほど石川淳と一しょになったものだ。彼は消防団に徴用され、火消しのカブトを背に負うて行列しているのである。オレが消防になるようじゃア東京の火は消えねえよ、と云って、彼はいつも笑っていた。
 そのころ大観堂から「古都」もしくは「真珠」(という題ではなかったかも知れない)という本をだした。三千すってすぐ売りきれたが、再版を許可してくれない。その理由は「面白すぎるからいけない」というのであったそうだ。本来発禁にすべきところだが、この作者は貧乏の奴だそうだから、初版だけはカンベンしてやろう、と云ってお目玉をくってきたと大観堂がこぼしていたのである。しかし、その係り官は、
「しかし、面白いことを書く奴じゃ」
 と云ってワッハワッハ笑っていたそうだ。何が何やらワケのわからぬ次第で、日本中が逆上していたのだろう。
 かえりみれば、私の一生は実にもう貧乏また貧乏の連続で、その貧乏たるや、抱腹絶倒ものであったのである。三日も否応なく絶食して水をのんで暮すようなことは時々あったが、手前が好んでもとめることだから仕方がない。深刻な顔をして悲しむような筋合の貧乏ではなく、手前勝手にのんだくれての貧乏であるから、仕方がない。一昔前なら、この貧乏物語の実録を書くだけで読者は抱腹絶倒したであろうが、今ではもうそうではない。日本人のほぼ全数が、私以上の貧乏をしてしまったからである。戦時中、また戦後の食糧事情は私の貧乏以上のものであった。私の貧乏は好んでのことであるからよろしいのだが、あの食糧事情は人々の好まざる運命だから気の毒だ。上には上があるものだ。私の貧乏すらも及ばぬという現実を見出したときに、私はあべこべに文学への迸しるような情熱を感じた。戦後の一時期はそんな風に何かに押しまくられた感じで書いたものであった。





底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
   1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
※「アテネ・フランセ」と「アテネフランセ」の混在は、底本通りです。
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
入力:toko
校正:持田和踏
2022年1月28日作成
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